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「見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた」ものみの塔 1982 | 12月1日
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21 (イ)どのようにして「不敬虔な者たち」は『自らの欲望のままに進みました』か。(ロ)これら不従順な人々は,どのように「自らの利益のために人物を称賛し」ましたか。これが間違っていたのはなぜですか。
21 これらの不従順な者たちは,神またはそのみ子のご命令ではなく,自らの不道徳でみだらな渇望に支配され,『自らの欲望のままに進みました』。(ヤコブ 4:1-3と比較してください。)そして,「口で大げさなことを語り」ながら,あるいはその口を「自慢話で満たし」ながら(エルサレム聖書),彼らはある人々を選んで,不誠実な態度でそれらの人々を称賛しました。(詩編 140:11; テトス 1:10,11; ペテロ第二 2:18,19と比較してください。)これらの不道徳な者たちは,『自らの利益のために人物を称賛しました』。物質的な利得と社会的に有利な立場を手に入れようとして,裕福な人,著名な人,その他の人々の好意と支持を求めました。しかしこれは極めて利己的なことであり,これらの悪行者たちを,エホバの恵みを求めるというより高い敬虔な目的に対し盲目にさせました。それゆえ彼らは至高の裁き主に敬意を払わず,そのためその方の滅びの宣告の下に入りました。
22 これまで考慮してきたように,ユダはわたしたちの益のために何を示してくれましたか。またその結びの言葉には何が含まれていますか。
22 ユダは毅然として,仲間の信者に「信仰のために厳しい戦いをするよう」勧めました。不道徳行為,反逆的な態度,つぶやくことなどに対する聖書の警告を指摘し,神の裁きの執行について一点の疑念も残しませんでした。エホバの証人がこれらの問題について考慮するのは何と時宜にかなったことなのでしょう! これから見るように,ユダの結びの言葉には心からの懇願が含まれており,それらの結びの言葉もエホバの崇拝者にとって大きな意味があります。
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「愛する者たちよ,……自分を神の愛のうちに保ちなさい」ものみの塔 1982 | 12月1日
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「愛する者たちよ,……自分を神の愛のうちに保ちなさい」
「愛する者たちよ,……自分の抱く極めて聖なる信仰の上に自らを築き上げ,聖霊をもって祈ることにより,自分を神の愛のうちに保ちなさい」― ユダ 20,21。
1,2 ユダの手紙の中には,警告のほかに,どんな教訓がありますか。
エホバの過分のご親切は,ご自分を愛する者たちに対する扱い方にはっきり示されています。エホバはご自分の霊感によるみ言葉を通して,彼らに求めておられる事柄を示しておられます。そして,神の言葉の一部であるユダの手紙の中に,エホバ神との正しい関係を保つ上で助けになる警告が与えられていることに,わたしたちはなんと感謝できるのでしょう!
