「行ないから分離した信仰は死体と同じように命がない」
「わたしの兄弟たち,ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それはなんの益になるでしょうか。その信仰はその人を救うことができないではありませんか」― ヤコブ 2:14。
1 信仰を定義しなさい。その定義が伝える概念にはどのようなものがありますか。
信仰と言えば,神に対する人の信念について考えるのが普通です。使徒パウロはヘブライ人のクリスチャンに信仰について説明してこう述べました。「信仰とは,望んでいる事がらに対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」。(ヘブライ 11:1)保証された期待とは,裏付けのある期待です。これは,その期待はまちがいではないと請け合われており,それは将来かならず実現する,という考えを表わしています。信仰は望んでいる事がらに対する権利証書に似ている,と述べる人もいます。信仰には,約束に対する忠実とか,任務に対する忠誠ということも関係しています。エホバ神とみ子キリスト・イエスに対して信仰を持つ人は,物事に対するエホバの道に全面的に従って行動し,それを他の人にも唱道して,忠節さを示したいと思うものです。―詩 145:10,11。
2,3 (イ)真のクリスチャン信仰を成すものはなんですか。(ロ)イエスの弟子たちはその真の信仰をどの程度まで広めましたか。(ハ)その真の信仰を広めるうえで使徒パウロはどんな役割を果たしましたか。
2 イエス・キリストが弟子たちに教えた事がら,また,これまで幾世紀ものあいだ神のことばを通してすべてのクリスチャンに伝えられてきた事がらが,真のクリスチャン信仰を成しています。(エフェソス 1:15-17; 4:5)キリスト教の初期の時代,イエスの弟子たちはイエスから教えられた事がらを話しましたが,多くの人はそれを信じ,キリスト・イエスとその教えに信仰を持つようになりました。弟子たちは,この,宣べ伝えて教える仕事を常に優先させました。「その結果,神のことばは盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。そして,非常に大ぜいの祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった」。(使徒 6:7)弟子たちの宣べ伝えたこの良いたよりは確かに広まり,その良いたよりに対する彼らの信仰は広く知られるようになりました。そのため,ローマの人たちに手紙を書いたパウロは,真実をこめて次のように述べることができました。「まず初めに,わたしは,あなたがたすべてに関し,イエス・キリストを通してわたしの神に感謝をささげます。それは,あなたがたの信仰のことが世界じゅうで語られているからです」― ローマ 1:8。
3 パウロはほんとうの意味で福音宣明者,良いたよりをふれ告げる者でした。彼はイエス・キリストについて学びました。そのイエスは,苦しみの杭の上での死を通して,世の罪を除き去る道を備えたのです。そしてパウロは,イエスが死から復活したことについても学びました。こうした事がらの意義を深く認識したパウロは,すべての人がこうした点について知るべきだと感じました。こうして彼は幾千幾万キロもの旅をし,多くのところを徒歩で回り,宣べ伝えて教える業に携わりました。彼は宣教者がするように新しい区域を開き,多くの国の多くの人々に,信仰の基となる音信をもたらしました。
「わたしたちのふれ告げる信仰のことば」
4 パウロがふれ告げた「信仰のことば」とはなんですか。彼はそれをふれ告げることにどのようにあずかりましたか。
4 パウロは,ローマの人々に書き送った次のことばを他の人々にも語りました。「『そのことばはあなたに近い。それはあなたのくちびるにあり,あなたの心の中にある』。すなわち,わたしたちのふれ告げる信仰のことばのことです。もしあなたのくちびるに,『イエスは主である』という告白があり,あなたの心に,神が彼を死人の中からよみがえらせたという信仰があるなら,あなたは救いを見いだすことになります。義に導く信仰は心の中にあり,救いに導く告白はくちびるにあるからです」。(ローマ 10:8-10,新英語聖書)パウロは,会堂・川の土手・学校・獄・個人の家などで,ユダヤ人もギリシャ人も含めあらゆる人に,そしてさまざまな数の人に話しかけました。こうしてパウロが語りかけることによって,その「ことば」は人々の近くにもたらされました。それはきわめて身近にもたらされたのであり,人々はそれを自分の口で復唱し,自分の心の中に奉ずることができました。ほんとうにそれを信じ,心の中でそうした信仰を働かせた人々もいます。
5 信仰の表明によって神のみまえで義なる立場を得るために,それはだれに対する信仰をも含まねばなりませんか。
5 「義に導く信仰」に関してパウロはローマの人々にこう書きました。「では,わたしたちはなんと言えばよいでしょうか。諸国の者たちは,義を追い求めていなかったにもかかわらず,義に,すなわち信仰の結果である義に追いつき,一方イスラエルは,義の律法を追い求めていたにもかかわらず,律法に達しなかったのです」。(ローマ 9:30,31)パウロの福音宣明活動によって大ぜいの異邦人が義に追いつくようになったことは明らかです。ほかの弟子たちも,多くの都市で行なった教える業を通して,幾千人もの異邦人をキリスト・イエスに関する知識に至らせ,それらの人々もまた,義,すなわち,神のみ子に対する信仰の結果としての義に追いつきました。一方ユダヤ人は,モーセの律法を守ろうと多大の努力を払っていながら,パウロの述べる事がらを聞いても,義に達することができませんでした。「どんな理由のためですか。彼(ら)がそれを,信仰によらず,業によるかのように追い求めたからです。彼らは『つまずきの石』につまずいたのです。『見よ,わたしはシオンに,つまずきの石と,とがのもととなる岩塊とを置く。だが,それに信仰をおく者は失望に至ることがない』と書かれているとおりです」― ローマ 9:32,33。
6 (イ)ユダヤ人は一つの国民としてはイエスを退け,イエスがメシアであることを認めませんでしたが,これはなぜでしたか。そのため,「イエスは主である」という音信はだれに対してふれ告げられましたか。(ロ)パウロの語った「信仰のことば」は何に基づいていましたか。
