第1章
秘義の報告者は幻の中で神を見る
1 わたしたちはなぜ「神の秘義」に重大な関心を持つべきですか。
秘義の中の秘義 ― それは「神の秘義」にほかなりません。わたしたち人間は,この秘義に重大なかかわりを持っています。なぜそういえるのですか。それは,この秘義が,あらゆる時代における最大の論争,つまり,地球および天にかかわる将来の支配権に関連があるからです。わたしたちはだれでも,命と幸福そして平和と繁栄を切望します。それらすべては,この最も重大な論争の決着に懸かっているのです。ですから,この「神の秘義」が,意味のない単なる好奇心以上のものを喚起するのは当然のことです。わたしたちはこの秘義に暖かい関心を抱くべきであり,そうする価値は十分にあります。「神の秘義」を知り,理解するまでは,誠実な探究を断念すまい,と願うべきです。その秘義が終了し,啓示される時,秘義の創始者はこのうえない賞賛をかち得,全人類には限りない幸福がもたらされるのです。義にかなった,わたしたちの心の願いは,すべて完全にかなえられるのです。それは,わたしたちが今日,当惑し,不可解に思っている非常に多くの事柄を説明してくれるでしょう。
2 使徒ヨハネはどんな幻を見ましたか。そのとき彼はどんな状況に置かれていましたか。
2 ほとんど19世紀前の昔,一人の老人が「神の秘義」に関する感動的な知らせを聞きました。彼は後に,それが終了するのを預言的な幻の中で見ました。そればかりか,人を魅了するこの秘義の,栄光に輝く神を,奇跡的な幻の中で見たのです。この神の幻を考えるだけでも,「神の秘義」はわたしたちの永遠の福祉に関係がある,と心から信じることができます。その幻を見た人は,幾つかの秘義について報告し,親切にもその説明を加えています。その人は,中東のガリラヤの海でかつて漁師をしていた,ゼベダイの子ヨハネです。幻が与えられた時,彼は当時のローマのアジア州首都エフェソスから程遠くない,エーゲ海の罪人収容島パトモスで,ローマ帝国の囚人となっていました。それにしても,なぜ囚人となっていたのですか。当時,それは少しも不思議なことではありませんでした。この老人は,イエス・キリストの十二使徒の一人であり,クリスチャンであったからです。―啓示 1:9-11。
3 霊感の霊は使徒ヨハネをどれほど遠くにまで引き上げましたか。彼はどんな荘厳な光景を目にしましたか。
3 異教ローマ帝国が,険しく近寄り難い罪人収容島に彼を危険犯罪人として隔離し,その行動の自由を制限しようとも,ヨハネの神の力が彼の上に働くのをとどめることはできませんでした。それは霊感の霊により,現代の核・宇宙時代に住む科学的人間の領域をもはるかに超越した,幻の領域に彼を引き上げたのです。ヨハネはこの信じ難いほどの経験を通して,「神の秘義」の創始者,実に全能の神ご自身を奇跡的な幻の中で見るという,このうえない栄誉を得ました。それを見た状況は,昔の人モーセ,イザヤ,ダニエル,エゼキエルなどが,神の幻の中で見た状況とは異なっていました。使徒ヨハネは,自分の見たものをわたしたちのために写真に撮ったかのように,畏怖の念を起こさせるその幻を,霊感の下に書き記しました。しかし,年老いた使徒ヨハネは,自分の見た事柄を,視力の弱い,わたしたち人間に少しでも理解できるよう,その荘厳な光景を人間の言語を使って描写することができたでしょうか。
4 霊感の霊によって描写されているように,ヨハネは何を見ましたか。
4 できたのです! 霊感の霊により,ヨハネは平易な言葉でそれを描写することができました。「これらのことののち,わたしが見ると,見よ,開かれた戸が天にあった。そして,わたしが聞いた最初の声はラッパのようであり,その声がわたしと話をして,『ここに上れ。必ず起こることをあなたに示そう』と言った。これらのことののち,わたしはすぐに霊の力の中にはいった。すると,見よ,天に一つの座が据えてあり,そのみ座にすわっておられるかたがいる。そして,すわっておられるかたは,見たところ碧玉,また赤色の宝石のようであり,み座の回りには,見たところエメラルドのような虹がある」― 啓示 4:1-3。
5 ヨハネが聞いた声はどんな性質のものでしたか。それは何に彼を招待しましたか。
5 その幻の『天にある開かれた戸』は,ある者が入って来るのを待っていました。それは,使徒ヨハネです。このことは,ある声がその時,ヨハネの自国語であった当時のヘブライ語か,さもなければ西暦一世紀の共通ギリシャ語でヨハネに語った事柄から確かです。それは単なる人の声ではありませんでした。というのは,ヨハネが聞いた天からの最初の声は,現代の電気拡声器の助けを借りなくとも,「ラッパのよう」であったからです。それはヨハネに,十戒がエホバ神よりイスラエル国民に告げ知らされた時,シナイ山から鳴り響くラッパの音がいよいよ高くなったことを思い起こさせたかもしれません。(出エジプト 19:19; 20:18,19)しかし,パトモス島にいた他の人はだれも,畏怖の念を起こさせるその声を聞きませんでした。ヨハネだけが,全能の神の,見ることのできない活動力,つまり霊によって幻を与えられたのです。こうして,音信を伝える強力な響きを持つ招待がヨハネに出されました。それは,天にある戸を通って入って来るようにとの招待でした。「ここに上れ。必ず起こることをあなたに示そう」。
