第19章
「ふたりの証人」の死と復活
1 ヨハネが幻の中で次に見た神殿は,エルサレムにあったヘロデ王の神殿ではありませんでした。なぜですか。するとそれはどんな神殿でしたか。
使徒ヨハネがもろもろの民・国民・国語また王たちについて再び預言しなければならないと告げられた後,彼の前に突然,神殿が現われます。それはヘロデ大王がユダヤのエルサレムに建立した神殿ではありません。その神殿は聖都エルサレムとともに,西暦70年,ティツス将軍の率いるローマ軍によって破壊され,すでに26年間廃きょとなっていました。使徒ヨハネは幻の中にあって,『天にある開かれた戸』の近くにおり,それを通って入るよう招待されたのですから,この神殿は幻の中に現われた神殿であったに違いありません。―啓示 4:1-3; 10:9-11。
2,3 (イ)預言者エゼキエルはどのように同様の経験をしましたか。(ロ)ヨハネは幻の中で何をするよう招待されましたか。
2 この神殿は,預言者エゼキエルが見た幻の中の神殿をヨハネに思い起こさせたかもしれません。エゼキエルがその神殿を見たのは,エルサレムおよび,ソロモン王によってそこに建立された神殿が,バビロニア人によって破壊されてから十四年目に当たる西暦前593年のことです。(エゼキエル 40:1-5)エゼキエルの幻の中では,銅のような姿をした人のごとき者が,この預言者に神殿を案内しながら説明を述べ,亜麻の綱と,物を測る六キュビトの葺とをもって神殿を測りました。しかしヨハネの幻では,彼自身が杖に似た葺を与えられ,幻の中の神殿を測るよう告げられました。
3 「それから,杖に似た一本の葺がわたしに与えられ,そのさいに彼はこう言った。『立って,神の神殿の聖所と祭壇とそこで崇拝する者たちを測りなさい。しかし,神殿の聖所の外側にある中庭は,これをまったくほうって置き,そこを測ってはならない。それは諸国民に与えられているからであり,彼らは聖なる都市を四十二か月のあいだ踏みにじるであろう。そしてわたしは,わたしのふたりの証人に,粗布を着て千二百六十日のあいだ預言させる』。これらの者は,二本のオリーブの木,また二つの燭台によって象徴されており,地の主の前に立っている」― 啓示 11:1-4。
4 (イ)なぜ聖所と祭壇が測定されたのですか。(ロ)ヨハネの行なった測定の行為は,どのような成就を見ましたか。
4 神殿の聖所つまりナオス(ギリシャ語)は,神殿の敷地の一部を占めるにすぎず,「そこで崇拝する者たち」は,14万4,000人の霊的イスラエル人のことでしょう。(啓示 7:1-8)ゼカリヤの預言(2:1-4)に描かれている測量が暗示するように,霊的神殿を測るのは,そこに何人はいるかを見いだすため,また,何人が,仲介者イエス・キリストを通して神に受け入れられる祈りをささげることにより,黄金の香壇で奉仕をするかを見いだすためと考えられます。使徒ヨハネによって表わされる油そそがれた残りの者たちは,異邦人の時が終わる西暦1914年初秋以前に,霊的神殿級の最終的な成員の数が14万4,000人であることを聖書から見いだしました。―啓示 14:1-3。ペテロ第一 2:5,9。エフェソス 2:20-22。1880年11月号の「シオンのものみの塔」誌(英文),「キリストに集う」という見出しの12節をごらんください。
5 幻の中で中庭は測られずに異邦諸国民に「与えられ」,踏みにじられることになりました。なぜですか。
5 しかし,「神殿の聖所の外側にある中庭」はなぜ全くほうっておかれ,測られなかったのでしょうか。それはその中庭が,「聖なる都市」を四十二か月のあいだ踏みにじる異邦諸国民に「与えられ」たからです。したがって,中庭は当時まだ地上にいた霊的イスラエル人を表わしていました。彼らは天の霊的神殿の成員となる見込みを持つ者でしたが,その神殿の成員としてのすべての資格に最終的,決定的な仕方では,まだかなっていなかったのです。これが,西暦1914年の異邦人の時の終わりにまだ地上にいた,油そそがれた残りの者たちの状態でした。彼らは,啓示 3章12節の次の約束にふさわしい者となるよう,この世を最終的には征服していませんでした。「わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱とし,彼はもはやそこから決して出ないであろう」。したがって,彼らを懲らしめ試すために,この象徴的な「中庭」は全くほうっておかれ,異邦諸国民に任されたのです。諸国民が,聖なる都市を四十二か月間踏みにじるとともに,それを汚すためでした。それはいつ生じましたか。
「四十二か月のあいだ」
6 その四十二か月は歴史のどの期間に相当しますか。それはどれほどの期間に及びますか。
6 歴史の確証するところによると,それは西暦1914-1918年の第一次世界大戦中に生じました。第一次世界大戦の全期間は,四十二か月内に収まりません。一月を三十日の長さとする預言的な月に基づいて計算すると,四十二か月は,一年を十二か月として,三年半あるいは1,260(30×42)日に等しいことになります。この計算は,ダニエル 7章25節の,同じ期間に関する別の計り方と一致します。その聖句は,至高の神の聖なる者たちが,この世の政治的要素の手に「一時と二時と半時」渡されることを述べています。つまりそれは,三時半を意味しており,各「時」は365 1/4日の太陽年に相当します。
7 (イ)問題の四十二か月が始まるのは,異邦人の時の始まった季節と同じです(異邦人の時の終わった季節についても同じ)。すると,その四十二か月はいつ始まったことになりますか。(ロ)仮庵の祝祭の始まりからその次の過ぎ越しまでの期間は,普通どれくらいですか。(ハ)いずれにせよ,ある年の過ぎ越しから翌年の過ぎ越しまで,どれくらいの期間がありますか。
7 使徒ヨハネはユダヤ人の生まれでしたから,ユダヤの太陰暦にしたがってその時を計算するはずです。異邦人の時は第七のユダヤ太陰月(ティシュリ)の中旬に始まりましたので,それは1914年のティシュリ15日(10月4/5日)ごろに始まったことになります。ティシュリ15日は,ユダヤの仮庵(幕屋,または取り入れ)の祝祭の始まる日でもありました。大抵の年の場合,ティシュリ15日の仮庵の祝祭の始まりから次の過ぎ越し,つまりニサン14日(日没後)まで,太陰月で六か月の期間があります。ユダヤの太陰暦を異邦人の太陽暦と調節するため,各十九年ごとに七回だけベアダル(つまり第二のアダル)として知られる,うるう月を挿入します。a しかし,ある年の過ぎ越しから翌年の過ぎ越しまでの期間は,太陰年の丸一年(時には,うるう月つまりベアダルまたは第二のアダルを挿入するため,十三の太陰月が含まれる年がある)です。
8 (イ)したがって,1914年の仮庵の祝祭から1918年の過ぎ越しまでの期間はどれだけの長さになりますか。(ロ)「四十二か月」の期間はいつ始まりましたか。そしていつ終わりましたか。
