4章
「教育のない普通の人」
エホバに頼った使徒たちの勇気ある行動が報われる
1,2. 神殿の門の近くで,ペテロとヨハネはどんな奇跡を起こしましたか。
午後の傾いた太陽が,行き交う人たちを照らしています。神を畏れるユダヤ人とキリストの弟子たちが神殿の境内に入っていきます。もう少しで「祈りの時間」です。a (使徒 2:46; 3:1)人混みの中にペテロとヨハネもいて,神殿の「美しい門」に向かっています。すると,大勢の話し声や足音がする中,男性が声を張り上げるのが聞こえます。生まれつき足が不自由な中年の男性が,物乞いをしています。(使徒 3:2; 4:22)
2 ペテロとヨハネがやって来るのを見て,男性はいつものせりふを叫び,お金を乞います。2人が足を止めると,男性は期待してじっと見つめます。ペテロがこう言います。「銀や金はありませんが,私にあるもの,それを与えます。ナザレ人イエス・キリストの名によって,歩きなさい!」それからペテロは,男性の手をつかんで立ち上がらせます。男性は生まれて初めて真っすぐに立ちました。見ていた群衆はどんなにか驚いたことでしょう。(使徒 3:6,7)男性は治った足を見下ろし,そっと一歩を踏み出します。どんな気持ちだったでしょうか。跳びはねながら神を大声で賛美したのも,不思議ではありません。
3. ペテロはどのようにして,銀や金よりもはるかに価値のあるものを男性と群衆に与えましたか。
3 興奮に包まれた群衆が,ソロモンの柱廊にいるペテロとヨハネの所に走り寄ってきます。イエスも以前ここに来て教えたことがあります。(ヨハ 10:23)ペテロは,今起きたことはいったい何だったのかを説明します。そして,癒やしよりももっと大事なことをします。悔い改めてエホバに罪を消し去ってもらい,「命へと導く方」イエスの後に従うよう,勧めました。(使徒 3:15)こうしてペテロは確かに,銀や金よりもはるかに価値のあるものをその男性と群衆に与えました。
4. (ア)この日の出来事をきっかけに,どんな対立が始まりましたか。(イ)これからどんなことを考えますか。
4 とても素晴らしい日です。生まれつき歩けなかった人が癒やされ,歩けるようになりました。たくさんの人たちが,「エホバに仕える人にふさわしい歩み方」を教わりました。(コロ 1:9,10)この日の出来事をきっかけに,キリストの後に従うクリスチャンと,伝道を阻もうとする権力者たちとの対立が始まりました。(使徒 1:8)「教育のない普通の人」だったペテロとヨハネの教え方から,どんなことを学べるでしょうか。b (使徒 4:13)反対に遭ったとき,どのように弟子たちに倣えるでしょうか。
「私たちの力による」のではない(使徒 3:11-26)
5. ペテロの教え方にどのように倣えますか。
5 ペテロとヨハネの前にいる群衆の中には,イエスが処刑される時に「杭に掛けろ!」と叫んだ人たちがいたかもしれません。2人はそのことを知っていたはずです。(マル 15:8-15。使徒 3:13-15)それでも,ペテロは恐れずに真実をありのままに語り,イエスの名(権威と力)によって男性は癒やされたと説明しました。かなり勇気があったことが分かります。聞いている人たちにもイエスを殺した責任があることを率直に話しました。でも彼らを憎んではいませんでした。彼らは「よく知らずに行動した」からです。(使徒 3:17)ペテロは「兄弟たち」と呼び掛け,神の王国の良い知らせに注意を引きました。悔い改めてイエスに信仰を持てば,「爽やかにする時期がエホバから来[ます]」。(使徒 3:19)私たちも,神の裁きの日について勇気を持って率直に伝えます。でも,相手を不快にさせるような話し方や厳しい言い方はしません。私たちの兄弟になる見込みのある人だと考えて話します。そして,ペテロのように,神の王国が実現させる良いことに注目してもらうようにします。
6. ペテロとヨハネが謙虚だったことは,どんなことから分かりますか。
6 ペテロもヨハネも謙虚な人たちでした。自分たちの力で奇跡を起こしたわけではないことを認めます。ペテロはこう言いました。「なぜこのことにそんなに驚いて私たちを見つめているのですか。この人が歩けるようになったのは,私たちの力によるのでも,私たちが神への専心を示しているからでもありません」。(使徒 3:12)使徒たちは,宣教で達成するどんなことも,自分たちの力ではなく神の力による,ということを分かっていました。それで謙虚に,自分たちではなくエホバとイエスが称賛されるようにしました。
7,8. (ア)ペテロに倣って,人々をどのように助けることができますか。(イ)預言されていた「全ての事柄の回復」が今どのように起きていますか。
7 神の王国について伝道するとき,私たちも謙虚でいたいと思います。もちろん,現代のクリスチャンが聖なる力によって癒やしの奇跡を起こすことはありません。それでもペテロに倣って,神とキリストへの信仰を育むよう助けたいと思います。そして,エホバに罪を許してもらって爽やかになるよう勧めましょう。そう勧められ,毎年たくさんの人がバプテスマを受け,キリストの弟子になっています。
