ローマ総督の質問「真理とは何か」に答える
「ピラトはイエスに言った,『真理とは何か』」― ヨハネ 18:38。
この質問をしたのは,中東のローマ領であったユダヤ,サマリヤ,イズミヤ地方を,西暦20年から36年まで治めた太守すなわち総督です。総督府は地中海岸の町カイザリヤにありましたが,自分の前で取調べを受ける人にこの質問をした時,総督はエルサレムの官邸にいました。それは西暦33年,ユダヤ人の過越の日であるニサンの月の14日でした。総督は過越の祭りの間,治安を守るため,自分の兵隊を連れてユダヤ人の聖都に来ていたのです。その日,あきらかに騒乱をたくらんでいたエルサレムの宗教指導者は,犯罪者,また世俗ローマの法律によって裁かれ,罰せられるべき者として,1人の人をローマ総督に渡しました。そこで総督は,裁判者として直接その者を調べたとき犯罪者として訴えられた者に,「真理とは何か」との質問をしました。これは真理に対する総督の関心のあらわれでした。3年後,職務上の失態のため,総督はローマに呼ばれました。歴史家ユーセビウスによると,彼はローマ領ゴール地方のヴイーン(ヴィエーヌ)に流され,のちに自殺しました。彼は自分の質問に答えを得ないままに死んだのです。
1 ピラトとキリストの対面の史実性は,著述家によりどのように裏付けられていますか。しかし,その事をきわめて詳細に記述したのはだれですか。
このローマ総督はポンテオ・ピラトです。総督が有名な質問をした相手はイエス・キリストです。これら二人の人物がこの大切な時期に対面したことの史実性は,ユダヤ人の証人だけでなく,1世紀の著名なローマの歴史家パブリウス・コルネリアス・タシタスによっても裏付けられています。この非ユダヤ人の歴史家は,「クリスチャン」という名前を取り上げ,こう書いています。a 「その名前の起源者キリストは,チベリウスが皇帝であった時代に,太守ポンテオ・ピトラにより処罰をもって苦しめられた〔殺された〕」。しかし,イエス・キリストとポンテオ・ピトラとの対面の様子を詳細に記録しているのは,イエス・キリストの地上における最愛の友とされた者,すなわちゼベダイの子ヨハネです。(ヨハネ 18:28-38)ヨハネの記述には真実性に対する強固な背景があります。なぜならヨハネは,私たちすべてにもっとも肝要な分野にかゝわる真理と真実性とについて,他の聖書記述者以上に書いているからです。
2 ピラト自身の質問についてどんな疑問が起きますか。それにどう答えられますか。
2 明らかにローマ総督ポンテオ・ピラトは,「真理とは何か」との質問に答えを得ぬままに死にました。しかし,この質問はそれで終わりとなったのですか。それは今日まで答えられずに残っているのですか。イエス・キリストはピラトの質問に対し,ピラト自身には口頭で答えられませんでしたが,他の者,そう私たちにも答えられていないのですか。いいえ,と言わねばなりません。ピラトの質問の答えは与えられており,誠実に「真理」を求め,「真理」を愛する人々はそれを学ぶことができます。
3 「真理」とは何ですか。ピラトはどんな真理について尋ねたのですか。
3 真理とは「事実との一致」です。一定の物事の真相を知るためには,その物事にかかわる事実を知らねばなりません。ある物事のありのままの姿を理解するなら,形の上ではその物事について真理を知ったことになります。物事の真理を知るためには,その物の真の姿に一致した知識を持たねばなりません。さて,裁判官としてイエス・キリストを前にしたとき,総督ポンテオ・ピラトが知ろうとしたのは,訴えられたこの者に関する事実です。ピラトは真理一般について知ろうとしたのではありません。彼の職務と責任とがそうした幅の広い探求を許しませんでした。自分の前に立つ被告人は,真理を論題として持ち出しました。それゆえ,「真理とは何か」と言った総督はその真理について知ろうとしていたのです。それでは,ここで問題とされた真理とは何ですか。調べましょう。
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4 ヨハネの記録によると,ピラトはどんな問答があってのちこの質問をしましたか。
4 ゼベダイの子ヨハネの記録は次の通りです,「さて,ピラトはまた官邸にはいり,イエスを呼び出して言った,『あなたはユダヤ人の王であるか』。イエスは答えられた,『あなたがそう言うのは,自分の考えからか。それともほかの人々が,わたしのことをあなたにそう言ったのか』。ピラトは答えた,『わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが,あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは,いったい,何をしたのか』。イエスは答えられた,『わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば,わたしに従っている者たちは,わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実,わたしの国はこの世のものではない』。そこでピラトはイエスに言った,それでは,『あなたは王なのだな』。イエスは答えられた,『あなた自身,わたしが王であると言っている。わたしは真理についてあかしをするために生れ,また,そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は,わたしの声に耳を傾ける』。ピラトはイエスに言った,『真理とは何か』」― ヨハネ 18:33-38。マタイ 27:11-14,一部新世。
5 ピラトの前で裁判を受けたイエスは,自分が世に来た使命に忠実であることをどのように示しましたか。
5 この決定的な時に,イエスは自分が世にきた使命に忠実でした。死を恐れて,真実を隠すことはありません。イエスを捕え,ピラトに訴え出た者たちは,「わたしたちは,この人が国民を惑わし,貢をカイザルに納めることを禁じ,また自分こそ王なるキリストだと,となえているところを目撃しました」と語りました。(ルカ 23:1-3)それで,王であるかどうかと問題点を尋ねられたイエスは,それを否定しませんでした。ピラトに対する答えとして,イエスは「わたしの国」について語り,それはこの世のものではないと述べました。この言葉から,ピラトはイエスが王であると判断しました。それでピラトは,「それでは,あなたは王なのだな」と言って,イエスが王であるかどうかを再びたずねたのです。すなわち,それがこの世の国でないにしてもこう尋ねました。イエスは,「あなた自身,わたしが王であると言っている」と答えて,ピラトが正しい結論を得たことを語られました。こうでなければ,イエスが王であるかどうかについて,ピラトが二度たずねることはなかったでしょう。
6 この時イエスはどんな目的を果たすことを決意していましたか。そのためにどんな犠牲をいとわれませんでしたか。
