10章
クリスチャンの希望を守りなさい
1 「新しい天と新しい地」はどうして非常に望ましいものとなりますか。
痛みも悲しみも死もない生活が前途にあるということを思い巡らすのは確かにすばらしいことです。しかも,不完全さと罪が取り除かれてそうした状態がなくなるということは実際にもっとすばらしいことです。結局は自分と他の人を害することが分かっている悪い性向や傾向と闘う必要がもはやなくなるということは本当にありがたいことです。その時には,わたしたちが話す言葉,考える事柄,取る行動がことごとくすべての人の益となり,天の父の属性を本当に反映し,利己的な動機がみじんもないのですから,どんなにかうれしいことでしょう。そうです,確かに,神がおつくりになる「新しい天と新しい地」には義が満ちています。これは正しく守る価値のある希望です。―ペテロ第二 3:13。
2 (イ)クリスチャンの希望が実現するのを経験するには,何をしなければなりませんか。(ロ)クリスチャンととなえる人の中に自己本位な人がいても驚くべきでないのはなぜですか。
2 クリスチャンの希望が実現するのを見るためには,その希望を絶えず目の前に置き,それに調和して生活しなければなりません。それには,わたしたちの希望をかすませたり失わせたりする影響すべてに抵抗することが必要です。そうした有害な影響は時として,神の民の会衆と交わる霊的でない自己本位な人からもたらされます。そのことに驚くべきではありません。というのは,使徒ペテロは「民[イスラエル]の間に偽預言者も現われました。それは,あなたがた[クリスチャン]の間に偽教師が現われるのと同じです」と書いているからです。(ペテロ第二 2:1 前半)生来のイスラエルの場合と同様,クリスチャンも会衆の内部から腐敗しやすいのです。
『破壊的な分派をひそかに持ち込む』
3,4 偽教師が誤った事柄を広めるやり方を,使徒ペテロはどのように記述していますか。
3 誤った事柄をとなえる人々がどのように影響を及ぼすかについて,使徒ペテロは続いてこう述べています。「実にこれらの者は,破壊的な分派をひそかに持ち込み(ます)」。(ペテロ第二 2:1 後半)使徒がここで書いていたのは,単にある事柄が理解できない人とか,大多数の人の見解と必ずしもすべての点で一致していない見解をまじめな気持ちで持っている人のことではありません。(ローマ 14:1-6と比較してください。)分裂させ腐敗させるため意図的に働く者たちのことを述べていたのです。
4 そうした者たちが隠し立てをせず,率直で正直であるということはまずありません。大抵は,ひそかに,見せかけの方法で非聖書的な見解を「持ち込み」ます。使徒ペテロが用いている原語のギリシャ語で,「ひそかに持ち込(む)」という語句は文字通りには「何々のわきに,または,何々といっしょに導き入れる」という意味です。それが彼らの手口であり,健全な聖書の教理といっしょに,自分たちの分裂させ腐敗させる見解を徐々にしかも巧妙に導入します。まず最初にいくらかの明白な真理をもって,あるいは連綿とした複雑な論議によって聞き手の思いを慣らすことにより,誤りにしか到達しないような原理を聞き手に受け入れさせることに成功する場合がよくあります。その者たちは,聖書を用いることはありますが,聖書を本当に教えることはありません。自分たちに都合の良いことを利用し,個人の利益のために推し進めようとしている事柄に合わせるために聖書の教えをわい曲します。こうして,実際には確かな聖書的根拠のない事柄がいかにも本当のように見えるのです。
5 サタンがエバを欺いたやり方は,偽りを教える教師の手口をどのように例示していますか。
5 このように進展したよい例は,サタンがへびを使ってエバを欺いたやり方に見られます。最初に,「あなたがたは園のどの木からも食べてはならないと神が言われたのは本当ですか」という一見悪気のなさそうな質問がされました。(創世 3:1,新)その質問は真理を曲解していました。至高者が,最初の二人の人間が受ける権利のあるものを差し控えて彼らに与えず,不当な制限を課しているということをほのめかしていました。へびの言葉からエバは,「善悪の知識の木」からどうして食べてはいけないのだろうと考えるようになったに違いありません。そのようにして,サタンは,答えを欲するようにエバの思いを調整しました。それから,へびの的を突いた答えが返ってきました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれから食べるその日に,あなたがたの目が必ず開け,あなたがたが必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」― 創世 3:4,5,新。
6 (イ)どんな要因でエバは偽りを受け入れやすくなりましたか。(ロ)サタンが偽りを語った結果,どのように異端組織が作られましたか。
6 エバの思いは巧妙に整えられ受け入れ態勢ができていたので,エバはその答えに驚きませんでした。あらゆる動物の中で「蛇が最も用心深かった」ということから,そのような生き物が誤った情報の源となることなどまずあり得ないように思われました。(創世 3:1,新)しかも,その木は魅力的で,その実は食物として良いように見えました。エバは完全に欺かれました。そして,禁じられた実を食べたのち,自分といっしょに神に反逆するようアダムを説得しました。(創世 3:6)このようにして,へびが語った偽りは最初の人間を天の父からうまく離反させました。実際のところ,二人の人間から成る異端組織が作られたのです。
7 (イ)会衆内に分裂を引き起こす人々はなぜキリストを否認していますか。(ロ)その者たちが「自らに速やかな滅びをもたらす」と言えるのはなぜですか。
7 同様の手口で,人が会衆内に分裂を引き起こす精神,“党派”的な競争心を助長することがあります。そのような党派は誤りを基礎としていて,故意に不一致を起こそうとするので,その立場と教えは,ご自分の血でクリスチャン会衆を買い取られた神のみ子を誤り伝えるものです。ですから,使徒ペテロはそうした偽教師について「自分たちを買い取ってくださった主人のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらす」と述べています。そうです,頭としてキリストにしっかり付くことをいったんやめると,人はキリストを否認し,道徳的かつ霊的に悲惨な道に飛び込んでしまいます。それには滅びというただ一つの結果があるのみです。有罪判決は遅れることなく下され,公正は速やかになされます。当事者たちは,自らすすんで誤りを受け入れることにより,『自らに速やかな滅びをもたらし』ます。―ペテロ第二 2:1。
