14章
神の王国の地上の臣民
1,2 (イ)西暦1914年当時,世界人口はどれほどと推定されましたか。それはどのように細分されましたか。(ロ)それらの国家や帝国は世界の舞台ではどんな存在として映じましたか。しかし,創造者にとってはどのように見えましたか。
目ざましい年となった西暦1914年当時,世界人口は10億人を優に上回るものと推定されました。a その人口は引き続き増え,第一次世界大戦やスペイン風邪のために何百万もの人びとが倒れたにもかかわらず,1920年までには18億5,989万2,000人に達しました。その世界人口は数多くの国家や帝国の人口に細分されました。1914年当時の最大の帝国は,地表面および世界人口の四分の一を包含した大英帝国でしたが,当時,ほかにもトルコ帝国,シナ帝国,オランダ帝国,フランス帝国,ドイツ帝国,オーストリア-ハンガリー帝国,ポルトガル帝国などの他の帝国がありました。それらの国家や帝国は世界の舞台では非常に印象的な存在として映じましたが,地の所有者で,偉大な創造者である,いと高き神にとってはどのように見えましたか。神は一瞥しただけでそれらの諸国家すべてを検分することができましたか。預言者イザヤは創造者の超人的能力をたたえて,こう述べました。
2 『誰かエホバの霊をみちびきその議士となりて教えしや エホバは誰とともに議りたまいしや たれかエホバを聡くしこれに公平の道をまなばせ知識をあたえ明通のみちを示したりしや 見よもろもろの国民は桶のひとしずくのごとく 権衡のちりのごとくに思いたもう……エホバは地球のはるか上にすわり地にすむものをいなごのごとく見たもう』― イザヤ 40:13-15,22。
3,4 (イ)神の代理審判者,イエス・キリストにとって諸国民すべてをご自分の前に集めるのは難しいことですか。どんなたとえ話の中でそのような事が予告されていますか。(ロ)そのたとえ話は,どんな見込みを持つ人びとに対する要求を示していますか。
3 したがって当然,創造者なる神にとってそれら諸国民すべてをご自分の前に集め,彼らを裁いて刑を執行するのはきわめて簡単なことです。同様に,エホバがご自分の代理審判者として行動するよう任命された,強力な神のみ子,イエス・キリストによってそれを行なわせるのも容易なことです。(使徒 17:31)神のみ子はご自分が正にそのことを行なうという事を羊とやぎのたとえ話の中で自ら予告されました。使徒マタイは,主イエス・キリストがご自分の臨在(パルーシア)と「事物の体制の終結」との「しるし」についてオリーブ山で述べた預言を,そのたとえ話をもって結んでいます。(マタイ 24:3)そのすぐ前のたとえ話,つまり「タラント」のたとえ話の中で主イエスは,天の王国でご自分と一緒に統治する忠実な弟子たちはその「持ち物」を増やすべくこの地上にいる時に働かねばならないことを例を用いて示されました。次いで,いみじくも主は,それに続く次のたとえ話の中で,ご自分の天の王国の臣民となる今日生きている人たちに何が要求されているかを例を用いて示しておられます。イエスは次のようなことばでそのたとえ話を始めておられます。
4 「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼とともに到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座にすわります。そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう」― マタイ 25:31-33。
5,6 (イ)イエスはご自分の述べた預言の中で,ご自身のことをどのように呼びましたか。(ロ)それはなぜダニエル書 7章のダニエルの預言をわたしたちに思い起こさせますか。
5 このたとえ話を述べる前にイエスはすでにご自分のことを7回「人の子」と言われました。(マタイ 24:27,30,37,39,44; 25:13,欽)この名称はメシアによる王国に関連して用いられた以上,それをここで用いるのはたいへん適切なことでした。それがここで用いられたのは,ダニエル書 7章9,10,13,14節を思い起こさせるものとなりました。そこにはこう記されています。
6 『宝座を置き列ぶるありて日の老いたる者座を占めたりしが……彼に仕うる者は千々彼の前に侍る者は万々審判すなわち始まりて書を開けり 我また夜の異象のうちに観てありけるに人の子のごとき者雲に乗りて来たり日の老いたる者の許に至りたればすなわちその前に導きけるに これに権と栄えと〔王国〕とを賜いて諸民 諸族 諸音をしてこれにつかえしむ その権は永遠の権にして移りさらずまたその〔王国〕は亡ぶることなし』〔新〕。
7 イエス・キリストはいつみ使いたちを伴って到来し,『ご自分の栄光の座に』座しましたか。そうすることによって,何が回復されましたか。
7 それは天で人間の目には見えない仕方で起きたとはいえ,「人の子」が日の老いたる者であられるエホバ神の許に至り,その『権と栄えと王国』すべてが「人の子」に与えられたのは,「異邦人の時」(つまり「諸国民の定められた時」)の終結した1914年のことでした。それで,人の子としての主イエスがすべてのみ使いを伴って来て,「栄光の座」にすわられたのは,異邦人の時の終わった1914年でした。こうして,メシアによる神の王国は天で誕生しました。(啓示 12:5,10)それはかつてエルサレムで支配権を行使したにもかかわらず,西暦前607年にバビロンのネブカデネザル王によって覆されてしまったダビデの王国が回復されたことを意味しています。それで,西暦1914年に起きた事がらは,西暦前607年に起きたのとは逆の事がらでした。今や再び,ダビデの子孫が統治することになりました。
8 西暦前607年に起きたことを考えれば,西暦1914年に異邦諸国民すべてが,即位した人の子の前に集められるのはなぜ適切なことでしたか。
8 その時,主イエス・キリストの「臨在」もしくはパルーシアが始まりました。ですから,羊とやぎのたとえ話の中で述べられている事がらは,イエスのパルーシアの期間中に起こります。それには,王座についた王としてのイエスの前に諸国民すべてが集められることも含まれています。それは正に当然起きて然るべき事がらでした。なぜですか。なぜなら,『異邦諸国民の定められた時』が終わったからです。(ルカ 21:24)預言的な七つの「時」の間,それら異邦諸国民はメシアによる神の王国によって妨げられることなく全地を支配していました。聖書的にいえば,預言的な一時は360日,象徴的には360年を意味します。さて,そのような預言的な「時」は七つを数えることになっていました。それは合計2,520年(7×360年)を意味しました。異邦諸国民はその長い期間中,全地を支配しました。その全期間にわたり,異邦諸国民は,神のメシアによる王国が世界に対する支配権を行使する権利を踏みにじっていました。西暦1914年から逆算すると,2,520年の始まりは西暦前607年になります。それはバビロンの王ネブカデネザルが,エルサレムで統治するダビデ王の王家を覆した時でした。―エゼキエル 21:27。
9 (イ)「七つの時」に関するネブカデネザルの夢は彼が世界強国の支配者となって1年余の後に生じた以上,その夢が模型的な仕方で成就されるまでは異邦人の時は始まり得なかったことをそれは意味していますか。(ロ)もし「七つの時」をバビロンがメディア人とペルシア人の手で倒された時から数えるとすれば,それはいつ終わることになりますか。その時には当然何が起きることになりますか。
9 こうして,異邦人の支配する「七つの時」は西暦前607年に始まりましたが,バビロンの王ネブカデネザルがその「七つの時」に関する夢を見たのはそれから1年以上経った後のことでした。(ダニエル 4:16,23,25,32)もう一つの点として,その夢は文字どおり七つの「時」(年)の間狂気に陥って雄牛のように原野で草を食んだネブカデネザルの身の上に模型的な成就を見ました。これは異邦人の支配する「七つの時」がその預言的な夢の生ずる前の西暦前607年に始まったとは考えられないことを意味するのでしょうか。まず第一に,その異邦人の時は,王が七年間狂気に陥って回復した時に始まったに違いないと考えるべきですか。いいえ,そうではありません! それで,彼が回復した年はわからないのですから,異邦人が世界を支配した「七つの時」はまず最初に,ネブカデネザルの王朝が倒れた西暦前539年に始まったに違いないと考える必要はありません。預言的な「七つの時」(2,520年)を,バビロンがメディア人とペルシア人の手で倒された西暦前539年から数えるとすれば,その「七つの時」はなお将来に訪れる西暦1982年の秋に終わることになります。そうした計算に従うとすれば,そのきたるべき年には当然何を期待すべきでしょうか。それは西暦前539年に起きたのとは逆の事がら,すなわちネブカデネザル王朝の王座の回復,ネブカデネザルの子孫が王座につくバビロニア帝国の回復なのです!
