黙示時代の監督たち
『これイエス・キリストの黙示なり。すなわち,神の彼に与えしもの…なり。』― 黙示 1:1。
1 私たちが黙示時代に住んでいるのは,どうしてですか。
私たちは黙示時代にいます。すなわち,聖書66巻の最後の本,黙示録にあらかじめ描かれていた時代そして状態の下に生活しているのです。
2 この黙示を与える本によれば,今はどんな幸福を得る時ですか。
2 この黙示を与える本は次の言葉で始まつています,『イエス・キリストの黙示。この黙示は,神が,すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え,そして,キリストが,御使をつかわして,僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは,神の言とイエス・キリストのあかしと,すなわち,自分が見たすべてのことをあかしした。この予言の言葉を朗読する者と,これを聞いて,その中に書かれていることを守る者たちとは,さいわいである。時が近づいているからである。』(黙示 1:1-3,新口)いまの黙示時代にさいわいを願う人がいますか。では,その人はこの予言の言葉を黙読するか,他の人に読んで聞かせなさい。あるいは,自分で読むことをしないなら,その朗読に耳を傾け,この予言の本に書きしるされた事柄を理解して守りなさい。この幸いを得る時はいまです。
3 ここではヨハネと名づけられている人は誰ですか。彼は誰に手紙を書くことになつていましたか。
3 ここにヨハネと呼ばれている人はイエス・キリストの僕すなわち奴隷でした。彼は『小羊の十二使徒』の一人に任ぜられたクリスチャン奴隷でしたが,その事実は誇示されていません。(黙示 21:14,新口)奴隷である彼は,今のアジヤ,トルコにあつた諸会衆に書き送るよう命ぜられました。そこで,彼は次のように自分を紹介しています『ヨハネからアジヤにある七つの会衆へ。』― 黙示 1:4,新世。
4 ヨハネはその時どこにいましたか。彼は特に誰に宛てて書くことになつていましたか。
4 ヨハネは忠実なクリスチャンであつたゆえに,その時,カイザルのローマ政府の手によつてパトモス島に流されていました。(黙示 1:9)パトモス島はエペソの港から150哩を越えない処にあつて,ヨハネが書き送るように命ぜられた他の6つの会衆のあつた都市からもさして遠くなかつたのです。その時,ユニケの子テモテはエペソの会衆の年老いた監督であつたようです。ヨハネは,特に監督に書き送ることを命ぜられました。
5 テモテはどの使徒と結びつけられていますか。この使徒はどの監督たちと特別な別れの集まりをしましたか。
5 若い時代のテモテは使徒パウロの親しい伴侶でした。異なつた会衆に宛てた数多いパウロの手紙の中で,パウロとテモテは一緒に述べられています。ギリシャ,ピリピの会衆に書き送つた手紙はその例です,『キリスト・イエスの僕たちパウロとテモテから,ピリピにいる,キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち,ならびに監督たちと執事たちへ。』(ピリピ 1:1,新口)それで,その会衆の監督たちと補佐の僕たちはテモテを良く知つていました。パウロが中東のエルサレムに向う最後の航海で,彼の船はエペソに近いミレトの港に寄りました。パウロは,そこから使をやつてエペソの監督たちを呼び寄せたのです。その時にテモテは含まれていませんでした。エペソ会衆の重だつた人全部がやつて来ました。その人々の監督ともいえるパウロは,彼らに向つて厳粛な別れの言葉を述べています。パウロは,これらの監督たちに述べました。
6 使徒行伝 20章17-28節によると,彼は監督たちに何と述べましたか。
6 『私は利益となる事なら何でもあなた方に語つて,ためらわなかつた。また人中でも,家から家へ行つても,あなた方を教えるのにためらわなかつた。しかし,私は,神に対する悔改めと私たちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも余すところなく証した。……私はいま信じている。あなた方の間を歩きまわつて(神の)御国を宣べ伝えたこの私の顔を,みんなが今度二度と見ることはあるまい。だから今日この日にあなた方に断言しておく。私はすべての人の血について,なんら責任がない。神の御旨をみなあますところなく,あなた方に伝えておいたからである。どうか,あなた方自身に気をつけ,またすべての群に気をくばつていただきたい。聖霊は,神が(御子の)血であがない取られた神の会衆を牧させるために,あなた方をその群の監督に任命したのである。』― 使行 20:17-28,新世。エンファティック・ダイアグロット訳。ロザハム訳。スコンフィールド訳。