8 自称クリスチャンの「不品行」は会衆外の人々にどんな影響を与えますか。
8 残念なことに,そうした者たちは,自由奔放に振る舞いながらクリスチャンであるととなえるので,神の忠実な僕たちの立派な記録に汚点を残します。クリスチャンと自称するある人々の下劣な行状を見て,多くの人はクリスチャンであると言う人すべてを悪く言ったりののしったりし始めます。ペテロは次のように書いてその点を指摘しています。「さらに,多くの者が彼らの不品行に従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう」― ペテロ第二 2:2。
「まことらしいことばで利用」されないように気を付けなさい
9 (イ)堕落した人々はどんな動機で自分たちの仲間を集めようとしますか。(ロ)そのような人々,および彼らに欺かれた人々はどうなりますか。
9 そのような背徳的な者たちはどんな動機で自分たちの仲間を集めるのでしょうか。使徒ペテロはそれに答えて,「彼らは強欲にもまことらしいことばであなたがたを利用するでしょう」と述べています。(ペテロ第二 2:3 前半)それらの者たちは自分自身のために物質的な利益を得ようとしたり,教師としてあがめられてそれに伴う力と権力と誉れを欲したりします。「まことらしいことば」,つまりもっともらしい議論を含む偽りの説を用いて,他の人々につけ込み,他の人々を利用しようと努めます。その動機も教えも悪いので,関係している者たちには破滅的な結果が臨みます。使徒ペテロはこう続けています。
「彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのでもなければ,その滅びはまどろんでいるのでもありません。神が,罪を犯したみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密なやみの穴に引き渡されたのであれば,また,古代の世を罰することを差し控えず,不敬虔な人びとの世に大洪水をもたらした時に義の宣明者ノアをほかの七人とともに安全に守られたのであれば,また,ソドムとゴモラの都市を灰に帰させて罪に定め,きたるべき事の型を不敬虔な者たちに示されたのであれば,また,無法な人びとの放縦な不品行に大いに苦しんでいた義人ロトを救い出されたのであれば ― この義人は日々彼らの間に住んで見聞きする事がらにより,その不法な行ないのゆえに,自分の義なる魂に堪えがたい苦痛を味わっていたのですが ― エホバは,敬神の専念をいだく人びとをどのように試練から救い出すか,一方,不義の人びと,わけても,肉を汚そうとの欲望をいだいてそれに従い,主たる者の地位を見下す者を,切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くかを知っておられるのです」― ペテロ第二 2:3-10。
10 (イ)『蛇の胤』に対して神の裁きの宣告が初めてなされたのはいつですか。(ロ)その執行はなぜ「手間どって」いませんか。
10 「昔から」神は『蛇の胤』となるすべての者を死刑に定めておられますが,その刑は必ず執行されます。(創世 3:15。ヨハネ 8:44。ユダ 14,15)およそ6,000年前に初めて宣言され,その後繰り返し述べられたとはいえ,その裁きは,決して執行されないかのように「手間どっている」のではありません。滅びは必ず来ます。なぜなら滅びはまどろんでいないからです。滅びをもたらすことは,神のお目的の中に依然含まれています。
11 (イ)不従順なみ使いたちはどうなったでしょうか。彼らにはさらに何が待ち受けていますか。(ロ)み使いが罰せられたこと,不敬虔な人々が洪水で滅ぼされたこと,またソドムとゴモラの住民が絶滅させられたことは何を証明していますか。
11 ペテロが指摘した通り,神のみ前にいたにもかかわらず,のちに不忠実になったみ使いたちでさえ『タルタロスに投げ込まれる』こと,すなわち最も低い状態に卑しめられることを免れませんでした。不従順なみ使いたちは,神のあらゆる啓発を絶たれ,天の元の立場にもどれず,活動を制限されているので,イエス・キリストの手で処刑されるのを待ちつつ,「濃密なやみの穴」になぞらえられる状態にあります。(啓示 20:1-3,7-10と比較してください。)同様にエホバ神は堕落した人々の世全体を世界的な洪水で滅ぼすことも,ロトの日にソドムとゴモラの性的に堕落した住民を処罰することも差し控えられませんでした。ノアとその家族やロトのような義人だけに,神の裁きを免れ,不法な人々の中に住む結果受ける試練から救われる望みがあります。しかし,不道徳なことをして他の人々の肉を汚そうとする人は,たとえクリスチャンと称しても救われません。
権威に敬意を示さない人々を警戒しなさい
12,13 ペテロ第二 2章10節後半と11節に示されている通り,堕落した人々は権威に対してどんな態度を取りますか。
12 堕落した者たちの悪い動機は権威に対する態度から識別できるものです。その者たちはいかなる権威をも侮って,「主たる者の地位を見下(し)」ます。使徒ペテロは説明をこう続けています。「向こう見ずで片意地な彼らは,栄光ある者たちにおののかず,かえってあしざまに言います。しかしみ使いたちは,強さと力において勝っていながら,彼らをあしざまにとがめたりはしません。そうしないのはエホバに対する敬意からです」― ペテロ第二 2:10後半,11。
13 ですから,「栄光ある者たち」を意に介さない大胆でせん越な者たちに気を付けたいものです。クリスチャン会衆において,責任をゆだねられている忠実な人々は自分たちが高い身分にあるとは,また,仲間の信者より上であるというようには考えず,僕であると謙遜に考えます。(マタイ 23:8。テサロニケ第一 2:5-12)しかし,彼らは群れの監督もしくは「牧者」として聖霊によって任命されていますから,その奉仕の割り当ては『栄光あるもの』です。(使徒 20:28。ローマ 11:13と比較してください。)その人々は,また,栄光ある主イエス・キリストと偉大な牧者エホバ神を代表しています。(ペテロ第一 2:25; 5:4)ですから,聖書は会衆の成員が指導の任に当たっている人たちに服するように勧めているのです。(ヘブライ 13:17)ペテロ自身そうであったように,指導の任に当たっている人たちも間違うことがありますが,だからといってそれがその人たちを悪く言ってもよいという口実にはなりません。(ガラテア 2:11-14; ヨハネ第三 9,10と比較してください。)勤勉な「牧者」は会衆から尊敬されてしかるべきです。ところが人々に悪い影響を与える者たちは大胆にもクリスチャンの長老をあしざまに言います。エホバ神とみ子は,人が兄弟に向かって言う悪口やののしりの言葉を自分たちに向けられたものとみなされます。