6 (イ)ヨハネはどのようにして招待に応じることができましたか。(ロ)天の開かれた戸の中に入った時,ヨハネは恐らく何を思い起こしたと考えられますか。
6 人間ヨハネは,神の活動力つまり霊によってのみ,このような招待に応じることができました。それは,人間製の宇宙服を着た20世紀の宇宙飛行士が,決して受けたことも実現することもできない招待です。使徒ヨハネは,超大型ロケットによって大気圏外に打ち上げられたのではありません。神の霊によって,幻のうちに引き上げられたのです。そして,『天にある開かれた戸』の中へ導き入れられ,天と地の王なる支配者の幻を見ました。威厳をたたえたその支配者の座しておられる周囲の状況は,使徒ヨハネに,昔のエルサレムにかつて立っていた神殿を思い出させるいくつかの特徴を備えていました。最も聖なる所にとって,それはいかにもふさわしいことでした。神殿の至聖所において,エホバ神は奇跡的な光,シェキナによって象徴され,それにより,古代エルサレムの中に座しておられたのです。
7 (イ)ヨハネの幻の中で神はどのように表わされていますか。(ロ)この幻は神のご性格について何を啓示していますか。
7 人間ヨハネは,神を,いえ,幻による神の描画をさえ,どのように描くことができたのでしょうか。ヨハネは,宗教的キリスト教世界の三位一体の神を表わす,三つの頭を持つ何かを見たのですか。いいえ。それは異教徒の考え出すものとは似ても似つかないものでした。ヨハネの見た神は,美しく刻まれた碧玉また赤色の宝石(たぶん,紅玉髄)の輝きのようでした。後にヨハネが,ヨハネ第一 1章5節において,幻で見た事柄を反映する次の言葉を書き得たのは,いかにも適切なことでした。「神は光であり,神と共にはいかなるやみもありえません」。神はただ栄光に満ち満ちておられるのです。そのみ姿の栄光の輝きは,人間の目をこうこつとさせる宝石のまばゆい輝きをもって,辛うじて比較し得る程度です。そうであれば,神が,やみによって表わされる不道徳,虚偽そして欺まん的な物事の源であり得るはずがありません。神が「天の光の父」と呼ばれているのは,いかにもふさわしいことなのです。(ヤコブ 1:17)地球を人間の住みかとする備えを開始するにあたり,「光あれ」と言われたかたが神であるのは,なんと適切なことではありませんか。―創世 1:3。
8 幻の中の虹は何を表わしていますか。
8 全創造物に関する一切の事態を常に統御される,天と地のこの栄光ある支配者は,全き静穏のうちに座しておられます。そのことを安らかに,心地よく示唆している,み座の回りの,「見たところエメラルドのような虹」をごらんください。その虹の鮮やかな緑は,何と安らかに映るではありませんか。人間にとって,虹がどのようにして立つかは神秘ですが,神はそれをご存じです。神は,それより24世紀以上も昔,つまり,全地に大洪水をもたらした40日間の降雨から地が乾いた後,箱舟の中で洪水を生き残ったノアと彼の家族にこう言われました。『我わが虹を雲の中に起さん是我と世との間の契約の徴なるべし すなはち我雲を地の上に起す時虹雲の中に現るべし 我すなはち我と汝等およびすべて肉なる諸の生物の間のわが契約を記念はん水再び諸の肉なる者を滅す洪水とならじ』。(創世 9:13-15)神のみ座の回りのその虹が,わたしたちにとって限りない平和の到来を示すものであるなら,それはどんなにうれしいことでしょう。
9,10 (イ)次に,神の至高の地位に関しどんなことがヨハネに啓示されましたか。(ロ)「二十四人の長老」が神の助言者や顧問でないことはどうして分かりますか。
9 創造者なる神は至高の王です。このことは,神のみ座に関し,使徒ヨハネに次に啓示された事柄から明らかです。彼はこう述べています。「そして,み座の回りには二十四の座があり,それらの座には,二十四人の長老が,白い外衣をまとい,頭に黄金の冠を頂いてすわっているのが見えた。そして,み座からは,いなずまと声と雷が出ている。また,火のともしび七つがみ座の前で燃えており,それらは神の七つの霊を表わしている。また,み座の前には,水晶に似たガラスのような海があるかのようである」― 啓示 4:4-6。
10 幻のこの部分は,天の王である神が二十四人の助言者あるいは顧問の一団に取り囲まれていて,ご自分のなすべき事柄に関する問題や新しい目的につき,その者たちと相談することを描いているのでしょうか。決してそうではありません。使徒パウロは,イザヤ書 40章13,14節の預言を引用してこう尋ねます。「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きはなんと探りがたく,その道はなんとたどり出すことのおよばないものなのでしょう。『だれがエホバの思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか』とあり,また,『だれがまず神に与えてその者に報いがされねばならないようにしただろうか』とあるのです。すべてのものは神から,また神により,そして神のためにあるからです」― ローマ 11:33-36。