6 イエスはピラトの裁判上の結論を正当であるとされました。イエスはその時,証人台にいたのであり,真理を隠すことは出来ませんでした。その時ピラトに語られた通り,イエスはこのために生まれたのであり,またこのために世にきていたのです。すなわち,自分が王となるという真理についてあかしをするためです。そして,真理の側に立つ者はだれでも,イエスの証言を真のものとして受け入れるでしょう。イエスは真理についてあかしをするために生まれたのです。30歳の時に浸礼を受けたイエスは,真理についてあかしをするために世にきたのです。それゆえ,今,地上の生がいの最高潮において,自分が人間として生まれ,世に公に現われた目的を見失うはずはありません。イエスは,たとえ自分の命を犠牲にしても,真理を守ろうとされました。問題が真理と関係のない事柄なら,そのために命を捨てられるはずはありません。イエスは虚言のためには死なれません。
7 イエスの証言に関し,わたしたちはどんなことを悟るべきですか。それを悟るならわたしどうなりますか。
7 イエスは真理のために死ぬことをいといませんでした。イエスの勇気と忠実さとから,ローマ総督だけでなく国民全体の前でなされたイエスのあかしが真実であった事を悟りますか。もし悟るなら,それはどういう意味になりますか。イエスの語られた事を受け入れ,その声に耳を傾けるなら,わたしたちはイエスを王として受け入れていることになります。そうするなら,わたしたちは「真理につ」いているのです。すなわち,わたしたちはイエスの側にいるのであり,そここそわたしたちの望むところです。
8 (イ)なぜこれはわたしたちの知るべき真理でしたか。(ロ)なぜイエスは自ら真理とならねばなりませんでしたか。
8 それについて証言するためにある人が生まれるほどの真理は,重要な真理であるに違いありません。それについて証言するために人が世に来るほどの真理は,人が全生涯をかけるに足りる真理でしょう。実際に,これはそれほど重要でした。それゆえ,わたしたちの知るべき真理があるとすれば,それはこの真理です。しかし,イエスの場合には,単に何を言うかという事以上のものが問題となっていました。すなわち,イエスが何を行ない,どう生活し,どのように死ぬかということも問題となっていたのです。自分の生がいをかけて真理を成就させ,それを実現させることが必要でした。人としてのイエスには宇宙的に重要な事,つまり天に対しても地に対しても重要な事が数多く包含されており,イエスはそれらの事を実際の生活と行動によって遂行しなければならなかったのです。イエス自らが真理とならねばなりませんでした。
9 これと一致して,ヨハネはヨハネ伝 1章14,16,17節でイエス・キリストに関し何と述べましたか。それは誇張した表現でしたか。
9 イエスの愛された弟子ヨハネは,完全な人間として生まれるために,イエスが天から地上に来た事について書きましたが,それは誇張や大げさな言いまわしではありませんでした。「言は肉体となりて我らのうちに宿りたまへり,我らその栄光を見たり,げに父のひとり子の栄光にして恩恵と真理とにて満てり。我らは皆そのみち満ちたるうちより受けて,恩恵に恩恵を加えられる。律法はモーセによって与えられ,恩恵と真理とはイエス・キリストによりて来れるなり」。―ヨハネ 1:14,16,17,文語。
どのように「真理…は……来」か
10,11 (イ)イエスとモーセとがこのように対照されていることは,モーセを通して与えられた律法が真理でなかったという意味ですか。(ロ)ロマ書 7章10-12節で,パウロは神の律法の正しさを弁護して何と述べていますか。
10 イエスが「真理……に……満」ちていたとはどういうことですか。「真理……はイエス・キリストによりて来」たと言われているのはなぜですか。ヨハネはなぜイエスとモーセとを比べたのですか。キリストより1400年以上昔に,預言者モーセはすでに真理をもたらしたではありませんか。ユダヤ人のために神がモーセに与えた律法は真理ではなかったのですか。律法は真理でした。モーセを通して律法が与えられた時より何世紀かのちに,霊感を受けた詩篇作者は律法の授与者である神にこう言いました,「悪をおひ求むるものは我にちかづけり,彼らはなんぢの法にとほくはなる。エホバよなんぢはわれに近くましませり,なんぢのすべてのいましめはまことなり」。(詩 119:150,151)モーセを通して与えられた律法によりモーセの民そのものが罪人とされました。これによっても示されるとおり,この律法は正義と清さとに忠実なものでした。その律法が完全であったがゆえに,ユダヤ人は死の処罰下に置かれていたのです。ゆえに使徒パウロは神の律法の善なる事を弁護してこう書きました。
11 「いのちに導くべき戒めそのものが,かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。なぜなら,罪は戒めによって機会を捕え,わたしを欺き,戒めによってわたしを殺したからである〔すなわち,罪人を死に定める戒めによって〕。このようなわけで,律法そのものは聖なるものであり,戒めも聖であって,正しく,かつ善なるものである」。―ロマ 7:10-12。
12,13 (イ)モーセの律法にしたがえば,ユダヤ人は律法によって命を得るためには何をしなければなりませんでしたか。なぜ律法は目的を果たしたと言えますか。(ロ)使徒パウロはガラテヤ書 3章23-25節でこの点をどのように明らかにしましたか。
12 それゆえ,モーセを通して与えられた律法は誤まりであったわけではありません。むしろそれは誤まりを明らかにしました。モーセを通して与えられた律法が間違いであったわけではありません。律法の一部であった十戒は誤まりではありませんでした。律法は,永遠の命を得るため,律法に完全に従うことをユダヤ人に求めました。しかし,普通に生まれるユダヤ人はだれ一人として律法を完全に守り,律法に従う行ないによって永遠の命を得ることはできませんでした。しかし,律法は目的を果たしたのです。なぜなら律法は,欠ける所なく律法を守った完全な者,それによって律法による罪の定めを免れた者,そのゆえに全く正しいとされ,その汚れない正しさのゆえに永遠の命にふさわしいとされた者を明示したからです。モーセを通して与えられた律法がその目的を完全に果たしたこと,また律法が誤まりでなく,失敗でもなかったことを,ユダヤ人のクリスチャンであった使徒パウロがこう述べています。
13 「しかし,〔クリスチャンの〕信仰が現れる前には,わたしたちは律法の下で監視されており,やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は,信仰によって義とされるために,わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし,いったん信仰が現れた以上,わたしたちは,もはや養育掛〔律法〕のもとにはいない」。―ガラテヤ 3:23-25。
14 (イ)モーセの律法が単なる法典でなかったと言えるのはなぜですか。(ロ)このことは律法の定めによる祭司職にどのようにあてはまりますか。
