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模範的な行状の外国人また寄留者最善の生き方を選ぶ
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3 (イ)真のクリスチャンはなぜこの世にあっては“外人”ですか。(ロ)未信者の人々は彼らをどのようにみなしますか。なぜですか。
3 真のクリスチャンは,神がおつくりになる「新しい天と新しい地」の一部としての永遠の住みかを待ち望んでいるので,この世にあっては「外国人また寄留者」です。(ペテロ第一 2:11。ペテロ第二 3:13)イエス・キリストの真の弟子は考えや行動を聖書に合わせようと努めるので,未信者やキリスト教を実践しているふりをしているだけの人々は,真の弟子たちをあたかも望ましくない“外人”のように見下げることがあります。しかし,キリストの真の弟子はクリスチャンに対するこの世の見方のために恥ずかしく感じるべきではありません。神の観点からすれば,その外国人という身分は尊いものです。ですから,クリスチャンは非難されても仕方がないような振る舞いをしないように最善を尽くしたいと願うことでしょう。
4,5 (イ)西暦一世紀当時,使徒ペテロがクリスチャンたちを「各地に散っている寄留者たち」と呼ぶことができたのはなぜですか。(ロ)エホバ神はクリスチャンをどのようにみなされましたか。
4 信仰の仲間にあてた手紙の中で,使徒ペテロは「外国人また寄留者」という彼らの誉れある立場に注意を促しました。その最初の手紙の冒頭にはこう書かれています。
「イエス・キリストの使徒ペテロから,ポントス,ガラテア,カパドキア,アジア,ビチニアの各地に散っている寄留者たち,父なる神の予知にしたがい,霊による聖化をもって,また従順な者となってイエス・キリストの血を振りかけられる目的で選ばれた人たちへ」― ペテロ第一 1:1,2。
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模範的な行状の外国人また寄留者最善の生き方を選ぶ
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7 「外国人」という立場にあるわたしたちには,どんなことが求められますか。
7 西暦一世紀の信者と同様,イエス・キリストの今日の献身的な弟子たちも,エホバ神のみ前に誉れある立場を得ています。これらの弟子は,この世にあって,模範的な「外国人」また「寄留者」として振る舞わなければなりません。さもないと,エホバ神および神の民の会衆に非難をもたらします。ですから,そのすべては,使徒ペテロの次の勧めの言葉を心に留める必要があります。「愛する者たちよ,外国人また寄留者であるあなたがたに勧めますが,絶えず肉の欲望を避けなさい。そうした欲望こそ,魂に対して闘いをいどむものなのです」― ペテロ第一 2:11。
8 何に不当な愛着を抱くようなことがあってはなりませんか。それはなぜですか。
8 現在のつかの間の事物の体制において「外国人また寄留者」なのですから,わたしたちは,現存する人間の機構内の何ものかに不当な愛着を抱いてしまうわけにはいきません。地的な結び付き,悲しみ,喜び,あるいは所有物はどれも永続するものではありません。だれも時の流れに逆らうことはできませんし,予期しない出来事に遭わずにはすみません。時の経過や予期しない出来事によって,人の境遇が突然にすっかり変わることがあります。(伝道 9:11)ですから,使徒パウロの次の助言に注意を払うのは真に知恵のあることです。「妻を持っている者は持っていないかのようになりなさい。また,泣く者は泣かない者のように,喜ぶ者は喜ばない者のように,買う者は所有していない者のように,世を利用している者はそれを十分に使っていない者のようになりなさい。この世のありさまは変わりつつあるからです」。(コリント第一 7:29-31)現在の絶えず変化する状況や諸関係から生まれる悲しみや喜びに浸り切ってしまうことは,至高者とみ子に一層近付く妨げとなり,わたしたちに重大な損失を招きかねません。
9,10 (イ)所有物に対するこの世的な人々の見方はどんなことから分かりますか。(ロ)所有物に対するわたしたちの見方は,未信者のそれと異なっているべきなのはなぜですか。
9 人類の大多数の状態は,わたしたちが『世を十分に利用』しようとしてはならない理由を如実に示しています。一般の人々は「新しい天と新しい地」に関する神の約束を知らないか,そうした来たるべき新秩序に真の信仰を持っていないかのいずれかです。ですから,現在の生活以外に注意を向けるものがなく,将来に確固とした希望もありません。したがって,人々は日常の必要物のことしか考えず,この世からできるだけ多くを得ることに没頭しているのです。(マタイ 6:31,32)そして,立派な衣服,輝く宝石,高価な装飾品,美しい家具あるいは豪奢な家を得るという見込みに目を輝かせます。物質的な所有物で他の人々に感銘を与えることを願い,またそうしようと努力するでしょう。―ヨハネ第一 2:15-17。
