第6章
奇跡 ― それは本当に起きましたか
西暦31年のある日のこと,イエスとその弟子たちは,パレスチナ北部の都市ナインに向けて旅をしていました。その都市の門に近づいた時,とある葬式の行列が進んで来るのに出会いました。死んだのは若者でした。その母親はやもめであり,その若者は彼女の独り息子でした。母親は全くの独り身となってしまったのです。こう記されています。「[イエス]は哀れに思い,『泣かないでもよい』と言われた。そうして,近づいて棺台にお触りになった。それで,担いでいた者たちは立ち止まった。それからイエスは言われた,『若者よ,あなたに言います,起き上がりなさい!』 すると,死人は起き直り,ものを言い始めたのである」。―ルカ 7:11-15。
1 (前書き部分を含む)(イ)ナインの近くでイエスはどんな奇跡を行なわれましたか。(ロ)聖書の中で奇跡はどれほど重要な役割を果たしていますか。しかし,それが本当に起きたことをすべての人が信じていますか。
心温まる物語です。しかし,これは本当にあった事なのでしょうか。このような事柄がかつて実際に起きたということを信じにくいとする人たちが多くいます。しかしながら,奇跡は,聖書の記録の中で欠くことのできない部分を成しています。聖書を信じるとは,奇跡が起きたと信じることでもあります。事実,聖書の真理の全体は,きわめて重要な一つの奇跡,すなわちイエス・キリストの復活の奇跡に立脚しています。
ある人々が信じないのはなぜか
2,3 奇跡は起こり得ないことを論証しようとしてスコットランドの哲学者デービッド・ヒュームが用いた論法の一つは何ですか。
2 あなたは奇跡を信じますか。それとも,この科学の時代に奇跡を,すなわち超人間的介入のしるしとしての並外れの出来事を信じるのは道理にそわないことである,と感じられますか。奇跡を信じておられないとしても,その点であなたが最初の人ではありません。今から2世紀前,スコットランドの哲学者デービッド・ヒュームもその同じ問題にぶつかりました。あなたが奇跡を信じない理由は,ヒュームの場合と同様であるかもしれません。
3 奇跡という概念に対するヒュームの反論には,三つの主要な点がありました。1 第一に,ヒュームは,「奇跡というものは自然の法則に反する」と書いています。人間は遠い昔から自然の法則に依存してきました。物体が落下すること,太陽が毎朝昇り,毎晩沈むことなどを人間は学んできました。自然界の物事は常にそのような一般的に知られているパターンに従うであろう,ということを本能的に理解してもいます。自然の法則にそわない事柄は決して起きないはずです。この“論証”は,奇跡というものの可能性を否定する点で,「完全無欠であり,体験などに基づくどのような論議にも対応し得る」とヒュームは感じました。
4,5 奇跡の可能性を否定するためにデービッド・ヒュームが提出した他の二つの論点は何ですか。
4 ヒュームの提出したもう一つの論点は,人がたやすくだまされるという点です。とりわけ宗教に関連した事柄になると,奇跡や不思議な現象を信じたいと思う人たちがいます。奇跡とされたものの中には,実際にはまやかしであったものが多くあります。奇跡があったとされているのは多くの場合,人がまだ無知であった時代のことである,というのが三番目の論点です。人々の教育水準が高くなるにつれ,奇跡があったという話は少なくなります。「そうした度はずれな事柄は我々の時代には決してあり得ない」というのがヒュームの言い方です。これによって,奇跡など決して起こらなかったことが証明されるとヒュームは感じました。
5 今日に至るまで,奇跡を否定するたいていの論議は,概してこのような論法に従っています。では,ヒュームの反論を一つずつ検討してみましょう。
自然の法則に反するか
6 「自然の法則に反する」という理由で奇跡という概念に反論するのはなぜ論理にそうことではありませんか。
6 奇跡は「自然の法則に反する」,したがって真実のものではあり得ない,という反論についてはどうでしょうか。表面的には,これは説得力があるように見えます。しかし,述べられていることの真の意味をよく考えてください。多くの場合,奇跡とは通常の自然法則外で起きる事柄,と定義できるでしょう。a それはあまりにも予期外の事象に思えるため,それを見る人は,超人間的な介入を目撃したものと確信します。ですから,実際のところこの反論は,『奇跡は奇跡的であるから起こり得ない』と言っていることになります。そのような結論を急ぐ前に,現実の証拠を考慮してみることはどうでしょうか。