8 今は,ペテロが話した「全ての事柄の回復」の時です。私たちはそういう時代に生きています。「神が昔の聖なる預言者たちを通して語った」言葉の通り,1914年に神の王国が天につくられました。(使徒 3:21。詩 110:1-3。ダニ 4:16,17)王になったキリストは間もなくして,地球に真の崇拝を回復させることに取り掛かりました。そのおかげで,何百万もの人たちが神の王国の国民となり,楽園にいるかのような幸せを味わっています。それまでの望ましくない「古い人格を脱ぎ捨て」,「神の意志に沿って形作られ」た「新しい人格を身に着け」ています。(エフェ 4:22-24)そういう大きな変化は,人間の力ではなく神の聖なる力によるものです。足が不自由な人が癒やされた奇跡と同じです。それでペテロのように,聖書を上手に使い,神が助けてくれることを信じて教えていきましょう。キリストの弟子になるよう助けることは,私たちの力ではなく神の力によってのみ可能です。
「話すのをやめるわけにはいきません」(使徒 4:1-22)
9-11. (ア)ユダヤ人の権力者たちは,ペテロとヨハネの話を聞いてどう思いましたか。そしてどうしましたか。(イ)ペテロとヨハネはどんなことを決意していましたか。
9 足が不自由だった人が跳びはねながら大声を上げたり,ペテロが語ったりしたため,辺りは騒がしくなりました。それで,神殿の指揮官(神殿域の治安維持のための監督)と祭司たちが,これは何事かと様子を見にやって来ます。それらの人たちはサドカイ派だったと思われます。サドカイ派とは,政治権力を持つ裕福な教派で,ローマ政府との友好関係を保とうとしている人たちでした。パリサイ派が好んだ口伝律法を認めず,復活を信じるのはばかげていると考えていました。c ペテロとヨハネが神殿で,イエスが復活したと熱く語っているのを知って,相当いら立ったはずです。
10 サドカイ派の人たちは怒って,ペテロとヨハネを拘束し,翌日ユダヤ人の高等法廷に連れていきます。特権意識の強い権力者たちに言わせれば,ペテロとヨハネは「教育のない普通の人」で,神殿で教える権限はありません。名の知れた宗教学校で学んだりはしていません。それでも2人が堂々と語るのを見て,法廷にいる人たちは不思議に思います。どうしてそんなに教えるのが上手なのでしょうか。1つには,「2人がイエスと一緒にいた」からです。(使徒 4:13)イエスは「律法学者たちのようにではなく,権威を授かった人のように教えて」いました。(マタ 7:28,29)
11 法廷は2人に,伝道をやめるようにと命じます。当時,法廷の命令にはかなりの効力がありました。少し前,この法廷はイエスについて「この者は死に値する」と宣告したばかりです。(マタ 26:59-66)それでも,ペテロとヨハネはおじけづいたりしません。裕福で高学歴の権力者たちの前で,恐れずに,でも敬意を込めてこう言います。「神よりもあなた方の言うことを聞く方が,神から見て正しいことなのかどうかは,自分たちで判断してください。しかし,私たちとしては,見聞きしたことについて話すのをやめるわけにはいきません」。(使徒 4:19,20)
12. どうすれば,恐れずに語れるようになりますか。
12 あなたにも同じような勇気がありますか。富裕層の人,高学歴の人,有名人や有力者に伝道することになったら,どう感じますか。家族や親族,クラスメート,同僚から,「変な宗教をやっている」とばかにされたら,おどおどしてしまいますか。もしそうだとしても,大丈夫です。そういう気持ちは乗り越えられます。イエスは,自分の信仰について敬意を込めながらはっきりと語るためのアドバイスをくれています。(マタ 10:11-18)そして,「私は体制の終結までいつの日もあなたたちと共にいる」と約束しています。(マタ 28:20)イエスの指導の下,「忠実で思慮深い奴隷」もトレーニングしてくれています。(マタ 24:45-47。ペテ一 3:15)「クリスチャンとしての生活と奉仕」などの集会や,jw.orgの「聖書 Q&A」などの記事から,どう話せばよいかを学べます。こういったものを十分に活用すれば,恐れずに語れるようになります。きっとペテロやヨハネと同じように,学んだことについて話すのをやめるわけにはいかない,という気持ちになるはずです。
「神に向かって声を上げ[た]」(使徒 4:23-31)
13,14. 反対に遭ったときはどうするとよいですか。なぜですか。
13 ペテロとヨハネは釈放されると,すぐに会衆のみんなに会いに行きます。仲間たちは「神に向かって声を上げ」,大胆に伝道し続けられるようにと祈っていました。(使徒 4:24)ペテロは,自分の力に頼るのがどれほど愚かなことか,痛いほど知っています。少しばかり前,自信たっぷりにイエスにこう言いました。「ほかのみんながあなたを見捨てても,私は決して見捨てません!」しかし,イエスが言った通り,恐れに負けて大切なイエスのことを見捨ててしまいました。それでもペテロは失敗からきちんと学びました。(マタ 26:33,34,69-75)
