読者よりの質問
● マタイ伝 24章30節はこう述べています,「地のすべての民族は嘆き,そして力と大いなる栄光をもって,人の子が天の雲に乗って来るのを,人々は見るであろう」。(新口)ここで「見る」となっているギリシャ語はホラオでその意味は「識別する」です。ところがこの言葉ホラオをつかったほとんどすべての聖句は物や人を単に識別するのではなく文字通り見るという意味を含んでいます。これはどうしてですか。―アメリカ合衆国の一読者より
このギリシャ語の動詞はよく文字通りの意味,つまり肉眼で文字通り見るという意味になります。しかしキリストの再臨に関する聖句でこの語が含まれているばあいいつでも,その文字通りの意味を無理にあてはめるならば,イエスの再臨は目に見えないという聖書の明白で基礎的な教えと柔盾するばかりでなく,ギリシャ語の動詞,ホラオの意味そのものも否定することになります。
このギリシャ語の動詞,ホラオは欠如動詞です。つまりすべての時制を持っていません。それで語根を異にする動詞をかりて,その見るという考えを補足しなくてはなりません。これは未来と不定過去のばあいそうなのです。このような補足の動詞を使うからといって,ある人が主張しているごとく,ホラオがいつも文字通りの意味があるということにはなりません。それでリドエルとスコットによるギリシ語英語辞書によればホラオは肉眼で見るという意味だけでなく,感知する,観察する,そして「比喩的に,心の目で識別する感知する」という意味です。―1948年版,1244頁,1245頁。
それでホラオが肉眼でみる文字通りのものをさしているか,あるいは識別力を持つ理解の目でみる霊的なものをさしているのかを知るためには,文の前後関係とか,そのほかの聖句の述べるところを考慮しなくてはなりません。主の再臨に関する他の聖句からみて,ホラオがこの関係で用いられる時は識別力に言及しているのであり,実際に見えるものを指しているのではありません。彼は霊者であるので,人間の肉眼で彼を直接見ることは不可能です。しかし,彼の見えない臨在と到着を示す目に見えるあらわれは,人間の肉眼で見ることができます。これらの目に見えるあらわれにより,比喩的に言えば,彼が全能の神の大いなる戦いのためにきたということを心の眼で見るのです。―黙示 1:7。
ホラオが比喩的に識別ということを意味するということは,ロマ書 1章20節ではっきり証明されています。ここではこのギリシャ語ホラオが,用いられていますが,前置詞のカタと結合してカトホラオというギリシャ語の動詞を形成しています。新世訳はこのカトホラオという動詞を,「明らかに見られる」と訳し,明らかに識別できるという意味です。このばあい明らかに見られるものは,肉眼で見ることのできるものではなくて,ただ識別できるもの,つまり神の見ることのできない性質です。「神の見ることのできない性質すなわち永遠の力と神なることとは世の創造の時以来,造られたものによって理解することができ明らかに見られるのであるから彼らは言い逃れることはできない」。
結論として,イエスの臨在は理解の目によってのみ人々により識別されるということを証明している一つの聖句に注意して下さい。それはヨハネ伝 14章19節の聖句で,新世訳では次のようです,「しばらくすれば世はもはや私を見ないであろう。しかし,あなたがたはわたしを見るな。ぜなら私は生きるので,あなたがたも生きるからである」。弟子たちは,文字通りの目で復活してからのイエスを地上で,見ました。そして彼ら自身が死からよみがえらされた後,霊的創造物となって,文字通りイエスを見ることになりました。それでもし,彼らのばあい見るということが,文字通りの目で見ることを意味するなら,イエスがそれを同じ関係で世はふたたび彼を見ないという時にも,人々が文字通りの目 ― これはだれでもが持っていて,人間の肉による視覚 ― で彼をふたたび見ないという意味です。それでギリシャ語の動詞ホラオを使って,イエスの再臨の時に,すべての人が実際の目あるいは文字通りの目でイエスを見るのだとはいえないということがわかります。
● 献身したクリスチャンは,労働組合とその諸活動への参加をどう見るべきですか。―アメリカの一読者より。
聖書はクリスチャンにこう助言しています。「すべての人に対して善を図りなさい」「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい」。これらの聖句は,労働組合主義と関係があります。なぜなら,これらの助言に従うためには,労働組合にはいる必要があるかも知れないからです。労働組合の一メンバーとしての責任は,ある国の一市民としての責任とよく似ていると言えるでしょう。政府から受ける利益に対してクリスチャンは税金を払いますが,同様に組合に対してその分を果たすことは正当でしょう。それは結局職を確保することになるからです。ですから,クリスチャンが労働組合にはいってその分を果たし,ストライキの時にそれに応じて仕事を中止してもさしつかえはありません。―ロマ 12:17。テモテ前 5:8,新口。
とはいってもクリスチャンは,労組の幹部になるほど組合活動に巻きこまれるべきではありません。またストライキの時に,ピケに加わったり,他の方法でストライキを引き起こすための扇動行為に参加すべきでもありません。なかでも特に,労働争議の暴力行為に加わることがあってはなりません。「主の僕たる者は争ってはならない」からです。「あなたがたは,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」。クリスチャンは政治や戦争に関しては中立です。それと同じく,クリスチャンの労組員も,支配的諸活動や労組の経済戦に巻きこまれないで中立を保たねばなりません。―テモテ後 2:24。ロマ 12:18,新口。