10 (イ)古代バビロンやネブカデネザルの王朝,またバビロニア帝国の回復について聖書は何と述べていますか。(ロ)そのようなわけで,「七つの時」はいつ始まりましたか。回復されることになっていたのは何ですか。
10 しかし,それは霊感を受けた神のみことばが予告することとは全く正反対の事がらです。ユーフラテス河畔の古代バビロンは永遠に滅び去りました! ネブカデネザル王の王朝は永遠に覆されてしまったのです。バビロニア帝国は第三世界強国としては永久に消滅してしまいました。しかし,エルサレムに代表的な王座を有したエホバ神が回復させることを約束されたのは何でしたか。天の神が回復させることを約束なさったのは,ダビデの子孫の治めるメシアによる王国です。(エゼキエル 21:27。ルカ 1:30-33)西暦前607年にバビロニア人がエルサレムとユダの地を荒廃させたことは,メシアによるダビデの王国の滅亡を印づけるものとなりました。したがって,それは異邦人が人類の世界を支配した「七つの時」の始まりを印づけるものでした。それで,2,520年にわたる異邦人の時はまぎれもなくその年に始まり,またその時に始まったゆえに,それは西暦1914年の初秋に終わりました。
11 ネブカデネザルがダビデの王座を覆した後に七年間狂気に陥ったことは,異邦人の時に関して何を示すものとなりましたか。
11 それで,ネブカデネザル王が西暦前607年にエルサレムのダビデの王座を覆した後に七年間狂気に陥った事実は,既に始まっていた異邦人の時がどれほど長く続くかを示すのに役だちました。世界のできごとは,その時が西暦1914年まで続いたことを示しました。
12 「七つの時」が1914年に終わったとき,それはイエス・キリストが天与のどんな招待に答え応じて行動を起こすべき時となりましたか。
12 その年に異邦人が妨げられずに世界を支配する「七つの時」が終わり,次いで「人の子」が日の老いたる者の前に導かれるに及んで,天の人の子が詩篇 2篇7-9節に次のように述べられている預言的な招待のことばに答え応じて行動を起こすべき予定の時が来ました。『われ詔命をのべん エホバわれに宣まえり なんじはわが子なり今日われなんじを生めり われに求めよ さらば汝にもろもろの国を嗣業としてあたえ地の極をなんじの有としてあたえん 汝くろがねの杖をもて彼らをうちやぶり陶工のうつわもののごとくに打ち砕かんと』。―また,啓示 12:5をも見てください。
「羊飼いが羊をやぎから分けるように」
13 国々の人びとを分けるわざは「大患難」に関連していつ始まりますか。それで,そのわざには何が含まれてはいませんか。
13 統治する「人の子」は大いなる「艱難の時」にさいして諸国民を打ち砕いた後に,国々の人びとを「羊」や「やぎ」のように分けるのではありません。彼は大多数が地上の墓場から復活させられる地上の住民をそのようにして分けるわざにご自分の至福千年統治の全期間を当てるわけではありません。(ダニエル 12:1)その分けるわざは「大患難」の勃発に先立ってなされる活動であって,その「大患難」の壮大な最高潮にさいして諸国民はハルマゲドンで粉々に打ち砕かれるのです。(マタイ 24:21,22。啓示 16:14,16; 19:15)それで,人の子は分けるわざを開始すべく諸国民すべてをご自分の前に集めますが,それには地上の死人を復活させることは含まれていません。
14 分けるわざを行なうために,諸国民は地上のある集合場所に集められるのでしょうか。それとも,天の人の子はどのように諸国民を扱うのでしょうか。
14 諸国民を集めるとはいっても,地上のある集合場所に彼らを皆寄せ集めるという意味ではありません。それは不可能なことです。天と地の創造者が諸国民すべてを継承物として,また全地をその果てまで持ち物として人の子に引き渡されるとき,集めるわざが成し遂げられます。人の子はそれらの諸国民すべてを治める権威を神のみ手から受け,彼らすべてにご自分の注意を向け,そしてそれら諸国民を扱うにさいしては『彼とともに到来するすべてのみ使い』を用います。こうして,すべての国々の『人びと』は,比喩的な意味で人の子の所有する羊の群れとなりますが,ただしそれは羊とやぎの入り混じった群れに似ています。そうした入り混じった羊の群れは,中東地方では珍しいことではありません。
15 (イ)分けるわざが羊とやぎを分けるものとして描かれているということは,やぎは不評を買った動物であるという意味ですか。(ロ)その分けるわざはどんな期間中になされますか。
15 やぎを羊から分けるとはいえ,やぎの類の動物が何らかの不評を買っているからそうされるのではありません。イエスがおられた当時,地上では若い雄やぎは年ごとの過ぎ越しの食事の祝いにさいして子羊と全く同様に用いることができました。(出エジプト 12:1-5)また,年ごとの贖罪の日に,「イスラエルの全会衆のために贖罪を」行なうため神殿の至聖所の幕の内側に携え入れられたのもエホバのやぎの血でした。(レビ 16:7-9,15-17)それで,たとえ話の中では,やぎは単に一方の部類の人びとを表わすために用いられているに過ぎず,羊は他方の部類の人びとを表わすのに用いられており,羊飼いがその二種類の動物を分ける時が来るように,人の子のパルーシアの期間中,それも「大患難」以前に二つの級の人びとを分ける時が到来します。
16 たとえ話の成就における分けるわざからして,パルーシアは何を意味していると言わねばなりませんか。
16 もちろん,文字どおりの羊の群れの羊とやぎを分けることは,その気になれば一日のうちの少しの時間内に仕終えることができるでしょうが,自由な道徳的行為者である人びとを羊ややぎのように分けるには,世界的な規模で,ずっと長い時間が要ることでしょう。この事からしても,ギリシャ語のパルーシアは「到来」とか「到着」というよりもむしろ「臨在」を意味していると言わねばなりません。
17 (イ)羊とやぎを分けるわざはどんな相違点に基づいてなされますか。(ロ)自由な道徳的行為者である人びとを分けるには,実際の動物を分ける場合よりも,なぜより長い時間がかかるのでしょうか。
17 たとえ話の中では,それらの動物は二種類の別々の動物なので,羊飼いはやぎの乳と羊のそれとを混ぜて家の者たちの用に供したくはないという考えに基づいて分けることが行なわれます。一方の級の動物の毛は他方の級のそれとは異なっているので,それらを混ぜ合わせてはなりませんでした。(レビ 19:19。申命 22:11。出エジプト 36:14。箴言 27:27)たとえ話の成就においては,人びとを分けるわざは,人格や行動の仕方の相違に基づいてなされます。人格を十分に形成するには時間がかかりますし,行動の仕方は,ある人がいつもするようになる一連の行為によって作り上げられるものです。ですから,ある人の固定した人格や一定の習慣的な行為に関して裁きを下せるようになるまでには,より長い時間がかかります。そのため,ある人に対して取り消すことのできない正しい判決を言い渡し,それを執行できるようになるには,時間的猶予が必要です。それは24時間の1日の問題ではありません。
18 (イ)その右と左がそれぞれ何を意味するものとなるかが示されていることを考えれば,各人はどんな問題でおのおの決定を下さねばなりませんか。(ロ)人の子のパルーシアが目に見えないからといって,言い訳できる人がいますか。それはなぜですか。あるいは,なぜいませんか。
18 たとえ話の中で,羊飼いに似た人の子は,羊のような者たちをご自分の右に,やぎのような者たちを左に置きます。その右側は有利な判決を受ける側となり,左側は不利な判決を受ける側となります。その結果,今日のすべての国の人びとは重大な立場に立たされています。各自決定を下さねばならない問題は,今や輝かしい天の王座に座し,すべてのみ使いを同伴しておられる人の子の好意を自分は得ているだろうか,それとも不興を買っているだろうかということです。各自申し開きをするよう求められるのは必至です。統治しておられる人の子はそのパルーシアの期間中,人びとの目に見えないとはいえ,「私は知りませんでした」と弁解して言い訳できる人はいません。人の子の見えないパルーシアについては世界中でふれ告げられてきたのですから,各自自分は果たして,王で審判者であられる方の好意を受けることを,あるいは不興を買うことをしているか,それともしていないかを真剣に深く考慮しなければなりません。