8 したがって,1914年(異邦人の時の終わり)の仮庵の祝祭の初日から1915年の過ぎ越しまで,太陰月で六か月の期間がありました。1915年の過ぎ越しから1918年の過ぎ越しまでは三年,その間一度だけ,1916年にうるう月(ベアダル; 第二のアダル)が定めどおり挿入されました。このようにして期間を計ると,1914年(異邦人の時の終わり)の仮庵の祝祭の初日から1918年の過ぎ越しまで三年半となり,それは聖書的に言えば,三「時」半あるいは「四十二か月」,つまり「千二百六十日」でした。この期間は,1914年のティシュリ15日または10月4/5日から起算すると,1918年のニサン14日または3月26/27日に終了したことになります。b
9 (イ)諸国民は1914年における異邦人の時の終わりをどのように犯しましたか。(ロ)その時イエス・キリストは何を行なわれましたか。
9 異邦人の時は1914年10月4/5日ごろに終わりましたが,その終わりを犯す行為として,異邦諸国民は世界支配をめぐって第一次世界大戦を行なっていました。その時,「ユダ族の者であるしし」,すなわちイエス・キリストの王国が天に誕生し,彼は神の右に即位しました。その時から,新たに王冠を頂いたメシア,イエスは,ご自分の地的な敵である異邦諸国民を征服するために馬を乗り進めたのです。その異邦諸国民は,ダビデ王の家系が西暦前607年の古代バビロンによるユダの荒廃に至るまでその地で行使した,王国の権利を踏みにじってきました。その荒廃は太陰月ティシュリ(ユダヤの第七番目の月)の中ごろまでに成し遂げられ,その時,「[異邦]諸国民の定められた時」の「七の時」が始まったのです。―ルカ 21:24。ダニエル 4:16,23,25。啓示 6:1,2。詩篇 110:1-6。
10 (イ)異邦人の時はいつ始まりましたか。それはいつ終了しますか。(ロ)異邦人の時の終わりから三年半というと,どの日時になりますか。
10 その異邦人の時は,西暦前607年,ユダヤ人の第七の太陰月(ティシュリ)の15日ごろに始まったので,その終わりは,1914年の同じ月の中ごろ(ティシュリ15日),つまり10月4/5日ごろになります。c ユダヤ暦によると,それから三年半は,1918年の過ぎ越しの時分,つまり,過ぎ越しの日の終わる,1918年3月27日の日没時に当たります。
11 (イ)第一次世界大戦中,油そそがれた残りの者はどんな立場を成就していましたか。(ロ)啓示 11章2節は彼らに対しどのように成就しましたか。
11 1914-1918年の第一次世界大戦中,油そそがれた残りの者は,古代の地的エルサレムに関連づけられていた,メシアによる王国の関心事を管理しようと努めていました。それゆえ,彼らはその「聖なる都市」を代表する者,その地上の大使だったのです。啓示 11章2節の成就として,彼らは「四十二か月」つまり三年半または三「時」半,異邦諸国民によって踏みにじられねばなりませんでした。1914-1918年にわたる上記の期間,彼らは実際に踏みにじられました。異邦諸国民は彼らを踏みにじるため,第一次世界大戦を利用しました。しかし,四十二か月が終了した後,油そそがれた残りの者に何が起ころうとしていたのでしょうか。
「わたしのふたりの証人」
12 その世界大戦の期間中,油そそがれた残りの者はどのようにエホバの証人として奉仕していましたか。
12 今日,この油そそがれた残りの者の中の残りの人たちは,全世界で“エホバの証人”として知られています。彼らは1918年当時にもエホバの証人でした。そして,啓示 11章3節で「わたしのふたりの証人」と呼ばれている者たちです。その年の初めまで,つまり,カナダでは1918年2月12日,アメリカでは1918年3月14日まで,油そそがれた残りの者たちは,聖書および,聖書全体を検討した「聖書研究」六巻に加えて,啓示の書全体に関するかの注釈書,「終了した秘義」を出版し,配布していました。ですから,「わたしのふたりの証人」に関して,啓示 11章に述べられていることは,この油そそがれた残りの者たちによく当てはまるはずであり,事実はそのとおりであることを示しています。啓示 11章3節は,神の次の言葉を引用しています。「わたしは,わたしのふたりの証人に,粗布を着て千二百六十日のあいだ預言させる」。
13 (イ)「ふたりの証人」が粗布を着て預言することに関し,以前にはどんな説明がなされていましたか。(ロ)預言者が粗布を着ている,あるいは悲しみに満ちた様子をしているということは,何を指しているかもしれませんか。
13 これは,1914年11月前半から1918年5月7日までの期間を指すと説明されていました。この説明がなされた理由は,1,260日が油そそがれた残りの者の自己中心的,個人的な嘆きの期間を指し,粗布は喪中の嘆きを象徴すると理解されていたからです。例えば,啓示 6章12節は,『毛の粗布のように黒い』という表現を使っています。d しかし,粗布を着ているということは,自分の希望や強い願いがかなえられないための私的,個人的な嘆きを指しているとは限らないかもしれません。むしろそれは,「わたしのふたりの証人」の預言する預言の性質を指しているのかもしれません。彼らは陰うつな預言者,つまり,他の者たちに対し陰うつな音信を携えた預言者であり,個人的な事柄に腐心しているのではありません。預言者イザヤが三年間,真っ裸で,また,はだしで歩き回るようエホバ神から命令されたことが思い出されます。それはなぜでしたか。『エジプトとエチオピアとの豫兆となり奇しき標となる』ため,すなわち,世界強国アッシリアが,間もなく,エジプトとエチオピアから捕虜と流罪人を「はだかはだし」で連れ去ることを示す異兆となるためだったのです。―イザヤ 20:1-6。
14 「ふたりの証人」はどのように粗布を着て,千二百六十日の間預言しましたか。
14 同様に,「ふたりの証人」にとって,粗布を着て千二百六十日のあいだ預言するということは,その期間,彼らが諸国民に対する陰うつな,嘆きの音信をふれ告げることを意味すると言えるでしょう。1914年10月4/5日後,油そそがれた残りの者たちが全世界で,異邦人の時は終わった,また,諸国民にハルマゲドンの戦闘における滅びが近づいているとふれ告げた時,それはキリスト教世界の内外にいる異邦諸国民にとって確かに暗い,嘆きの音信でした。つまり,異邦諸国民が,天のエルサレムにおける王国の将来の相続人としての彼らを,「四十二か月のあいだ」踏みにじっていたその同じ期間(すなわち,千二百六十日間)に,油そそがれた残りの者は彼らを責め苦に遭わせていたのです。どのようにですか。「全能者なる神の大いなる日の戦争」の時に,それら異邦諸国民に定められている滅びを宣明することによってです。神がそれら証人に預言をさせました。というのは,記されたご自分のみことば,およびその預言の成就から,神は彼らに音信を与えられたからです。―啓示 16:14-16。1914年11月1日号の「ものみの塔」誌とその主要記事「義の統治に備える」をごらんください。また,その次の号から1918年3月15日号に至る「ものみの塔」誌の記事をごらんください。
15 (イ)ゼカリヤの預言の中で言及されている「二本のオリーブの木」はだれのことでしたか。(ロ)同様に,油そそがれた残りの者はどのように「二つの燭台」に似ていましたか。
