エホバ ― この上なく偉大な方!
威光がある,威厳がある,高められた,高貴な,際立った,畏敬の念を抱かせる。これらはある有名な類義語辞典に列挙されている「偉大な」という語の類義語のごく一部にすぎません。伝道の書 12章1節でエホバ神は「偉大な創造者」と呼ばれていますが,実は,上記の表現はいずれもその「偉大な創造者」を描写するのに用いることができます。
『しかし,ちょっと待ってください。わたしが持っている聖書の翻訳では,この「偉大な」という描写的な語は使われていません。新世界訳がこの語を用いたのは正しいと言えるでしょうか』。
これは決して,神の言葉に付け加えた ― 神の言葉が明白に非としている事柄を行なった一例などではありません。(申命記 4:2; 12:32。箴言 30:6。啓示 22:18)これはむしろ,もとのヘブライ語本文の正確な意味をあますところなく現代語で伝えようとする努力の一つなのです。「創造者」という訳は基本的には正しいのですが,意味を十分に伝えるというところまではいきません。1985年に出版された参照資料付き新世界訳聖書の,この聖句に関する脚注を見ると次のように説明されています。「『あなたの偉大な創造者』。ヘ[ブライ]語,ボーレエイカー。『創造する』というこのヘブライ語動詞の分詞は,偉観もしくは卓越を表わす複数形」。
そういうわけで,神の霊感を受けた聖書筆者たちは,神を描写するのに時々複数形の動詞または名詞を用いています。といってもこれは,聖書筆者たちが複数の,もしかしたら三位一体の,神を信じていたという意味ではありません。その逆です。使徒パウロは,「わたしたちには父なるただひとりの神がおられ」と書き,「また,ひとりの主,イエス・キリストがおられ(る)」と付け加えています。(コリント第一 8:6)彼らが複数形を用いているのは,エホバの比類のない地位を強調するためにすぎません。エホバは威光と威厳のある方,高められた,高貴な,際立った方,畏敬の念を抱かせる方です。エホバについてはこのすべてが,そしてさらに多くのことが当てはまるでしょう。そうです,簡単に言えば,エホバは偉大な方です!
神,創造者,またひときわ優れた教訓者
「いったい,空でだれがエホバと比べられるでしょうか。神の子たちの中でだれがエホバに似ることができるでしょうか」と,詩編作者は問いかけています。(詩編 89:6)創造の際にエホバの「優れた働き手」として仕えた初子のみ子さえも,エホバの偉大さには及ばないのです。み子ご自身この点を認め,人間イエス・キリストとして地上におられたときに,「父はわたしより偉大な方」です,と言われました。(ヨハネ 14:28)み父の「優れた働き手」であったにもかかわらず,共同創造者という肩書きを要求するようなことは決して行なわず,神を唯一の創造者として神に栄光を帰されました。―創世記 1:26,27; 箴言 8:30およびマタイ 19:4と比較してください。a
エホバは,単なる力ある者,またはただの神ではありません。そのような者は数多く存在しますが,エホバは全能の神で,唯一無二の存在であられます。(詩編 82:6。啓示 11:17)その比類のない地位を考えれば,エホバを「大いなる神」と呼ぶのは極めて適切な呼び方と言えます。ネブカドネザル王の見た夢を解き明かすよう求められたとき,預言者ダニエルは神をそのように呼びました。ダニエルは,「これから後に起きる事柄を,大いなる神ご自身が王にお知らせになりました。そして,この夢は確かであり,その解き明かしは信頼できます」と述べています。それに対して王は,「まことにあなた方の神は神々の神,王たちの王,秘密を明らかにされる方だ」と答えました。―ダニエル 2:45,47。
将来を予知し,秘密を明らかにする能力を持つ大いなる神が,その民を正しく導き,危険を避ける方法について民を教える力をお持ちであることは明らかです。大いなる神は,イザヤ 30章20節と21節にあるように,並ぶ者のない教訓者,すなわち「偉大な教訓者」です。そのように言えるのは,第一に,神の教えには究極の知恵が含まれているからです。例えば神は,たばこ,麻薬の乱用,輸血,性の不道徳などに潜む危険を,科学者や医師がその危険を十分に認めるようになるずっと前から,ご自分の民に気づかせる警告をお与えになりました。b
第二に,教える方法においても神に匹敵する者はいません。その方法は常に積極的で愛がこもっており,忍耐強く,学ぶ者一人一人の必要と能力を完全に把握したやり方です。したがって極めて効果的です。神の昔の僕の一人が,比較する意味で,「見よ,神がその力をもって意気揚々と行動される。だれか神のような教訓者があろうか」と問いかけたのももっともなことです。―ヨブ 36:22。
王,造り主,そして主人
エホバの予型的な神権政治の政府の所在地であったエルサレムは,「偉大な王の町」と呼ばれました。(詩編 48:1,2)詩編 135編21節を見ると,この偉大な王とは,「エルサレムに住んでおられるエホバ」であることが分かります。(詩編 47:8; マタイ 5:35もご覧ください。)もちろん,「偉大な王」は天の王座に座しておられる宇宙の主権者ですから,文字通りの意味でエルサレムに住まわれたことはありませんが,人間の王たちがエホバの代理として支配を行ないました。―詩編 10:16; 29:10。エレミヤ 10:10。ダニエル 4:34。
さてエホバは1914年以来,再び代理の王を通して,この度は「天のエルサレム」に立てられたみ子キリスト・イエスを通して,支配を行なっておられます。(ヘブライ 12:22。啓示 11:15; 12:10)エホバのメシアの王国は,エホバの主権の正当性を永久に確立し,偉大な王の支配に挑戦する者たちを宇宙から一掃します。
