試練の時は進行しています!
1 世界情勢を客観的に見るのはなぜ困難ですか。どんなことがこの点を証明しますか。
激戦のさなかにある兵士は,戦局全体をはあくすることはできません。また,そうすることは期待されていません。戦闘中の兵士の関心は,それ以外の事柄で占められていますから,戦局に関する兵士の見方は,自分個人の経験に大きく左右されます。同様に,ストや,場合によっては暴動などを招く問題が産業戦線で持ち上がると,普通の従業員はともすれば,自分たちの側の者とされている人びとの抗議演説や宣伝文句にのみ耳を傾けます。兵士と同じで,主観的に,つまり,自分個人に影響する事がらから推し測って事態をとらえるのです。その反対は,物事を客観的に見ることです。それは,個人的な感情や関係に動かされたり,そのために偏見を持ったりせずに,公正な見方をするという意味です。人間的な見地からすれば,歴史家は過去を振り返って,事件を前後のいきさつ全体から捕えて,物事を客観的に見ることができる,最もすぐれた立場にある,といえるかもしれません。深刻な窮境に際しても,このことが真実であるとすれば,日ごとに険悪な様相を深めてゆく世界情勢についてはいかがですか。いったいだれが,真相を正当に評価し,関連している諸原則を正しく理解し,他の人びとがたよれる確かな指導を与えうる,すぐれた立場に立っていますか。政治および宗教界の指導者たちは,しばしば自分たちがそうした立場にあると唱えて種々の見解を公表しますが,そうした主張の正しさは証明されていますか。彼らのことばはやがて忘れられたり,後日,彼らを非難する根拠にされる場合がなんと多いのでしょう。
2 どんな根拠に基づいて,確かな導きを聖書に求めることができますか。
2 絶対確実な啓発と指導をどこに求めることができますか。それは確かに,「神のことば」がしるされている聖書に見いだせます。なぜなら,神のことばはきわめて強力で鋭敏であり,同時に,「神の聖霊が述べる」事がらを明らかにしているからです。(ヘブル 3:7; 4:12,新)イエスをその宣教の全期間,導いたのも,そのことばでした。そのことばについてイエスはこう証言されました。「あなたのことばは真理です」。(ヨハネ 17:17,新)強い圧力を受けたとき,そのことばはイエスに物事に関する正しい見方,神の見方を与えたのですから,それをわたしたちの導きにしてはいかがですか。それは決してイエスを失望させませんでしたから,わたしたちも,現在の事物の体制の完全な終わりに近づくとともに,生きた「神のことば」すなわちキリスト・イエスと,しるされた神のことば双方から権威ある支持が与えられるという強固な確信を持つことができます。―マタイ 28:20。黙示 19:13。
3 聖書は歴史の本として,どのように特異な本であるといえますか。なぜそう言えますか。
3 聖書は最も傑出した歴史の本といえます。聖書は,過去の歴史を客観的にしるし,関係しているできごとや人物また国家に関し,その正確な背景に照らして,正しい見解を示しています。さらにすばらしいことに,聖書は,事前に書かれた歴史といえます。その先見の明は現代を見通して,「以前に書かれた事柄はことごとく,わたしたちの教えのために書かれた」,そうです,「事物の諸体制の終わりが臨んでいる,わたしたちへの警告のため」にしるされたことを示しています。(ロマ 15:4,コリント前 10:11,新)それは預言と呼ばれ,その多くはすでに成就しています。多くの批評家の攻撃を受けたにもかかわらず,聖書がまちがっていると証明されたことは,ただの一度もありません。エホバがその著者であることをほんとうに信じておられるなら,このことは驚くにあたらないでしょう。エホバご自身が言われたとおりです。「われは神なり我のほかに神なし われは神なり我のごとき者なし われは終のことを始よりつげ いまだ成ざることを昔より告(ぐ)」― イザヤ 46:9,10。
4 神の手にある巻き物に関して,ヨハネはなぜ泣きましたか。どんな結果が生じましたか。