15 名前のあげられていない,「わたしのふたりの証人」の実体に関し,神の言葉は少しの手掛かりを与えています。「これらの者は,二本のオリーブの木,また二つの燭台によって象徴されており,地の主の前に立っている」。(啓示 11:4)この描写的な言葉は,ゼカリヤ 4章1-14節の預言に直接言及したもので,そこでは,ユダの知事ゼルバベルと大祭司ヨシュアが,燭台に油を供する「二本のオリーブの木」によって象徴されています。知事ゼルバベルと大祭司ヨシュアは,西暦前537年にバビロンの流刑から帰還した残りの者の中に入っており,エルサレムとその神殿を再建し,その地におけるエホバの崇拝を復興させる業を監督しました。(ゼカリヤ 3:1-10)したがって,オリーブ油を燃やす「二つの燭台」に似ているという点において,粗布を着て1,260日間預言する油そそがれた残りの者たちは,まだ,再建の業,エホバの崇拝を地に復興する業,そして全地に神の聖書の真理の光を照らす業を行なう必要があったのです。
16 油そそがれた残りの者は,聖書中の古代のどんな預言者に似ていますか。彼らが行なうことに関し,啓示の書は何と述べていますか。
16 油そそがれた残りの者である,「わたしのふたりの証人」は,聖書の他の預言者すなわち,西暦前10世紀のエリヤと西暦前16世紀のモーセに似ています。この点は,彼らが「粗布を着て」預言する1,260日の間に,敵が彼らを損おうとするとき明らかになります。神はこう言われます。「そして,彼らを損おうと思う者がいれば,火が彼らの口から出て,その敵たちを焼き尽くす。彼らを損おうと思うような者がいれば,その者はこのようにして殺されねばならないのである。彼らには,天を閉ざして,その預言するあいだ雨を降らせないようにする権威があり,また,水を制してそれを血に変え,あらゆる種類の災厄をもって何度でも望むだけ地を撃つ権威がある」― 啓示 11:5,6。
17 (イ)エリヤは自分を捕らえに来た者たちに対しどんな力を行使しましたか。(ロ)油そそがれた残りの者たちはどのように象徴的に天から火を下しましたか。
17 バアルを崇拝する不忠実なイスラエル王アハジヤは,エリヤが険悪な内容の預言をしたので,彼を捕らえて来るよう数隊の兵士を送り出しました。その時エリヤは,その二組の兵団に天から火が下ってくるよう祈りました。言わば,エリヤの口から火が出たのです。(列王下 1:1-12)1914-1918年の第一次世界大戦中,キリスト教世界の宗教指導者は,国際聖書研究者協会の公の活動を中止させるため,彼らに激しい迫害をもたらそうとしていました。しかし,勇敢な油そそがれた残りの者たちは,背教したクリスチャンの偽りの教理および,クリスチャンにふさわしくない彼らの慣行を暴露する文書を出版,配布することにより,彼らに対し火のような滅びを吐き出しました。例えば,1917年7月に出版された「終了した秘義」のすぐ後を追って,「バビロンの没落」と題する主要記事を載せた「聖書研究者月刊」九巻九号が出されました。アメリカ政府が「終了した秘義」を禁書にした後,油そそがれた残りの者は,上部に「王国ニュース」という表題をもつ二ページ大判の新しい冊子を出版し,火のような音信を載せたこの冊子を三号続けて印刷し,配布しました。そうした聖書の音信すべては,宗教および政治上の敵をまさに焼き尽くさんばかりでした。―エレミヤ 5:14。
18 油そそがれた残りの者は,干ばつを祈り求めたエリヤの例にどのように倣いましたか。
18 エリヤの言葉どおり,イスラエル王国は荒廃をもたらす干ばつに見舞われました。三年半の間,雨も降らず露も結ばず,ききんが猛威を振るいました。(列王上 17:1から18:45。ルカ 4:25,26。ヤコブ 5:17,18)エリヤと同じく,神の「ふたりの証人」である油そそがれた残りの者も,「天を閉ざして,その預言するあいだ」(「千二百六十日」つまり三年半の間)「雨を降らせないようにする権威」を持っていたのです。油そそがれた残りの者がどのようにそうしたかを示す一つの例は,1914年10月15日号の「ものみの塔」誌(英文),307,308ページ,7-9節に明らかにされています。それをここで引用してみましょう。
19-21 1914年10月15日号の「ものみの塔」誌は,諸国民に祝福と平和を注ぎ出すことに関して天が閉ざされていることをどのように指摘しましたか。
19 ヨーロッパの和平に対する祈り: 尊敬すべきわたしたちの大統領[ウッドロー・ウィルソン]は称賛すべき意図をもって,10月4日をヨーロッパの和平を願う祈りの日とするよう,すべてのクリスチャンに要望しました。しかしわたしたちは,この事につき大統領と意見を同じくすることはできません。平和の必要性を認めるにやぶさかではありませんが ― わたしたちは平和を作り出すために全生涯を傾注してきました ― 全能者にご自分の企てをわたしたちの大統領のそれに合うように変えてくださいと祈ることはできないのです。
20 神は2,520年の間,ご自分の民に,聖書の預言者たちを通して,この大戦およびそれに続くであろう,さらにせい惨なハルマゲドンについて告げて来られました。それを,わたしたちの命令で神が計画を一変される,と期待できるでしょうか。
21 一方では何百万の人びとがドイツ人の繁栄と連合軍の全滅を祈り,他方では同じく何百万人の人びとが連合軍の成功とドイツ人の絶滅を祈っています。また,教皇やアメリカの大統領,それに他の善良な人びとも,この恐るべき戦争が速やかに終わるよう祈っています。しかし,聖書を正しく読むかぎり,そのどの祈りもこたえられないことが分かります。戦争は続き,結局どの国とて栄光の勝利を収めることなく,すべての者が恐ろしい不具者にされ,貧困に襲われるのです。そして次に,恐るべき無政府状態のハルマゲドンが到来します。
22 油そそがれた残りの者はなぜ諸国民と祈りを共にすることはできませんでしたか。諸国民にとって残りの者はどのように映りましたか。
22 油そそがれた残りの者は,聖書的に言って,エホバ神に,天の窓を開き,戦争に狂う世界に祝福を与えてくださいとか,み子イエス・キリストによりマタイ 24章7,8節と啓示 6章3-8節に予告されている,「苦しみの劇痛のはじまり」に世を遭わせないでください,などと祈ることはできませんでした。したがって,油そそがれた残りの者たちは事実上,勇気を振るい起こして『天を閉ざし,……雨を降らせないように』したのです。彼らが諸国民に,『粗布を着た』預言者のように映ったのは無理からぬことです。
23 (イ)モーセによりエジプトにもたらされた最初の災厄は何でしたか。(ロ)油そそがれた残りの者は,モーセのように,ある業を象徴的に行ないました。どのように。
23 エリヤよりも六世紀前,圧制的なエジプトを十の災厄で撃ち,イスラエル人を自由の身とするようファラオを強制するため,預言者モーセがエホバ神により用いられました。モーセがエジプトを撃った最初の災厄により,すべての水が血に変えられ,その結果,魚は死に,エジプト人はいつもの水源から水を飲むことができませんでした。(出エジプト 7:14-25)流された血は死の象徴ですが,粗布を着て預言した時の油そそがれた残りの者は,キリスト教世界が宗教上の教えまた哲学という形で飲んでいる水が,実際には,血と同じく死をもたらすものであり,それゆえに真のクリスチャンが飲むべきものでないことを聖書から示しました。(創世記 9:4。使徒 15:20,29)油そそがれた残りの者は,キリスト教世界の教理,慣行および組織に対し,彼らがその背教した宗教制度に与えるのを適当と認めた他の霊的打撃をも合わせて加えました。そうした事柄すべては,キリスト教世界がキリスト教に反しており,異教的であることの証明となり,キリスト教世界を大いに苦しめました。また,その友,会員および支持者である政治家や軍国主義者にも責め苦を与えました。
