復活
(ふっかつ)(Resurrection)
ギリシャ語アナスタシスは,字義的には「起き上がらせること; 立ち上がること」を意味します。この語はクリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,死者の復活に関連して頻繁に用いられています。使徒パウロが引用したヘブライ語聖書のホセア 13章14節(コリ一 15:54,55)は,死が廃されることと,シェオル(ヘ語,シェオール; ギ語,ハーイデース)を無力にすることについて述べています。様々な翻訳を見ると,シェオールは「墓」とも「坑」とも訳されています。死者はそこへ行くと言われています。(創 37:35; 王一 2:6; 伝 9:10)聖書におけるこの語の用法や,この語に相当するギリシャ語ハーイデースのクリスチャン・ギリシャ語聖書中の用法は,それが個々の墓ではなく,人類共通の墓,墓の領域を表わすことを示しています。(エゼ 32:21-32; 啓 20:13。「シェオル」; 「ハデス」を参照。)シェオルを無力にするとは,その中にいる人々に対するシェオルの支配力を解くこと,つまり墓の領域を空にすることを意味すると言えるでしょう。そのためにはもちろん墓にいる人々の復活が必要になります。つまり,命のない死の状態から,すなわち墓から起き上がらせることが必要になります。
イエス・キリストを通して 上記の点は,ヘブライ語聖書に復活の教えがあることを示しています。しかし,「良いたよりによって命と不朽とに光を当て(る)」業はイエス・キリストのために残されました。(テモ二 1:10)「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」とイエスは言われました。(ヨハ 14:6)どのように永遠の命がもたらされるか,またさらに進んで,ある人々はどのようにして不朽を得るのかという点は,イエス・キリストに関する良いたよりを通して明らかにされました。使徒パウロは復活が確実な希望であることを確証し,こう論じています。「キリストは死人の中からよみがえらされたと宣べ伝えられているのに,あなた方のうちのある人たちが,死人の復活などはないと言っているのはどうしてですか。実際,もし死人の復活ということがないのであれば,キリストもよみがえらされなかったことになります。そして,もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうに無駄であり,わたしたちの信仰も無駄になります。その上,わたしたちは神の偽りの証人ともなります。神はキリストをよみがえらせたと,神に逆らって証しをしてきたことになるからであり,死人が実際にはよみがえらされないのであれば,彼をよみがえらせることもされなかったからです。……さらに,キリストがよみがえらされなかったのであれば,あなた方の信仰は無駄になります。あなた方はまだ自分の罪のうちにあることになります。……しかしながら,今やキリストは死人の中からよみがえらされ,死の眠りについている者たちの初穂となられたのです。死がひとりの人を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人を通して来るのです」― コリ一 15:12-21。
キリスト自身,地上におられた時に人々を復活させました。(ルカ 7:11-15; 8:49-56; ヨハ 11:38-44)後に永遠の命が続くような復活は,イエス・キリストを通してのみ可能になるのです。―ヨハ 5:26。
神の確実な目的 イエス・キリストはサドカイ人,つまり復活を信じていなかった派の人たちに,彼らが所有し,信じると主張するヘブライ語聖書中のモーセの書は復活があることを証ししているという点に注意を向けました。エホバがご自分のことを「アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神」(これらの人たちは実際には死んでいた)と言われた時,エホバは「死んだ者の神ではなく,生きている者の神」であるご自分が彼らを復活させることを意図しておられるゆえにそれらの人々を生きているとみなされた,とイエスは論じました。神はその力のゆえに,「死人を生かし,無い物を有るかのように呼ばれる」のです。パウロはアブラハムの信仰について語った際にその点を含めています。―マタ 22:23,31-33; ロマ 4:17。
復活を生じさせる神の能力 人間は神の像に創造され,また完全な体を備え,人間としての特性の中に植え込まれた驚くべき特徴を十分に表わす潜在力を持つ者として創造されました。そのように人間を創造する能力と力を持たれる方にとっては,人を復活させるのに手に負えない問題など一つもないでしょう。科学者たちが神によって定められた科学上の諸原則を用い,見たり聞いたりすることのできる場面をビデオ録画で保存し,後に再現できるのであれば,宇宙の偉大な主権者であり創造者であられる方にとって,新たに形造られた体の中に同じ個性を再び形成し,そのようにして人を復活させるのは至極簡単なことです。み使いは老齢のサラが再び活力を与えられて子供をもうけることに関し,「エホバにとってあまりに異例でなし得ない事があろうか」と述べました。―創 18:14; エレ 32:17,27。
復活の必要が生じたいきさつ 最初,復活は必要ではありませんでした。それは人類のために神が定められた当初の目的には含まれていませんでした。死は人間のために意図された自然な事柄ではなかったからです。むしろ神は,堕落して死にゆく人間ではなく,生きた人間で地球を満たすことを,ご自分の目的として示されました。神のみ業は完全でしたから,欠点も,不完全なところも,病気もありませんでした。(申 32:4)エホバは最初の人間夫婦を祝福し,殖えて地を満たすようにとお告げになりました。(創 1:28)そのような祝福に病気や死が含まれていなかったことは確かです。神は人間の寿命を定めませんでしたが,不従順が死を来たすことをアダムにお知らせになりました。このことは,不従順にならなければ人間は永久に生きるはずだったことを意味しています。不従順は神の不興を招き,神の祝福を取り去り,のろいをもたらすのです。―創 2:17; 3:17-19。
こうしてアダムの違犯によって人類に死が持ち込まれました。(ロマ 5:12)アダムの子孫は自分たちの父親の罪深さと,その結果生じた不完全さにより,アダムから永遠の命という遺産を受け継ぐことができませんでした。それどころか,永久に生きる希望さえ受け継げませんでした。「腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません」とイエスは言われました。(マタ 7:17,18; ヨブ 14:1,2)復活は,アダムの子供たちのうち,神に従順であることを望む人々がこの無能力さを克服するために導き入れられた,つまり付け加えられたものなのです。