14 忠実なみ使いたちは,偽りの教師の態度と全く異なるどんな態度を示しますか。
14 偽りを教える自己本位な教師と忠実なみ使いたちとの間にはなんと相違があるのでしょう。み使いたちは義に対して熱心です。しかし,たとえ反対者を扱う場合でも厳しい侮べつ的な言葉を用いません。例えば,「み使いの頭ミカエルは,悪魔と意見を異にし,モーセの体について論じ合った時,彼に対しあえてあしざまな言い方で裁きをもたらそうとはせず,ただ,『エホバがあなたを叱責されるように』と言いました」。(ユダ 9)このことから,他の忠実なみ使いたちはだれに対しても非難を浴びせることを決してせず,穏やかにしかも力強く事実を述べると結論づけることができます。み使いたちは,あしざまに言うことが造り主の神聖さ,あるいは純粋さに決して調和しないことを認めることによって,造り主にふさわしい敬意を示します。
15 ペテロの助言に従い,どんな種類の人を警戒しなければなりませんか。
15 他の人々をひどくけなしてから自分自身の格を上げる人々に警戒しなければなりません。そのような人物はそうした行為に対して不利な裁きを免れないということをいつも銘記しておくべきです。そうすれば,他の人に関心を抱いているように見えても,実際には自分の利益を追い求めているにすぎない者たちの言葉に耳を貸さないように気を付けることができます。使徒ペテロは,自己本位な者たちの結末について次のように評しています。
「これらの人びとは,もともと捕えられて滅ぼされるために生まれた理性のない動物のように,自分が無知でありながらあしざまに言う事がらのゆえに,まさに自らの滅びの道において滅びをこうむり,悪行に対する報いとして自らを損うことになります」― ペテロ第二 2:12,13前半。
16 堕落した人々はどのように「理性のない動物」のようですか。
16 堕落した欲情に支配される人間は「理性のない動物」のように振る舞います。動物に関してエホバは,「生きている動く生き物は皆,あなたがたのための食物としてよい」と言われました。(創世 9:3,新)あしざまに言う者たちは,そうした「理性のない動物」のようですから,正しい良心によって制御されず,したがって,神の方法や取り扱い方や活動に対して何の認識も示しません。また,霊的に貴重な事柄を正しく評価できないので,それらを無価値なものと言うこともあります。その誤った考えは身の破滅のもととなります。彼らは間違った見方を固守して自らに害を招き,不義の道の悪い結果を必ず経験するのです。確かに,わたしたちは希望をしっかりと保って,それらの者といっしょに滅ぼされないようにしたいと思います。
利己的な快楽と個人の利得を追い求める人々に気を付けなさい
17 ペテロ第二 2章13節後半から15節前半によれば,堕落した人々はさらにどんな特徴によって見分けられますか。
17 霊的でない人々は,とりわけ,安楽と快楽に対して激しい欲望を持つという悪い特徴を示します。使徒ペテロは次のように書きました。
「彼らは昼間のぜいたくな生活を楽しみとします。彼らは汚点またきずであり,気ままな喜びをいだいて自分たちの欺きの教えにふけりますが,一方では,あなたがたと宴席を共にします。姦淫に満ちた目を持ち,罪をやめることができず,不安定な魂を唆す者です。強欲さの面で鍛えられた心を持つ者です。のろわれた子らです。まっすぐな道を捨てた彼らは惑わされています」― ペテロ第二 2:13後半-15前半。
18 霊的でない人々は,イザヤ 5章11,12節に描かれている不忠実なイスラエル人とどのように似ていますか。
18 霊的でない人々は,他の人々を築き上げるために多くのことを行なえる昼間から,過度の飲食にふけってどんちゃん騒ぎをすることがあります。そのような人々は快楽のためだけに生きていた一部のイスラエル人とよく似ています。それらイスラエル人の宴会ではぶどう酒がふんだんに振る舞われました。夜が更けるにつれ,飲み騒ぐ人々は一層声高になり大騒ぎをして,情欲をかきたてる音楽を騒々しい宴会の伴奏音楽として用います。そのような人々について,預言者イザヤは次のように書いています。
「単に酔い酒を求めて朝早く起き出す者,晩の闇の中で遅くまでだらだらととどまり,ぶどう酒が燃え立たせる者たちは災いだ! そして彼らの宴には,たて琴と弦楽器,タンバリンと横笛,それにぶどう酒が必ずある。しかしエホバの働きを彼らは見ず,そのみ手の業を彼らは見なかった」。(イザヤ 5:11,12,新)
快楽を追い求める人々はこのように,創造者の偉大な業には証拠がないかのように振る舞いました。彼らはエホバ神に対する義務をすべて無視し,全く自制しなかったのです。ゆえに,エホバの裁きを免れることは期待できませんでした。
19 会衆と交わるある人々が快楽を愛する者であることは何から分かりますか。
19 今日神の僕であるととなえる人々の間で同様の事柄が生じても驚くには当たりません。結婚式のひろう宴や結婚記念日が,情欲をかきたてる音楽の大きな音に合わせて激しい感覚的なダンスをする場と化すことがあります。そのような祝いの席ではアルコール飲料がふんだんに振る舞われ,気ままで底抜けの浮かれ騒ぎが早朝まで,つまり夜明けまで続きます。ある国々では,生まれた子供の命名祝い,新築祝い,葬式,崇拝のための建物の献堂式が,あまりにも騒々しいから静かにしてほしいと近所の人から苦情が出るほど近所迷惑な,ひどく思慮の欠けた集まりに変えられます。国民が一般に慎み深いことで知られている国々でさえ,親しい者同士が大酒を飲んで「良いたより」の真理があしざまに言われるようになることがあります。確かに,真のクリスチャンはそうした行き過ぎた行為に用心しなければなりません。―ペテロ第一 4:3。
20 (イ)不節制な行ないにふける人々は会衆にどんな影響を与えますか。(ロ)高尚な機会でさえ,どのようにどんちゃん騒ぎと化しますか。