7 パウロはエペソでどれほどのあいだ伝道しましたか。それでも,誰がエペソの監督を任命したとパウロは述べましたか。
7 2年以上の間,エペソにあつて,公けに,また家から家に神の御国を宣べ伝えたパウロは,その地にクリスチャン会衆を設立していました。しかし,その監督たちに対する言葉の中でパウロは,彼がその人々を監督とし,会衆の事柄を監督する者,管理する者の任につけたと述べていません。パウロは,クリスチャンの羊の群の上に彼らを立てる権威を要求しませんでした。神の会衆すなわち群を牧させるため,聖霊が彼らを監督にしたのであると,パウロは述べました。どのようにしてでしたか。
8 この聖霊とは何ですか。ペテロは五旬節の日にこの聖霊に関して何と言いましたか。
8 これは,神の聖霊がいわゆる聖三位一体の第三位なる霊者であることを意味しませんでした。聖三位一体は,父,子,聖霊から成り立ち,三者が一つの神のうちにあつて,三者の力と栄光はみな等しいのです。前述のことは,このように馬鹿げたことを全く意味していません。―聖書の説明し,示すところによれば,聖霊は見えない活動力です。聖霊は神から出て,御子イエス・キリストに直接働きます。次にこの天の御子を通して他の人々,また物に働き,神の御心と御目的を成就するのです。例えば,イエスが死から甦えされて50日後そして天に戻られてから10日後の五旬節の日に,聖霊はエルサレムのクリスチャン会衆の上に注がれました。使徒ペテロはそのとき起つた奇蹟を説明し,驚きいぶかるユダヤ人にこう言いました,『このイエスを,神はよみがえらせた。そして,私たちは皆その証人なのである。それで,イエスは神の右に上げられ,父から約束の聖霊を受けて,それを私たちに注がれたのである。ことのことは,あなたがたが現に見聞きしているとおりである。』ダビデ王は天に昇らず,その聖霊を注ぎませんでしたが,ダビデの子孫にして主であるイエスがそのことをされました。(使行 2:32-36,新口)それで,エペソの古い人々を監督にした聖霊は,神と御子イエスに等しいものではなく,単独で働く霊者ではなかつたのです。
9 聖霊はどんな種類の力ですか。何の源から注がれますか。誰を通して? その結果は何ですか。
9 霊者ではなく,イエス・キリストを通してくる神の見えない活動力に過ぎないとすれば,聖霊はどのようにエペソの古い人々を神の群の監督に任命したのですか。聖霊は盲目に働く無鉄砲な力ではなく,導かれた力です。エペソの監督を任命したときに,聖霊はその源であるヱホバ神から送られました。天から働いた聖霊を最初に受けて,それを伝えたのは神の右の手にある主イエスでした。五旬節の日に,聖霊の働きは『激しい風が吹いてきたような音』と『火の如き……舌』を伴い,それは120人のクリスチャンの弟子たち各人の上に留まりました。その人々は聖霊に満たされ,学んだことのない言葉で語つたのです。(使行 2:1-16,新口)風のように,あるいは電波のように,神の活動力は見えませんでしたが,聖霊によつて生じたものは見ることができ,聞くことができました。
10 五旬節の日,御霊の働きによつて使徒たちは何にされましたか。どのように,タルソのサウロは彼らと共なる使徒になりましたか。
10 聖霊に満たされ,その語らせるままにクリスチャン信仰の基礎となる事柄を教えたペテロやイエス・キリストの他の使徒たちは,結局,聖霊によつて新しいエルサレムの『土台』そしてクリスチャン会衆の主な監督とされたのです。(黙示 21:14)その後,タルソのサウロはキリスト教に改宗し,洗礼を受け,『聖霊に満たされ』不忠実なイスカリオテのユダに代つて使徒パウロとなりました。この不忠実な使徒なる監督について詩篇 109篇8節に書かれている通りです。『その職はほかの人にえられ』(使行 1:20; 9:17,18,新口)小羊の12番目の使徒は,全く適切にも自分のことについて,『人々からでもなく,人によつてでもなく,イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによつて立てられた使徒パウロ』と書きました。―ガラテヤ 1:1,新口。
人間のなかだち
11 使徒たちとコルネリオに対して,聖霊のために人間のなかだちがありましたか。他の監督についてはどうですか。
11 五旬節の日にも,それから3年以上を経てイタリヤの百卒長コルネリオが改宗した時にも,聖霊の働きを仲介した人間はありませんでした。天にある主イエスは,使徒たち,そしてコルネリオや彼と共に信じた人々の上に直接に聖霊を注ぎました。しかし,他の監督たちの場合,聖霊のために人間の仲介者が用いられてきました。
12 何の手段によつて,パウロとバルナバはアンテオケから宣教者として送り出されましたか。どのように?