座に着いている二十四人の長老
11,12 他の聖句を用いて,二十四人の長老がだれかを説明しなさい。
11 では,白い外衣をまとい,黄金の冠を頭に頂き,神のみ座の回りにある二十四の座にすわっている,それら二十四人の長老はだれですか。
12 彼らがだれか,あるいはだれを表わしているかについての手掛かりは,啓示の書の前の部分でヨハネが明らかにしています。自分と同じ真のクリスチャンから成る「七つの会衆」に語りかけた後,彼はイエス・キリストを「地の王たちの支配者」と述べ,こう付け加えます。「わたしたちを愛しておられ,ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださったかたに ― そして彼はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである ― 実にこのかたにこそ,栄光と偉力が永久にあらんことを。アーメン」。(啓示 1:4-6)また,天のみ座にすわっておられる神の幻を描くすぐ前に,ヨハネは「ラオデキアにある会衆の使い」に対するイエス・キリストの言葉を引用しています。「征服する者には,わたしとともにわたしの座にすわることを許そう。わたしが征服して,わたしの父とともにその座にすわったようにである」。(啓示 3:21)したがって,冠を着け,座にすわっている二十四人の長老は,キリストにより最終的に,神の天の王国における共同の祭司なる王とされる,征服を遂げる忠実なクリスチャンの全集合体であるに違いありません。―啓示 20:4-6。
13 長老が二十四人いるということにはどんな意義がありますか。また,このことは14万4,000という数とどんな関係がありますか。
13 彼らは,古代イスラエルの忠実な祭司によって予影されていました。それらイスラエルの祭司たちは,神の神殿における任期に関し,二十四の班または組に分かれていました。(歴代上 24:5-19。ルカ 1:5)したがって,二十四という数は,新しい契約に入っている忠実なクリスチャンに適切な数であり,使徒ペテロは彼らにこう述べています。「あなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です」。(ペテロ第一 2:9)さらに,「王なる祭司」また「祭司の王国」における最終的な数は,十四万四千になります。(出エジプト 19:6,新。啓示 7:4-8; 14:1,3)そして,14万4,000は24の倍数であり,24と6,000の積です。啓示の後の部分でさらに明らかにされる詳細を調べると,二十四人の長老がイエス・キリストの足跡に従う,征服を遂げる14万4,000人の者たちを表わしているという証拠は,いよいよ確かなものになってきます。
14 (イ)「二十四人の長老」に関する幻が成就する時について,何を銘記しておくべきですか。(ロ)ヨハネの幻のこの面は何の預言的先見でしたか。ヨハネ自身はその中でどんな立場を占めますか。
14 二十四人の長老によって表わされるそれら十四万四千人の征服者たちは,天におけるエホバ神のみ座の回りに,常に座していたわけではありません。象徴的なそれら二十四人の長老に関する幻の成就は,使徒ヨハネの時代より将来のある時点から始まることを思い起こしてください。「ここに上れ」とヨハネを招いたラッパのような声が,「必ず起こることをあなたに示そう」,と付け加えたことを思い出してください。つまり,頭に冠を頂いて座しているそれら二十四人の長老の幻は,神のみ座に関連して天に設けられる取決めについての預言的先見であり,14万4,000人の祭司なる王を,神の主要な祭司かつメシアなる王,イエス・キリストと共にならせるという,神の目的を明らかにするものだったのです。ですから,ヨハネに幻が与えられた時,二十四人の長老によって表わされる者たちは,天における神のみ座の回りにすわっていたわけではありません。なぜなら,忠実な使徒ヨハネ自身,象徴的なそれら二十四人の長老の一員となるはずであり,幻が与えられた時,ヨハネが実際には彼らと共にいなかったことは確かだからです。
15 (イ)神のみ座に関するヨハネの幻は,どんな点で預言者エゼキエルの幻よりも一層の畏怖の念を生じさせましたか。(ロ)いなずま,声,雷は何を予示していますか。
15 預言者エゼキエルと違って,使徒ヨハネは,神のみ座に「青玉」の輝きがあるとは描いていません。(エゼキエル 1:26)しかし,それはヨハネに一層の畏怖の念を生じさせました。『み座から,いなずまと声と雷が出ていた』からです。(啓示 4:5)まばゆいばかりの啓発の閃光が,実に神のみ座からひらめいており,そのいなずまは,神の敵を即座に撃ち殺す火矢また投石のごとき用をもなし得るのです。さらに,あらゆる言語の創造者のみ座から,声が出ています。それらの声は,無意味なことを語るのではなく,相互に一致を保ちつつ,真理の光と調和した音信を伝えます。いなずまに続いて雷が生じ,神のみ座から出る雷鳴は,見かつ聞く人の感覚に,電光のごとくひらめく神の啓示の意味を銘記させます。天における神のみ座から出るこれらのものは,起ころうとしている劇的な出来事に備えて,神がこの時,み座に着いておられることを予示しているのです。それは,十戒を与えるため神がシナイ山に臨在されたさい,いなずまのひらめき,雷鳴,また角笛のような音が生じた時と同じです。―出エジプト 20:18。