殺され,そして生き返る
24,25 油そそがれた残りの者によりこれらの打撃すべてがキリスト教世界に与えられた後,この世の政治体制は啓示 11章7-10節に描写されているようにどんな結論に達しましたか。
24 この世の政治体制は,キリスト教世界のよき友であるので,神の「ふたりの証人」である,油そそがれた残りの者のそうした活動をそれ以上耐えることはできないと感じました。神の許しにより,また神のみことばに予告されているとおり,政治体制は彼らに対し行動を起こしました。啓示 11章7-10節はこう予告しています。
25 「そして,彼らが自分たちの証しを終えた時,底知れぬ深みから上る野獣が彼らと戦い,彼らを征服して殺すであろう。そして,彼らの遺体は,霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる大いなる都市の大通りに置かれるであろう。彼らの主もそこで杭につけられたのである。そして,もろもろの民・部族・国語・国民から来た者たちは三日半の間その遺体を見るが,遺体を墓の中に横たえることを許さない。また,地に住む者たちは彼らのことで喜びまた楽しみ,互いに贈り物を交すであろう。これらふたりの預言者は地に住む者たちを責め苦に遭わせたからである」。
26 それら「ふたりの証人」の業をやめさせるために行動した「野獣」は一体何ですか。
26 288ページ8節の計算が示すように,これら「ふたりの預言者」が「粗布を着て」預言する1,260日は,1918年3月26/27日に終わりました。象徴的な「野獣」は,その日時以後に初めて底知れぬ深みから上って来たのではありません。この「野獣」は,啓示 13章1,2節で,海の底知れぬ深みから上って来たと描かれているものと同じで,それが実際に上って来たのは,ノアの時代の大洪水の次の世紀です。そして,それは全世界にまたがる,悪魔の政治体制となりました。過去のその時代に象徴的な底知れぬ深みから上って来た,この獣のような政治体制は,1918年3月26/27日以後,神の「ふたりの証人」に対して行動を起こしました。
27,28 (イ)「野獣」が「ふたりの証人」に対して行なった戦争の初期的段階について説明しなさい。(ロ)1918年の初めに「王国ニュース」と題する三部の冊子が出版されましたが,その目的は何でしたか。
27 それは,どのように彼らと戦い,彼らを征服し,ついに殺したのですか。第一次世界大戦中の戒厳令や他の緊急法案を利用することによってです。1914年10月4日に和平を願って祈るよう全国民に要望したウッドロー・ウィルソン大統領は,1917年4月6日,金曜日,ドイツに宣戦を布告し,アメリカは第一次世界大戦に突入しました。その三か月後,1917年7月に,ものみの塔聖書冊子協会は,608ページの「終了した秘義」と題する本を出版しました。この本は,特にキリスト教世界の僧職者を責め苦に遭わせました。そのほんの少し前の1917年6月15日,アメリカは独自の徴兵制と防諜法を制定しました。それらは,当時の大英帝国の同様な法律に範を採ったものです。こうして,僧職者が象徴的な「野獣」を唆して神の「ふたりの証人」に戦争を仕掛けるために用いる手段が整えられました。
28 すでに1918年2月12日,カナダの国務長官は,「終了した秘義」および,「聖書研究者月刊」と題する一連の小冊子を禁書にしました。「聖書研究者月刊」の九巻九号は「バビロンの没落」を主要記事としていました。カナダの例に倣い,首都ワシントンにある合衆国司法省も,1918年3月14日,「終了した秘義」の配布は防諜法に対する侵害とみなしました。「ものみの塔」誌は直ちに,1918年3月15日号の誌上で,「王国ニュース」と題する大判二ページの新しい一連の冊子の準備と発送に関する発表を行ないました。それは,「終了した秘義」が禁止処分にされた理由および,僧職者の責任がそれにどう関連しているかを説明するものでした。それらの「王国ニュース」の最後である第三号は,1918年5月に出されました。
29 どんな出来事が「千二百六十日」の終わりをしるしづけましたか。聖書研究者たちはどんな業を行なうよう促されましたか。
29 1918年3月26日,火曜日,国際聖書研究者たちは,年に一度のキリストの死の記念式を全世界で祝いました。それは,予告された「千二百六十日」の終わりに当たります。(啓示 11:3)1918年4月15日号の「ものみの塔」誌は,聖書研究者たちに六巻からなる「聖書研究」,とりわけ「ハルマゲドンの戦い」と題する第四巻を配布し,個人の家々で牧羊の業を進めるよう促しました。
30 「野獣」の仕掛けた戦争はどのように激しさを加えましたか。その戦火はついにどのようにものみの塔聖書冊子協会の本部にまで迫りましたか。
30 象徴的な「野獣」は,戦争によって分裂した世界各地で,神の「ふたりの証人」に敵する行動を取りましたが,それに加えて,その政治的「野獣」は,ニューヨーク市ブルックリンにある,証しの業の本部に歯とつめをむき出しにして敵対しました。そして,1918年5月7日,ものみの塔聖書冊子協会の会長と会計秘書,「終了した秘義」の二人の共著者,「ものみの塔」誌編集部の四人目の成員,さらに,ブルックリン本部の協会職員三人を逮捕するに至りました。その後,ブルックリン本部と,全地にあるその支部および代理機関との関係は断たれることになりました。1918年6月20日,木曜日の夜,15日間の審理の後,陪審は「有罪」の決定を下し,6月21日,金曜日午後1時30分ごろ,連邦裁判官は神の「ふたりの証人」級のそれら代表者に判決を言い渡しました。告発された者たちのうち七人は,四項目の各項につき,同時執行による二十年の禁固刑を宣告され,告発された八人日の者に対し,裁判官は十年の禁固を定めました。
31 (イ)では,どのように「ふたりの証人」の『業は殺され』たのですか。(ロ)「ふたりの証人」の敵たちは,啓示 11章10節に描写されているように,世界大戦の困難な事態の中にあっても,『殺す』ことに関しどう感じ,またどのように行動しましたか。
31 刑を宣告された,至高の神のそれら八人のクリスチャン証人は,1918年7月4日つまりアメリカの独立記念日に,ジョージア州アトランタの合衆国連邦刑務所へ汽車で旅立ちました。政治的な「野獣」は神の「ふたりの証人」級に対して冷酷な戦いをいどみ,表面的には彼らを征服しました。戦いのこの最高潮は,ひゆ的に言って死の打撃でした。それは,「ふたりの証人」である油そそがれた残りの者を,「粗布を着て」責め苦をもたらす預言の活動に関しては,殺したのです。彼らの宗教,政治,司法および軍事上の敵たちは,大いに安堵したことでしょう。入手できる当時のすべての証拠は,第一次世界大戦の困難な事態にもかかわらず,神の「ふたりの証人」が殺されたことを彼らが「喜び」,歓喜したことを示しています。彼らは,啓示 11章10節の予告どおり,宗教上の責め苦をもたらす者に勝利を収める点で果たした役割に関し,互いに祝意を述べ合うことにより「贈り物を交し」ました。
