第14章
エホバはご自分のメシアなる僕を高める
1,2 (イ)西暦1世紀の初めごろに多くのユダヤ人が直面した状況を,例えで説明してください。(ロ)エホバは,忠実なユダヤ人がメシアを見分ける助けとして,どんな備えを設けておられましたか。
あなたが,要職にある高官と会見することになっているとしましょう。会見の日時と場所は決まっています。ところが,一つ問題があります。あなたはその人の容姿を知らず,しかもその人は人目を引かない控えめなかたちでやって来ます。どうしたら見分けられるでしょうか。その人に関する詳細な情報があれば助かるでしょう。
2 西暦1世紀の初めごろ,多くのユダヤ人はそれと似た状況に直面しました。メシアを,つまり歴史上最も重要な人物を待ち設けていたのです。(ダニエル 9:24-27。ルカ 3:15)しかし,忠実なユダヤ人はどのようにしてメシアを見分ければよいのでしょうか。エホバは,ヘブライ人の預言者たちを用いて,メシアに関する物事を詳細に記述した文書を用意しておられました。それによって,明敏な人々は間違いなくメシアを特定することができるのです。
3 イザヤ 52章13節から53章12節までには,メシアに関するどんな記述が収められていますか。
3 メシアに関するヘブライ語の預言のうち,イザヤ 52章13節から53章12節までに記録されているものほど明確な描写はほかにないと言えます。イザヤは700年以上も前もって,メシアの身体的な外見ではなく,もっと重要な詳細を記述しました。すなわち,メシアの苦しみの目的とその様子,また死と埋葬,および高められることについての細かな記述です。その預言と成就について考察するなら,心が温まるとともに,信仰も強められるでしょう。
「わたしの僕」― それはだれか
4 「僕」の実体に関して,ユダヤ人の学者たちはどんな説を唱えてきましたか。しかし,そうした説はイザヤの預言と合致しない,と言えるのはなぜですか。
4 イザヤは,ユダヤ人がバビロンでの流刑から解き放たれることについて述べたばかりですが,今度は,それよりはるかに大きな物事が生じることを見越し,エホバの言葉をこう記録しています。「見よ,わたしの僕は洞察力をもって行動する。彼は高い地位に就き,必ず上げられ,大いに高められる」。(イザヤ 52:13)この「僕」とは一体だれでしょうか。長年にわたり,ユダヤ人の学者たちは様々な意見を唱えてきました。例えば,その僕はバビロンでの流刑期間中のイスラエル国民全体を表わしている,という説があります。しかし,そのような説明はこの預言と合致しません。神の“僕”は,苦しみを甘んじて受けます。自らは罪がないのに,他の人々の罪のために苦しみを忍ぶのです。これが,自らの罪深い歩みのゆえに流刑に処されたユダヤ国民に当てはまる,と考えるのは無理があります。(列王第二 21:11-15。エレミヤ 25:8-11)一方,この“僕”はイスラエルの信心深いエリート集団を表わしており,その人たちは罪深いイスラエル人の身代わりとなって苦しんだ,という説もあります。しかし,イスラエルの苦悩の時期に,特定のグループが別のグループの代わりに苦しむことはありませんでした。
5 (イ)一部のユダヤ人学者は,イザヤの預言をどのように適用しましたか。(脚注をご覧ください。)(ロ)聖書の「使徒たちの活動」の書は,“僕”の実体をどのように明確にしていますか。
5 キリスト教の誕生前,そしてある程度は西暦紀元後の幾世紀かにわたり,一部のユダヤ人学者は,この預言をメシアに適用しました。その適用が正しいことは,クリスチャン・ギリシャ語聖書から分かります。「使徒たちの活動」の書によれば,エチオピアの宦官が,イザヤの預言した“僕”がだれなのか分からないと言った時,フィリポは「イエスについての良いたよりを彼に告げ知らせ」ました。(使徒 8:26-40。イザヤ 53:7,8)同様に聖書の他の書も,イエス・キリストがイザヤの預言したメシアなる“僕”であることを示しています。a この預言を調べてゆくと,エホバが「わたしの僕」と呼んでいる者とナザレのイエスとの紛れもない類似点を認めることができます。
6 イザヤの預言は,メシアが神のご意志を遂行する点で成功を収めることをどのように示していますか。
6 この預言はまず,神のご意志を遂行する点でメシアが最終的に成功を収めることを述べています。「僕」という語が示すとおり,メシアは,僕が主人の意志に服すのと同じように,神のご意志に服します。そうする際,メシアは「洞察力をもって行動」します。洞察力とは,事態を見通す能力のことです。洞察力をもって行動するとは,思慮深く行動することです。ここで用いられているヘブライ語動詞について,ある参考文献は,「この語の核心をなしているのは,慎重な思考と賢明な対処である。賢明に対処する者は成功を収める」と述べています。メシアが確かに成功を収めることは,彼が「必ず上げられ,大いに高められる」と預言が述べていることからも分かります。