7,8 (イ)今日知られている自然の法則について言えば,科学者たちは,どんな事が起こり得るかという点について,なぜ以前より広い見方をしていますか。(ロ)神の存在を信じるとすれば,普通を超えた事柄を行なう力についてどんなことも認めるべきですか。
7 実際のところ,今日の教育ある人々は,一般的に知られている自然の法則がどこでも常に当てはまると主張する点では,デービッド・ヒュームほどに積極的ではありません。科学者たちは,一般によく知られる縦,横,高さの三次元だけでなく,それ以外の別の次元が宇宙内にいろいろ存在するのではないか,という点を好んで考察します。2 また,ブラックホール,つまり巨大な星であったものが内部に向かって崩壊し,その密度がほとんど無限大にまでなったものの存在についても理論付けがなされています。その付近における空間の構造は極めてゆがみ,時間そのものも停止してしまう,とされています。3 科学者たちはまた,ある種の条件下で時間が進行するのではなく逆戻りする可能性についても論じています。4
8 ケンブリッジ大学数学科のルーカス栄誉教授職にある,スティーブン・W・ホーキングは,宇宙がどのように始まったかの論議の中でこう述べました。「古典的な一般相対性理論において……宇宙の始まりは,無限の密度と時空のゆがみという特異性でなければならない。そのような条件のもとで,既知の物理法則はみな崩壊してしまうであろう」。5 それで,通常の自然法則に反する事柄は決して起こり得ないという見方に,現代の科学者たちは同意しません。普通と異なる条件下では,普通と異なる事象が起こり得ます。もとより,全能の神の存在を信じるとすれば,その神は,ご自身の目的にまさにかなう時に,普通を超えた ― つまり奇跡的な ― 事柄を生じさせる力を持たれる,ということをも認めるのが当然でしょう。―出エジプト記 15:6-10。イザヤ 40:13,15。
まやかしの奇跡についてはどうか
9 まやかしの奇跡があるのは事実ですか。答えの意味を説明してください。
9 分別のある人であれば,まやかしの奇跡があることを否定しないでしょう。例えば,奇跡的な信仰治療によって病気をいやす力があると唱える人たちがいます。医師ウィリアム・A・ノーランは,自分の特別研究計画として,そのようないやしについて調査しました。同医師は,米国の福音信仰治療家やアジアのいわゆる心霊療法家によって治療されたとされる数多くの例について追跡調査をしました。結果はどうでしたか。見いだしたものは,失望とごまかしの事例ばかりでした。6
10 ある奇跡がまやかしであったということは,奇跡はすべてごまかしであるという意味になると思われますか。
10 そのようなごまかしがあるということは,本当の奇跡というものがあり得ないという意味ですか。必ずしもそうではありません。偽造された銀行券が出回っていることを耳にする場合がありますが,それは,すべての紙幣が偽造されたものであるという意味ではありません。病気をかかえる人たちの中には,いかさま医師や詐欺的な医者を信じ込んで,多額の金銭をつぎ込む人もいます。しかしそのことは,すべての医師が詐欺的であるという意味ではありません。ある画家は“昔の巨匠たち”の作品を模写することに熟達しています。しかしそのことは,すべての絵画が偽物であるという意味ではありません。同じように,奇跡と唱えられたある事柄が明らかなまやかしであったとしても,本当の奇跡があり得ない,という意味にはなりません。
『奇跡は今日起こらない』
11 奇跡という概念に対するデービッド・ヒュームの第三の反論は何でしたか。
11 第三の反論は,「そうした度はずれな事柄は我々の時代には決してあり得ない」という言葉で表現されました。ヒューム自身は奇跡を見たことがなかったために,奇跡が起き得るということを信じませんでした。しかし,そのような推論は整合性を欠いています。物事を考える人であればだれでも認めなければならない点ですが,このスコットランド人の哲学者の時代以前に生じた「度はずれな事柄」で,その生涯中には繰り返されなかった事柄がいろいろあります。どんな事でしょうか。
12 今日観察される自然の法則では説明できないどんなすばらしい事柄が過去に起きましたか。