16 (イ)み座の前で『火のともしびが七つ』燃えているということは何を表わしていますか。(ロ)古代イスラエルの崇拝の天幕と比べてみると,ヨハネの幻に七つのともしびが見られることは何を示唆していますか。
16 神の目的が啓示される時には,当然,その見えない活動力である霊が盛んに働いています。力強く作用する神の霊がいかんなく活動している様子は,『火のともしび七つがみ座の前で燃えている』ことに描写されています。そして,「それらは神の七つの霊を表わしている」,と使徒ヨハネは述べています。(啓示 4:5)ともしびをつける目的は,部屋とか,ある場所にいる人びとに光を与えることです。完全な数のともしび ― 七つのともしび ― は,神の霊が七重の仕方で,力いっぱいに作用することによってもたらされる,満ち満ちた光,啓発を照らし出すのです。(コリント第一 2:10)それら七つの象徴的なともしびは,ヨハネの幻の成就においては,汚れのない,清い崇拝のために神がご自分の天の神殿に座しておられることを示唆しています。ダビデ王の時代以前,シロにあった神の地的な天幕つまり神殿に,聖なる所を照らす七つのともしびを備えるため,七つの枝を持つ燭台が置かれていたことからそういえます。―出エジプト 25:31-40; 40:1-4,24,25。
17 「ガラスのような海」があることは,さらに何を示していますか。
17 ここに示されている場景が,天の神殿におられる神の場景であることを示す別の点があります。それは,『み座の前には,水晶に似たガラスのような海があるかのようで』あるという点です。(啓示 4:6)神がイスラエル人の間に設けられた古代の取決めによると,銅の祭壇と聖所の間に洗盤すなわち水盤が置かれていました。(出エジプト 30:18-21; 40:7,11,30,31)そして後代,エルサレムにあったソロモン王の神殿におけるこの洗盤,つまり水盤は,非常に大きく,海と呼ばれたほどです。―列王上 7:23-44。歴代上 18:8。
18 「ガラスのような海」は水晶のように透き通っていますが,それは何を象徴していますか。
18 ソロモンの神殿にあった鋳造の海は,銅で作られていましたが,ヨハネの幻に映った海は,ガラスまた『水晶に似て』おり,透き通っていました。古代イスラエルの神殿における海が,犠牲をささげる祭司に手足を洗う十分の水を備えるためのものであったように,「水晶に似たガラスのような海」も,神に近づく人びとの純粋さ,清さを示唆しています。ヨハネの仲間の使徒であったパウロは,エフェソス 5章25,26節で,キリストの追随者が「みことばによる水の洗いをもって」清められることを述べています。この描画にたがわず,神は「水晶に似たガラスのような海」を,真理のみことばの浄めの水でいつも満たしておられます。神に近づいて受け入れられる者には,みことばによる清めが必要なのです。―ヨハネ 15:3。
「四つの生き物」
19 幻の中の「四つの生き物」について説明しなさい。彼らが何をしていたか述べなさい。
19 ヨハネの幻のさらに別の特色も,神の神殿および,その天のみ座固有の周囲の状況を示唆しています。ヨハネはその特色をこう描写しています。「そして,み座の中央とみ座の回りには,前にも後ろにも目がいっぱいある四つの生き物がいる。そして,第一の生き物はししに似ており,第二の生き物は若い雄牛に似ており,第三の生き物には人間のような顔があり,第四の生き物は飛んでいるわしに似ている。また,その四つの生き物は,そのおのおのにそれぞれ六つの翼があり,回りも下側も目でいっぱいである。そして彼らは昼も夜も休むことなくこう言う。『聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者なる神エホバa,かつておられ,今おられ,これからこられるかた』」。
20 (イ)啓示の幻とエゼキエルの預言とを比較することにより,ヨハネの幻の「四つの生き物」が何を表わしていることが分かりますか。(ロ)それぞれ異なった顔を持つ四つの生き物がいたのはなぜですか。
20 啓示 4章6-8節でこのように描写されている「生き物」は,神のケルブを表わしており,人間が彼らを初めて目にした様子は,創世記 3章24節に描かれています。それは,罪深いアダムとその妻エバがエデンの園から追い出された後のことです。エゼキエル書 1章5,13,14,15,19,20,21,22節,また10章15,18,20節で,神のみ座である兵車の巨大な車輪と並んで動くケルブは,「生物」と呼ばれています。さらにエゼキエル書 10章1-22節では,生き物は直接「ケルブ」と呼ばれています。エゼキエルの幻に出てくる生き物ケルブは各四つの顔,すなわち前に人,右に獅子,左に雄牛(ケルブ),後ろに鷲の顔を持っています。それに対しヨハネが幻で見たケルブは,各が固有の顔,つまりエゼキエルが幻で見た四つの顔の一つをそれぞれ持っています。(エゼキエル 1:5,6,10,11; 10:14,20-22)b したがって,それらケルブつまり生き物の各は,その顔によって表わされる顕著な特質を目立たせているのです。