12 パウロとバルナバを宣教者として,シリヤのアンテオケから送り出した時,神の聖霊がなした働きに注意して下さい。パウロとバルナバは,そこにあつた会衆の5人の予言者そして教える者たちの中に数えられていました。そのとき,述べられてはいないある方法によつて,聖霊は,受信機に働く電波のように人間の言葉を伝えました。『彼らがヱホバに奉仕して,断食をしているとき,聖霊は「私の召した業を行わせるため,バルナバとサウロを選別せよ」と告げた。そこで,一同は断食して祈りを捧げ,ふたりの上に手を置いた後出発させた。』アンテオケ会衆の代表者がこの二人に手を置いたゆえに,彼らに手を置いた人々が二人を宣教者にしたと言わねばなりませんか。そうではありません。その人々の行いは付随的なものに過ぎず,神の聖霊に従つて彼らが二人を選別したことを示す行いでした。彼らが聖霊によつて宣教者とされたという事実は極めて明らかです。なぜなら,二人の宣教者について,聖書はつづけてこう述べています,『ふたりは(アンテオケの人々によつてではなく)聖霊に送り出されてセルキヤにくだり,そこから舟でクプロに渡つた。そしてサラミスに着くと,…神の言を宣べはじめた。』― 使行 13:1-5,新口。
13 ピシデヤのアンテオケで,監督の任命はどのようになされましたか。テモテはどのように任命の力を持つ監督とされましたか。
13 その宣教旅行のあいだ,パウロとバルナバは多くのクリスチャン会衆を出発させました。霊的に古い人々はこのような会衆の監督に立てられました。どのように? 聖霊によつてですが,それはなかだちであるパウロとバルナバを通してでした。その証拠に,彼らがピシデヤのアンテオケでなしたことについて,こう書かれています,『会衆の彼らのために古い者たちを任命し,断食をして祈りを捧げ,彼らをその信じているヱホバにゆだねた。』(使行 14:23,新世)その後,テモテは使徒パウロと一緒に旅行して,共に働くようになりました。霊的な成長を遂げてから,テモテは監督とされ,エペソその他の会衆において円熟した他の人々を監督や補佐の僕に任命する力を授けられました。しかし,何の導きによつて,テモテはこのような特別の監督,管理者,監督する者となつたのですか。それはパウロを通しての神の霊の働きでした。テモテに宛てた2通の手紙の中で,パウロはその事をこう述べています,『古い人々があなたの上に手を置いたとき,予言(この予言は霊によるものです)によつてあなたに与えられた賜物をなおざりにしてはいけない。』(テモテ前 4:14,新世)パウロ自身がこれら古い人々の中でも重立つた者でした。テモテに書き送つたパウロの言葉はその事を示しています。『私が手を置くことによつて内に宿つた神の賜物を燃え立たせなさい。神が私たちに賜わつたのは,臆する霊ではなくて,力と愛と健全な心の霊なのである。』(テモテ後 1:6,7,新世)これらすべての行いには,神の霊が必要でした。
14 エルサレムにおける特別会議の後で,パウロとバルナバは何をするために送り出されましたか。彼らはどのように任命されましたか。
14 割礼がキリスト教の一部でないことを知らせる特別な教訓の手紙を,シリヤとアンテオケおよびキリキヤの会衆に読み聞かせるため,この大切な時に,エルサレムのクリスチャン統治体の特別会議はパウロとバルナバを選びました。パウロとバルナバは良い使者また総監督として,統治体からのこの手紙を会衆に読みました。任命されたこれらの使者たちは,その奉仕の任務を真剣に採りあげました。エルサレムのクリスチャン統治体の人々から任命されただけでなく,聖霊によつて任命されたことを知つていたからです。彼らはこの事柄をそのように見なければなりませんでした。なぜなら,彼らが会衆に読んだ手紙の中にも,次の注目すべき言葉が統治体の手によつてしるされていました,『聖霊とわたしたちとは,次の必要事項のほかは,どんな負担をも,あなたがたに負わせないことに決めた。』
15 エルサレムの統治体がこのようにクリスチャン会衆を監督した結果,会衆はどうなりましたか。
15 このようにして,人々から成り立つ統治体は彼らよりも聖霊を第一にしました。パウロとバルナバの任命にさいしても,これは適用されたのです。エルサレムの統治体がこのように諸会衆を監督したことは,どんな影響を与えましたか。このことはパウロと彼の新しい伴侶シラスに関連して記録にこう記されています,『そこで,彼らは旅をつづけ,通る町々で,エルサレムの使徒たちや長老たちの決めた事柄を守るようにと,人々にそれを伝えた。それゆえに,諸会衆はひきつづき,信仰を強められ,日毎にその数を増した。』(使行 15:28,新口; 16:4,5,新世)諸会衆は,この事柄で最早ぐらつくことがなかつたのです。
16 任命の際に人間のなかだちが用いられてきたにしても,任命をする人々の集まり,また個人については何が真実でなければなりませんか。
