-
バプテスマ ― クリスチャンに求められている事柄ものみの塔 1979 | 8月15日
-
-
者は義人の報いを受けるであろう」と書かれています。(口語訳)これは,その人がどんな人物であるかを認識して預言者や義人を迎えるという意味です。クリスチャンのバプテスマ希望者は,父と子と聖霊のおのおのがどんなものであるかを認識しなければなりません。すなわち父を最高主権者として,子を贖い主また王として,聖霊を神のご意志を行なえるよう人間を助ける神の活動力として認識しなければなりません。―詩 83:18。マタイ 20:28。啓示 19:16。ヨハネ 14:16,17。
どれほど重要か
人々がクリスチャンのバプテスマに従うことはどれほど重要でしょうか。罪深くもメシアつまりキリストを杭につけたことで共同責任を負っていたユダヤ人,そしてその罪からの清めを必要としていたユダヤ人に対して,西暦33年の五旬節に使徒ペテロが述べた次の助言を考慮してください。「悔い改めなさい。そしてあなたがたひとりびとりは,罪のゆるしのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう」。(使徒 2:38)聖書によれば,イエス・キリストを通して罪の許しを得ることを願う人は,悔い改めてバプテスマを受けなければなりません。
これはバプテスマの水が罪を洗い去ることを意味するのでしょうか。そのような結論を下すのは間違っているといえるでしょう。ノアの日の洪水について述べたペテロは,次のようにバプテスマのより深い意味を説明しました。「これに相当するもの[箱船で八人が洪水の水を切り抜けたこと],すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなたがたを救っているのです」― ペテロ第一 3:21。
それではどのようにして神に対してその正しい良心を願い求めるのでしょうか。ノアがしたように水を通り抜ける前に自らをささげることによってです。ノアのように,わたしたちは,そのご意志を行なうべくエホバ神に自らをささげ,それからそのことを行ない続けます。このことは,わたしたちが正しい良心を得る結果となります。というのは,わたしたちに神のご意志を行なっているという自覚が生ずるとき,正しい良心を享受することができるからです。このように,神に対して自分自身をささげることは,実際に「神に対して正しい良心を願い求めること」になります。正しい良心は自ら正しいとする自分自身の業を行なうことからではなく,神の定められた業,すなわち神のご意志を行なうことから生まれるものです。これが,わたしたちが行なうよう自らをささげた業なのです。
このようなわけで,キリストを通して神に自らをささげることは,「神に対して正しい良心を願い求めること」になります。わたしたち自身に関しては,この不完全な罪深い状態では,神に受け入れていただくことはできません。それで,わたしたちが罪を悔い改めて転向し,自らをささげる故に,エホバはキリストの贖いの犠牲の清めの血をわたしたちに適用し,それによってわたしたちを罪の宣告から救い出してご自分に対する正しい良心を得られるようにされます。それゆえ,わたしたちが従順にバプテスマの水を通り抜けることは,イエス・キリストを通してエホバ神に献身することを象徴します。
では,バプテスマの後,人はもはや自分自身を罪深いものとして認める必要はないと考えてよいのでしょうか。全くそうではありません。バプテスマを受けたクリスチャンで,イエス・キリストの使徒であったパウロでさえ,「こうして,わたし自身は,思いでは神の律法の奴隷ですが,肉においては罪の律法の奴隷なのです」と嘆息しています。(ローマ 7:25)しかしながら,献身しバプテスマを受けたクリスチャンは,罪をあがなうイエスの犠牲の価値によって,過去の罪や人間の不完全さゆえに日々犯す罪がぬぐい去られることを知っているので,正しい良心を抱くことができます。(ヨハネ第一 2:1,2)ですから,クリスチャンは以前の生き方と受け継いだ罪深い状態によって生まれる罪の意識で押しひしがれる必要はありません。
始まりにすぎない
わたしたちはバプテスマを,ついに“ゴールに到達し”,永遠の生命を得る準備が万端整ったことの証拠とみなすべきでしょうか。それは浅はかな考えといえるでしょう。というのは,聖書はバプテスマを人が神に献身した神聖な奉仕の始まりにすぎないと説明しているからです。考えてみてください。イエスのバプテスマはメシアとしての奉仕の出発点で生じた出来事でした。イエスの使徒たちや他の初期の弟子たちについても,バプテスマは準備段階でした。バプテスマは,「また今,あなたがたを救っているのです」というペテロの表現を気に留めておられますか。(ペテロ第一 3:21)G・F・C・フロンミューラーによる評釈書は次のように注釈しています。「救いが始まったばかりでまだ終わっていないので,現在形[「救っている」に相当するギリシャ語の時制]が用いられているのである」。―マタイ 10:22。ローマ 13:11。フィリピ 2:12。啓示 2:10。
使徒パウロの次の言葉は,救いを得るためには,バプテスマだけにとどまらず,より多くのことが要求されることを示しています。「その『あなたの口の中にあることば』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです」。(ローマ 10:9,10)このことから,救いを得るためには,信仰とバプテスマ以外に,イエス・キリストは主であり,神が彼を死人の中からよみがえらせたという趣旨の「公の宣言」が必要であることが明らかになります。
この公の宣言はバプテスマの時になされるものですが,だからといって,その後は自分の希望を他の人の前でさらに宣言する必要がなくなるわけではありません。それどころか,聖書は,わたしたちが会衆の集会において,わたしたちのクリスチャンの希望についての弁明を求める政府や司法上の権威の前において,さらに,神の王国の「良いたより」を公に宣明することにおいて,このような宣言を行ない続けなければならないことを示しています。―ヘブライ 10:23。ペテロ第一 3:15。マタイ 24:14。
神の前に是認された立場を得たいと望むすべての人にとって,クリスチャンのバプテスマが一つの必要条件であることは明らかです。それが象徴するものから考えて,バプテスマは軽々しく考えたり,注意深い事前の準備なしに受けたりすべきものではありません。あなたは,まもなくバプテスマを受けることを考えておられますか。もしそうであるなら,その意味について真剣に考慮してください。それが象徴する神への献身に従って永久に生きることを固く決意してください。
-
-
神の言葉は力を及ぼすものみの塔 1979 | 8月15日
-
-
神の言葉は力を及ぼす
使徒パウロは次のように書きました。『神のことばは生きていて,力を及ぼす』。(ヘブライ 4:12)最近のスペインからの経験はこの言葉の正しさを確証しています。
あるクリスチャンの長老は,街路での証言に携わっていた時,仏教徒と自称する一人の青年に近づきました。その青年は読むことよりも人々を観察する方がよいと考えていました。それでも「ものみの塔」誌の古い号を受け取りました。またエホバの証人の地元の王国会館での集会に出席するようにも招待されました。
数日後,その若者は会館に姿を見せました。出席していた幾人かの人々に紹介されてから,その人は座るように勧められました。が,若者は応じませんでした。そして身じろぎもせず二時間立っていました。あとで聞いた話によれば,彼は読むことに関心はなく,聞いて観察する方が好きだとのことでした。
しかし,ある時その長老は若者に,今まで聖書を通読したことがあるかどうかと尋ねました。通読したことはありませんでしたが,その証人から聖書は東洋の本であると教えられて,そうするように動かされました。この仏教徒は聖書全体をわずか数日のうちに読んでしまいました。その時からエホバは,若者が霊的に成長するように助けられました。今日,彼はバプテスマを受けたクリスチャンです。神の言葉が本当に力を及ぼすということに間違いはありません。
-