6 ユダヤ人に与えられた律法は,彼らをキリストに導く養育係となるべきものでした。それは彼らをメシアのもとに導き,メシアが到来した時に彼らがそれをはっきりと認め,自分たちの教導者また主として受け入れるように彼らを助けるためのものでした。(ガラテア 3:24)しかし,ユダヤ人の多くは信仰に欠け,神の義の律法がそのもとに至らせようとしていた者すなわち神のみ子に関してつまずきました。そのために,「ことば」,すなわち「イエスは主である」という音信は,ユダヤ人だけでなく,異邦人に対しても,すなわちすべての国の人々に対してふれ告げられるようになっていました。この,神からの「ことば」は,どこにいる人にも容易に近づけるところに置かれました。ローマ人に対するパウロの手紙は,「そのことばはあなたに近い。それはあなたのくちびるにあり,あなたの心の中にある」と述べています。しかし,個々の人はそれについて何を行なうでしょうか。もしその「ことば」がほんとうに心の中に入るなら,その人は信じるはずです。その人はイエス・キリストに信仰を持ち,イエスが主,また,神がご自分の壮大な目的を遂行するためのその経路となるかたであることを認めるでしょう。(コリント第二 1:20)そのような信仰を持つためには知識を持たねばなりません。まず第一に,神についての知識,そして,神が何を言われ,何を行なわれたかに関する知識です。なぜなら,キリストを通して与えられた救いのための備えは,神にその源を置くからです。神がイエスを死からよみがえらせたのです。パウロが人々,とりわけ,当時のローマの人々に納得させようとしていたのはこの点です。パウロの時代には,神に献身していると唱えている人々にさえ,こうした基本的な真理の意義をときに強調することが必要でした。パウロは「信仰のことば」をふれ告げていました。その信仰は何に基づいていましたか。パウロがはっきり銘記していた二つの点がありました。それは,1,900年後のわたしたちも銘記すべき点です。クリスチャンとなるために,人は「信仰のことば」を聞き,(1)神の子イエスが主であり,その犠牲の死によって人類を買い取ったこと,そのゆえにイエスはクリスチャンすべてが自分の所有者として認めるべきかたであることを堅く信じなければなりません。そしてまた,(2)エホバ神がイエスを死からよみがえらせたことを堅く信じなければなりません。これらは,救いを見いだすため,つまり,永遠の命を見いだすために肝要な点ですから,当然あなたはこれら二つのことに関する証拠を求められるでしょう。―コリント第二 5:14,15。
7 強固な信仰のゆえに,イエスの弟子たちはイエスについてどんなことを認めましたか。しかし,パリサイ人たちはどのように応じましたか。
7 1,900年前キリスト・イエスとともに歩んだ弟子たちは,真の意味でこの神のみ子と歩みを共にしたゆえに,強固な信仰を得るすばらしい機会に恵まれました。彼らは,人間として地上にいたイエスが話すのを聞き,また復活後のイエスが話すのも聞きました。イエスがご自分の追随者たちに,「あなたがたは,わたしのことをだれであると言いますか」と尋ねた時,彼らは,イエスはメシア,神の子であると,確信をこめて答えることができました。(マタイ 16:15,16)しかし,この点で信仰の欠けたパリサイ人たちは,イエスにもはやなんの答えもできないような立場に立たされました。マタイ 22章41-46節にこう記録されています。「さて,パリサイ人がともに集まっていた間に,イエスは彼らにこうお尋ねになった。『あなたがたはキリストについてどう考えますか。彼はだれの子ですか』。彼らは,『ダビデのです』と言った。イエスは彼らに言われた,『では,どうしてダビデは,霊感によって彼を「主」と呼び,「エホバはわたしの主に,『わたしがあなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで,わたしの右に座っていなさい』と言われた」と言っているのですか。それで,ダビデが彼を「主」と呼んでいるのであれば,どうして彼の子でしょうか』。すると,だれも,一言も彼に答えられなかった」。
8,9 (イ)クリスチャンは自分の信仰を示すために,イエスについてどんなことを告白しなければなりませんか。それをほんとうに信じていることをどのように実証すべきですか。(ロ)ついで,自分の信仰を示すためにさらにどんな段階に進むことが必要ですか。
8 しかし,ペテロは,ペンテコステの日に,この「主」がだれであるかを明らかにし,そのかたが神の右にいることをはっきり述べました。彼はこう語りました。「ですから,イスラエルの全家は,神が彼を,あなたがたが杭につけたこのイエスを,主ともキリストともされたことをはっきりと知りなさい」。(使徒 2:36)使徒や初期のクリスチャンたちがしたと同じように,今日のクリスチャンたちも,イエスは主であると,自分の口で告白します。しかし,真のクリスチャンであるなら,これは単にことばで言い表わす以上の形を取ります。彼らは,イエスの父の意志を,イエスが弟子たちに教えたとおりに行なうことによって,自分がキリストを主と認めてそれに服していることを実証するのです。(マタイ 7:21。ヨハネ 15:8)クリスチャンはさらにほかのことをも信じなければなりません。それは,イエスは神によって死から復活させられたという点です。ペテロはペンテコステの日にこの点を確証してこう述べました。「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちはみなその事の証人です」。(使徒 2:32)さて,あなたは,パウロとペテロの双方が述べたこの二つの基本的な事実,すなわち,「イエスは主である」ということ,そして,「このイエスを神は[死から]復活させた」ということを信じますか。もし信じるなら,あなたがそれについて行なわねばならないことがあります。すなわち,自分の信仰を口で告白しなければならないのです。そうした心からの告白をする人はバプテスマを受けるべきです。使徒ペテロは,西暦33年のペンテコステの日に自分の話を聞いていた人々にそのことを勧めました。「その結果,彼のことばを心から受け入れた者たちはバプテスマを受け,その日におよそ三千の魂が加えられた」― 使徒 2:40,41。
9 考えてください。ペテロが語りかけた人々の中から三千人もの人がバプテスマを受けたのです。彼らは会衆の成員として加えられ,引き続き使徒たちの教えを聞くことに専念し,自らも良いたよりを他の人に宣べ伝える業に加わりました。―マタイ 28:19,20。使徒 8:1,4。
10 (イ)ローマ会衆を鼓舞して熱心な活動を促そうとした使徒パウロはそのことをどのように行ないましたか。(ロ)彼らは自分の信仰を証明するために何を行ない,今日のクリスチャンたちのためにどんな手本を示すはずですか。