12 その一つは,地上における生命の始まりです。次いで,ある種の形態の生物には意識作用が賦与されました。やがて人間が,知恵・想像力・愛する能力・良心の機能などを賦与されたものとして登場しました。このような並々ならぬ事柄がどのようにして起きたかを,今日作用している自然法則に基づいて説明できる科学者は一人もいません。それでも,そのような事が確かに起きたという生きた証拠が現実に存在します。
13,14 デービッド・ヒュームには奇跡と思えるであろうどんな事柄が今日普通に行なわれていますか。
13 デービッド・ヒュームの時代以後に起きた「度はずれな事柄」についてはどうでしょうか。時間をさかのぼって,今日の世界についてヒュームに話すことができたとしましょう。ハンブルクにいるビジネスマンが幾千キロも離れた東京のある人と,声を張り上げもせずに話ができること; スペインでのサッカー試合を地上のあらゆるところで,現にいま行なわれているとおりに見られること; さらに,ヒュームの時代の外洋航海船よりもずっと大きな乗り物が地表から浮かび上がり,500人もの人を運んで何千キロも離れた所へわずか数時間で飛べることなどを説明している場面を考えてください。ヒュームの反応を想像できますか。『あり得ない! そんな度はずれな事は我々の時代に決して起こらない』と言うに違いありません。
14 しかし,そのような「度はずれな事柄」がわたしたちの時代に現に起きています。どうしてでしょうか。人間は,ヒュームがその概念すら持ち合わせなかった科学上の諸原理を応用して,電話・テレビ・飛行機などを製造できるようになったのです。では,過去の折々に,わたしたちがまだ理解していない方法で,神が,わたしたちには奇跡的に見える事柄を成し遂げられたことを信じるのは,それほど難しいことなのでしょうか。
どうしたらそれと分かるか
15,16 奇跡が過去に本当に起きたとすれば,わたしたちがそれについて知ることのできる唯一の方法は何ですか。答えを例えで説明してください。
15 言うまでもなく,奇跡が起こり得たということは,それが実際に起きたという意味ではありません。聖書時代に神が地上の僕たちを通して本当の奇跡を行なわれたかどうかを,この20世紀のわたしたちがどのようにして知ることができるでしょうか。そのような事の証拠としてあなたはどんなものを期待されますか。原始生活をしていた未開部族の人が生まれ育ったジャングルから大都会へ少しのあいだ連れて来られた場合のことを考えてください。故郷に戻った時,その人は文明の驚異について自分の仲間にどのように話すでしょうか。自動車がどのような仕組みで走り,どのような仕掛けでポータブルラジオから音楽が流れて来るかを説明することはできないでしょう。そのようなものが存在する証明としてコンピューターを作ってみせることもできないでしょう。できるのは,自分の見てきたものについて話すことだけです。
16 わたしたちはその人の仲間の部族民と似た立場にいます。神がかつて実際に奇跡を行なわれたとすれば,わたしたちがそれについて学ぶ唯一の方法は目撃者たちから聞くことです。それら目撃者たちは,その奇跡がどのような仕組みで起きたかを説明できないでしょう。それを再現してみせることもできないでしょう。できるのは,自分が何を見たかを話すことだけです。もとより,その目撃証人が欺かれている可能性もあります。また,そのような人はとかく大げさに話したり,誤り伝えたりもしがちです。それで,わたしたちがそれらの人々の証言を信じるためには,それら目撃証人が真実を語っており,そのような証人としてのレベルが高く,しかも良い動機を抱いていることを実証してきた,などの点をよく知る必要があるでしょう。
最もよく証言のなされている奇跡
17 (イ)聖書の中で最もよく証言がなされているのはどの奇跡ですか。(ロ)イエスが死に至った状況はどのようなものでしたか。
17 聖書の中で最もよく証言のなされている奇跡は,イエス・キリストの復活です。それで,これを言わばテストケースにして調べてみましょう。まず,どのようなことが記されているかを考えてください。イエスはニサン14日の晩に捕縛されました ― それは,わたしたちの今日の週単位の数え方では木曜日の晩に当たります。b イエスはユダヤ人の指導者たちの前に連れ出され,それら指導者はイエスを冒とくの罪で告発して,死罪に定めました。ユダヤ人の指導者たちはイエスをローマ人総督ポンテオ・ピラトの前に引いて行き,ピラトは彼らの圧力に屈して,刑執行のためにイエスを引き渡しました。金曜日の午後 ― ユダヤ暦ではまだニサン14日 ― イエスは苦しみの杭に釘づけにされ,数時間後に息を引き取りました。―マルコ 14:43-65; 15:1-39。
