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『見えるところによらず,信仰によって歩む』ものみの塔 1998 | 1月15日
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『見えるところによらず,信仰によって歩む』
「わたしたちは信仰によって歩んでいるのであり,見えるところによって歩んでいるのではありません」― コリント第二 5:7。
1 『信仰によって歩む』とはどういう意味ですか。
わたしたちは神の言葉に述べられている指示に調和して祈るたびに,少なくともある程度の信仰を持っていることを示します。他の人に神の王国について証言するようになるときにも,信仰を表わします。そして,自分の命をエホバに献げるとき,『信仰によって歩む』こと,つまり信仰に則した生き方をすることが自分の願いであるという証拠を示しています。―コリント第二 5:7。コロサイ 1:9,10。
2 会衆の活動に参加することが,必ずしも自分に信仰があることの証拠でないのはなぜですか。
2 本当にそのような生き方をするつもりであれば,土台のしっかりした信仰が必要です。(ヘブライ 11:1,6)多くの人は,エホバの証人の間に高い道徳規準や愛が見られるゆえに証人たちに引かれます。それは良い始まりではあっても,それだけでその人たちに信仰があることにはなりません。また,自分の配偶者ないしは親が強い信仰を持っていて,自分の愛するその人の行なう何かの活動に参加するような人もいるかもしれません。家庭内にそのような影響力があることはまさに祝福ですが,これも,神に対する自分個人の愛や自分個人の信仰の代わりにはなりません。―ルカ 10:27,28。
3 (イ)土台のしっかりした信仰を持つためには,聖書について,個人的にどんな確信を抱くべきですか。(ロ)聖書が霊感を受けたものであることを,ある人が他の人よりもたやすく確信できるのはなぜですか。
3 本当に信仰によって歩む人たちは,聖書が神の言葉であることを固く信じています。聖書が実際に「神の霊感を受けた」ものであることの証拠はたくさんあります。a (テモテ第二 3:16)人が確信を抱くには,その証拠のうちのどれほどを調べなければならないのでしょうか。それはその人の背景によって異なるでしょう。ある人には十分満足のゆくものでも,別の人には納得がゆかないかもしれません。しかし,反駁の余地のない非常に多くの証拠を示されても,証拠から引き出される結論を受け入れようとしない場合もあります。どうしてでしょうか。それは,心の奥深くにある欲求のためです。(エレミヤ 17:9)このように人は,神の目的に関心があると言いながら,心では世の是認を渇望することがあります。また,聖書の規準に反する生き方をやめようとしないかもしれません。しかし,本当に真理に飢えていれば,また自分に正直であれば,そして謙遜であれば,やがては聖書が神の言葉であることを悟ります。
4 信仰を得るために,一人一人にどんなことが求められますか。
4 聖書研究の援助を受けている人の中には,わずか数か月のうちに,聖書が神の言葉であるという証拠をすでに十二分に得たと認識するようになる人たちも少なくありません。それによってその人の心が開かれ,エホバに教えられたいと思うようになれば,その人の内奥の考えや欲求や動機は学ぶ事柄によって徐々に形作られてゆきます。(詩編 143:10)ローマ 10章10節にあるとおり,人は「心で」信仰を働かせます。人はそのような信仰によって,自分の本当の気持ちを言い表わし,その信仰は生き方にも示されるようになります。
ノアは土台のしっかりした信仰に基づいて行動した
5,6 ノアの信仰は何に基づいていましたか。
5 ノアは土台のしっかりした信仰を持っていた人でした。(ヘブライ 11:7)ノアにはそのような信仰を持てるどんな根拠があったでしょうか。ノアには神の言葉がありましたが,それは文字で書かれたものではなく,ノアに語られたものでした。創世記 6章13節はこう述べています。「神はノアにこう言われた。『すべての肉なるものの終わりがわたしの前に到来した。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである』」。神はノアに箱船を造るよう命じ,建造に関する詳細な情報をお与えになりました。それからさらに神は言われました。「わたしはいま,地に大洪水をもたらして,その内に命の力が活動しているすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去ろうとしている。地にあるものはすべて息絶えるであろう」― 創世記 6:14-17。