4 しかし,聖書は,道徳上の教訓や規準を明らかにする事がらを別にすれば,あとはおおかた理解できない本だと感じている人がいるかもしれません。実際,聖書を読んで,そう感じている人はかなりいます。でも,落胆しないでください。ヨハネも,畏敬の念をいだかせずにはおかないような,栄光に輝く情景の中で,エホバが王座についておられるのを幻で見た時,同様に感じたようです。そのことは,黙示録 4章に描かれており,続いてヨハネは,「その裏表に文字あり,七つの印をもて封ぜら(れた)」巻物がエホバの右の手にあるのに気づきました。エホバの手にあるその巻き物には,知る価値の十分にあるたいせつな知識が納められていることは明らかでしたが,最初,「巻物を開き,これを見るに相応しき者」は見あたりませんでした。そのことをたいへん悲しく思ったヨハネは,「いたく泣き」ましたが,まもなくこう言われました。「泣くな,視よ,ユダの族の獅子,ダビデのひこばえ,すでに勝を得て巻物とその七つの封印とを開き得るなり」― 黙示 5:1-5。
5 (イ)ユダの族の獅子がだれかを,どのようにして明らかにすることができますか。(ロ)真のクリスチャンはすべて,どんな仕方で,自分が征服者であることを実証しなければなりませんか。
5 その勝ちを得る「獅子」がキリスト・イエスであることは容易に証明できます。彼はまた,「屠られたるがごとき羔羊」と呼ばれ,しかも,彼をたたえる歌が次のようにうたわれているからです。「なんぢは巻物を受け,その封印を解くに相応しきなり,汝はほふられ,その血をもて……人々を神のために買ひ,これを我らの神のために〔王国〕となし,祭司となし給へばなり。彼らは地の上に王となるべし」。(黙示 5:6-10,〔新〕)すでに論じたとおり,イエスは,最もきびしい圧力を受けたにもかかわらず,ご自分の従順を実証し,そうすることによって,神の右のきわめて高い地位につく資格を得られました。そして,彼はその祭司の仕事を通して,主要な代理者として用いられ,「多くの子たちを栄光へと連れて行(き)」,ご自身の天の王座にあずからせるのです。クリスチャン会衆を構成する,それら多くの子たちも同様に,自分たちが征服者であることを実証しなければなりません。イエスが,「わたしは世を征服した」と言いえたように,神の子たちの家族にはいる,「新たな誕生を与えられた」人たちも,世のあらゆる圧迫を受けても,おのおの同様のことを言いえなければなりません。この点を確証したヨハネは,どのようにして世を征服することができるか,また,そうした征服はどのようにして行なわれねばならないか,に関する基本的な根拠を示して,こう述べています。「わたしたちが神の戒めを守ること,これがすなわち,神への愛の意味するところ…である。しかも,その戒めは重苦しいものではない。なぜなら,神から生まれたものはみな,世を征服するからである。そして,これが,世を征服するところの征服,つまり,わたしたちの信仰である」。アガペー愛に動かされる従順な信仰という,火に耐える特質にお気づきになりましたか。真の教会を構成する七つの会衆にあてた音信の各の結びに,「征服する人」個人個人に報いが約束されていることを思い起こすと,そうした信仰を実践するのは各人の責任であることが痛感されます。―ヘブル 2:10,ヨハネ 16:33,ペテロ前 1:23,ヨハネ第一 5:3,4,黙示 2:7–3:21,新。
全地に住む人びとに臨む試練の時
6 ヨハネの幻の幾つかに見られる特徴を述べなさい。それには時間が関係していますか。
6 そうした要求が,キリストの王座にあずかる,比較的少数の人びとに対するものであることはよくわかります,とある人はいうかもしれませんが,それでかたづいてしまうものでしょうか。見いだされた,ふさわしい者によって,その巻き物が開かれ,かつ,それまで堅く封じられていた秘密が明らかにされた結果として,ヨハネに啓示されたことを調べてみましょう。それは,「ほどなくして必ず起きる事柄を,神が彼の奴隷たちに示すため,彼[イエス]に与えられた」,さらに多くの幻へと導くものでした。(黙示 1:1,新)ここでは特に,その時,生きている人びとすべてに重々しくのしかかる重大な圧力を伴う事態の,真に迫った一連の描写を取り上げます。例外とされる人はいません。これから調べてゆきますが,その時は今であり,試練の時は進行しているのです!