10 それとは対照的に,クリスチャンは自分の前途に永遠の将来があることを知っています。生活上の事柄に夢中になり過ぎて,将来を左右し得る創造者のための時間が事実上なくなることは,クリスチャンにとって愚かしいことと言えます。とは言っても,神の真の僕がお金で買える多くの良いものを適度に楽しんではならないということではありません。そうではなくて,自分たちを現在の体制の「寄留者」と真にみなしているなら,たとえ健全な娯楽や役立つ所有物でも,それらを決して生活の中心としてはならないという意味です。わたしたちは自分の資産を浪費したり不注意に扱ったりすることなく,そうした資産に対して正しい見方を取ります。それはちょうど,信頼できる人が,設備の整ったアパート,道具類,備品その他,必要で借りている物に対して取るのと同じ見方です。その人は借りているそれらの物を大切にしますが,いつまでも自分のものであるかのようにすっかり愛着を持つようなことはしません。現在の体制下では永遠が保証されているものは何もないこと,そして,わたしたちは神がおつくりになる約束された新秩序に向かっている「外国人」また「寄留者」に過ぎないことを認識していることを生活に表わさなければなりません。
『肉の欲望を避けなさい』
11 わたしたちが避けなければならない肉的な欲望の中にはどんなものがあるでしょうか。
11 しかし,クリスチャンとしての生き方を成功させるためには,この世に生活する限りいつ何時境遇が変わるかもしれないということを認識しているだけでは不十分です。『肉の欲望を避けなさい』という聖書の訓戒に真剣な注意を払うことも必要です。肉の欲望とは人の肢体に宿る悪い渇望もしくは欲望のことです。ガラテア人へあてられた使徒パウロの手紙は,それら悪い渇望がどんな罪を犯させるかを明らかにしています。神の霊に導かれている人は「肉の欲望」を遂げないことを述べたのち,同使徒は肉の業として,「淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がら」を列挙しています。―ガラテア 5:16,19-21。
12,13 (イ)肉の欲望はどのようにして『魂に対して闘いをいどみ』ますか。(ロ)神のみ前に清い立場を保つにはどうすべきですか。
12 人は受け継いだ罪のために,肉の業に関係させ,『肉の欲望を遂げ』させようとする強い圧力を受けます。不健全な渇望は,魂全体,その人全体を征服し罪深い情欲にふけらせる侵略軍のようです。クリスチャン使徒パウロは,人の心の中でそうした闘いが起こり得ることをよく知っていました。自分自身のことについて,こう書きました。「わたしは自分のうち,つまり自分の肉のうちに,良いものが何も宿っていないことを知っているのです。願う能力はわたしにあるのですが,りっぱな事がらを生み出す能力はないからです。自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです」。(ローマ 7:18,19)そのようなかっとうがあったので,パウロは,「他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないため」に「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行く」必要がありました。―コリント第一 9:27。
13 同様に,神のみ前に清い立場を保ち,神の祝福を受けたいという願いがあれば,悪い渇望を抑制するよう努力したいという気持ちになります。娯楽や読み物や交わりの中には人間の罪深い傾向を助長するものがあり,また,人を罪深い傾向へかり立てる状況もありますが,苦しい闘いをそれらによってさらに苦しくする必要がどこにあるでしょうか。もっと大切なこととして,自分自身を守る積極的な処置を講じなければなりません。自分自身の力では成功できず,献身的な兄弟たちの励ましや神の霊の助けが必要であることを思いに留めておくのは良いことです。使徒パウロはテモテに,「清い心で主を呼び求める人びととともに,義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」と勧めました。(テモテ第二 2:22)このことを行なっているなら,聖霊の援助もありますから,悪い欲望に征服されないようにすることができます。こうして,真実なこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,徳とされることや賞賛すべきことに思いを留め続けて悪い欲望に抵抗するなら,神の不興を買わないようにすることができます。(フィリピ 4:8,9)そうすることに成功するよう他の人々を援助しておきながら,自分自身が失敗してしまうということにならないようにしたいものです。
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