7 イエス・キリストはどのように「洞察力をもって行動」しましたか。どのように『上げられ,大いに高められて』きましたか。
7 イエスはまさに「洞察力をもって行動」しました。自分に当てはまる聖書預言を理解していることを示し,またそれに導かれて,み父のご意志を行なったのです。(ヨハネ 17:4; 19:30)その結果,どうなったでしょうか。イエスの復活と昇天の後,「神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名に勝る名を進んでお与えに」なりました。(フィリピ 2:9。使徒 2:34-36)そして1914年,栄光に輝くイエスはさらに高く上げられました。エホバによって高められ,メシア王国の王座に就けられたのです。(啓示 12:1-5)そうです,イエスは『上げられ,大いに高められた』のです。
『驚いて彼を見つめる』
8,9 高められたイエスが裁きを執行するために来る時,地上の支配者たちはどう反応しますか。なぜですか。
8 諸国民とその支配者たちは,高められたメシアに対してどう反応するでしょうか。14節後半の注釈的挿入句は後で取り上げるので飛ばして読むと,預言にはこうあります。「多くの者が驚いて彼を見つめたように……彼も同様に多くの国の民を驚かす。彼のことで王たちは口を閉ざす。彼らは自分たちに詳しく話されていなかったことを実際に見,自分たちの聞いていなかったことを考慮しなければならないからである」。(イザヤ 52:14前半,15)イザヤがこう述べて描写しているのは,メシアが最初に登場する時のことではなく,地上の支配者たちと最終的に対決する時のことです。
9 高められたイエスがこの不敬虔な事物の体制に裁きを執行するために来る時,地上の支配者たちは「驚いて彼を見つめ」ます。もちろん,単なる人間にすぎない支配者たちが,栄光に輝くイエスを文字どおりに見ることはありません。しかし彼らは,エホバの天の戦士であるイエスの力を示す,肉眼で見える証拠を見るでしょう。(マタイ 24:30)イエスが神の裁きの執行者であるという,宗教指導者からは詳しく聞かされていなかった事柄を考慮しなければならなくなるのです。彼らが遭遇する高められた“僕”は,彼らの予期しなかった仕方で行動します。
10,11 1世紀においてイエスはどのように醜くされたと言えますか。同様のことが,今日でもどのように行なわれていますか。
10 14節の注釈的挿入の箇所で,イザヤはこう述べています。「その外見の点では他のだれよりも,その堂々たる姿の点では人間の子らよりもはるかに醜いものとされた」。(イザヤ 52:14後半)イエスは身体的に何らかの点で醜かったのでしょうか。そうではありません。聖書はイエスの容姿について詳細を述べてはいませんが,神の完全なみ子が好ましい外見と容貌の持ち主だったことは間違いありません。イザヤの言葉は,イエスが経験した恥辱について述べているものと思われます。イエスは,当時の宗教指導者たちが偽善者,偽り者,殺人者であることを大胆に暴き,それに対して宗教指導者たちはイエスをののしりました。(ペテロ第一 2:22,23)イエスを,律法違反者,冒とく者,詐欺師,ローマに対する反乱を扇動する者として訴えたのです。こうして,それら偽りの訴えを行なう者たちは,イエスの人物像を全く醜いものとしました。
11 今日でも,イエスは誤り伝えられています。大半の人は,イエスと言えば,飼い葉おけの中の赤子か,十字架にくぎづけにされ,いばらの冠をかぶせられて苦痛に顔をゆがめる悲劇の主人公を思い浮かべます。キリスト教世界の僧職者は,そのようなイメージを広めてきました。イエスを,諸国民がやがて言い開きをしなければならない強大な天の王としては示してこなかったのです。人間である支配者たちは,近い将来,高められたイエスと対決する時,「天と地におけるすべての権威」を有するメシアを相手にしなければならないのです。―マタイ 28:18。
この良いたよりにだれが信仰を置くか
12 イザヤ 53章1節の言葉から,興味をそそるどんな質問が生じますか。