復活の目的 復活はエホバの無限の力と知恵だけでなく,エホバの愛と憐れみをも明らかにし,エホバがご自分に仕える人々の保護者であることを立証しています。(サム一 2:6)エホバは復活の力を有しておられるので,ご自分の僕たちがまさに死に至るまでご自分に忠実を保つということを示すことさえおできになります。サタンは,「皮のためには皮をもってしますので,人は自分の魂のためなら,持っているすべてのものを与えます」と主張しましたが,エホバはサタンのこの告発に答えることができます。(ヨブ 2:4)エホバはサタンが限界まで事を進め,自分の偽りの告発を正当化するためにむなしい努力を払い,人々を殺すことさえお許しになることがあります。(マタ 24:9; 啓 2:10; 6:11)エホバの僕たちがエホバへの奉仕のために命そのものをさえ喜んで捨てるということは,彼らの奉仕が自分だけのことを考えたものではなく,愛から出ていることを証明しています。(啓 12:11)それはまた,彼らがエホバを全能者,宇宙の主権者,彼らを復活させることのできる愛の神として認めていること,さらには,自分本位の物質的な理由のためではなく,エホバのすばらしい特質のゆえにエホバに全き専心をささげていることの証明でもあります。(ロマ 11:33-36; 啓 4:11; 7:12に記されているような,神の僕たちの感嘆の声の幾つかを考慮してください。)復活は,エホバがアダムに言明された,地に対するご自分の目的を確実に遂行するための手段でもあります。―創 1:28。
人間の幸福にとって不可欠 神の側の過分のご親切である死者の復活は,人間の幸福のために,また,人類に臨んできたすべての有害な事柄,苦しみ,抑圧などを除いて元の状態に戻すためにも不可欠です。それらの事柄は,人間の不完全さと病気,人間が行なってきた戦争,犯された殺人,悪魔サタンの差し金で邪悪な人々が行なってきた非人道的行為などの結果として人間に降り懸かってきたものです。復活を信じないとすれば,人間は完全には幸福になれません。使徒パウロはその気持ちを次のように言い表わしました。「今の命でキリストに望みをかけてきたことがすべてであれば,わたしたちはあらゆる人の中で最も哀れむべき者となります」― コリ一 15:19。
復活の希望はどれほど前から与えられたか アダムが罪をおかして自分自身に死をもたらし,それによって自分の子孫となる人たちに死を持ち込んだ後,神は蛇に向かってこう言われました。「そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」― 創 3:15。
最初に死をもたらした者は除き去られる イエスは反対者であった信心深いユダヤ人たちに,「あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理の内に堅く立ちませんでした。真実さが彼の内にないからです」と言われました。(ヨハ 8:44)この言葉は,蛇という手段を通して話したのが悪魔であること,この者が,うそで固めたその極悪な歩みの始めから人殺しであったことの証拠となります。キリストは後にヨハネに与えた幻の中で,悪魔サタンが「初めからの蛇」とも呼ばれることを明らかにしておられます。(啓 12:9)サタンは人類の父であるアダムを唆して神に反逆させることにより,アダムの子供たちに対する影響力を自分のものとし,人類を自分の支配下に置きました。それでエホバは,創世記 3章15節の最初の預言の中で,この蛇が除き去られるという希望をお与えになりました。(ロマ 16:20と比較。)サタンの頭が砕かれるだけでなく,サタンの業すべてが打ち壊され,破壊され,取り除かれて元の状態に戻るのです。(ヨハ一 3:8; 新世,欽定,聖ア)当然ながら,この預言が成就するためには,アダムの罪の結果としてシェオル(ハデス)に行くアダムの子孫を復活によって取り戻すことを含め,アダムが持ち込んだ死を取り除いて元の状態に戻すことが必要になるでしょう。アダムの子孫はアダムの罪の影響を受け継いでいるからです。―コリ一 15:26。
自由に関する希望には復活が伴う 使徒パウロは,人間が罪に陥った後,神の許しによってどんな状況が存在しているか,また,そのようにされた神の最終的な目的は何であるかについて,次のように説明しています。「創造物は[罪のうちに生まれ,すべての人が死に直面しているため]虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく[アダムの子供たちはアダムが行なった事柄を自分では制御できず,自分自身の選択でそうなったのでもないが,こうした状況に直面する世に生み出された],服させた方[知恵をもってそのようにされた神]によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。すなわち,創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです」。(ロマ 8:20,21; 詩 51:5)栄光ある自由に関するこの希望の成就を経験するため,すでに死んだ人々は復活しなければならず,死と墓から自由にされなければならないでしょう。そのため神は,蛇の頭を砕く「胤」に関する約束により,人類の前にすばらしい希望を置かれたのです。―「種,胤」を参照。
アブラハムの信仰の根拠 聖書に記録されている証拠は,アブラハムが自分の息子イサクをささげようとした時,死者をよみがえらせる神の能力と目的に信仰を持っていたことを明らかにしています。また,ヘブライ 11章17-19節に記されているとおり,アブラハムは「ひとつの例えとして」,確かにイサクを死人のうちから受けました。(創 22:1-3,10-13)アブラハムは「胤」に関する神の約束のゆえに,復活に対する信仰の根拠を得ていたのです。(創 3:15)それに,アブラハムとサラは自分たちの生殖力が勢いを取り戻したことで,すでに復活に匹敵する経験をしていました。(創 18:9-11; 21:1,2,12; ロマ 4:19-21)ヨブも同様の信仰を言い表わし,激しい苦しみの中でこう述べました。「ああ,あなたが私をシェオルに隠し,……私のために時の限りを設けて,私を覚えてくださればよいのに。もし,強健な人が死ねば,また生きられるでしょうか。……あなたは呼んでくださり,私はあなたに答えます。ご自分のみ手の業をあなたは慕われます」― ヨブ 14:13-15。
贖いが備えられる前の復活 預言者のエリヤとエリシャにより,あるいはこの二人を通して,幾度か人が復活させられました。(王一 17:17-24; 王二 4:32-37; 13:20,21)しかし,それら復活させられた人たちは,地上におられた時のイエスや使徒たちによって復活させられた人たちと同じく,再び死にました。このことは,復活が必ずしも永遠の命につながるわけではないことを明らかにしています。
ラザロは自分の友イエスによって復活させられたため,西暦33年のペンテコステの日に生きていたようです。その日には聖霊が注ぎ出されて,天への召しを受けた最初の人たち(ヘブ 3:1)が油そそがれ,霊によって生み出されました。(使徒 2:1-4,33,38)ラザロの復活はエリヤとエリシャによる復活に似ていましたが,ラザロには,キリストの復活に似た復活を受ける機会が開かれたことでしょう。ラザロは復活しなかったならそうした機会に恵まれることはなかったはずです。これはイエスの側のすばらしい愛の行為です。―ヨハ 11:38-44。
