第10章
平和の君に関する約束
1 カインの時代以来,人類はどんなことを経験してきましたか。
約6,000年前,人間の最初の子どもが生まれました。子どもの名はカインで,その誕生はまさに特別なものでした。その子の両親も,み使いたちも,さらには創造者も,それまでに人間の赤子を見たことはありませんでした。この初めて生まれた子どもは,有罪宣告を受けた人類に希望を与えることもできたはずです。それだけに,成長したその子が殺人者になった時の失望はどれほどだったでしょう。(ヨハネ第一 3:12)その時以来,人類は他の殺人を数え切れないほど目撃してきました。人間は悪を行なう傾向を持ち,人間同士の,また神との平和な関係にはありません。―創世記 6:5。イザヤ 48:22。
2,3 イエス・キリストによってどんな見込みが開かれましたか。そうした祝福を受けるには何をしなければなりませんか。
2 カインの誕生から4,000年ほど後,別の子どもが生まれました。その子の名はイエスで,その誕生も非常に特別なものでした。聖霊の力により,処女から生まれたのです。そのような誕生は,歴史を通じてほかに類がありません。その子が生まれた時,喜びに満ちた大勢のみ使いが神への賛美を歌い,「上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人々の間にあるように」と言いました。(ルカ 2:13,14)イエスは殺人者になるどころか,人間が神との平和な関係を築き,永遠の命を得るための道を開きました。―ヨハネ 3:16。コリント第一 15:55。
3 イザヤは,イエスが「平和の君」と呼ばれるであろうと預言しました。(イザヤ 9:6)イエスは人類のために自らの命を差し出して,罪の許しを可能にするのです。(イザヤ 53:11)今日,イエス・キリストに対する信仰に基づき,神との平和を,また罪の許しを得ることができます。しかし,そうした祝福は機械的に得られるものではありません。(コロサイ 1:21-23)祝福を望む人は,エホバ神に従うことを学ばなければなりません。(ペテロ第一 3:11。ヘブライ 5:8,9と比較してください。)イザヤの時代に,イスラエルとユダは,それとは正反対なことを行ないます。
悪霊に頼る
4,5 イザヤの時代に人々はどんな状況にありますか。ある人たちはだれに頼りますか。
4 イザヤの時代の人々は不従順のゆえに,嘆かわしい道徳状態に,まさに霊的な暗闇という穴に陥っています。神の神殿がある南のユダ王国にさえ平和はありません。ユダの人々は,不忠実さの結果としてアッシリア人の侵攻の脅威にさらされており,前途には困難な時代が待ち受けています。人々は助けを求めてだれに頼るでしょうか。残念なことに,多くの人はエホバにではなく,サタンに頼ります。もっとも,サタンの名を呼んで助けを求めるというのではありません。むしろ,昔のサウル王のように心霊術を行ない,死者との交信を試みて問題に対する答えを得ようとします。―サムエル第一 28:1-20。
5 中には,そうした習わしを奨励する人たちさえいます。イザヤはそのような背教を指摘し,こう言います。「もし人々があなた方に,『霊媒に,または,さえずったり低い声でものを言ったりする予言の霊を持つ者たちに問い合わせよ』と言うのであれば,どの民もその神に問い合わせるべきではないか。生きている者たちのために死者に問い合わせることがあってよいだろうか」。(イザヤ 8:19)霊媒は『さえずったり低い声でものを言ったりして』人々をだますことがあります。死者の霊によるものとされるそうした効果音は,生きている霊媒が腹話術で作り出していることも考えられます。しかし時には,悪霊が直接関与し,死者のふりをすることがあります。サウルがエン・ドルの魔女に伺いを立てたときがそうだったようです。―サムエル第一 28:8-19。
6 心霊術に頼っているイスラエル人が特に非難されて当然なのはなぜですか。
6 エホバが心霊術の習わしを禁じておられるにもかかわらず,こうしたことすべてがユダで行なわれています。モーセの律法のもとでは,それらは死刑に値する違反です。(レビ記 19:31; 20:6,27。申命記 18:9-12)エホバの特別な所有物である民が,どうしてそのような重大な違犯を犯すのでしょうか。それは,エホバの律法と助言に背を向け,「人を欺く罪の力のためにかたくなに」なっているからです。(ヘブライ 3:13)「彼らの心は脂肪のように無感覚になり」,民は神から疎外された者となっています。―詩編 119:70。a