16 このように,神の群に多くの監督を任命するにあたつて,人間のなかだちが用いられてきたことは聖書から見て真実です。しかし,この事実があつても,およそ人間の集まりが自分たちの意志に従つて宗教団体を作り,人を監督,あるいはキリスト教国の多くの教会が呼ぶところの『司教』にする力と権威をとることはできません。神の聖霊を持たないなら,神の御前で価値があり神の制度にあつて真に重要なことは何ひとつできないのです。1世紀,使徒時代のクリスチャン会衆の場合と同じく,監督やその補佐,補佐の僕を任命するのに用いられる人々は聖霊を持たねばならず,全く『聖霊に満たされ』ねばなりません。(使行 9:17。エペソ 5:18,新口)使徒時代,エルサレムにあつたクリスチャン統治体について,この事は真実でした。また,使徒パウロとその同労者テモテやテトスについても真実でした。監督またその補佐となる人々の資格について,彼らは教訓を授けられました。彼らはみな聖霊に満たされ,聖霊に導かれていたのです。
今日はどうですか
17 御霊の奇蹟的な表われは使徒たちと共に過ぎ去つたゆえに,監督の任命についてどんな質問が起りますか。答は何によつて確かとなりますか。
17 私たちはいま使徒時代に住んでいません,ほとんど1900年前の遙か昔,使徒時代が終つたときに,奇蹟的な賜物と聖霊の表われは過ぎ去りました。今日でも聖霊が,真のクリスチャン会衆の上に監督を任命しますか。そのことはなお真実ですか。霊は神の見えない力であつて,音もなくさわることもできない以上,今日,監督の任命が聖霊によつてなされることを,どのように確信できますか。神の言葉,聖書はこの事を確かにしています。
18 1914年以来そして特に1919年以来,私たちはどんな時代に生きていますか。ゆえに御霊の働きには何が含まれると当然に期待できますか。
18 事実が示すように,神の御国はキリストの手にあつて1914年に天で生れました。従つて私たちは『神が聖なる予言者たちの口をとおして,昔から予言しておられた万物更新の時』に生きています。(使行 3:21,新口)1919年以来,神の制度は起き上つてこの世の濃い暗やみの只中に神の栄光の光を照らしています。神の御約束が成就する時が来ました,『なんぢの施政者をおだやかにし,なんじを役する者を義しうせん。』あるいは,ヘブル語聖書最古の翻訳によると『汝のかしらをおだやかにし,汝の監督を正しうせん。』(イザヤ 60:1,2,17。七十人訳。トムソン訳。バグスター訳)五旬節の日にペテロの述べた予言は,私たちの生きている時代に最後的な成就を見ています。すなわち『その後われわが霊をすべての人に注がん。汝らの男子女子は予言せん。汝らの老いたる人は夢を見,汝らの若き人は幻を見ん。その日我またわが霊を僕婢に注がん。』(ヨエル 2:28,29。使行 2:16-18)それゆえ,僕の任命にも御霊が働くことは当然に期待できます。
19 今日,クリスチャン統治体は誰に代つて行動しますか。どのように統治体は今の終りの時代にあつてその責任を全うできるようにされましたか。
19 使徒時代と同じく,ヱホバ神のクリスチャンの群には目に見える統治体があります。統治体は1914年にイエス・キリストが御国に来られた時から任命された『忠実にして慧い奴隷』に代つて行動し,その意志を表明します。この古い世の終りのとき,思わぬ時に来て追随者を裁くことを使徒に警告したイエスはこう言われました,『主人が家人の上に任命して,正しい時に食物を与える忠実にして慧い奴隷とは実際に誰であるか。主人が着いた時そのようにしているのを見られるその奴隷は幸いである。私はほんとうにあなた方に言う。主人は彼を任命して全財産を管理させるであろう。』(マタイ 24:45-47,新世)イエス・キリストの共同相続者として油注がれたクリスチャンからのみ成り立つこの復合の人は,1919年以来,地上にある『彼の全財産』を管理してきました。この奴隷は正しい時に霊のすなわち聖書の食事を忠実に与えてきたため,ヱホバのクリスチャン証者の間に霊的な飢饉は全くありません。この『忠実にして慧い奴隷』がいまの終りの時代に臨んで重い責任を果せるようにするため,神はヨエルの予言を全く成就して,この終りの日にキリストを通じ彼らの上に霊を注がれました。
20 統治体の成員は誰からとられますか。特に1932年以来,監督の任命について何が真実ですか。
20 『忠実にして慧い奴隷』の級の統治体は同じく油注がれて霊に満たされた級から選ばれます。そして神の霊により働いています。ゆえに,監督に対して定められた要求に一致して,この統治体が監督を任命するとき,たとえ人間のなかだちを通してであつても,たしかにこれらの監督は聖霊によつて任命されたのです。ヱホバの証者の近代歴史が示すように,会衆内において長老や執事を選挙する組織が廃止された1932年以来,この事は特に真実です。
21 監督を任命するにあたつて,統治体は何を求めますか。またどんな要求に従つて?