19 1923年にロサンゼルスで開かれた国際聖書研究者協会主催の大会におけるラザフォード会長の話は,羊とやぎのたとえ話の成就をどの時期の事がらとして位置づけましたか。
19 とはいえ,その象徴的な羊,また象徴的なやぎとはだれのことですか。1923年8月25日,土曜日,それがおのおのだれを意味するかという驚くべき説明が,クリスチャンである聖書の研究者たちに与えられました。それはアメリカ,カリフォルニア州ロサンゼルスで開かれた国際聖書研究者協会主催の9日間にわたる地域大会の8日目のことでした。その日,同協会の会長J・F・ラザフォードは2,500人の聴衆を前にして,「羊とやぎのたとえ話」と題する講演を行ないました。聖書に基づくその説明は,マタイ 25章31-46節のたとえ話の成就を,現在の事物の体制の終わる「艱難の時」の後,またキリストの千年統治の期間中の事がらとして位置づけたりはしませんでした。そのたとえ話の成就は今,つまり西暦1919年以降,そしてこの事物の体制の滅亡までの,統治する人の子の見えないパルーシアもしくは「臨在」の期間中の事がらとして位置づけられたのです。同大会のその話の資料全文は,「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌,1923年10月15日号の307-314ページに発表されました。―前述の記事の「時」と題する見出しのもとの17-21節をご覧ください。
20 それゆえに,自分がどんな人格を形成しているかを各自考慮するのは,なぜ賢明な事がらとなりましたか。
20 このようにして,「ものみの塔」誌の読者および国際聖書研究者協会の会員は,そのたとえ話が既に成就の途上にあり,現在の人類の世代が重大な立場に立たされて関係しているという事実に注意を喚起されました。その結果,自分はどんな人格を形成しているか,また自分の行動の仕方は統治している人の子のどちらの側に自らを置くものとなるかについて各自調べるのが賢明な道となりました。
21 象徴的な「羊」になるようユダヤ人を助けるどんな努力が払われましたか。ユダヤ人に対するそうした特別の関心はいつまで持続されましたか。
21 何年かの期間にわたって,世界の生来の割礼を受けたユダヤ人が,統治しておられるメシアの右の象徴的な「羊」になれるよう助ける特別の努力が払われました。1925年中,国際聖書研究者協会の会長J・F・ラザフォードが各地で多数の聴衆を前にして行なった「パレスチナに帰るユダヤ人」と題する公開講演の形で,そうした努力がなされました。また,その一環として1926年5月31日,月曜日,夜,同会長は1万人を収容する英国ロンドンの有名なロイヤル・アルバート・ホールで,ユダヤ人聴衆をも含め,会場を大方埋めた聴衆を前にして「ユダヤ人のためのパレスチナ ― それはなぜか」と題する公開講演を行ないました。そうした公開講演のほかに,1925年10月の発行年月を付した「ユダヤ人のための慰め」と題する本が出版されました。その後,1929年8月25日にはニューヨーク市スタテン島のWBBR放送局から一連の放送局を通じて行なわれた全国的な規模のラジオ放送による,「人びとのための健康と命」と題する講演の終了後,「命」(英文)と題する360ページの本が発表され,公に頒布されました。割礼を受けたユダヤ人に対するこうした特別の関心は,イスラエルに関するエゼキエルの預言が今日の霊的なイスラエルに適用されることを示した「立証」と題する本の第二巻(英文)が1932年に発表される時まで持続されました。
22 1931年のコロンバス大会で発表された情報によって,羊のような人たちに対する関心はどのようにいっそう大々的な規模で引き起こされましたか。
22 とはいえ,1931年には「羊」級に対する関心がいっそう大々的な規模で引き起こされました。同年7月30日,オハイオ州コロンバスにおける国際聖書研究者協会の国際大会で,同協会の会長は「筆記人の墨いれをおびた者」と題する講演を行ない,その直後ロバート・J・マーチンは,「立証」と題する新しい本の第一巻(英文)を発表しました。それは,筆記人の墨いれをおびたその布の衣を着た者に関する幻について述べたエゼキエルの預言の第9章を1節1節詳しく論じた本でした。その話とその本はともに,印を付けるわざは単に生来のイスラエル人だけでなく,すべての国の人たちで成る羊のような人びとのために,キリストの弟子たちの油そそがれた残れる者によって行なわれねばならないということに注意を向けさせました。印を付けられた者たちだけが,きたるべき「大患難」を通過して,油そそがれた残れる者とともに生き残ることを聖書は示しているのですから,それは命を救うわざです。彼らは王国の地上の臣民となるのです。
23 多年,黙示録 7章の「大いなる群衆」に関してどんな関心が寄せられていましたか。1934年には「エホバ」と題する本が発表されたにもかかわらず,どうしてこの問題は明らかにされませんでしたか。
23 それまで何十年もの間,ジェームズ王による欽定訳聖書の黙示録 7章9節のいわゆる「大いなる群衆」は非常な関心の的とされてきました。その大いなる群衆を構成している人たちとはいったいだれでしょうか。1934年11月19日のこと,ニューヨーク市ブルックリンで,「エホバ」(英文)と題する本が献身的な神の民のために発表されました。384ページのその本は,あの「大いなる群衆」と羊とやぎのたとえ話の両方について述べました。(159ページの「大いなる群衆」の項と,「羊」に関しては354および359ページをご覧ください。)しかし,当時最新のその出版物も,たとえ話の「羊」はあの「大いなる群衆」と同一であるとか,布の衣を着て,からだの脇に筆記人の墨いれを帯びた象徴的な人によって額に印を付けられた人たちと同一であるとはみなしませんでした。また,「大いなる群衆」は王なるイエス・キリストの14万4,000人の共同相続者の一部ではないにしても,天的な命を受ける,霊によって生み出されたクリスチャンの殉教者たちの一団であるという長年抱いていた間違った考えを聖書研究者たちの念頭から捨てさせもしませんでした。「大いなる群衆」に属する人たちは大いなるバビロン,つまり偽りの宗教の世界帝国になお束縛されている「俘囚」であろうと考えられていました。
24 「大いなる群衆」に関する,納得のゆく,事実に即した説明はどんな大会で与えられましたか。その大会には特にだれが出席するよう招かれましたか。
24 では,「大いなる群衆」の幻に関する,納得のゆく,また進展している諸事実とも合致する説明は,それを知りたいと切に願っている人たちにいつ与えられましたか。それは1935年で,「エホバ」と題する本が発表された6か月後のことで,1935年5月30日から6月3日にわたって開かれた,エホバの証人のワシントン(特別区)大会の折でした。1935年4月15日号の「ものみの塔」誌の127ページに一ページ全部をさいて掲載された同大会に関する発表は,はっきりとこう述べました。「エホバとその王国の側にいる人たちすべてを歓迎いたします」。そして,こう続けています。「これは奉仕の大会であって,残れる者とヨナダブすべてが奉仕に携わるものと期待されています。……聖別されたことを水の浸礼によって象徴したいと願う人すべてに対しては,そのための取決めが設けられています」。同大会に関するその後の発表はこう述べました。「これまで多くのヨナダブは大会に出席する特権にあずかっては来なかったので,ワシントンにおける大会は彼らにとって真の慰めと益を与えるものとなるでしょう」。
25 (イ)いわゆるヨナダブたちはワシントン大会に招かれた特別の理由をいつ悟りましたか。(ロ)「大いなる群衆」と題する話をした講演者は,それがだれであることを明らかにしましたか。