「さらに勝った復活」 パウロは古代の忠実な人たちについてこう語っています。「女たちはその死者を復活によって再び受けました。またほかの人々は,何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです」。(ヘブ 11:35)それらの人たちは,その時の命が最高に重要なものではないことを知っており,復活の希望に対する信仰を表わし示しました。彼らや他の人たちがキリストを通して受ける復活は,キリストが復活し,贖いの犠牲の価値を携えて天のみ父の前に出た後に起こります。その時キリストは,人類の命の権利を買い戻し,「“とこしえの父”」となりうる方になられました。(ヘブ 9:11,12,24; イザ 9:6)イエスは「命を与える霊」(コリ一 15:45)であられ,「死とハデス[シェオル]のかぎ」を持っておられます。(啓 1:18)今や永遠の命を付与する権威を持たれるので,イエスは神のご予定の時に「さらに勝った復活」を行なわれます。そのような復活を経験する人々は永久に生き,そのような人たちのだれも,やむを得ず再び死ぬ必要はないからです。従順であれば,彼らは生き続けます。
天への復活 イエス・キリストは「死人の中からの初子」と呼ばれています。(コロ 1:18)イエスは永遠の命に復活させられた最初の方でした。またイエスの場合は,「霊において」,天の命へ復活させられました。(ペテ一 3:18)さらにイエスは,地に来る前に天で得ていた命よりも一層高い形態の命と,一層高い地位に上げられました。肉体を持つどんな被造物も得られない不滅性と不朽性を与えられ,「天よりも高く」されました。宇宙においてその地位よりも上にあるのはエホバ神だけです。(ヘブ 7:26; テモ一 6:14-16; フィリ 2:9-11; 使徒 2:34; コリ一 15:27)イエスの復活はエホバ神ご自身によって行なわれました。―使徒 3:15; 5:30; ロマ 4:24; 10:9。
しかしイエスは,復活後の40日間,み使いたちが古代の人々に現われたように,様々な肉体を着けて様々な機会に弟子たちに現われました。イエスはそれらのみ使いたちのように,そうした肉体を意のままに組み立てたり解いたりする力を持っておられました。それには,ご自分が復活させられたことを目に見える形で示すという目的がありました。(マタ 28:8-10,16-20; ルカ 24:13-32,36-43; ヨハ 20:14-29; 創 18:1,2; 19:1; ヨシュ 5:13-15; 裁 6:11,12; 13:3,13)イエスが幾度も現われたこと,特に一度に500人以上の人たちに現われたことは,イエスの復活が真実であることの強力な証拠です。(コリ一 15:3-8)イエスの復活がこれほど十分に確証されているので,清算の日もしくは裁きの日が将来確実に訪れることは,「すべての人に保証」されています。―使徒 17:31。
キリストの「兄弟たち」の復活 「召され,選ばれた忠実な」人々,つまり「神の子供」として霊的に生み出された,キリストの足跡に従う人たち,キリストの「兄弟たち」には,キリストと同様な復活を受けることが約束されています。(啓 17:14; ロマ 6:5; 8:15,16; ヘブ 2:11)使徒ペテロは仲間のクリスチャンに次のように書いています。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。神はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなた方のために天に取って置かれているものです」― ペテ一 1:3,4。
ペテロはまた,そのような人たちが抱く希望について,それは「貴く,しかも極めて壮大な約束」であり,『それによってあなた方は神の性質にあずかる者となるようにされた』と描写しています。(ペテ二 1:4)彼らは,「神の」性質を得るために人間の性質を捨て,そのようにしてキリストの栄光をキリストと分け合う者となることにより,性質の変化を経験しなければなりません。彼らは,忠誠を保って人間の命を永久に断念することにより,キリストと同様な死を遂げなければなりません。それから,キリストが得たような不滅かつ不朽の体を復活によって受けるのです。(ロマ 6:3-5; コリ一 15:50-57; コリ二 5:1-3)使徒パウロは,復活させられるのは体ではないと説明し,むしろ,『神がご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与えられる』という意味で,彼らの経験を,種を植えて芽を出させることに例えています。(コリ一 15:35-40)復活させられるのは魂つまり人であり,神は復活後の環境に適合した体をその人にお与えになります。
イエス・キリストの場合,イエスは人類を益するため,人間としての命を贖いの犠牲として捨てられました。ヘブライ人への書を霊感のもとに記した筆者は詩編 40編をイエスに当てはめ,イエスは神によって任命されたメシアとして「世に」来た時,「犠牲や捧げ物をあなたは望まず,わたしのために体を備えてくださった」と述べたことを記しています。(ヘブ 10:5)イエスご自身こう言われました。「本当のことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」。(ヨハ 6:51)ですから,キリストが復活して自分の体を取り戻し,人類のため神にささげられた犠牲を取り戻すのは不可能である,ということになります。その上,キリストはもはや地上に住むことにはなっていませんでした。キリストの『いるところ』は,肉ではなく霊であるみ父の住まれる天にあります。(ヨハ 14:3; 4:24)ですから,イエス・キリストには,栄光ある不滅で不朽の体が与えられました。「彼は[エホバの]栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であり,その力の言葉によってすべてのものを支えておられ(るからです)。そして,わたしたちの罪のための浄めを行なった後,高大な所におられる威光の右に座られました。こうして彼はみ使いたち[彼ら自身,強力な霊者]よりも優れた名を受け継ぎ,それだけ彼らに勝る者となられました」。―ヘブ 1:3,4; 10:12,13。
天においてキリストに加わるキリストの忠実な兄弟たちは,人間としての命を放棄します。使徒パウロは,彼らの新しい環境のために体を新しくもう一度造ってもらう,つまり作り替えてもらう必要があることを示しています。「わたしたちについて言えば,わたしたちの市民権は天にあり,わたしたちはまた,そこから救い主,主イエス・キリストが来られるのを切に待っています。彼はその持つ力……の働きにより,わたしたちの辱められた体を作り替えて,ご自分の栄光ある体にかなうものとしてくださるのです」― フィリ 3:20,21。
天への復活が生じる時 キリストの共同の相続人の天への復活は,イエス・キリストが天の栄光に戻り,ご自分の霊的な兄弟たちに最初の注意を向けた後に始まります。キリストご自身,「死の眠りについている者たちの初穂」と呼ばれています。それからパウロは,各々自分の順位にしたがって,つまり「初穂なるキリスト,その後,その臨在の間に,キリストに属する者たち」が復活させられると述べています。(コリ一 15:20,23)「神の家」であるそれらの人たちは,ペンテコステの時の成員をはじめとして,クリスチャンの歩みを続ける間,ずっと裁きのもとにあります。(ペテ一 4:17)彼らは『ある意味での[字義,ある程度の]初穂』です。(ヤコ 1:18,行間; 啓 14:4)イエス・キリストはニサン16日にイスラエル人によってささげられた大麦の初穂になぞらえることができ(「初穂なるキリスト」),また「初穂」(『ある意味での初穂』)である,キリストの霊的な兄弟たちは,ニサン16日から数えて50日目のペンテコステの日にささげられた小麦の初穂になぞらえることができます。―レビ 23:4-12,15-20。
