クリスチャンの正しい平衡を保ちなさい
「キリストでさえあなたがたのために苦しみを受け,あなたがたがその足跡にしっかり従うように模範を残されたのである」― ペテロ前 2:21,新。
1 神はどんな備えを設けられましたか。その益にあずかるには,何をしなければなりませんか。
エホバ神は,正義の新しい事物の体制の下で人間に永遠の「命を得させるための備えを設けられました。このことを意図されて,「神はそのひとり子を与え(られた)……それは彼に信仰を働かせる者がひとりも滅びず,永遠の命を得るため」でした。(ヨハネ 3:16,新)しかしすばらしい報いである命を得るには,クリスチャンの正しい平衡を保たねばなりません。神の御子イエス・キリストはそうされ,また,そうすることによって,完全な手本あるいは模範を残されました。ゆえに神のみまえで誠実に歩みたいと願う人すべては,その足跡にしっかり従(わ)」ねばなりません。(ペテロ前 2:21,新)しかしご存じのとおり,クリスチャンの正しい平衡を保つのは,やさしいことではありません。
2 平衡を保つとはどういうことですか。
2 平衡ということばの意味をよく理解するために,ウエブスター同意語辞典の次のような説明に注目してください。「平衡とは,事物の一部分,一要素,一要因,もしくはある影響力が他方より重くなる,あるいは他との正常な均衡が破れることのない状態を言う。ゆえに平衡とは,落ち着き,または安寧を意味し,これが乱されるまでは,たいてい外見上それと気づくことができない……したがって,氷の上ですべってころぶときのように,からだの重心がはずれ,足でささえられなくなると,平衡を失い,倒れてしまう」。こうして平衡を失い,そして倒れるのは危険なことです。同様に,自転車やオートバイに乗っていて,平衡を失うなら,けがをしたり,重大な事故さえ招いたりするでしょう。身体上の平衡がいかに大切かは明らかです。
クリスチャンの平衡を学ぶ
3 霊的な平衡がきわめて大切なのはなぜですか。それは生まれつき人間に備わっているものですか。
3 しかし正しい霊的な平衡はそれよりもさらに大切です。それは神の祝福と永遠の命とを得るために絶対欠かせないからです。人類の最初の夫婦アダムとエバは,霊的な平衡を失い,神に対する不従順の道に陥りました。それは二人にとって死を意味し,また,今日のわたしたちを含むすべての子孫に,平衡の欠けた生活を行なわせる事態を招きました。そうです,わたしたちはすべて罪のうちにはらまれ,よこしまのうちに生まれ,生来,悪を行なう性向を宿しています。―詩 51:5。ロマ 5:12。
4 霊的な平衡をどのように身につけることができますか。一度身につけたのちに,失われることがありますか。
4 ゆえに,生来クリスチャンの平衡を備えている人はひとりもいないので,わたしたちは平衡について学ばねばなりません。赤ん坊が歩きはじめるとき,平衡のとりかたを一心に覚えようとするように,わたしたちはクリスチャンの平衡をまず学び,絶えず努力して身につけねばなりません。こうして多くの人はいわばひとりで歩けるようになり,クリスチャンとしてその主人イエス・キリストの足跡に従って歩んできました。そして,あがないの犠牲を受け入れ,この邪悪な世と世の悪い習慣を退け,献身してエホバ神に奉仕してきました。(マタイ 20:28。ヨハネ 17:16。ヘブル 10:7)ところがその後,クリスチャンの平衡を失った人もいます。何かの理由で平衡を保てなくなり,キリストの足跡に従うことをやめたのです。
5 クリスチャンは各自どう自問すべきですか。
5 ゆえに次のように自問すべきでしょう。クリスチャンの平衡を学んでから,生活上のどんな事情に直面しようとも,その平衡を忠実に保てるだろうか。キリストの足跡にしっかり従って歩み続けることができるだろうか。神の建てられる正義の新しい事物の体制の下で永遠の命を享受できるかどうかは,このことに依存しています!―ペテロ後 3:13。黙示 21:3,4。
神とわたしたちとの関係における平衡
6 クリスチャンの平衡を身につけるため第一に肝要な事は何ですか。キリストは神に対する態度にかんして,どんな手本を残しましたか。
