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世界的な災いが近づいている今 ―「イエスを思い見なさい」ものみの塔 1983 | 5月15日
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のはわたしたちの信仰です。「容易に絡みつく罪」,すなわち信仰の欠如について言及した後,パウロは,「わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめ(る)」ことについて語っています。(ヘブライ 12:1,2)なぜこれは,現在の事物の体制の終結の時期に重要なのでしょうか。
20 聖書は創世記 3章15節にある最初の預言から,キリストを指し示しています。聖書が予告し,予型として表現している事柄の多くはキリストを焦点に据えています。ヘブライ人への書の中に述べられているモーセの律法の特色の多くは,「来たるべき良い事柄の影」でした。(ヘブライ 9:23; 10:1)しかし,「その実体はキリストに属しているのです」。(コロサイ 2:17)確かに,イエスの誕生,地上での宣教,犠牲の死,復活,祭司としての天での奉仕などは,これらの事柄に関する様々な預言,型,模型を完成させた,つまり完全なものとしました。
21 どんな別の意味において,今日イエスは「わたしたちの信仰の完成者」ですか。
21 パウロはキリストを「信仰の完成者」として認めることができましたが,今日わたしたちがそのようにすべき別の理由もあります。わたしたちは,『イエスの臨在と事物の体制の終結に関するしるし』についてのイエスの言葉が大規模に成就しているのを見ています。(マタイ 24:3)したがって,わたしたちの信仰にはより強固な基盤があるのです。救われて「来たるべき,人の住む地」に入る時は,パウロの時代よりはるかに近づいています。それで,神が「ご自分を[信仰のうちに]切に求める者に報いてくださる」ことを確信し,わたしたちの信仰の完成者であられるイエスをこれからも思い見ましょう。(ヘブライ 2:5; 11:6)次の記事に示されているように,ヘブライ人への書は,すばらしい報いを得る立場を保つために必要な信仰や,クリスチャンとしての見解を抱けるよう,わたしたちを助けます。
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自分の前に置かれた希望をとらえなさいものみの塔 1983 | 5月15日
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自分の前に置かれた希望をとらえなさい
1,2 自分の希望をとらえるという問題を真剣に考慮すべきなのはなぜですか。
使徒パウロは,「初めに抱いた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて,わたしたちは本当にキリストにあずかる者となるのです」と書きました。(ヘブライ 3:14)そして,「自分の前に置かれた希望をとらえる」必要性についても語りました。―ヘブライ 6:18。
2 あなたは最近エホバの証人になり,自分の信じている事柄に熱意のこもった確信を抱いておられる方かもしれません。あるいは,既に何十年も前からクリスチャン証人で,自分は真理の道において安定していると感じておられる方かもしれません。どちらの場合にせよ,わたしたちは皆,1世紀にも見られたように,自分のよく知っている人々が真理の道を歩まなくなってしまったという事実を思い起こせるのではないでしょうか。(フィリピ 3:18。使徒 20:30)ある人々は徐々に信仰を失い,物質的な関心事に心を奪われたり,誘惑に負けてしまったり,罪を犯したりしました。
3-5 ヘブライ人への書は,わたしたちの希望に関してどのような助けを与えていますか。
3 このようなことがわたしたちに生じないようにするため何ができますか。ヘブライ人への書の中にある諭しを熟考してみましょう。これらの諭しによって強められてきた現代の多くのエホバの証人たちの忠実な忍耐を見ることにより,そうすることが今日どれほど適切であるかが分かるでしょう。
4 ヘブライ人への手紙は,「天の召しにあずかる人たち」であるクリスチャンに書き送られました。彼らは神の霊によって油そそがれ,前駆者であるキリストにならって天に行くという確固とした希望を抱いていました。想像できるように,『この希望は,魂の錨,確かで,揺るがぬもの』でした。それでもなお,パウロは「自分の前に置かれた希望をとらえる」必要性に注意を喚起しました。(ヘブライ 3:1; 6:18-20)彼らにそうした必要性があったのなら,いま,油そそがれた残りの者と,来たるべき「大患難」に生き残る見込みを持つ「大群衆」にとって,その必要ははるかに大きなものです。―啓示 7:9,15。