18 聖書によると,イエスの復活に関する知らせはどのようにして広まりましたか。
18 ローマ人の一兵士は,イエスが死んだことを確かめようとしてその脇腹を槍で突き刺し,その後イエスの遺体はある新しい墓の中に葬られました。明くるニサン15日(金曜日-土曜日)は安息日でした。しかし,ニサン16日の朝 ― 日曜日の朝 ― 幾人かの弟子たちがその墓に行ってみると,そこは空になっていました。じきに,イエスが生きた姿で現われたという話が伝わりはじめました。そのような話に対する当初の反応は,今日普通に予期されるものと全く同じ,つまり,とても信じられないという反応でした。使徒たちでさえそれを信じようとはしませんでした。しかし,生きているイエスを自分の目で見た時,それら使徒たちも,イエスが本当に死からよみがえらされたのだ,ということを受け入れざるを得ませんでした。―ヨハネ 19:31-20:29。ルカ 24:11。
空になった墓
19-21 (イ)殉教者ユスティヌスによると,イエスの復活について宣べ伝えるクリスチャンに対してユダヤ人はどのように対応しましたか。(ロ)ニサン16日のイエスの墓の状態についてどんな事は真実であったと確信できますか。
19 イエスは復活したのでしょうか。それとも,これはただの作り話ですか。当時の人々が恐らく尋ねたであろうことの一つは,イエスの体はまだ墓にあるか,という点だったでしょう。イエスが復活などしていない証拠として埋葬場所にその遺体が現にまだあるではないかという点を反対者たちが指摘できたとしたら,イエスの追随者たちは大きな障害に面したことでしょう。しかし,反対者たちがその点を挙げたという記録はありません。むしろ,聖書によると,反対者たちは,その墓を守るように割り当てられていた兵士たちに金を渡して,「『夜中にその弟子たちが来て,自分たちが眠っている間に彼を盗んでいった』と言え」と命じたのです。(マタイ 28:11-13)ユダヤ人の指導者たちがこのような行動を取ったことの証拠は聖書以外にもあります。
20 イエスの死のおよそ1世紀後,殉教者ユスティヌスは「トリュフォンとの対話」と呼ばれる著作を残し,その中でこう述べています。「あなた方[ユダヤ人]は,選び出して任命した者たちを世界中に送り出し,こうふれ告げさせている。すなわち,不信心で無法な異端がイエスというガリラヤ人の欺まん者から生じ,我々はこれを杭にかけたが,その弟子たちは夜中に,その横たえられた墓から彼を盗み出した,と」。7
21 さて,トリュフォンという人はユダヤ人で,「トリュフォンとの対話」はユダヤ教に対してキリスト教を擁護するために書かれました。したがって,クリスチャンがイエスの体を墓から盗み出したのだというような非難をユダヤ人が行なっていなかったとしたら,殉教者ユスティヌスは上記のように,彼らがそうした訴えをしていると述べたりはしなかったことでしょう。でなければ,容易に虚偽を立証されてしまうような事柄にはかかわらないようにしたはずです。ユダヤ人が実際にそのような使者を送り出していたからこそ,殉教者ユスティヌスはこのように述べたのです。西暦33年ニサン16日にその墓が空になっていたからこそ,そして,墓の中のイエスの死体を指摘して復活が起きなかった証拠とすることができなかったからこそ,ユダヤ人はそのような使者を送り出したりしたのです。ですから,墓は空になっていたのです。何が起きたのでしょうか。弟子たちが死体を盗み出したのでしょうか。それとも,イエスの復活が本当に起きた証拠としてそれは奇跡的に除き去られたのでしょうか。
医者ルカの結論
22,23 高い教育を受けた1世紀の人でイエスの復活について調べたのはだれでしたか。その人はどのような情報源を用いることができましたか。
22 高い教育を受けた1世紀の人で,これらの証拠を注意深く検討したのは,医者ルカでした。(コロサイ 4:14)ルカは,今日聖書の中に含められている二つの書を書きました。一つは,福音書つまりイエスの宣教活動の足どりをたどった記録です。もう一方は,「使徒たちの活動」と呼ばれ,イエスの死後の時代におけるキリスト教拡大の歴史です。