これらの人たちは裁きのもとにあります。ですから,キリストが戻られる時,それはキリストの忠実な油そそがれた者である彼らに報いを与える時となります。イエスが死の前夜,11人の忠実な使徒たちに約束されたとおりです。「わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのです……。そしてまた,……わたしは再び来て,あなた方をわたしのところに迎えます。わたしのいる所にあなた方もまたいるためです」。―ヨハ 14:2,3; ルカ 19:12-23。テモ二 4:1,8; 啓 11:17,18と比較。
「子羊の結婚」 これらの人たちは一つのグループとして,イエスの(将来の)「花嫁」と呼ばれています。(啓 21:9)彼らにはイエスと結婚する見込みがあります。ですから,「子羊の結婚」に参加するため,天に復活させられなければなりません。(コリ二 11:2; 啓 19:7,8)使徒パウロは自分が天的な復活を受けることを待ち望んでいました。(テモ二 4:8)キリストの「臨在」が始まる時,地上にはまだ,「子羊の結婚の晩さんに招かれた」キリストの霊的な兄弟たちが一部生存していますが,その霊的兄弟たちのうちすでに死んでいる人たちには,復活によって最初の注意が向けられます。(啓 19:9)この点に関して,テサロニケ第一 4章15,16節は次のように説明しています。「主の臨在の時まで生き残るわたしたち生きている者は死んで眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバの言葉によってわたしたちがあなた方に伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです」。
それからパウロはこう付け加えています。「その後,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らと共に,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主と共にいることになるのです」。(テサ一 4:17)このように,「子羊の結婚の晩さん」に招かれていてなお残っている者たちは,地上での歩みを忠実に終えて死ぬ時,直ちに復活させられ,天において花嫁級の仲間の成員に加わります。彼らが使徒たちと同じように,長いあいだ眠って待つという意味で「死の眠りにつく」ことはなく,死ぬと『一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間に変えられ』ます。「ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです」。(コリ一 15:51,52)とはいえ「子羊の結婚」は,「大いなるバビロン」に対する裁きが執行された後でなければ行なわれないようです。(啓 18章)この「大娼婦」の滅びに関する描写の後,啓示 19章7節は「歓び,そして喜びにあふれよう。また,神に栄光をささげよう。子羊の結婚が到来し,その妻は支度を整えたからである」と述べています。14万4,000人全員が最終的に是認され,忠実な者として「証印を押され」,天に復活させられた時,結婚を実際に始めることができます。
第一の復活 啓示 20章5,6節はキリストと共に統治する人々の復活を「第一の復活」と呼んでいます。使徒パウロはこの第一の復活を,「死人の中からの早い復活[字義,死(者)の外への外の復活]」とも呼んでいます。(フィリ 3:11,新世,ロザハム,行間)パウロがここで用いている表現について,ロバートソンの「新約聖書の絵画的描写」(1931年,第4巻,454ページ)はこう述べています。「パウロはここで,信者が死者の中から復活することのみについて考慮し,それゆえにエクス[外]という語を2度用いているのであろう(テーン エクサナスタシン テーン エク ネクローン)。パウロはこの語によって全人類の復活を否定しているのではなく,信者の復活を強調しているのである」。チャールズ・エリコットの「注解」(1865年,第2巻,87ページ)はフィリピ 3章11節についてこう注記しています。「『死人の中からの復活』,つまり文脈が示唆しているように第一の復活(啓 20:5)。その際,主が到来する時に主にある死人が第一によみがえり(テサ一 4:16),生きている者は取り上げられて雲の中で主と会う(テサ一 4:17)。ルカ 20章35節と比較。第一の復活には真の信者のみが含まれることになる。そしてこの復活は時間の点で第二の復活,つまり不信者および信仰を否定する者たちの復活に先んじるように思われる。……ここで,単なる倫理的な意味での復活に何らかの言及がなされているということ(コクツェーユス)は,全く考えられない」。エクサナスタシスという語の基本的な意味の一つは,朝に寝床から起き上がるということですから,「第一の復活」とも呼ばれる,早い時期に起きる復活は,この語で十分に表わすことができます。ロザハム訳によるフィリピ 3章11節は「何とかして死人の間からの早い復活に進めないものか」となっています。
地的な復活 イエスが杭に掛けられていた時,イエスの傍らにいた悪行者の一人は,イエスが処罰に値しないことを見て取り,「イエスよ,あなたがご自分の王国に入られる時には,わたしのことを思い出してください」と請願しました。イエスは「今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」とお答えになりました。(ルカ 23:42,43)イエスは事実上次のように言われたのです。『王国に対するわたしの主張が外見上はほとんど実現しそうもない,この暗い日に,あなたは信仰を表明しました。確かに,わたしは王国に入る時,あなたを思い出しましょう』。(「パラダイス」を参照。)そのためには,この悪行者の復活が必要になるでしょう。この男の人はイエス・キリストの忠実な追随者ではなく,死刑に値するような悪行や違法行為に携わっていました。(ルカ 23:40,41)ですから,この人は第一の復活を受ける人々の一人となる希望を抱けませんでした。それに加え,この人は,イエスが天に上る40日前に,つまりペンテコステよりも前に死にました。ペンテコステはイエスの昇天の10日後に当たり,神はこの時にイエスを通して,天への復活を受ける人々の最初の成員に油そそぎを行なわれました。―使徒 1:3; 2:1-4,33。
この悪行者はパラダイスにいるであろう,とイエスは言われました。パラダイスには「庭園もしくは楽しみの地」という意味があります。セプトゥアギンタ訳は,創世記 2章8節にあるように,「園」に相当するヘブライ語(ガン)の訳語として,ギリシャ語のパラデイソスを当てました。この悪行者が住むことになるパラダイスは,啓示 2章7節で「征服する者」に約束されている「神のパラダイス」ではないでしょう。その悪行者はイエス・キリストと共に世を征服した者ではなかったからです。(ヨハ 16:33)ですから,この人は天の王国の成員として王国にいるのではなく(ルカ 22:28-30),「第一の復活」にあずかる人々が神とキリストに仕える王として座に就き,キリストと共に千年間支配する時,王国の臣民となります。―啓 20:4,6。
「義者と不義者」 使徒パウロは,やはり復活の希望を抱いていたユダヤ人の一グループに対して,「義者と不義者との復活がある」と述べました。―使徒 24:15。
聖書はだれがこの「義者」であるかを明らかにしています。まず最初に,天への復活を受ける人たちは義と宣せられています。―ロマ 8:28-30。