12 イザヤは,「醜い」者から『大いに高められた』者へとメシアが驚くべき変容を遂げることについて述べた後,こう問いかけています。「わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか」。(イザヤ 53:1)イザヤのこの言葉から,興味をそそる次の質問が生じます。この預言は成就するのだろうか。力を行使する神の能力を表わす「エホバの腕」は現われ出て,この言葉を実現させるのだろうか。
13 パウロは,イザヤの預言がイエスに成就したことをどのように示しましたか。当時の人々はどう反応しましたか。
13 そうなることに疑問の余地はない,というのが答えです。パウロは,ローマ人にあてた手紙の中でイザヤの言葉を引用し,イザヤが聞いて記録した預言がイエスに実現したことを示しています。イエスが地上で苦しみを忍んだ後に栄光を受けたことは良いたよりでした。「しかしながら」とパウロは述べ,不信者のユダヤ人に関してこう言います。「すべての人が良いたよりに従ったのではありません。イザヤは,『エホバよ,わたしたちから聞いた事柄にだれが信仰を置いたでしょうか』と言っているからです。ですから,信仰は聞く事柄から生じるのです。一方,聞く事柄はキリストについての言葉によるのです」。(ローマ 10:16,17)とはいえ残念ながら,パウロの時代に神の“僕”に関する良いたよりに信仰を置いた人はごく少数でした。なぜでしょうか。
14,15 メシアは,背景となるどんな状況のもとで地上に登場しますか。
14 次いで預言は,1節に記されている質問の理由をイスラエル人に説明するとともに,多くの人がメシアを受け入れない理由に光を投じています。「彼は[観察者]の前に小枝のように,水なき地から出る根のように生じる。彼には堂々たる姿もなければ,光輝もない。わたしたちが彼を見るとき,わたしたちに彼を望ましく思わせるような外見はない」。(イザヤ 53:2)ここでは,地上に登場するメシアの背景となる状況が描写されています。立場の低い者として生まれ育つことになっており,観察者の目から見れば,たいした人物になるとは思えないでしょう。さらにメシアは,木の幹や枝から生えるただの小枝,またはか弱い若木のようになります。また,乾いてやせた土の中で水がなければ枯れてしまう根のようでもあります。王族の長い衣やきらめく冠など,王者たる華やかさと光輝を帯びて到来するわけではありません。むしろ,つつましく,派手なところのない者として生まれ育つことになっています。
15 こうして,イエスが立場の低い人間として生活を始めることが実に的確に描写されています。ユダヤ人の処女マリアは,ベツレヘムという小さな町の馬小屋でイエスを産みました。b (ルカ 2:7。ヨハネ 7:42)マリアと夫のヨセフは裕福ではありませんでした。二人はイエスの誕生から40日ほど後に,「やまばと一組もしくは若いいえばと二羽」という,貧しい人に許された罪の捧げ物を携えて来ました。(ルカ 2:24。レビ記 12:6-8)やがて,マリアとヨセフはナザレに居を定め,イエスはそこで大家族の一員として成長しました。暮らし向きは質素なものだったことでしょう。―マタイ 13:55,56。
16 イエスには「堂々たる姿」も「光輝」もなかったと,どうして言えますか。
16 人間としてのイエスは,ふさわしい土に根を下ろしたようには見えませんでした。(ヨハネ 1:46; 7:41,52)完全な人間であり,ダビデ王の子孫であったにもかかわらず,つつましい暮らしをしていたイエスには,「堂々たる姿」も「光輝」もありませんでした。少なくとも,メシアにもっと印象的な背景を期待していた人々の目にはそう見えたのです。ユダヤ人の宗教指導者に扇動された多くの人はイエスを見過ごし,さげすむまでになりました。結局のところ,群衆は神の完全なみ子に,望ましいところを何も見いだせなかったのです。―マタイ 27:11-26。
『さげすまれ,人々に避けられる』
17 (イ)イザヤは何を記述し始めますか。完了したかたちで書いているのはなぜですか。(ロ)イエスを『さげすみ』,『避けた』のはだれですか。どのようにそうしましたか。
17 次いでイザヤは,メシアがどうみなされ,どう扱われるかを詳細に記述し,こう述べます。「彼はさげすまれ,人々に避けられ,痛みと病を親しく知ることとに定められた人であった。そして,わたしたちから顔を覆い隠すことがなされているかのようであった。彼はさげすまれ,わたしたちは彼を取るに足りない者とみなした」。(イザヤ 53:3)イザヤは自分の言葉が実現することを確信しているので,あたかもすでに成就したかのように完了したかたちで書いています。イエス・キリストは本当にさげすまれ,人々に避けられたでしょうか。確かにそうです。独善的な宗教指導者とその追随者たちは,イエスを最もいとうべき人間とみなし,収税人や娼婦たちの友と呼びました。(ルカ 7:34,37-39)イエスの顔につばをかけ,こぶしで殴りつけてあざけり,ばかにして冷笑を浴びせました。(マタイ 26:67)これら真理の敵たちの影響を受け,イエスの「民は彼を迎え入れ」ませんでした。―ヨハネ 1:10,11。