7 今日の多くの人はどのように,イザヤの時代のイスラエル人と似たことを行なっていますか。そのような人は悔い改めないならどんな道をたどりますか。
7 ユダの人々は,『アッシリア人の攻撃が目前に迫っている時に,エホバの律法が何の役に立つのか』と考えているようです。困難な事態がすぐに簡単に解決されることを望み,エホバがご意志を達成してゆかれるのを待とうとはしません。現代でも,多くの人はエホバの律法を無視し,問題を解決するために霊媒を探し出したり,星占いに答えを求めたり,他の形態のオカルティズムに頼ったりします。しかし,生きている人が死者に答えを求めるのは,当時も今も愚かなことです。だれであれ,悔い改めることなくそうした習わしを続ける人は,「殺人をする者,淫行の者,……偶像を礼拝する者,またすべての偽り者」と同じ道をたどります。将来の命の見込みはないのです。―啓示 21:8。
神の「律法と証し」
8 今日のわたしたちが導きを求めて頼っているべき「律法」および「証し」とは何ですか。
8 ユダでは,心霊術を禁じるエホバの律法も他の数々の命令も隠されてはいません。律法は文書の形で保存されています。今日,神の言葉は完全にそろった文書の形,つまり聖書として読むことができます。聖書には神の律法や規定が集大成されているだけでなく,神とその民の交渉に関する記述も収められています。エホバと民との交渉に関するそうした聖書の記述は証し,もしくは証言であり,エホバのご性格や様々な特質を教えてくれます。イスラエル人は死者に相談する代わりに,導きを求めて何に頼っているべきですか。イザヤは,「律法と証しとに問え!」と答えます。(イザヤ 8:20前半)そうです,真の啓発を求める人は,書き記された神の言葉に頼るべきなのです。
9 悔い改めない罪人が時折聖書を引用することには価値がありますか。
9 心霊術に手を出しているイスラエル人の中にも,書き記された神の言葉に敬意を抱いていると唱える人がいるかもしれません。しかし,そうした主張はむなしく,偽善的です。イザヤは,「確かに,彼らは夜明けの光を持たないこの言葉にしたがって語りつづける」と言います。(イザヤ 8:20後半)ここでイザヤはどんな言葉について述べているのでしょうか。「律法と証しとに問え!」という言葉であろうと思われます。背教したイスラエル人の中にも,神の言葉を引き合いに出す人がいるのかもしれません。それは,今日の背教者や他の人々も聖書を引用することがあるのと似ています。しかし,それは口先だけのものにすぎません。聖書を引用しても,それと共にエホバのご意志を行ない,汚れた習わしを捨てないなら,「夜明けの光」つまりエホバからの啓発は得られません。b
「パンの飢きんではない」
10 ユダの民はエホバを退けたため,どんなつらい経験をしていますか。
10 エホバに対する不従順は精神的な暗闇を生みます。(エフェソス 4:17,18)ユダの民は霊的な意味で盲目になっており,理解力がありません。(コリント第一 2:14)イザヤは民の状態を描写し,「各々ひどく苦しみ,飢えを覚えて,必ずその地を通り抜けることであろう」と言います。(イザヤ 8:21前半)この国民の不忠実さ,特にアハズ王の治世中の不忠実さのゆえに,ユダの独立王国としての存続は危うくなっています。ユダは敵に囲まれています。アッシリア軍はユダの都市に一つまた一つと襲いかかり,産出的な土地は敵によって荒廃させられ,食物は不足しています。多くの人は「ひどく苦しみ,飢えを覚えて」います。しかし,この地は別の種類の飢えにも苦しんでいます。これより何十年か前に,アモスはこう預言しました。「『見よ,その日が来る』と,主権者なる主エホバはお告げになる。『そしてわたしはその地に飢きんを送り込む。パンの飢きんではない。水の渇きでもない。エホバの言葉を聞くことの飢きんである』」。(アモス 8:11)今やユダは,まさにそのような霊的な飢きんにあえいでいるのです。
11 ユダは与えられた懲らしめから教訓を学びますか。
11 ユダは教訓を学び,エホバのもとに帰るでしょうか。ユダの民は心霊術や偶像礼拝を捨て,「律法と証しとに」戻るでしょうか。エホバは民の反応を予見し,こう言われます。「彼は飢えており,自分を憤らせたので,自分の王と自分の神の上に実際に災いを呼び求め,必ず上をじっと見ることであろう」。(イザヤ 8:21後半)そうです,多くの人は,こうした状況を招いたことを自分たちの人間の王のせいにするでしょう。愚かにも災厄をエホバのせいにする人たちさえいるでしょう。(エレミヤ 44:15-18と比較してください。)今日でも,多くの人はこれと似た反応をし,人間の邪悪さゆえに生じた悲惨な出来事を神のせいにします。