23 自分の記した福音書の導入部分で,ルカは,今日のわたしたちはもはや入手できないものの,ルカは手に入れることのできた多くの証拠について述べています。ルカは,自分が調べた,イエスの生涯に関する種々の文書資料について語っています。また,イエスの生涯,その死と復活の目撃証人たちとじかに話したことについても記しています。そして,こう述べています。『私は,すべてのことについて始めから正確にそのあとをたどりました』。(ルカ 1:1-3)明らかに,ルカの調査は徹底的でした。ルカは歴史の記述者として信頼できる人でしたか。
24,25 多くの人は歴史の記述者としてのルカの資格をどのように見ていますか。
24 多くの人が,この点で肯定の証言をしています。1913年にさかのぼりますが,ウィリアム・ラムジ卿は,自分の行なったある講義の中でルカの著作の史実性について述べました。その結論はこうです。「ルカは第一級の歴史家である。史実の扱い方に信頼性があるだけではない。真の歴史感覚を備えていたのである」。8 さらに近年の研究者たちも同様の結論に達しています。「生きた言葉注解双書」は,ルカに関する書巻の紹介部でこう述べています。「ルカは歴史家(しかも正確な記述者)であり,かつ神学者でもあった」。
25 旧約聖書ギリシャ語の教授であった,北アイルランドのデービッド・グディング博士は,ルカについてこう言明しています。「彼は,旧約史家の伝統にしたがい,またツキディデス[古代世界の歴史家として非常に高い評価を受けている人]の伝統にならう古代歴史家である。それらの人々と同じように,ルカも,資料の調査に,情報の選択に,またその情報の処分に多大の労苦を払ったであろう。……ツキディデスは,歴史記述の正確さのため,このような組織的手法にさらに情熱を込めたが,ルカがその点で後れを取っていたと考えるべき理由はどこにもない」。9
26 (イ)イエスの復活についてルカはどのように結論しましたか。(ロ)どんな事に強められてルカはこのように結論したと考えられますか。
26 この立派に資格を備えた人ルカは,イエスの墓がニサン16日になぜ空になっていたかについてどんな結論を下していますか。福音書の中でも使徒たちの活動の書の中でも,ルカは,イエスが死人の中からよみがえらされたことを現実に起きた事として伝えています。(ルカ 24:1-52。使徒 1:3)ルカはその事について全く何の疑問も抱いていませんでした。復活の奇跡に対するルカのこの信仰は,自分自身の幾たびもの経験によって強められていたのかもしれません。ルカはその復活の目撃証人ではなかったと思われますが,それでも,その記録にあるとおり,使徒パウロによって行なわれた数々の奇跡を確かに目撃していたのです。―使徒 20:7-12; 28:8,9。
彼らは復活後のイエスを見た
27 復活したイエスを見たと述べている人の中にどんな人たちがいますか。
27 古来,福音書のうちの二つは,イエスをじかに知り,その死を見,復活後のイエスを実際に見たと述べるふたりの人によるものである,とされてきました。それは,かつて収税人であった使徒のマタイと,イエスの愛された使徒ヨハネです。別の聖書筆者である使徒パウロ自身も,よみがえったキリストを見たと述べています。さらにパウロは,イエスが死後に再び生きているのを見た他の人たちの名を挙げ,ある時にはイエスが一度に「五百人以上の兄弟に」現われたことについても述べています。―コリント第一 15:3-8。
28 イエスの復活はペテロにどのような影響を与えていましたか。
28 パウロが目撃者の一人として挙げているのは,イエスの肉親,つまり異父兄弟ヤコブです。ヤコブは子供時代からイエスのことをよく知っていたはずです。もう一人は使徒のペテロです。歴史家ルカは,このペテロが,イエスの死のほんの数週間のちに,イエスの復活について恐れることのない証言を行なったことを記録しています。(使徒 2:23,24)聖書に収められている手紙のうちの二つは,古来,使徒ペテロによるものとされていますが,その最初の手紙の中で,ペテロは,イエスの復活に対する信仰が,以来多年を経た後にも,自分にとって依然強力な動機の源となっていることを示しています。こう記しています。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。神はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです」― ペテロ第一 1:3。