18 イエスは病気になることがなかったのに,どうして「痛みと病を親しく知ることとに定められた人」であったと言えますか。
18 完全な人間であったイエスは,病気になることはありませんでした。それでもイエスは,「痛みと病を親しく知ることとに定められた人」でした。そうした痛みと病はイエス自身のものではありません。イエスは天から,病に満ちた世界にやって来ました。苦しみと痛みに囲まれて生活しましたが,身体的あるいは霊的に病んでいる人々を退けたりはしませんでした。思いやりのある医者のように,周囲の人々の苦しみを非常に親しく知るようになりました。その上,普通の人間の医者には不可能な事まで行なえました。―ルカ 5:27-32。
19 だれの顔が『覆い隠され』ましたか。イエスに敵する者たちは,イエスを『取るに足りない者とみなしている』ことをどのように表わしましたか。
19 それにもかかわらず,イエスに敵する者たちはイエスを病んでいる者とみなし,好意的に見ようとはしませんでした。イエスの顔は見えないように『覆い隠され』ましたが,それはイエスが自分の顔を隠したからではありません。「新英訳聖書」はイザヤ 53章3節を訳すにあたり,「人々が目をそむけるもの」という言い回しをしています。イエスの反対者たちはイエスを嫌うあまり,事実上,見るも忌まわしいかのように顔をそむけたのです。イエスには奴隷の代価ほどの価値しかないとみなしました。(出エジプト記 21:32。マタイ 26:14-16)イエスを,殺人者バラバよりも軽く見ました。(ルカ 23:18-25)イエスを見下げていたことの表われとして,それよりひどい仕打ちが考えられるでしょうか。
20 イザヤの言葉から,今日のエホバの民はどのように力づけられますか。
20 今日のエホバの僕たちは,イザヤの言葉から大いに力づけられます。時折,反対者たちがエホバの忠実な崇拝者を軽んじたり,取るに足りない者のように扱ったりすることがあります。それでも,イエスの場合と同様,本当に重要なのはエホバ神がどう評価してくださるかです。結局のところ,人々が『イエスを取るに足りない者とみなした』からといって,神の目にイエスが高く評価されていることには変わりがなかったのです。
『わたしたちの違犯のために刺し通された』
21,22 (イ)メシアは人々の代わりに何を担い,何を負いましたか。(ロ)多くの人はメシアをどうみなしましたか。苦しみが頂点に達した時,メシアはどうなりましたか。
21 メシアはなぜ苦しみを受け,死ななければならなかったのでしょうか。イザヤはこう説明しています。「まことに,わたしたちの病は彼が担い,わたしたちの痛みは彼が負ったのである。しかし,わたしたちは彼を災厄に遭い,神に撃たれ,苦しみを受けた者とみなした。しかし,彼はわたしたちの違犯のために刺し通され,わたしたちのとがのために打ち砕かれるのであった。わたしたちの平安のための懲罰が彼に臨み,彼の傷ゆえにわたしたちのためのいやしがあった。わたしたちは羊のように皆さまよい,それぞれ自分の道に向かった。エホバは,わたしたちすべての者のとががその者に出会うようにされた」。―イザヤ 53:4-6。
22 メシアは人々の病を担い,人々の痛みを負いました。いわば,人々の重荷を持ち上げ,自分の肩に載せて担ったのです。さらに,病と痛みは人類の罪ある状態の結果ですから,メシアは人々の罪も担ったのです。多くの人はイエスの苦しむ理由を理解せず,神がイエスを罰し,忌まわしい疾患をもって災厄に遭わせているのだと考えました。c 苦しみが頂点に達した時,メシアは刺し通され,打ち砕かれ,傷つきました。これらの強烈な表現は,残酷で苦痛の伴う死を示唆しています。とはいえ,メシアの死には贖いの効力があります。その死は,とがと罪のうちにさまよう人々を回復させ,神との平和を見いだすよう助けるための根拠となるのです。
23 イエスはどのように人々の苦しみを負いましたか。