10 その何年ものちの西暦56年ごろ,使徒パウロはローマのクリスチャン会衆に手紙を書いていました。その会衆は,西暦33年のペンテコステの日にローマからエルサレムに来ていたユダヤ人もしくはユダヤ教への改宗者によって設立されたものであったかもしれません。そうした人々が,その時注ぎ出された聖霊の奇跡的な働きを目撃していたと考えられるのです。(使徒 2:1-5,10)さて,その時以来23年が経過していました。その間に,パウロは諸国民への使徒となっていました。そして,ローマにあった会衆に関心をいだいていたために,ローマ会衆の人々をいっそうの活動へと鼓舞しようとしていました。それは,王国のこの良いたよりがそれまでにもまして広く宣べ伝えられるためでした。彼らがバプテスマに先だって信仰を告白した事がらについては,バプテスマののちにも公に宣言されねばなりませんでした。他の人たちもそれを信じるためです。パウロはこう書きました。「もしあなたのくちびるに,『イエスは主である』という告白があり,あなたの心に,神が彼を死人の中からよみがえらせたという信仰があるなら,あなたは救いを見いだすことになります」。(ローマ 10:9,新英)もしこの点をほんとうに信じるなら,彼らはそれを他の人に宣べ伝えることに熱心になるはずです。彼らは,自分の口にある事がらによって,つまり,イエスは真に主であると自分の信じている事がらを他の人々に言い表わすことによって,自分の信仰を実証しなければなりませんでした。彼らは,イエスがただ神に次ぐ高い地位に上げられ,そのゆえに,「すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰」さねばならないと信じていることを,自分の行動で実証しなければなりませんでした。(フィリピ 2:9-11)わたしたちもまた,自分がそうした信仰をいだいているという証拠を提出しなければなりません。もちろん,こうした点を信じるために,クリスチャンはみな,イエス・キリストが死からよみがえったこと,そして,天のエホバ神がみ子のためにそれを行なわれたという点をも信じなければなりません。パウロはその手紙の中で,自分がその点を確信していることを示し,自分の手紙を読むすべての人に,イエスは主であり,神が彼を死からよみがえらせたという情報を告げ知らせるべきことを納得させようとしています。そうすることによって,各人は救いを見いだすことになります。もとより,救われた人は勝利者です。その人は世に打ち勝ちます。その人は永遠の命を得るのです。
11,12 ローマ 10章10節は,真の信仰が深く根ざしたものでなければならないことをどのように示していますか。
11 パウロは信仰の必要を強調しています。それは,これら二つの点,つまり,イエスは主であり,復活したという点だけでなく,当然のことながら,イエスの教えたすべての事がらに対する信仰です。そうした信仰は深く根ざしたものでなければならず,皮相的なもの,ただ表面だけのものであってはなりません。「義に導く信仰は心の中にあり,救いに導く告白はくちびるにあるからです」― ローマ 10:10,新英。
12 今日,エホバのクリスチャン証人は全世界にわたってこの告白を行なっています。そして,幾百の異なった言語を話すあらゆる国の人々が神のことばの真理を学んでいます。クリスチャンは行ないによって自分の信仰を実証しなければなりません。
行ないの伴わないことばになんの益があるか
13 イエスの異父兄弟ヤコブは,初めはイエスの弟子ではありませんでしたが,やがてどんな信仰の道を取るようになりましたか。
13 イエスの異父兄弟であった弟子ヤコブは自分の兄弟の活動に通じていたはずですが,イエスの地上宣教の期間にイエスの弟子になったという形跡はありません。ヤコブは,イエスについて,「彼は気が狂ってしまった」と述べたイエスの親族のひとりであったかもしれません。(マルコ 3:21)しかし,復活後のイエスを見たのはこのヤコブであったと十分に考えられます。コリントの人々にあてて,「そののち彼は一度に五百人以上の兄弟に現われました。……そののち彼はヤコブに,ついですべての使徒たちに現われました」と書いたパウロは,このヤコブのことを述べていたものと思われます。(コリント第一 15:6,7)したがって,このヤコブは,イエスの死後そして西暦33年のペンテコステの前に,イエスの母や使徒たちとともに祈りのためにエルサレムの階上の間に集まっていた人々の中にいたことでしょう。(使徒 1:13,14)彼はイエスが主であることを信じる者となりました。また,イエスが死からよみがえったことも知っていました。ヤコブはのちに,キリスト・イエスの追随者として顕著な者となり,幾年かのち,長老たちがエルサレムに会合してすべての会衆のための決定をしたさいには,その決定にあずかる者となりました。―使徒 15:6,13。
14 (イ)ヤコブは信仰と良い業との相互関係をどのように示しましたか。(ロ)イエスは今,それぞれ命か死の前途を持つ者として人々を分けていますが,その分ける業の基準を示すものとして,イエスのどんなことばがありますか。
14 ヤコブは自分のクリスチャン兄弟たちにあてて幾つかのきわめて強力な事がらを書き,この信仰に関する事がらを論じました。彼はそれに対してパウロと同じような見方をしました。ヤコブはその点をこう言い表わしました。「わたしの兄弟たち,信仰があると言いながら,それを示す事がらを何も行なわないのであれば,なんの役にたつでしょうか」。(ヤコブ 2:14,新英)信仰を裏付ける業がないのであれば,人は自分の信仰について何も誇ることができません。実際のところ,信仰があるというその主張は見せかけにすぎません。信仰にふさわしい業というこの大切な点を例えで説明するために,ヤコブは会衆に対して一つのことを問いかけます。「兄弟か姉妹が裸の状態でいて,その日の食物にも事欠くのに,あなたがたのうちのだれかが,『安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい』と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それはなんの益になりますか」。(ヤコブ 2:15,16)ことばで言い表わした願いがほんとうのものであることをはっきり示すために,実際の行ないが必要です。ここでわたしたちはイエスの言われた事がらを思い出します。「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼とともに到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座にすわります。……彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう。それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい。……わたしがよそからの者として来ると,あなたがたは暖かく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。……これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとりにしたのは,それだけわたしに対してしたのです』」― マタイ 25:31-40。