32 (イ)預言の成就において,諸国民は「ふたりの証人」の遺体を「三日半」公にさらすことにより,何をしようとしていましたか。(ロ)敵はその二つの遺体を「墓の中に」横たえませんでしたが,それは彼らの態度がどんなものであることを示していましたか。
32 キリスト教世界に属するいろいろな民・部族・言語および国民の者たちは,神のそれら「ふたりの証人」にできるだけ多くの非難と恥をもたらそうとしました。証人たちの一般的な評判が悪臭を放つようになればよいと考えたのです。啓示 11章9節によると,彼らは「三日半の間その遺体を見るが,遺体を基の中に横たえることを許さない」と書かれています。使徒ヨハネの働いた中東の国々では,遺体はその人が死んだその日に葬るのが習慣でした。ですから,暖かい気候の下で遺体が三日半も放置され,公にさらされれば,腐って悪臭を放ちます。(ヨハネ 11:39と比較してください。)また,腐食獣の犬や鳥にさらされ,食われてしまうでしょう。そうすれば,死者に多くの侮辱が加えられることになります。二つの遺体を「墓の中に」横たえないということは,ほくそえみながらそれをながめている者たちが,神の「ふたりの証人」を死人からの復活を受けるに値しない者とみなしていることを意味していました。キリスト教世界は,彼らが二度と再び生き返ることを望まなかったのです。
霊的にソドムまたエジプトと呼ばれる場所で
33 この預言および関連の聖句は,遺体の横たえられた「大いなる都市」が文字どおりのソドムでもエジプトでもないことをどのように示していますか。
33 遺体が葬られずにさらされたのはどこですか。啓示 11章8節はこう述べています。「彼らの遺体は,霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる大いなる都市の大通りに置かれるであろう。彼らの主もそこで杭につけられたのである」。その「大いなる都市」の名は何でしたか,あるいは何ですか。それはソドムでもエジプトでもありませんでした。記された神のみことばの中で,それは「霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれ」ています。しかし,その「大いなる都市」をしるしづける別の点があります。つまり,それが『彼らの主も杭につけられた』所である,という点です。ここに引用した従属節は,エジプトではなく,「大いなる都市」を修飾しています。『……も杭につけられた』とある,死んでいるふたりの証人の「主」とは,主イエス・キリストのことであり,彼は西暦33年,エジプトではなく,不忠実なエルサレムで杭につけられました。(ルカ 13:33,34)イザヤ書 1章8-10節では,シオンつまりエルサレムが預言的にソドムとして語られており,エゼキエル書 16章46,55,56節で,ソドムはエルサレムの「妹」,また,エルサレムより咎むべきところの少ないものとして語られています。
34 不忠実なエルサレムを霊的な意味でエジプトと呼ぶことができるのはなぜですか。
34 エホバご自身の民を宗教的に圧迫し,奴隷状態に陥れたので,不忠実なエルサレムは「霊的な意味で」エジプトと呼ぶことができました。最初の過ぎ越しの子羊が,預言者モーセの時代,エジプトで殺されたのと同じく,対型的な過ぎ越しの子羊イエス・キリストも,不忠実なエルサレムで殺されました。―ヨハネ 1:29,36。コリント第一 5:7。ペテロ第一 1:19。
35 (イ)しかし,預言は地上のエルサレムを指しているはずはありません。なぜですか。(ロ)では,預言の中で語られている「大いなる都市」は何ですか。
35 しかし,霊的ソドムまたエジプトとしての不忠実なエルサレムは,ヨハネに啓示が与えられた時(西暦96年)には存在していませんでした。それで,神の「ふたりの証人」が象徴的な「野獣」によって,古代の不忠実なエルサレムで殺されたということはあり得ません。それは西暦70年にすでに滅ぼされており,異教ローマ人による再建はまだなされていませんでした。ユダヤ人のクリスチャンは,西暦70年のかなり前に,エルサレムおよびユダヤ全域から出ていました。現代のエルサレム市は,1917年12月英国の軍隊に占領されるまで,回教徒トルコ人の支配下にあり,第一次世界大戦の全期間中,そこに油そそがれた残りの者の成員はひとりもいませんでした。したがって,「大いなる都市」という表現は,対型的,不忠実なエルサレム,すなわち,キリスト教世界を意味するに違いありません。それは「霊的な意味で」確かに,「ソドムまたエジプト」と呼ぶことのできるものであり,神の「ふたりの証人」は,西暦1918年,おもにその中で『殺された』のです。「彼らの主」イエス・キリストが西暦33年,不忠実なエルサレムの杭の上で殺されたのと同じく,その追随者である,神の「ふたりの証人」つまり油そそがれた残りの者は,キリスト教世界において『殺され』ました。
死人の中から起き上がる
36 (イ)『殺す』とは,油そそがれた残りの者の殺害を意味していましたか。それとも何を意味していましたか。(ロ)「ふたりの証人」が「大いなる都市」に死んで横たわっている間に,ものみの塔聖書冊子協会の本部事務所はどうなりましたか。
36 言うまでもないことですが,当時,国際聖書研究者として知られていた油そそがれた残りの者は,象徴的な「野獣」によって戦争を仕掛けられたとはいえ,西暦1918年の出来事により文字どおり『殺された』わけではありません。もっとも,激しい迫害の間に実際に殺された者もいたかもしれません。軍事的に分裂したキリスト教世界における,潜水艦戦を含む戦時状況のため,油そそがれた残りの者の国際組織はひどく分断させられました。迫害者により不当な圧力が加えられたため,ものみの塔聖書冊子協会は1918年8月26日,ニューヨークのブルックリンからペンシルバニア州のピッツバーグへ事務所の移転を開始しました。事務所は1919年9月に至るまでブルックリンに戻されませんでした。しかし,「ものみの塔」誌は一度も欠号を見ずに,引き続き月二回発行されました。
37 (イ)「ふたりの証人」が『殺される』ということは,その成員の活動が全面的かつ徹底的に不活発になるという意味でしたか。(ロ)1918年12月15日号の「ものみの塔」誌は,彼らの働きについてどんな報告を載せていますか。