25 レカブの子である昔のヨナダブと自分たちが似ていることを認めていたそれらの人たちが,そのワシントン大会に出席するよう特に招待された理由を悟ったのは5月31日,金曜日,午後のことでした。それはどうしてですか。なぜなら,その時,同大会の主要な講演者J・F・ラザフォードが,そこワシントン公会堂内の眼前の聴衆と,WBBRおよびWHPH(バージニア州ピーターズバーグ)両ラジオ放送局を通じて,同時に耳を傾けている数え切れない見えない聴衆に向かって,「大いなる群衆」と題する講演を行なったからです。啓示 7章9-15節に関するその説明は,「大いなる群衆」(欽)は霊的復活にあずかって天に行くよう定められている一団の崇拝者たちの群衆ではないことを明らかにしました。むしろそれは,イエス・キリストの天の王国と栄光を受けたその教会つまり会衆の治める楽園の地上で永遠の命を受ける希望を神のみことばの中で差し伸べられている,エホバの崇拝者たちの地的な級をさしています。当時,地的希望を持つそうした崇拝者たちは,レカブの子ヨナダブにたとえられ,「ヨナダブ」と呼ばれました。「ものみの塔」誌が後に述べたとおりです。
これらの人たちはほかには「ヨナダブ」と呼ばれています。彼らは象徴的な意味を持つバプテスマを受けており,そのようにして,神の意志を行なうべく聖別され,エホバの側に立ち,エホバとその王に仕えているということを公言しています。こうして彼らは清くなり,今や「白き衣を著」ているのです。このようなわけで,確かにその大いなる群衆は,天の場所に対する希望を抱く,霊によって生み出された人たちの級ではないことがわかります。むしろ……彼らは「大いなる患難より出」て来るのです。…… ― 1935年8月15日号,「ものみの塔」誌,248ページ,21節。
26 (イ)その講演内容はさらにどのようにして公表されましたか。その講演の後に,どれほどの人びとがバプテスマを受けましたか。(ロ)それらのバプテスマ希望者はいずれかの級に自ら入りましたか。彼らは自分がどちらの級に属するかをどのようにして知るようになったのでしょうか。
26 この注目すべき演説の資料全文は全地のエホバの崇拝者たちのための知らせとして,1935年8月1日および15日号の「ものみの塔」誌上に「大いなる群衆」と題する二部から成る記事として発表されました。その演説の行なわれた翌日,840人の人びとが自らを捧げて水の浸礼を受け,主イエス・キリストの弟子になったことを象徴しました。b (マタイ 28:19,20)それら840人のバプテスマ希望者は聖書的に言って,キリストの共同相続者の天的な級か,「大いなる群衆」で表わされている地的な級のいずれかに自ら加わる権限は与えられませんでした。なされねばならなかったのは彼らの意志ではなくて,エホバの意志でした。エホバこそご自分の欲するままに彼らをそのいずれかの級に入れて,ご自身の至上の意志を表明する方だったのです。バプテスマを受けた後,彼らのうちのだれかを,神の霊的な子になるようエホバがご自分の聖霊をもって生み出されたのであれば,そうすることによってエホバはその人を天的な相続物を持つ霊的な級の中に入れられました。また,もしだれかを霊的な子として生み出さず,霊的な子たちを扱う場合のようにその人を扱わなかったとすれば,霊によって生み出されなかった人は,地的な大いなる群衆の者とされたのです。
27 「大いなる群衆」に関するより新しいこの情報は,羊とやぎのたとえ話に関して何を供するものとなりましたか。
27 「大いなる群衆」に関するワシントン(特別区)における講演,およびその後同じ題で発表された資料は,羊とやぎのたとえ話をそれに照らして考える新たな背景を供するものとなりました。それは「羊」級の成員に対する要求を,12年前の1923年にカリフォルニア州ロサンゼルスで行なわれた羊とやぎのたとえ話に関する講演による説明よりもさらに明白に,また十分に際だたせました。
28 「羊」級に対する要求は1923年に明らかにされたものよりもいっそう大きいものであることがどのように示されましたか。
28 たとえば,「羊」級の人たちは,単に親切な気質を持つ,義を好む人道主義者で,キリストの弟子たちの油そそがれた残れる者に多少の親切を示した人以上の者でなければなりません。彼ら自身,「父と子と聖霊との名」によってバプテスマを受け,またエホバのクリスチャン証人として行動しているキリストの弟子でなければなりません。啓示 7章9-17節(欽定訳)の「大いなる群衆」は,マタイ 25章31-46節のイエスのたとえ話の「羊」級と同一だったのです。c
「さあ,わたしの父に祝福された者たちよ」
29 王の右側に入るためのきわめて重要な要求は,王が「羊」に述べた事がらの中でどんなことばで明らかにされていますか。
29 羊飼いである王が象徴的な「羊」に対して祝福された将来を指定する理由として述べた事がらは,「羊」級を構成する人たちがかなうよう期待されている,きわめて重要な要求を示しています。たとえ話の中で,「羊」級は王なる人の子の右にいて人の子から次のように話しかけられる様子が描写されています。「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい。わたしが飢えると,あなたがたは食べる物を与え,わたしが渇くと,飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると,あなたがたはあたたかく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。わたしが病気になると,世話をし,獄にいると,わたしのところに来てくれました』」― マタイ 25:34-36。
30 その指摘された事がらをそれらの「羊」がイエスに対して行なったとはいえ,それはどうして間接的に行なわれたにすぎないと言えますか。
30 「すべての国の民」の中の羊のような人びとは主イエス・キリストに対してそうした事がらをしたとはいえ,間接的にそうしたに過ぎません。地上におられた当時,イエスは3年と何か月かにわたる教えたり宣べ伝えたりするわざを遠い中東の地のイスラエル国民とサマリア人に局限したことを忘れてはなりません。(マタイ 15:24; 10:6。ヨハネ 1:11; 4:3-43。ルカ 17:15-18)それで,それら羊のような人びとは,小アジアの各地のローマ州にいた1世紀当時のクリスチャンに似ています。使徒ペテロは彼らにこう書き送りました。「あなたがたは彼を見たことはありませんが,彼を愛しています。現在彼を見ていませんが,彼に信仰を働かせ(ています)」。(ペテロ第一 1:8)地上におられたイエスを見ることなど決してできなかったとはいえ,イエスの右に分けられている羊のような人びとは,確かにイエスのために何かをしたいと思い,間接的にそうすべく努力しました。
31 たとえ話の中で描写されている王と「羊」との会話は,直接交されますか。テモテ第一 6章14-16節はこの点でどんな関係を持っていますか。
31 預言的なたとえ話のこの部分が成就するさい,それら羊のような人びとは,輝かしい天の王座に座しておられる人の子を見るわけではありません。また,人の子は肉眼に見える様で彼らに現われ,彼らの持って生まれた耳に聞こえるように話しかけ,感謝のことばを述べたりするわけでもありません。霊者としての彼の臨在もしくはパルーシアの期間中,それらの人びとはただ信仰の目によってのみ,王座に就いた人の子を見るので,彼がそうした人たちに有利な裁定を下すとき,好意を示すそのことばは,彼が選定する何らかの経路を通して伝達されるでしょう。たとえ話の中で即位した人の子と「羊」が交す会話の成就に関しては,テモテ第一 6章14-16節で次のように述べられていることを考慮に入れなければなりません。「わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで……その顕現は,幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。彼は王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主であり,[王として人びとから仕えられる者たちの中で]ただひとり不滅性を持ち,近づきがたい光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできないかたです」。それで,この王の王と「羊」の交す会話は間接的なものです。