20 使徒ペテロの言葉通り,そのように振る舞う人々はクリスチャン会衆の汚点また傷のようであって,神の真の僕たちの清らかさを台なしにします。それらの人は,清潔な外衣についたしみ,あるいは美しい顔にできた目障りなしみのようです。ある人々の目的は快楽に対する欲望を満足させるために“全力を出す”ことなので,普通どこも悪くない集いをさえ騒々しいものに変えます。そして,“正常な息抜き”に過ぎないと称して自分たちといっしょに激しいダンスをしたり大酒を飲んだりするよう他の人々に誘いかけようとしたり,教えようとしたりします。ペテロの述べている「姦淫に満ちた目」がはっきり分かるかもしれません。社交の場で,男性の目はその場にいる魅力的な女性を不道徳な関心を抱いて見始めることがあります。不純な欲望があまりにも強くなると,結婚している男性の目までが罪を犯しかねません。(マタイ 5:28; マルコ 9:47と比較してください。)クリスチャンの原則をしっかりとわきまえていない女性は「不安定な魂」としてすぐに,堕落した男性のえじきになってしまいます。―テモテ第二 3:6,7と比較してください。
21 他の人々を不節制な生活に巻き込むような人は,なぜクリスチャン会衆にとって危険きわまりないでしょうか。
21 それらの男性は,弱い人を唆すのが巧みですから,危険きわまりないと言えます。使徒ペテロはその者たちのことを「強欲さの面で鍛えられた心を持つ者」と描写しています。その人生の目標もしくは目的全体は不当な欲望を満足させることのようです。それで彼らはその目標を達成する達人になります。弟子のユダもそのような者たちについて語っています。彼らは『忍び込んで』神の過分のご親切を「不品行の口実」に変え,それによってわたしたちの唯一の所有者であるイエス・キリストに不実な者となっているのです。ユダは彼らが多くの場合『自らの利益のために人物を賞賛する』こと,また分派を起こす者は「動物的な人間であり,霊性を備えてい(ない)」ことを教えています。(ユダ 4,16,19)そうした者がお世辞を言ったり見せかけの熱心さを示したりして会衆内で影響力を持つことに,あるいは目立った存在になることに成功するなら,非常に危険です。使徒ペテロが言明している通り,当然のことながら,それらの者は神ののろいを受け,滅びを受けるに値します。そのような分裂的で堕落した道を取る男たちについて言えることは,同様の道を取る女たちにも当てはまります。―啓示 2:20-23と比較してください。
22,23 他の人々を堕落させる人はどのようにバラムに似ていますか。
22 使徒ペテロは,また,堕落した男たちをバラムに例えてこう述べました。
「彼らはベオルの子バラムの道に従いました。彼は悪事の報いを愛しましたが,自分が正道に背いたことに対して戒めを受けました。ものを言わない駄獣が,人間の声でものを言い,その預言者の狂気の歩みを妨げたのです」。(ペテロ第二 2:15後半,16)
この占い師は,イスラエル人をのろうのは最高主権者の意志に反するということを十分承知していました。バラムは,エホバが自分に語らせる事柄以上のことは話さないという態度を上辺で取りながら,内心ではイスラエルをのろいたいという欲望を育てていました。バラムはモアブの王バラクが申し出た報酬を欲しがっていたのです。しかし,全能の神はバラム自身の雌ろばを用いてバラムをしっ責されました。至高者は奇跡によって,理解できる言葉を理性のない駄獣に話させました。(民数 22:1-35)石をさえ叫ばせることのおできになる方にとってそれは難しいことではありませんでした。(ルカ 19:40)バラムが利得に対して極端な貪欲さを示したことから,エホバ神は適切にも非常に珍しい方法を使ってしっ責をお与えになりました。バラムはイスラエルに関する神のご意志に抵抗しようとして,気が狂ったかのように振る舞いました。家畜からしっ責されて,イスラエルを首尾よくのろうことは無理だと分かったので,バラムはそうすることをしばらくの間思いとどまりました。―民数 23:1-24:9。
23 しかしながら,バラムはなおも報酬を得ようと心に決めていました。そして,とうとう,イスラエル人が自分たちの上に神ののろいを招くようなことをするようにしむける計画を提案し,モアブ人とミデアン人の女たちを使ってイスラエル人の男たちに偶像崇拝と不品行を行なわせることをバラクに教えました。(民数 31:16。啓示 2:14)その策略はかなり成功し,そのために2万4,000人のイスラエル人が死にました。―民数 25:1-9。
24 バラムの例から,自己本位な人についてどんなことが分かりますか。
24 バラムの例は,個人の利得のために正しいことを捨てる者たちの歩みを強力に示しています。たとえ奇跡をもってしても,その者たちが貪欲さを満足させるのをとどめることはできないのです。ですから,態度や言葉や振る舞いでわたしたちの良心をひどくかき乱すような人と親しく交わらないようにすべきです。自己本位な人は,自分の目標を達成するために他の人を害することに良心のとがめを少しも感じません。
25 ペテロ第二 2章17節の言葉は何を強調していますか。
25 ペテロは,そうした邪悪な者をさらに描写して次のように述べています。「この者たちは水のない泉,激しいあらしに吹き払われる霧であって,彼らにはやみの暗黒が留め置かれています」。(ペテロ第二 2:17)汚れた人と親しい仲間になっても,何の益も得られません。汚れた人たちは,疲れた旅人が新鮮な水を得られそうだと思って近付いてみたものの,水の源が干上がっていてがっかりさせるような井戸とか泉によく似ています。また,作物の栽培に必要な雨が降りそうだという期待を持たせながら,強い風にたちまち吹き払われてしまう薄い,霧のような雲に似ています。偽りを教える者たちは光,つまり啓発の源ではありません。彼ら自身,自分たちを待ち受ける有罪判決を表わす真っ暗やみ,すなわち「やみの暗黒」に向かっています。
「大言」に用心しなさい
26 使徒ペテロは,堕落した人々が目的を達成する方法をどのように描写していますか。
26 会衆内の危険分子は上辺は良く見えるので警戒しなければなりません。キリスト教の真理と生き方を十分身に着けていない人々は特に用心しなければなりません。自己本位な人々は強烈な印象を与える方法を使うでしょう。そのおおげさな説得にだまされる人は災いです。使徒ペテロはこう述べています。
「なんの益にもならない大言を吐き,また,誤りの中で暮らしている人びとからかろうじて逃れようとしている者たちを,肉の欲望とふしだらな習慣によって唆すからです。それらの者に自由を約束しながら,彼ら自身は腐敗の奴隷となっているのです。だれでもほかのものに打ち負かされる人は,そのものの奴隷にされるからです」― ペテロ第二 2:18,19。
27 堕落させる影響を及ぼす人々の話し方と態度にはどんな特徴がありますか。
