「どんな時でも御霊によって祈りなさい」
「御霊の剣,すなわち,神の言を取りなさい。絶えず祈と願をし,どんな時でも御霊によって祈り……なさい」。―エペソ 6:17,18
1 祈りに関して,エホバの民はどの点で他の人々と異なっていますか。
エホバのしもべは,公の宣教において「御霊の剣」すなわち神のことばを巧みに使います。しかしそれで事足れりとすることはできません。「どんな時でも御霊によって祈」ることが必要です。このためエホバの証者は祈る民と言えるでしょう。エホバの真の崇拝に祈りをかかすことはできません。祈りによって,常に神と身近な関係を保つことができます。歴史のどの時期においても,真の崇拝者は祈りによってエホバに近づきました。形式に堕し,空しい言葉に陥っている背教の徒や異教徒の祈りとくらべるならば,真の崇拝者の祈りは全く異なっています。(マタイ 6:7)また真の崇拝者は祈禱書や数珠や祈禱車を使わず,心からあふれる言葉を祈りの中で語ります。
2 祈りに対するエホバの証者の見解また他の人々の見解を述べなさい。
2 不敬虔な人は,祈りを無駄なことだと言って笑います。そのような人に言わせれば祈りが神に届くと考えているのは,祈っている人の想像に過ぎません。自然宗教の一派に属する人々は,祈りがその人自身に感化を及ぼすという点にのみ,祈りの価値を認めています。つまり自分が願っていることを祈っているうちに,自分でそれを実現する力が出てくるという考えです。あるいはクリスチャンと自称する人の中に,長々とした公の祈りを口に唱えても,心は遠く神から離れている人があります。(マタイ 15:8)「―師は,ボストンの一教会で信者がかつて聞いたことのない美しい祈りをした」a と報じたボストンの一新聞の記事は,その例です。このような祈りは信者に聞かせるためのもので,天の神にささげるものではありません。祈りは人の称賛を得るために語ることばではありません。(マルコ 12:40)祈りは慎しみ深くささげるべきであり,くどくど述べることを避けるべきです。(マタイ 6:5,6)エホバの証者のように誠実なクリスチャンにとって,祈りは想像上のものではなく,欺きでもありません。祈りは実際に即したもの,働いて力を発揮するものです。しかしそのためには,み心がなるようにと祈る言葉に一致した生活をしなければなりません。次にあげる現代また昔のエホバの証者の経験に注目して下さい。その祈りは天の神に聞かれました。
献身とバプテスマのために
3,4 バプテスマのための祈りの例をあげなさい。
3 献身と水のバプテスマに関連して祈りは必要です。イエスもそのバプテスマに関して祈ることの必要を認めました。「さて,民衆がみなバプテスマを受けたとき,イエスもバプテスマを受けて祈っておられると,天が開けて……」と,書かれています。―ルカ 3:21。
4 1961年のこと,あるアメリカの婦人は1年間聖書を勉強した結果,水のバプテスマによって献身を象徴することを決意しました。婦人の夫は聖書に反対でした。この婦人は,何があってもエホバに忠実に仕えたいと祈っていました。そして誓を立てたからには,たとえ夫の反対にあっても専心の献身をすべきことを承知していました。そこで次の巡回大会においてバプテスマを受け,献身を象徴できるように祈っていたところ,家庭の事情が好転して大会に出席でき,バプテスマを受けました。バプテスマを受けながら,この婦人は感謝しました。たしかに祈りはかなえられ,献身の誓を全うするための霊的な力も増し加えられたのです。
食卓で感謝
5,6 食事の時の祈りはどんな結果を生みますか。例をあげなさい。
5 食卓で祈ることが,偽りの宗教のならわしから出たものとは言えません。それは正しいことであって,聖書にも多くの先例がしるされています。五つのパンと二つの魚を5000人にわけ与えたときにイエスの述べた祝福のことばは,一つの祈りです。(マルコ 6:41)この奇跡に対してイエスがエホバに感謝したのは当然であり,しかもこの祈りによって群衆の上にはエホバの平安が臨みました。