29 わたしたちは復活の目撃証人とじかに話すことはできませんが,それでもどんな強力な証拠を手に入れることができますか。
29 ですから,ルカの場合には,死んだ後のイエスを見,またそのイエスとじかに話をしたと言う人々から話を聞くことができましたが,わたしたちの場合も,それらのうちのある人々が書き記した言葉を読むことができるのです。そして,それらの人々が欺かれていたのか,あるいはわたしたちを欺こうとしているのか,また,それらの人々は復活したキリストを本当に見たのかを,わたしたち自身で判断できます。はっきり述べると,これらの人々が欺かれていたということは全く考えられません。その中には,イエスの死に至るまでその親密な友であった人たちが多くいました。そのある者は,苦しみの杭の上でのイエスのもだえを目撃しました。兵士が加えた槍による傷から血と水が流れ出るのも見ました。イエスが紛れもなく死んだ事実を,その兵士も,それらの人々も知っていました。その後に,イエスが生きているのを見,実際にイエスと話をしたと,それらの人々は述べています。そうです,それらの人たちが欺かれていたはずはありません。では,これらの人々は,イエスは復活したと語って,わたしたちを欺こうとしているのでしょうか。―ヨハネ 19:32-35; 21:4,15-24。
30 初期の時代にいた,イエスの復活の目撃証人たちが偽りを述べていたとは考えられないのはなぜですか。
30 これに答えるには,こう自問してみればよいのです。これらの人々は,自分の述べている事柄を自ら信じていただろうか。確かに,何の疑いもなく信じていました。目撃証人であると唱えた人々を含め,クリスチャンにとって,イエスの復活はまさしく信仰の基盤をなしていました。使徒パウロはこう述べています。「もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうに無駄であり,わたしたちの信仰も無駄になります。……キリストがよみがえらされなかったのであれば,あなた方の信仰は無駄になります」。(コリント第一 15:14,17)これは,復活したキリストを見たと虚偽の申し立てをしている人の言葉のように聞こえますか。
31,32 初期クリスチャンたちはどのような自己犠牲を払いましたか。このことは,これらクリスチャンがイエスの復活について語る際に真実を述べていた強力な証拠であると言えるのはなぜですか。
31 その時代にクリスチャンであることが何を意味したかを考えてください。富・名声・権力の点で利得となるものは何もありませんでした。実際は,まさにその逆でした。初期クリスチャンの中には,信仰のために「自分の持ち物が強奪されても,喜んでそれに甘んじた」人々が多くいました。(ヘブライ 10:34)キリスト教が求めたものは,自己犠牲と迫害を忍ぶ生涯であり,それは辱めと苦痛の死という殉教に終わる場合が少なくありませんでした。
32 クリスチャンの中には富裕な家庭の出の人もいました。その父がガリラヤ地方で手広く漁業を営んでいたと思われる使徒ヨハネもその一人でした。前途を嘱望されていた人たちも多くいます。例えばパウロです。キリスト教を受け入れた時,パウロは広く名の知られたユダヤ教教師ガマリエルの門弟であり,ユダヤ人の支配者たちからも目をかけられるようになっていました。(使徒 9:1,2; 22:3。ガラテア 1:14)しかし,それらの人々すべてがこの世の提供するものを後にして,イエスが死から復活した事実に基づく音信を広めることのために一身をささげたのです。(コロサイ 1:23,28)虚偽に基づいていると自ら知っている事柄のために,どうしてそれほどの犠牲を払ってまで苦しみに耐えたりするでしょうか。あえてそのような事を行なうとは考えられません。それらの人々は,真実に根ざしていると自分たちが知っていた重要な事柄のために,苦しみや死をさえ辞さなかったのです。
奇跡は本当に起きた
33,34 復活が本当に起きたということから,聖書に記されている他の奇跡についてどのように言うことができますか。
