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エフェソス聖書に対する洞察,第1巻
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大競技場; 劇場 アルテミスの神殿の南西約1.5㌔の所にネロ(西暦54-68年)の支配下で再建された大競技場がありました。ここは多分,運動競技場だったのでしょう。もしかしたら,剣闘士の戦いもここで行なわれたのかもしれません。もし使徒パウロがエフェソスで野獣と戦ったことについて述べたコリント第一 15章32節の言葉が文字通りに解されるべきものであれば,恐らくパウロはこの大競技場で野獣と戦って身を守らなければならなかったのでしょう。
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エピクロス派聖書に対する洞察,第1巻
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しかし,エピクロス派は,神々はこの点でだれかを助ける立場にいないこと,生命は機械論的宇宙の事故で存在するようになったこと,および死はすべてを終わらせて人生の悪夢から個人を解放することなどを主張しました。人間は魂を持っていると信じられましたが,魂は原子で成り立っていて,水差しが壊れると水が漏れ出るように,それら原子は肉体の死に際して分解するとされていました。
以上の事柄に照らしてみると,アテネの市の立つ広場でパウロと言い合うようになり,「このおしゃべりは何を言おうとしているのか」,「これは異国の神々を広める者らしい」と言った人々の中にエピクロス派の哲学者たちがいた理由をよく理解できます。(使徒 17:17,18)エピクロス派の哲学は,「ただ食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから」というその考えと相まって,クリスチャンが宣教において教えた復活の希望を否定するものでした。―コリ一 15:32。
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