さらに聖書は,アブラハムのような古代の忠実な人たちを義人と呼んでいます。(創 15:6; ヤコ 2:21)ヘブライ 11章にはそれらの人たちの名前がたくさん挙げられており,筆者は彼らについて,「しかしなお,これらの人々は皆,その信仰によって証しされながらも,約束の成就にあずかりませんでした。神はわたしたち[パウロのように霊によって生み出された,油そそがれたクリスチャン]のためにさらに勝ったものを予見し,わたしたちを別にして彼らが完全にされることのないようにされたからです」と述べています。(ヘブ 11:39,40)ですから,彼らを完全にすることは,「第一の復活」にあずかる人々が完全にされた後に行なわれます。
それに啓示 7章に描かれている「大群衆」がいます。彼らは「証印を押された」14万4,000人の一員ではないので,霊によって生み出された者としての霊の「印」を持っていません。(エフェ 1:13,14; コリ二 5:5)彼らは大患難の生存者として「大患難から出て」来ると描写されています。このことからすると,このグループを集める業は,その患難の少し前の終わりの日に行なわれるようです。彼らは信仰によって義とされており,子羊の血で洗った白くて長い衣を着ています。(啓 7:1,9-17)彼らは一つの級としては復活させられる必要はありませんが,このグループのうち大患難前に死ぬ忠実な人たちは,神のご予定の時に復活させられます。
また,シェオル(ハデス)つまり人類共通の墓,もしくは「海」つまり水の墓に埋葬されている大勢の「不義」者もいます。そのような人々と,地上に復活させられる「義者」とが裁かれることについて,啓示 20章12,13節に次のような説明があります。「そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,そのみ座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事柄により,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」。
地上への復活が生じる時 聖書には,キリストが共なる王また祭司と行なう千年統治の期間中に生じる出来事を記した箇所があり,そこに上記の裁きに関する記述が見られます。使徒パウロの言葉によると,それらの王また祭司たちは「世を裁く」ことになります。(コリ一 6:2)あらゆる階層からの『大なる者と小なる者』がそこにおり,偏りのない裁きを受けることになります。彼らはその時に開かれる「それらの巻き物に書かれている事柄により……裁かれ」ます。この巻き物が,彼らの過去の生活の記録,あるいは過去の生活を基に彼らを裁くための規則集であるはずはありません。というのは,「罪の報いは死」である以上,それらの人たちは自分の死により,すでに過去の罪の報いを受けているからです。(ロマ 6:7,23)今や彼らが復活させられるのは,神に対する自分の態度を実際に示し,すべての人のために与えられたイエス・キリストの贖いの犠牲をとらえたいと願うかどうかを実証できるようにするためです。(マタ 20:28; ヨハ 3:16)過去の罪は彼らに帰されないとはいえ,自分たちを完全な状態へと引き上げるため,彼らには贖いが必要です。そして地とそこに住む人々に関する神のご意志や種々の規定に調和して,以前の生き方や考え方を捨て,思いを作り替えなければなりません。したがって,「それらの巻き物」とは,その裁きの日の期間中の彼らに対する神のご意志と律法を明らかにしたものと思われます。それらの事柄に対する信仰と従順は裁きの基盤であり,最終的に彼らの名が消すことのできない名として「命の巻き物」に記されるかどうかを決定する基盤ともなります。
命への復活と裁きへの復活 イエスは人間に次のような慰めとなる保証をお与えになりました。「死んだ人々が神の子の声を聞き,それに注意を向けた者たちが生きる時が来ようとしています。それは今なのです。……このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」― ヨハ 5:25-29。
有罪宣告の裁き イエスのこの言葉にある「裁き」という語は,ギリシャ語のクリシスを訳したものです。パークハーストによると,クリスチャン・ギリシャ語聖書におけるこの語の意味は次のとおりです。「I. 裁き……II. 裁き,公正。マタイ 23章23節。12章20節と比較。……III. 有罪宣告の裁き,有罪宣告,永遠の断罪。マルコ 3章29節。ヨハネ 5章24,29節……IV. 有罪宣告もしくは処罰の理由や原因。ヨハネ 3章19節。V. ユダヤ人の間の特定の法廷……マタイ 5章21,22節」 ―「新約聖書希英辞典」,ロンドン,1845年,342ページ。
もしイエスが,裁きについて語った際,結果として命を生み出すような裁判のことを意味しておられたなら,そのことと「命の復活」は対照的なものではなくなります。ですから,文脈に示唆されているとおり,「裁き」という語を用いたイエスは,有罪宣告の裁きを意味しておられたのです。
イエスが地上で話されるのを聞いた「死んだ人々」 イエスの言葉を考慮する際,イエスが話された時に,「死んだ人々」がイエスの声を聞いていたことに注目できます。ペテロも同様な言葉を用い,こう述べました。「事実,このために良いたよりは死んだ者たちにも宣明されたのです。すなわち,彼らが,肉に関しては人間の観点から裁かれた者となっても,霊に関しては神の観点から生きた者となるためでした」。(ペテ一 4:6)このようにペテロが述べたのは,キリストの話を聞いた人々は聞く前に『罪過と罪にあって死んでいた』ものの,良いたよりに対する信仰により,霊的に『生き』始めたからでした。―エフェ 2:1。マタ 8:22; テモ一 5:6と比較。
ヨハネ 5章29節は,裁きの期間の終わりに言及している しかし,注目すべき非常に重要な事柄があります。それは,『命の復活と裁きの復活』について述べたイエスの言葉に含まれる時間的要素を見極めるための助けとなります。それは,イエスが同じ文脈の少し前のところで,当時生きてはいたものの霊的には死んでいる人々について話した時に述べた事柄です(この点に関しては,『死から命へ移る』という副見出しのもとで説明されています)。イエスはこう言われました。「死んだ人々が神の子の声を聞き,それに注意を向けた者たち[字義的に一語一語対応させると,「(者たち)すでに 聞いてきた」]が生きる時が来ようとしています。それは今なのです」。(ヨハ 5:25,行間)この言葉は,イエスが単にご自分の声をその時に耳で聞いていた人たちのことではなく,むしろ「すでに聞いてきた」人たち,つまり自分たちの聞いた事柄を,聞いた後に真実として受け入れた人たちのことを述べておられたことを示唆しています。聖書の中で「聞く」および「聴く」という語は,「注意を向ける」もしくは「従う」という意味で,非常に頻繁に用いられています。(「従順」を参照。)従順であることを証明する人は生きます。(ヨハ 6:60; 8:43,47; 10:3,27で用いられている,「聞く」または「聴く」という意味の同じギリシャ語[アクーオー]の用法と比較。)彼らは自分たちがイエスの声を聞く前に行なっていた事柄ではなく,声を聞いた後に行なう事柄に基づいて裁かれるのです。