7 悪魔が大きな怒りを持っている理由を,黙示録はどのように説明していますか。
7 今論じている主題に関連する点だけにふれますが,黙示録 12章は象徴的なことばを用いて,王国の誕生と,1914年における,その王の即位について述べているということを思い起こせます。そして,その章は,天から放逐された悪魔が,「自分の時の短いことを知り,大きな怒りをもって」いることを述べています。悪魔自身,大きな圧力を受けているのを感じています。一刻もむだにはできません。彼は激怒しています。なぜなら,悪魔は,『彼ら[キリストの兄弟たち]が,小羊の血のゆえに,また,彼らが証していることばのゆえに,彼を征服した』ことを知っているからです。それで彼は,「神の戒めを守り,かつ,イエスについて証言する仕事を持つ[人びと]…と戦いをまじえるために」出てゆきます。―黙示 12:11,12,17,新。
8 (イ)次いで,どんな幻がヨハネに与えられましたか。(ロ)どんな事がらが象徴的に示されましたか。それはどんな問題や圧力を伴うものですか。
8 しかし,それらの人びとだけが関係しているのではありません。次にヨハネは,「十本の角と七つの頭を持(つ)……野獣」を見ます。それは,今日まで続いてきた,サタンの見える地上の政治組織を象徴するものです。さて,ここで,事態がどのように進展してゆくかに注目してください。そうすれば,圧力を加える問題となっているのは,結局,「あなたはだれを崇拝するか」という問題であることがわかります。ヨハネはこうしるしています。「竜〔サタン〕は野獣に,その権力と,その王座と大きな権威とを与えた。……そして,全地の者は感服して,その野獣に従った。また,彼らは竜を崇拝した。……そして彼らは……その野獣を崇拝した」。ヨハネはまた,こう述べます。「あらゆる部族,民族,国語また国民を治める権威がそれ[野獣]に与えられた。そして,地に住む人々すべては,それを崇拝するであろう。彼らのうち,ひとりも名前は……小羊の命の巻き物にしるされてはいない」。(黙示 13:1-4,7,8,新)確かに,例外とされる人はひとりもいません。ただし,その最後の表現が示唆するように,一般の人びとは,偽りの崇拝に人を加わらせようとする圧力に屈しますが,例外があるのです。この点もまた,すぐのちに取り上げます。以上のことは現在の事態をなんとよく描写しているのでしょう。一般の人びとはそれぞれ,現代の政治機構の一部に奉仕と忠誠および愛国主義的な支持をささげているのではありませんか。人びとは,なんらかの形の徴用を課されるなら,おそらく不本意ながら,とにかくその政治権威に服します。それらの人にとって,“カイザル”は唯一かつ窮極の権威です。しかし,それに服することは,神の目からすれば,その野獣と,竜すなわち,「この事物の体制の神」である悪魔を崇拝することなのです。―コリント後 4:4,新。
9 真の崇拝に関して,わたしたちの取るべき立場をイエスはどのように例証されましたか。
9 この問題で,あなたはどんな立場を取っておられますか。「ひれ伏して……崇拝の行為」をしさえすれば,「世界のすべての王国と,その光栄」(つまり,「野獣」を構成するもの)をサタンから受けられるという誘惑の圧力に面したイエスが,サタンにどう答えられたかをあなたは覚えておられますか。イエスはこう答えられました。「サタンよ,去れ!『あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたが神聖な奉仕をささげなければならないのは,彼に対してだけである』と書かれているからである」。(マタイ 4:8-10,新)崇拝と奉仕が密接に関係していることに注目してください。わたしはエホバを崇拝している,と唱える人は,神聖な奉仕をエホバにささげ,かつ,エホバにのみささげることによって,自分の主張の正しさを立証しなければなりません。この原則は遠い昔から強調されています。ヨシュアはその民に告げました。「彼[エホバ]は絶対の専心を要求する神……である」。これこそ,あなたが,自分に影響を及ぼす現状や問題を神の見地から見る方法を学んで,取らねばならない立場なのです。―ヨシュア 24:19,新。
10 ヨハネの見た次の幻は,現代における事態のいっそうの進展をどのように描写していますか。