6 クリスチャンの正しい平衡にとってまず肝要なのは,わたしたちの創造者エホバ神との正しい関係を保つことです。では,神との正しい関係とは何ですか。完全な模範となられたキリストのことを考えてください。キリストは喜んで自らをささげ,御父の御心を行なわれました。そしていつでも神の崇拝を中心にして他のすべての活動に携わられました。御父を喜ばせることが常にキリストの主要な関心事でした。同様にわたしたちも創造者に仕えることの大切さを悟り,神に対して負い目のあることを認識しなければなりません。欠くことのできない霊的な備えはもちろん,太陽,雨,空気,食物を含め,命をささえるのに必要なものすべてを確かにエホバは備えておられます。(マタイ 5:45。使行 14:15-17)それで,聖書の詩篇の筆記者がしるした次のことばに快く同意できるでしょう。「そはいのちの泉はなんぢにあり」― 詩 36:9。
7 人間は神に多くを負っていますが,このことに関して,どんな平衡のとれた見方ができますか。
7 しかし神がすべてを所有しておられる以上,神の善良さに感謝して,何をお返しできるでしょうか。わたしたちは自由な道徳的行為者ですから,エホバ神の崇拝を選べます。心と思い,魂と力のすべてをこめてエホバを愛することができます。(マタイ 22:37,38)こうした心からの献身は,平衡の欠けた事柄ではありません。むしろそれは,神との正しい関係を保つことに関連しているのです。イエス・キリスト自身こう言われました。「あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたは彼のみに神聖な奉仕をささげなければならない」(マタイ 4:10,新)クリスチャンの平衡を保つのに肝要なのは神への専心の献身です。
8 専心の献身を神にささげることのむずかしさを物語るどんな手本がありますか。
8 しかし,神を愛することについて語ったり,また,あらゆる状況の下で神への専心の献身を表わしたキリストの手本に従うことを手紙に書いたりするのは,実行することに比べればはるかに容易です。たとえばソロモン王は,エホバに忠実に仕えていた時分,こう書きました。「神をおそれ その誡命を守れ」。(伝道 12:13)ところが後日,ソロモンは惑わされて神の戒めを軽んじ,自ら書いたことを実行しませんでした。なぜですか。クリスチャンの正しい平衡を保つことがどうして困難になるのですか。
9 クリスチャンの正しい平衡を保つのは,なぜ困難なことですか。
9 それは,人間に宿っている,悪を行なう罪深い性向のためだけではありません。(ロマ 7:20,21)もう一つの重大な要素は,聖書で「この事物の体制の神」と呼ばれている,目に見えない霊の被造物である悪魔サタンの邪悪な影響力です。(コリント後 4:4,新)サタンは,クリスチャンと神との正しい関係を打ち砕き,平衡を失わせる事態もしくは状況をつくり出そうと苦心しています。イエス・キリストはその死の前夜,使徒シモン・ペテロに向かって次のように語り,このことを示されました。「シモン,シモン,みよ,サタン汝らを麦のごとく篩はんとて請ひ得たり」。(ルカ 22:31)サタンがペテロを神の恵みの下から引き離そうと苦心したいきさつを詳細に調べるのは,今日わたしたちがクリスチャンの正しい平衡を保つ上にきわめて有益なことです。
恐れは平衡を失わせる
10 (イ)西暦33年ニサンの14日,イエスとその弟子たちはどんな宗教的行事を祝うために集まりましたか。(ロ)彼らがゲッセマネの園に出かけたのは真夜中近くだったと考えられる,どんな根拠がありますか。
10 まず重大な出来事の起こった背景を考えましょう。西暦33年の初春,ニサンの月の,毎年の過ぎ越しの祝いの時でした。午後6時過ぎ,その祝いを行なうため,イエスと12人の使徒がエルサレムのある家のいの一室に集まりました。当時,ユダヤ人の一日はその時刻に始まったのです。神のご命令によれば,過ぎ越しの小羊は,ニサンの第14日の「二つの晩のあいだ」(薄暮,文語)まで守らねばなりませんでした。「薄暮」とは,ある権威者によれば,日没からその後すっかり暗くなる時までの時間と解釈されています。小羊はこの時刻に殺され,そして丸ごと焼かれました。(出エジプト 12:6-10,新)そのような動物を1頭丸焼きにするには,おそらく四,五時間を要したでしょう。それで,過ぎ越しの食事を終え,またキリストがご自分の死の記念の食事を始められたのは,おそらく真夜中近くだったでしょう。そののち,イエスと弟子たちはゲッセマネの園に出かけてゆき,そこでイエスは捕えられ,拘引されたのです。―マルコ 14:17-46。