37 1918年3月26日,そのわずか二週間前に「終了した秘義」が政府から禁書にされたにもかかわらず,油そそがれた残りの者たちは集まり合って年ごとのキリストの死の記念式を祝いました。戦争状態のため,それに関する世界の報告は作成することができませんでした。しかし翌1919年4月13日の記念式の祝いに関する,南北アメリカ(大英国の4個所およびフランスの1個所の報告をも加える)の部分的報告によると,1万7,961人が表象物のパンとぶどう酒にあずかりました。第一次世界大戦の終わった1918年11月11日まで,十五人の奉仕者がアメリカ合衆国各地の会衆を訪問し,会衆と一般の人びとに話をする,旅行する講演者“巡回者<ピルグリム>”として働いていました。また,書籍を配布する全時間奉仕者である“配布者<コールポーター>”は225人を数え,六巻から成る「聖書研究」を家々に配布する業に携わっていました。かの重大な年,1918年の業の概要を,1918年12月15日号の「ものみの塔」誌は372ページで次のように報告しています(当時のピッツバーグの住所から)。
……幾つかの理由により,正確な報告が得られない事柄もあります。……販売された「聖書研究」の数は“聖書文書頒布者”によって販売されたものだけで,発送部門が組や個人に送った冊数は含まれていません。また,[冊子に関する]自発奉仕の業については,その概算を得ることさえ不可能です。他方,友は大会の特権を非常に感謝したようです。本年は四十以上の全国的性格の大会が催され,さらにもっと多くの,地方的な大会が開かれたものと思われます。そのすべての大会から熱意に満ちた報告が寄せられています。……本年は毎月大会が開かれ,幾つかの大きな大会が近い内に発表されることでしょう。
38 1918年8月30日から9月2日における,ウィスコンシン州ミルウォーキー大会で起きた事柄は,激しい反対に面しながらも神の民がどんな精神を持っていることを示しましたか。
38 1918年8月30日から9月2日にかけて,アメリカ,ウィスコンシン州ミルウォーキーで開かれた大会には約850人が出席しました。その最終日(“王国の日”),連邦職員たちは“巡回者”J・A・ボーネットによる午後3時の聖書講演を中断させ,ドアを閉めてから,若者全員に徴兵登録カードを見せるよう要求しました。その無礼な中断の後,講演者は聖書の話を再び始めました。この大会について,1918年10月15日号の「ものみの塔」誌は,319ページでこう述べています。「非常に困難な時期が三年半も経過しているにもかかわらず,出席者全員のほおえみを浮かべた顔を目にするのは,わたしたちの愛する主の約束,『視よ,我は常に汝らと偕にあるなり』,また,『われ更に汝を去らず,汝を捨てじ』という保証に対する,本当にすばらしい確証でした」。
39 多くのクリスチャン活動が行なわれたことを考えると,「ふたりの証人」はどんな意味で『殺された』のですか。
39 西暦1918年に関する前述の諸事実と照らしてみると,神の「ふたりの証人」,「これらふたりの預言者」,すなわち,油そそがれた残りの者たちが『殺され』,その死体が対型的,不忠実なエルサレムであるキリスト教世界の大通りに埋葬されずに横たわっていると,どうして言えるのですか。では,啓示 11章7節に述べられている点に注意してください。それによると,「彼らが自分たちの証しを終えた時」,象徴的な「野獣」は戦争をいどみ,彼らを殺します。これは,殺されるのが彼らの「証し」つまり預言の業であることを示しています。それは,「千二百六十日」の間,その時用いられた特別の文書をもって行なわれた,特別の「証し」だったのです。例えば,郵送された1918年9月1日付のすべての「ものみの塔」誌に挿入された補足資料は次のように述べています。
40 1918年9月1日をもってどんな出版物の配布が停止されましたか。
40 「ものみの塔」購読者全員および聖書研究者に対する重要通知
下記の書籍および文書の配布は戦争期間中完全に停止されました。
「終了した秘義」
「ものみの塔」,3月1日,特別号
すべての「聖書研究者月刊」
すべての「王国ニュース」
この通知は,ものみの塔聖書冊子協会の上記の文書を所有する組また個人に,当方の指図があるまで同文書を留保しておくよう指示するものであり,去る3月に送られた通知に対する確認です。
ものみの塔聖書冊子協会
41 証言の業は続けられたとはいうものの,象徴的な「野獣」によりどのように大きく妨害されましたか。
41 上記の事柄に加えて,全地の油そそがれた残りの者の統治体の主な成員たちは,1918年6月21日法廷で不当な刑の宣告を受けて以来,まるで重罪犯人であるかのように獄に横たわっていました。それは,キリストと共なる天の王国の相続者である,神の油そそがれた残りの者の「証し」の業に,多大の恥辱をもたらしました。象徴的な「野獣」の敵意に満ちた行動を考えると,全地の油そそがれた残りの者すべてが激しい迫害を受けたことは少しも驚くに値しません。至高の神エホバの証人としての彼らの公の業は,それにより大いに阻害されました。彼らは,「わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的」となったのです。―マタイ 24:9。
42 1925年5月1日号の「ものみの塔」誌の記事は,かの迫害の期間における神の民の深刻な事態をどのように振り返っていますか。
42 第一次世界大戦中の状況に簡単に触れながら,1925年5月1日号の「ものみの塔」誌,「選民の為に」と題する記事は,135ページ,67節でこう述べていました。
周知のとおり,世界大戦中,王国の音信をふれ告げる機会は,1919年の春に至るまで制約と制限を受け,参戦国においては兄弟の多くが強制的に従軍させられました。真理の文書を発行することは禁止され,多くの兄弟はいろいろな国で投獄されました。迫害は特に1917年に始まり,1918年春には協会の職員が投獄され,ベテルは取り払われ,“幕屋”は売却され,本部はピッツバーグの小さな場所に移されました。その後しばらくの間,ほとんど証言活動らしい業は行なわれませんでした。当時の状況は,世界大戦が終結せずに進行していたなら,これといった公の証しは,もはや地上では行なわれなかったであろう,と思わせるほどのものでした。……
43,44 (イ)油そそがれた残りの者の期待はどのように実現しませんでしたか。(ロ)啓示の幻の次の言葉には,彼らを鼓舞するどんな約束が含まれていましたか。
43 国際聖書研究者協会の期待に反し,『ハルマゲドンの戦闘』は第一次世界大戦直後には起こりませんでした。1918年11月11日,戦争に参加した諸国間で休戦条約が調印されましたが,油そそがれた残りの者は天にあげられず,依然として地に残されたままでした。しかも,辱めを受け,「大いなる都市」,キリスト教世界の大通りに埋葬されずに横たわっている,「ふたりの証人」の遺体のような状態にあったのです。しかし,それも長くはありませんでした。啓示 11章11-13節に予告された次のことが,神の定めの時に起ころうとしていたからです。
44 「それから三日半ののち,神からの命の霊が彼らに入り,彼らは自分の足で立ち上がった。そのため,大いなる恐れが彼らを見ている者たちに臨んだ。そして彼らは,天から出る大きな声が,『ここに上って来なさい』と自分たちに言うのを聞いた。それで彼らは,雲のうちにあって天へ上って行き,敵たちは彼らを見た。そして,その時刻に大きな地震が起こり,その都市の十分の一が倒れた。また,七千人の人がその地震によって殺され,そのほかの者たちは恐れ驚いて天の神に栄光を帰した」。
