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読者からの質問ものみの塔 1976 | 6月1日
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読者からの質問
● 油そそがれたクリスチャンが排斥される場合,その人が後日復帰し,引き続き天的希望を抱くことは可能ですか。
それは可能です。もちろん,個々の事情に応じて,その人に許しを差し伸べるかどうかを決めるのはエホバ神ご自身です。
それが確かに可能であるということは,コリント会衆に送られた使徒パウロの手紙を読むと分かります。パウロは,聖霊によって油そそがれ,天の命の希望を抱いている人々にあててこの手紙を書きました。その中でパウロは,同会衆の成員に対し,「キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなたがた」と呼び掛けています。―コリント第一 1:2; 15:49。
同会衆に属する油そそがれたクリスチャンの一人が淫行をならわしにするようになりました。悔い改めを示さず,その不道徳な行為をやめないことが明らかになったとき,パウロは,その人を排斥するよう会衆に指示しました。(コリント第一 5:1-5,9-13)しかし,この排斥された人は,後になって心から悔い改めたようです。パウロは,コリント人に書き送った二番目の手紙の中で,以前に罪を犯したある人物を許し,再び受け入れるようにと勧めていますが,この人物は前述の排斥された人であると考えられています。―コリント第二 2:6-11; 7:8-13。
会衆に復帰したこの人には,どんな希望があったでしょうか。天への召しを失い,その代わりに地上での永遠の命を待ち望むようになりましたか。そうではありません。地的希望は,いわゆる第二次希望のようなものではないからです。アベル,エノク,ノア,アブラハムそして他の大勢の際立った信仰の持ち主は,地上でとこしえの命を享受する希望を抱いていました。しかしそれは,彼らが天への召しにかなわなかったからではありません。エホバのご意志に従って天への召しが差し伸べられる時代に生を受けなかっただけのことです。(ヘブライ 10:19,20)天においてであれ,パラダイスの地においてであれ,永遠の命を得ようとしているすべての人には,同じほどの信仰と忠誠心が求められています。聖霊によって油そそがれ,キリストの共同相続者となったクリスチャンが永遠の命を得るためには,その召しに対して忠実であることを証明しなければなりません。―啓示 2:10,11。フィリピ 3:8-14。ローマ 8:14-17。
しかしこれは,地上にいる油そそがれたクリスチャンが決して罪を犯さないという意味ではありません。肉において,彼らは依然不完全であり,従って,他の人すべてと同様罪を犯し,時には,ゆゆしい罪を犯すこともあるでしょう。キリストの弟子であり,明らかに油そそがれたクリスチャンであった,聖書記述者ヤコブはこう書きました。『わたしたちはみな何度もつまずくのです。ことばの点でつまずかない人がいれば,それは完全な人です』。(ヤコブ 3:2; 2:5)不完全さの結果であるこの種の故意でない罪は,使徒ヨハネの語った「死をきたさない罪」と言えるでしょう。(ヨハネ第一 5:16)神は,この種の罪を許すことができます。ヨハネは次のように語りました。「わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」― ヨハネ第一 1:9。
しかし,それには悔い改めが必要です。油そそがれたクリスチャンが今日ゆゆしい罪をならわしにし,悔い改めを示さないような場合,会衆は神の諭しに従い,その者を排斥しなければなりません。しかしながら後日,当人が悔い改めるなら,コリント会衆から排斥された人の場合と同様,許されて復帰することでしょう。
しかし,神はすべての罪をお許しになるわけではありません。マルコ 3章28,29節でイエスの語った言葉の示すところによると,故意かつ意識的に神の霊を冒とくする者は決して許されません。また,パウロも次のように書きました。『真理の正確な知識を受けたのち,故意に罪をならわしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期があるのです』。(ヘブライ 10:26,27)こうした
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