15,16 (イ)マタイ 25章36節にある「裸」ということばについてどんな説明がありますか。(ロ)人はイエスの「兄弟たち」に対して,事実上,「ただお幸せに」と言うだけでなく,良い業を実際に示すためにどうしたらよいですか。
15 助けの必要な者となるために,文字どおり裸にならなければならないという意味ではありません。新世界訳聖書(英文)のマタイ 25章36節に関する脚注はこう述べています。「あるいは,『着る物を十分にまとっていない』。この表現の原語は,普通の用法では,『軽くまとった; 下着だけの』という意味であった。したがって,十分に着ていないという意味であり,必ずしもまるはだかであるという意味ではない」。しかし,その人が裸であるにしても,あるいは十分にまとっていないという場合であるにしても,『よそから来た人』がそうした状態でいるのを見る人は,ただ単に,「安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけであってはなりません。もちろん,わたしたちはイエスに対して直接こうした助けを差し伸べることはできませんが,イエスの「兄弟たち」,つまり霊でもって油そそがれたクリスチャンのうち今日なお地上に残っている人々に対してはそのようにすることができます。あなたは,それらの人々の必要を見て,またそれらがキリストに属する人々であることを知って,そうした助けを差し伸べていますか。―マタイ 10:41,42。
16 ヤコブは,行為による裏付けのないことばはなんの価値もないという点を指摘しています。『暖かくしていなさい』ということばだけではクリスチャン兄弟や姉妹を益することにはなりません。別の翻訳はヤコブのことばをこう訳出しています。「兄弟か姉妹がぼろをまとい,その日の食物も十分に持っていないような場合,あなたがたのだれかが,『お幸せに。暖かくして,食べる物をたくさんに持ちなさい』と言いながら,その肉体の必要を満たすことを何も行なわないのであれば,それになんの益があるでしょうか」。(新英)人が暖かくしているようにと願うのであれば,クリスチャンにとっては,ただ「お幸せに」と言って肉体の必要を満たすことを何も行なわないでいるのではなく,その人が実際に暖かでいられるように多少の行動をし,何かを与えることが必要でしょう。同じように,信仰にも行ないが伴わねばならないのです。信仰は行動によって裏付けられねばなりません。
あなたの信仰は生きたものですか,それとも死んだものですか
17 ヤコブ 2章18節の要点はなんですか。
17 ヤコブはさらにこう述べます。「信仰についても同じです。それが行動に至らないなら,それ自体としては命のないものです」。(ヤコブ 2:17,新英)これは真実です。次にヤコブは想像上の人物を引き合いに出してこう述べます。「しかしながら,ある人はこう言うことでしょう。『あなたには信仰があり,わたしには業があります。業を別にしたあなたの信仰をわたしに見せてください。そうすれば,わたしも自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう』」。(ヤコブ 2:18)ここで論じているのは,モーセの律法に従う業とイエス・キリストに対する信仰のいずれが救いに至るか,という点ではありません。そうではなく,生きた現実の信仰と,死んだ命のない信仰とを対照させているのです。別の翻訳はこの部分を次のように表現しています。「しかし,ある人は異議を唱えて言うでしょう,『ここに,信仰があると唱える者と,自分の行ないを指摘する者とがいます』。それに対してわたしは答えます,『あなたの言うその信仰が行ないが伴っていないのに現実のものであるということを証明してください。そうすれば,わたしの行ないによって,わたしは自分の信仰をあなたに証明します』」― 新英。
18,19 (イ)神やキリストを信じると言いながら真の信仰を持っていない人が多いことはどんなことに示されていますか。(ロ)神への信仰を唱えながら活動的な信仰を有していない人々に対してヤコブはなんと述べましたか。
18 したがって,人の脳裏に次のことが問われます。クリスチャンはなんの業を行なわなくても自分の信仰を証明できるだろうか。あるいは,心と思いと魂と力を用いて,自分の信仰が生きた産出的な信仰であり,死んだものではないことを他の人に実証し,こうして自分の信仰を証明しなければならないだろうか。ヤコブは,業もしくは活動がその人の信仰の証明になることを示しています。今日の世界には,神を信じると唱える人が大ぜいいます。しかし,『その神とはだれですか。神は何を行なわれましたか。今何を行なっておられますか』と尋ねると,それで会話は終わってしまいます。そうした人々は神に対する真の信仰を持っていません。神をよく知らないからです。彼らは,「望んでいる事がらに対する保証された期待」を持っていません。また,「見えない実体についての明白な論証」に通じていません。(ヘブライ 11:1)『わたしはイエス・キリストを信じている』と言う人もいます。しかし,『イエス・キリストは今何を行なっていますか』と尋ねると,それについては少しも知りません。そうした人たちは,イエスはかつて死んだ,と言います。彼らは,イエスが復活を受けた主であり,いま天に生きておられ,以前に勝る力を託され王として統治しており,この邪悪な事物の体制をまもなく終わらせ,クリスチャンたちが教えられた祈り,つまり,『御国のきたらんことを。みこころの天のごとく,地にも行なはれんことを』という祈りのことばを全面的に実現する備えをしておられることを信じていません。(マタイ 6:10,文)そうした人たちは,あなたの信仰はいったいどういうことなのかと問われると,全く場を失ってしまいます。彼らは自分の信仰を聖書的な証拠によって裏付けることができません。なんの希望もいだいていません。実際のところ,彼らは,イエスが主であり,エホバ神が彼を死からよみがえらせたこと,また,イエスが神の王国の王とされ,全人類の祝福のために天の王座につけられていることを信じていません。あなたは信じていますか。
19 明らかにヤコブは,第一世紀にあって神の会衆に所属すると唱えた人々との討論を通じて,生きた活動的な信仰,人を動かして自分のクリスチャン兄弟に対する純粋な愛を発揮させ,イエス・キリストの新たな弟子を生み出す業に加わらせるほどの信仰を持っていない人々がいることを知りました。それでヤコブはこう述べました。「あなたは,ただひとりの神がおられることを信じているというのですね。なるほどそれはりっぱです。ですが,悪霊たちも信じておののいているのです」。(ヤコブ 2:19)なぜヤコブはこのように述べたのですか。
20,21 なぜ,悪霊たちも神を信じていると言えますか。洪水のさい彼らはどうなりましたか。なぜ?