ですからイエスは,「良いことを行なった者」と「いとうべきことを習わしにした者」について述べた際にも,時に関して同様の立場を取っておられたようです。つまり,「それらの巻き物に書かれている事柄」に従う,ないしは逆らう機会が,復活させられた人々に与えられた後,裁きの期間の終わりに彼らの行動を振り返り,その行動を回顧もしくは再検討するという立場です。その裁きの期間が終わって初めて,だれが良いことを行なったか,だれが悪いことを行なったかが明らかになるのです。「良いことを行なった者」(「それらの巻き物に書かれている事柄」にしたがって)に臨む結末は命という報いであり,「いとうべきことを習わしにした者」に臨む結末は有罪宣告の裁きです。復活は結局,命もしくは有罪宣告に至ったのです。
ある物事を回顧し,それを結末の観点から見て記述する,あるいはすでに完了したこととして述べる習わしは,聖書中によく見られます。神は「終わりのことを初めから,また,まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者」であられるからです。(イザ 46:10)ユダはこの同じ見方を取り入れ,会衆内に忍び込んだ腐敗した者たちについて,こう述べました。「惨めなことです! 彼らはカインの道に入り,報いを求めてバラムの誤った歩みに陥り,コラの反逆のことばによって滅びてしまった[字義,彼らは自分自身を滅ぼした]からです」。(ユダ 11)預言の中にも,これと同様の言葉遣いを用いているものがあります。―イザ 40:1,2; 46:1; エレ 48:1-4と比較。
ですから,ヨハネ 5章29節に取り入れられている見方は,パウロが「義者と不義者」の復活について語っている使徒 24章15節にある見方と同じではありません。パウロが言及しているのは明らかに,単に今ある命において神のみ前における義にかなった立場か不義な立場を占めていて,将来復活させられる人々のことです。彼らは「記念の墓の中にいる者」です。(ヨハ 5:28。「記念の墓」を参照。)イエスはヨハネ 5章29節で,そのような人たちが記念の墓から出て来た後の姿と,彼らがイエス・キリストおよび王また祭司である仲間たちによる統治期間中の歩み方によって,とこしえの「命」の報いを得る従順さか,神からの相応な「裁き[有罪宣告]」を受ける不従順さを示した後の姿を見ておられるのです。
シェオルから取り戻される魂 イスラエルのダビデ王はこのように書きました。「われは常に我が顔の前に主をあらかじめ見たり。主わが右にいませば,われ動かさるることなし。……さらにわが肉もまた,望みにあって憩わん。そは汝わが魂を地獄[シェオル]に捨て置くことも,汝の聖なる者に腐れを見ることも許したまわざるべければなり」。(詩 15:8-10,七十訳[バグスター][16:8-11,新世])西暦33年のペンテコステの日に使徒ペテロはこの詩編をイエス・キリストに当てはめ,キリストの復活に関する真理をユダヤ人にふれ告げました。(使徒 2:25-31)ですからヘブライ語聖書もギリシャ語聖書も,復活させられたのがイエス・キリストの「魂」であることを示しています。イエス・キリストは「肉において死に渡され,霊において生かされ」ました。(ペテ一 3:18)「肉と血は神の王国を受け継ぐことができ(ない)」と使徒パウロは述べました。(コリ一 15:50)肉と骨も同じく除外されるでしょう。肉と骨は血が通っていないなら,命を持つことがありません。血は「魂」を含んでいるからです。つまり血は肉を持つ被造物の命にとって必要なものだからです。―創 9:4。
聖書を通じて,体から分離した別個の“非物質的な魂”が存在しないことは明白です。魂は体が死ぬ時に死にます。イエス・キリストに関してさえ,「彼(は)自分の魂を死に至るまでも注ぎ出した」と記されています。その魂はシェオルにありました。その期間にイエスが魂もしくは人として存在したということはありません。(イザ 53:12; 使徒 2:27。エゼ 18:4と比較。「魂」を参照。)ですから,復活の際に魂と体が再び結合することはありません。しかし個性を持つ者は,霊的な存在であれ地的な存在であれ,体か生体を持っていなければなりません。天的なものにせよ地的なものにせよ,すべての人格的存在は体を所有しているからです。死んだ者がもう一度生きた者となるには,物質の体か霊的な体を持たなければならないでしょう。「物質の体があるなら,霊的な体もあります」と聖書は述べています。―コリ一 15:44。
しかし,復活の際には古い体が再び集められるのでしょうか。それともその体は,その者が死んだ時の状態そっくりに造られた,以前の体の正確な複製なのでしょうか。聖書は,キリストの油そそがれた兄弟たちの天の命への復活について論じた際,そうではないと答えています。「しかしながら,『死人はどのようによみがえらされるのか。いったいどんな体でやって来るのか』と言う人がいることでしょう。道理をわきまえない人よ! あなたのまくものは,まず死ななければ,生きたものになりません。そして,あなたがまくものについて言えば,後にできる体ではなく,ただの種粒をまくのです。それは小麦,あるいはほかの何かでしょう。しかし神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与え,種の一つ一つにそれ自身の体を与えられます」― コリ一 15:35-38。
天的な者たちは霊的な体を与えられます。彼らがその天的な環境に適した体を持つことは,神の喜びとなるからです。しかし,エホバはご自分が地的な復活へよみがえらせたいと思う者たちに,どんな体をお与えになるのでしょうか。それが以前と全く同じ原子から成る,同じ体であるはずはありません。人が死んで葬られるなら,その体は腐朽の過程により,植物が吸収できる化学物質に再び変換されます。人間がその植物を食べることもあるでしょう。種々の元素,最初の当人を形造っていた原子は今や多くの人の中に存在しています。復活に際して,同じ原子が最初の人の中に,また他のすべての人の中に同時に存在し得ないのは明らかです。
それに,復活させられる体は,必ずしも死んだ時の体の正確な複製となるように造られる必要はありません。もし死ぬ前に体から手足を切り取られたなら,その人は同じような様で戻って来るのでしょうか。それは道理にかなったことではありません。その人は,「それらの巻き物に書かれている事柄」を聞いて行なえる状況にさえいないかもしれないからです。(啓 20:12)体から血が流れ出て死んだ人のことを考えてみましょう。その人は血のない状態で戻って来るのでしょうか。そうではありません。血がないまま地的な体を持って生きることはできないからです。(レビ 17:11,14)むしろその人には,神の喜びとなるような体が与えられるでしょう。復活させられた人々が「それらの巻き物に書かれている事柄」に必ず従うことは神のご意志であり喜びなので,その体は,あらゆる機能を備えた健全な体でなければならないでしょう。(ラザロの体はすでに部分的に分解していましたが,イエスはすべてがそろった健全な体のラザロを復活させました。[ヨハ 11:39])このようにして,裁きの期間における人の行動に対し,適切に,また公正に責任を問うことが可能になるのです。とはいえ,人は完全になって戻って来るのではありません。人はキリストの贖いの犠牲に信仰を働かせ,キリストとその「王なる祭司」による祭司の奉仕を受けなければならないからです。―ペテ一 2:9; 啓 5:10; 20:6。