11 イエスが拘引されたとき,ペテロはどうしましたか。
11 まだ夜のとばりのおりた暗い冷え冷えとした早朝の模様を聖書はこう述べています。「人々イエスを大祭司のもとにひきゆきたれば,祭司長・長老・学者らみなあつまる。ペテロ遠く離れてイエスに従ひ,大祭司の中庭まで入り,下役どもとともに坐して火にあたたまりゐたり。さて祭司長らおよび全議会,イエスを死に定めんとて,証拠を求むれども得ず。それはイエスに対して偽証する者,多くあれどもその証拠あはざりしなり」― マルコ 14:53-56。
12 この時イエスはどのようにあしらわれましたか。
12 それら偽りの証人たちはイエスについて悪意に満ちた虚偽の証言をしました。それだけではありません。霊感による記録はこう述べています。「ある者どもはイエスにつばきし,またその顔をおほひ,拳にてうちなどしはじめて言ふ,『預言せよ』下役どもイエスを受け,手掌にてうてり」。(マルコ 14:65)なんと不当なしうちでしょう! それら群衆は悪魔に動かされていたのです! サタンはそうした人々を扇動して,イエスを虐待し,はずかしめたのです。こうした事態はペテロにどう影響しましたか。はたしてペテロは,その主人に見習い,そうしたつらい状況の下で正しい平衡を保てるでしょうか。
13 イエスがこのようにあしらわれたことは,ペテロにどんな影響をもたらしましたか。
13 このことについては,疑問の余地は少しもありません。聖書の記録はこう続いています。「ペテロ下にて中庭にをりしに,大祭司のはしための一人きたりて,ペテロの火にあたたまりをるを見,これに目をとめて『なんぢも,かのナザレ人イエスとともにゐたり』と言ふ。ペテロうけがはずして『われは汝の言ふことを知らず,またその意をも悟らず』と言ひて庭口にいでたり。はしためかれを見て,また傍らに立つ者どもに『この人は,かのともがらなり』と言ひいでしに,ペテロ重ねてうけがはず。しばらくしてまた傍らに立つ者どもペテロに言ふ『なんぢはたしかに,かのともがらなり,汝もガリラヤ人なり』この時ペテロ盟ひ,かつ誓ひて『われは汝らの言ふその人を知らず』と言ひいづ」― マルコ 14:66-71。
14 ペテロはどうしてキリストを否定しましたか。
14 しかしそれは真実の答えではありません。ペテロは確かにイエスを知っていました。事実,これよりもほんの数時間前,まだイエスとともにいたとき,彼はこう断言したのです。「主よ,我は汝とともに獄にまでも,死にまでも往かんと覚悟せり」。「たとひみな汝につきてつまづくとも我はいつまでもつまづかじ」。(ルカ 22:33。マタイ 26:33)ペテロの態度のこうした急変は何によるものでしたか。恐れのためでした。彼は予期しない事態に陥ったのです。イエスはいまわしい犯罪者とされ,真実はゆがめられ,かつて正しかったことは誤りとされ,無実の者が有罪とされたのです。あわれにもペテロの正しい忠節な心は突如くずれてしまいました。聖書はこう述べています。「彼は泣きくずれた」― マルコ 14:72,新。
それは今日でも起こり得る
15 (イ)ペテロが直面したと同様な状況にわたしたちも直面し得ると,どうして言えますか。(ロ)ペテロはこの経験のために,平衡を失った状態に最後までとどまっていましたか。
15 今日でも同様な状況が起こり得ます。悪魔サタンは今も活動しており,クリスチャンの平衡を失わせ,神との関係をそこなわせようと努めています。ペテロにかんして成功した策略が,現代のクリスチャンに対して用いられるのはまず確実です。確かにペテロは霊的な平衡を急速に取り戻しました。彼は深く非を悔いて,心から許しを求め,また許しを得ました。そして,人気のないイエス・キリストの,きわめて勇敢な奉仕者のひとりとなり,エホバ神に忠実を保って死にました。それにしても,自分の主人であるイエス・キリストを3回否定した時の経験は,どんなにつらいものだったでしょう! そうした経験を避けられるなら,なんと幸いでしょう! あなたは,ペテロが直面したと同様な状況に立ち向かう覚悟をしていますか。それは起こり得ることであり,また確かに起こります。
16 今日の一部のクリスチャンの平衡を失わせるどんな原因がありますか。
