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“花の島”で開花する王国の真理ものみの塔 1985 | 7月15日
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違いありません。1985年4月4日に行なわれたイエス・キリストの死の記念式の出席者は4,848人でしたから,耕す業はまだまだ沢山あります。マルチニク島のエホバの証人は皆,神のメシア王国の義の支配下で全地が花園 ― パラダイス ― になる時を楽しみにしています。―ルカ 23:43。
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読者からの質問ものみの塔 1985 | 7月15日
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読者からの質問
■ ある人物を自分の家に迎え入れたりあいさつをしたりしないようにと述べるヨハネ第二 10節の言葉は,偽りの教理を広めようとした人々だけに当てはまるのですか。
文脈に照らしてみると,この助言は世に出た『多くの欺く者』,すなわち「イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たち」に関するものでした。(ヨハネ第二 7)使徒ヨハネは,イエスが存在したことやイエスがキリストまた贖う者だったことを否定する者を,当時のクリスチャンたちがどのように扱うべきかについて導きを与えていました。ヨハネは次のような指示を与えています。「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」。(ヨハネ第二 10,11)しかし,聖書のほかの箇所を見ると,これが適用される範囲はもっと広いことが分かります。
コリントのクリスチャンたちの間で,一人の男が不道徳を習わしにしていたことがありました。そこで,使徒パウロは,「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように」と,コリントのクリスチャンたちに書き送りました。(コリント第一 5:11)さて,このことは,かつての兄弟で,ここに挙げられたような甚だしい悪行のゆえに追放された人だけに当てはまるのでしょうか。
いいえ,そうではありません。啓示 21章8節も,殺人をする者,心霊術を行なう者,偽り者などは悔い改めないなら,第二の死を受けるにふさわしい者の中に含まれることを示しています。確かに,コリント第一 5章11節の助言も,こうした事柄で有罪とされたかつてのクリスチャンたちにも,同じほどの効力をもって適用されていたことでしょう。さらにヨハネは,ある人々が「わたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです。しかし彼らが出て行ったのは,すべての者がわたしたちの仲間なのではないことが明らかになるためです」と書きました。(ヨハネ第一 2:18,19)ヨハネは,それらの者たちが甚だしい罪で追放されたとは述べていません。中には,ある教理のことで意見を異にしたために,もはや会衆にいたくないと心に決め,やめてしまっただけの人もいたかもしれません。また,疲れてしまって,弱り果ててしまったような人もいたかもしれません。―コリント第一 15:12。テサロニケ第二 2:1-3。ヘブライ 12:3,5。
言うまでもなく,ある兄弟が罪の道へとさまよい出てしまったなら,円熟したクリスチャンたちがその人を助けようと努めたはずです。(ガラテア 6:1。ヨハネ第一 5:16)その人が疑いを抱いていたのであれば,円熟したクリスチャンたちは『その人を火の中からつかみ出』そうとしていたはずです。(ユダ 23)たとえその人が集会や公の宣教に出かけて行かず,不活発になったとしても,霊的に強い人々はその人を元の状態に回復させようと努めたはずです。その人は自分の弱くなった信仰と低い霊性を反映して,会衆の中にいるために煩わしい思いをしたくないと告げたかもしれません。円熟した人々はその人にうるさく付きまとうことはしなかったでしょうが,時々友好的な訪問をしていたかもしれません。そのような愛のある,辛抱強くて憐れみ深い努力は,一人も失われることがないようにという神の関心を反映していたことでしょう。―ルカ 15:4-7。
それとは対照的に,ヨハネの言葉は,ある人々が単に霊的に弱くなって不活発になる以上のところにまで進んだことを示唆しています。それらの人々は実際に神の会衆を放棄したのです。神の民に対してあからさまに反対の立場を取り,もはや会衆の中にいたくはないと宣言する人もいたことでしょう。その人はかつて自分が抱いていた信仰を,手紙などによって公式に否認したかもしれません。言うまでもなく,会衆は自らを断絶するという当人の決定を受け入れていたことでしょう。では,会衆はその人をその後どのように扱ったでしょうか。
ヨハネはこう述べています。「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。この教えにとどまっている者は,父も子も持っているのです。この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません」。(ヨハネ第二 9,10)当然のことながら,この言葉は偽りの宗教に加わったり偽りの教理を広めたりすることにより背教者になった人に当てはまったことでしょう。(テモテ第二 2:17-19)しかし,ヨハネが『わたしたちから出て行った』と述べた人々はどうでしょうか。1世紀のクリスチャンたちは,追放された悪行者や活動的な背教者と交わるべきでないことは知っていたでしょうが,追放されたのではなく,キリスト教の道を意識的に否認した人に対しても同様に行動していたでしょうか。