14 ただ決意するだけでは,キリストについて語る使命を果たすことはできません。信仰を捨てるよう圧力をかけられたり,伝道をやめるよう言われたりしたときは,ペテロとヨハネの手本を思い出しましょう。力を下さいとエホバに祈りましょう。会衆の人たちにも支えてもらえます。長老や信頼できる仲間に話してください。仲間の祈りは,頑張るための大きな力になります。(エフェ 6:18。ヤコ 5:16)
15. 伝道をやめてしまったことがあるとしても,心配要りません。どうしてですか。
15 恐れに負けて伝道をやめてしまったことがあるとしても,心配要りません。イエスの使徒たちも,イエスの死後みんな伝道をやめてしまいました。でも,すぐに再び伝道を始めました。(マタ 26:56; 28:10,16-20)過去にとらわれるのではなく,失敗から学び,仲間を助けるためにその経験を生かしましょう。
16,17. エルサレムに集まっていた弟子たちの祈りから,どんなことを学べますか。
16 迫害を受けるとき,何を祈り求めるとよいでしょうか。弟子たちは,迫害から逃れられますようにとは祈りませんでした。彼らはイエスがこう言ったのを覚えていました。「世の人々が私を迫害したのであれば,あなたたちをも迫害します」。(ヨハ 15:20)弟子たちはただ,「彼らの脅しに注意を向け」てくださいとエホバに祈りました。(使徒 4:29)起きている事をもっと大きな視野で見ていました。迫害はあらかじめ預言されていたことで,今まさに自分たちがそれを経験していると考えました。権力者たちが何を言うとしても,神が望んでいることは「地上でも行われ」ます。イエスから教わった通り,弟子たちはそのことを願い,祈りました。(マタ 6:9,10)
17 エホバの望むことを行えるよう,弟子たちはこう祈りました。「あなたの奴隷たちができる限り大胆にあなたの言葉を語り続けられるようにしてください」。エホバはすぐに答えてくれました。「集まっていた場所は揺れ動いた。そして一人残らず聖なる力に満たされて,神の言葉を大胆に語るのだった」と書かれています。(使徒 4:29-31)神が行うことは誰にも邪魔できません。(イザ 55:11)どんなに追い詰められ,どんなに敵が強くても,祈って助けを求めれば,神は伝道し続ける勇気と力を与えてくれます。
「人ではなく神に」責任を問われる(使徒 4:32–5:11)
18. エルサレムの会衆の人たちはどのように助け合いましたか。
18 エルサレムの新しい会衆はすぐに5000人以上に増えました。d いろいろな場所から来た人たちでしたが,「心と思いを一つ」にしています。同じ思い,同じ考え方でしっかりと団結しています。(使徒 4:32。コリ一 1:10)弟子たちは祈ってエホバに助けを求めるだけでなく,仲間同士で助け合いました。信仰を強め合い,必要なときにはお金や物も分け合いました。(ヨハ一 3:16-18)例えば,ヨセフ(使徒たちからバルナバとも呼ばれた)は持っていた土地を売り,全額を仲間のために寄付しました。遠くからエルサレムに来ていた仲間たちがもう少しとどまって,キリストについての教えをもっと学べるようにするためでした。
19. アナニアとサッピラがエホバに打たれて死んだのはどうしてですか。
19 アナニアとサッピラという夫婦も所有地を売り,寄付をしました。でも,全額を寄付したように見せ掛け,「その代金の一部をひそかに取って」おきました。(使徒 5:2)2人はエホバに打たれて死にます。金額が少なかったからではありません。寄付をした動機が悪く,うそをついたからです。「人ではなく神にうそをつきました」。(使徒 5:4)神に認められることよりも,人に称賛されることを求めていました。イエスが非難した偽善者たちのようになっていました。(マタ 6:1-3)
20. エホバへの奉仕や寄付についてどんなことを学べますか。
20 1世紀のエルサレムの弟子たちと同じように,現代のエホバの証人も世界的な伝道をサポートするために喜んで寄付しています。伝道のために時間を使ったりお金を寄付したりするよう強制されることはありません。エホバは,私たちが嫌々奉仕したり,誰かに強いられて仕えたりすることを望んでいません。(コリ二 9:7)私たちが寄付するとき,エホバが注目しているのはその額ではなく,どんな気持ちでそうしたかです。(マル 12:41-44)自分の利益のためや人から称賛を受けるためにエホバに仕えるとしたら,アナニアとサッピラのようになってしまいます。私たちがエホバに仕えるのは,神と仲間を心から愛しているからです。いつもそういう気持ちでいたペテロ,ヨハネ,バルナバに倣いましょう。(マタ 22:37-40)
a 神殿では,朝と夕方,捧げ物をする時に祈りが捧げられました。夕方の捧げ物の時間は「午後3時」ごろでした。
b 「ペテロ 漁師が熱心な使徒になる」,「ヨハネ イエスの愛する弟子」という囲みを参照。
d 33年当時のエルサレムでは,パリサイ派の人たちの数が6000人ほどで,サドカイ派の人たちの数はもっと少なかったようです。これらの教派の人たちが,イエスの教えが広まっていくのを脅威に感じたのもうなずけます。