21 (イ)第三の生き物の人間の顔は何を象徴していましたか。その答えに対する聖書的な根拠を述べなさい。(ロ)神のケルブがその特質を持っているなら,神もそれを持っておられるはずである,となぜ言えますか。
21 ヨハネの幻の第三の生き物は,人の顔を持つことにより,愛の特質を,特に,情欲にではなく原則に基づく愛,人間が理性のない獣と著しい対照をなすものとして持つ愛の特質を際立たせていました。「神は愛」であり,神の像と様に造られた人間も,神のような愛を表わすことがその特徴となるはずだったからです。(ヨハネ第一 4:8,16。創世 1:26-28)それゆえ,預言者モーセを通して与えられた神の律法の「最大で第一のおきて」は,「あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」(申命 6:5)であり,第二の主要なおきては,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」(レビ 19:18)というものでした。神のみ子ご自身もそう言われました。(マタイ 22:36-40)霊の領域にいるケルブも,神の像に造られているのですから,やはり神の愛の特質を持っているはずです。ヨハネの幻の中で,彼らは,聖なるかたであるエホバ神に愛を示しているのです。
22 (イ)第一の生き物によって表わされているものが何かは,ししのどんな特質を考えると理解できますか。(ロ)神が人類を贖うにさいし,神の愛は公正を無視しましたか。説明しなさい。
22 第一の生き物は,王のごときししに似ていることから,神の公正,つまり勇気を備えた公正の特質を際立たせています。『ししの心のごとき心ある勇猛き夫』という,勇気に関する聖書の表現は,ししが勇気あるものであることを指摘しています。(サムエル後 17:10)無私の公正を施行するには勇気が要り,箴言([格言の書]バ)28章1節では,勇気と公正の結び付きが強調されています。「悪人は,追手がなくても逃げるが,正しい人は,若獅子のように,おそれるものがない」。公正さはエホバ神にとって基本的な事柄であり,その支配は公正を期して行なわれます。詩篇作者はエホバに語りかけ,こう歌っています。「義と公正はなんぢの宝座のもといなり」。(詩 89:14)預言者モーセはエホバ神への歌の中で,神の公正の緻密性をその完全性と』結び付け,次のように述べています。「エホバは磐にましましてその御行為は完くその道はみな正しまた真実ある神にましまして悪きところ無し只正くして直くいます」。(申命 32:4)神の愛は,人類を罪,有罪宣告そして死から贖うにさいし,公正を無視することなく,かえってそのすべての点を満足させる,完全な人間の犠牲を備えたのです。
23 『若い雄牛に似た』生き物は,どんな特質を強調していますか。
23 ヨハネが幻で見た第二の生き物は,若い雄牛に似ており,この点それは,神の力,動的エネルギーを強調しています。野生の状態にある雄牛は,恐れを知りません。自分に強烈な角と,すさまじい力があることを知っているからです。雄牛をそのような力あるものに創造された神が,ヨブという名の生徒に尋ねた事柄は,確かに当を得ていました。『野牛肯て汝に事へなんぢの飼草槽の傍にとどまらんや なんぢ野牛に綱附てうねをあるかせ得んや 是あに汝にしたがひて谷に馬ぐわをひかんや その力おほいなればとて汝これに恃まんや またなんぢの工事をこれに任せんや』。(ヨブ 39:9-11)ですから,神が,ご自身から出る力の象徴として,雄牛のひゆを幻の中で用いられるのは,論理的なことなのです。「ちからは神にあり」ます。―詩 62:11。
24 「飛んでいるわしに似ている」生き物は,神のどんな特質を表わしていますか。
24 ヨハネの幻の中で,第四の生き物は「飛んでいるわしに似て」いました。それゆえ,この生き物は,ふさわしいことに,神の知恵の特質を顕著にさせていたのです。(啓示 4:7)神の知恵は,巣を作り,あるいは飛ぶ時のわしと同様,高遠です。箴言 30章18,19節は驚異の念をもって,「空にとぶ鷲」に言及しています。
25,26 (イ)創造者がわしにお与えになった特質の幾つかを説明しなさい。(ロ)わしに似た生き物が何を象徴するかを理解する上で,申命記 32章11-13節の神の言葉はどのように助けとなりますか。
25 神はヨブに次のように尋ねて,ご自分がわしをいかにくすしく創造したかについて触れておられます。『鷲の翔のぼり高きところに巣を営なむはあになんぢの命令に依んや』。(ヨブ 39:27)わしは,食物を求めてどこへ飛ぶべきかを知っています。遠くまで見通すことのできる,驚くべき視力を神から与えられているからです。この点について,知恵の神は次のように述べておられます。『これは岩の上に住所を構へ 岩の尖所または峻険き所に居り そこよりしてつかむべき物をうかがふ その目のおよぶところ遠し その子等もまた血を吸ふ おほよそ殺されし者のあるところには是そこに在り』。(ヨブ 39:28-30)「事物の体制の終結」に関する預言の中で,「どこでも死がいのある所,そこには鷲が集まっているのです」と言われたイエス・キリストは,神のこのことばを念頭に置いていたに違いありません。―マタイ 24:28。ルカ 17:37。
