-
神の平和の使者として仕えるものみの塔 1997 | 1月15日
-
-
「平和を言い広める者……の足は,山々の上にあって何と麗しいのだろう」― イザヤ 52:7。
1,2 (イ)イザヤ 52章7節で予告されたとおり,どんな良いたよりが言い広められるべきですか。(ロ)イザヤの預言の言葉は,古代イスラエルの場合,何を意味していましたか。
ふれ告げるべき良いたよりがあります! それは,平和,真の平和のたよりです。それは,神の王国と関係のある救いに関する音信です。遠い昔,預言者イザヤはそれについて書き,その言葉はわたしたちのためにイザヤ 52章7節に保存されてきました。こう記されています。「良いたよりを携えて来る者,平和を言い広める者,より良いことについての良いたよりを携えて来る者,救いを言い広める者,『あなたの神は王となった!』とシオンに言う者の足は,山々の上にあって何と麗しいのだろう」。
2 エホバは古代イスラエルの益,また今日のわたしたちの益のために,ご自分の預言者イザヤに霊感を与えてその音信を記録させました。それは何を言わんとしているのでしょうか。イザヤがそれらの言葉を書き記した時,北のイスラエル王国はすでにアッシリア人によって流刑に処されていたかもしれません。南のユダ王国の住民もいずれはバビロンへ流刑にされることになっていました。当時はその国民にとって心痛と騒乱の時代でした。民がエホバに従順でなく,それゆえに神と平和な関係になかったからです。エホバがお告げになったとおり,民の罪深い行ないのゆえに民と神との間に分裂が生じていました。(イザヤ 42:24; 59:2-4)しかし,エホバはイザヤを通して,定めの時にバビロンの城門が大きく開かれることを予告されました。神の民は自由になって故国に帰還し,そこにエホバの神殿を再建することになります。シオンは復興し,まことの神の崇拝が再びエルサレムで行なわれるのです。―イザヤ 44:28; 52:1,2。
3 イスラエルの回復に関する約束は,どうして平和の預言でもあったと言えますか。
3 救出に関するこの約束は,平和の預言でもありました。イスラエル人がエホバから与えられた土地に回復させられるということは,神の憐れみと民の悔い改めの証拠となります。それは民が神と平和な関係にあることを示すものとなるのです。―イザヤ 14:1; 48:17,18。
「あなたの神は王となった!」
4 (イ)西暦前537年に,どのような意味で『エホバは王となった』と言えましたか。(ロ)エホバはその後の何年もの間,ご自分の民のためにどのように物事を動かされましたか。
4 西暦前537年にエホバがこの救出を行なわれた時,シオンに向かって,「あなたの神は王となった!」と発表するのはふさわしいことでした。もちろん,エホバは「とこしえの王」です。(啓示 15:3)しかし,ご自分の民のこの救出は,神の主権の新たな表明でした。それは,その時までに存在した最強の人間の帝国をさえ凌駕するエホバの力の優越性をはっきり実証するものでした。(エレミヤ 51:56,57)神の民に対する他の陰謀も,エホバの霊の働きの結果,くじかれました。(エステル 9:24,25)エホバは主権者としてのご自分の意志を遂行するに当たり,メディア-ペルシャの王たちに協力させるため,繰り返し様々な方法で事態に介入されました。(ゼカリヤ 4:6)その時代に起きた数々の驚嘆すべき出来事は,わたしたちのために聖書のエズラ,ネヘミヤ,エステル,ハガイ,ゼカリヤの各書に記録されています。それを読み返すと,本当に信仰が鼓舞されます。
5 イザヤ 52章13節から53章12節では,どんな重要な出来事が指し示されていますか。
5 しかし,西暦前537年およびその後に生じた事柄は,単なる始まりにすぎませんでした。イザヤは,52章に記した回復の預言のすぐあとに,メシアの到来について書いています。(イザヤ 52:13–53:12)エホバは,西暦前537年に起きたものよりはるかに重要な救出と平和に関する音信を,イエス・キリストとなられたそのメシアによって用意してくださるのです。
-
-
神の平和の使者として仕えるものみの塔 1997 | 1月15日
-
-
14 良いたよりを宣明する者の「足」は「麗しい」という言葉は,どのように真実となりましたか。
14 もちろん,すべての人がクリスチャンの伝道者を親切に迎えたわけではありません。それでも,パウロがイザヤ 52章7節から引用した言葉は真実でした。パウロは,「遣わされたのでなければ,どうして宣べ伝えるでしょうか」と問いかけたあと,「『良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろう』と書かれているとおりです」と述べました。わたしたちはほとんどだれも,自分の足のことを麗しいとか美しいとは考えません。では,これは何を言わんとしているのでしょうか。人は,他の人に宣べ伝えるために出かけるとき,普通,歩いて行きます。その足は,実際にはその人を表わします。そして,使徒たちや1世紀のイエス・キリストの他の弟子たちから良いたよりを聞いた多くの人にとって,それら初期のクリスチャンは本当に麗しく見えたに違いありません。(使徒 16:13-15)それだけでなく,それらのクリスチャンは神の目から見て貴重でした。
-