5 ヘブライ人への手紙の中で,エホバは,『流される』,『離れ落ちる』,『怠惰になる』,「しりごみして滅びに至る」,あるいは「言い訳をして拒む」といった危険についてわたしたちに警告しておられます。(ヘブライ 2:1; 6:6,12; 10:39; 12:25)この書は,わたしたちが「勤勉さを示して,希望に対する全き確信を終わりまで保つよう」,また「信仰を抱いて魂を生き長らえさせる者」となるように助ける優れた諭しを与えています。―ヘブライ 6:11; 10:39。
『しりごみするような者ではなく』
6 ヘブライ人のクリスチャンは何に直面していましたか。それでも彼らには,何をする必要がありましたか。
6 ヘブライ人のクリスチャンの中には迫害を既に経験していた人が多くいたようです。彼らは,ローマ人の劇場でさらし者にされたり,獄にある人々の援助に赴いて身を危険にさらしたりして『数々の苦しみのもとで大きな闘いに耐えました』。(ヘブライ 10:32-34)それでも,彼らは「しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰を抱いて魂を生き長らえさせる者」として励まなければなりませんでした。―ヘブライ 10:39。
7 (イ)迫害を受けるという見込みは,クリスチャンにどのような影響を及ぼすことがありますか。(ロ)どのようなことを自問すべきですか。
7 それで,クリスチャンが反対を恐れる気持ちを抱くようになって『しりごみする』,あるいは妥協してしまう危険が存在しているのです。わたしたちはどうですか。わたしたちは学友や職場の同僚などから限られた反対を受けてきたかもしれません。未信者の配偶者や親からの身体的な虐待を受けた人たちもいます。それでも,多くの国において,エホバの証人が信仰のゆえに厳しい迫害を受けるというのはむしろまれなことです。そういう事情のもとにいると,激しい迫害に対する備えを余りしなくなり,迫害が臨むと「しりごみ」しがちになります。『快適な生活を送ってきた後に,家や仕事を失うこと,家族に会えなくなること,また投獄や身体的な虐待などの深刻な危険にさらされたら,自分はしりごみしたくなってしまうだろうか』と自問してみましょう。
8 ヘブライ人への手紙は,迫害に対処することに関するどんな助言を与えていますか。
8 逆境のもとで信仰を示すことについて説明した際,パウロは,イエスがどのように忍耐したかを考えるようわたしたちに勧めました。(ヘブライ 12:2,3)次いでパウロは,激しい迫害が生じるなら,それを一種の有益な鍛練と見るべきことをわたしたちに思い起こさせています。もちろん,神が迫害を生じさせているわけではありません。神はそれが起きることを許しておられるにすぎません。それでも迫害は,忍耐,辛抱,忠節,エホバへの信頼など,必要とされるクリスチャンの様々な特質を改善するための訓練や助けを与えるものとなり得ます。―ヘブライ 12:4-11。ヤコブ 1:2-4。
9 (イ)不完全な人間でも迫害を忍耐できることがどうして分かりますか。(ロ)1960年代,共産圏のある国の幾人かの姉妹たちにどんなことが生じましたか。
9 ヘブライ人への手紙は,イエスのような完全な人間しか忍耐することができない,とわたしたちが感じることのないよう,信仰によって忍耐した,わたしたちと同じ不完全な男女のことを強調しています。(ヘブライ 11:35-40; 12:1)現代において,信仰によって忍耐した「雲のような証人たち」が新たに付け加えられてきました。1982年8月,スイスの雑誌に載せられた一記事の中で,何十年か前に共産圏のある国の女子強制労働収容所に投獄されていたエホバの証人に関して,一人の婦人が経験を語っています。この人の話の一部を要約してご紹介しましょう。
制限付きながら自由を得ているのは比較的に大きな教会だけである。彼らは国家が許可する事柄を伝道するからである。家々で集まっている比較的小さな宗派の場合はそうではない。最も激しい迫害を受けているのはエホバの証人たちである。家の中から「ものみの塔」誌が発見された多くのエホバの証人たちは,10年の懲役刑を言い渡された。それで,エホバの証人たちがどういうわけか多量の文書を入手し続けていたことに収容所当局がいら立ちを覚えた理由もよく分かる。受刑者は一人残らず服をはぎ取られて裸にされ,検査を受け,その衣服も一つ一つの縫い目に至るまで検査された。その上,屋外で働くどんな受刑者も武装した見張りに監視され,帰って来て門を入る時にも検査されたのである。それでもなお文書は現われた。あたかもみ使いたちが夜間に飛んで来てそれを落として行ったかのようであった。エホバの証人の大半は年若い婦人たちだった。最初の懲役期間は5年ないし7年であり,二番目の有罪宣告は10年を下らなかった。収容所内で最も厳しい境遇にあったのはエホバの証人たちだった。エホバの証人が4人以上集まると,すぐに解散を命じられた。