6 昨年そろってエホバに献身した5人家族があります。バプテスマを受けてから,父親は食事のたびに祈りをすることにしました。世界各地のエホバの証者のベテルの家では,この事が行なわれています。さて祈りをするようになって以来,エホバの恵みに対するこの家族の感謝の気持ちは深くなりました。それで食卓につくたびに,日毎の糧を備えて下さるというエホバのお約束の成就を思い,感謝することはごく自然になりました。(マタイ 6:11)各自が勝手に食物をつめ込むと,さっさと立ち去るといった以前の無秩序はなくなり,食事時は家族だんらんの時となって,食卓の作法も守られ,クリスチャンにふさわしい会話がかわされるようになりました。エホバの祝福と平安が家族の上に臨んだのです。このような祈りには大きな力があります。
罪は祈りの妨げとなる
7,8 (イ)「あなたがたの祈が妨げられないためである」と述べたペテロの言葉は,何を意味していますか。(ロ)現代の例をあげなさい。
7 西暦1世紀のことペテロは,妻に対する夫の正しい振舞いを述べ,「それは,あなたがたの祈が妨げられないためである」とつけ加えました。(ペテロ前 3:7)ペテロがここで強調している通り,人は神に祈るとき,神のみ前に正しい行いをしていなければなりません。すなわち道徳の面で清く,意識的な悪行から離れていなければなりません。罪を犯して神に受け入れられない状態にあれば,その人の祈りは妨げられます。つまり心のやましさのために正しく祈ることができず,エホバの聞く耳も得られません。そのため祈りはかなえられないでしょう。エホバはその願いに耳を傾けません。悪人の祈りが聞かれないのはそのためです。―詩 66:18,19。箴言 15:29。
8 エホバの証者の一会衆であったことです。会衆の集会において何時祈りを求められても,一人の人は罪の許しを求めることばを祈りませんでした。その祈りに妨げのあることが明らかになり,後にはこの人の行いが明るみに出ました。この人は妻がありながら,他の女と関係を持ち,不道徳な行いにふけっていたのです。祈りの妨げられたことから悪行が暴露され,この人は排斥されました。
罪を告白する祈り
9,10 (イ)告白する祈りはなぜ必要ですか。(ロ)このような祈りの,昔と今の例をあげなさい。
9 あやまちは人の常です。(詩 51:5)罪またあやまちを犯すならば,人が神および会衆の兄弟たちと持つ関係は悪くなります。罪を告白したダビデの祈りに注目して下さい。「斯くて我なんぢの御前にわが罪をあらはしわが不義をおほはざりき,我いへらくわが愆をエホバにいひあらはさんと,斯かるときしも汝わがつみの邪曲をゆるしたまへり」。(詩 32:5,文語。サムエル後 12:13,14)罪を告白し,エホバの許しを得たことによって,ダビデは清い良心をとりもどしました。ハルマゲドンを迎えようとしている今日,各人は増し加わる反対にくじけないために,清い良心を持たねばなりません。罪悪感に良心を責められている人は,できるだけ早くエホバと兄弟たちに告白するほうが良いでしょう。そうすれば頭をまっすぐに上げて歩くことができ,祈りの妨げられることはなくなります。―テモテ前 1:18,19。
10 3年前に一人の特別開拓者が月末に病気になりました。月の手当を得るには30時間不足でしたが,手当の必要に迫られて不正の報告を出しました。不足分を翌月に埋め合わせる考えでしたが,事態が良くならないため,それは不可能となりました。その人の伝道活動はエホバの祝福を失ったように見えました。それでエホバに祈って悪を言い表わすと共に,協会に手紙を書いて許しを乞い,つぐないを申し出たのです。協会では支払った手当をそのままとし,不足分を夏の休暇の間に埋め合わせるようにとの指示を与えました。罪を告白する祈りは良心に休みを与え,エホバとエホバの民に対してその人の持つ関係は正しいものとなりました。この祈りは働いたではありませんか。―ヘブル 13:18。
誘惑にあうとき
11,12 誘惑にあうとき祈るのはなぜですか。
11 誘惑に会うとき,祈ることは非常に大切です。「誘惑に陥らないように,目をさまして祈っていなさい」と,イエスは教えました。―マタイ 26:41。