『死から命へ移る』 イエスは,信仰と従順のうちにイエスの言葉を聞き,その後,イエスを遣わされた父を信じるゆえに「永遠の命を持(つ)」人々について語られました。イエスはそのような人々の一人一人についてこう言われました。「その者は裁きに至らず,死から命へ移ったのです。きわめて真実にあなた方に言いますが,死んだ人々が神の子の声を聞き,それに注意を向けた者たちが生きる時が来ようとしています。それは今なのです」。―ヨハ 5:24,25。
『今,死から命へ移った』人々とは,文字通り死んで実際の墓の中にいる人々ではないでしょう。イエスが話された時,全人類はすべての者の裁き主であられる神のみ前で,死の有罪宣告のもとにありました。ですから,イエスが言及した人々は,霊的な意味で死んでいた,地上にいる人々だったようです。イエスは,自分の父を葬るためにまず家に行くことを願ったユダヤ人の男性に対し,「わたしのあとに従いつづけなさい。そして,死人に自分たちの死人を葬らせなさい」と言われましたが,イエスが言わんとしておられたのは,そのような霊的な意味での死人のことだったに違いありません。―マタ 8:21,22。
真の信仰をもってクリスチャンになった人々も,かつてはこの世の霊的に死んだ人々の中にいました。使徒パウロはこの事実を会衆に思い起こさせ,こう述べています。「あなた方は自分の罪過と罪にあって死んでいましたが,そのあなた方を神は生かしてくださいました。あなた方は,この世の事物の体制にしたがい,……一時はそうした罪のうちを歩んでいました。しかし,神は憐れみに富んでおられ,わたしたちを愛してくださったその大いなる愛のゆえに,わたしたちが罪過にあって死んでいたその時にさえ,キリストと共に生かし ― あなた方は過分のご親切によって救われているのです ― また,キリスト・イエスとの結びつきにおいてわたしたちを共によみがえらせ,天の場所に共に座らせてくださったのです」― エフェ 2:1,2,4-6。
このように,彼らがもはや罪過と罪のうちを歩んで神に敵することがないゆえに,また彼らが持つキリストに対する信仰のゆえに,エホバはご自分の有罪宣告を彼らから除かれました。神は霊的な死から彼らを引き上げ,彼らに永遠の命の希望をお与えになりました。(ペテ一 4:3-6)使徒ヨハネは,罪過と罪のうちに死んでいた状態から霊的な命へのこの移り変わりを,次のように描写しています。「兄弟たち,世があなた方を憎むことを不思議に思ってはなりません。わたしたちは,自分たちが兄弟を愛しているので,死から命に移ったことを知っています」― ヨハ一 3:13,14。
神の過分のご親切 人類に対する復活の備えはまさしくエホバ神の過分のご親切です。神は復活を備える義務を負っていたのではないからです。神は人類の世に対する愛に動かされてご自分の独り子を与え,幾百万という人々が,いえ,神に関する真の知識を持たずに死んだ幾十億という人々が神を知り,神を愛する機会を得られるよう,また,神を愛し神に仕える人々がこの希望と励ましを与えられて,死に至るまでも忠実に忍耐できるようにしてくださったのです。(ヨハ 3:16)使徒パウロはテサロニケの会衆に手紙を書き送り,天への復活の希望を抱いて死んだ会衆の人々のことを記して,仲間のクリスチャンを復活の希望によって慰めています。「また,兄弟たち,死んで眠っている者たちについてあなた方が知らないでいることを望みません。希望を持たないほかの人々のように悲しむことのないためです。イエスは死んでよみがえったということがわたしたちの信仰であれば,神はイエスにより死んで眠っている者たちをも彼と共にやはり連れ出してくださるからです」― テサ一 4:13,14。
同様にクリスチャンは,神のメシアによる王国が支配する地上で生きる希望を持って死んだ,神に忠実な人々について,また,神を知るようにならなかった他の人々について,希望を持たないほかの人々のように悲しむべきではありません。シェオル(ハデス)が開かれる時,そこにいる人たちは出て来るでしょう。聖書は,古代エジプト,アッシリア,エラム,メシェク,トバル,エドム,シドンの民を含め,シェオルに行った多くの人について述べています。(エゼ 32:18-31)イエスは,ベツサイダ,コラジン,カペルナウムの住人で以前は悔い改めなかった人々のうちの少なくとも一部が,裁きの日のために居合わせる人たちの中に数えられることを示唆されました。彼らの以前の態度のゆえに,悔い改めるのは非常に難しいとしても,彼らにも悔い改めの機会が与えられるでしょう。―マタ 11:20-24; ルカ 10:13-15。
贖いが与えられたすべての人に贖いが適用される 神がみ子をお与えになり,『だれでも彼に信仰を働かせる者が命を持てるように』されたことに表わされている神の愛と過分のご親切の偉大さや広さからすると,贖いは,神が天的な召しのためにお選びになる人々だけに適用されるのではありません。(ヨハ 3:16)実際,イエス・キリストの贖いの犠牲は,もし天の王国の成員となる人たちだけに適用されて終わるとすれば,完全に適用されたことにはならないでしょう。神が贖いの犠牲を備えられた目的を完全に果たすことにもならないでしょう。王国が地上の臣民を持つことは神の目的だからです。イエス・キリストは,ご自分の共なる従属の祭司の上に立つ大祭司というだけでなく,イエスの仲間がイエスと共に王また祭司として支配する時に生きる人類の世に対しても,大祭司であられます。(啓 20:4,6)イエスは「すべての点でわたしたち[イエスの霊的な兄弟たち]と同じように試され,しかも罪のない」方であられます。ですからイエスは,良心的に神に仕えようとする人たちの弱さを思いやることができます。それに,王であり祭司である,イエスの仲間たちも,同じように試されてきました。(ヘブ 4:15,16; ペテ一 4:12,13)千年統治と裁きの期間中,彼らがそれら復活する人々を含む人類のために祭司となるのでないとしたら,一体だれのための祭司となるのでしょうか。
神の僕たちは,復活の業が完了する日を切に待ち望んできました。神はご自分の目的を遂行される際,適切な時をきちんと定めておられますが,それによって神の知恵と辛抱強さは十分に立証されます。(伝 3:1-8)人々を復活させる力と意志をお持ちになる神とみ子のお二方は,その定められた時に復活を完了されます。
エホバは喜びのうちに復活を期待しておられる エホバとみ子は,大きな喜びをもって,その業が遂行されることを期待しておられるに違いありません。イエスは一人のらい病人から「あなたは,ただそうお望みになるだけで,私を清くすることがおできになります」と懇願された時,そのような進んで行なう態度と願いを示されました。「そこでイエスは哀れに思い,手を伸ばして彼に触り,『わたしはそう望みます。清くなりなさい』と言われた。すると,すぐにらい病は消え,彼は清くなったのである」。人間に対するキリストの愛ある親切を実証するこの感動的な出来事は,3人の福音書筆者が記録しています。(マル 1:40-42; マタ 8:2,3; ルカ 5:12,13)さらに,エホバの愛と,人間を進んで助けようとするエホバの態度に関しては,忠実なヨブが述べた次の言葉も思い出されます。「もし,強健な人が死ねば,また生きられるでしょうか。……あなたは呼んでくださり,私はあなたに答えます。ご自分のみ手の業をあなたは慕われます」― ヨブ 14:14,15。