6 それ以前に雨は降ったのでしょうか。聖書は何も述べていません。創世記 2章5節には「エホバ神は地に雨を降らせておらず」と記されています。しかしこれは,何世紀も後の人モーセがノアの日のことではなく,そのずっと前の事情を説明した箇所です。創世記 7章4節にあるとおり,エホバ神はノアに語られた際,雨に言及されました。そしてノアは,神の意図するところを理解したものと思われます。それでも,ノアの信仰は見えるものに対する信仰ではありませんでした。使徒パウロは,ノアが「まだ見ていない事柄について神の警告を与えられた」と書いています。神はノアに対して,地に「大洪水」を,あるいは新世界訳の創世記 6章17節の脚注によれば,「天の大洋」をもたらそうとしている,とお告げになりました。その時まで,そのような事は一度も起きたことがなかったのです。しかし,ノアの見ることのできた創造物はすべて,神がそうした破壊的な大洪水を実際にもたらすことができることを示す明白な論証でした。ノアは信仰に動かされて箱船を建造しました。
7 (イ)ノアの場合,神から命じられたことを行なうために,どんなものは必要ではありませんでしたか。(ロ)ノアの信仰について考えることはどのように益となりますか。また,自分の信仰はどのようにほかの人たちの祝福となり得ますか。
7 神は大洪水が始まる日付をノアに知らせませんでしたが,ノアがそれを口実に事態を静観する態度を取り,箱船の建造と宣べ伝える業を生活の中で二の次にすることはありませんでした。かなり長い時が経過してから,神は箱船に入るべき時をノアにお告げになります。それまでの間「ノアはすべて神から命じられたとおりにしていった。まさにそのとおりに行なった」と記されています。(創世記 6:22)ノアは見えるところによらず,信仰によって歩みました。ノアがそのようにしたことをわたしたちは大いに感謝すべきでしょう。今日わたしたちは,ノアの信仰のゆえに生きているからです。わたしたちの場合も,自分の示す信仰は,自分の将来だけでなく,子供や周囲の他の人々の将来に大きな影響を及ぼす可能性があります。
アブラハムの信仰
8,9 (イ)アブラハムの信仰の土台は何でしたか。(ロ)エホバはどのようにアブラハムに「現われ」ましたか。
8 もう一人,アブラハムの模範についても考えましょう。(ヘブライ 11:8-10)アブラハムの信仰の土台は何でしたか。アブラハムが育ったカルデア人のウルの生活環境は,偶像礼拝と物質主義を特色としていました。しかし,アブラハムの物の見方は,他の影響力によって形成されました。アブラハムの生涯はノアの息子セムの生涯と150年重なっており,アブラハムはセムと接触することができたはずです。アブラハムはエホバが『至高の神,天地を作り出された方』であることを確信するようになりました。―創世記 14:22。
9 ほかにもアブラハムに大きな影響を及ぼした事柄があります。エホバは「アブラハムがハランに居を定める前,メソポタミアにいる間に,……彼に現われ,『あなたの土地から,そしてあなたの親族のもとから出て,わたしがあなたに示す土地に来なさい』と言われました」。(使徒 7:2,3)エホバはどのようにアブラハムに『現われた』のでしょうか。アブラハムは神を直接見たのではありません。(出エジプト記 33:20)とはいえ,エホバが超自然的な栄光の顕現を伴って夢の中に現われた,あるいは使者もしくは代表者としてのみ使いを通して現われた可能性はあります。(創世記 18:1-3; 28:10-15; レビ記 9:4,6,23,24と比較してください。)エホバがどんな方法でアブラハムに現われたにせよ,この忠実な人は神から貴重な特権を差し伸べられていることを確信しました。アブラハムは信仰のうちにこたえ応じました。
10 エホバはどのようにアブラハムの信仰を強くされましたか。
10 アブラハムの信仰は,神がアブラハムを導こうとしていた土地に関する詳細な知識を得ることには依存していませんでした。その土地が自分にいつ与えられるのかを知ることにかかっていたのでもありません。アブラハムはエホバを全能の神として知っていたゆえに,信仰を抱いたのです。(出エジプト記 6:3)エホバはアブラハムに,あなたは子孫を持つようになると言われましたが,アブラハムは時々,どうしてそのようなことがあり得るのかと考えました。アブラハムは年を取っていました。(創世記 15:3,4)エホバはアブラハムの信仰を強くされました。星を仰ぎ,できるなら星の数を数えてみるように,とお告げになります。「あなたの胤もそのようになるであろう」と神は言われました。アブラハムは深い感動を覚えました。畏敬の念を生じさせるそれらの天体を創造した方であれば,ご自分の約束を果たせることは明らかでした。アブラハムは「エホバに信仰を置(き)」ました。(創世記 15:5,6)アブラハムは聞いている事柄が単に気に入ったので信じたのではありません。土台のしっかりした信仰があったのです。
11 (イ)アブラハムは100歳になろうとしていた時,年老いたサラが子を産むという神の約束にどのように反応しましたか。(ロ)アブラハムは息子を犠牲としてささげるためモリヤ山に連れて行くという試みに,どのような信仰を抱いて立ち向かいましたか。