23 イエスはどのように人々の苦しみを負ったのでしょうか。マタイの福音書はイザヤ 53章4節を引用し,こう述べています。「人々は悪霊に取りつかれた者を大ぜい彼のところに連れて来た。それでイエスは言葉で霊たちを追い出し,具合いの悪い者すべてを治された。これは,預言者イザヤを通して,『彼は自らわたしたちの病を取り去り,わたしたちの疾患を担った』と語られたことが成就するためであった」。(マタイ 8:16,17)イエスは,様々な疾患をかかえて自分のもとに来た人たちを治すことにより,事実上,その人たちの苦しみを背負いました。そして,そうしたいやしはイエスの活力を消耗しました。(ルカ 8:43-48)イエスが,身体的また霊的なあらゆる病気をいやす力を持っていたことは,人々を罪から清める力も与えられていることの証拠でした。―マタイ 9:2-8。
24 (イ)多くの人の目に,イエスが神からの『災厄に遭って』いるかのように見えたのはなぜですか。(ロ)イエスが苦しみを受けて死んだのはなぜですか。
24 ところが多くの人の目には,イエスが神からの『災厄に遭って』いるかのように見えました。なにしろイエスは,尊敬を集めている宗教指導者たちの扇動のゆえに苦しみに遭ったのです。とはいえ,イエスが自分自身の罪のせいで苦しんだのではない,という点を忘れてはなりません。ペテロはこう述べています。「キリスト(は)あなた方のために苦しみを受け,あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残され(ました)。彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした。杭の上でわたしたちの罪をご自身の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです。そして,『彼の打ち傷によってあなた方はいやされました』」。(ペテロ第一 2:21,22,24)わたしたちは皆,かつては罪のうちに迷い,「さまよっていて,羊のよう」でした。(ペテロ第一 2:25)しかし,エホバはイエスを通して,罪深い状態から請け戻してくださいました。わたしたちのとががイエスと「出会う」ように,つまりイエスにかぶせられるようにしてくださったのです。罪のないイエスは,自ら進んでわたしたちの罪に対する刑を身に受けました。杭の上での恥ずべき死という不相応の苦しみを経験することにより,わたしたちが神と和解できるようにしてくださったのです。
『彼は苦しめられるままに任せた』
25 メシアが自ら進んで苦しみを受け,死んだということは,どうして分かりますか。
25 メシアは自ら進んで苦しみを受け,死んだのでしょうか。イザヤはこう述べています。「彼は激しい圧迫を受け,苦しめられるままに任せていた。彼はそれでも口を開こうとはしなかった。彼はほふり場に向かう羊のように連れて行かれ,毛を刈る者たちの前で黙っている雌羊のように,自分も口を開こうとはしなかった」。(イザヤ 53:7)生涯最後の夜にイエスは,望むなら「十二軍団以上のみ使い」を援軍として呼び寄せることもできました。しかし,「そのようにしたなら,必ずこうなると述べる聖書はどうして成就するでしょうか」と言いました。(マタイ 26:53,54)それだけでなく,「神の子羊」は全く抵抗しませんでした。(ヨハネ 1:29)ピラトの前で祭司長と年長者たちが虚偽の訴えを行なった時にも,イエスは「何の答えも」しませんでした。(マタイ 27:11-14)自分に対する神のご意志を果たす妨げになりかねない事柄は何も言いたくない,と考えていたのです。イエスは,自分の死によって従順な人々が罪と病と死から請け戻されることを十分承知しており,犠牲の子羊として死ぬ覚悟を決めていました。
26 イエスの反対者たちはどのように「拘束」を加えましたか。
26 次にイザヤは,メシアの苦しみと辱めに関するさらに詳細な点を挙げ,こう書いています。「拘束と裁きのゆえに彼は取り去られた。だれが彼の世代の詳細を思いに留めるだろうか。彼は生ける者たちの地から断たれたからである。彼はわたしの民の違犯のゆえにむち打たれた」。(イザヤ 53:8)イエスがついに敵たちに捕らえられた時,それら宗教上の反対者たちは,イエスを扱う際に「拘束」を加えました。憎しみを表わすのを控えたというのではなく,公正を拘束,つまり差し控えたのです。ギリシャ語「セプトゥアギンタ訳」はイザヤ 53章8節を訳すにあたり,「拘束」の代わりに「辱め」という語を用いています。イエスの敵たちは,普通の犯罪人にも与えられる公明正大な扱いを差し控えることにより,イエスを辱めました。イエスの審理は公正をあざ笑うかのようなものでした。どうしてそう言えますか。
27 ユダヤ人の宗教指導者たちは,イエスの審理を行なった時,どんな規定を無視しましたか。どんな点で神の律法を破りましたか。