21 『忠実にして慧い奴隷』の円熟した成員の統治体は,会衆の僕をはじめ,その補佐,補佐の僕を任命するにあたつて,何時も神の聖霊の導きを求めています。それで,個人的なえこひいきや偏見によつて行動しません。監督また補佐の僕とされるにふさわしい人が当然に持つべきものは,神の言葉,なかでもテモテに宛てたパウロの最初の手紙の第3章およびパウロがテトスに宛てた手紙の第1章に述べられています。監督と補佐の僕たちに対するこれらすべての要求は,聖霊の霊感によつて書きしるされました。
22 これに照らして見るとき,監督の任命は実際にどのように為されますか。何が候補者の任命を左右することから,この事は特にそうですか。
22 さて,明記されているこれらの要求にかなう人を,統治体が任命するとき,このような監督を任命するよう導いたのは確かに聖霊です。このような監督は確かに聖霊によつて立てられました。監督の務めを願う人の中に豊かに宿つている聖霊も,その人の任命に影響することを思えば,この事実はますます明らかになります。その候補者は,自分の振舞い,また(家族があるなら)家族を治める仕方によつて,聖霊に満たされていることを示さねばなりません。『愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和,節制』という『御霊の結ぶ実』を生み出すことによつて,また,自分の肉を,その情と欲と共に杭につけることによつて,彼は聖霊を持つていることを証明しなければなりません。羊の群を監督するため,彼は神の霊によつて動かされ,促されていることを示さなければならないのです。使徒時代にステパノが『信仰と聖霊とに満ちた人』であつたため奉仕の業に選ばれたことは,その実例です。―使行 6:5,6,新口。
23 (イ)では今日でも聖霊が監督を任命すると言えるのはなぜですか。(ロ)それにも拘らず,監督が悪くなるなら,何をしなければなりませんか。監督は繰り返して何を読むべきですか。
23 候補者の結んだ霊の実を考慮し,聖霊の働きの下に人が聖書の中に書き定めた要求と一致して,統治体は行動します。聖霊の導きを求めて神に祈つている統治体自身も聖霊に動かされているのです。ゆえに,どの点から見ても,監督を任命するにあたつては神の聖霊が重要な働きをします。それで,パウロの時代と同じく今日でも,神が『御自身の御子の血で』買いとられた神の群の上に,聖霊が監督を立てると言えるのです。(使行 20:28,スコンフィールド訳)時がたつうちに,悪くなる監督があるなら,使徒たる監督としてイエス御自身の選ばれたイスカリオテのユダでさえ悪くなり,彼自身の監督,おさなる羊飼を敵の手に裏切つて殺したことを思い起すべきです。この事のために,イエスは,死と復活の後そして五旬節の日に御霊を注がれて後に,別の人を選んで『監督の務めを与え』られました。(使行 1:16-20; 9:10-16)今日でも同じく,望ましい性質と必要な良い点を暫らくの間示してきた別の人が,悪くなつた監督に代つて,その務めを与えられねばなりません。従つて,その務めに対する要求を何回も読み返して,よく考えることは監督と補佐の僕たちにとつて図り知れない善となるでしよう。これらの要求はテモテに宛てたパウロの手紙,特にその第3章とパウロがテトスに書き送つた手紙の特に第1章にしるされています。
24 監督はどちらを向いても彼を監督にした御霊に面するゆえに,イエスのどんな警告を心に深く留めておくべきですか。
24 任命と密接に関係しているすべての事を考えるとき,およそ任命された者は監督の務めを軽々しく扱つてはなりません。どちらを向いても,監督は聖霊に面しなければなりません。彼は聖霊によつて監督とされたのです。それで,イエスが敵に警告された言葉を心に深く留めておくことは監督にとつて当然です。悪鬼につかれ,盲で啞の人がイエスに癒されて,話すことと見ることができ,悪鬼が離れたときに,イエスの敵は神の御霊の働きを自分の眼でたしかに見ました。これを見た他のすべての人が奇蹟から受ける感銘を台なしにしようと図つたイエスの敵は,悪魔の霊がイエスを通して働き,この奇蹟を行つたのであると悪意にみちた言葉を述べました。イエスは力強く論じて,盲と啞の男から悪鬼を追い出したのは,彼を通して働いた神の霊であると言われました。イエスは御自身の名誉を求めず神の霊に名誉を帰したのです。そして言われました『だから,あなたがたに言つておく。人には,その犯すすべての罪も神を汚す言葉も,ゆるされる。しかし,聖霊を汚す言葉は,ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は,ゆるされるであろう。しかし,聖霊に対して言い逆らう者は,この世でも,きたるべき世でも,ゆるされることはない。』― マタイ 12:22-32,新口。