27 誤りを採用するように,または清い良心の声に逆らう道に従うように他の人々を説得する人たちは往々にして自信たっぷりに話します。そして,自分自身と自分の言葉をひどく買いかぶり,自分が語る事柄は非常に重要であると考えます。(コリント第二 10:10,12; 11:3-6,12,13と比較してください。)謙遜な精神で確固とした聖書的な理由を提出する代わりに,自分の論議の薄弱さをからいばりで隠しながら,力強く横柄にあざけったり,ずけずけ意見を述べたりすることがあります。(コリント第二 4:2と比較してください。)聖書の光に照らして調べると,その人たちの印象的な言葉は無意味で,だれにも益とならないことが分かります。
28 会衆内の堕落した分子に影響される可能性が大きいのはどんな人々ですか。
28 残念なことに,神の言葉の基礎知識を十分に教えられていない人々はその危険に気付かない場合があります。その『知覚力は正しいことも悪いことも見分けられるように訓練されていません』。(ヘブライ 5:14)それら不安定な人々は,この世で行なわれている神の名を汚す慣行から離れたのがごく最近であるために,そうした慣行にまだいくらか魅力を感じることも考えられます。
29 娯楽と気晴らしに対して聖書はどんな見方をしていますか。正確にはどんな場合に警戒する必要がありますか。
29 言うまでもなく,娯楽や気晴らしの問題を考える際には平衡の取れた見方が必要です。聖書は禁欲生活をすることを神の僕に求めていません。また,聖書によれば,自己否定はそれ自体に美点があるのではなく,良い目的を考慮に入れてそれが行なわれるときにのみ美徳となります。(伝道 2:24; 3:1,4,13; 8:15; コリント第一 13:3; コロサイ 2:20-23と比較してください。)とはいえ,それを言い訳にして,堕落した肉のなすがままになり,またクリスチャンの自由を悪をおおい隠す手段として,極端なことをしてもよいというわけではありません。(ガラテア 5:13,14。ペテロ第一 2:16)そのようにすることは,神を愛すること,およびわたしたちに与えられている「王たる律法」すなわち隣人を自分自身のように愛するということと全く相反します。(ヤコブ 2:8,12)それとは違った事柄を説く,そして自分たちの行き過ぎに賛同しない人々をあざける人たちは,依然として自分の利己的な傾向の奴隷であることを示しています。
30 会衆内の堕落させる影響のために,ついにはどんなことが起こりかねませんか。
30 ですから,分別を保って両極端を避ける必要があります。うかつに快楽を追求する道へと導かれる危険があることは否定できません。ある期間がたつと低俗化し,だんだん極端なダンスをしたり大酒にふけったりするようなパーティーに,あるいは性の不道徳とサディズムを美化する娯楽を見ることに徐々に巻き込まれることがあります。それらの不健全な影響を与えるものを危険でないと主張するのは浅はかなことです。それには,クリスチャンの良心を弱め,道徳心を損なう影響があることはまず間違いありません。そのようなことはないとうそぶく人は,多くの場合,でい酔と性的不行跡の犠牲者になります。―箴 13:20。
31,32 会衆のある成員たちは「裁きの日」まで何を行ない続けますか。それはどんな結果を招きますか。
31 実際,使徒ペテロは,『[不義の人びとが]切り断たれる裁きの日』まで神の僕たちの間に引き続きどんなことが起こるかを正確に描写しました。(ペテロ第二 2:9)官能的快楽に対する欲望を満足させることができるようにクリスチャンの自由の限界を論外なほど広げる人々は跡を絶たないでしょう。それらの人たちは聖書の次の命令に従うことを望みません。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい」。(コロサイ 3:5)それどころか,そうした誤った欲望をかき立てる娯楽を選びます。そして他の人々を巻き込むときに,“もし自分の良心が許すなら,それは何も悪くない”と論じるかもしれません。しかし,その人たちは,汚れた良心は安全な導きにならないということを見落しています。悪い欲望に屈しており,ゆえに悪い欲望の奴隷となっているのです。彼らが他の人々に対して与える“自由”に関する約束は人を惑わすものです。
32 悪行を犯す生活にまたもや飛び込む人々はまったく悲惨な結果を見ることになります。使徒ペテロは次のように書きました。
「たしかに,主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れたのち,再びその同じ事がらに巻き込まれて打ち負かされるなら,そうした者たちにとって,最終的な状態は最初より悪くなっているのです。彼らにとっては,義の道を正確に知らないでいたほうが,それを正確に知ったのち,自分に伝えられた聖なるおきてから離れてゆくよりはよかったのです。真実のことわざの述べる次のことが彼らの身に生じました。『犬は自分の吐いたものに戻り,豚は洗われてもまたどろの中で転げ回る』」― ペテロ第二 2:20-22。
33 (イ)人は,真理を知るようになってどのように変化する場合がありますか。(ロ)この世の道にもどることは,なぜ非常に重大な事柄ですか。
33 使徒ペテロはなぜこのように言うことができたのでしょうか。人は,主イエス・キリストの正確な知識を得ると,変化しなければならないことに気付き始めます。そして,大酒,不道徳な生活,かけ事その他の悪習をやめるかもしれません。イエス・キリストの弟子に期待されている事柄に従うために自分自身を清めることによって,「世の汚れ」から,つまり神が非とされていると分かった慣行から逃げる,つまり逃れるのです。ところが,神の名を汚すような慣行に再び陥ることによって,その者は正しいと分かっている事柄を故意に捨てるのです。イエス・キリストの知識と,聖書によって訓練された良心は当初,悪行に対する抑制力となっていました。人が,その健全な抑制力から逃れると,キリストの弟子として歩み始める以前よりもおそらくもっと悪くなることでしょう。その人は,義の道を知らない人々が行なうよりもさらに悪いことを行ないかねません。なぜなら,その人の良心は汚され,焼印を押されさえして,無感覚な組織のようになっているからです。(テモテ第一 4:2と比較してください。)仮にその人が正しい道を全く知らなかったなら,その悪い行状はそれほどまでひどくキリストの名を汚さず,知りつつ犯す場合ほど重大な罪を犯さず,神からそれほど厳しい裁きを受ける必要もなかったことでしょう。―ルカ 12:45-48; テモテ第一 1:13,15,16と比較してください。