27 イエスを除き去ろうと決めていたユダヤ人の宗教指導者たちは,自分たちの規定を破りました。伝承によると,死刑に値する事件の場合,サンヘドリンは,大祭司の家ではなく,神殿境内にある切り石の広間で審理を行なわなければなりませんでした。そうした審理は日中に開かねばならず,日没後には開けませんでした。そして,死刑に値する事件の場合,有罪の裁定は審問終了の翌日に発表しなければならず,そのため,安息日の前日や祭りの前日には審理を開けませんでした。こうした規定すべてが,イエスの審理の場合には無視されたのです。(マタイ 26:57-68)さらに悪質なことに,宗教指導者たちはイエスの件を扱う際に,甚だしい仕方で神の律法を破りました。例えば,わいろを用いてイエスをわなにかけようとしました。(申命記 16:19。ルカ 22:2-6)偽証を行なう者の言葉を聞き入れました。(出エジプト記 20:16。マルコ 14:55,56)そして,一人の殺人犯の釈放を企てることにより,自分たちと自分たちの土地に血の罪をもたらしました。(民数記 35:31-34。申命記 19:11-13。ルカ 23:16-25)このように,「裁き」,つまり正当で公平な判決を下す公明正大な審理は行なわれなかったのです。
28 イエスに敵対した者たちは何を考慮しませんでしたか。
28 イエスに敵対した者たちは,自分たちの前で審理にかけられている人の本当の人物像を知るために調査を行なったでしょうか。イザヤも同様の問いかけをし,「だれが彼の世代の詳細を思いに留めるだろうか」と述べています。この「世代」という語は,人の系譜あるいは背景を指しているようです。イエスがサンヘドリンの前で審理にかけられた時,サンヘドリンの成員は,イエスの背景,つまりイエスが約束のメシアの必要条件を満たしているということを考慮しませんでした。それどころか,冒とくの罪でイエスを告発し,死に服すべき者という判決を下しました。(マルコ 14:64)後に,ローマ総督ポンテオ・ピラトは圧力に屈し,イエスを杭につけるという宣告を下しました。(ルカ 23:13-25)こうしてイエスは,わずか33歳半という人生の半ばで「断たれた」,つまり命を絶たれたのです。
29 イエスの埋葬はどのように「邪悪な者たちと共に」なり,「富んだ階級の者と共に」なりましたか。
29 次にイザヤは,メシアの死と埋葬に関してこう書いています。「暴虐を行なったこともなく,その口に欺きがなかったにもかかわらず,彼は自分の埋葬所を邪悪な者たちと共にし,死に際しては富んだ階級の者と共になる」。(イザヤ 53:9)死と埋葬に際して,イエスはどのように邪悪な者や富んだ者たちと共になったのでしょうか。西暦33年のニサン14日,イエスはエルサレムの城壁外の刑柱上で亡くなりました。イエスは二人の悪行者に挟まれる形で杭につけれらたので,埋葬所は邪悪な者たちと共になったと言えます。(ルカ 23:33)しかし,イエスの死後,アリマタヤの裕福な人ヨセフが勇気を奮い起こし,イエスの体を下ろして埋葬する許可をピラトに願い出ました。ヨセフは,ニコデモと共にイエスの体を埋葬のために整えた後,自分の所有する新しく掘り抜かれた墓に遺体を納めました。(マタイ 27:57-60。ヨハネ 19:38-42)こうして,イエスの埋葬所は富んだ階級の者と共にもなりました。
『エホバは彼を打ち砕くことを喜んだ』
30 どんな意味で,エホバはイエスを打ち砕くことを喜びとされましたか。
30 次にイザヤは,驚くべき事柄を述べます。「エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,その日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。その魂の難儀のゆえに,彼は見て,満ち足りる。義なる者,わたしの僕は,その知識のゆえに多くの人に義なる立場をもたらし,彼らのとがを自ら負うのである」。(イザヤ 53:10,11)この忠実な僕の打ち砕かれるのを見てエホバが喜ぶなどということが,どうしてあり得るのでしょうか。エホバが自ら,愛するみ子に苦しみをお与えになったのでないことは明らかです。イエスに行なった事柄について全面的に責任を負うべきなのは,イエスに敵対した者たち自身です。とはいえエホバは,彼らが残虐に行動するのをお許しになりました。(ヨハネ 19:11)なぜでしょうか。感情移入と優しい同情心に富む神は,罪のないみ子が苦しみに遭うのを見て痛みをお感じになったに違いありません。(イザヤ 63:9。ルカ 1:77,78)エホバが何らかの点でイエスに不興を覚えられたはずはありません。それでもエホバは,み子が自ら進んで苦しみに遭うことの結果としてもたらされるすべての祝福のゆえに,み子のその態度を喜びとされました。