10 ヘブライ人への手紙は,迫害に対してどんな決意に達するようわたしたちを助けますか。
10 迫害下の古代の信仰の模範に関し,ヘブライ人への手紙は,「世は彼らに値しなかった」が,エホバは彼らが地上の楽園で「完全にされる」ように取り計らわれると述べています。これ以上のことをだれが望み得るでしょうか。ですから古代と現代の信仰の模範を心に留めましょう。「しりごみして滅びに至る」のではなく,「信仰を抱いて魂を生き長らえさせる」決意を抱かなければなりません。―ヘブライ 11:38,40; 10:39。
「流され」ないようにしましょう
11 かなりの期間クリスチャンである人にとって,『流されること』はどのように危険なものとなり得ますか。
11 ヘブライ人への手紙が示しているように,別の危険は,『流されること』です。(ヘブライ 2:1)どうしてそうなるかを考えてみてください。ある人 ― わたしたちのだれもがその人であり得ます ― がクリスチャンになり,あふれるような熱意を抱くようになりました。それは立派なことです。聖書の知識は限られていても,ためらうことなく野外宣教に参加しました。(使徒 3:1-9; 8:39; 13:48,49)幾年かして,その人の奮い立たされた思いは,燃えるような熱心さと深い専心の思いへと成長して然るべきでした。実際にそうなったでしょうか。その人はクリスチャン宣教を,神に対する自分の愛を示すための,また自分自身が援助を受けたように他の人を援助するための手段とみなしているでしょうか。あるいは型どおりの仕事,半端仕事になっているでしょうか。子供たちがいるなら,その子供たちが全時間の奉仕者になるよう定期的に,また熱意をこめて促しているでしょうか。それとも,そのことにはほんの時たましか触れず,触れるとしても大学などの高等教育を受けることや,給料の良い仕事に就くこと,優雅な家を持つことなどについて話す時ほどには確信がこもっていないでしょうか。―啓示 2:4。
12 (イ)ヘブライ人への手紙は,わたしたちが『流されること』を避けられるよう,どんな勧めをしていますか。(ロ)み言葉に注意を払うことに関し,どんな質問を考慮できますか。
12 『流されること』を避ける一つの方法は,『聞いたことに普通以上の注意を払うこと』です。(ヘブライ 2:1)ヘブライ人のクリスチャンの中には,この点で失敗した人がいました。「キリストに関する初歩の教理」を学んだ後も,彼らは『円熟に向かって進み』ませんでした。「教える者となっているべき」なのに,依然として基礎的な事柄にとどまっていたのです。(ヘブライ 5:12-6:2)わたしたちはどうですか。わたしたちは“惰性で進んで”いるだけですか。それとも個人研究に注意を払うことによって進歩していますか。毎日聖書の一部を読むようにしていますか。純粋の関心を抱いてキリスト教の出版物を研究し,学んだ新しい点について他の人々と話すことも行なっていますか。わたしたちは子供たちが『み言葉の乳』以上のものに進歩するよう助けていますか。子供たちは,魂,復活,三位一体,地上の楽園などの真理を聖書から説明できますか。前年の水準にとどまることなく,そのことを野外奉仕の際に行なっていますか。―ペテロ第一 3:15。
13 投獄された姉妹たちは,聖書研究の面でどんな模範を示しましたか。その模範はどんなことをわたしたちに示唆していますか。
13 投獄されたエホバの証人たちについて,前に取り上げた記事はこう述べました。
わずかな自由時間の間,彼らは聖書のことばを記憶することに余念がなかった。そして外国語,特に英語,フランス語,ドイツ語を一生懸命に勉強した。彼らが手に入れていた文書はしばしばそれらの言語によって書かれており,そうした外国語を学んだ人たちが,他の姉妹たちのために記事を訳すことができた。
わたしたちのほとんどは,これらの人たちとは異なり,食物の供給が制限される状況で長時間働くことを余儀なくされてはいませんが,わたしたちも「聞いたことに普通以上の注意を」払うため,自由な時間を用いる面で同じような勤勉さを示しているでしょうか。
『離れ落ち』てはならない
14 クリスチャンとしての長い経験を持つ人にさえ,どんなことが生じ得ますか。
14 引き続き進歩することを勧めてから,ヘブライ人への手紙は,『一度かぎりの啓発を受けた』人々でも『離れ落ち』,場合によっては悔い改めができないところまで行ってしまうことがある,と警告しています。(ヘブライ 6:4-8)そうです,長いあいだ神に仕えてきたクリスチャンでも,たとえ「聖霊にあずかる者となった」油そそがれた者たちであったとしても,現在の体制内の誘惑物に引き寄せられてしまうことがあるのです。