34,35 (イ)不潔な犬と豚に関する箴言からどんなことが言えますか。(ロ)わたしたちはその箴言からどんなことを心に銘記すべきですか。
34 ペテロが引用している箴言を考えると,罪の生活を始める人々は,クリスチャンの生き方において進歩する機会を活用していないことは明らかです。(ペテロ第二 1:2-11)表面上は悪い慣行を捨てていても,それらを憎むまでに至っていない人々がいるのです。そのような人たちは,この世の「吐いたもの」,汚物を実際には捨て切れなかったのかもしれません。この世の汚物にまだ幾らか魅力を感じているので,勧められるとそれにもどる可能性があります。その人たちは,道徳的退廃というこの世のどろの中で転げ回りたいと心の中で願っているかもしれません。また,ほかにも,キリストの弟子であることの価値に対する認識を深めないで,結局,この世が提供するもののほうにもっと魅力を感じる人もいることでしょう。一度は吐き気を催すほどいやだった状態に,そのようにしてつり込まれる人々の堕落は悲劇と言うほかありません。
35 霊感を受けて書かれたその箴言の言葉は,クリスチャンととなえるすべての人にとって警告の教えとなっています。道徳的にまた霊的に清い心を培わず,この世の汚れたものを真に憎悪する気持ちに欠けているなら,霊的に破滅する重大な危険に直面しています。クリスチャンは,堕落した世の誘惑に抵抗する面で警戒をゆるめることは決してできません。悪い欲望に支配されないように,それを殺さなければなりません。また,この世が提供するものをあこがれの目で見て悪い欲望を刺激すべきでもありません。―コリント第一 10:12。コロサイ 3:5。
目ざめていなさい!
36 わたしたちの主人である方を喜ばせるには,道徳的,霊的清さを保つだけでなく,何をする必要がありますか。
36 道徳的かつ霊的な清さを保つことに加え,他の人々を物質的にも霊的にも助けて,わたしたちの主人に活発に仕える必要もあります。わたしたちの生き方全体が,霊的に目ざめていて活発であることを示しているべきです。そのことの大切さを強調して,使徒ペテロはこう述べました。
「愛する者たちよ,わたしはこれで二度めの手紙をあなたがたに書いています。この中でわたしは,最初の手紙と同じように,思い出させる意味であなたがたの明せきな思考力を呼び起こしているのです。それはあなたがたが,聖なる預言者たちによってあらかじめ語られたことばと,あなたがたの使徒たちを通して与えられた主また救い主のおきてを思い出すためです。というのは,あなたがたはまずこのことを知っているからです。つまり,終わりの日にはあざける者たちがあざけりをいだいてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日からも,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言うでしょう」― ペテロ第二 3:1-4。
37 (イ)なぜ『明せきな思考力を呼び起こす』べきですか。(ロ)預言者たちはどんな重大な出来事を指し示しましたか。
37 神の是認を得るのに肝要な事柄を正しく評価できるように,『明せきな思考力を呼び起こす』ことは今日確かに有益です。(ペテロ第二 1:12-15と比較してください。)エノクにまでさかのぼる「聖なる預言者たち」は清算の日を警告しました。ユダの手紙の14節と15節にはこう書かれています。「そうです,アダムから七代めの人エノクも彼らについて預言して言いました。『見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔なしかたで行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人がご自分に逆らって語ったすべての忌むべきことに関して有罪を証明するためである』」。幾世紀かのちに,イザヤ,ダニエル,ヨエル,ハバクク,ゼパニヤ,ハガイ,ゼカリヤ,マラキといったヘブライ人の預言者たちも同様の預言をするように促されました。―イザヤ 66:15,16。ダニエル 7:9-22。ヨエル 3:9-17。ハバクク 3:16-18。ゼパニヤ 1:14-18。ハガイ 2:21,22。ゼカリヤ 14:6-9。マラキ 4:1-6。
38 用意のできた状態を保つよう努力すべきなのはなぜですか。
38 これらすべての預言者や他の預言者たちによって予告された神の裁きは必ず成就します。ですから,わたしたちは,用意のできた状態を保つよう常に努力し,至高者のみ前での清い立場を危うくしないようにしなければなりません。
39 イエス・キリストの命令によって伝えられているのはどんな音信ですか。
39 その預言者たちによるわたしたちへの音信は,主イエス・キリストの命令によって伝えられているものと同じであり,パウロを含む使徒たちによって繰り返し語られています。神のみ子の弟子であるわたしたちは,み子への奉仕に活発であり,道徳的および霊的清さを保ち,わたしたちの主人が不敬虔な人々に裁きを執行するために来られるとき,いつでも迎えられるようにしているべきです。神のみ子は次のように言われました。
「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。
40 霊的に眠り込まないようにするには,何をしなければなりませんか。
40 そうです,霊的に眠り込まないように用心しなければなりません。それには,飲食や娯楽に気ままにふけらないようにすべきです。そうしたことに度を過ごすと,精神的および霊的知覚力が鈍り,心は罪悪感で押しひしがれ,心の良い動機が締め出されてしまいます。同様に,生計を立てることに対する過度の心配は,エホバが本当に必要なものをことごとく備えてくださるという確信を心から奪い,人を不安な気持ちにさせます。(マタイ 6:25-34)裁きの時に主イエス・キリストに是認される者でありたいということが心の主要な動機でなくなると,人は霊的に非常に危険な状態になります。主人であるイエス・キリストに,否認される状態にあるところを見付けられるかもしれません。
41 キリストが栄光のうちに必ず来られることに対する信仰は,常に,人がイエスに忠節であり続ける助けとなってきましたが,それはなぜですか。