32,33 (イ)王が「羊」に対して『来る』よう招くのは,天に来るよう招くという意味かどうかについては,何と言わねばなりませんか。(ロ)イエスはなぜそれらの人たちのことを「ほかの羊」と言われましたか。
32 彼はご自分の右にいるそれら羊のような人びとを『来る』よう招くにあたり,天に来て,その王座にともに座すよう彼らを招いているのではありません。それら象徴的な「羊」は,「第一の復活」を経験してイエスとともに千年の間人類を統治する,イエス・キリストの14万4,000人の霊によって生み出された共同相続者の成員ではありません。(啓示 14:1-3; 20:4-6)彼らはイエスの霊者としての臨在もしくはパルーシアの期間中に集められる「すべての国の民」に属する人びとなので,14万4,000人よりもずっと多くなり,実際のところその何倍もの大勢の個々の人びとで構成されるようになります。彼らは『すべての国民と部族と民と国語の中から来る,だれも数えつくすことのできない大群衆』を構成します。(啓示 7:9,10)この「大群衆」に属する人たちは,さらに次のように言われており,「羊」にたとえられています。「み座の中央におられる子羊(は),彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれる(の)である」。(啓示 7:17)事実,彼らは,イエスが次のように述べて,14万4,000人の共同相続者の「小さな群れ」から区別した「ほかの羊」の一部なのです。
33 「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです」― ヨハネ 10:16。ルカ 12:32。
34 即位した人の子は「ほかの羊」の「大群衆」にいつ『来る』よう命じますか。彼らはどうして天の父に「祝福された」人たちといえますか。
34 そうした「ほかの羊」の「大群衆」に対して,即位された人の子は,ご自分のもとに来るよう,すなわち彼らに報いを与える時にさいしてご自分のもとに近寄るよう命じます。そして,彼らのことを「わたしの父に祝福された者たち」と呼びます。(マタイ 25:34)それらの人たちは主イエス・キリストの臨在もしくはパルーシアの時期であるこの時代にさいしてイエスに対して良いこと,また助けになることをしようと努めたので,それゆえに確かに天の父から祝福されました。しかし,天の父がそうした尊い報いを彼らのために蓄えておかれたという点で特に彼らは天の父に「祝福され」ています。天の父はみ子の臨在もしくはパルーシアの時期である今の時代のこの羊のような人びとの級を予見されたので,それに応じて彼らのために尊い報いを蓄えられたのです。彼らが既に受けた数々の祝福も,これから受ける祝福とは比べものになりません。彼らのために蓄えられているその特異な報いとは何ですか。
35 (イ)イエスの示されたところによれば,「ほかの羊」の「大群衆」のために蓄えられている特別の祝福とは何ですか。(ロ)彼らが受け継ぐ「王国」は特に何をさしていますか。彼らはどこでそれを受け継ぎますか。
35 それは彼らに対するイエスのことばに示されています。「世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい」。(マタイ 25:34)このことばの中で,「ほかの羊」の「大群衆」はイエスの天の王座にともに座すべくイエス・キリストにより招かれたのではありません。彼らは14万4,000人の共同相続者ではないからです。では,その招待のことばはどう解すべきですか。リデルとスコットの「希英辞典」第一巻はその309ページで,「王国」という意味の原語のギリシャ語(バスィレイア)の項に,このギリシャ語にはまた受身の意味,すなわち人が「王に支配されている」という意味があり,さらに「治世」という意味もあると考えられる旨述べています。それでまさしく,そうした「ほかの羊」の「大群衆」は「王に支配されている」状態,すなわちメシアなる王イエス・キリストに支配される状態を受け継ぎます。王の王,イエス・キリストの千年にわたる「治世」を受け継ぐのです。彼らは栄光を受けた人の子に支配されるその千年期をどこで享受しますか。「肉と血」を持つ被造物である彼らが入り得ない天においてではなくて(コリント第一 15:50),キリストの王国の地的領域である,ほかならぬこの地上で享受します。―詩篇 2:8。ダニエル 2:35-45。
36 どんな「世」の基が置かれて以来,この「王国」は「ほかの羊」の「大群衆」のために備えられましたか。どのようにしてですか。
36 この地は主イエス・キリストのような王と,栄光を受けたその14万4,000人の共同統治者のもとで生活するすばらしい場所となります。それにしても,そうした意味での「王国」はどのようにして遠い昔,「世の基が置かれて以来」羊のような人たちの「大群衆」のために「備えられ」たのでしょうか。「世の基が置かれて以来」天の父なる創造者が彼らのためにそれを念頭に置かれたという意味においてです。これは地球という惑星の基を置くという意味ではありません。それは人類の世を意味しています。それはエデンの園で完全なアダムとエバが創造された後のことでした。アダムは王とされませんでしたし,エバもその女王とはされませんでした。アダムは陸生動物,水陸両生動物,魚類そして鳥類などの生物すべてを支配する王とはされませんでした。ヨブ記 41章34節(新)でエホバはレビヤタンのことを「すべての堂々たる野獣を治める王」と呼んでいます。さらに,アダムは人間としてその子孫すべてを治める王になるとも言われていません。ノアの日の洪水の後,メソポタミア渓谷にバベルもしくはバビロンを創設した厚かましい狩人ニムロデを皮切りに,初めて地上に王が存在するようになりました。(創世 10:8-10)アダムの子孫はアダムの王国で生まれたわけではありません。アダムとエバ自身は「世」を構成してはいませんでした。
37 (イ)その世の基はいつ,またどのようにして置かれましたか。(ロ)その基が置かれて以来,「王国」が備えられたといえるのはどうしてですか。
37 しかし,滅びの宣告を受けてエデンの園から追い出されたアダムとエバがその外で子供を設け始めたとき,「世」つまり人類の世の基が置かれました。それらの子供たちは罪や不完全さを宿し,死に定められた状態のもとに生まれましたが,それでも彼らはエデンでアダムとエバを罪に誘ったへびに対するエホバの次のようなことばに表わされている機会を捉え得る状態に入りました。「わたしはおまえと女との間に,またおまえの胤と女の胤との間に敵意をおく。彼[女の胤]はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕く」。(創世 3:14,15,新)時が経つにつれて,エホバ神は,象徴的なへびである悪魔サタンに対して勝利を得るその神秘的な胤に関する情報をさらにお与えになりました。勝利を収めるその胤は,全人類を治める王となることになりました。したがって,その胤の設立される王国の支配下に入る機会を持つ子供たちが生まれ始めたとき,エホバの約束は,基が置かれたばかりの人類の世に対して効力を発しました。こうして,その「王国」は,「世の基が置かれて以来」地上の住民のために蓄えられ,「備えられ」ました。―ルカ 11:50,51と比べてください。
「これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとり」に対して行なわれた
38 羊のような人たちの「大群衆」は王の招きのことばに驚きましたが,王のことばはそれをどのように説明していますか。