20 彼は,悪霊たちが神の存在を信じていることを指摘しています。実際,彼らはそのことをよく知っているはずです。こう記されているからです。『人地のおもてにふえはじまりて 女の子これに生まるるに及べる時 神の子たち人の娘の美しきを見てその好むところの者を取りて妻となせり』。(創世 6:1,2)これら「神の子たち」は霊の被造物でしたが肉の体を着けました。『神の子たち人のむすめのところに入りて子どもを生ましめたりしが それらも勇士[強大な者,新]にしていにしへの名声ある人なりき』。その邪悪さのゆえに,これら堕落したみ使いたちは地をはなはだしく荒らし,彼らの合の子の子孫である「強大な者たち」は,当時の地を満たした「暴虐」と大きな関係があったに違いありません。結果として,神は,洪水によって人類を滅ぼすこと,ノアとその妻およびノアの三人の息子とその妻たちだけを生き永らえさせることを語られました。―創世 6:4-7,11-13。
21 洪水の水が落ちてきた時,それら肉の体を着けたみ使いたちはどうなりましたか。彼らは霊の領域に戻ることを余儀なくされましたが,彼らの捨てた割当ての立場に戻ることはできませんでした。ユダはこう述べます。「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居どころを捨てた使いたちを,大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密なやみのもとに留め置いておられます」。(ユダ 6)ユダはこれらの使いたちをさして悪霊と呼んでいます。これら悪霊たちも,ただひとりの神がおられること,神が存在されることを信じていましたが,彼らは神の業を行ないませんでした。
22,23 どんな証拠から,悪霊たちもキリスト・イエスを知り,彼の力を認めていたと言えますか。
22 彼らは神の子キリスト・イエスについても知っていましたが,イエスの業を行ないませんでした。ガダラ人の地にいた時,イエスは,悪霊につかれたふたりの男が記念の墓の間から出て来るのに出会いました。これらの男はことのほか狂暴であったので,だれもその道路を行ってそばを通る勇気がありませんでした。それらの悪霊はイエス・キリストがどういう者であるかを知っていました。「彼らは絶叫してこう言った。『神の子よ,わたしたちはあなたとなんのかかわりがあるのですか。わたしたちを責め苦にあわせようとして,定められた時の前にここに来たのですか』」。記述されているところによると,イエスはそれらの悪霊をその男たちから追い出し,その後悪霊たちは豚の群れの中に入りました。―マタイ 8:28-32。
23 神がおられ,イエスが神の子であることを,これらの悪霊たちも信じていたことは疑いありません。そして,彼らはそれが自分たちに意味するものについて考えておののいたのです。ペテロはこう述べています。『神は,罪を犯したみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密なやみの穴に引き渡された』― ペテロ第二 2:4。
24 それで,神の存在を信じるだけでは足りないことを述べなさい。
24 これら神の子たちが悪霊となったのは神のご意志を行なわなかったためです。その点はきわめて明らかです。彼らは逆らったのです。確かに彼らは,神のおられることを知っていました。そしてヤコブは,クリスチャン会衆内の人々に語りかけて,「あなたは,ただひとりの神がおられることを信じているというのですね。なるほどそれはりっぱです」と述べています。しかし,信じている事がらがそこでとどまっているならば,その人々は悪霊よりそれほど勝っていないことになりました。悪霊たちは神に敵対していながら,なお信じているのです。彼らはエホバが宇宙で保持しておられる立場を知っていますが,それでもエホバのご意志に従いません。同じように,今日地上にいる幾百幾千万の人々も神のおられることを信じており,信仰を持っていると唱えますが,その人々の業はどこにあるのですか。その人々の信仰は死んだ信仰です。
生きた信仰の証拠
25 (イ)わたしたちひとりひとりはどんな問いに答えねばなりませんか。(ロ)ヤコブはアブラハムの信仰についてなんと述べていますか。
25 こうしてヤコブは,自分のことばを聞く人々の前に問題をまともに提出します。「言いのがれようとする人たち,行ないから分離した信仰が不妊であることがわからないのですか」。(ヤコブ 2:20,新英)不妊の婦人は子を産みません。生み出すものを持ちません。あなたの信仰はあなたのために何をしますか。それは業を持っていますか。それは何かを生み出しますか。あなたは,信じていると口で語る事がらに一致した生活をしていますか。あなたの信仰はあなたを助けて,キリスト・イエスの弟子を作るように動かしますか。あなたは王国に関する事がらを増大させていますか。ヤコブは自分の論点を強調するために一つの例を挙げ,アブラハムについてこう語ります。「わたしたちの父アブラハムが義とされたのは,息子イサクを祭壇の上にささげたその行動によるのではありませんでしたか。あなたがたは,信仰が彼の行動のうちに働いていたこと,そして,こうした行動によって彼の信仰の健全さが十分に証明されたということがわかるはずです。ここに次の聖書のことばが全うされています。『アブラハムは神に信仰を置いた。その信仰は彼に対して義とみなされた』。また,ほかのところで,彼は『神の友』と呼ばれています。こうしてあなたがたは,人が義とされるのは行ないによるのであり,信仰それ自体によるのでないことがわかります」。(ヤコブ 2:21-24,新英)あなたは,アブラハムのような信仰,人を動かして,命そのものよりも神のご意志を行なうことを優先させるような信仰を持っていますか。
26 (イ)パウロの述べるとおり,アブラハムとサラは神の約束に対する信仰をどのように示しましたか。(ロ)今,わたしたちひとりひとりにどんなことが問われますか。