12 (イ)ユダは神を捨てた結果,どうなっていますか。(ロ)どんな重要な質問が生じますか。
12 神の上に災いを呼び求めることによって,ユダの住民には平和がもたらされるでしょうか。いいえ,そんなことはありません。イザヤは,「彼は地を見るが,見よ,苦難と闇,薄暗さ,困難な時,輝きのない暗がりがある」と予告します。(イザヤ 8:22)人々は神を非難するかのように目を上げて天を見た後,目を地に戻し,希望のない自分たちの先行きを見詰めます。人々は神を捨てた結果,災厄を経験しています。(箴言 19:3)しかし,神がアブラハム,イサク,ヤコブになさった約束はどうなったのでしょうか。(創世記 22:15-18; 28:14,15)エホバは果たされないのでしょうか。ユダとダビデに約束された王統は,アッシリア人や他の軍事強国によって終わりを迎えるのでしょうか。(創世記 49:8-10。サムエル第二 7:11-16)イスラエル人は永久に暗闇に閉じ込められるのでしょうか。
『侮べつをもって扱われる』地
13 「諸国民のガリラヤ」とは何ですか。それはどのように『侮べつをもって扱われる』ようになりますか。
13 次にイザヤは,アブラハムの子孫に臨む極めてひどい激変をほのめかし,こう言います。「しかしその薄暗さは,その地が圧迫の下に置かれたとき,人がゼブルンの地とナフタリの地を侮べつをもって扱ったずっと以前の時,また,それより後の時に,人がそれに ― 海ぞいの道,ヨルダンの地方,諸国民のガリラヤに ― 誉れを受けさせたときのようではない」。(イザヤ 9:1)ガリラヤは,北のイスラエル王国の領土の一部でした。イザヤの預言の中では,ガリラヤには「ゼブルンの地とナフタリの地」,また「海ぞいの道」つまりガリラヤの海の沿岸を通って地中海に至る古代の道も含まれています。イザヤの時代には,その地方は「諸国民のガリラヤ」と呼ばれています。恐らく,その地方の都市の多くにイスラエル人ではない人々が住んでいるからでしょう。c この地はどのように『侮べつをもって扱われる』のでしょうか。異教徒のアッシリア人がそこを征服し,イスラエル人を流刑に処し,その地方全域にアブラハムの子孫でない異教徒を住まわせます。その結果,北の十部族王国は明確な国家としては歴史から姿を消してしまいます。―列王第二 17:5,6,18,23,24。
14 どんな意味で,ユダは十部族王国ほど『薄暗く』はならないと言えますか。
14 ユダもアッシリア人の圧力を受けています。ゼブルンとナフタリに代表される十部族王国に生じたように,ユダもいつまでも『薄暗い』状態に陥っているのでしょうか。いいえ,そうはなりません。「後の時」に,エホバは南のユダ王国地方に祝福を与え,さらには,かつて北の王国が支配していた地にも祝福を与えます。どのようにでしょうか。
15,16 (イ)どの「後の時」に「ゼブルンとナフタリの地域」の状況が変化しますか。(ロ)侮べつをもって扱われた地は,どのように誉れを受けるようになりますか。
15 使徒マタイは,地上におけるイエスの宣教に関する霊感を受けた記録の中で,その問いに答えています。マタイはその宣教の初めごろのことについて,こう述べています。「ナザレを去ってから,[イエスは]ゼブルンとナフタリの地域にある海辺のカペルナウムに来て住まわれた。これは,預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。こう言われていた。『ゼブルンの地とナフタリの地,海の道路ぞい,ヨルダンの向こう側,諸国民のガリラヤよ,闇に座する民は大いなる光を見,死のような陰の地方に座する者には,光がその上に昇った』」。―マタイ 4:13-16。
16 それで,イザヤが予告した「後の時」とは,キリストが地上で宣教を行なった時のことです。イエスは地上での生涯の大半をガリラヤで過ごしました。宣教を開始し,「天の王国は近づいた」と宣明し始めたのも,ガリラヤ地域でした。(マタイ 4:17)イエスはガリラヤで,有名な山上の垂訓を与え,使徒たちを選び,最初の奇跡を行ない,復活後には500人ほどの追随者たちに現われました。(マタイ 5:1–7:27; 28:16-20。マルコ 3:13,14。ヨハネ 2:8-11。コリント第一 15:6)このように,イエスは「ゼブルンの地とナフタリの地」に誉れを与えることによってイザヤの預言を成就しました。言うまでもなく,イエスは宣教の対象をガリラヤの人々に限ったわけではありません。イエスは良いたよりを全土で宣べ伝えることにより,ユダを含むイスラエル国民全体に「誉れを受けさせ」ました。