「聖書理解の助け」(英文)は,「背教」という語が文字通りには,「『あるものから離れている』ことを[意味し],それでいて,『脱会,放棄,反逆』という意味合いもある」a ギリシャ語に由来することを示しています。「助け」の本はさらにこう付け加えています。「使徒たちの警告の中に示されている,背教の様々な原因には次のようなものがあります。信仰の欠如(ヘブライ 3:12),迫害に直面した際の忍耐の欠如(ヘブライ 10:32-39),正しい道徳規準の放棄(ペテロ第二 2:15-22),偽りの教え手の『まやかしの言葉』や『人を惑わす霊感のことば』に聴き従うこと(……テモテ第一 4:1-3)……そのような人々は意識的にクリスチャン会衆を捨てることにより,『反キリスト』の一部になります。(ヨハネ第一 2:18,19)」。
意識的かつ公式に自らを会衆から断絶した人は,この記述に相当していたことでしょう。神の会衆を故意に放棄し,キリスト教の道を否認することにより,その人は自らを背教者にしていたのです。忠節なクリスチャンは背教者との交友を望まなかったことでしょう。たとえそれまで友人だったとしても,ある人が会衆を放棄し,背教者になったのであれば,当人は兄弟たちとの密接な結び付きの基盤を退けたことになります。ヨハネは,自分自身,『神を持っていない』者や『わたしたちの仲間ではない』者を自分の家には入れないことをはっきりとさせました。
聖書的に言って,神の会衆を放棄する人は世の人以上にとがめるべき者になります。なぜでしょうか。パウロは,ローマ世界のクリスチャンたちが毎日のように,淫行の者,ゆすり取る者,偶像を礼拝する者と接していたことを示しました。しかしクリスチャンは,「兄弟と呼ばれる人で」不敬虔な道を再び歩み始めた者との「交友をやめ」なければならない,とパウロは述べています。(コリント第一 5:9-11)同様にペテロも,「世の汚れから逃れた」人で,その後以前の生活に戻った人は泥の中に戻る豚のようである,と述べています。(ペテロ第二 2:20-22)ですから,意識的に『彼らの間から出て行った』者をクリスチャンは『自分たちの家に迎え入れてはならない』と指示したヨハネは,調和の取れた助言を与えていました。―ヨハネ第二 10。
ヨハネはさらに,「その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」と付け加えました。(ヨハネ第二 11)ここでヨハネは,13節にあるアスパゾマイという語ではなく,カイローというギリシャ語のあいさつの言葉を使っています。
カイローは歓ぶことを意味しました。(ルカ 10:20。フィリピ 3:1; 4:4)この語はまた,口頭あるいは文面でのあいさつに用いられました。(マタイ 28:9。使徒 15:23; 23:26)アスパゾマイは,「両腕に抱きしめる,それゆえあいさつをする,歓迎する」ことを意味していました。(ルカ 11:43。使徒 20:1,37; 21:7,19)どちらの語もあいさつの言葉になり得ますが,アスパゾマイは丁寧な「こんにちは」というような言葉以上のことを示唆したかもしれません。イエスは70人の弟子たちに,だれにもアスパセステーしてはならないと告げました。こうしてイエスは,業が緊急であるゆえに,口づけや抱擁それに長い会話を伴う東洋式のあいさつを交わす時間がないことを示されました。(ルカ 10:4)ペテロとパウロは,『愛の口づけ,あるいは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わし[アスパステー]なさい』と勧めました。―ペテロ第一 5:14。コリント第二 13:12,13。テサロニケ第一 5:26。
ですから,ヨハネはヨハネ第二 10,11節で,故意にアスパゾマイ(13節)ではなく,カイローを使ったのかもしれません。そうだとすれば,ヨハネは,偽りを教えたり会衆を否認したりした(背教した)人に温かいあいさつをする(抱擁や口づけ,会話を伴う)ことだけを避けるよう当時のクリスチャンたちに勧めていたのではないことになります。むしろヨハネは,カイロー,すなわちごく普通の「こんにちは」という言葉でそのような人にあいさつをすることさえしてはならない,と言っていたのです。b
この助言が重大なものであることは,「その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになる」というヨハネの言葉から明らかです。真のクリスチャンで,追放された悪行者や神の会衆を退けた人と交わることによって自分が邪悪な業にあずかる者であると神に見られたいと思う人はいなかったことでしょう。愛あるクリスチャンの兄弟関係にあずかる者になるほうがはるかに優れています。ヨハネは次のように書いています。「わたしたちは自分が見,また聞いたことをあなた方にも伝えます。それは,あなた方もまた,わたしたちと分け合う者になるためです。さらに,わたしたちのこの分け合う関係は,父との間,またみ子イエス・キリストとの間にもあります」― ヨハネ第一 1:3。
[脚注]
a 「ウェブスター大学生用新辞典」は,「背教」とは「1: ある宗教上の信仰を否認すること2: かつての忠節を放棄すること」であると述べています。
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