26 目標をはっきり見分けるわしは,獲物めがけて速やかに飛ぶことができ,その飛び方には不確かなところがありません。神が,非常に強力な翼をもお与えになったからです。ハバクク書 1章8節は適切な比較を用いています。「其飛ことは物を食はんと急ぐ鷲のごとし」。強い翼と高く飛ぶ有様に関して,イザヤ書 40章31節は,「(彼ら)鷲のごとく翼をはりてのぼらん」と述べています。ご自分の民をエジプトから,彼らのために選んでおいた場所へと救い出した様子に関連し,神はご自分をわしになぞらえ,預言者モーセに霊感を与えて申命記 32章11-13節で次のように言わせておられます。『わしのその巣びなをよび起しその子の上にまひかけるごとくエホバその羽を展て彼らを載せその翼をもてこれを負たまへり エホバはただ独りにてかれを導きたまへり別神はこれとともならざりき エホバかれに地の高みを乗とほらせ(たまふ)』。これらの事柄すべてと一致して,エホバ神は,速くかつ高く飛び,遠くまで見通す力のあるわしによって象徴される特質,つまり,知恵を,その完全さにおいて所有されるのです。
27 神の知恵は,ヨハネの幻において,「四つの生き物」の一つによって描写されていますが,なぜそれほど傑出しているのですか。
27 わしにも似た至高の神は,知恵を所有されるだけでなく,全創造物にとってのあらゆる知恵の源です。『そはエホバは知恵をあたへ 知識と聡明とその口より出づればなり』。(箴言 2:6)神は知恵において,ご自分の理知ある被造物すべてに勝っておられます。それゆえ,クリスチャン使徒パウロは,ローマの会衆にあてた霊感の手紙をこう結びました。「ただひとりの賢い神に,栄光が,イエス・キリストを通して永久にあらんことを。アーメン」。(ローマ 16:27)神の所有される知恵が傑出しているため,天における神のみ座の前にある知恵は,第四の生き物が「飛んでいるわしに似ている」ことによって示されているのです。
28 (イ)「四つの生き物」の「前にも後ろにも目がいっぱいある」ことは,何を表わしていますか。(ロ)生き物の各にある三対の翼はどんな能力を示していますか。
28 使徒ヨハネは幻の中で,四つの生き物の「前にも後ろにも目がいっぱいある」のに気づきました。また,「そのおのおのにそれぞれ六つの翼があり,回りも下側も目でいっぱい」でした。(啓示 4:6-8)このように体にも翼にも目がいっぱいあるということは,終始目覚めている状態か,たとえそうでなくても,あらゆる物事を見る能力を表わしています。霊感を受けた詩篇作者がこの能力を神に帰しているのは,まことに適切であるといわねばなりません。『視よイスラエルを守りたまふものはまどろむこともなく寝ることもなからん』。(詩 121:4)古代の最も優れた賢人はこう述べています。『エホバの目は何処にもありて悪人と善人とをかんがみる』。(箴言 15:3)それから千年余の後,霊感を受けた筆記者は次のように述べました。「神のみまえに明らかでない創造物は一つもなく,すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,このかたに対してわたしたちは言い開きをしなければなりません」。(ヘブライ 4:13)これを,生き物の各が持つ,目がいっぱいある,六つ,つまり三対の翼によって示される神の能力と引き当てて考えてください。聖書の中で三は強調の数であり,三対の翼は見えるものに到達する著しい速さを表わします。
29,30 (イ)生き物のふれ告げている事柄から何が分かりますか。(ロ)その宣言によって何が保証されていますか。わたしたち人間はどんな態度を取るべきですか。
29 ケルブはこうした顕著な特質を持っているので,使徒ヨハネの見た継続的な奉仕を行なえるのです。「彼らは昼も夜も休むことなくこう言う。『聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者なる神エホバ,かつておられ,今おられ,これから来られるかた」。(啓示 4:8)彼らが「聖なるかな」を三度繰り返すことにより,全能者エホバ神の神聖さが強調されます。事実,神は清さ,純粋さ,神聖さの面で並ぶ者のない至高のかたであり,悪の誘惑から完全に隔てられています。
30 わたしたちは,神が全能者であることに神聖さが伴っているのを喜べます。それは,神がご自分の全能の力を決して誤用したり,乱用したりなさらないことを保証しているからです。神は過去においても将来においても,常に聖なるかたです。「かつておられ,今おられ,これから来られるかた」だからです。始めも終わりもない,不滅不朽の神,とこしえにわたりすべてのものの主なのです。(テモテ第一 1:17)天の生き物ケルブが,主なる全能の神の神聖さに絶えず敬意を示しているのであれば,それより劣る人間がそうすべきなのは当然といえます。
四つの生き物の位置