14 モーセを通して与えられた律法は単なる法典ではありません。また,人間の行為を規制する法律を単に体系的にまとめたものではありません。律法は預言的な面をも多く含んでいました。律法の規定には,のちに来る優れた事柄を預言的に示すものが多くありました。たとえば,律法はユダヤ国民のために,モーセの兄アロンの家による祭司の制度を定めました。これは,のちにエホバ神が,全人類の永遠の益のための犠牲をささげる大祭司を立てることを預言的に示していました。霊者であるこの天の大祭司も下位の祭司を従えています。その従属的な祭司は人間から取られ,人間の罪と不完全さとを理解できます。
15 ユダヤ人の年毎のあがないの日の特徴は何を預言的に示していましたか。
15 律法は,毎年ユダヤ人の陰暦7月10日を国民的なあがないの日とすることを定めていました。その日には,きずのない雄牛と山羊とを犠牲とし,その血を宮の至聖所に振りそそいで,祭司とユダヤ国民全体のしょく罪をすることが定められていました。また,ユダヤ人の罪は身代わりの山羊によっても運ばれ忘れられることになっていました。このすべては,神の立てる大祭司が人類の罪をあがなう犠牲をささげ,人類の罪を運び去る,真の罪のにない手になることを預言的に示していました。この取りきめのすべては,神の過分の愛のあらわれです。
16 それで,ヘブル書 8章4,5節の記述者によれば,モーセの律法は戒めの他に何をそなえましたか。
16 このように,モーセによる律法は,罪を明らかにし,神と歩むべきユダヤ人に,神聖で清く,利己的でなく正しい道を示すためにのみ与えられたのではありません。それ以上に,律法は,神の目的に従って到来する偉大な事柄の概略を描いて予めそれを理解させるため,意義を秘めた一定の儀式を定期的に行なう事をも定めていたのです。霊感を受けた記述者はこうした預言的な概略を『影』と呼んで,こう書いています。「律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが,現にいる……彼らは,天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては,モーセが幕屋を建てようとしたとき,御告げを受け,『〔シナイ〕山で示された型どおりに,注意してそのいっさいを作りなさい』と言われたのである」。―ヘブル 8:4,5。
17 律法は,罪のためにささげられねばならない完全な人間のからだの『影』をどのようにそなえましたか。
17 同じ記述者は,完全な人間のからだが犠牲として神にささげられるべきことを論じ,再び『影』について述べました。「いったい,律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず,そのものの真のかたちをそなえているものではないから,年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても,みまえに近づいて来る者たちを,全うすることはできないのである。もしできたとすれば,儀式にたずさわる者たちは,一度きよめられた以上,もはや罪の自覚がなくなるのであるから,ささげ物をすることがやまったはずではあるまいか。しかし実際は,年ごとに,いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら,雄牛ややぎなどの血は,罪を除き去ることができないからである。それだから,キリストがこの世にこられたとき,次のように言われた,『あなたは,いけにえやささげ物を望まれないで,わたしのために,からだを備えて下さった』」。―ヘブル 10:1-5。
18 モーセの律法に含まれる『影』の例をいくつかあげなさい。それらを『影』と呼ぶのはなぜですか,
18 この他,過越の夕食,週の祭りすなわちペンテコスト,週ごとの安息日,ヨベルの年,各月の1日すなわち新月の祭り,とくに毎年の7番目の新月の祭りなど,律法に規定された多くの事柄はいずれも『影』となっていました。これらはいずれも,それ自体がまことのものであり,のちに来るよりすぐれた事柄の正確な概略また小さな絵となっていました。しかし,それらはあくまでも『影』であったにすぎません。影とは,光の進路にはいる充実した不透明な物体によって,物の表面に描き出される黒い形,ないしは模様です。影は実体ではなく,本当の物ではありません。影が概略し,あるいは影がかたどる実体,ないしは本体が本当の物です。実体,ないしは本体が光の前にあるなら,その影は遠くにまで延びます。「事件の起らんとするやまずその前影あり」と言われるのはこのためです。神の目的の中では,影が先に来ました。人類の前途に神が意図される偉大な事柄を予め小規模に理解させるためです。そうした影は従順に神の定めを守る人々の心に真実の期待を起こさせました。『影』は真正のものであったため,そうした期待の裏切られることはありません。
19 ヨハネが「律法はモーセによりて与えられ……真理……はイエス・キリストによりて来れるなり」と述べたのは,なぜ正当でしたか。
19 影は真実ですが,事の真理の全容ではありません。予影された実体が到来してはじめて,真理も到来します。この時,真理が理解されます。実質,ないしは実体が真理です。モーセの律法は影を伝えていたに過ぎませんから,律法の予影した実物,実質,ないしは実体の到来に道をゆずらねばなりませんでした。それゆえ,飲食,儀式,祭日などに関するモーセの律法の規定は映像また影として過ぎ去らねばなりませんでした。そして実際に過ぎ去りました。使徒パウロは小アジア,コロサイのクリスチャン会衆に宛ててこう書いています。「だから,あなたがたは,食物と飲み物とにつき,あるいは祭や新月や安息日などについて,だれにも批評されてはならない。これらは,きたるべきものの影であって,その本体はキリストにある」。(コロサイ 2:16,17)それゆえ,使徒ヨハネが,「律法はモーセによりて与へられ,恩恵と真理とはイエス・キリストによりて来れるなり」と述べたのは,史実と完全に一致していたのです。―ヨハネ 1:17,文語。
20,21 ヨハネの述べた事がすべての面で真実となるため,罪のあがないに関連してイエスには何が求められましたか。
20 この言葉がすべての面で真実となるために,イエス・キリストには話し,教え,伝道する以上の事が求められました。すなわち,この神の子は天の霊者としての栄光を捨て,全ユダヤ国民の罪を比ゆ的に取り除いたあがないの日の犠牲があらわしたものを真実になし遂げるため,完全な人間の子供として生まれねばなりませんでした。また,全人類の罪をあがなう神の大祭司の任命を受けるため,30歳の時に,神に供えられる人間の犠牲として自らをささげねばなりませんでした。(ヘブル 5:1-5; 7:27; 8:1-4)イエスがこれを行なわれたのは,浸礼者ヨハネによりヨルダン川で浸礼を受けるため,自らを渡された時です。この時,イエスのからだは水に沈められ,一瞬視界から消えました。こうしてイエスは,神がそなえられた,犠牲となるべき人間のからだを携えて,「この世にきた」のです。―ヘブル 10:5-10。詩 40:6-8。ヨハネ 18:37。