「大いなる光」
17 「大いなる光」はどのようにガリラヤで照り輝きますか。
17 では,マタイが言及したガリラヤの「大いなる光」についてはどうでしょうか。それもイザヤの預言からの引用でした。イザヤはこう書いていました。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。深い陰の地に住んでいた者たちには,光がその上に照り輝いた」。(イザヤ 9:2)西暦1世紀には,真理の光は異教の偽りの教えに覆い隠されていました。ユダヤ教の宗教指導者たちは,自分たちの宗教上の伝統に固執することによって問題を増やし,そうした伝統により「神の言葉を無にして」いました。(マタイ 15:6)謙遜な人たちは虐げられ,「盲目の案内人」に従って道に迷っていました。(マタイ 23:2-4,16)メシアであるイエスが登場すると,多くの謙遜な人たちの目は驚くべき仕方で開かれました。(ヨハネ 1:9,12)イエスが地上にいる間に行なわれた業と,イエスの犠牲の結果としてもたらされる祝福は,イザヤの預言の中で,特徴をとらえて適切にも「大いなる光」と呼ばれています。―ヨハネ 8:12。
18,19 その光に反応した人たちには,大いに歓ぶどんな理由がありましたか。
18 その光に反応した人々には,歓ぶ理由が大いにありました。イザヤはこう続けています。「あなたはその国民を多くし,国民のために歓びを大いなるものとされた。彼らは収穫の時に歓ぶように,分捕り物を分けるときの喜びに満ちた者たちのように,あなたのみ前で歓んだ」。(イザヤ 9:3)イエスとその追随者たちの伝道活動の結果,心の正直な人々は積極的にこたえ応じ,霊と真理をもってエホバを崇拝したいと願っていることを示しました。(ヨハネ 4:24)4年もたたないうちに大勢の人がキリスト教を信奉するようになり,西暦33年のペンテコステの日には約3,000人がバプテスマを受けました。そのしばらく後には,「男の数はおよそ五千人に」なりました。(使徒 2:41; 4:4)弟子たちが熱心に光を反映してゆくにつれ,「弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけ」,「非常に大勢の祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るように」なりました。―使徒 6:7。
19 豊作を歓ぶ人たち,あるいは大勝利の後で高価な戦利品の分配に喜ぶ人たちのように,イエスの追随者たちはそうした増加を歓びました。(使徒 2:46,47)やがてエホバは,その光が諸国民の間でも照り輝くようにされました。(使徒 14:27)そのようにして,あらゆる人種の人々が,エホバに近づく道が自分たちに開かれたことを歓びました。―使徒 13:48。
「ミディアンの日に行なわれたように」
20 (イ)ミディアン人はどんなことを行なってイスラエルの敵であることを示しましたか。エホバはミディアン人による脅威をどのように終わらせましたか。(ロ)将来の「ミディアンの日」に,イエスは神の民の敵による脅威をどのように終わらせますか。
20 続くイザヤの言葉が示すとおり,メシアの活動の効果はいつまでも続きます。「あなた(は),彼らの荷のくびきとその肩のむち棒を,彼らを仕事に追い立てる者の杖を,ミディアンの日に行なわれたようにみじんに砕かれた」。(イザヤ 9:4)イザヤの時代より何世紀か前に,ミディアン人はモアブ人と共謀し,イスラエルを誘惑して罪を犯させようとしました。(民数記 25:1-9,14-18; 31:15,16)後に,ミディアン人は7年にわたってイスラエルの村々や農地を襲って略奪し,人々を恐怖に陥れました。(裁き人 6:1-6)しかし,その時エホバは,ご自分の僕ギデオンを用いてミディアンの軍勢を敗走させました。その「ミディアンの日」以降,エホバの民が再びミディアン人の手にかかって苦しんだことを示す証拠はありません。(裁き人 6:7-16; 8:28)近い将来,大いなるギデオンであるイエス・キリストは,エホバの民の現代の敵たちに致命的な打撃を加えます。(啓示 17:14; 19:11-21)その時,「ミディアンの日に行なわれたように」,人間の武勇によらずエホバの力によって,永続する完全な勝利がもたらされます。(裁き人 7:2-22)神の民が圧制的なくびきの下で苦しむことは二度とありません。