38 預言的なたとえ話の中で,世の基が置かれて以来彼らのために『備えられた王国を受け継ぐ』よう,王がそれら「羊」を招いたところ,彼らは驚いてしまいました。イエスはこう告げています。「その時,義なる者たちはこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を与えたり,渇いておられるのを見て飲む物をさし上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見てあたたかく迎えたり,裸なのを見て衣をあげたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか』。すると,王は答えて言うでしょう,『あなたがたに真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとりにしたのは,それだけわたしに対してしたのです』」― マタイ 25:37-40。
39 彼らは王に対して行なった思いやりのある行為に基づいて「義なる」者と呼ばれているのでしょうか。それとも,何に基づいてそう呼ばれていますか。
39 イエスがそれら羊のような人たちのことを「義なる者たち」と述べているのは注目に値します。彼らはイエスの指摘している思いやりのある事がらすべてを彼に対して行なったというただそれだけの理由で,イエスの前で義にかなった外見を保っていたのではありません。それら羊のような人たちは,キリストの14万4,000人の共同相続者と同様,自分自身のわざに基づいて義とされ,あるいは義と認められてはいません。考慮に値する主要な事がらは,事情が許すかぎりキリストのためになし得ることを努めて行なうことによって表わしたもの,すなわち神のメシアつまりキリストに対する彼らの信仰でした。彼らは神にとって全く申し分のない義が自分自身のうちに宿ってはいないことを認めました。そのことと調和して,彼らは犠牲にされた神の子羊イエス・キリストのなだめの血を利用しました。(ヨハネ 1:29,36)エホバ神のみ前で義にかなった外見を備えるため,彼らはいわば自分たちの象徴的な衣を洗いました。「大群衆」に関するヨハネの幻の中ではそのことに対して注意が喚起されています。
40 「ほかの羊」の「大群衆」の人たちは神のみ前における自分たちの不快な外見をどのようにして清めますか。彼らはどこで,またどのようにして神聖な奉仕をささげますか。
40 羊のような人たちのその「大群衆」が子羊イエス・キリストの弟子たちであり,エホバ神の霊的な神殿にいる崇拝者であることを明らかにするものとして,使徒ヨハネは「大群衆」の幻に関して交された次のような会話を伝えています。「すると,長老のひとりがこれに応じてわたしに言った,『白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか』。それでわたしはすぐ彼に言った,『わたしの主よ,あなたが知っておられます』。すると彼はわたしに言った,『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている』」。(啓示 7:13-15)それで,彼らが信仰を働かせて,キリストの流された血によって神のみ前における自分たちの不快な外見を洗い清めるのは肝要なことです。そのようにして信仰を働かせるほかに,機会が開かれて勧められる事がらを彼らは子羊イエス・キリストのために行なうことにより,霊的な神殿で神聖な奉仕を神にささげるのです。したがって当然,イエスは彼らのことを「義なる者たち」と言うことができました。
41 (イ)義にかなったそれら「羊」は,『いつわたしはあなた……を見ましたか』と繰り返し尋ねることによって,パルーシアに関して何を示していますか。(ロ)この点で,そのパルーシアはなぜ長期間にわたるものでなければなりませんでしたか。
41 イエスに対して種々の事がらを行なったと王イエス・キリストから言われた,義にかなった,羊のような人たちは,それらの事がらについて尋ねたとき,『いつわたしはあなた……を見ましたか』と繰り返し述べて,肉身のイエスを見たのではないことを明らかにしていますが,それはもっともなことです。というのは,今やイエスは「人はだれも見たことがなく,また見ることのできない」方なので,王としてのその臨在もしくはパルーシアは人の目には見えないからです。彼らがイエスの挙げた事がらすべてを間接的な仕方でイエスに対して行なうためには,そのパルーシアは長期間にわたる見えない臨在でなければなりませんでした。ではどうして彼らが行なった愛ある事がらはすべて彼に対して行なわれたのでしょうか。イエスはこう説明しています。
42 王は,それらの「羊」がそうした事がらをどんな仕方で間接的にご自分に対して行なったと彼らに告げていますか。
42 「すると,王は答えて言うでしょう,『あなたがたに真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとりにしたのは,それだけわたしに対してしたのです』」― マタイ 25:40。
43 王イエス・キリストはそのパルーシアの期間中,だれの残れる者を地上にお持ちになりますか。イエスはその預言を述べた日,またその復活当日,彼らについてどのように言われましたか。
43 即位した王としてのその見えないパルーシアつまり臨在の期間中,人の子であるイエス・キリストはご自分の霊的な兄弟たちの,肉身を備えた残れる者を目に見える仕方でこの地上に持っておられます。かねて,羊とやぎのたとえ話を述べたその同じ日にイエスは次のように述べて,それらの『兄弟たち』に言及されました。「あなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです」。(マタイ 23:8-10)そのたとえ話を述べてから五日後,よみがえった主イエスは,その復活の当日,何人かの婦人たちの所に現われて,彼女たちにこう言われました。「恐れてはなりません! 行って,わたしの兄弟たちに報告し,彼らがガリラヤに行くようにしなさい。彼らはそこでわたしを見るでしょう」― マタイ 28:9,10。
44 (イ)イエスは復活させられた日に,もう一人の女性に向かってそれら兄弟たちについてどのように言われましたか。(ロ)それら兄弟たちに対するイエスの態度に関して,ヘブライ 2章10-12節は何と述べていますか。
44 イエスはまたその復活の当日,マリア・マグダレネにも現われて,ご自分の霊的な兄弟たちについて話し,彼女にこう言われました。「わたしの兄弟たちのところに行き,『わたしは,わたしの父またあなたがたの父のもとへ,わたしの神またあなたがたの神のもとへ上る』と言いなさい」。(ヨハネ 20:17)彼らの最年長の霊的な兄弟であるイエス・キリストとともに天的な栄光にあずかるそれら霊的な兄弟たちは,ついには14万4,000人になります。キリストのそうした霊的な兄弟たちがいるという事実に関しては,霊感を受けた一筆者がヘブライ 2章10-12節に詳しく書いています。「多くの子らを栄光に導くにあたり,彼らの救いの主要な代理者を苦しみを通して完全にすることは,すべてのものがそれによってあるかたにとってふさわしいことであったのです。神聖にしている者も神聖にされている者たちも,みなひとりのかた[父]から出るのであり,このゆえに彼は,彼らを『兄弟たち』と呼ぶことを恥としません。彼がこう述べるとおりです。『わたしはあなたの名を自分の兄弟たちに告げ知らせます。会衆の中でわたしは歌をもってあなたを賛美します』」。それらの「兄弟たち」はヘブライ人アブラハムの「胤」の成員であり,天的な栄光にあずかるよう彼らを助けるために神の天的なみ子は彼らと同様の人間になられました。したがって,こう記されています。
45 イエスはその霊的な兄弟たちと同様の人間になりましたが,それは何のためでしたか。
45 「実に,彼はみ使いたちを助けているのではなく,アブラハムの胤を助けているのです。そのために,彼はすべての点で自分の『兄弟たち』のようにならなければなりませんでした。神にかかわる事がらにおいてあわれみ深い忠実な大祭司となり,民の罪のためになだめの犠牲をささげるためでした」― ヘブライ 2:16,17。
46 王イエス・キリストは,特にだれを援助する人たちを正しく評価されますか。なぜですか。