16 献身したクリスチャンが不当な恐れのために平衡を失い,エホバ神との正しい関係を忘れさせられるような事態は今も数多くあります。御国の音信を携えて家々を訪問するところを見られたなら,近所の人にどう思われるだろうかという恐れかもしれません。そうです,仲間の従業員に見られたなら,どうなるでしょう! 最も大切なのは,自分が神にどう見られているかということですが,この点を忘れた人にとって,それはなんと恐ろしい事柄でしょう! とくに思春期の子供たちは,人からどう思われるかを気にしがちです。
17,18 学校の教室で,ある問題が討議され,そのために,ペテロがかつて直面したような状況の生ずる場合がありますか
17 たぶんあなたは若いクリスチャンかもしれません。では,あなたの学校の教室を背景にし,聖書にかんするエホバの証人の信仰がそこで討議されることにしましょう。生徒の間にはかなりの偏見と愛国主義的な精神が見られ,ひとりの生徒はこう主張します。「エホバの証人は危険人物で,政府に反対しています」。これはイエスが処刑の日に受けた非難と同じものです。(ルカ 23:2)別の生徒はこう非難します。「エホバの証人は投票もしないし,自分の国のために戦うこともしません」。しかしイエス・キリストや初期クリスチャンの一貫してとった道は,諸国家の政治問題にかんする厳正中立の立場でした。(ヨハネ 6:15。15:17-19。ヤコブ 4:4)現代の一教科書はこう述べています。「熱心なクリスチャンが軍隊にはいったり,行政官庁の職についたりすることはなかった」。a しかし生徒や先生は,こうした問題にかんする聖書の教えや,初期クリスチャンの信仰と実践についてはあまり知りません。こうして討論は緊張の度を深めてゆきます。
18 一女生徒はこう主張します。「エホバの証人は,クリスマスさえ祝わないのですから,キリスト教の反対者です!」 エホバの証人に対する反感はいっそうつのってゆきます。生徒たちは,クリスマスが異教の祝いで,聖書の裏づけのない行事であり,初期クリスチャンは祝わなかったことを知らないのです。また,このことを指摘する権威ある参考書のことばをも知りません。この時,他の生徒がこう非難します。「エホバの証人は自分の子供を愛していません。命を救う輸血を施させず,子供を見殺しにするではありませんか!」 エホバの証人はなんというむごい人間だろう! こうした感情が生徒たちを支配しはじめます。血を食べることは聖書できびしく禁じられており,初期クリスチャンは動物あるいは人間の血のいずれを問わず,血を全く避けたことを生徒たちは知りません。b ―レビ 17:10。使行 15:20,29。
19 (イ)そうした事態の下で,年若いクリスチャンはどんな質問に直面するでしょうか。(ロ)こうした可能性を見越して,いつ備えるべきですか。
19 この時,教室内のだれかがあなたに向かってこう尋ねます。「あなたはエホバの証人のひとりではありませんか」。ここであなたは,使徒ペテロが直面したと同様な事態に立たされます。あなたは何と答えますか。その事態にどう対処しますか。クリスチャンの正しい平衡を保ちますか。イエス・キリストがされたように,エホバ神の忠実な証人として仕えますか。(ヨハネ 17:6。黙示 1:5)生じ得るこうした状況に対処するために備えるのは今です。そのような事態の下でイエス・キリストの大胆な手本に従うことをしっかりと心に決めるべき時は今です。そうすれば,平衡を失わずに済むでしょう。
前もって備える
20 クリスチャンの正しい平衡を保つには,何が必要ですか。イエスは,自らこの必要を悟っておられたことを,どのように示されましたか。
20 エホバ神との正しい関係を保ち,クリスチャンの平衡を保つには,祈りが必要です。また,神のみことばを定期的に考慮しなければなりません。イエスはこのことを知っておられ,地上の生涯の最後の重大な幾時間かのときには,特にその必要を感じておられました。ですから,その最後の夜,2階の一室で弟子たちとともに過ごされた時,信仰を強める霊的な事柄について励みのある話をされ,次のような結びのことばを述べられました。「なんぢら世にありては患難あり,されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」。それから最後に弟子たちとともに祈りをささげ,その後,ゲッセマネの園に向かって一緒に出かけました。―ヨハネ 16:33–18:1。