31 (イ)エホバはどうしてイエスの魂を「罪科の捧げ物」として置きましたか。(ロ)人間として様々な難儀を経験したイエスは,特にどんなことに満ち足りているに違いありませんか。
31 祝福の一つとして,エホバはイエスの魂を「罪科の捧げ物」として置かれました。それゆえイエスは,天に戻った時,犠牲にした自らの人間の命の価値を罪科の捧げ物として携えてエホバのみ前に入り,エホバはその価値を全人類のために喜んで受け入れました。(ヘブライ 9:24; 10:5-14)イエスはその罪科の捧げ物により,「子孫」を得ました。「とこしえの父」であるイエスは,ご自分の流した血に信仰を働かせる人々に命を,それもとこしえの命を与えることができます。(イザヤ 9:6)人間なる魂として様々な難儀を味わったイエスは,人類を罪と死から救出できるという見込みに深く満ち足りているに違いありません。当然ながら,自分の忠誠によって,敵対者である悪魔サタンの嘲弄に対する答えを天の父に提出できることには,いっそう満ち足りているに違いありません。―箴言 27:11。
32 イエスはどんな「知識」のゆえに「多くの人に義なる立場を」もたらしますか。その立場を得るのはだれですか。
32 イエスの死の結果として得られる別の祝福は,イエスが「多くの人に義なる立場を」もたらすことであり,イエスは今でさえそうしています。イザヤは,イエスが「その知識のゆえに」そうすると述べています。この知識とは,イエスが人間となり,神への従順のゆえに不当な苦しみを忍んだことから学んだ知識であると思われます。(ヘブライ 4:15)死に至るまで苦しみを忍んだイエスは,それによって,人々に義なる立場を得させるのに必要な犠牲を備えることができました。その義なる立場を得るのはだれでしょうか。まず,イエスの油そそがれた追随者たちです。イエスの犠牲に信仰を働かせるがゆえに,エホバは,その人々を養子,またイエスと共同の相続人とするために義と宣します。(ローマ 5:19; 8:16,17)そして,「ほかの羊」の「大群衆」もイエスの流した血に信仰を働かせ,神の友またハルマゲドンの生存者となるために義なる立場を享受します。―啓示 7:9; 16:14,16。ヨハネ 10:16。ヤコブ 2:23,25。
33,34 (イ)エホバに関する,どんな心温まる事柄を学べますか。(ロ)メシアなる“僕”は,どんな「多くの者」の中で「受け分」を受けますか。
33 最後にイザヤは,メシアの勝利を描写しています。「それゆえに,わたしは多くの者の中で彼に受け分を与え,彼は力ある者たちと共に分捕り物を分け与えるであろう。それは彼が自分の魂を死に至るまでも注ぎ出したためであり,彼は違犯者と共に数えられた。彼は多くの人々の罪を自ら担い,違犯をおかす者たちのために仲裁に入ったのである」。―イザヤ 53:12。
34 イザヤの預言のこの部分の結びの言葉から,エホバに関する心温まる事柄を学べます。エホバはご自分に対して忠節を保つ者たちを高く評価されます。そのことは,メシアなる“僕”に『多くの者の中で受け分を与える』という約束に示されています。この言葉は,戦争の分捕り物を分配する習慣に由来しているようです。エホバは,ノアやアブラハムやヨブなど古代の「多くの」忠実な人々の忠節を認め,その人々のために,来たるべき新しい世における「受け分」を用意しておられます。(ヘブライ 11:13-16)同様に,メシアなる“僕”にも受け分をお与えになります。そうです,エホバはメシアの忠誠が報われないままにはしておかれません。わたしたちも,エホバが『わたしたちの働きと,み名に示した愛とを忘れたりは』されないことを確信できます。―ヘブライ 6:10。
35 イエスが分捕り物を分け合う「力ある者たち」とはだれですか。分捕り物とは何ですか。
35 神の“僕”は,敵対する者たちに対する勝利によっても戦争の分捕り物を得ます。そして,そうした分捕り物を「力ある者たち」と分け合います。成就において,「力ある者たち」とはだれでしょうか。それは,イエスと同じく世を征服する最初の弟子たち,つまり「神のイスラエル」の14万4,000人の市民です。(ガラテア 6:16。ヨハネ 16:33。啓示 3:21; 14:1)では,分捕り物とは何でしょうか。その中には,「人々の賜物」,つまりイエスがいわばサタンの配下からもぎ取ってクリスチャン会衆に与える人々も含まれるようです。(エフェソス 4:8-12)14万4,000人の「力ある者たち」には,別の分捕り物の受け分も与えられます。彼らは世に対して勝利を収めるので,神を嘲弄するいっさいの根拠をサタンから奪い取っているのです。エホバに対する彼らの破れることのない献身はエホバを高め,その心を歓ばせます。