21 それから3年半後に死なれたイエスは,エホバの大祭司として,ご自身の人間の犠牲を「一度だけ」神にささげられました。完全な人間の犠牲の価値を天の神にたずさえるため,イエスは死からよみがえらされねばなりませんでした。これはイエスの死から数えて3日目に起きました。この時イエス・キリストは,宮の内幕を経て至聖所すなわち最奥の部屋にはいったユダヤの大祭司のように,死からよみがえって霊界に入り,やがて,ご自分が犠牲とされた命の価値をささげるため,文字どおり神のみ前にあらわれました。
22 このすべてはイエスがなされた真理のあかしの一部です。どうしてそう言えますか。
22 このすべてはモーセによる律法に含まれた影の真実さを示すものとなりました。これはまた,成功裏に遂行されたイエス・キリストの大祭司職が本当の真理であることを明確にしました。この事から最も貴重な祝福が人類に及びます。以上は,モーセの律法によって予告,また予影された事柄を,イエスが実体の世界に移されたこと,すなわちイエスのなされた真理のあかしの一部です。
御国の真理
23 (イ)罪のために祭司が捧げる犠牲に関連した事柄だけが,わたしたちに大切な真理ですか。この点はイエスの裁判の時,どのように明らかになりましたか。(ロ)モーセの律法に含まれる他のどんな事柄も,正しい『影』であったことが示されるべきでしたか。
23 しかし,祭司的な奉仕と世の罪のための和解の犠牲に関する真理だけが重要で,私たちに関係のある真理ですか。いいえ! なぜなら,イエスが総督ポンテオ・ピラトの審問を受けた時,いちばんの論点となったのは王をいだく政府に関する事柄であったからです。イエスをローマの裁判に渡した敵たちは,イエスが「王なるキリスト」と称えていると訴えていました。(ルカ 23:1,2)実際この時には,政府,すなわちユダヤ人の地方的な政府ではなく,人類世界全体の政府に関して多くの真理が明確にされねばなりませんでした。そう,その時イエス・キリストには多くの事が課せられていたのであり,イエスはその事をよく認め,その使命に忠実をつくす事を固く決意していました。当然に理解できることですが,モーセの律法のうち,のちに来る神の民の政府に関する事柄も,後世の事実と適合する正確な預言であり,正確な『影』であることが実証されねばなりませんでした。それはどのように証明されましたか。
24 (イ)神はアロンとその家系の者を用いてイスラエルにどんな職務を設けましたか。(ロ)神がイスラエルに人間の王をも立てなかったのはなぜですか。
24 シナイ山でモーセを通して律法が与えられた時,イスラエルに見える人間の王はいませんでした。モーセはイスラエルの王ではなく,エホバ神とイスラエル国民との仲介者として仕えていたのです。モーセの兄はアロンであり,アロンはレビ人アムラムの長子でした。エホバ神はイスラエルのための祭司職をアロンの家に設けられました。なぜ神はイスラエルを治める人間の王をも立てられなかったのですか。あるいは,なぜ神はアロンに祭司の仕事と王の仕事とを兼ねさせなかったのですか。それは,目に見えなくても,エホバ神が立法者としてイスラエルを治めておられたからです。エホバが同時にイスラエルの祭司となることはできません。イスラエルにおける事情は紅海の岸辺でモーセが歌った歌の通りでした。これはモーセを通して律法の与えられる約3ヵ月前に歌われたものです。「エホバは世々限りなく王たるべし かくパロの馬その車および騎兵とともに海にいりしにエホバ海の水を彼らの上に流れかへらしめたまひしがイスラエルのひとびとは海の中にありてかわける地を通れり」。(出エジプト 15:18,19,〔文語〕)それゆえエホバは王としてのご自身の立場を去られませんでした。
25 (イ)神はモーセを通して与えられた律法の中で,イスラエルを治める人間の王に関しどんなことを語られましたか。
25 モーセの律法の中で,エホバ神は,イスラエル人が非神権的な異教の国民をまね,見える王を求める時の来る事を示されました。その時,「必ずあなたの神,〔エホバ〕が選ばれる者を,あなたの上に立てて王としなければならない。同胞のひとりを,あなたの上に立てて王としなければならない。同胞でない外国人をあなたの上に立ててはならない。…彼が国の王位につくようになったら,レビびとである祭司の保管する書物から,この律法の写しを一つの書物に書きしるさ(なければならない)」,とエホバは言われました。(申命 17:14-18,〔文語〕)のちにモーセは,イスラエル人が神との厳しゅくな約束,ないしは契約を実行しないなら,「〔エホバ〕はあなたとあなたが立てた王とを携えて,あなたもあなたの先祖も知らない国に移されるであろう。あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう」と警告の言葉を述べました。(申命 28:35,36,〔文語〕)350年と少しのち,イスラエル国民全体は実際にそのような王を求め,神はキシの子サウルを与えられました。―サムエル前 8:4–12:5。
26 (イ)キシの子サウルはイスラエルのどの部族の者でしたか。(ロ)しかし,族長ヤコブはイスラエルの王権がだれに帰することを預言しましたか。それゆえ,その部族にだれが出るはずでしたか。
26 サウル王はベニヤミン族の者でした。しかし,モーセを通して律法の与えられるずっと以前に,エホバ神は族長ヤコブすなわちイスラエルを霊感し,イスラエルの王権はユダ族の手に帰し,王の杖と指揮者の棒はその部族から決して離れないと預言させました。シロ(「それを持つ者」の意)と呼ばれる者がその部族から出て,「もろもろの民は彼に従う」はずでした。
27 このヤコブの預言がモーセを通して与えられた律法の一部であると言えるのはなぜですか。
27 王権に関するこの預言は聖書の最初の本,創世記の49章8-10節に書かれていました。しかし,創世記を書いたのはモーセです。今日の聖書の初めの五つの本は当初1冊の本であり,モーセによって書かれたものでした。イエス・キリストの時代に,ユダヤ人はヘブル語聖書を大きく区分し,モーセによって書かれた聖書巻頭の五書を律法,ないしは「トーラー」と呼びました。それゆえ,創世記は「律法」,トーラーの中に入れられました。死人の中からよみがえらされたのち,イエスは弟子たちにこう言われました。「わたしが以前あなたがたと〔肉体で〕一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は,こうであった。すなわち,〔1〕モーセの律法と〔2〕預言書と〔3〕詩篇とに,わたしについて書いてあることは,必ずことごとく成就する」。(ルカ 24:44)それゆえ,「律法」という言葉には,王権がユダ族に所属する事に関する族長ヤコブの預言をはじめ,創世記に書かれる事柄も含まれることがあるのです。
28 (イ)『真理についてのあかし』を全うするため,イエスが特定の部族に生まれるだけでなく,特定の家系に生まれなければならなかったのはなぜですか。(ロ)神は王国の約束をどのようにいっそう堅くされましたか。王国は実際にはだれのものでしたか。