45 (イ)「ふたりの証人」が死んで横たわっていた「三日半」という表現は,どんな意味を持っていますか。(ロ)「三日半」にわたる公の辱めはいつ終わりましたか。この面に関して取られた二つの処置は何ですか。
45 「ふたりの証人」が「粗布を着て」預言した年数は三年半です。しかし,彼らが都市の大通りに死んで横たわっていた「三日半」の期間は,エゼキエル書 4章6節にあるように,各一日を一年の象徴とし,三年半と解してはなりません。啓示 11章9-11節に明記されている「三日半」は,油そそがれた残りの者の公の証言活動が不活発となる,また,彼らの敵が悪意をもってほくそえむ,極めて短い期間を表わしています。この「三日半」は1919年3月に終了しました。ものみの塔聖書冊子協会の代表者八人の釈放を求める請願書が,署名をする人たちの間に回されていましたが,その請願書がアメリカ合衆国の油そそがれた残りの者たちによって完成させられる前の1919年3月21日に,連邦刑務所の八人の囚人は保釈を認められました。
46 「神からの命の霊」はいつ,またどのようにして象徴的な遺体の中に入りましたか。彼らはどのように「自分の足で」立ち上がりましたか。
46 四日後,八人の囚人はジョージア州アトランタの連邦刑務所から釈放され,ニューヨーク市に向かう汽車に乗せられました。翌日,1919年3月26日,ニューヨーク,ブルックリンの連邦裁判所は彼らに保釈出獄を認めました。その時から,実に「神からの命の霊」が,「ふたりの証人」の象徴的な遺体の中に入り,彼らは今や自分たちの前に置かれている「証し」の活動に関して生きることになったのです。もはやキリスト教世界の大通りに不活発な状態で横たわるのではなく,『彼らは自分の足で立ち上がり』,神が備えてくださるすべての手段を用いて,神の公の奉仕に対し再び用意を整えたのです。彼らに関してここで用いられている語法は,エゼキエルの幻,つまり,再びつながり,肉で覆われ,もう一度生かされた,イスラエルの乾いた骨の谷に関する幻の中の言葉遣いと一致しています。―エゼキエル 37:5,10。
47 「ふたりの証人」はどのようにいっそう強められましたか。それは彼らの敵にどんな影響を与えましたか。
47 彼らは,1919年5月14日,足で立つことに関しさらに強められました。その日,アトランタの刑務所から出てきた八人の元囚人に対する有罪判決が,ニューヨーク地方の合衆国巡回控訴裁判所において多数決により破棄されたのです。(1920年5月5日,再審理をさせようとする敵の執拗な努力にもかかわらず,連邦地方裁判所は訴えを却下し,それにより,ものみの塔協会のそれら八人の代表者に対する嫌疑は完全に除かれました。)こうして油そそがれた残りの者が再び立ち上がった時,「大いなる恐れが彼らを見ている者たちに臨んだ」のです。―啓示 11:11。
48 (イ)油そそがれた残りの者は,「天から出る大きな声が,『ここに上って来なさい』と自分たちに言うのを」どのように聞きましたか。(ロ)1919年におけるオハイオ州シーダーポイントの大会で,証言に役立つどんな新しい優れた手段が紹介されましたか。
48 それにしても,「天から出る大きな声が,『ここに上って来なさい』と自分たちに言うのを」,油そそがれた残りの者はどのように聞いたのですか。それは特に,1919年9月1-8日,アメリカ,オハイオ州シーダーポイントで開かれた,国際聖書研究者協会の第一回の全国大会を通してです。刑務所から釈放されたものみの塔協会の会長は,9月5日,啓示 15章2節とイザヤ書 52章7節に基づき,「王国をふれ告げる」と題する話をしました。その講演の後,「ものみの塔」誌を補足する新しい雑誌,すなわち「黄金時代」の出版が発表されました。創刊号の発行は1919年10月1日に予定され,一般の人びとから同誌の予約を得る活動が大規模に行なわれることになり,幾千人もの大会出席者は,非常な熱意をもってこの知らせを受け入れました。この新しい王国の業に備えて組織を再び活気づけ,活発にするよう,全地の油そそがれた残りの者を励ますものとして,1919年9月15日号の「ものみの塔」誌は,「王国をふれ告げる」という見出しの下に,281ページで一部次のように述べています。
49,50 新しい雑誌「黄金時代」に関し,どんな祈りが表明されましたか。その配布についてどんな指示が与えられましたか。
49 ……新しい雑誌,「黄金時代」は,人びとがまさに望んでいるものであるとわたしたちは信じています。ご意志ならば,主がこの雑誌を豊かに祝福してくださるよう祈りましょう。「ものみの塔」誌の読者全員は,喜びのおとずれを告げる音信を伝えたいと願ってきましたが,皆さんは今この機会を活用なさるでしょうか。
どのように行なうか
50 “第七巻”の業を扱った時の組織は立派な成功を収めました。七千人の友がこの特別な業に参加しました。全国の組はもう一度その時の組織を作り,それを適切な方法で運用してください。……わたしたちは,主に対し,また主のために大いなる愛と燃えるような熱意を抱く,聖別された者全員がこの業に参加するよう望みます。
51 この新しい証言の手段に関する祈りはこたえられましたか。
51 主エホバ神は,新しい雑誌を豊かに祝福してくださいました。今日,その雑誌は「目ざめよ!」誌として知られており,月二回,31の言語で950万部印刷されています。一方「ものみの塔」誌は,月二回,78の言語で985万部印刷されています。
52 (イ)再び活発にされた残りの者の活動が全面的な規模に復した様子を述べなさい。(ロ)1920年7月1日号の「ものみの塔」誌には,熱意を鼓舞するどんな知らせが掲載されましたか。
52 1919年9月,「黄金時代」の発行が始まる前に,ものみの塔協会の本部は,ニューヨーク,ブルックリンの元の場所に戻されました。協会はブルックリンに自身の印刷工場を設置し,「ものみの塔」誌の印刷を1920年2月1日号から自分たちの手で開始しました。その同じ工場で,「黄金時代」の方は,1920年4月14日,第15号から印刷が始まりました。その後間もなく,1920年6月1日号の「ものみの塔」誌は,「終了した秘義」の広告を再び載せ始め,6月21日,一般の家々を訪問してこの本の雑誌版を配布する大規模な業が開始されました。次いで,1920年7月1日号の「ものみの塔」に掲載された「王国の福音」と題する主要記事は,マタイ 24章14節に予告されている王国の業が,神のメシアによる王国の建てられた1914年以降,わたしたちに特に当てはまることを説明しました。
天へ上る
53 (イ)「ふたりの証人」はどのように象徴的に,「雲のうちにあって天へ上って行き」ましたか。(ロ)彼らは何を,もはや恐れる必要はありませんでしたか。
