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エホバへの奉仕は幸福と満足をもたらすものみの塔 1965 | 10月1日
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ん。また,ただ信心のかたちを取ることにもありません。真の喜びは信仰を強め,希望を固く保つことにあります。
これが私の問いの答えになります。まずなによりも,自分が真理を知り,奉仕の特権を数多く与えられたことを喜んできました。今,96歳の私は,視力の衰えや手足の震えのために,からだはよたよたですが,健康の許すかぎりエホバに奉仕しており,満たされた,幸福な気持ちで日を送っております。
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読者からの質問ものみの塔 1965 | 10月1日
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読者からの質問
● 伝道の書 10章11節の次の言葉にはどんな意味がありますか。「へびがもし呪文をかけられる前に,かみつけば,へび使は益がない」。
蛇使いが蛇に魔法をかける前に,蛇にかまれるなら,蛇使いとしての価値がなくなります。彼が蛇に魔法をかける方法を知りながらそうしないなら,必ずかまれてしまい,蛇を使うために舌を用いる名人としての価値がありません。同じように,私たちも舌を正しく用いて自分を守る力を持ちながら,そうしないなら,自分を守るために舌を用いる能力を持っていても私たちに益とはなりません。私たちに知識と能力があっても,それが害や損失をこうむらないよう私たちを保護して益となるためには,遅れることなく,それを活用しなければなりません。害を受けてからそれを用いても手遅れです。伝道の書 10章8節とくらべて下さい。
● 復活した者が死からよみがえらされたのちの行いによってさばかれるなら,ヨハネ伝 5章28,29節でこのことを語ったイエスは,なぜ過去形を使われたのですか。―ニューギニアの一読者から
それらの聖句はこうなっています。「これを怪しむな。記念の墓にいるすべての者が,彼の声を聞いて出てくる時がくる。善をした者は生命によみがえり,悪を行なった者はさばきによみがえるであろう」。―新世訳。
イエスがこのような言いかたをされたのは「記念の墓にいるすべての者」をこの表現の中に含めるためであったようです。
キリストと共に天の命を得る人々は地上で生活した時の行為によってさばかれます。(コリント後 5:10)この人々は霊の命によみがえされる時に不滅性を与えられます。(コリント前 15:53。ロマ 6:5)その時この人々は,さばきを受けるのではなく,キリストと共にさばき人となる権能を与えられます。(黙示 20:4)この人々は「生命によみがえる」のであり,この場合の「善」とは死ぬ以前の行為をさしています。
それでは,『記念の墓にいる者』で人間として地上によみがえされる人々についてはどうですか。その人々が「生命によみがえ」るか,あるいは「(処罰の)さばきによみがえる」かは,復活の直後に決定されるのですか。(ヨハネ 5:24と29を比較して下さい)以前の生活が悪行で満ちている人々を,ただ悪行者であると宣告し,そののち刑を執行することのためだけに復活させることになんの価値がありますか。聖書は,黄泉から出される死人が復活後の『しわざに応じてさばきを受ける』ことを示しています。(黙示 20:13)この復活はよみがえる人々に命を得る機会を与えることになります。
使徒パウロがヘブル書 9章27,28節に書いた通り,アダムに起因する罪のために「一度だけ死ぬこと」また「死んだ後さばきを受けること」が人間に定まっています。このさばきの機会はイエス・キリストのあがないの犠牲によって可能となったのであり,人間に「救」を得る機会を与えます。以前に善をした者にとってはそれを継続することが容易であり,キリストの千年統治後の最終の試練を通じて善を行ない続けるなら,その者たちは「生命によみがえ」った者となるでしょう。以前に悪を行なった者にはその歩みを改めて救いを得る機会が与えられますが,改めないなら,遅くても最終の試練の時までに,その者が『処罰のさばきによみがえ』った者であることが明らかになるでしょう。
さて,イエスが別の言いかたをされ,ただ,復活後の行いだけがさばきの基準となると言われたならどうなりますか。そう言われたなら,イエスとともに天の命を受ける人々をぬかしたことになります。しかし実際には,省略的な語法を用いることにより,イエスは「記念の墓にいるすべての者」について語られたのです。イエスは,初めに復活全体をひとまとめにして語ったのち,それにともなう個々の場合のすべてを見通し,千年期間中の事柄がすでに過去の事として検討されるような将来の観点にたって問題を取りあげ,復活する人々に最終的な報いが与えられる時の状態を考慮しつつ,「善をした者は生命によみがえり,悪を行なった者はさばきによみがえる」と言われたのです。
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