21 戦争が将来どうなるかに関して,イザヤの預言はどんなことを示していますか。
21 神の力を示すことは,戦争をたたえることとは違います。復活したイエスは平和の君であり,敵たちを滅ぼし尽くすことにより,とこしえの平和を招来します。ここでイザヤは,兵士の装備がことごとく火で焼き尽くされることについて,「身震いしながら踏みにじる者のすべての長ぐつと,血にまみれたマントとは,火のための糧として焼かれるものとなったからである」と述べます。(イザヤ 9:5)行進する兵士たちが長靴を踏み鳴らすときの地面の震動が感じられることは二度とありません。戦闘慣れした非情な戦士たちの血まみれの軍服を目にすることも,もうありません。もはや戦いはないのです。―詩編 46:9。
「くすしい助言者」
22 イザヤ書の中で,イエスはどんな預言的な名で呼ばれていますか。
22 メシアとなるべく生まれた方は,その奇跡的な誕生の際に,「エホバは救い」という意味のイエスと名づけられました。しかし,その方にはほかにも名前が,つまり,その方の重要な役割や高められた地位を概略的に示す預言的な名が幾つかあります。そうした名の一つは,「わたしたちと共に神がおられる」という意味のインマヌエルです。(イザヤ 7:14,脚注)イザヤはここで,ほかの預言的な名についてこう述べています。「わたしたちのためにひとりの子供が生まれ,わたしたちにひとりの男子が与えられた……。君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は,“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの父”,“平和の君”と呼ばれるであろう」。(イザヤ 9:6)これらの預言的な名の持つ深い意味について考えてみましょう。
23,24 (イ)イエスはどんな点で「くすしい助言者」ですか。(ロ)今日のクリスチャンの助言者たちはどのようにイエスの手本に倣えますか。
23 助言者とは助言や忠告を与える人のことです。イエス・キリストは地上にいた時,くすしい助言を与えました。聖書は,「群衆はその教え方に驚き入っていた」と述べています。(マタイ 7:28)イエスは,感情移入をする賢明な助言者であり,人間の本性に関する並外れた理解を持っておられます。その助言は,譴責したり懲戒したりすることだけに限られてはいません。それよりも,教訓や愛ある忠告の形で与えられることのほうが多くあります。イエスの助言がくすしいと言えるのは,それがいつも賢明で,完ぺきで,誤りのないものだからです。その助言に従うなら,永遠の命に導かれます。―ヨハネ 6:68。
24 イエスの助言は,単なる才気あふれる知性の所産ではありません。むしろイエスは,「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです」と述べておられます。(ヨハネ 7:16)ソロモンの場合と同様,イエスの知恵の源はエホバ神です。(列王第一 3:7-14。マタイ 12:42)イエスの模範を考えると,クリスチャン会衆内の教える者や助言者たちは,常に神の言葉に基づいた教訓を与えるようにしたいと思うはずです。―箴言 21:30。
「力ある神」また「とこしえの父」
25 「力ある神」という名から,天のイエスに関してどんなことが分かりますか。
25 イエスは「力ある神」また「とこしえの父」でもあります。これは,イエスが,「わたしたちの父なる神」エホバの権威や地位を奪うという意味ではありません。(コリント第二 1:2)「彼[イエス]は……強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした」。(フィリピ 2:6)イエスは,全能の神とではなく,力ある神と呼ばれています。イエスは自分が全能の神であるとは一度も考えませんでした。み父のことを「唯一まことの神」,つまり崇拝されるべき唯一の神と呼んでいるとおりです。(ヨハネ 17:3。啓示 4:11)聖書中で,「神」という語は「力ある者」あるいは「強い者」を意味する場合があります。(出エジプト記 12:12。詩編 8:5。コリント第二 4:4)イエスは地上に来る前,「神[God]の形で存在して」いる「神[a god]」でしたが,復活後は天に戻り,より高い地位に就きました。(ヨハネ 1:1。フィリピ 2:6-11)さらに,「神」という名称には別の意味合いもあります。イスラエルで裁きを行なう人たちは「神」と呼ばれており,一度はイエス自身もその呼び方を用いました。(詩編 82:6。ヨハネ 10:35)イエスはエホバの任命を受けた裁き主であり,「生きている者と死んだ者とを裁くように定められて」います。(テモテ第二 4:1。ヨハネ 5:30)確かに,イエスは力ある神という名を持つにふさわしいと言えます。