21,22 ゲッセマネの園で,弟子たちはキリストの手本に見習わなかったことを,どう示しましたか。
21 イエスは戸外のその園で,天の父に引き続き祈りをささげ,神の導きと指示を求められました。また,ひとりで祈るため,弟子たちのもとを離れる時,イエスはペテロと他の二人の弟子にこう語りました。「汝らここにとどまりて目を覚しをれ」。弟子たちはそうしましたか。イエスのご命令に従いましたか。聖書には,「(彼)来りて,その眠れるを見」,としるされています。なんと残念なことでしょう! これでは弟子たちは前途の事態に決して備えることができません。そこでイエスはペテロに向かってこう告げました。「シモンよ,なんぢ眠るか,一時も目を覚しをることあたはぬか。なんぢら誘惑に陥らぬやう目を覚し,かつ祈れ。げに心は熱すれども肉体よわきなり」。(マルコ 14:32-38)それは確かに夜ふけで,おそらく真夜中もとうに過ぎていたことでしょう。それにしても弟子たちはイエスの手本にならうべきでした。それは,霊的な事柄に普通以上の注意を払うべき時でした。神の女の約束のすえがまさに砕かれようとしていたのです! なんと重大な時でしょう!―創世 3:15。ガラテヤ 3:16。
22 それでペテロと他の弟子たちは,二度目の今,イエスの緊急な励ましのことばを真剣に考慮するでしょうか。マルコの記録はこう述べています。「再びゆき,同じことばにて祈り給ふ。また来りて彼らの眠れるを見たまふ,これその目,いたく疲れたるなり,彼ら何と答ふべきかを知らざりき」。(マルコ 14:39,40)ペテロとその仲間の者たちは聞いていなかったのです! イエスのご命令に注意を払いませんでした。三度目に祈るため立ち去る前にも,イエスは,目を覚まして祈っていなさいと弟子たちに促したに違いありません。ところがまたもやその勧めは見過ごされました! それで,イエスは「三度来りて言ひたまふ『今は眠りて休め,足れり,時きたれり。みよ,人の子は罪人らの手にわたさるるなり。起て,われら往くべし,みよ,我を売る者ちかづけり』」としるされています。―マルコ 14:41。
23 (イ)弟子たちがイエスを見捨てるに至ったのは,明らかにどんな要因によるものでしたか。ゆえに,どんな点を幾ら強調しても,強調しすぎることはありませんか。(ロ)どんな根拠から,今日サタンがなお一層活発に働いていると考えられますか。
23 預言されていたとおり,そのすぐのちに弟子たちがイエスを捨てて逃げることを余儀なくさせられた一つの要因は,おそらくこうした昏睡状態にあったのではないでしょうか。(マルコ 14:50。マタイ 26:31。ゼカリヤ 13:7)クリスチャンが信仰の試練に首尾よく対処するには,前もって備え,自らを霊的に強めることが肝要です。この点は幾ら強調しても,強調しすぎることがありません。そしてこのことは昔と同様,今日でも真実です。というのは,違う点があるとすれば,それはこの時代がサタンの働きのいっそう活発な時だからです。聖書の預言は,近年この世代になってサタンとその悪霊が天から放逐され,天の声が発表した次のような事態が生じていることを明示しています。「地と海には災いである。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをもって,あなたがたのところに下ったからである」。(黙示 12:12,新)今がまさに災いのその短い期間なのです! サタンは全力を尽くして,クリスチャンに平衡を失わせ,神の恵みからふるい落とそうと努めています。
24 平衡を保つために,クリスチャンはすべて何をしなければなりませんか。
24 ゆえに今は,霊的な昏睡状態に決して陥らないようにすべき時です。そして,自らを霊的に奮い立たせ,目前に迫っている信仰の試練に備えねばなりません。自分は久しい年月,活発なクリスチャンとして歩んできたのだから,エホバ神と自分との関係を危うくし,神の恵みを失うような恐れは決してないという態度をとってはなりません。また,会衆の集会を欠かしてもだいじょうぶだとか,霊的な事柄が論じられている時に注意を払わなくてもよいなどと考えないでください。(ヘブル 2:1; 10:24,25)クリスチャンの正しい平衡を保ちたいと願うなら,わたしたちはすべて,神のみことばを自分個人で,また仲間のクリスチャンと定期的に研究し,霊的にいつも油断なく注意していなければなりません。また,祈りをなおざりにすることもできません。神との定期的な連絡によって築かれる密接な関係は,平衡にとって絶対に欠かせない事柄です。キリストの手本にならってください! キリストは,地上で生活した人の中でも霊的に最も強い人だったにもかゝわらず,たゆまず祈られ,人間としての生涯の最後の夜の間は特にそうされました。霊的な平衡を保ちたいと願うなら,わたしたちも同じことを行なわねばなりません。