10 しかし,これがすべてではありません。崇拝というこの問題に関しては,さらに多くのことが述べられています。ヨハネは次に,「別の野獣」を見ます。それは,「小羊のような二本の角を持って」いました。「また,それは,地とそこに住む人々に…第一の野獣を崇拝させ」ます。さらに,「それは,地に住む人々に…その野獣に似合う像を作ることを命じ」ます。そして,その像に息(あるいは命)が与えられるのです。「それは,その野獣の像が話し,それとともに,どうしても野獣の像を崇拝しようとしない人々すべてを殺させるため」です。それでもまだ十分でないと言わんばかりに,記録はさらにこう続きます。「それは…すべての人を強制のもとにおくのである。…そのしるし,野獣の名,あるいは,その名の数字を持っている人以外は,だれも買ったり,売ったりすることができないためである」。(黙示 13:11-17,新)英米連合世界強国および,この強大な世界強国による「像」の創設に見られる,サタンの見える組織の進展するさまが,ここに描かれています。その「像」はまず最初国際連盟として現われ,今日,国際連合として再興されているものです。しかし,事態がどのように進展しようとも,問題は少しも変わっていません。相変わらず,大小,貧富,自主奴隷の別なく,「すべての人」は,それら獣のような機関に崇拝と奉仕をささげ,かつ,そうしたものを通して,サタン悪魔そのものに崇拝と奉仕をささげさせようとする,かしゃくない圧力のもとにおかれています。
11 黙示録 14章1から5節には,それまでのことと著しい対照をなす,どんな事がらがしるされていますか。
11 問題の暗い面はこれくらいにしましょう。それでは,続いて述べられていることが,問題をどう埋め合わせているかを見てください。次いでヨハネは,キリストの花嫁を構成する14万4,000人の人びとが,小羊とともにシオンの山に立っているのを見ます。彼らの額には,野獣のしるしではなく,彼らが征服者であることを証明する,小羊とその父の名がしるされています。天の花婿に対する,彼らの忠節と一意専心のほどを強調して,記録はこう述べています。彼らは,「女によって自分自身を汚さなかった者たちである。事実彼らは処女である。それらの人は,小羊がどこに行こうとも,小羊に従いつづける者たちである。…彼らの口には虚偽がまったく見いだされなかった。彼らには欠陥がないのである」。彼らの名前は,「小羊の命の巻き物」に書かれています。それにしても,地上で生活し,試練,特に,キリストの千年統治の終わりの最後の試練のもとで忠実を実証する人びとすべてのための,もう一つの「命の巻き物」を見落としてはなりません。―黙示 14:1-5; 21:27; 20:12,新
12 黙示録 14章7節の音信は,どんな肝要な真理を強調するものですか。それはどのように成就されていますか。
12 次いでヨハネは,地の全住民に宣明される音信を聞き,こう記録しています。「神を恐れ,彼に誉れを帰しなさい,なぜなら,彼によるさばきの時が到来したからです。ゆえに,天と地と海と,水の泉を作られたかたを崇拝しなさい」。(黙示 14:6,7,新)なんと明確で強力なことばでしょう! 命の源である偉大な創造者は,例外なくすべての被造物から崇拝と奉仕を求める至上の権利を持っておられ,かつ,そうした権利を持つにふさわしいかたです。また,その音信が全地に宣明されるよう取りはからっておられるのです。なぜなら,それは,エホバの証人によって布れ告げられ,すべての民に対する証として,人の住む全地で宣べ伝えられ」ている真理の音信の,基本を成す主題だからです。それは,現在の世代が過ぎ去る前に成就されるであろうとイエスの言われたしるしの一部なのです。今日,この音信は,かつてないほど力強く宣明され,いよいよ広く行き渡っています。―マタイ 24:3,14,34,新。
13 選択すべき二つの道を明示する,どんな音信がさらに付け加えられていますか。
13 そのすぐあとで,ヨハネは,「もし,だれかが野獣とその像を崇拝して,自分の額あるいは,その手にしるしを受けるなら」,最後の不利なさばきによって何が生ずるかを別の天使が発表するのを聞きました。(黙示 14:9-11,新)したがって,神のことばによれば,選択すべき二つの道が,まちがえようのないほど明らかにされています。そうした警告は,エホバの証人によって宣明されている,聖書の音信の一部を成しています。証人たちは,その宣明を神からの使命とみなしています。彼らは,「われはすべての人の血につきて潔よし,我ははゞからずして神の御旨をことごとく汝らに告げしなり」と述べたパウロのように語りたいと願っているのです。―使行 20:26,27。