15 ある人々は,性に関して,また商業活動に関してどのように離れ落ちてしまいましたか。
15 幾人かの人々は,肉の欲望や富に対する欲求のために離れ落ちてしまいました。(ヨハネ第一 2:16)もちろん,若い人々が婚前交渉に走ってしまうときに関係しているのは性欲です。しかし別の面も考えてみましょう。既婚者の中には自分の配偶者に飽きるようになり,配偶者よりも魅力的に見え,配偶者より楽しい会話ができてこの世で成功を収めている別の人に出会った人がいます。残念なことに,こうした事態は離婚と不道徳な再婚という結果を招きました。『離れ落ちて』物質の追求に陥り,明らかに不正直な商行為,あるいは政府の認可や税金に関する要求を無視した商行為に引き込まれてしまった人もいます。(マタイ 22:21)また,そのような人々は,兄弟たちを貪欲に利用するよう人々を駆り立てる投機的なマルチ商法のようなやり方や一獲千金を狙う計画を促進しました。(使徒 20:33; テサロニケ第二 3:10,11と比較してください。)これらの努力は,往々にして王国の関心事を圧倒してしまうだけでなく,詐欺の罪に問われることはないにしても,結果として厳しい感情と口論を生じさせることがありました。聖書の次の言葉はまさに真実なものとなりました。『富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわなに陥ります』― テモテ第一 6:9。
16 投獄された姉妹たちは,誘惑に抵抗する点でどのように立派な模範を残しましたか。
16 決して離れ落ちることがないほど自分が強いわけではないことを謙そんに認めるなら,わたしたちは誘惑と罪の最初の第一歩に屈してしまわないよう決意を固めるべきです。(ローマ 12:3。コリント第一 10:12)強制労働収容所の中にいた姉妹たちは,立派な模範をわたしたちに示しています。
彼女たちの一部は,商店や映画館や他の娯楽施設のある大都市に一人ずつ連れて行かれた。例えば,二人の秘密警察官が一人の姉妹を食物のたくさん陳列されている店に連れて行った。『好きな物を選んで構わない』と彼らはその姉妹に言った。その姉妹は,自分は何も必要ではないと答えた。幾年も食物を余り取っていない疲れ果てた人に新鮮なパンやパン菓子の棚を見せるというのは大変なことだ。デパートや劇場でも同様の誘惑が仕掛けられた。彼らはその姉妹を数週間にわたってそこへ連れ出し,信仰を捨てるなら自由を与えると約束したが,すべてむだに終わった。彼らが打ち砕くことができたのは一人の姉妹だけだった。数か月後,その元姉妹は太ってきた体を上等な洋服に包んで収容所にやって来た。そして以前の姉妹たちに2時間にわたり話をしたが,姉妹たちはその婦人にあいさつもしなかった。秘密警察は,これは非常に巧みな企てであるから他の姉妹たちも右にならえで自分の信仰を放棄すると考えたのであろう。結果は逆だった。
17 自分が直面している誘惑についてどのように考えるべきですか。
17 このような誘惑に直面したとき,自分も不動の態度を示せると思いますか。では,あなたが今直面している誘惑についてはどうでしょうか。パウロはこう書きました。「兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい。むしろ,『今日』ととなえられる限り日ごとに勧め合い,あなた方のだれも,人を欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい」。(ヘブライ 3:12,13)離れ落ちる,あるいは離れることを避けるために,「今日」努力を集中しなければなりません。
「今日」信仰を表わす
18 イスラエル人が神の休みに入れなかったのはなぜですか。
18 パウロは,詩編 95編7節から11節の引用句を根拠にして,「今日」について注解しました。(ヘブライ 3:7-11)その詩編の句が述べる通り,イスラエル人はモーセの時代に自らの心をかたくなにしました。イスラエル人は,約束の地に関するヨシュアとカレブの報告を聞いた後で信仰の欠如を表わしました。(民数記 13:17-14:38)ずっと続いていた神の休みの期間中の平和と祝福をそこで享受できたにもかかわらず,イスラエル人はかたくなな心と不信仰により,約束の地に入ってそこで生活することを拒みました。そのため神は,40年にわたって彼らを荒野でさまよわせました。―ヘブライ 3:17-19。
19 いつ,またどのように,わたしたちはエホバの休みに入ることができますか。