12 アメリカ西部の建設会社に技師として勤めている一人のエホバの証者があります。この人はエホバの証者の会衆の監督でもあり,自分の第1の務めはキリスト教の宣教であって世俗の仕事は第2であることを認識していました。それはパウロが天幕造りを職としたのと同様です。(使行 18:1-4)この監督は世俗の仕事から十分の給料を得ていました。1週間に40時間職場で働いたあとは,宣教活動に専念できました。しかし昨年,会社から工場長の職をすすめられました。もちろん給料はあがる上に,役得もふえます。そのかわり責任も重くなって,今までの40時間働けばよいというわけにはいきません。時には徹夜も覚悟しなければならないでしょう。この人はエホバに祈りました。その結果,いかにも有利なこのすすめを断わる勇気が出たのです。今でもこの監督は比較的に自由な立場を守って,宣教に忙しく励んでいます。
病気の時の祈り
13,14 (イ)病気の時に祈るのは,なんのためですか。(ロ)現代の例をあげなさい。
13 だれでも長い間に一度や二度は病気になります。自分も病んだことのあるダビデは,病める者に対するエホバのはからいを次のように述べています,「エホバは彼がわづらひの床にあるをたすけ給はん,なんぢ彼が病めるときその衾襖をしきかへたまはん」。(詩 41:3,文語)エホバの民は信仰療法には頼りません。むしろその病気に対処する賢明な手だてを講じ得るように祈ります。また祈りによってエホバから慰めを得,からだの持つ治癒力によって健康をとりもどすまで忍耐する力を与えられます。
14 ある婦人の奉仕者は悪性腫瘍の手術を受けることになりましたが,輸血なしで手術することに同意する医師がいませんでした。導きを祈り求めながら,無血の手術をしてくれる外科医を全国的にさがし求めたところ,幸いにそのような医師が見つかり,手術は成功しました。この姉妹は健康をとりもどし,再び奉仕できるようになりました。どんな事があっても輸血を受けまいという決意と信仰を強めたのは祈りでした。また問題解決の道も見出されたのです。―コリント前 10:13。
霊的な病気のときの祈り
15,16 (イ)霊的に病む人のための祈りについて,ヤコブは何と述べていますか。(ロ)このようにするとき効果がありますか。
15 病気の中には,いわゆる霊的な病気があります。それは神に対する信仰が弱まっている状態です。この危険な状態に陥った時それを克服するには,祈りが肝要です。ヤコブはさとしています,「あなたがたの中に,病んでいる者があるか。その人は,教会の長老たちを招き,主〔エホバ〕の御名によって,オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈は,病んでいる人を救い,そして,主〔エホバ〕はその人を立ちあがらせて下さる」― ヤコブ 5:14,15。
16 何年か前のこと,エホバの奉仕者の油そそがれた者の一人が,霊的な病気になりました。二人の古い兄弟が求められて訪問したところ,この油そそがれた兄弟はすっかり確信を失い,3カ月間もエホバに祈っていないことがわかりました。これでは霊的な病気になるのも当然です。おとずれた奉仕者は神のことば聖書を用いてエホバのお目的に関する認識を,病める者の心によみがえらせました。神のことばは油のように痛みをやわらげます。霊的に立ちなおらせるため,病気の兄弟を訪問して共に祈ったことは効果をおさめました。ヤコブはこの点を次のように述べています。「義人の祈は,大いに力があり,効果のあるものである」― ヤコブ 5:16。
迫害のときの祈り
17,18 (イ)迫害の時の祈りはどんな力となりますか。(ロ)例をあげなさい。
17 イエスが迫害に会ったのと同じく,今日のエホバの証者もさまざまの迫害に会っています。(ヨハネ 15:20)神の奉仕者として忠実な立場を守るゆえに刑務所にいる人もあり,エホバの証者としての立場のゆえに自分の家あるいは自分をとりまく社会において苦しみに会う人もあります。このような迫害に耐えるために祈りが必要です。昔の預言者たち,さらにヨブも,祈りによって迫害を切り抜けました。「苦しみを耐え忍ぶことについては,主〔エホバ〕の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい……あなたがたは,ヨブの忍耐のことを聞いている……あなたがたの中に,苦しんでいる者があるか。その人は,祈るがよい」― ヤコブ 5:10,11,13。