28 神の王国に関する「真理についてあかしをする」ため,イエスはユダ族に生まれました。(ヘブル 7:14)しかし,完全に「真理についてあかしをする」ために,イエスはユダ族のうち,特定な家系に生まれねばなりませんでした。イエスはベツレヘムのダビデの家系に生まれねばならず,また実際にそうなりました。(ロマ 1:1-4)これはなぜですか。それは,ユダ族のダビデがサウル王とその子イシボセテに次ぐイスラエルの王とされ,そののちエホバ神がダビデ王と厳しゅくな約束ないしは契約を結ばれ,神の民の王権が永遠にダビデ王の家系にとどまる事を定められたからです。これは,ダビデの子孫から最後に,王位の永遠の継承者が出るという意味でした。(サムエル後 7:11-16。歴代上 17:11-15)エホバ神は忠実なダビデ王にこの約束をされただけでなく,誓いを立ててこの約束を堅くされました。この誓いを立てられた神は,実際にはご自身の王国のために誓っておられたのです。なぜなら,ダビデ王自身も認めた通り,イスラエルの王国は真実にはエホバのものであり,ダビデがすわったエルサレムの王座は真実には「エホバの位」であったからです。(歴代上 29:10,11,23)ダビデと結ばれた永遠の王国の契約を堅くしたこの誓約について,次の言葉があります。
29 詩篇 89篇はこの契約とダビデの王国に関する神の誓いについて何を述べていますか。
29 「わたしはわたしの選んだ者と契約を結び,わたしのしもべダビデに誓った,『わたしはあなたの子孫をとこしえに堅くし,あなたの王座を建てて,よろずよに至らせる』。……わたしはわが契約を破ることなく,わがくちびるから出た言葉を変えることはない。わたしはひとたびわが聖によって誓った。わたしはダビデに偽りを言わない。彼の家系はとこしえに続き,彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。また月のようにとこしえに堅く定められ,大空の続くかぎり堅く立つ」。―詩 89:3,4,34-37。使行 2:30。
30 それで,イザヤ書 55章3節にある『ダビデに対する恵み』とは何ですか。これが信頼できるものであったのはなぜですか。
30 この王国の契約とその特色とは,神のことばが「ダビデに(対する)恵み」と呼んでいるものであり,神の誓いはこの契約に確かさと信頼性とを加えました。それゆえ,迫害に面した時にも,神に頼り,この御国契約の遂行を神に待った神の民は,契約に対する疑いの気持ちではなく,契約にかかわる神への強い願いとして,詩篇作者の言葉を取り上げ,こう言うことが出来ました。「〔エホバ〕よ,あなたがまことをもってダビデに誓われた昔のいつくしみはどこにありますか」。(詩 89:49,〔文語〕)神は思いやりを込め,契約に対してご自身が忠実であることを,こう確証されます。「わたしは,あなたがたと,とこしえの契約を立てて,ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える」。(イザヤ 55:3)とくにイエス・キリストは神のこの約束から慰めを得ました。
31 (イ)それで,イエスはなぜダビデ王の家すじに生まれましたか。(ロ)どのようにエホバは詩篇 132篇1-18節の祈りに答えられましたか。そのことを説明しなさい。
31 それゆえ,御国契約を永遠の真理とするため,イエスはダビデ王の家系に生まれ,ダビデの永遠の相続者となられました。こうしてエホバはダビデ王に対する誠実さを守られ,この油そそがれた王に永遠の相続者を与えることをさし控えられなかったのです。エホバは詩篇 132篇1-18節になされた次の祈りに答えられました。「〔エホバ〕はまことをもってダビデに誓われたので,それにそむくことはない。すなわち言われた,『わたしはあなたの身から出た子のひとりを,あなたの位につかせる。……わたしはダビデのためにそこに一つの角をはえさせる。わたしはわが油そそがれた者のために一つのともしびを備えた。わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし彼の上にはその冠が輝くであろう』」。
32,33 王国に関して神がダビデにした誓いが果たされたことについて,ペテロはペンテコストの日にどのように証言しましたか,
32 使徒ペテロはこの真理にあかしをした者の一人です。イエス・キリストが死からよみがえらされてから50日後の五旬節の祭りの日に,ペテロはエルサレムにいたキリストの弟子たちに神の聖霊がそそがれたことについて説明し,こう語りました。
33 「兄弟たちよ,族長ダビデについては,わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ,現にその墓が今日に至るまで,わたしたちの間に残っている。彼は預言者であって,『その子孫のひとりを王位につかせよう』と,神が堅く彼に誓われたことを認めていたので,キリストの復活をあらかじめ知って,『彼は黄泉に捨ておかれることがなく,またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。このイエスを,神はよみがえらせた。そして,わたしたちは皆その証人なのである。それで,イエスは神の右に上げられ,父から約束の聖霊を受けて,それをわたしたちに注がれたのである。このことは,あなたがたが現に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのはない。彼自身こう言っている,『主はわが主に仰せになった,あなたの敵をあなたの足台にするまでは,わたしの右に座していなさい』。だから,イスラエルの全家は,この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが〔杭〕につけたこのイエスを,神は,主またキリストとしてお立てになったのである」。―使行 2:29-36,〔新世〕。
ダビデ王の「主」
34 (イ)イエス・キリストがダビデの主となったことを説明しなさい。ダビデはこの変移をどこで予告していましたか。(ロ)ダビデ自らはイエスが主であることをいつ認めますか。
34 ここで使徒ペテロは,注がれた神の聖霊に霊感されつつ,高められたイエス・キリストがダビデ王の主,すなわちダビデ王より高い者となることを述べています。ダビデ王の王座は「エホバの位」と呼ばれる地上のものにすぎませんでした。しかし,イエス・キリストの王座は天にあり,神の右にありました。イエスは死のない,天の永遠の王になるはずでした。近い将来,ダビデは死からよみがえらされ,自分の子孫イエス・キリストについて学び,この高められた者が自分の主であり,真のキリストすなわち油をそそがれた者であることを認めるでしょう。詩篇 110篇においてダビデ王はイエス・キリストが主となることを予告しました。使徒ペテロはこの詩のはじめの5節を引用し,それをイエス・キリストにあてはめ,その予告の成就としました。こうして実際には,霊感を受けたペテロはこの詩篇全体をイエス・キリストにあてはめたのです。使徒パウロもそれをイエスにあてはめています。
35 詩篇 110篇4節でエホバはだれに誓われましたか。何について?