11 エホバはアブラハムが間もなく100歳,妻のサラが90歳になろうとしていた時,アブラハムが息子を得,サラがその母親になるということをもう一度約束されます。アブラハムは自分たちの状況を現実的に考察しました。「しかし,神の約束のゆえに,信仰を欠いてたじろいだりすることなく,むしろ信仰によって強力になり,神に栄光を帰し,また,神はご自分の約束した事を果たすこともできるのだと十分に確信していました」。(ローマ 4:19-21)アブラハムは神の約束が果たされないはずがないことを知っていました。信仰を抱いていたので,後に,息子イサクをモリヤの地に連れて行って犠牲としてささげるよう神から告げられた時にも従いました。(創世記 22:1-12)奇跡的にその子を生まれさせた神であれば,その子に関連してお与えになったさらに別の約束を果たすためにその子を生き返らせることもできる,という全き確信をアブラハムは抱いていたのです。―ヘブライ 11:17-19。
12 アブラハムはどれほど長く信仰によって歩み続けましたか。また,強い信仰を実証したアブラハムとその家族には,どんな報いが待ち受けていますか。
12 アブラハムは,特定の状況下だけでなく生涯を通じて,自分が信仰に則した生き方をしていることを示しました。存命中に約束の地のどこかを相続物として神から与えられることはありませんでした。(使徒 7:5)それでもアブラハムは,うみ疲れてカルデア人のウルへ引き返したりはしませんでした。神に導かれてやって来た土地で死を迎えるまでの100年間,天幕生活を送りました。(創世記 25:7)アブラハムと妻のサラ,その子イサク,および孫のヤコブに関して,ヘブライ 11章16節は,「神は,彼らを,そして彼らの神として呼び求められることを恥とはされません。彼らのために都市を用意されたからです」と述べています。そうです,エホバは神のメシアによる王国の地上の領域に,彼らのための場所を設けておられるのです。
13 今日,エホバの僕たちの間で,だれがアブラハムのような信仰を持っていることを実証していますか。
13 今日,エホバの僕たちの中には,アブラハムのような人たちがいます。それらの人たちは長年にわたり信仰によって歩んできました。神からの力をもって山のような障害を乗り越えてきました。(マタイ 17:20)神から約束の相続物をいついただけるか分からないからといって,信仰が揺るぐことはありません。エホバの言葉が果たされずに終わることはないのを知っているので,神の証人のうちに数えられていることを掛け替えのない特権とみなしています。あなたもそのように感じておられますか。
モーセを動かした信仰
14 モーセの信仰の土台はどのように据えられましたか。
14 信仰の別の模範となっているのはモーセです。その信仰の土台は何でしたか。それは幼い時に据えられました。ファラオの娘は,ナイル川に浮かぶパピルスのかごの中にいるモーセを見つけ,自分の子として連れて帰りますが,モーセの実の母親であるヘブライ人ヨケベドが乳母となり,モーセの幼年時代の世話をします。ヨケベドはエホバへの愛や,エホバがアブラハムにした約束に対する認識を培わせて,モーセを上手に教えたようです。後に,ファラオの家族の一員となったモーセは,「エジプト人の知恵をことごとく教授され」ました。(使徒 7:20-22。出エジプト記 2:1-10; 6:20。ヘブライ 11:23)しかし,モーセの立場は恵まれていたものの,その心は,奴隷にされていた神の民と共にありました。
15 モーセの場合,エホバの民の一人であることを明らかにすることは,何を意味しましたか。
15 モーセは40歳の時,不当な扱いを受けていたあるイスラエル人を救い出すために一人のエジプト人を打ち倒しました。この出来事はモーセが神の民をどうみなしていたかを示しています。実際,「信仰によって,モーセは,成人した時,ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み」ました。エジプトの宮廷の一員として「罪の一時的な楽しみ」にしがみつく代わりに,信仰に動かされて,自分がその虐待されている神の民の一人であることを明らかにしました。―ヘブライ 11:24,25。使徒 7:23-25。
16 (イ)エホバはモーセにどんな任務をお与えになりましたか。神はどのようにモーセを援助されましたか。(ロ)モーセは自分の任務を遂行するに当たり,どのように信仰を示しましたか。