41 ペテロのように,他の忠実な使徒たちも,裁きを執行し忠節な弟子たちに報いを与えるためにキリストが必ず来られることを常に念頭に置いておくことを仲間の信者に教えました。その主眼点は,み子が「力と大いなる栄光を伴(って)」来られるときに是認される者として見いだされるようクリスチャンを援助することでした。(マタイ 24:30)イエスもそうなさったように,使徒たちも,終わりまで忠実さを証明することの大切さを強調し続けました。その終わりとは,人が死ぬ時を意味することもあれば,「エホバの日の臨在」の時を意味する場合もあります。(ペテロ第二 3:12)聖書の中で,キリストの共同相続者の復活すらキリストの再来と関連付けられていますから,真の弟子たち全員の希望は,神のみ子が栄光に輝く天の王として到来することと切り離せない関係にあります。(マタイ 10:28; 24:13,36-44。テサロニケ第一 1:9,10; 4:14-17)ですから,クリスチャン会衆の全歴史を通じて,主が「力と大いなる栄光を伴(って)」到来することに対する揺るぎない信仰は,人が主に忠節であることを証明する助けとなってきました。
あざける者たちに欺かれてはならない
42 (イ)なぜ今日でもあざける者の声を聞きますか。(ロ)彼らはどのように論じますか。
42 イエス・キリストが栄光のうちに表わし示されるときに生きていたいという強い願いが一つの理由となって,ある特定の期間もしくは年を不敬虔な事物の体制の終わりであると考えはじめた信者がいつの時代にも存在してきました。今の「終わりの日」にもそのような人々がいます。幾つかの期待が実現しなかったので,多くの人はつまずいて,この世のならわしにもどりました。ペテロの言葉通り,今日でも,わたしたちはあざける者の声を聞いています。(ペテロ第二 3:3,4)彼らは要するに次のように言うのです。“神のみ子が不敬虔な者を処刑し,弟子たちに報いを与えようとしておられると信じることにはどんな根拠があるのか。創造の時以来何も変わっていないではないか。人間の営みは依然元のままで,間もなく悲惨な終わりが来るというきざしは少しもない。男はめとり,女は嫁ぎ,子供たちは生まれ,人は相変わらず年老いて死んでいく”。このようにして,あざける者たちは,主イエス・キリストが裁きの執行に来ることなど決してない,あるいは,それははるか遠い先のことなのでさしあたり重要でないということをほのめかします。
43 いつの時代でも,キリストの弟子は責任を果たすことに勤勉でなければならなかったことは,どんなことから分かりますか。
43 それらのあざける者たちは,死かそれとも「エホバの日」かどちらかが必ず自分たちを襲うという事実を完全に見失っています。どちらに直面する場合でも,それ以後に立派な業という形で天に宝を積む機会はありません。(ルカ 12:15-21,31,33-40)ですから,イエス・キリストの弟子が責任にむとんちゃくでいてよい時期は歴史上一度もありませんでした。確かに,責任にむとんちゃくでいることの危険は今日はるかに大きくなっています。
44 わたしたちはどんな基本的な責任を果たすべきですか。
44 では,今日,わたしたちはどんな責任を果たしているべきでしょうか。まず第一に,わたしたちは,「すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」と命令されています。(マタイ 28:19,20)そうです,事物の体制の終結の時に,「王国の良いたより」を全世界に宣べ伝えることに参加するという特権があるのです。(マタイ 24:14)今,特にきわめて大切なのは,兄弟たちが必要としている援助を差し伸べ,思いやりを示し,励ましを与えて,すべての兄弟たちに愛を示す義務を果たすことです。(マタイ 25:35-40; ヘブライ 13:1-3; ヨハネ第一 3:16-18と比較してください。)加えて,下劣な肉の業で汚れないように絶えず努力する必要があります。―マタイ 7:21-23。ガラテア 5:19-21。
エホバは,あざける者たちの誤りを証明された
45,46 エホバは,あざける者たちが誤っていることを示すどんな証拠を備えておられますか。
45 わたしたちは引き続きイエス・キリストの弟子にふさわしい生活をしつつ,次のことを常に念頭に置いていたいと思います。すなわち,エホバ神ははるか昔に,あざける者たちが誤っていることを否定の余地なく証明する証拠を備えられたということです。使徒ペテロはそのことに注意を促してこう書きました。
「彼らの望みのままに,このことが見過ごされているからです。つまり,神のことばにより,昔から天があり,地は水の中から,そして水の中に引き締まったかたちで立っていました。そして,それによってその時の世は,大洪水に覆われた時に滅びをこうむったのです」― ペテロ第二 3:5,6。
46 神がかつて一度不敬虔な人々の世を滅ぼされたという事実は,人間の営みに大きな変化が起こることはなく,すべてのものは「創造の初め以来と全く同じ状態を」保つという,あざける者が下す判断が間違っていることを教えています。神がみ子を用いて不敬虔な人々を処罰されるという,神ご自身の約束の言葉をわたしたちは持っています。その言葉は非常な力を持っているので,成就しないということは絶対にあり得ません。
47 創造の記録は,神の「ことば」の力をどのように明らかにしていますか。
47 エホバの創造の業に関する聖書の記述は,神の「ことば」が力を持っていることを明らかにしています。創世記 1章からは,至高者が言葉を出される,つまり命令を発せられると,その目的は成し遂げられたも同然であることが分かります。(詩 148:1-6と比較してください。)二日目に関して,このように述べられています。「次いで神は,『水の間に天空が生じ,水と水との間に分離が起きるように』と言われた。そうして神は天空を造り,また天空の下にあるべき水と天空の上方にあるべき水との間を分けはじめられた。そしてそのようになった」。(創世 1:6,7,新)それから,三日目に,「神は,『天の下の水は一つの場所に集まって乾いた陸地が現われるように』と言われ(ました)。するとそのとおりにな(りました)」― 創世 1:9,新。
48 地はどのようにして,「水の中から」そして『水の中に引き締まったかたちで立つ』ようになりましたか。
48 創世記に記録されている事柄は,使徒ペテロが述べていることと完全に調和しています。乾いた陸地が地球上の水の上に現われたので,「地は水の中から引き締まったかたちで立っていました」。しかしまた,地は「水の中に」立っていました。天空(生命を維持するために必要な種々の気体を含んでいた)の上に地球を取り巻く水があったからです。(箴 8:24-29と比較してください。)このような配列は「神のことば」によって生じました。