35 このダビデの詩はエホバが再び誓われたことを述べています。しかし今度はダビデ王にではなく,天で神の右にすわるダビデの主に対してです。詩篇 110篇4節はイエスに向かってこう述べています。「エホバ誓をたててみこころをかへさせたまふことなし,なんぢはメルキゼデクのさまにひとしく永遠に祭司たり」。(文語)エホバはご自身の子イエス・キリストにこう誓われたのです。
36 メルキゼデクの「さま」にはどんな特徴がありましたか。メルキゼデクがアブラハムより高位にあったことはどう示されましたか。
36 この言葉によると,ダビデの主イエス・キリストはメルキゼデクの「さま」にひとしくなります。このメルキゼデクとはだれですか。創世記をも含め,モーセを通して与えられた律法がわたしたちに教えます。メルキゼデクは祭司であっただけでなく王でもありました。創世記 14章17-20節によると,メルキゼデクは戦いに勝って帰る族長アブラハムを,自分の王都から出て迎えています。記述は次の通りです。「その時,サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った,『願わくは天地の主なるいと高き神が,アブラムを祝福されるように。願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように』。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った」。このようにメルキゼデクはアブラムより高位にありました。
37 (イ)イエスはだれの王国を相続しましたか。(ロ)イエスは大祭司アロンから永遠の祭司職を得たのですか。そうでなければどのように?
37 ヘブル書 6章20節から7章17節において,詩篇 110篇4節の誓いの言葉はイエス・キリストにあてはめられています。イエスが王なる祭司メルキゼデクの「さま」にひとしいという事の意味が詳細に説明されています。メルキゼデクは王と祭司とを兼ねており,地上に相続者を持ちませんでした。イエス・キリストは祭司職や王国をメルキゼデクから相続したのではありません。イエスは御国契約にしたがってダビデ王の永遠の相続者となりましたが,自分の祭司職をレビ族の大祭司アロンから受けついだのではありません。イエスはダビデの子孫でなければならず,レビ族の者としては生まれませんでした。イエスはどのようにして自分の祭司職を永遠のものとしましたか。それは詩篇 110篇4節のエホバの誓いによりました。
38 メルキゼデクの予表したことは,どのようにイエス・キリストに真実となりましたか。それゆえ,エホバは何をくやむことはありませんか。
38 古代のメルキゼデクはのちに来る王なる祭司の「さま」を示すべき者でしたから,メルキゼデクは歴史上の預言的な人物であり,より偉大な王なる祭司イエス・キリストを予表しました。メルキゼデクの予表したものがイエス・キリストに実現したのです。メルキゼデクの名前には「正義の王」という意味があり,「平和」という意味のサレムの王でしたから,メルキゼデクは「平和の王」でもありました。しかしながら,イエス・キリストは神が予め心に描かれた真のメルキゼデクでした。イエスは真の「正義の王」であり,真の「平和の王」でした。イエスは全人類の永遠のあがないをそなえ,全地を平和に治める,真の王なる祭司です。エホバ神がイエス・キリストを王なる祭司とするとの誓いをくやまれることは決してありません。
体現された真理
39 イエス・キリストは真理でした。そのことを説明しなさい。どのようにイエスは真理に真のあかしをされましたか。
39 前述のことから,あきらかなとおり,問題の真理はイエス・キリスト自身です。モーセの律法中の影とヘブル語聖書の預言とが予め示した真理の体現がイエスです。預言的な事柄のすべてはイエスに焦点を置いていました。イエスが生まれたのも,世に来たのも,この事,すなわち預言的な事柄を成就して,そこに含まれる真理を証言するためでした。イエスは,預言的に啓示された神の目的,神の誓われた事柄の生きた真理でした。
40,41 (イ)これらの点において,ご自分が真理であると言われたイエスは,なぜ正当でしたか。(ロ)そのような者として,イエスはだれに恩恵を与えられますか。パウロはロマ書 15章8-12節においてこの事をどのように示していますか。
40 人間として地上におられた時,イエスはヘブル語聖書に書かれた神のことばの真理にあかしをすることを決意していました。敵の手に渡される晩,イエスは忠実な使徒たちにこう言われました。「わたしは道であり,真理であり,命である。だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ 14:6)このイエスの言葉は正しいではありませんか。そうです,イエスはまさに真理でした。イエスは影のメシヤ,キリストではありませんでした。イエスは約束によって到来した真のメシヤでした。彼は影の王なる祭司ではありません。彼は実体的な,真の王なる祭司であり,予表されたものでした。そのような者として,イエスは割礼のあるユダヤ人だけでなく,ユダヤ人以外の万国民にも恵みを与えます。それゆえ使徒パウロはこう述べています。
41 「わたしは言う,キリストは神の真実を明らかにするために,割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に,異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである,『それゆえ,わたしは,異邦人の中であなたにさんびをささげ,また,御名をほめ歌う』と書いてあるとおりである。また,こう言っている。『異邦人よ,主の民と共に喜べ』。また,『すべての異邦人よ,〔エホバ〕をほめまつれ。もろもろの民よ,主をほめたたえよ』。またイザヤは言っている,〔ダビデ王の父親〕『エッサイの根から芽が出て,異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう』」。―ロマ 15:8-12。詩 18:49; 117:1。申命 32:43。イザヤ 11:10,〔新世〕。
42 (イ)イエスはどのように「割礼のある者の僕」となられましたか。(ロ)イエスは先祖になされた神の約束の真実さをどのように「明らかに」されましたか。
42 フェニキアの女に会った時,イエス・キリストはこう言われました。「わたしは,イスラエルの家の失われた羊以外の者には,つかわされていない」。天の御国について伝道させるため12人の使徒を派遣された時,イエスはこう言われました。「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ,イスラエルの家の失われた羊のところに行け」。(マタイ 15:24; 10:5,6)こうして,モーセの律法下に生まれ,割礼を受けたユダヤ人として,イエスは「割礼のある者の僕となられ」ました。割礼のあるユダヤ人に対するイエス・キリストのこの奉仕は,「神の真実を明らかにするため」でした。エホバ神は族長アブラハム,イサク,ヤコブに,地上の諸国民がこれらの人々の子孫によって祝福を得ると言われました。当然のこととして,生まれつきの彼らの「子孫」とはイスラエル人,すなわちユダヤ人,またヘブル人です。(創世 22:18; 26:4; 28:14)それゆえ,事柄の自然のなりゆきに従って,イエス・キリストにとっては,3人のヘブル人の族長になされた約束につき「神の真実」を明確にすることが必要でした。どのように? アブラハムに関する祝福に与り,アブラハムの霊的な子孫となる機会をまずユダヤ人にさしのべることによってです。イエスにとってエホバ神の誓いを尊重することは絶対のつとめでした。神は族長たちに対するご自分の約束が真実であることを誓われており,イエスはその約束の真実さを「明らかに」しなければなりませんでした。