31,32 どんな二つの観点から,四つの生き物は「み座の中央に」いたと言うことができますか。
31 使徒ヨハネは,四つの生き物に関し,彼らが「み座の中央とみ座の回りに」いたと述べています。(啓示 4:6)主なる全能の神ご自身がみ座に着いておられるのに,なぜそのようなことが可能なのでしょうか。そのわけは次のとおりです。四つの生き物はみ座とともに中央にいた,つまり,み座は中央の場所を占めており,四つの生き物はそれとともに中央にいたのです。神のみ座からもう少し離れた所,その周囲の四方には,二十四人の長老が座に着いていました。(啓示 4:4)「み座の中央」という表現は,み座の各四方の側面に向かって見た場合,一つの生き物がみ座のその側の中央にいた,という意味にもとれます。言い換えると,四つの生き物は,預言者エゼキエルの見た四つのケルブの生き物の場合のように,み座またはその壇の四隅にいたのではありません。エゼキエルの場合,四つの各の輪のところにそれぞれひとりのケルブがおり,それらの輪の上を神のみ座である兵車の壇が乗り進んだのです。―エゼキエル 1:15-22。
32 そうであれば,それらの生き物の間におけるエホバの位置は,詩篇 99篇1節〔新〕の言葉とよく合致します。「エホバ統御たまふ……エホバはケルビムの〔上〕にいます」。
33,34 エルサレムの神殿の幾つかの特色を,神のみ座の出てくるヨハネの幻と比較しながら,幻の成就に関してどの時が示唆されているかを説明しなさい。
33 幻の中で,四つの生き物は,七つの火のともしび,および,水晶に似たガラスのような海とともに,神のみ座の前にいます。これは,ヨハネが,ご自分の約束した王国を建てた少し後の時点の,天の神殿の王座に着いておられるエホバ神を見ていることを強く示唆しています。エホバ神の崇拝のために,賢王ソロモンが首都エルサレムに建立を命じられた神殿を思い起こしてください。
34 神殿の聖所の前の中庭には,鋳造の「海」と呼ばれる巨大な銅の洗盤がありました。聖所の第一の聖なる仕切り室の内側には,黄金の燭台が十個,それぞれ北側に五つ,南側に五つありました。しかし,聖所の第二の仕切り室である至聖所の内側には,中空でないケルブ像が四つ置かれていました。そのうちの二つは純金で,神聖な箱つまり契約の箱の黄金のふたと一体を成しており,神の臨在を表わす奇跡的な光シェキナがその上にとどまっていました。他のケルブ像は,内側がオリーブ材で,その上に金がおおってあり,10キュビト(約4㍍45㌢)の高さがありました。この二つの像は,背を聖所の西側の壁に向けて東側に面し,二つの長い翼を互いに他の像の方向に差し伸べながら,契約の箱を覆っていました。その箱は一キュビト半(約67㌢)の高さしかなく,その上に二つのケルブが置かれていました。―歴代下 4:2-7,9-22; 3:10-13。列王上 6:19,25-28。出エジプト 25:10-22。
35 (イ)み座の幻に神殿の背景または状況が認められることは,何を強調していますか。(ロ)「四つの生き物」の姿を考えると,エホバは他のすべての神とどのように対照されますか。
35 こうして見ると,幻に映った,天におけるエホバ神のみ座には,注目すべき点で,神殿の背景または状況といったものが認められます。それはエホバ神の神聖さを強調しており,四つの生き物ケルブが絶えず繰り返す次の言葉と合致します。「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者なる神エホバ,かつておられ,今おられ,これから来られるかた」。(啓示 4:8)それら四つの生き物自体,神がなぜ際立って聖なるかたであるかを明らかにしています。しし,若い雄牛,人間の容ぼう,そして,飛んでいるわしに似た,その顕著な姿により,至高の神の四つの基本的な特質である公正,力,愛,知恵を著しく引き立たせているのです。世界の諸宗教のあらゆる偽りの神々の中に,これら四つのすべての特質を完全に,また,完全な一致と協調のもとに所有し,発揮するという特徴を備えた神がいるでしょうか。ひとりとしていません。完全な公正,力,愛そして知恵を持たれる唯一の神は,当然,天と地のご自分の理知あるすべての創造物から崇拝を受けるに値します。
すべてのものの創造者
36 幻の中の最も高位の者たちは,エホバ神に対してどんな態度を取りましたか。
36 使徒ヨハネに与えられた奇跡的な幻をさらに調べて行きましょう。そして,天の神殿に見られる,最も高位の者たちが,完全な公正,力,愛そして知恵を持たれるこの神に,当然帰されるべきすべてのものをゆだねたいという,切なる願いに満たされている様子にも注意を払ってください。ヨハネはこう書いています。「そして,それらの生き物が,み座にすわっておられるかた,かぎりなく永久に生きておられるそのかたに,栄光と誉れと感謝をささげるごとに,二十四人の長老は,み座にすわっておられるかたの前にひれ伏し,かぎりなく永久に生きておられるかたを崇拝する。そして自分たちの冠をみ座の前に投げ出して,こう言う。『エホバ,わたしたちの神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしいかたです。あなたはすべてのものを創造し,あなたのご意志によってすべてのものは存在し,創造されたからです』」― 啓示 4:9-11。