復活しない人々もいる キリストの贖いの犠牲が人類一般に与えられたのは確かですが,イエスは次のように述べて,贖いの実際の適用が限られたものであることを示しました。「ちょうど人の子が,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」。(マタ 20:28)エホバ神は,ご自分から見て贖いを適用するに値しないと思われる人のための贖いは,その受け入れを拒否する権利を持っておられます。キリストの贖いは,人が罪深いアダムの子であるゆえに持つ罪を覆いますが,人間は自分自身の故意の意識的な罪の歩みによって罪を増し加えることがあり,そのためその人が,贖いでは覆えないほどのそうした罪のために死ぬということもあり得ます。
聖霊に対する罪 聖霊に対して罪をおかした者は,現在の事物の体制においても来たるべき体制においても許されない,とイエスは言われました。(マタ 12:31,32)ですから,現在の事物の体制において聖霊に対する罪をおかしたと神から裁かれた人は,復活による益にあずかりません。その人の罪は決して許されず,当人にとって復活は無益なものとなるからです。イエスはユダ・イスカリオテを「滅びの子」と呼んで,その者に対する裁きを宣告されました。贖いがユダに適用されることはなく,その滅びは司法上すでに確定された裁きなので,ユダが復活を受けることはありません。―ヨハ 17:12。
イエスはご自分に敵対したユダヤ人の宗教指導者たちに,「どうしてあなた方はゲヘナ[永遠の滅びの象徴]の裁きを逃れられるでしょうか」と述べました。(マタ 23:33。「ゲヘナ」を参照。)イエスの言葉には,彼らが死ぬ前に行動を起こして神に転じないなら,最終的な意味を持つ不利な判決が記録されるということが示唆されています。もしそのような結果になるなら,復活は彼らのために何も成し遂げないでしょう。「不法の人」にも同様のことが当てはまると言えるでしょう。―テサ二 2:3,8。「不法の人」を参照。
パウロは,真理を知り,聖霊にあずかってから離れ落ちた人々のことを,「再び悔い改めに戻すこと」の不可能な状態に陥った人々であるとしています。「なぜなら,彼らは神の子を自分であらためて杭につけ,公の恥にさらしているからです」。贖いが彼らを助けることはもはやあり得ません。したがって彼らが復活を受けることもありません。さらに同使徒はそのような者たちを,いばらやあざみだけを生じさせ,そのために退けられて,ついには焼き払われてしまう畑に例えています。ここには彼らの前途,つまり完全な絶滅が例えで示されています。―ヘブ 6:4-8。
再度パウロは,「真理の正確な知識を受けた後,故意に罪を習わしにする」人々について,「罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期と,逆らう者たちを焼き尽くそうとする火のようなねたみとがある」と述べています。続いて同使徒は,次のような例えで説明します。「だれでもモーセの律法を無視した者は,二人か三人の証言に基づいて,同情を受けることなく死にます。では,神の子を踏みつけ,自分がそれによって神聖にされた契約の血をあたりまえのものとみなし,過分のご親切の霊をないがしろにした者は,はるかに厳しい処罰に値すると,あなた方は考えないでしょうか。……生ける神の手に陥るのは恐ろしいことです」。そのような者たちの裁きは,モーセの律法に違犯した人たちとは異なり,単に殺されてシェオルに葬られるだけでは終わらないという意味で,より厳しいものです。彼らは復活の起こらないゲヘナに行きます。―ヘブ 10:26-31。
ペテロは兄弟たちに手紙を書き,「神の家」である彼らが裁きのもとにあることを指摘してから箴言 11章31節(七十訳)を引用し,不従順の危険性について彼らに警告しています。ここでペテロが言わんとしているのは,彼らが受けている現在の裁きは,パウロが書き記していたとおり,彼らに対する永遠の滅びという裁きをもって終わる可能性があるということです。―ペテ一 4:17,18。
使徒パウロも,「主のみ前から,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受け(る)」人々について述べています。そのような処罰を受けるのは,「彼が来て,その聖なる者たちとの関係で栄光を受ける時……のことです」。(テサ二 1:9,10)ですから,そのような人たちが生き残ってキリストの千年統治に入ることはありません。また,彼らの滅びは「永遠の」ものなので,彼らは復活を受けません。
1,000年間の復活 これまで生存した人間の正確な数は,人間には分かりません。とはいえ,例えばエホバが200億人を復活させるとしても,彼らの住居のスペースや食物に関する問題は生じないでしょう。現在のところ,地球の陸地の面積は約1億4,800万平方㌔,つまり148億㌶です。その半分を他の用途のために取り分けるとしても,一人当たり3分の1㌶以上の土地があります。地球の食糧生産の可能性に関して言えば,3分の1㌶あれば,特に,神がイスラエル国民に対して実証してこられたように,神の祝福の結果として豊富な食物があるならば,実際に一人の人に備えられる食物は十分過ぎるほどの量になるでしょう。―王一 4:20; エゼ 34:27。
国連食糧農業機関は地球の食糧生産力の問題について,地球は農耕の方法を適度に改善するだけで,発展途上にある地域においてさえ,科学者たちが西暦2000年の人口として見積もっている数の9倍もの人間を容易に養うことができると主張しています。―「土地,食物,人々」,ローマ,1984年,16,17ページ。
しかし,幾十億という人々の大半が過去において神を知らず,自分たちに対する神の律法に従うことを学ばなければならないとすると,どうすれば彼らを十分に世話できるでしょうか。まず第一に,聖書は世の王国が「わたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼は限りなく永久に王として支配する」と述べています。(啓 11:15)また,「地に対してあなた[エホバ]の裁きがあるとき,産出的な地に住む者たちは必ず義を学ぶ」というのが聖書の原則です。(イザ 26:9)神はご予定の時に,ご自分の僕たちに知らせることが必要になった時,この業の世話をどのように行なうつもりであるかを啓示されるでしょう。―アモ 3:7。
今は墓の中にいる幾十億もの人々を1,000年以内に復活させ,教育することが,どうして可能なのでしょうか
それでも,エホバが人類のために考えておられる事柄がごく単純明快で実際的であることは,一つの例を考えるとはっきり分かります。これは預言ではありませんが,単なる例として,この事物の体制に臨む「大患難から[生きて]出て来る」義にかなった人々の「大群衆」を構成する人たち(啓 7:9,14)が600万人(地上の現在の人口の約1/1000)いたと仮定しましょう。それから,例えば100年をかけて彼らを訓練し,地上のある部分を「従わせ」た(創 1:28)後に,神がこの数の3%の人々を戻そうと意図されたとします。そうすると,新しく復活した一人の人を,訓練を受けた33人が世話することになります。年に3%の増加を複利式に加算すると,この数は約24年ごとに倍になるので,200億人全体はキリストの千年統治が始まってから400年が経過する前に復活できることになります。そのため,地上の調和や秩序を乱すことなく,復活した人々を訓練して裁くのに十分な時間の余裕が生まれます。このように神は全能の力と知恵をもって,しかもご自分が最初から人類のために設けられた律法と取り決めの枠に十分かなう範囲で,ご自分の目的が輝かしい結末を迎えるよう取り計らうことができます。復活はその枠に付け加えられた過分のご親切なのです。―ロマ 11:33-36。