2 しかしユダは,必要な警告を与えるだけにとどまらず,霊的に築き上げられ,また『自分を神の愛のうちに保つ』ために行なうべき事柄をも示しています。したがって,ユダの手紙の結論の部分を考慮することから,わたしたちは大きな益を得ます。
予告されていたあざける者たち
3,4 ユダは,イエスの使徒たちのどのような「ことば」に言及しましたか。
3 ユダは次のように書いて重要な諭しを与えました。
「愛する者たちよ,あなた方は,わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが以前に語ったことばを思い出しなさい。すなわち彼らが,『終わりの時期には,あざける者たちが現われ,不敬虔な事柄に対する自分の欲望のままに進むであろう』とあなた方に言っていたことです。これらは分離を起こす者,動物的な人間であり,霊性を備えていません」。(ユダ 17-19)
ユダは,会衆内にこっそり入り込んだ「不敬虔な者たち」を暴露するために多くのことを語りました。それから,自分が深い愛情を抱いていた仲間の信者たちに懇願して,イエスの使徒たちによって以前に語られた言葉を思い起こすようにと述べました。これらのことばを思い起こすことにより真のクリスチャンはすべて,「信仰のために厳しい戦いをする」よう動かされたはずです。
4 使徒パウロは仲間の監督たちに対し,彼らの内から「弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こる」と,警告しました。(使徒 20:29,30)またテモテに対しては,『後の時代にある人たちが信仰から離れ去る』と述べました。(テモテ第一 4:1,2)さらに使徒ペテロは,『終わりの日にはあざける者たちがやって来て,「この約束された彼の臨在はどうなっているのか」と言うであろう』という明確な警告を与えました。―ペテロ第二 3:1-4。
5 忠実なクリスチャンは,会衆内に忍び込んだ「不敬虔な者たち」からどんな扱いを受けていたかもしれませんか。しかし,敬虔な人々はそのことに対してどのように反応すべきでしたか。
5 したがって,ユダの手紙を受け取る人々には,ユダヤ人の事物の体制が終わる直前の期間に「あざける者たち」が現われると予期できる,もっともな理由がありました。エホバの義の規準を固守し,「偽兄弟たち」と一緒にみだらな行ないに走ろうとしなかった忠実な信者たちを,会衆に忍び込んだ「不敬虔な者たち」があざけっていたということは,十分考えられることでした。しかし「不敬虔な事柄に対する」自分自身の不道徳な『欲望のままに進み』,その欲望に駆られた偽教師たちからたとえ愚ろうされたとしても,敬虔な人々が『信仰のために厳しい戦いをする』のはきわめて重要なことでした。―コリント第二 11:26; ガラテア 2:4,5と比較してください。
6 神は,ご自分を愛する者たちの一致を保証されましたが,不敬虔なあざける者たちは何をしようとしましたか。
6 神はご自分を愛する者たちの一致を,ご自分の霊により保証されましたが,これらの不敬虔なあざける者たちは,「分離」あるいは「差別」を「起こす」ことを試み,エホバの民の中で分離させる業を行なおうと懸命でした。(ユダ 19,新世界訳,1950年版[英文]脚注。詩編 133:1-3。コリント第一 1:10)あざける者たちは会衆内の責任を担う忠実な人々を悪く言いましたが,不敬虔な者たちは,自分たちに益を与えることのできる人々への称賛を表わしました。(ユダ 8,16)彼らはパリサイ人と同様,会衆の謙遜で敬虔な成員を見下しました。主と共に集めるのではなく,散らそうとしたのです。今日でさえ,恐らく“聖書研究”という名目で不安定な人々を個人的なグループに引き込もうとする人がいます。そのような方法で,神とキリストとクリスチャン会衆に対する愛を促進することは決してあり得ませんでした。―ルカ 11:23。
7 「不敬虔な者たち」が「動物的」と言われたのはなぜふさわしいことですか。
7 これらの者たちが,「動物的」,あるいは「魂の特性を持つ」と呼ばれたのはふさわしいことです。彼らは肉体の感覚・欲求・傾向などに屈してしまう,意識ある被造物だからです。(王国行間逐語訳 19節と比較してください。)彼らは自分たちが霊的に啓発を受けていると考えていましたが,ユダは彼らについて,『霊性を備えていない』,あるいは文字通りには「霊」を持っていない,と表現しました。実際,これらの「動物的な人間」はエホバの霊を持たず,霊的な事柄を理解できず,理性のない獣のレベルを越えることはまずありませんでした。もしわたしたちがエホバの霊を持ち,「神の奥深い事柄」を理解するなら,わたしたちの天の父に深く感謝すべきです。―コリント第一 2:6-16。
神の愛のうちにとどまる方法
8 「極めて聖なる信仰」という表現は,何に言及したものと思われますか。
8 ユダは次に熱心な懇願に移り,こう言います。
「しかし,愛する者たちよ,あなた方は,自分の抱く
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