37 (イ)エホバの「小さな群れ」の一人,ヨハネの態度はどうでしたか。(ロ)成就において,14万4,000人の者たちはなぜ,そしてどのように「自分たちの冠をみ座の前に投げ出し」ますか。
37 使徒ヨハネ自身も,王座に着いておられる全能の神エホバに対して同じ感じを抱きました。彼は,かの忠実な「小さな群れ」の一員だったからです。その「小さな群れ」の者たちは,14万4,000人の忠節な崇拝者となるべく,神の目的に添って召されるのです。そして,とこしえの王すなわち,「かぎりなく永久に生きておられるかた」が,天に約束の王国を樹立し,その霊的神殿に来られた後に,王座につけられます。(啓示 1:6,9)全能の神エホバは,こうして召された忠実な崇拝者に,天の王国にあずかる分を約束し,またその取決めを設けてくださったかたなのです。そして,彼らは人類の世を治めるその王国に入ると,自分たちの王国,また主権を,その唯一の源すなわち,常に生きておられる全能の神に進んでゆだねます。自分たちの座から降り,神の前に冠を投げ出し,独立の支配権をいっさい否認することをもいといません。身分の低い,価値のない臣民として,神の前にひれ伏し,崇拝をささげます。栄光と誉れと力とは,神に属するのです。それらの面で自分たちの持っているものが,すべて神に帰することを認めます。神がそれらすべてのものをご自分に属するものとして持たれるよう,彼らは望むのです。神はそれらすべてにふさわしいかただからです。栄光と誉れと力がすべて,神に帰せられますように!
38,39 (イ)エホバのみ前にひれ伏すことにより,象徴的な「二十四人の長老」は何を認めますか。(ロ)人類を治める天的支配者として神に用いられるこれらの者は,今日の王や支配者とどのように対照されますか。
38 それら象徴的な二十四人の長老は,なぜこのように,全能のエホバ神を宇宙の主権者として認めるのですか。それは,常に生きておられるこのかたを,天と地のすべてのものの創造者として認めているからです。彼らは現代の進化論者ではありません。正確な知識と確信をもって,神にこう述べます。『あなたはすべてのものを創造されました』。
39 神は,それらのものが存在することを意図され,また,そのご意志を遂行する能力を持っておられたのです。それゆえ,彼らは続けて神にこう言います。「あなたのご意志によってすべてのものは存在し,創造されたからです」。したがって,神は彼らの創造者,また,その白い外衣,冠そして座,すなわち,天の王権を表わすものを創造されたかたなのです。そうであれば,彼らが,四つの生き物に加わり,神に栄光と誉れと感謝をささげること以外の何かをしなければならない,どんな理由があるというのでしょうか。彼らは今日の人間の王や人類の支配者と異なり,神に栄光と誉れと感謝をささげることを,極めて明白な方法で行なっているのです。幸いにも,それら二十四人の象徴的な長老は,エホバ神が全人類の上に任命する天の支配者たちがどんなものかを描写しています。神は,ご意志のままに,またご自分がどんな神であるかの証明として,彼らを創造されたのです。
40,41 (イ)この幻を考慮するわたしたちは,人間の想像した事柄を扱っているのですか。また,それから何か有益なことを得ましたか。(ロ)幻からこれまで学んだ事柄を考えると,神の秘義の探究を続けることにより何を期待できますか。
40 これが秘義の神です。霊感を受けた預言者モーセ,イザヤ,エゼキエル,ダニエルといった,数人の単なる人間が奇跡的な幻によって見たのは,この神なのです。地上でエホバ神の奇跡的な幻を見た最後の人,つまり,流刑に処されたクリスチャンの使徒ヨハネに与えられた意味深い幻を考えるだけでも,わたしたちは深い感銘を受けます。わたしたちは,人間の想像した事柄を扱っているのではありません。イエス・キリストの忠実な使徒であるがゆえに拘禁されていた,信頼できる人の記した,霊感の幻に関する信ずべき記録を通し,実在の神,唯一の生けるまことの神,わたしたちをも含め全創造物に責任を持たれる唯一のかたについての認識を深め,増し加えているのです。
41 この栄光に満ちるかたが,最も重大な秘義の神なのですから,その神の祝福と助けの下に,この秘義に対する探究をその驚くべき解決に至るまで続けるなら,必ずや益と祝福,慰め,蘇生の思い,そして喜びを得ることができるはずです,では,「神の秘義」の探究を続けて行きましょう。
[脚注]
a 1599年から1885生までになされたクリスチャン・ギリシャ語聖書の九つのヘブライ語の和訳の中で,啓示 4章8節のこの個所には,「主」(キュリオス)の代わりに「エホバ」という名が出ています。「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」1950年版(英文),717ページの脚注aをごらんください。
b ギリシャ語セプトゥアギンタ訳(LXX)のエゼキエル書 1章と10章では,「生き物」の語に,啓示 4章と同じギリシャ語の表現が使われています。