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真理に帰るべき時目ざめよ! 1973 | 1月22日
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の予告どおり,現在こうした事柄は過ぎ去ったものとなっています。
したがって,これらの顕示は,第一世紀のキリスト教に明らかに見られた「霊の賜物」の源とは異なるところから来ているにちがいありません。今日では,声を聞くとか,霊に取りつかれるというようなことは心霊術と関係があります。したがって,イエスの親しい弟子が与えている次の警告に注意する必要があります。『愛する者よ,すべての霊を信ずな,その霊の神より出づるか否かを試みよ。多くの偽預言者,世に出でたればなり』― ヨハネ第一 4:1。
教理に対する関心
“イエス運動”の存在は,霊的な事柄が,今日の多くの若者の関心を捕えることを示しています。いく人かの若者はさらに深く探求しました。彼らは,“イエス運動”が聖書を読むとはいえ,聖書の真の教えに完全にもどっていなくて,キリスト教世界から全く偽りの教理をいくつか持ち出していることを知りました。彼らはエホバの証人といっしょにさらに深く聖書を調べてみて,人間の魂の不滅,地獄の火,三位一体など,聖書ではなく異教に根をもつ,これまで信じてきた信条を捨てる必要に気づきました。今では彼らは聖書のすばらしい真理を活発に他の人びとに伝えています。
エホバの証人と聖書を勉強する人びとは,これが「即座の改宗」の問題でないことを発見します。それには勉強が要求されます。聖書の教理や原則や預言について学ばねばなりません。彼らは,流行に対する熱狂ではなく,ほんとうに堅い信仰の基礎 ― 知識に基づいた深い確信を築き上げます。
「あなたは実際にエホバの証人のどこに関心を持ちましたか」と,ある元“イエス運動”参加者は質問されました。
「教理です。理くつに合っていました」と彼女は答えました。
彼女は次のように説明しました。「わたしは王国会館に踏み込んで,『わたしの質問に答えなさい』と言いました。その答えががっちりと聖書に基礎を置いていたので,わたしは切り返すことができませんでした。抜け穴を捜しました。でもひとつも見つからなかったのです」。
聖書が差し伸べる,地球の近い将来に対する希望を理解すれば,麻薬の必要も,叫び声を上げ,手を打ち鳴らし,床を踏み鳴らす,興奮した集会の必要も感じなくなります。これらの約束を理解した人には,平静さと,理性的な決意とが心のうちに生まれ,このすばらしい約束をほかの人びとと分かち合うことに,大きな喜びを見いだすのです。
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真のキリスト教のしるし目ざめよ! 1973 | 1月22日
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真のキリスト教のしるし
大きな教会,あるいは長年,教会員であることが真のキリスト教のしるしでないことに,たいていの人は同意するだろう。しかしそれらのしるしは実際にどんなものであるべきだろうか。初期クリスチャンたちの間における福音伝道に関する著書の中で,E・M・グリーンが述べていることは注目に値する。
「初期の福音伝道における最も著しい特徴の一つは,それに携わった人々である。信仰を伝達することは,非常に熱心な,あるいは正式に任命された福音伝道者の領域であるとはみなされていなかった。福音伝道はすべての教会員の特権,また義務であった。われわれは,使徒たちとさすらいの預言者たち,貴族と貧しい人,知識人と漁師のすべてが,キリストによってその教会に委ねられたこの主要な務めに熱意を込めて携わっているのを見てきた。教会の一般の人々は,それを彼らの仕事と理解していた。キリスト教は形式張らない宣教者たちによって広められた,主として平信徒による活動であった……
「年齢,背景,性別,および教養の異なるそうしたさまざまな人々の示した感化力を伴うこの熱意は,彼らの生活の質によって裏づけられていた。彼らの愛,彼らの喜び,変化した彼らの習慣それに漸進的に変化した人格は,彼らが伝えた事柄に重要性を付すものとなった」。
このようなわけで,老若を問わず会衆内のすべての人による熱心な福音の伝道とともに,クリスチャンとして実際に変化したという証拠 ― これらが真のキリスト教のしるしなのである。
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