33 確かに,論証のためのこうした証拠には絶対の説得力があります。イエスは,西暦33年ニサン16日に,本当に死からよみがえったのです。そして,この復活が起きたのですから,聖書に記されている他のすべての奇跡についても,それは起こり得たと言うことができます。それらの奇跡についても目撃者たちの確かな証言があるからです。イエスを死からよみがえらせたその同じ力ある方が,イエスを導いてナインのやもめの息子をよみがえらせることができるようにされました。その方はまた,イエスに力を与えて,それより小さな ― といってもやはりすばらしい ― 数々のいやしの奇跡を行なわせることもされました。大勢の人々に奇跡的に食事をさせたことの背後におられたのも,また,イエスが水の上を歩くことができるようにされたのも,同じ方です。―ルカ 7:11-15。マタイ 11:4-6; 14:14-21,23-31。
34 こうして,聖書が奇跡について述べているということ自体は,決して聖書の真実さを疑う理由とはなりません。むしろ,聖書の記された時代に数々の奇跡が行なわれたことは,聖書が真実に神の言葉であるという強力な証拠でもあります。しかし,聖書に対しては他の非難もなされています。聖書の内容は矛盾しているから,神の言葉ではあり得ない,と言う人たちが多くいます。そのような見方は正しいですか。
[脚注]
a ここで「多くの場合」と言うのは,聖書に記されている奇跡の中には,地震や地滑りなどの自然現象がかかわっていたのではないかと考えられるものもあるからです。しかし,それらもやはり奇跡とみなされます。なぜなら,まさに必要とされた時にそれが起き,それゆえ明らかに神の導きによるものとみなし得るからです。―ヨシュア 3:15,16; 6:20。
b ユダヤ暦の一日は,夕方の6時ごろから次の夕方の6時ごろまででした。
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キリスト教に敵対した人々は,弟子たちがイエスの体を盗み出したと唱えた。これが真相であったとすれば,イエスの復活を基盤とする信仰のためにクリスチャンたちが死をさえ辞さなかったのはどうしてだろうか
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今日奇跡が起きないのはなぜか
『聖書に出ているような奇跡が今日起きないのはなぜか』という質問がしばしばなされます。奇跡はその時代における目的を果たしたが,今日神は信仰によって生きることをわたしたちに望んでおられる,というのがその答えです。―ハバクク 2:2-4。ヘブライ 10:37-39。
モーセの時代には,モーセの資格証明として奇跡がなされました。エホバがモーセを用いておられること,律法契約が本当に神からのものであること,そしてイスラエル人がそれ以後神の選ばれた民となったことを,それらの奇跡は示しました。―出エジプト記 4:1-9,30,31。申命記 4:33,34。
1世紀においては,イエスの資格証明のため,またその後には,まだ経験の浅かったクリスチャン会衆の資格証明のために奇跡が行なわれました。それらの奇跡は,イエスが到来の約束されていたメシアであること,イエスの死後,クリスチャン会衆が神の特別な民として,生来のイスラエルに取って代わったこと,それゆえにモーセの律法はもはや拘束力を持たないことなどを立証するのに役立ちました。―使徒 19:11-20。ヘブライ 2:3,4。
使徒たちの時代以後,奇跡は過去の時代のものとなりました。使徒パウロはこう説明しています。「預言の賜物があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます。わたしたちの知識は部分的なものであり,預言も部分的なものだからです。全きものが到来すると,部分的なものは廃されるのです」― コリント第一 13:8-10。
今日わたしたちは完全に整った聖書を手にしています。そこには神からのすべての啓示と助言が含まれています。わたしたちは預言の成就について知っており,神の目的についても進んだ理解を得ています。それゆえに奇跡の必要はもはやありません。とはいえ,奇跡を可能にしたのと同じ神の霊は今日でも存在しており,その働きの結果は奇跡と同じく神の力の強力な証しとなっています。この点については,後の章でさらに取り上げます。
[75ページの図版]
太陽が毎朝昇ることなど自然の法則の信頼性を,奇跡が起こり得ないことの証拠と見る人が多くいる
[77ページの図版]
命あるものの住みかとしての地球の創造は,一度限り起きた「度はずれな事柄」
[78ページの図版]
現代科学の驚異について200年前の人にどのように説明できるだろうか