26 パウロは,信仰に関する手紙の中で,「信仰とは,望んでいる事がらに対する保証された期待であ(る)」と述べました。彼もアブラハムについて書き,アブラハムを生きた信仰の手本としています。彼はこう語ります。「信仰によって,アブラハムは,召された時それに従い,自分が相続財産として受けるはずの場所へ出て行きました。しかも,自分がどこへ行くのかを知らないのに出て行ったのです。信仰によって,彼は,異国にいるごとく,約束の地に外国人として居留し,自分とともにその同じ約束の相続人であるイサクやヤコブとともに天幕に住みました。彼は真の土台を持つ都市を待ち望んでいたのです。その都市の建設者また作り主は神です。信仰によって,サラも,年齢の限界を過ぎていたのに,胤を宿す力を受けました。約束してくださったかたを忠実なかたとみなしたからです。そのゆえにも,ひとりの人から,しかも死んだも同然の者から,数の多い点で天の星のような,また海辺の砂のような,数えきれないほどの子どもが生まれたのです」。(ヘブライ 11:8-12)わたしたちは,アブラハムが自分に対してなされた約束の実現を見ずに死んだことを知っています。しかし,彼は確かに信仰を持ち,望んでいる事がらに対する保証された期待をいだいていました。そして,その全生涯を通じて,自分に対する神の祝福の証拠を得ていました。『神がその建設者また作り主である都市』に対するアブラハムの信仰は彼を動かし,神のご意志を行なうために物質上の便宜をあとにさせました。あなたの業も,物質上の所有物よりも神の王国のほうが自分にとって大切であることを同じように示していますか。―ルカ 12:29-31。
27 ノアは活動的な信仰を持っていることをどのように示しましたか。
27 もうひとりの人がいます。その人は,全地球的な洪水の前に神の子たちが人間の娘と交わって行なった事がらを見ました。パウロは真の信仰を示した人の例としてその人をも挙げています。こう記されています。「信仰によって,ノアは,まだ見ていない事がらについて神の警告を与えられたのち,敬神の恐れを示し,自分の家の者たちを救うために箱船を造りました。そして,この信仰によって,彼は世を罪に定め,信仰による義の相続人となりました」。(ヘブライ 11:7)箱船の建造は奇跡によってなされたのではありません。ノアは木を切り倒し,それで箱船の形を整え,内部にいろいろな仕切りを設けねばなりませんでした。また,内側と外側にタールを塗らねばなりませんでした。(創世 6:14)この箱船は決して小さなものではありませんでした。その大きさは,長さが133.5㍍,幅が22.3㍍,高さが13.4㍍もありました。この巨大な箱型の建造物は陸の上で造られました。聖書はその非常に興味深い乗客名簿をも細かに記しています。ノアとその妻,ノアの三人の息子とその妻たちに加えて,さらに他の被造物を箱船内に入れるようにとの指示が与えられました。『もろもろもろの生き物すべて肉なるものをばなんぢ各その二つを方舟にたずさへいりてなんぢとともにその生命を保たしむべし それらは牝牡なるべし 鳥その類に従ひ獣その類に従ひ地のすべてのはふものその類に従ひて各二つなんじのところに至りてその生命を保つべし なんぢ食らはるるすべての食品をなんじのもとに取りて これをなんぢのところに集むべし これすなはちなんぢとこれらのものの食品となるべし ノアかくなしすべて神の己に命じたまひしごとくしかなせり」。(創世 6:19-22)ノアには自分の信仰を証明する業があったではありませんか。
28 モーセはその活動的な信仰のゆえに何を退けましたか。
28 聖書を読む人が学ぶことのできるもうひとりの人がいます。その人が,望んでいる事がらに対する保証された期待をいだいていたことを示して,パウロはこう述べています。「信仰によって,モーセは,成人した時,ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み,罪の一時的な楽しみを持つよりは,むしろ神の民とともに虐待されることを選びました。キリストの非難をエジプトの宝にまさる富とみなしたからです。彼は報いをいっしんに見つめたのです。……信仰によって,彼は過ぎ越しと血をかけることとを執り行ない,滅ぼす者が自分たちの初子に触れないようにしました。信仰によって,彼らは乾いた陸地を行くかのようにして紅海を通りました。しかし,あえてそこに乗り出したエジプト人たちはのみ込まれました」― ヘブライ 11:24-29。
29 ふたりの斥候に対するラハブのどんな行動はエホバに対する彼女の信仰を示していますか。
29 ヤコブは,パウロのように,他の人々の信仰について多くの時間をかけて論ずることはしませんでした。彼は,自分の兄弟や姉妹に語りかけつつ,ただアブラハムとラハブの例を挙げました。彼はこう語りました。「娼婦ラハブについても同じです。彼女は,使者たちを自分の家に迎え入れ,別の道から送り出したその行動によって義とされたのではありませんか」。(ヤコブ 2:25,新英)ラハブは,イスラエルの神ではなく,他の神々が崇拝されている土地で育ちました。それでも彼女はイスラエルの神について聞き,その民のために行なわれたことのゆえにイスラエルの神に対して信仰をいだきました。パウロは,ヤコブと同じようにこのラハブについても述べ,彼女を信仰の手本としています。パウロは述べました,「信仰によって,娼婦ラハブは,不従順にふるまった者たちとともに滅びないですみました。彼女は斥候たちを平和に迎えたからです」。(ヘブライ 11:30,31)ラハブは,自分の家に来た斥候たちの告げた事がらを信じただけでなく,それら斥候たちのために行動しました。彼女はその使者たちをかくまい,彼らが逃れ出るのを助けました。また,自分の家族を安全な場所に集めました。彼女は,イスラエル人が真実なこととして彼女に伝えた事がらを信じたのです。
30,31 ヤコブは,体と呼吸,信仰と行ないをどのように結び付けましたか。それで,ヤコブのことばにはどのような意味がありますか。