ヨブ 35章10節,詩編 149編2節,イザヤ 54章5節によると,エホバは「偉大な造り主」でもあられます。この三つのうち,後の二つの聖句は,エホバがイスラエルを,ご自分の関心事に仕える一つの国民になさることを述べています。このようにエホバは創造することがおできになる上に,ご自分の目的が成就するよう,被造物をご自分の希望どおりのものにすることもおできになります。このことは,「彼はならせる」という神のみ名の意味そのものと調和しています。
そのような方としての偉大な王また偉大な造り主は,わたしたちの信頼と確信に値します。そればかりではありません。そのような王はわたしたちの愛,専心,とりわけわたしたちの崇拝に値します。わたしたちの大いなる主と呼ばれる権利があります。(ホセア 12:14)わたしたちは,現代のキリスト教世界を予示していた不忠実なイスラエルが取ったような行動を避けなければなりません。そのような背教者についてマラキは次のように書きました。「『子は父を敬い,僕はその大主人を敬う。それで,もしわたしが父であるのなら,わたしに対する敬意はどこにあるのか。また,もしわたしが大主人であるのなら,わたしに対する恐れはどこにあるのか』と,万軍のエホバはあなた方に言った。わたしの名を軽んじている祭司たちよ」。(マラキ 1:6)わたしたちは敬虔な恐れをもって「大主人」を敬うべきであって,現代の一部の翻訳者がしてきたようにそのみ名を隠そうとしたり,あるいはそのみ名を口にするのを恥じるかのように聖書から消し去ったりして,み名を軽んずるようなことをすべきではありません。むしろ逆に,わたしたちがエホバの証人であることを証明するために,そのみ名を負うことを誇りとすべきです。
エホバの偉大さを十分に認識する
神は愛を,また他のあらゆる積極的な善い特質を具現される方であられます。(ヨハネ第一 4:8)ですからイザヤがこの,「天の創造者……まことの神エホバ」を,簡単に,「偉大な方」と呼んでいるのも不思議ではありません。エホバはまさに偉大さの具現なのです。―イザヤ 42:5。
エホバが1914年以来,極めて特別な意味で支配している偉大な王であられることを十分に認めるなら,わたしたちは政治問題においてクリスチャンの厳正中立を保つでしょう。消極的な方法においてさえ,どちらかにくみすることは避けるでしょう。そして,「王国と神の義を……第一に求め」,「王国のこの良いたより」を他の人に活発に宣べ伝えることによって神の支配を積極的に支持するでしょう。―マタイ 6:33; 24:14。
エホバが大主人であられることを十分に認めているなら,わたしたちはエホバが是認しておられる物事の仕方に反する言動を慎むでしょう。エホバにすぐに従うでしょう。偉大な神,偉大な創造者,そして偉大な造り主としてのエホバの比類のない地位を考えて,全き専心を求めるエホバの権利を認識するでしょう。また,エホバのご要求には,自分たちにとって拘束力が強すぎるように思えるものであっても,ためらうことなく従うでしょう。会衆内や,わたしたち自身の家族の中での平和と一致を維持するための神の取り決めを進んで受け入れるでしょう。―ヘブライ 13:17; エフェソス 6:1-3をご覧ください。
エホバが偉大な教訓者であられることを十分に認めているなら,わたしたちは,エホバの「忠実で思慮深い奴隷」級が今日用いている教訓を与える方法に疑問を抱いたり,それを批判したりはしないでしょう。むしろ,教訓を与える際に時々必要になる,懲らしめを与えるための処置を支持するでしょう。そして同時に,神の見える組織によって備えられる優れた教材から,できるだけ多くの益を得るように努めるでしょう。―マタイ 24:45-47。
要約すれば,もしわたしたちがエホバを,簡単に言って偉大な方と十分に認めるなら,わたしたちはエホバに仕えるあらゆる機会をとらえることに熱心でしょう。政治家,芸能人,資本家などが持つ,権力や名声や富を伴う地位も,偉大な方に仕える特権に比べれば取るに足りないものと言えます。
多くの人は,エホバを自分の創造者また造り主と認めることにはやぶさかでないでしょう。しかし,エホバを自分の神,教訓者,王,主人として認めるということになると,ひどくきらいます。わたしたちはそのような間違いを犯さないようにしましょう。創造者としてであれ,造り主,神,教訓者,王,あるいは主人としてであれ,エホバは威光と威厳をお持ちであり,高められた,高貴な,際立った,そして畏敬の念を抱かせる方で,そのうえさらに多くの善い点をお持ちになる方です。そうです,エホバは偉大な方です!
[脚注]
a エホバとその「優れた働き手」の両者に言及されている創世記 1章26節では,「[わたしたちは]造ろう」となっており,次の節で,エホバだけについて述べる際には,「創造」という語が用いられていますが,これには大切な意味があります。ケーラー,バウムガルトナー編,「ヘブライ語旧約聖書辞典英語・ドイツ語版」には,「旧約[聖書]において[これ]は神学用語で,この語の主語は神だけに限られる」と説明されています。
b これらの危険については,何十年も前に,「ものみの塔」誌(英文)の以下の号で聖書的な説明が行なわれました。1942年7月1日号,205-207ページ。1945年7月1日号,198-201ページ。1949年12月1日号,367ページ。「目ざめよ!」誌(英文)1950年7月22日号,13-15ページ。