46 完全な人間として地上におられたとき,王イエス・キリストは自ら努めてご自分の霊的な兄弟たちを援助したとおり,彼はご自分の天的な共同相続者になるその霊的な兄弟たちを援助すべく幾らかの努力を払う人たちすべてを高く評価されます。そうした優しい援助者たちがイエスの「兄弟たち」に対して行なう事をイエスは,ご自分に対して個人的に行なわれた事とみなされます。そうした援助を差し伸べる人たちをイエスは羊にたとえておられるのです。彼らはだれかれを問わず,無差別にだれかに,またあらゆる人に善を行なう,大ざっぱな意味での単なる博愛主義者または人道主義者だからといって賞賛されるのではありません。そのような博愛主義者や人道主義者は往々にして,それも特に地上で苦難のただ中にあるキリストの霊的な兄弟たちに対しては恐れて善を行ないません。だれかがキリストの「兄弟たち」に少しでも同情を示そうものなら,キリストの「兄弟たち」に敵対する人たちや,キリストのそれら「兄弟たち」に多大の苦しみをなめさせ,投獄させることさえする人たちは,まゆをひそめて非難したり,批判したりします。
47 イエスが述べたように,義にかなった「羊」が援助の手を差し伸べる行為にはなぜ特別の価値がありますか。
47 むしろ,たとえ話の語り手であるイエスから「羊」また「義なる」者と呼ばれる人たちは,確かに恐れることなく物を見分けます。そして,知的また積極的にキリストの「兄弟たち」に対して善を行ないます。なぜなら,そうした人たちをそれと認めているからです。また,それら「兄弟たち」がイエス・キリストに見倣っており,行なうようイエスから命じられたわざを行なっているということをも信じています。それゆえにこそ,キリストの兄弟たちを援助する彼らの行為は,イエスの目に特に価値あるものなのです。その種の行為は真のキリスト教に即した動機付けを持っているからです。次のように述べたイエスはそうした物の見方を明らかにされました。「わたしたちに敵していない者は,わたしたちに味方しているのです。あなたがたがキリストのものであるという理由であなたがたに一杯の飲み水を与える者がだれであっても,あなたがたに真実に言いますが,その者は決して自分の報いを失いません」。(マルコ 9:40,41)「そして,弟子であるということでこれら小さな者のひとりにほんの一杯の冷たい飲み水を与える者がだれであっても,あなたがたに真実に言いますが,その者は自分の報いを決して失わないでしょう」― マタイ 10:42。
王の「兄弟たち」の側に立つ
48 (イ)西暦1935年以前,またそれ以後,地上のキリストの霊的な兄弟たちは,キリストが説明しておられるようなそうした経験をしてきましたか。(ロ)援助を差し伸べた「羊」は,何を知り,また何を認識した上でそうしましたか。
48 歴史の記録からも明らかなように,神の王国の良いたよりを宣べ伝え,すべての国の人びとを弟子とするわざを西暦1935年に至るまで続けた期間中,またその後もキリストの霊的な「兄弟たち」は文字どおり飢え渇き,衣服に事欠き,見知らぬ人また寄るべなき人となり,病気になったり,不当にも投獄されたりさえしました。また,彼ら自身の霊的な「兄弟たち」だけでなく,キリストの「兄弟たち」のように神の霊によって生み出されてはいない他の人たちもやって来て彼らを援助しました。後者の人びとは,それら苦しめられ,困っているクリスチャンがいったいだれなのかを,またそれら迫害されている人たちが人気のない人であることをも知らずにそのように行動したのではありません。それとは逆に,彼らはそれらの人たちが神のメシアによる王国の「大使」であることを認め,また自分たちも神の王国の側に立っている具体的な証拠を示したいと思ったのです。
49,50 (イ)霊的なイスラエル人ではない,それらの「羊」は,王国を宣べ伝えるわざにどのように答え応じますか。彼らはだれに加わりますか。(ロ)したがって,それらの人たちはだれの名によってバプテスマを受け,そうすることによって,だれに結びつきますか。
49 そうすることによって,それら羊のような人たちは,統治する王としてのイエス・キリストに対する信仰を表明しました。今や樹立された神の王国の良いたよりを宣べ伝えることを喜びとし,またその王国を十分支持したいと願ったのです。また,王国の「大使」たちの,弟子を作るわざに答え応じて,自らもキリストの弟子として水のバプテスマを受け,その教えに従いました。(コリント第二 5:20。マタイ 24:14; 28:19,20)こうして,それも今日に至るまで,霊的なイスラエル人ではないそれら羊のような人たちが取ってきたその行動のうちに,ゼカリヤ書 2章11節の次のような預言が今日成就を見ています。「その日には,多くの国の人びとが確かにエホバに加えられる[あるいは,加わる]ようになり,彼らは実際にわたしの民となり,わたしはあなたのただ中に住む」― 新世界訳,アメリカ標準訳。
50 「多くの国」つまりこれまでの報告によれば,208の国々や島々から来たそれら羊のような人びとはみ子と聖霊との名だけでなく,父つまりみ子の父であるエホバの名によってバプテスマを受けました。彼らは単にみ子だけを信じて,み父を無視したりはしません。救われるためには,単に「主イエスを信じ」るだけでなく,「エホバのみ名を呼び求める者はみな救われる」ことをも認める必要があります。(使徒 16:31; 2:21。ローマ 10:13)それで,彼らは正しくエホバのみ名を呼び求め,その名によってバプテスマを受けるのです。彼らはエホバの民になるためエホバに「加わる」,つまり献身します。以前献身の対象にしていた偽りの神々を捨てます。(ホセア 9:10)そして,イエス・キリストを通して,取り消しがたい仕方でエホバ神に結びつくようになります。
51,52 (イ)そのようにしてバプテスマを受ける点で,それらの「羊」はゼカリヤ書 8章20-23節の中でだれにたとえられていますか。(ロ)彼らにそのすそをつかまえられる「ユダヤ人」とはだれですか。
51 キリストを通して献身する点で,それら羊のような人たちは,さらにゼカリヤの預言の中で次のようなことばで描かれています。「万軍のエホバは,こう仰せられる。『そのうちに,諸民族と多くの都市の住民がやって来る。一つの都市の住民は正しく別の都市の住民のところへ行き,「わたしたちはぜひ行って,エホバのみ顔を和らげ,万軍のエホバを尋ね求めよう。私も行こう」と言う。そして,多くの民族と強力な諸国民が実際に,エルサレムで万軍のエホバを尋ね求め,エホバのみ顔を和らげるために来よう』。万軍のエホバは,こう仰せられる。『その日には,諸国民のあらゆる言語のうちから十人の者が,ひとりのユダヤ人のすそをつかみ,まさしく,実際につかみ,「わたしたちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる,と聞いたからです」と言う』」― ゼカリヤ 8:20-23,新。
52 この預言の成就において,「諸国民のあらゆる言語」からのそれらの人たちにすそをつかまえられる人とは霊的なユダヤ人です。すなわち,「すべての国民と部族と民と国語の中から」来る,数え切れないほどの「大群衆」に関する使徒ヨハネの幻のすぐ前の啓示 7章4-8節で述べられている,14万4,000人の霊的なイスラエル人です。
53 (イ)多くの国々の民の言語を話すそれら「十人の者」は,特に何年以来,霊的なユダヤ人のすそをつかまえてきましたか。(ロ)その年までに,それら霊的なユダヤ人はどんな顕著な名称を持っていましたか。
53 西暦1914年以降,王イエス・キリストの臨在もしくはパルーシアの期間中,わずかにそのような霊的なユダヤ人の残れる者が肉のからだで留まっているにすぎません。多くの国々の民の国語を話す「十人の者」が,あたかもひとりの人のすそをつかまえて,その霊的なユダヤ人とともに万軍のエホバの崇拝の中心地に自発的に上るかのように自らを低くし始めたのは,特に1935年以降,つまり神とその子羊の賛美者たちの「大群衆」の実体が明らかにされた後のことです。その1935年までには,それら霊的なユダヤ人は「エホバの証人」という聖書に基づく名称をすでに4年間用いていましたから,彼らがどんな種類のクリスチャンかを見まちがえる恐れはありませんでした。