14 自分にはとてもできない,と感ずる人は,どんな道を取るべきですか。
14 わたしたちの崇拝と奉仕はエホバにのみささげねばならない,という要求や戒めは確かに明らかにされていますが,これまでに取り上げた聖句が示す,激しい反対の圧力すべてに耐えることは,自分にはとてもできない,と感ずる人がいるかもしれません。「われらの塵なることを念ひ給(ふ)」エホバは,わたしたちの弱さや,わたしたちの必要とするものに,むとんちゃくなかたではありません。ですから,あなたがのがれることができるとともに,たいへん不思議なことですが,あなたが今あるところにとどまれるよう,エホバが設けてくださった,すぐれた備えをさらに調べてみましょう。そのようなことはどうして可能ですか。―詩 103:14。
熟達した指導のもとで建てる
15 (イ)どうすれば,イエスが指摘されたわなをのがれることができますか。(ロ)この点で,ノアはどんなすぐれた模範を残しましたか。
15 難をのがれ,救出されることについて,特に述べている聖句が,四つあります。警告の音信に,「少しも注意を払わなかった」ため,8人を除いて,他の全人類家族をわなにかけて葬り去った,ノアの日の洪水のように,地の住民すべてに「わなのように」臨もうとしている,さばきの日について述べたイエスのことばは,すでに取り上げました。イエスが言われたように,十分の注意を払う,つまり,自己本意の放縦を避けるように「注意」し,祈りの態度をもって,『目ざめつづける』ことが,のがれる道なのです。そうすることによって,あなたは今あるところにとどまれるとともに,まもなく訪れようとしている最後の不利なさばきを,「首尾よくのがれ」ることができるでしょう。同時に,「首尾よく…人の子の前に立ち」,その恵みと是認を受けられるでしょう。凶悪な世代の腐敗に汚されず,自分たちのいる所にとどまって,熟達した指導のもとに箱船建造の仕事を続けた,ノアとその家族のようであってください。―マタイ 24:37-39,ルカ 21:34-36,新。創世 6:14-16。
16 黙示録 3章10節の約束はどのように果たされていますか。それはどんな行動を求めるものですか。
16 「フィラデルフィアの会衆」に対し,イエスはこう約束されました。「あなたはわたしの忍耐に関することばを守ったゆえに,わたしも,あなたを試練の時から守るであろう。それは,地に住む人々を試みるために,人の住む全地に臨もうとしているのである」。(黙示 3:7,10,新)試練を恐れて逃げたり,修道院や僧院にかくれたりしてではなく,あなたが今あるところにとどまり,日々,従順と忍耐を実践して,イエスの模範に従うのです。彼は世にあっても世の一部とならず,また,世から汚されることなく,神によって置かれた立場にとどまりました。あなたはそうすることによって,獣のような,サタンの事物の体制の圧力のもとでも,弱められないように守られるでしょう。それどころか,神の民とその希望のうちにとどまるなら,エホバの王国を支持して,エホバにささげる,あなたの奉仕と崇拝を十分保てることを実証できるでしょう。イエスは,ご自分の宣教の期間中,父から与えられた仕事を続行し,熟達した指導のもとに建てるわざを行なわれました。―ヨハネ 9:4; 17:4。
17 コリント前書 10章13節の約束から,どんな導きと慰めが得られますか。
17 次のパウロのことばは前述のことを裏づけるものです。「神は忠実であられるから,あなたがたが耐えうる以上に誘惑されるままにはせず,誘惑とともに,あなたがたがそれに耐えうるようにするため,のがれる道をも設けてくださるであろう」。(コリント前 10:13,新)神は試み,かつ,サタンの誘惑を許しておられます。この点では,のがれ道がありません。しかし,サタンの意図が,あなたの信仰と専心を打ち砕くことにある一方,神は,イエスに対してさえ行なったように,熟達した指導のもとに訓練と懲らしめを通して,強めることを常に意図しておられます。親切で賢明な父にも似た神は,あなたの忍耐の力をどのように開発できるか,また,「試練に耐ふる者は幸福なり」ということを,あなたよりもはるかによく知っておられます。決して恐れてはなりません。あなたがご自分を神の手にゆだねるなら,サタンがあなたに重荷を負わせすぎて,のがれ道がなくなってしまうにまかせられることはありません。―ヘブル 12:7-11,ヤコブ 1:12。
18 (イ)ヨエル書 2章32節は,どんなすぐれた備えについて述べていますか。(ロ)「家」ということばは,どんな種々の意味で聖書中に用いられていますか。
