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生命は自然に発生するかものみの塔 1978 | 10月15日
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ない; 理知的な人はだれでもそれを受け入れている; それを受け入れないのは,宗教的偏見を持つ人だけである; それは繰り返し証明されてきた; これ以上の証拠はもう必要ない』。圧力を加えることや洗脳はこのようにえんえんと続きます。
しかしあなたはご自分で調べるべきです。そしてご自分で決めてください。あなたの命があなたの決定にかかっていると言えます。そして次の事を考えてごらんなさい。あなたが20階のビルから飛び降りたとします。地面にたたきつけられる直前に激しい突風が起こってあなたを捕え,ビルの屋上に連れもどします。それはありそうな事ですか。まずあり得ないことです。それを当てにすることはできません。しかし生物の自然発生は,それよりもはるかにありそうもない事なのです。それを当てにしないでください。
聖書の詩篇 36篇9節にはこう記されています,「いのちの泉はなんぢ[神]に在り」。生命が自然に発生したことを信ずるのは軽信です。理知ある神によって生命が創造されたことを信ずるのは理にかなっています。次の記事はそのことを示しています。
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「造られた物を通して認められる」ものみの塔 1978 | 10月15日
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「造られた物を通して認められる」
荒削りな石器が設計者の存在を証明しているとすれば,複雑な造りを持つ生物はそれ以上に,賢明で,力強い創造者の存在を雄弁に物語っているのではありませんか。
山の中で岩盤がくずれれば,それが落ち込んだ谷底には岩石の山が見られるはずです。もしその岩石すべてが美しい石造りの家の形に収まっていたとすれば,わたしたちは自分の目を疑うことでしょう。家を建てるには,設計と目的のある働きが必要とされるからです。設計者がいなければ設計はできませんし,理知ある働き手がいなければ目的のある働きも見られません。これは,ヘブライ 3章4節にある,「家はすべてだれかによって造られるのであ(る)」という聖書の言葉と調和します。
ある科学者は,地面の粗石の中を掘って,滑らかで,中央に穴の開いた,丸味を帯びた細長い石を見いだします。科学者は,原始人がそれを形作ったと信じて疑いません。それは皮のひもで木の棒に結び付けられ,ハンマーか武器として使われたのだ,と確信します。同様に,先のとがった平らな石が見付かれば,それは「石器時代」の人がナイフかスクレーパーとして使うために造ったものだと堅く信じます。あるいは,矢じりのような形をした,鋭くて堅い石の小片を見れば,それは矢とかやりの先につけて用いるため人間が考案したものであると信じます。そのような,目的のある,考案された物は,偶然の所産ではない,と科学者は結論づけます。
作品はその作り手について物語ります。これらの道具や武器は幼稚なものですから,その作り手は原始人であったと思われます。サルは武器を作りませんし,現代人の武器の造りは精巧だからです。それで,科学者は,この道具を作った人を石器時代に位置づけ,その外見と知力はサルと現代人の中間であるに違いないと推測します。そこで科学者は,ねこ背で,知能の低い,足を引きずって歩く,毛深い猿人のことを思い浮かべます。この猿人の創作物は,サルの拾い上げるかもしれない棒よりは目的や工夫のあることを物語ってはいますが,現代人の作り出す物と比べればはるかに劣ります。科学者は作り出された物を通してその作り手を想像し,その作品から作り手の特質を判断します。
自らの論法を捨てる
ところが,地上に見られる豊富な動植物のこととなると,ほとんどの科学者は設計には設計者が必要という自らの見解を覆してしまいます。最も
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