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覚えていますかものみの塔 1976 | 9月1日
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自分の周囲にある祝福に盲目になっている。しかし,不愉快な事柄で心をふさがれるようなことのない人は,日ごとに内なる喜びを味わう。そのような人は,積極的な見方をするゆえに,『常に宴会をもっている』かのように快活でいることができる。―261ページ。
● 「苦痛」を取り去ってくださるとの神の約束は,痛みの感覚すべてが過去のものになるという意味ですか。―啓示 21:4。
そうではない。痛みの感覚には,危険に気づいて,痛みを与えるものからすぐに人を遠ざけるなど,有益な働きがある。圧制,犯罪,病気,死など人間の苦しみの原因となるものが地から除かれるという意味で,痛みは『もはやなくなる』。―323ページ。
● ホセア 2章16節で予告されているように,イスラエルがエホバを「わが所有者」と呼ばずに,「わが夫」と呼ぶようになることは何を意味していますか。
これは,悔い改めたユダヤ人の残りの者の立場が変化することを示していた。複合の妻として,彼らはもはや,奴隷所有者に属しているかのように,ただ所有されているという感じを好まなくなった。「わが夫」という名称は,神との極めて親密な関係および神の助け手のような気持ちを反映していた。また,以前に,「所有者」という意味を持つ偽りの神バアルの崇拝で汚されていたゆえに,彼らがエホバ神に関連して「バアル」いう名称の使用を避けたのは正しいことであった。それにより,バアル崇拝に陥った自分たちや父祖たちの罪を思い出さずにすんだ。―397-400ページ。
● 詩篇 18篇35節に示されているようにエホバは謙そんなかたですが,どんな意味で謙そんなのですか。
だれにも服従すべき立場にないにもかかわらず,へりくだって罪深い人類と交渉を持ち,人々から卑しめられているような人に対してさえ好意を示されるという意味で謙そんである。―389,390ページ。
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読者からの質問ものみの塔 1976 | 9月1日
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読者からの質問
● 人はバプテスマを受ける前に,良いたよりを宣べ伝える業に携わることが勧められていますか。
バプテスマはエホバへの献身の象徴であり,バプテスマを受けた人が,その後常にイエスに見倣ってエホバのご意志を行なってゆくことを表わすものです。(マルコ 8:34)あらゆる場所の人々に良いたよりを聞く機会を与えることは,この時代に対するエホバのご意志の重要な部分であるという点を覚えておくとよいでしょう。今日エホバがご自分の証人に与えておられる任務には,次のような二つの面があります。すなわち第一に,神の王国に関する良いたよりと裁きの音信をすべての国の人々に宣べ伝えること,そして第二に,好意的な反応を示す人々を教え,彼らを弟子とすることです。―マタイ 24:14; 28:19,20。
普通,バプテスマを考えている人は,他の人に良いたよりを伝えることによって,すでに神のご意志を行ない始めており,またそのようしてこの二重の業に加わりたいとの願いを表わしていることでしょう。エホバのご意志を行なうために献身した後,人は機会のあり次第バプテスマを受けることを望みます。それは数週間後,あるいは数か月後になるかもしれません。自らの献身に基づいて,その人は宣べ伝え教える業に忙しく携わっているはずです。献身する前からでないとすれば,少なくとも献身してバプテスマを待っているこの期間に,恐らくだれかからそうした業における訓練を受けるでしょう。
先に挙げた聖句中のイエスの言葉によると,「バプテスマを施(す)」前に,人々を『弟子とする』段階があります。では,弟子とは何ですか。それは単なる学習者以上の者を意味します。弟子とは,教師から授けられた教えを理解し,それを広めるようになった人のことです。とりわけ,献身しバプテスマを待っている人は,その業に携わることを控えるべきではありません。真理を公に宣明することは,その後の生活の大きな部分を占めるようになるはずです。では,バプテスマを受ける前からその業を始めてはいかがですか。
しかし,キリストに関する良いたよりを宣べ伝える前にバプテスマを受けたと思われる人々に関する聖書中の数多くの例についてはどうですか。これらの人々の多くは,ユダヤ人,もしくは改宗者で,すでにエホバの献身した国民の一部となっていたという点に注意すべきです。彼らには,イエス・キリストの名によるバプテスマを受ける前でさえ,エホバの証人である義務がありました。(イザヤ 43:10-12)大抵の人は,モーセの律法下にある国民に対する神のご要求について,自分たちが理解
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