36 イエスは,自分が神の“僕”に関する預言を成就していることを意識していましたか。説明してください。
36 イエスは,自分が神の“僕”に関する預言を成就していることを意識していました。捕縛された夜,イエスはイザヤ 53章12節の言葉を引用し,自分自身にこう適用しました。「あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならない(の)です。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。(ルカ 22:36,37)痛ましいことに,イエスはまさに不法な者が受けるような仕打ちを受けました。二人の強盗に挟まれる形で杭につけられ,律法違反者として処刑されたのです。(マルコ 15:27)それでも,自分が人々のために執り成しをしていることを深く認識していたイエスは,そうした非難を甘んじて受けました。いわば,罪人たちと災厄的な死の刑罰との間に立ち,その死の打撃を身に受けたのです。
37 (イ)イエスの生涯と死に関する歴史の記録により,どんなことが証明されますか。(ロ)わたしたちが,エホバ神と,その高められた“僕”イエス・キリストに感謝すべきなのはなぜですか。
37 イエスの生涯と死に関する歴史の記録により,イエス・キリストがイザヤの預言のメシアなる“僕”であることが,疑問の余地なく証明されます。わたしたちが罪と死から請け戻されるよう,み子が“僕”という預言的な役割を果たして苦しみを受けて死ぬのをエホバがお許しになったことに,わたしたちは心から感謝すべきではないでしょうか。エホバはそのようにして,わたしたちに対する深い愛を示してくださったのです。ローマ 5章8節は,「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」と述べています。さらにわたしたちは,死に至るまでも進んでご自分の魂を注ぎ出してくださった,高められた“僕”イエス・キリストにも心から感謝すべきです。
[脚注]
a J・F・ステニングの訳によると,ヨナタン・ベン・ウジエルのタルグム(西暦1世紀)はイザヤ 52章13節を,「見よ,わが僕,油そそがれた者(つまりメシア)は栄えん」と訳しています。バビロニア・タルムード(西暦3世紀ごろ)も同様に,「メシア ― その者の名は何か。……ラビの家の[者たちいわく],『彼まさしく我らの病を負えり』とあるごとく,[病みたる者なり]」と述べています。―サンヘドリン 98b; イザヤ 53:4。
c 「災厄に遭い」と訳されているヘブライ語は,らい病に関連しても用いられています。(列王第二 15:5)ある学者たちによれば,一部のユダヤ人はイザヤ 53章4節から,メシアはらい病人であろうという考えを引き出しました。バビロニア・タルムードはこの節をメシアに適用して,メシアを「らい病人である学者」と呼んでいます。カトリックの「ドウェー訳」は,ラテン語「ウルガタ訳」を反映して,この節を,「我らは彼をらい病人のごとく……思えり」と訳しています。
[212ページの図表]
エホバの僕
イエスはどのように役割を果たしたか
預言
出来事
成就
上げられ,高められる
使徒 2:34-36。フィリ 2:8-11。ペテ一 3:22
誤り伝えられ,信用を落とされる
マタ 11:19; 27:39-44,63,64。ヨハ 8:48; 10:20
多くの国の民を驚かす
人々は信じない
つつましく,派手なところのない人間として生活を始める
さげすまれ,退けられる
マタ 26:67。ルカ 23:18-25。ヨハ 1:10,11
わたしたちの病を担う
刺し通される
人々のとがのために苦しみに遭う
訴える者たちの前で黙し,苦情を言わない
マタ 27:11-14。マル 14:60,61。使徒 8:32,35
不公正な裁判を受け,有罪を宣告される
マタ 26:57-68; 27:1,2,11-26。ヨハ 18:12-14,19-24,28-40
富んだ者たちと共に埋葬される
魂が罪科の捧げ物として置かれる
義なる立場を得る道を多くの人に開く
罪人たちと共に数えられる
マタ 26:55,56; 27:38。ルカ 22:36,37
[203ページの図版]
『彼は人々にさげすまれた』
[206ページの図版]
『彼は口を開こうとはしなかった』
[クレジット]
Detail from "Ecce Homo" by Antonio Ciseri
[211ページの図版]
『彼は自分の魂を死に至るまでも注ぎ出した』