43 (イ)エホバが先祖の子孫たちをエジプトから連れ出されたのは何を守るためでしたか。(ロ)神は先祖に対する約束をどのように強められましたか。
43 割礼のある,族長たちの子孫に対してモーセは言いました。「〔エホバ〕があなたがたを愛し,またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして,〔エホバ〕は……あなたがたを……エジプトの王パロの手から,あがない出されたのである」。(申命 7:8,〔文語〕)族長たちに対する神の誓いについては詩篇 105篇7-11節b にさらに次の言葉があります。「彼はわれらの神,〔エホバ〕でいらせられる。そのさばきは全地にある。主はとこしえに,その契約をみこころにとめられる。これはよろず代に命じられたみ言葉であって,アブラハムと結ばれた契約,イサクに誓われた約束である。主はこれを堅く立てて,ヤコブのために定めとし,イスラエルのために,とこしえの契約として言われた,『わたしはあなたにカナンの地を与えて,あなたがたの受ける嗣業の分け前とする』と」。〔文語〕― 創世記 24:6,7; 50:24。出エジプト 6:8。エレミヤ 11:4,5をもごらん下さい。
44 神の誓いをだれよりも尊重されるのはどなたですか。
44 エホバ神はご自身の誓いを重く見られ,それを偽ることは決してありません。同じようにイエス・キリストは地上におられた時,エホバの誓いを尊重され,その真実さを実証することに努められました。
45 (イ)王国と祭司職に関する神の誓いはだれに果たされましたか。(ロ)どんな歴史的な出来事と共に神の真理は到来しましたか。
45 それゆえわたしたちは,永遠の王国のためにダビデとなされた契約に対する神の確証の誓いと,メルキゼデクのさまに等しい永遠の祭司を任命することに関する神の誓いとが,イエス・キリストに果たされたのを見るのです。イエスが地上に誕生したこと,水の浸礼を受けて世にきたこと,神の国のため3年半にわたって公の奉仕をしたこと,神への忠実のうちに死んだこと,死人の中からよみがえらされ,天に上げられたこと,これら歴史的な出来事とともに,真理,神の真理は到来したのです。こうしてイエス・キリストの全生がいは真理に対するあかしとなりました。
ついに質問の答え!
46 「真理とは何か」との総督の質問に対する聖書の答えを述べなさい。
46 それでは,ローマ総督ポンテオ・ピラトがイエスにした質問,すなわち「真理とは何か」との質問に,わたしたちはどう答えますか。この質問のなされた状況から言うなら,「真理」とは,「ダビデの子」イエス・キリストが位につき,王なる祭司として奉仕する神の国である,というのが聖書の答えであるに違いありません。
47 (イ)それゆえ,聖書の教理についてどんな事は不思議でありませんか。(ロ)ヘブル語聖書の最後の本とクリスチャン・ギリシャ語聖書の最初の本の中で,神の王権はどのように強調されていますか。
47 それでは,キリストによる神の国が聖書の主要な教理また教えであるということになんの不思議がありますか。預言的な人物メルキゼデクについて伝える最初の本創世記から,神の国の誕生と1000年にわたるその支配とを描写する最後の本黙示録にいたるまで,聖書はメシヤによる神の国を全編の主題としています。その事と一致して,神は昔のヘブル語聖書の最後の本の中で,ご自身の王権に人の注意を集めておられます。「わたしは大いなる王で,わが名は国々のうちに恐れられるべきであると,万軍の〔エホバ〕は言われる」。(マラキ 1:14,〔文語〕)そして,クリスチャン・ギリシャ語聖書の最初の本によれば,神の子イエスがメシヤとして神に仕えるため世に来るに先だち,先駆者であるバプテスマのヨハネは割礼のあるユダヤ人に,「悔い改めよ,天国は近づいた」と述べ伝えました。―マタイ 3:1,2。
48 浸礼者ヨハネのあとをつぎ,また事物の制度の終結について予告したイエスはどのように御国の教えを強調されましたか。
48 浸礼者のヨハネにつづいたイエス・キリストも,「時は満ちた,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われました。(マルコ 1:14,15)最後に,イエスの帰還と再臨,および事物の制度の終結のしるしとなる伝道の仕事について予告された時,イエス・キリストは聖書のどんな教えが弟子たちによって伝道されると言われましたか。マタイ伝 24章14節にあるイエスの言葉がこれに答えます。「そしてこの御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。―マタイ 24:3,14。
49,50 (イ)黙示録 11章15-18節によれば,今日聖書のこの教えが第一に伝道されねばならなのはなぜですか。(ロ)サタンが天から投げ出されのち,どんな適切な発表が全天でなされましたか
49 今日,聖書のこの教えは第一に伝道されねばなりません。なぜ? なぜなら,聖書の最後の本黙示録に預言的に描写されているように,この「事物の制度の終結」は,メシヤによる神の国が天に誕生する時であるからです。このことが起きる時,天では多くの声が,「この世の国は,われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配されるであろう」との発表に和するはずでした。またメシヤによる王国の背後にあって真の力を持たれる主なる神に対して,次の感謝の言葉がささげられます。「今いまし,昔いませる,全能者〔エホバ〕神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを,感謝します。諸国民は怒り狂いましたが,あなたも怒りをあらわされました」。(黙示 11:15-18,〔新世〕)その上,天の王国に抵抗する者のかしらであるサタンが天から投げ出され,地に落とされた時,全天に大声で次の発表がなされました。
50 「今や,われらの神の救と力と国と,神のキリストの権威とは,現れた。われらの兄弟らを訴える者,夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は,投げ落された」。―黙示 12:5-10。
「真理のことば」
51 聖書が詳細に記述している事柄とその記述者とから見て,聖書を何と呼ぶのは適当ですか。
51 メシヤによる神の国が「真理」であり,イエスはこの真理にあかしをするために生まれ,また世に来ました。聖書はこの御国に関して詳細な事柄を十分に伝えていますから,聖書を「真理のことば」と呼ぶのは当然です。霊感を受けつつ聖書の記録に加わったのは,真理を求める人々でした。たとえば,ソロモン王は自らを神の民の集合者と呼んで,こう書いています,「〔集合者〕は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるした」。(伝道 12:10,〔新世〕)今日わたしたちが生存する「終りの時」に関する重要な事柄の多くを預言者ダニエルに告げるために派遣された御使いは,こう語りました,「わたしは,まず真理の書にしるされている事を,あなたに告げよう。……わたしは今あなたに真理を示そう」。(ダニエル 10:21; 11:2; 12:4)聖書の記録にあたって顕著な役割を果たした使徒パウロは,共なるクリスチャンにこう書きました。「早くからキリストに望みをおいているわたしたちが,神の栄光をほめたたえる者となるためである。あなたがたもまた,キリストにあって,真理の言葉,すなわち,あなたがたの救の福音を聞き」。―エペソ 1:12,13。