18 1958年,エホバの証者のギレアデ宣教者で英国人のハロルド・キングは,神の御国の福音を伝道したために,中共の上海で5年の刑を宣告され,4年7カ月を刑務所で過して1963年5月に釈放されました。刑務所にいたあいだ祈りを常にしたことをキングは次のように書いています。「独房の前をだれが通ろうとそれにはおかまいなく,私は毎日3回祈りをした」。キング兄弟の祈りは効果がありました。刑務所につながれた年月無事に守られただけでなく,もっとも大切な霊的な面において無事だったからです。
正しい決定を下すための祈り
19,20 正しい決定を下すために,祈りはどんな働きをしますか。
19 老若を問わずだれにでも決定しなければならない問題があります。そして正しい決定を下すには知恵を働かさねばなりません。ここでもヤコブのさとしに注目して下さい。「あなたがたのうち,知恵に不足している者があれば,その人は,とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に願い求めるがよい。そうすれば,与えられるであろう。ただ,疑わないで,信仰をもって願い求めなさい」― ヤコブ 1:5,6。
20 まだ10台のエホバの奉仕者の次のような例がアメリカにあります。高校時代スポーツと学業に秀でたこの少年は,高校卒業間近にフットボールの奨学金で大学に進むことをすすめられ,スポーツ界の有名人さえも少年の家に来て奨学金を受けるようにすすめました。ここで重大な決定をしなければなりません。奨学金を受けて大学に進むか,全時間宣教をするか,少年の心は何日ものあいだ迷いました。そこでエホバに知恵を祈り求めました。毎日祈るかたわら放課後には伝道活動に参加しました。祈りによって強められたこの青年は開拓奉仕をすることに決め,奨学金をことわりました。それは正しい決定でした。
とりなしの祈り
21,22 (イ)とりなしの祈りとはどんな祈りですか。(ロ)昔と現代の例をあげなさい。
21 悩みにあい,捕えられ,あるいは法廷に立つ忠実な兄弟のためにとりなしの祈りをするのは正しい事であり,また必要なことです。2度目に捕えられてローマの法廷に立つ前に,パウロはテモテに次のことを書き送りました。「そこで,まず第一に勧める。すべての人のために,王たちと上に立っているすべての人々のために,願いと,祈と,とりなしと,感謝とをささげなさい。それはわたしたちが,安らかで静かな一生を,真に信心深くまた謹厳に過ごすためである」― テモテ前 2:1,2。
22 今日でも同じくエホバの証者の宣教が裁判事件となって上級裁判所の審議に付せられることがあります。カナダ,アメリカ,英国,南アフリカ,スイス,オーストラリア,フイリピンなどにその例があります。このような時その国のエホバの証者はエホバにとりなしの祈りをささげました。神から与えられた伝道のわざが支障なく進むように,み心ならば神が裁判官に知恵を与えてエホバの証者に有利な判決を下す導きを与えるようにと願う祈りです。このような祈りが答えられて,エホバの民は最高裁判所において多くの勝利を得ました。
励みを得るための祈り
23,24 励みを与えた祈りの例をあげなさい。
23 四方から圧迫の加わる現在,励みは私たちすべてに必要です。落胆させるような事態も起きます。ネヘミヤは,エルサレムに城壁の防備がないことを聞いたとき,悲しみ,そのことについて祈りました。「わたしはこれらの言葉を聞いた時,すわって泣き,数日のあいだ嘆き悲しみ,断食して天の神の前に祈って,言った」。(ネヘミヤ 1:4)ネヘミヤの祈りは功を奏し,ペルシャの王はネヘミヤをエルサレムに遣わして城壁の建設にあたらせました。
24 カルフォルニア州でのこと,ある父親と息子が真理を学んで献身しましたが,母親は関心を示しませんでした。そのうち母親は心臓病になり,長くもたないと医師から宣告されました。大そう悲しんだ父親と息子は,母親が信者になることを願ってエホバに助けを祈りました。すると間もなく,母親は聖書に関心を抱き,死ぬ前に真理を受け入れ,電話を使って証言しました。そして新しい秩序の下に生きる希望を抱いて死にました。父親と息子の心からの祈りは答えられたのです。二人はいまそろって全時間開拓奉仕者となっています。