49 (イ)『それによってその時の世は滅びをこうむった』とは,どのような出来事があったのですか。(ロ)強力な「神のことば」は将来のどんな出来事を確実なものとしていますか。
49 地上からはるか高い空中にあった水と地球上の水は,世界的な洪水の可能性を生み,実際それらは至高者が不敬虔な世を滅ぼす際に用いられることになりました。ですから,神がキリストの臨在の時に必ず人間の営みに介入されるということをあざける人々すべてにとって,その大洪水は見せしめとなっています。世界的な洪水を可能にした強力な言葉は,現在の邪悪な事物の体制の滅びを示している言葉でもあります。使徒ペテロはこう続けています。「しかし,その同じみことばによって,今ある天と地は火のために蓄え置かれており,不敬虔な人びとの裁きと滅びとの日まで留め置かれているのです」― ペテロ第二 3:7。
50 (イ)現在の古い事物の体制の滅びに関して,クリスチャン会衆に交わるある人々はどんな見解を受け入れましたか。(ロ)そのような態度はどのように表われていますか。
50 とりわけ,使徒ペテロがこの言葉を書いてから幾世紀もたっているため,また,期待していた事柄が成就していないために,クリスチャン会衆に交わる人々の中にはそうした滅びが果たして来るのだろうかと疑問に思った人々がいます。その人たちは,公然とあざける者たちに加わらないかもしれませんが,もはや「裁きの日」を考慮に入れるべき出来事とみなしません。クリスチャンの責任を果たすことにむとんちゃくになり,霊的に眠りこけます。そして,快楽や持ち物の点で現在の事物の体制からできるだけ多くのものを得ようと努めます。
エホバの辛抱に感謝する
51 キリストが刑を執行する者として来られることが手間取っているとなぜ考えるべきではありませんか。
51 人間の観点からすると,神の復しゅうを執行する者としてキリストが来られるのにずいぶん手間取っているように思えるかもしれません。ところが,エホバ神の見地からすればそうではありません。したがって,霊的に眠らないようにするためには,至高者の観点から物事を見る必要があります。そうする点で,使徒ペテロの言葉は助けになるでしょう。こう書かれています。
「しかし,愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです。しかし,エホバの日は盗人のように来ます」― ペテロ第二 3:8-10。
52,53 エホバにとって,どういう意味で,千年は一日のようであり,一日は千年のようですか。
52 エホバは人間とかかわりのある時間に対して無関心ではありません。(創世 1:14,15)神は,時間を記録するものとして人間をおつくりになりました。聖書によれば神は特定の期間を設けられましたが,それらの期間は人間の時間の数え方に従い幾年というふうに計算されています。(創世 15:13-16。出エジプト 12:40,41。ガラテア 3:17。民数 14:33,34; 32:13。申命 2:7。ヨシュア 5:6。使徒 13:20)エホバは,始めも終わりもなく,永遠から永遠に存在される神ですから,神ご自身の存在を時間で計ることはできません。(詩 90:2,4)ですから,人間にとっての一千年,つまり36万5,000日余りの期間も,比較的に言えば,永遠のエホバにとってはわずか24時間の一日のようです。
53 霊感を受けたペテロは,「エホバにあっては,一日は千年のようであ(る)」とも述べていますが,それは,地的な事柄,人間の営みに関しエホバにとって時間がものうくのろのろと進むという意味ではありません。それどころか,人間なら千年もかかる事柄を,神は24時間の一日で成し遂げることがおできになります。しかし,至高者は,物事の速度を速めることがおできになるのですが,時間を気にする必要が全くありません。そのうえ,至高者がある行動を取るまでに千年待とうと思われる場合,それは比較的に言って,わずか「一日」待っておられるに過ぎないのです。
54 (イ)エホバ神が遅いと考えるべきでないのはなぜですか。(ロ)わたしたちは,神の辛抱からどのように益を受けていますか。
54 したがって,使徒ペテロが第二の手紙を書いたとき以来幾世紀もたっていることを神の遅さの証拠と考えるのではなく,その期間神が驚くべき辛抱を示されたのだと考えるべきです。それは,あらゆる土地の人々が悔い改めて生きるよう天の父が願っておられることをはっきりと証明しています。ペテロが指摘したとおり,神の辛抱はクリスチャンにとって益となりました。クリスチャンもかつては信仰を持っていませんでした。したがって,至高者から是認される立場を得るために悔い改める必要があったのです。ところで,仮に神の裁きが不敬虔な世に執行されていたとしたら,そのときにまだ悔い改めていなかった人々は滅びたことでしょう。それで,エホバの辛抱によってクリスチャンの救いは可能となりました。そして,現在でもさらにほかの人々が悔い改めて生きる機会が神の辛抱によって引き続き開かれているのです。とはいえ,神の辛抱がいつまでも示されるわけではありません。主イエス・キリストは,不敬虔な者たちを処刑する業を始められるとき,盗人のように突然,「燃える火のうちに」表わし示されます。―テサロニケ第二 1:7-9。
55 わたしたちは,キリストが裁きを執行するために必ず来られることを考えて何を行なっているべきですか。そのことは,わたしたちにとって何を意味するでしょうか。
55 主イエス・キリストはいつ何時表わし示されるか分からないので,神とキリストのみ前における自分の立場を真剣に考える必要があります。立派な業の記録を作り,その結果お二人から是認されたものとみなしていただくのに時間は限られています。主の裁きの日は油断している人々を不意に襲うことを,聖書ははっきり示しています。クリスチャンの責任にむとんちゃくでいるなら,その日は盗人のように,不用意なわたしたちを突然襲いかねません。ですから,わたしたちは,個人的な願望や快楽のためにエホバと主イエス・キリストへの忠実な奉仕をおろそかにしないようにし,毎日を自分にとって最後の日であるかのように過ごすことに努めるべきです。そうすれば,将来,時間や体力や資力の用い方で後悔することは決してないでしょう。したがって,主イエス・キリストが表わし示されるとき,わたしたちが罰を受けるに値する不忠節な奴隷としてあばかれるということもありません。むしろ,その時は,わたしたちが神のおつくりになる「新しい天」もしくは「新しい地」の一部として比類のない祝福を得る期間の始まりとなります。確かにこれは守るに値する壮大な希望です。―ペテロ第二 3:13。