52,53 (イ)真理の器とするために,聖書をどのように扱わねばなりませんか。キリスト教国が聖書そのように扱ってきたかどうかはどんな事からわかりますか。(ロ)今日クリスチャンは,第1世紀の場合と同じく,なににしたがって歩まねばなりませんか。どうすればこれは可能ですか。
52 真理を伝道し,教えるための器とするためには,聖書を正しく取り扱わねばなりません。それゆえ,クリスチャン会衆の一監督にあてて,自分自身と自分の教えとに絶えず注意することを命じた使徒パウロは,こう述べました。「あなたは真理の言葉を正しく教え,恥じるところのない錬達した働き人になって,神に自分をささげるように努めはげみなさい」。(テモテ後 2:15。テモテ前 4:16)今日,キリスト教国は9億を越える信徒数を誇り,何世紀にもわたって写本や印刷されたかたちで聖書を保持してきたことを誇りとしています。キリスト教国はこの「真理の言葉」を正しく扱ってきましたか。いいえ。なぜなら,キリスト教国は,そこに存在する幾百の宗派によってあらわされる通り,一千もの異なった仕方で宗教を教えているからです。キリスト教国はキリスト教を代表するものとしては偽りです。聖書に基を置き,聖書を正しく扱うキリスト教が真理です。真理にしたがって歩むために,真のクリスチャンは聖書に従わねばなりません。
53 第1世紀のクリスチャンがその純粋な信仰にしたがって行なったのはこの事でした。使徒ヨハネが共なる信者ガイオに宛てた言葉がそのことを明らかにしています。「兄弟たちがきて,あなたが真理に生きていることを,あかししてくれたので,ひじょうに喜んでいる。事実,あなたは真理のうちに歩いているのである。わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に,大きい喜びはない」。―ヨハネ第三 3,4。
54 (イ)当時,神の霊的な子供として生み出されるために必要なのはどんな「言葉」でしたか。(ロ)真のクリスチャンとなるために,わたしたちは何から出なければなりませんか。わたしたちはどのように愛さねばなりませんか。
54 当時,真理を聞き,学び,信じなければ,真のクリスチャン,神の霊的な子として生み出された者とはなれませんでした。弟子ヤコブは自分の手紙の中で,この真理の必要さに注意をひいています,「愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。あらゆる良い贈り物,あらゆる完全な贈物は,上から,光の父から下って来る。父には,変化とか回転の影とかいうものはない。父は,わたしたちを,いわば被造物の初穂とするために,真理の言葉によって御旨のままに,生み出して下さったのである」。(ヤコブ 1:16-18)真のクリスチャンは真理によってのみ生まれます。真理について書くことを愛した使徒ヨハネは,親しいクリスチャンに対してこう書きました,「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく,行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって,わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして,神のみまえに心を安んじていよう」。(ヨハネ第一 3:18,19)それゆえ,純粋なクリスチャンであることを確かめ,神の前にわたしたちの心を安んずることを願うなら,わたしたちにもたらされた真理に基づいて行動し,兄弟愛を持たねばなりません。世にしたがって行動するのは誤りです。―ヨハネ第一 4:4-7。
55 間違った道を進み,反キリストとなることをどうしたら避けられますか。
55 ヨハネ伝 14章6節でご自身が言われた通り,イエス・キリストが「真理」であることをかんがみ,真理にしたがい,真理にとどまり,反キリストにならないことを望むなら,イエスについて正しい信仰を持たねばなりません。イエスが肉体で生まれ,世にあらわれ,神の「真理」の最高の証人となられたことを否定する人は,間違っており,この世から出ている者であり,真のクリスチャンではありません。―ヨハネ第一 4:1-6。
56 真理を知るゆえに,テモテ前書 3章14,15節にしたがい,わたしたちはどんな組織と交わることを望みますか。
56 わたしたちは,神の「真理の言葉」によって,「真理とは何か」との質問の答えを知りました。わたしたちはまた,真理を扱う,神の目に見える組織を支持することを望みます。神は高められた御子イエス・キリストを用いて,この組織を設立されました。それはイエスが復活してから50日後のペンテコストの日でした。テモテ前書 3章14,15節の霊感の言葉にしたがえば,この組織は「神の家,生ける神の〔会衆〕のことであって,それは真理の柱,真理の基礎」です。〔新世〕そうです,わたしたちがささえたいのは「真理の柱,真理の基礎」です。
57 それゆえ,わたしたちは真理にかんしてどんなことを決意していますか。
57 それゆえ,真理を破壊しようとするかわりに ― それは不可能です ― 御国の真理を守り,すべての人の前にこれを掲げるべく各自の分を果たすべきです。わたしたちは「真理とは何か」との質問に対する聖書の答えを,すべての国の人々に伝えます。そして「生ける神の会衆」と共に真理,「この御国の福音」を伝道し,終わりの来る以前に全地のすべての国民に対するあかしとします。(マタイ 24:14)わたしたちがキリストの使者として奉仕する時,真理につく者のすべてはわたしたちの声に耳を傾けるでしょう。―ヨハネ 18:37。コリント後 5:20。
[脚注]
a この言葉のラテン語原文は次の通りです。“Auctor nominis eius Christus, Tiberio imperitante, per procuratorem Pontium Pilatum supplicio affectus est.”ニューヨーク州ニューヨーク市,ハーバー商会刊行の「タシタスの作品」1858年版第1巻423頁参照。また,マクリントックとストロングの「百科辞典」第8巻199頁2欄,および,「アメリカナ百科事典」1929年版第22巻83頁「ピラト」の項参照。
b 誓約をもって,あるいは手を上げて神が誓われた事の他の例は次の通りです。父祖たちに対して民数 11:12; 32:11。申命 1:8,35。ミカ 7:20。イスラエルに対して民数 14:16,28,30。ネヘミヤ 9:15。詩 95:10,11。ヘブル 3:17,18; 4:3。エゼキエル 20:5,6。モーセに対して申命 4:21。
エホバ神が何にかけて誓っておられるかは注目に価します。ご自身の名前にかけて(エレミヤ 44:26,27),ご自身のたましいにかけて(エレミヤ 51:14。アモス 6:8),ご自分の清さにかけて(アモス 4:2),「ヤコブのさかえをさして」(アモス 8:7,文語),ご自身にかけて(イザヤ 45:23。エレミヤ 49:13; 22:5),エホバが永遠に生きられるように(申命 32:40,41),ご自分の目的にかんし(イザヤ 14:24),別の洪水に関して(イザヤ 54:9),ご自分のしもべの飲食に関して(イザヤ 62:8,9)などがあります。