19 神の偉大な安息日,つまり休みの日は続いています。(創世記 1:31-2:3)「神の休みに入るという約束は残されている」とパウロは書きました。(ヘブライ 4:1,9)したがって,わたしたちクリスチャンは今その「休み」に入ることができ,その「休み」にとどまることができます。どのようにですか。古代のヨシュアにではなく,大いなるヨシュアであるわたしたちの指導者イエスに信仰を働かせることによります。加えて,新秩序が実際に訪れると本当に信じていない人々が示したような不信仰の業をやめる必要があります。彼らの生活は,レクリエーションや娯楽を中心にしています。彼らは地位や称号を得て,“ひとかどの人間”になりたいと願うかもしれません。あるいは,“人からよく思われる”人間になるという哲学を追求しているかもしれません。
20,21 (イ)わたしたちはどんな業を避ける必要がありますか。(ロ)投獄された姉妹たちが模範を示した通り,わたしたちはどんな良い業に参加すべきですか。
20 もしわたしたちが,イエスと,神の民の前途にある事柄とに信仰を抱いているなら,それを自分の行動によって示さなければなりません。パウロは,『神の休みに入った人は,その人も自分の業を休んでいる』と書きました。(ヘブライ 4:10)ですから,不信仰の業や,自分を正当化しようとする業の代わりに,わたしたちの信仰を反映する業を持たなければなりません。
21 クリスチャンとしての基本的な業は,エホバ神とそのみ子について語ることです。パウロはイエスについて,「この方についての告白を堅く守りましょう」と勧めました。(ヘブライ 4:14)当然ながら,このことはクリスチャンの集会で自分の希望を公に宣明する時に行なうことができ,またそうすべきです。(ヘブライ 10:23-25)しかしこの「公に宣明すること」には,外部の人にわたしたちの信仰と希望を告白することが含まれるはずです。確かにわたしたちは,『賛美の犠牲,すなわちそのみ名を公に宣明する唇の実』を神にささげる義務を感ずるべきです。(ヘブライ 13:15。コリント第一 9:16)前述の記事を書いた人は,一姉妹との会話についてこう述べています。
私は,当局があなた方すべてを刑務所に入れたのは,あなた方の信仰ゆえではなく,あなた方が他の人に伝道するからだと言った。あなた方が家で一人だけで座り,静かに祈るだけなら,だれにも知られないですむ。彼女はこう答えた。『それはそうですが,わたしたちに課せられた責務は他の人に語ることと,新しい兄弟姉妹を得ることです。自己中心的になって,千年統治期間中に地上で受ける自分の命だけのために準備をするようなことはできません。その時の生活がどのようなものかについて,すべての人々が知らなければならないのです』。
22 あなたは,ヘブライ人への手紙に基づいてどんな確信を抱いていますか。
22 お分かりのように,ヘブライ人への手紙のかぎとなるのは,わたしたちは『[神の]休みに入るために力を尽くし,だれも不従順に陥ることがないように』しなければならない,という点です。(ヘブライ 4:11)まさに今,その休みに入っていることからも,また地上で生きる人がみな神を崇拝する時に引き続きその休みに入っていられるという保証された希望からも,わたしたちは大きな満足を得ることができます。信仰と従順により,いま神の休みに入る人々をエホバが喜んで祝福し,守ってくださるということに疑問の余地はありません。エホバは,「ご自分を切に求める者に報いてくださる」方なのです。(ヘブライ 11:6)何かの疑問点があるとしたら,それはわたしたちに関するものです。しかし,わたしたちにもそうした疑問点は必要ありません。わたしたちの信仰と忍耐により,また神の助けにより,わたしたちは『自分の前に置かれた希望をとらえる』ことができるのです。―ヘブライ 6:18。
あなたは益を得ましたか
□ あなたはヘブライ人への手紙から,どんな際立った諭しや教訓を得ましたか
□ 投獄されたある姉妹たちの模範から,どのような益を得られますか
□ ヘブライ 2章1節は,流されることを避けるために何をするよう,わたしたちに勧めていますか
□ どうすれば,神の休みに入れますか
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家の中から「ものみの塔」誌が発見された多くのエホバの証人たちは,10年の懲役刑を言い渡された
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収容所内で最も厳しい境遇にあったのはエホバの証人たちだった。エホバの証人が4人以上集まると,すぐに解散を命じられた
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イスラエル人はヨシュアとカレブの報告を聞いたが,信仰の欠如を示した。そのため彼らは約束の地で神の休みに入ることはできなかった
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