54 それら「羊」がエホバに加わり,エホバを崇拝しようと努力することは,イザヤ書 2章2-4節にどのように予告されていましたか。
54 また,この終わりの日に,霊的なユダヤ人つまりイスラエル人の残れる者の一部ではない多くの人たちが献身して,神なるエホバに加わり,その霊的な神殿でエホバを崇拝しようと努めることは,預言者イザヤの次のような美しいことばの中で予告されていました。『すえの日にエホバの家の山はもろもろの山のいただきに堅く立ちもろもろの嶺よりもたかくあがり すべての国は流れのごとく これにつかん おおくの民ゆきて相語りいわん いざわれらエホバの山にのぼりヤコブの神の家にゆかん 神われらにその道をおしえ給わん われらその路をあゆむべしと そは律法はシオンよりいでエホバの言はエルサレムよりいずべければなり エホバはもろもろの国のあいだをさばき おおくの民をせめたまわん かくてかれらはその剣をうちかえて鋤となし その槍をうちかえて鎌となし 国は国にむかいて剣をあげず 戦闘のことを再びまなばざるべし』― イザヤ 2:2-4。
55 (イ)前述の預言に照らしてみると,人を神とキリストの前で「義」にかなった立場を持つ「羊」にするのは何であるということがわかりますか。(ロ)彼らはエホバの崇拝をどれほど高めますか。
55 現代,つまりキリストの臨在もしくはパルーシアの時代に適用されるこうした聖書の預言や,羊とやぎに関するイエスのたとえ話などすべてを考慮すると,何がわかりますか。それはキリストの霊的な兄弟たちのひとりに対して,それとは知らずに偶然に善を行なったからといって人は神とそのメシアなる王のみ前で「義」にかなった立場を持つ「羊」になるわけではないということです。「羊」級の人たちは統治する王なる人の子をたとえ文字どおりの肉眼で見ないとはいえ,自分たちのしていることを承知しています。また,王の霊的な『兄弟たち』の,しかも『これら[彼の]兄弟たちのうち最も小さな者のひとり』の労をさえ正しく認めます。そうした特別の理由があるからこそ,物質や身体面だけでなく,「王国のこの良いたより」を宣べ伝えて,キリストの弟子を作ることになる,聖書を教えるわざに一緒に加わることによって,霊的な面でも彼らを助けるよう努めているのです。彼らはキリストの『兄弟たち』がエホバの崇拝を他の何ものにもまして高めていることを知っているので,それらの兄弟たちと一緒にエホバの霊的な神殿に上って崇拝を行ない,またそのための高度の要求にも答え応じています。
56 (イ)対立を引き起こすさまざまの理由でキリストの『弟子たち』と戦うという点で,それらの「羊」はどんな立場を取っていますか。(ロ)彼らはだれの友になることを選びますか。また,自分たちの「長い衣」をどのように守りますか。
56 羊のような人たちはキリストの霊的な『兄弟たち』を助けて彼らに善を行ないたいと願うゆえに,国家・人種・部族・政治・皮膚の色・文化・言語などのいかなる理由によってであれ,彼らと戦ったりはしません。かえって,キリストの『兄弟たち』とともに,大量の軍備を擁するこの世界の激烈で,壊滅的で,血なまぐさい闘争や論争に対して厳正中立の立場を取ります。また,「世との交友」を享受するよりもむしろ,「世のものではない」キリストの『兄弟たち』との友でありたいと願っています。(ヨハネ 17:14,16。ヤコブ 4:4)それで,神に対するクリスチャンとしての誠実さを保ち,自分たちもキリストの真の弟子であることを実証できるよう,敵対するこの世の人びとの手でキリストの兄弟たちとともに苦しむことを選んでいるのです。そして,キリストの血で洗われた自分たちの「長い衣」を清く保ちます。
57 (イ)ゼカリヤ書 8章23節はユダヤ人と非ユダヤ人崇拝者たちとの割合をどんな数字で示していますか。(ロ)西暦1935年当時,世界の宗教人口は推定何人でしたか。それに比べて,エホバの証人は何人でしたか。
57 ゼカリヤ書 8章23節の「諸国民のあらゆる言語のうちから十人の者」が一人の霊的なユダヤ人もしくはイスラエル人のすそをつかむという預言は,すべての国々の民の中の自らを低くするそうした人たちが,霊的なユダヤ人もしくはイスラエル人の残れる者に数で勝るようになることを示唆しています。その割合は十対一に似るものとなります。西暦1935年以来,実際そのとおりになってきました。キリスト教を奉ずるか否かを別にすると,その画期的な年における世界中の宗教諸団体の人口は18億4,918万5,359人と推定されています。(ニューヨーク・ワールド-テレグラム社編,「世界年鑑および諸事実の書」1936年版,419ページ)同年,野外の奉仕の務めに携わって活動を報告していたエホバの証人は,世界中で6万人足らずでした。以来,世界人口はどれほど増大しましたか。
58 1935年以来,世界の宗教人口はどの程度増えましたか。また,一般の世界人口はどうですか。
58 「1973年世界年鑑および諸事実の書」の343ページによれば,世界の宗教人口は26億6,112万100人であると発表されています。これは1935年から1973年までに世界の宗教人口は2倍にはならなかったことを意味しています。さて,一般の世界人口は1935年には,1927年当時のそれと変わりがなく,すなわち19億6,000万人と見積られました。「1973年世界年鑑および諸事実の書」の206ページによれば,推定世界人口は36億3,179万7,000人でした。したがって,1935年から1973年までに世界人口は倍増するまでには至りませんでした。
59 1971から1972奉仕年度にはエホバの証人の人数はどの程度増えましたか。
59 しかし,エホバの証人の人数の増加についてはどうですか。証人たちの奉仕年度は暦年の9月1日に始まります。それで,1971から1972奉仕年度の間に,野外の奉仕の務めに定期的に活発に携わってエホバの証人と交わった人びとの数は,報告によれば平均159万6,442人でした。もっとも,同奉仕年度中,王国布告者は165万8,990人の最高数に達しました。これは1935年当時のエホバの証人の人数と比べて何という増加を示すものでしょう。
60 (イ)それら証人たちの中に霊的なユダヤ人が何人いるかはどのようにして確定されましたか。(ロ)こうした事がらすべてから,わたしたちは,人びとがエホバの霊的な神殿に上って崇拝を行なうことに関して,どんな事に気づきますか。(ハ)したがって,わたしたちはどんな重大な時代に生活しているに違いありませんか。
60 とはいえ,それらエホバのクリスチャン証人の中のどれほどの人たちが霊的なユダヤ人でしょうか。わずか1万350人だけです。それらの人びとは1972年3月29日の主の夕食の例年の祝いのさい,象徴物であるパンとぶどう酒にあずかって,自分たちが霊的なイスラエル人であることを明らかにしました。全世界におけるその祝いの出席者数は合計366万2,407人でした。エホバのクリスチャン証人が活動している208の土地や島々では2万8,407の会衆が機能を営んでいました。こうした事がらすべてから,わたしたちは何に気づきますか。それはキリストの見えないパルーシア(臨在)の期間中,あらゆる国民・部族・民族そして言語のうちから羊のような人たちの「大群衆」が王の右に集められ,霊的なイスラエル人の少数の残れる者に加わってエホバの霊的な神殿に上り,エホバを神として崇拝しているということです。これは主イエスの「臨在」もしくはパルーシアが進行しており,わたしたちが「事物の体制の終結」の時に生活していることを証明する「しるし」の注目すべき特色をなしています。―マタイ 24:3。
[脚注]
a 1915年の「世界年鑑」はその494ページの「世界各国の統計」という見出しのもとに世界の異なった64か国を列挙し,その人口の総合計を16億9,174万1,383人としています。
b 1935年7月17日号,「黄金時代」誌(英文)の660ページ,第2欄を見てください。
c この点に気づいたことを示すものとして,1936年5月1日付の「ものみの塔」誌は,「ハルマゲドンの生存者たち」と題する記事の140ページ,47,48節で,「羊」級を「大いなる群衆」と同一のものとみなしました。