30 ヤコブは信仰に関する自分の論議を次のことばで結んでいます。「呼吸のなくなった体が死んだものであるのと同じように,行ないから分離した信仰は死体と同じように命がないのです」。(ヤコブ 2:26,新英)昔,体にまだ呼吸が残っているかどうかを確かめるために,ガラスか鏡をその人の口と鼻のところに当てることが行なわれました。もしその体にまだ呼吸があるなら,当てたガラスの表面を見ることによってそれがわかるはずでした。呼吸をしているしるしが何もないなら,その人は死んでいるとみなされました。こうしてヤコブは人体を例にして説明しているのです。信仰があると唱えながらなんの業も行なわない人は,呼吸がなくなった体に似ています。信仰が行ないから分離しており,その信仰を裏付ける業が何もないなら,その人の信仰は死体と同じように命のないものです。
31 ここでわたしたちが銘記すべき点があります。すなわち,ヤコブはクリスチャン,つまり,エホバ神に献身してバプテスマを受け,エホバのクリスチャン証人であると唱える人々に語りかけている,という点です。彼は,そうした人々すべてに行動を促しているのです。信仰があるなら,それを実証すべきです。彼が信仰に関する論議をどのようなことばで始めたかを忘れないでください。「わたしの兄弟たち,ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それはなんの益になるでしょうか」― ヤコブ 2:14。
32,33 どんな理由で今日のエホバの証人は強固な信仰を持てるはずですか。彼らはそうした信仰をいだいていることを示していますか。
32 今日では聖書の全巻がそろっているのですから,わたしたちは強固な信仰を持てるはずです。わたしたちにはヘブライ語聖書とギリシャ語聖書の両方があります。わたしたちは,神の子キリスト・イエスが地上に現われる以前に人々が信仰によって何を行なったかを見ることができます。また,初期クリスチャンたちの信仰とその行動についても見ることができます。彼らはイエス・キリストを神の子として認めました。彼らは,イエスの生涯の歩みと,王国の良いたよりを宣べ伝えようとするその決意とを見守りました。そして,その王国に信仰を置き,その良いたよりを宣べ伝えることによってイエスに見倣いました。今イエスは死から復活を受けています。今日の真のクリスチャンが見倣おうとしているこのかたについて,ヘブライ 1章3節はこう述べています。「彼は神の栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であり,その力のことばによってすべてのものを支えておられます。そして,わたしたちの罪のための浄めを行なったのち,高大な所におられる威高の右に座られました」。
33 こうして,今日では,強固な信仰を持った,幾十万というエホバのクリスチャン証人がいます。彼らはその口で,イエスは主であると語って神に栄光を帰し,その心には,神がキリスト・イエスを死からよみがえらせたという信仰をいだいています。こうした信仰をいだいてそれを公に宣明し,あらゆる国民・国語の人々にそれについて語り告げている彼らは,永遠の命への救いという前途に対して保証された期待をいだいています。
34 エホバへの信仰があるなら,ハバクク 3章17,18節に述べられているような状態に直面してもどのように応ずるはずですか。
34 邪悪な事物の体制の終えんの時期には,彼らに対して極度の圧迫がもたらされるかもしれません。彼らは経済上の苦難を経験することになるかもしれません。彼らの生存そのものさえおぼつかなく見える場合もあることでしょう。しかし,こうした事がらすべてに直面しても,彼らはエホバに対する信仰のゆえに喜ぶことができます。預言者ハバククが霊感によって書き記したとおりです。「いちじくの木が花を咲かせず,ぶどうの木に実が成らなくても,……それでもわたしは,ただエホバにあって歓喜し,わたしの救いの神にあって喜びあふれます」― ハバクク 3:17,18。
35 今の時代にあって,わたしたちが生きた信仰をいだいていることを示すものは特にどんな活動ですか。
35 今日のわたしたちは,その危急の時に非常に近づいています。わたしたちはこの事物の体制の終わりの日に生きており,預言,とりわけ,マタイ 24章に記された預言の成就を見ています。聖書のその部分は,この事物の体制が終わる前に起きる事がらを描写しています。マタイ 24章14節でイエスはこう言われました。「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。エホバの証人たちはこのことを信じています。彼らは神の王国に対する信仰を持ち,そのゆえに,その良いたよりを世界じゅうに宣明してきました。エホバの証人が昨奉仕年度のあいだ実際に何を行なったかについては,すべての人が関心をいだくはずです。
全世界の報告
36,37 (イ)この雑誌にある奉仕報告の表はエホバの証人の持つ信仰をどのように示していますか。(ロ)昨奉仕年度の間に新しい弟子がどれほど作られましたか。
36 219-222ページの表を調べれば,エホバのクリスチャン証人が,1973奉仕年度の間,世界の208の土地で,王国の良いたよりを宣べ伝えるために何を行なったかを見ることができます。これらの区域では,世界の95の土地に設けられている,ものみの塔協会の支部事務所を通して,必要な仕事がなされています。
37 クリスチャンであればよく知るとおり,イエスは弟子たちに,「行って,すべての国の人びとを弟子とし,……バプテスマを施し(なさい)」と命令されました。(マタイ 28:19)昨奉仕年度の間この仕事には優れた成果がありました。19万3,990人の人が新たに弟子となり,神のご意志を行なうために献身し,そのことを水のバプテスマによって表わしたのです。彼らは今,エホバのクリスチャン証人に加わり,実際の業によって自分の信仰を証明しています。
38 (イ)昨奉仕年度の間,良いたよりを宣べ伝えるためにエホバの証人がどれほどの努力を払ったかを何が示していますか。(ロ)およそ何人の人が実際に聖書研究をしましたか。