18 最後に,「恐れをいだかせる…エホバの大いなる日」に先だって,いま成就を見ている次のような預言がしるされています。「エホバの名を呼び求める者がみな,安全に逃げることが起きなければならない。エホバが言われたとおり,シオンの山とエルサレムに,また,エホバが召しておられる生残者たちの中に,のがれた者たちがいることになるからである」。(ヨエル 2:31,32,新)確信を与える,なんとすぐれた備えなのでしょう。それにしても,あなたがのがれることのできる,そのシオンの山やエルサレムはどこにあるのですか。この問題を考えると,家の建築という事がらが持ち上がります。詩篇作者は述べました。「エホバ家をたてたまふにあらずば 建るものの勤労はむなし」。(詩 127:1)その逆も真実です。もし,エホバが家を建てて,それをご自分のものとされるなら,その偉大な熟達した建築者の指導のもとで働く人びとは,成功を確信できます。エホバの家はどこにありますか。また,それはなんですか。「家」ということばは,実際のすみかをさす以外に,「アロンの家」また,『イスラエルの家』のように,家族や国民をさえ表わすものとして,しばしば用いられています。(詩 115:10。レビ 10:6)イスラエルは一国家としては不忠実になったため,エルサレムにあった彼らの神殿に関して,イエスからこう言われました。「視よ,汝らの家は廃てられて汝らにのこらん」。(マタイ 23:38)しかしながら,イエスはすでに,別の種類の家もしくは神殿,つまり霊的な家の準備を始めておられたのです。イエスはご自分の宣教の際,その建築資材ともいうべき弟子たちを集めて準備しはじめられました。西暦33年のペンテコステの時,それら弟子たちは,「使徒および〔クリスチャンの〕預言者たちの土台の上に建てられ」た,神の霊的な家もしくは神殿であり,「一方,キリスト・イエスご自身は土台の隅石である」ということが神から公に認められました。―エペソ 2:20-22,新。(ヘブル 3:6,ペテロ前 2:5もごらんください。)
19 今日,神の「家」また,「都」をどこに見いだせますか。
19 古代のイスラエルにおいては,神殿の立つシオンもしくはエルサレムが,崇拝の中心地となり,契約の箱の安置された,その神殿は,エホバの臨在を表わしました。同様に,クリスチャン会衆つまり霊的なイスラエルは,「シオンの山,活ける神の都なる天のエルサレム」に近づくものとして述べられています。(ヘブル 12:22。黙示 21:2)今日,この霊的な神殿級の人びとの残れる者がいます。その残れる者はエホバのクリスチャン証人の中核を成しており,この中核を基として,霊的な意味での有益かつ有効な建てるわざが進められています。そのわざは,あらゆる点で神のことばと完全に一致しており,かつ,クリスチャン会衆のかしら,キリスト・イエスの熟達した指導のもとに,神の霊の力によって遂行されているのです。あなたが,エホバの証人の集会に出席し,それに参加するとともに,証人たちの伝道し,かつ教えるわざにも携わって,このすぐれた建てる仕事に証人たちとともにあずかるよう,心底からご招待いたします。あなたは,熟達した指導を受けるだけでなく,熟達した指導を自分のものとすることができるように助けられ,そうして,「のがれた者たち」とともに,聖書教育のわざを行なうのに,いよいよ適した人になれるでしょう。
20 イエスとパウロはいずれも,霊的に建てるわざの重要性をどのように強調しましたか。
20 こうした集合的な面のほかに,聖書はまた,建物を建てる個人的なわざに携わるよう勧めています。従順を強調したイエスは,ご自身の言われたことを聞いて「行ふ者」と,聞くだけで「行はぬ者」との著しい対照を示されました。神から与えられた教えに対する従順という岩塊の上に建てられた,前者の,永遠の命の見込みという家は,あらしに耐えますが,不従順という流砂の上に建てられた,後者の家は,重圧を受けると,たちどころに倒壊してしまいます。(マタイ 7:24-27)熟達した,「仕事の賢明な指揮者」であったパウロもまた,「金,銀,貴重な石」になぞらえられる,忍耐・忠誠・不動の専心という,すぐれた特質で,自分の人格の型を築く人と,そうした特質を伴わずに,「木材,干し草,刈り株」などで自分の宗教的人格を築いた人との著しい対照を示しました。前者のクリスチャンの人格は火のような試練に生き残り,そうしたクリスチャンを築きあげた人,あるいは人びとは報いを受けます。しかし後者のように,正しい仕方で築かれなかった,えせ信心家には,ヤコブが書いたとおりのことがあてはまります。そのような人は,「忍耐の働きを全うさせよう」とはしません。「そのような人には,自分はエホバから何かをもらえると思わせないようにしよう」。彼は,「優柔不断な人であり,そのすべての道で動揺しているのである」。―コリント前 3:10-15,ヤコブ 1:4,7,8,新。