26 イエスを「とこしえの父」と呼べるのはなぜですか。
26 「とこしえの父」という称号は,地上でのとこしえの命の見込みを人間に与える,メシアなる王としての力と権威に注意を引きます。(ヨハネ 11:25,26)わたしたちの最初の親アダムが遺産として残したものは死でしたが,最後のアダムであるイエスは『命を与える霊になり』ました。(コリント第一 15:22,45。ローマ 5:12,18)とこしえの父であるイエスは永久に生きるので,従順な人類は父親としてのイエスの働きからとこしえに益を受けます。―ローマ 6:9。
「平和の君」
27,28 「平和の君」の臣民には,現在も将来も,どんなすばらしい益がもたらされますか。
27 人間には永遠の命だけでなく,神および仲間の人間との平和も必要です。今日でさえ,「平和の君」の支配に服する人々は『その剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えて』きました。(イザヤ 2:2-4)そうした人々は,政治的,地域的,人種的,経済的な相違のために憎しみを抱くことはありません。唯一まことの神エホバの崇拝において一致しており,会衆の内外を問わず,隣人との平和な関係を維持するよう努めています。―ガラテア 6:10。エフェソス 4:2,3。テモテ第二 2:24。
28 神のご予定の時にキリストは地上に平和を確立し,それは全地球的な,堅く立てられた恒久的な平和となります。(使徒 1:7)こう書かれています。「ダビデの王座とその王国の上にあって,君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない。それは,今より定めのない時に至るまで,公正と義とによってこれを堅く立て,支えるためである」。(イザヤ 9:7前半)イエスは平和の君としての権威を行使する際に,専制的な手段に訴えることはありません。イエスの臣民が自由意志を奪われ,力ずくで押さえつけられることはありません。むしろ,何であれイエスが成し遂げることは,「公正と義とによって」行なわれます。何とすがすがしい変化が生じるのでしょう。
29 永遠の平和という祝福を受けたいなら,何をすべきですか。
29 イエスの預言的な名の持つすばらしい意味合いを考えると,預言のこの部分の結びとしてイザヤが述べる言葉に本当に胸が躍ります。こう書かれています。「実に万軍のエホバの熱心がこれを行なう」。(イザヤ 9:7後半)そうです,エホバは熱心さを抱いて行動されます。中途半端な態度で物事を行なわれることはありません。わたしたちは,何であれエホバが約束される事柄は完全に成し遂げられると確信できます。ですから,永遠の平和を楽しむことを切望する人はみな,心を込めてエホバに仕えましょう。エホバ神および平和の君であるイエスと同様,神の僕すべてが「りっぱな業に熱心」でありますように。―テトス 2:14。
[脚注]
b イザヤ 8章20節の「この言葉」という表現は,イザヤ 8章19節で引用されている心霊術に関する言葉を指しているとも考えられます。もしそうであるなら,イザヤが述べているのは,ユダで心霊術を奨励している者たちは霊媒に問い合わせるよう他の人たちを促しつづけ,そのためエホバからの啓発を受けられない,ということになります。
c ソロモン王がティルスの王ヒラムに提供したガリラヤの20の都市にはイスラエル人ではない人々が住んでいたのではないか,という説があります。―列王第一 9:10-13。
[122ページの地図/図版]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
コラジン
ベツサイダ
カペルナウム
ゲネサレの平原
ガリラヤの海
マガダン
ティベリア
ヨルダン川
ガダラ
ガダラ
[119ページの図版]
カインとイエスの誕生はどちらもまさに特別なものだったが,幸福をもたらしたのはイエスの誕生だけだった
[121ページの図版]
パンの飢えや水の渇きよりはるかに深刻な飢きんが臨む
[127ページの図版]
イエスは地の光だった