25 御霊によつて任命されたことに照らして,監督はどんな罪を犯さないために,何をしようと願いますか。
25 高められて天に入つても,イエスは神の霊によつて行動されます。この事は監督の任命についても同様です。監督はこの霊によつて任命されているゆえに,任命された者は利己的な理由のために監督の地位を濫用することのないように願うでしよう。使徒パウロは仲間の監督にこう述べました『あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,…恥ずべき利得のためではなく,…またゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで,』(ペテロ前 5:1-3,新口)その悪い行いをするなら,ユダ,バラム,『にせ使徒』のように振舞うことになるでしよう。(使行 1:16-18,25。ペテロ後 2:15,16。ユダ 11。コリント後 11:13-15)それは,エゼキエル書 34章1-10,17-22節に述べられている貪欲な羊飼がなしたと同じく,正しい羊飼の羊を裏切ることです。また,その人を監督にした聖霊に対して罪を犯すことになります。それは,彼を任命した聖霊の目的を悪く用いることです。監督がその心の状態と行いを保ちつづけて,改めるのが難しいほどになるとすれば,それは聖霊に対する罪となるでしよう。その人の円熟さを考えればその罪はいつそうに重く,責任のあるものです。このようにして,それはいまの世でも許されず,来るべき世でも許されない種類の罪となります。
26 今日,ある監督は御霊に対して罪を犯すことなしに,監督の地位を離れますがそれはなぜですか。しかし,ことさらに罪を犯してやめない監督についてはどうですか。
26 今日の監督に課せられる責任は増大して居り,その果すべき務めは多く,また,監督には益々多くのことが要求されます。これらの理由のために,ある人は年齢,病気あるいは他の事情で監督の地位に課せられる要求を果せなくなるかも知れません。そこで,他の人が彼に代るでしよう。これは彼自身が故意に罪を犯したからではありません。あるいは,もつと有能な人が出るかも知れません。増加を大きくし,努力の成果を上げるため,能力の劣つた人から更によい資格のあるこの人に務めと責務を移すことは,時宜にかなつていると同時に勧められることでしよう。このような場合,聖霊に対する罪は少しもありません。また,非難すべきことでもなく,不面目でもないのです。しかし,監督の地位を利用して,貪欲にも野心を起し,けがれた意図を抱いてことさらに罪を犯す人は,何とわざわいなのでしよう! 彼を監督として任命するのに関係した聖霊に対し,彼は由々しい振舞いをしているのです。奮起して改めないならば,その特権ある地位を失うに留まらず,永遠の死に至るでしよう。その罪は許されることのない罪となります。その罪を悔い改めることはできないのです。その恥は大きなものとなるでしよう。
27 どんな目的のために,監督はその地位を用いますか。
27 自分が生命を得るため,また聖霊によつて彼がその上に立てられた神の群が生命を得るように,監督はヱホバの霊を以て自分の地位を用いるべきです。それは彼の任命を立証し,正しいものとすることです。彼はペテロ前書 5章1-4節の,監督に対するペテロの言葉の知恵をさとり,それを行う喜びを感ずるでしよう。『神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは…聖霊の証印を受けたのである。』とパウロは述べました。―エペソ 4:30,新口。
会衆の星
28 (イ)私たちはどんな時代に住んでいますか。そしてなぜ?(ロ)ヨハネはどのように私たちの時代にまで連れてこられましたか。彼は何を見,何を聞き,そして何をしましたか。