53 油そそがれた残りの者の忠実な者たちは,異邦人の時の終わり,つまり,1914年に天で建てられた神の王国に関する召しと機会に活発な態度で応じました。啓示 11章12節によると,ひゆ的に,「彼らは,雲のうちにあって天へ上って行き,敵たちは彼らを見た」のです。死のような状態から天の王国に対する活発な奉仕へと移されることは,油そそがれた「ふたりの証人」級にとって,まさに天へ上るがごとき経験でした。そして,それには,「雲」で象徴されているように,霊的な栄光が伴いました。彼らの上って行く様は世の注目を集め,多大の感銘を人びとに与えたので,「敵たち」,特にキリスト教世界の者たちは,彼らを見守るほかなすすべがありませんでした。これら「ふたりの証人」の粗布は,統治をしている,キリストによる神の天の王国の大使として奉仕する,この高められた霊的状態における栄光により,相殺されました。悪意に満ちた,彼らの敵つまり,底知れぬ深みから出て来た象徴的な「野獣」が,「ふたりの証人」級としての彼らを「殺す」ことはもはや不可能でした。今日に至るまで,悪魔サタンの世界的な政治体制はそれをなし得ずにいます。「証人」たちは「神からの命の霊」を持っており,霊的に生き続ける決意を固めているのです。
54 その時,キリスト教世界にはどんな急激な変化あるいは「地震」が起きましたか。
54 この重大な時期に,特に,建てられた神のメシアによる王国と,その代用物である,人間の作った国際連盟とをめぐって,キリスト教世界に急激な変化が生じました。キリスト教世界の諸教会は,政治的な国際連盟を支持する決定を下し,アメリカのキリスト教会連合会議は,世界の平和と安全のためのこの組織を,「地上における神の王国の政治的表現」として歓迎することさえしました。e キリスト教世界におけるこの象徴的な地震は,どんな影響をもたらしたでしょうか。啓示 11章13節はそれに答えています。「そして,その時刻に大きな地震が起こり,その都市の十分の一が倒れた。また,七千人の人[ギリシャ語,名前]がその地震によって殺され,そのほかの者たちは恐れ驚いて天の神に栄光を帰した」。
55 象徴的な「都市」の「十分の一」が倒れたことを説明しなさい。
55 地震の犠牲となる「都市」は,言うまでもなく,対型的,不忠実なエルサレムである現代のキリスト教世界です。この象徴的な都市は,その全部ではなく,象徴的な「十分の一」が破壊されたにすぎません。キリスト教世界の組織は今日まで存続していますが,1919年,終戦直後に地震から損失を被ったでしょうか。それが自ら失ったものは,「十分の一」であると述べられています。これは,預言者イザヤにエルサレムとユダ王国に臨もうとしていた滅びが告げられたことを,わたしたちに思い起こさせます。「その中になお十分の一があり,それは再び……がっしりした木のようにならねばならない。それらが切り倒される時,そこには切り株がある。聖なる胤がその切り株である」。(イザヤ 6:13,新)この切り株あるいは「聖なる胤」は,バビロンの流刑を生き延び,エルサレムの聖なる神殿を再建するために帰国した,忠実な残りの者たちでした。1919年,戦争を生き延びた,油そそがれた残りの者の成員,および,その一員となるためにキリスト教世界から出て来た者たちは,ともに神の王国に敵する国際連盟を支持するキリスト教世界に加わりませんでした。その結果,キリスト教世界はこの象徴的な「十分の一」を失ったのです。
56 他の聖句の助けを借りて,「七千人の人がその地震によって殺された」とはどういうことか説明しなさい。
56 預言者エリヤが,自分を脅迫するイスラエルの女王イゼベルの面を避けてホレブの山地に逃げ込んだ時,エホバ神はエリヤにこう告げました。『我イスラエルの中に七千人を遺さん皆其膝をバアルにかゞめず其口を之に接ざる者なり』。(列王上 19:1-18)使徒パウロはこれを,イスラエルの残りの者,つまり,エホバのメシアとしてのイエス・キリストを退けたエルサレムに付かず,それを捨て,その反クリスチャン的行動の結果がエルサレムに臨むに任せた,残りの者たちに当てはめました。(ローマ 11:1-5)同様に,神のメシアによる王国に関する1919年の象徴的な「地震」においても,キリストによる神の王国に忠実を保った残りの者がいました。それは,キリスト教世界に対しては死んだ,象徴的な「七千人の人[名前]」です。同世界にとって彼らはその存在を失い,キリスト教世界が彼らの「名前」を教会員名簿にとどめておくことは不可能となりました。彼らはその世界の中でもはや生きていたのでもなければ,活発な存在でもありませんでした。
57,58 どういう意味で,「そのほかの者たちは恐れ驚いて天の神に栄光を帰し」ましたか。
57 では,どのように,「そのほかの者たちは恐れ驚いて天の神に栄光を帰した」のですか。恐れ驚いた人が,都市の「十分の一」を破壊し,「七千人」の命を奪う地震のために,「天の神に」誠実な気持ちで『栄光を帰す』でしょうか。キリスト教世界の「そのほかの者たち」は,「ふたりの証人」級,「ふたりの預言者」に敵して行なったことを悔い改め,死の状態から生き返らされた後の彼らに加わったでしょうか。
58 今日に至る歴史は,そうした事態が生じたことを否定しています。むしろ,キリスト教世界の「そのほかの者たち」は,「十分の一」と「七千人の人」に起きたことに恐れ驚き,同じことが自分たちに起きないようにと望みました。つまり,「そのほかの者たち」は恐れから,キリスト教世界の自分の宗派にしがみつき,その宗派のやり方にしたがって「天の神に栄光を帰した」のです。彼らは,天に樹立された,神のメシアによる王国を支持する側に決して転じませんでした。国際連盟に転じたのです。第二次世界大戦後,それが国際連合に取って代わられた時には,今度はそれを受け入れました。しかし神が生き返らせた「ふたりの証人」は,神のメシアによる王国を,永続する平和と安全のための人類の唯一の希望としてふれ告げ続けたのです。
[脚注]
a 西暦1916年の太陰暦,太陽暦比較表
ユダヤ暦 一般(グレゴリオ)暦
テベテ25日(世界紀元5676年) 1月 1日,1916年
セバテ1日 1月 6日
アダル1日 2月 5日
アダル・シェニ1日(うるう月) 3月 6日
ニサン1日 4月 4日
イヤル1日 5月 5日
シワン1日 6月 2日
タンムズ1日 7月 2日
アブ1日 7月31日
エルル1日 8月30日
ティシュリ1日(世界紀元5677年) 9月28日
ヘシュバン1日 10月28日
キスレウ1日 11月26日
テベテ1日 12月26日
テベテ6日 12月31日
注: ユダヤ暦の一日は,一般暦に示されている日付の前日,その日没時に常に始まります。
「ユダヤ一般百科」(英文),“200年間のユダヤ暦”の項を参照してください。
b 国際聖書研究者協会の成員たちは,1918年3月26日の日没後にキリストの死の記念式を祝いました。正統派のユダヤ人は,1918年ニサン15日つまり3月27日の日没後に過ぎ越しを祝いました。
c この日付は,1914年11月1日号の「ものみの塔」誌(英文),325ページ,第1欄上段六行に述べられていることとよく一致します。
d ものみの塔聖書冊子協会が1930年に出版した書籍,「光」の第一巻(英文),194-200ページをごらんください。また,1963年に出版された,「御心が地に成るように」の182-184ページもごらんください。
e 「御心が地に成るように」と題する本,205ページ27節から210ページの35節までをごらんください。この本は,1963年,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会によって出版されました。