いつも賞に目をとめなさい
25 イエスが平衡を保つのに役だったのは,どんな事柄でしたか。
25 イエスにとって,霊的な平衡を保つのに役だったのは,天の御父を喜ばせ,神からとこしえの命をいただくという喜びをいつも心の中で大切にすることでした。ゆえに,わたしたちはこう勧められているのです。「信仰の導師またこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歓喜のために,恥をも厭はずして〔刑柱〕をしのび,遂に神の御座の右に坐し給へり」。(ヘブル 12:2,〔新〕)それで平衡を保つには,イエスの模範に従ってください! あなたの創造者に誉れをもたらし,命の賞を創造者から受ける特権にいつも目をとめてください!
26 神の事柄を生活の中で第一にするのは,なぜ必ずしも容易なことではありませんか。
26 しかし,目に見えないエホバ神の事柄をいつも第一にするのは,必ずしも容易なことではありません。人を魅惑するものがあまりにも多い今の世においては特にそう言えます。お金や,お金で買える多くの魅力的な物品はその一例です。多くのクリスチャンは物質的なものに対する欲望をほしいままにして平衡を失いました。(テモテ後 4:10)彼らは,御父の事柄を常に第一にしたイエス・キリストに見習うことをしませんでした。事実,イエスは個人的な楽しみを完全に第二義的なものとしていたので,かつて次のように言われました。「きつねは穴あり,空の鳥はねぐらあり,されど人の子は枕するところなし」― ルカ 9:58。
27 モーセとダビデはどんなすぐれた手本を残しましたか。
27 族長モーセも,神の崇拝を生活の中で常に第一にして,手本を残しています。パロの娘の子として育てられた彼は,古代のその強大な支配者の王宮の栄華を享受したに違いありません。しかしモーセはエジプトのすべての富を退けて,エホバのしもべとして侮べつの的となる道を選んだのです。なぜ? 聖書の記録はこう述べています。「これ見えざる者を見るがごとく耐ふることをすればなり」。(ヘブル 11:23-27)そうです,モーセは,目に見えない神エホバにしっかりと目をとめていました。モーセが霊的な平衡のすぐれた手本を残し得たのは,エホバとの正しい関係を保ったためです。すべてのものはエホバに属しており,人間が神に返し得るものは,崇拝と献身のみであることを彼は悟っていました。後日,詩篇の作者ダビデは,同様の平衡のとれた見方を持ち,こう書きました。「われ常にエホバをわが前におけり」― 詩 16:8。
28 結論としてどんな勧めに真剣にきき従うべきですか。
28 クリスチャンの正しい平衡を保つには,わたしたちもこのような見方を持たねばなりません。物質上の魅力的なものがいたるところにあふれている今日,このことはとくに真実です。そうしたもののいずれにでも重きをおきすぎれば,平衡を失うことになり得るのです。それで,上にある事柄,目に見えないあなたの神にいつも目をとめ,利己的な物質の追求を第一の関心事にしないでください。(コロサイ 3:2)そうです,クリスチャンの平衡を保ち,永遠の命の賞を得るため,イエス・キリストの手本に従ってください。彼は,「あなたがたがその足跡にしっかり従うように模範」を残されたからです。―ペテロ前 2:21,新。
[脚注]
a バッバートン,ロース,スピアス共著,1962年版,「世界史」,「人間の偉業にかんする話」の項,117頁。
b 血にかんする初期クリスチャンの立場について,マクリントクとストロングの百科事典,第1巻,834頁にはこう述べられています。「初期クリスチャンには,人間の血を飲むどころか,理知のない動物の血でさえ,飲むことは禁じられていた。この点を証明する多数の証拠が後代になって発見されている」。
[44ページの図版]
平衡を失って主を否定したペテロ