38 毎月平均して165万6,673名の伝道者が野外奉仕に参加して良いたよりを宣べ伝えましたが,年間を通じての最高数としては,175万8,429名が良いたよりを宣明した月もあります。これらの人々は膨大な仕事を成し遂げました。そのことは,家から家の業,再訪問,聖書研究の司会,またあらゆる時あらゆる場合に王国の希望について語ることのためにどれほどの時間を用いたかという点によく見ることができるでしょう。良いたよりを宣べ伝えることに献身したこれらの人々は,野外宣教奉仕のために3億46万8,676時間をささげました。なんと膨大な時間ではありませんか。これはただ自分で聖書を読んでいた時間ではなく,出かけて行って,神のことばが述べる事がらについて他の人に話すために実際に用いられた時間です。さらに,彼らは,聖書に関心を示した人々に対して合計1億3,165万7,832回の再訪問をし,また,六か月あるいはそれ以上の期間にわたって,120万9,544の異なった家族と毎週家庭聖書研究を行ないました。そのような聖書研究があなたのお宅でも行なわれましたか。六か月という期間の終わりまでに,神の王国にほんとうに関心を持つ人は王国会館に来るようになるのが普通です。したがって,昨奉仕年度の間,全世界でおよそ240万人の違った人が自分の家で聖書研究を行なったと言えるでしょう。そして,当然のこととして,それらの人は,自分がイエス・キリストの弟子となり,自分の業によって神の王国に対する信仰を示すかどうかを決定しなければなりませんでした。すでに見たとおり,19万3,990名もの人が弟子となって神に献身し,エホバのクリスチャン証人の隊伍に加わって良いたよりをふれ告げています。
39,40 数字に示されているとおり,昨奉仕年度の間,エホバの民は印刷された出版物を全地でどのように用いましたか。
39 エホバの証人は人々との研究のさいに聖書を用いますが,それとともに聖書研究手引きをも使用します。昨奉仕年度の間,証人たちはそうした聖書研究手引きを非常に多く配布しました。事実,良いたよりを宣べ伝える彼らの活動によって,合計2,176万1,877冊の聖書と聖書研究用の書籍および996万5,259冊の小冊子が配布されました。
40 皆さんすべては「ものみの塔」や「目ざめよ!」誌を知っておられ,また,エホバの証人が人々の家庭を定期的に訪ねるさいにそれらの雑誌を用いていることも知っておられます。昨奉仕年度の間,証人たちは多くの言語で発行されているこれらの雑誌を合計2億3,546万8,467冊配布しました。「ものみの塔」誌は76の言語で発行されており,「目ざめよ!」誌は31の言語で発行されています。年間購読予約も数多く得られました。記録は,昨奉仕年度の間,合計189万4,447件の予約が協会に送られたことを示しています。これらの予約者や他の購読者に毎号の雑誌を供給するために,ものみの塔協会の用いる37の印刷施設は,昨奉仕年度の12か月間に,合計1億9,817万7,981冊の「ものみの塔」誌と,2億252万820冊の「目ざめよ!」誌を印刷しなければなりませんでした。これは前年度に比べて1,550万冊の増加に当たります。ここに示されるとおり,人々は,聖書の研究,およびエホバのクリスチャン証人が伝えようとしている音信に関心をいだいています。
41 主の夕食の集まりに非常に大ぜいの人が出席したことは何を示していますか。
41 活動的な証人たちのほかに,エホバの証人の活動に関心を持つ人が大ぜいおり,そうした人たちもエホバの証人の集会に出席しています。全世界には3万1,850の会衆があります。1973年4月17日の晩に行なわれた記念式には,世界じゅうにあるエホバの証人の王国会館に,合計399万4,924人の人が出席し,1万523名の人が象徴物であるパンとぶどう酒にあずかって,自分が神の霊で油そそがれ,天の栄光のうちにキリスト・イエスとともになるという希望をいだいていることを示しました。他の人々は,エホバの天の王国による神の支配のもとでパラダイスとなる地上に生活する期待をいだいています。
42 昨奉仕年度の間,鉄のカーテンの背後にいるエホバの民は宣教奉仕をどれほどりっぱに行ないましたか。
42 エホバの証人が鉄のカーテンの背後でもその業を行なっているかどうかを尋ねる人がときにいます。確かに行なっています。わたしたちの記録は,それらの国における厳しい状況下でも,合計15万448人のエホバのクリスチャン証人が良いたよりを宣べ伝えていることを示しています。しかも,これは昨奉仕年度の12か月間に5.5%の増加を見たことを示しており,それらの国において一年間に1万1,334人がバプテスマを受けました。もとより,そうしたバプテスマは非公式に行なわれました。鉄のカーテンの背後および他の幾つかの国においてエホバの証人の活動は禁令下にあるからです。しかし,たとえ禁令下にあっても,エホバの証人は,そうした人々を弟子とし,父と子と聖霊との名においてバプテスマを施すことをためらいません。弟子となるこれらの人はみな,「行ないから分離した信仰は死体と同じように命がない」ことを信じています。それゆえ,喜びにあふれて,世界の208の土地また地の果てにいたるまで,エホバのクリスチャン証人は勤勉に働き,エホバの王国の良いたよりを宣べ伝えるという面できわめて喜ばしい一年を過ごしました。
43 真に活動的な信仰を持つことを願うなら,人は今何をするべきですか。
43 あなたご自身はいかがですか。あなたはそのような信仰,神に対する生きた信仰,つまり,あなたを動かして神の愛あるお目的を他の人に語らせるような信仰を持っておられますか。もしそのことがあなたの願いであるなら,今こそ懸命に努力して神のことばを研究し,その業によって生きた信仰の証拠を提出している人々と定期的に交わり,生活を神のご意志にかなったものにしようとするあなたの努力の上に,エホバの祝福をいっしんに祈り求めるべき時です。―ヨハネ第一 5:14。ルカ 13:23,24。
[219-222ページの図表]
全世界のエホバの証人の1973奉仕年度の報告
(製本した雑誌を参照)
[215ページの図版]
あなたの信仰は生きたものですか
それはあなたを動かして他の人々に宣べ伝える業を行なわせますか
[216ページの図版]
ラハブは,イスラエル人のふたりの斥候を,エリコの城壁の上にあった自分の家の窓から,赤いロープで下に降りさせた