28 今日の私たちは使徒時代に住んでいませんが,黙示時代に住んでいることは確かです。黙示を与える本,黙示録にある幻は私たちの目の前に成就しつつあるからです。神の御国は天に生まれて,諸国民は怒り,彼らに対する神御自身の怒りもまた来ました。そして死人を裁く,神の定められた時が来たのです。『天にある聖所』は開かれて私たちの霊的な幻はそれを見ました。そして,私たちは聖所の中に『契約の箱』すなわち神がそこに臨在されているしるしを見ています。(黙示 11:18–12:5,新口)支配している王イエス・キリストは,神の使すなわち契約の天使として,裁きを行うためヱホバ神と共に霊的な宮に来られました。(マラキ 3:1)パトモス島の使徒ヨハネは,『イエス・キリストの黙示』の幻の中で,宮に来られたイエスの見えない臨在を見たのです。1914年に神の御国が天に誕生して以来,私たちは『主の日』にいます。ヨハネはその見たものによつて幻の中で私たち自身の時代にまで連れてこられました。それで彼はこう書いています,『御霊に感じて私は主の日にいた。そして,私のうしろの方で,ラッパのような大声がこう言うのを聞いた,「あなたが見ていることを書きものにして,それをエペソ,スミルナ,ペルガモ,テアテラ,サルデス,ヒラデルヒヤ,ラオデキヤにある七つの会衆に送りなさい。』誰が話したのかを見ようとしてヨハネがふりむいた時,彼は『七つの金の燭台と,燭台の間には人の子のような者を見た。…そして彼は右の手に七つの星を持つていた。』ヨハネは彼を見たとき,恐れて死人のようになりました。―黙示 1:10-17,新世。
29 話した者は何をするようヨハネに命じましたか。今日,七つの燭台は何を表わしますか。
29 声の主は,よみがえされて栄光を受けたイエス・キリストでした。彼は御自身の名を言われませんでしたが,御自身について既知の事柄を言われたので,ヨハネはその方がイエス・キリストであると分りました。それから,彼はヨハネにこう告げられました,『あなたの見たこと,今あること,これらの後に起ろうとすることを,書きとめなさい。あなたが私の手に見た七つの星と,七つの金の燭台との神聖な秘義については,七つの星は七つの会衆の御使を意味し,七つの燭台は七つの会衆を意味する。』(黙示 1:19,20,新世)これらの会衆は,今日の地上の会衆全体を表わします。それは,霊に生まれ,イエス・キリストの油注がれた追随者で,彼と共に天の御国を相続する人々の会衆全体です。黙示録の中で彼らに与えられている約束は,朽ちないこと,『第二の死』からの解放,支配の冠,諸国民をハルマゲドンで打ち砕く権威,天の宮と新しいエルサレムにある地位,そして天の位にあるイエス・キリストと共に坐ることです。(黙示 2:7,10,11,17,26-28; 3:5,6,11,12,21)七つの燭台のそれぞれは,『小さい群』を形成しているこれらの人々の会衆を表わします。天の父はこの小さい群に御国を与えることをよしとされました。―ルカ 12:32。
30 話す者が七つの燭台の間を歩むことは,今日何を表わしますか。1931年以来の今日,誰が七つの象徴的な燭台と交わつてきましたか。
30 聖書に用いられている七という数字は,霊的に完全なものを表わすゆえに,七つの燭台はこれら御国相続者のすべての会衆,あるいは未だ地上にあるこれら御国相続者の全部を表わします。これら御国相続者はイエス・キリストを霊的な頭とする唯一つで分けることのできない会衆です。それで,イエス・キリストが七つの燭台のあいだを歩むことは,今日彼が見えないさまで地上の会衆全体と共に居られ,その間を歩んで彼らを調べ,裁きを表明されているさまを描いています。まだ地上に残つている彼の御国相続者の会衆には,他の羊の『大ぜいの群衆』がいま交わつています。正しい羊飼イエス・キリストは1931年の夏以来,この群衆を集められてきました。この『大ぜいの群衆』は黙示録 7章9-17節に描かれていました。
31 イエスは右の手に何を持つていますか。それらは何を表わしますか。ここで霊者が意味されていないのはなぜですか。
31 しかし,栄光を受けたイエスが彼の右の手に持たれているのは何ですか。七つの『星』です。これらの星は七つの燭台に関係があります。七つの燭台が,御国相続者として油注がれた残れる者の七つの会衆を表わすように,七つの星は『七つの会衆の御使』を表わします。では,七つの会衆のこれら御使たちは誰ですか。栄光を受けた人の子イエス・キリストが天の御国の栄光のうちに来られるとき,彼に従う天の見えない霊の御使ですか。そうではありません。油注がれた残れる者の,地上の各会衆にそれぞれ天の御使がいて,光を投げかけていると,理解すべきではありません。そうではないのです。もしそうであるとすれば,天のイエスは七つの会衆に関して天使たちに直接知らせを送ることができるでしよう。これとは全く反対に,イエスは,各会衆の状態についてそれぞれの会衆の各御使に書き送るよう使徒ヨハネに命ぜられています。地上のヨハネが天にいる見えない霊の御使に書くことはできません。どの御使がどの会衆の星であるか,ヨハネにどうして分りますか。また,イエスからの知らせをそれぞれの星,しかも正しい星に伝えることがどうしてできるでしようか。