21 (イ)神の見地から見て,なんらかの意味で完全に建てるということは可能ですか。(ロ)この点で,イエスはなんと言われましたか。
21 謙そん,かつ従順に,「洞察力と正義,また,さばきと廉潔[つまり,火に耐える特質]を与える懲らしめを受け入れ」てください。「賢い者はよく聞いて,さらに教えを取り入れるであろう。また,理解のある人は,熟達した指導を身につける者」なのです。(箴言 1:3,5,新)エホバに献身し,その民に加わること,それが,霊的に建てる正しい種類のわざに通ずる道です。肉身である以上,絶対的な意味で完全に建てることができないのは確かですが,「真の正義と忠節にそいつつ,神の意志にしたがっ(た)…新しい人格」に基づいて,新しい生活の型を築くことができます。(エペソ 4:24,新)完全ということについて,イエスの言われたことを,忘れないでください。神のような愛の本質とは,敵を愛し,迫害者のためにさえ祈るほどの,他の人に対する純粋かつ無私の関心であることを弟子たちに説明した後,イエスはこう言われました。「したがって,あなたがたは,あなたがたの天の父が完全であられるように,完全でなければならない」。弟子ではない,金持ちの若い支配者に対してさえ,完全ということについて,イエスは同様のことを話して言われました。「もし,あなたが完全でありたいなら,行って,あなたの所有物を売り,貧しい人に与えなさい。…そして,来て,わたしの追随者になりなさい」。―マタイ 5:43-48; 19:21,新。
22 (イ)どうすれば,神のような愛をつちかうことができますか。(ロ)それはどんな点で,征服者になるためのかぎといえますか。
22 最も偉大な特質で,おもな要求とされているのは,そうした神のような愛です。それは,完全という特質にもともと備わっていて,自動的に得られるものではないにしても,そうした愛を,あなたの新しい人格の一部としてつちかうべき十分の励みがあるのです。そうすることは可能です。前述の若い支配者にとって,それが実際に可能であることを,イエスは明らかに察知しておられました。さもなければ,福音書の記述者マルコは,イエスがその若者を『愛しまれた』とは記録しなかったはずです。(マルコ 10:21)単なる外見の魅力のために,イエスの心情がだれかに強くひかれるということはありませんでした。信仰と同様,愛も,試めされた質を備えることができます。「愛は寛容で…すべてのことを忍耐する」のです。(コリント前 13:4-7,13,新)それは,あなたが征服者であることを実証するかぎです。圧力を避けようとするだけでは,悪を行なわせようとする重圧を征服することはできません。そのために生ずる空白を,サタンと配下の悪霊が直ちに埋めようとするからです。(マタイ 12:43-45)むしろ,みずから進んで,善を行なわせる影響力を受ける立場に立ってください。パウロが述べたとおり,「悪に征服されてはならない。かえって,善をもって悪を征服しつづけ」てください。(ロマ 12:21,新)みずからエホバに献身して行なうように勧められているのは,このことなのです。物事をすべて,エホバの見地,つまり聖書の見地から見る方法を学んでください。それは正当な論議,また,正しい考え方と言うことができます。エホバのことばと,その組織の健全な影響力のもとに従順にとどまってください。他の人びとが,エホバの組織に,「エホバの家」に,天のシオンまたエルサレムに来るよう招待してください。エホバの律法と,エホバのことばは,崇拝の中心を成す,そこから発するのです。あなたと全被造物を治める,エホバの正当な主権を認めつつ,エホバへの奉仕と崇拝を表明する事がらすべてに,その民とともにあずかってください。―イザヤ 2:2-4。
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あらゆる人は,悪魔の見える地上の政治組織に崇拝をささげさせようとする圧力のもとにおかれている。その組織は,海から出てきた野獣で表わされている。あなたはだれを崇拝しておられますか