危険にさらされた時の祈り
25,26 危険にさらされた時の祈りは,どのように答えられましたか。
25 大きな危険にさられた時にも,是非とも祈らなければなりません。大魚に呑み込まれたヨナはそんな状態にありました。ヨナは魚の中から祈っています。「ヨナ魚の腹の中よりその神エホバに祈りて……」。(ヨナ 2:1)祈りは答えられ,ヨナは救い出されました。
26 1963年4月8日,サウス・デコタ州で一人の証者は二人の娘と共にキリストの死を記念する会衆の集まりに出かけようとしていました。するとかねて反対していた夫が戸口に立ちふさがり,銃をつきつけて家から出すまいとしたのです。この絶望的な瞬間に彼女はエホバに祈りました。数分後に夫はしずまり,妻の願いを聞き入れて記念式に出席することを許しました。そののち夫はもっと寛容になり,聖書にも耳を傾けるようになりました。祈りは良い結果を生みました。
組織に関する問題
27,28 組織の事柄に関して祈ることはなぜ必要ですか。
27 イエスでさえも組織に関する問題に取り組むときに祈りました。12使徒を選ぶ前の日の晩,イエスは神のみ心を知るために祈りました。(ルカ 6:12,13)こうしてイエスは12使徒の任命を発表する前に,エホバのみ心をたしかめたのです。
28 必要の大きなところで奉仕することを申し出たあるエホバの証者の奉仕者は,カルフォルニア州の小さな町で会衆の監督とされました。巡回のしもべは,その会衆には何か問題があるが,問題のありかは不明であると,その奉仕者に告げました。新しい会衆のしもベは初めて集会に出席した時から冷たい空気を感じ,何かあることを知りました。そこで会衆内のこの問題について,たびたび祈りました。何週間かするうちに不品行の事実が明るみに出て,一人の姉妹が排斥され,二人に試験期間が課せられました。祈りが答えられて会衆は清められ,そのうえ次の年には家から家に伝道する奉仕者の人数も,40パーセントの増加を見ました。
いっそうの益と祝福
29-31 (イ)祈りの益と祝福をさらに述べなさい。(ロ)祈りをしたならば,そのあと何が必要ですか。
29 今日エホバの証者はいろいろな場合に,エホバの「祈の家」に近づいて助けを求めます。ここにとりあげたのは,その二,三の例に過ぎません。願いごとばかりでなく,愛と賛美と感謝の祈りも,香の煙のようにエホバに達しています。エホバは祈りを聞く神です。祈りによってエホバを崇拝するならば,他にもどんな益がありますか。祈りによって人はエホバに近く引き寄せられます。(ヤコブ 4:8)こうして人は生命の源である父なる神と親しく交わることを得ます。祈りは心を清く保ち,心を強くします。人が天の偉大な友にかくすことは,一つもありません。開かれた心と清い良心をもって,神との交わりを保つことができます。
30 エホバの平安は,祈りをする人の上に留まります。この平安がなければ,本当の意味での成功は得られません。祈りによってエホバのうしろだてを確信できます。祈ることは,エホバのみ霊を更にそそがれる結果となります。いかに腕力が強く,また頭脳がすぐれていても,ハルマゲドンの時の安全は保証されません。勝利を得るのは,エホバのみ霊に導かれる人です。(ゼカリヤ 4:6)真実の勇気は祈りによって得られます。祈るとき楽観的な見方をすることができます。祈りは,エホバに対する献身の絆をしっかりと保つ手段です。神は献身したしもべの日毎の祈りに耳を傾けています。そしてみ心とみことばにかなう祈りに答えます。
31 大切なのは,「主よ,主よ」と言って多くの言葉を語ることではありません。(マタイ 7:21-23)大切なのは,神のみ心を行なう積極的な行動によって,祈りを行いに表わすことです。献身したしもべである私たちは,油をそそがれた残れる者も「他の羊」も,老いも若きも男も女も,「どんな時でも御霊によって祈り」をしなければなりません。祈りの民である私たちは,「祈の家」に来てエホバ神を崇拝することを喜びとしています。その喜びに限りはありません。
[脚注]
a 1916年ワッチタワー,20頁,9節。