32,33 では七つの星は誰を表わしますか。『ものみの塔』にどんな知らせが出て以来,『他の羊』も監督とされてきましたか。
32 従つて,イエスの右手にある七つの星全部は,油注がれた御国相続者で未だ地上に残れる者の会衆全体の監督の集まり,あるいはすべての監督を表わしています。これは論理的に明らかなことです。それぞれの星は,油注がれた残れる者の各会衆を委ねられている監督あるいは監督の群を表わします。どの星の場合でもこれこれの名を持つ特定の個人を表わしていません。監督の地位にある個人は,死亡その他の事情によつて時がたつうちには変るかも知れないからです。しかしそれぞれの星が表わしているのは,監督の地位であつて,それは空席にならず,要求にかなう誰かが実際に占めます。星は霊によつて油注がれた監督を表わします。彼らはその会衆と同じく,イエスと共に天の御国を継ぐ共同相続者です。正しい羊飼イエス・キリストが『他の羊』を集め始められて何年か後に,他の羊のある者は,その時の必要に応じ,『忠実な慧い奴隷』の手によつて初めて監督の地位につけられました。1937年5月1号の「ものみの塔」(130頁)(英文)に,初めて次の知らせが出ました。
33 『会の僕 ― 御国の音信を宣明することは,いま最も重要である。誰が会の僕たるべきかを投票するのは,油注がれた者の義務である。しかし,『薪を斬り水を汲むことをする者』(ヨシユア 9:21-27)が奉仕できる。(申命 16:12-15; 29:11)会の僕あるいは奉仕の委員の能力を持つ者がいないとき,そして能力を持ち熱心なヨナダブがいるならば,ヨナダブを奉仕の委員となし,彼らに奉仕の機会を与えよ。会の中に熱心を欠く者がいるからとて,業を停滞させてはならない。福音はいま宣明されねばならないのである。―マタイ 24:14。』
34 聖所の燭台の目的は何でしたか。では象徴的な燭台の目的は何ですか。
34 家また宮の中にいる人々を照らすために,人は燭台に油を満たして火をともします。予言者モーセがシナイの荒野に建てた聖なる幕屋の最初の仕切り,すなわち聖所には,一つの燭台が置かれていました。しかし,ソロモン王の建てた宮の聖所には北側に五つ,南側に五つ,すなわち10の金の燭台がありました。(出エジプト 25:31-40; 26:35; 40:24,25。歴代史略下 4:7,20。列王紀略上 7:49)象徴的な燭台,すなわち,油注がれて御国を共に相続する者の会衆も,光を照り輝かすというその目的を果さねばなりません。そして,象徴的な七つの燭台の間を歩むイエス・キリストは,地上に法王を持つ必要のない大祭司であつて,これらの会衆がかならず輝くようにされます。
35 どのように監督は燭台と比べた星のように輝くべきですか。会衆の成員全部はどんな光を輝かさねばなりませんか。
35 空の星は地上の燭台よりも遙か上に輝きます。それと同じく,会衆を預る監督の地位を占める者は,会衆の他の人々の上に,また,他の人々以上に輝やくべきです。会衆の成員と『他の羊』,既に集められた人々と, これから集められて油注がれた残れる者と『一つの群』になる人々,に対して,監督は星のようにひときわ目立つて神の御国の良いたよりという光を照らさなければなりません。(ヨハネ 10:16)もちろん,普通の意味において,会衆の成員全部は天から霊的な光を受けて輝かなければなりません。『それは,あなたがたが責められるところのない純真な者となり,曲つた邪悪な時代のただ中にあつて,傷のない神の子となるためである。あなたがたは,いのちの言葉を堅く持つて,彼らの間で星のようにこの世に輝いている。』(ピリピ 2:15,新口)とりわけ,世の『終りの時』に関して神の御使はダニエルに予言しました,『さとき者は空の輝きのごとくに輝かん。また多くの人を義に導ける者は星のごとくなりて永遠にいたらん。』(ダニエル 12:3)この予言にたがわず,会衆のさとい成員すべては,灯の光と比べた星のように,輝かなければなりません。しかし,監督たちは特にそうすべきです。灯の光は余り遠くまで届きませんが,星の光は遠くを照らします。監督は光を掲げる者の模範とならねばなりません。