16 モーセは同胞の民を解放するためすぐにでも行動を起こしたいと思いましたが,彼らを救出する神の定めの時はまだ来ていませんでした。モーセはエジプトから逃げなければなりませんでした。その後40年ほどたって初めて,エホバはひとりのみ使いを通してモーセに任務を与え,エジプトに戻ってイスラエル人をエジプトの地から導き出すようお命じになります。(出エジプト記 3:2-10)モーセはどのような反応を示しましたか。イスラエルを救出するエホバの能力への不信を言い表わしたわけではありませんが,自分は神から差し伸べられたその役割にふさわしくないと感じました。エホバは愛情深くも,モーセが必要としていた励ましをお与えになりました。(出エジプト記 3:11–4:17)モーセの信仰は強くなりました。そしてエジプトに戻り,イスラエルがエホバを崇拝するために出かけることを支配者ファラオが許さないなら,エジプトにどんな災厄が臨むかを,繰り返しファラオに,面と向かって警告しました。モーセ個人には,そうした災厄を生じさせる力はありませんでした。モーセは見えるところによらず,信仰によって歩んだのです。その信仰はエホバとみ言葉に対するものでした。モーセはファラオから脅されましたが,中途であきらめませんでした。「信仰によって,彼はエジプトを去りましたが,王の怒りを恐れることはありませんでした。彼は,見えない方を見ているように終始確固としていたのです」。(ヘブライ 11:27)モーセは完全な人ではありませんでした。間違いもしました。(民数記 20:7-12)しかし,神から任務を与えられた後の生き方は,全体的に見て信仰に則したものでした。
17 ノア,アブラハム,モーセは,生きて神の新しい世を見ることはなかったものの,信仰によって歩むことはどんな結果をもたらしましたか。
17 皆さんの信仰が,ノアやアブラハムやモーセの信仰のようでありますように。確かに,彼らは自分の生きていた時代に神の新しい世を見ることはありませんでした。(ヘブライ 11:39)それはまだ,神の定められた時ではありませんでした。神の目的にかかわる他の幾つかの事柄が,なお成し遂げられる必要があったのです。それでも,神の言葉に対する彼らの信仰は揺るぎませんでした。彼らの名前は神の命の書の中にあります。
18 天的な命に召された人たちにとって,信仰によって歩む必要があったのはなぜですか。
18 「神はわたしたちのためにさらに勝ったものを予見(された)」と使徒パウロは述べました。つまり神は,パウロのように,キリストと共になる天的な命に召された人たちのために,さらに勝ったものを予見されました。(ヘブライ 11:40)パウロが,「わたしたちは信仰によって歩んでいるのであり,見えるところによって歩んでいるのではありません」というコリント第二 5章7節の言葉を書いた時,特に念頭に置いていたのはそれらの人たちでした。それが書かれた当時,彼らのうちのだれもまだその天的な報いを得ていませんでした。それを肉眼で見ることはできませんでしたが,その報いに対する信仰にはしっかりした土台がありました。キリストは,天的な命をもって祝福される者たちの初穂としてすでに死人の中からよみがえらされていました。しかも,500人を超える証人たちが,昇天前のイエスを見ていました。(コリント第一 15:3-8)彼らには,自分の生き方全体をその信仰に則したものにするべき十分の理由がありました。わたしたちにも,信仰によって歩むための確かな理由があります。
19 ヘブライ 1章1,2節に示されているように,神はだれによってわたしたちに語ってこられましたか。
19 今日エホバは,かつて燃える茂みでモーセに語った時とは違い,み使いによってご自分の民に語っておられるわけではありません。神はみ子によって語ってこられました。(ヘブライ 1:1,2)エホバはみ子によって述べた事柄を聖書に記録させました。そしてそれは,世界中の人々の言語に翻訳されてきました。
20 わたしたちの状況は,どのようにノア,アブラハム,モーセの状況よりずっと恵まれていますか。
20 わたしたちは,ノアやアブラハムやモーセより多くのものを持っています。完全にそろった神の言葉を持っているのです。しかも,その多くはすでに成就しました。ヘブライ 12章1節は,あらゆる種類の試練のもとで忠実なエホバの証人であることを実証した男女について聖書の述べる事柄すべてを考慮に入れて,「わたしたちも,あらゆる重荷と容易に絡みつく罪とを捨て,自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか」と勧めています。わたしたちの信仰は,あって当然というようなものではありません。信仰の欠如は「容易に絡みつく罪」なのです。『信仰によって歩み』続けたいのであれば,厳しい戦いをしなければなりません。
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『見えるところによらず,信仰によって歩む』ものみの塔 1998 | 1月15日
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18 天的な命に召された人たちにとって,信仰によって歩む必要があったのはなぜですか。
18 「神はわたしたちのためにさらに勝ったものを予見(された)」と使徒パウロは述べました。つまり神は,パウロのように,キリストと共になる天的な命に召された人たちのために,さらに勝ったものを予見されました。(ヘブライ 11:40)パウロが,「わたしたちは信仰によって歩んでいるのであり,見えるところによって歩んでいるのではありません」というコリント第二 5章7節の言葉を書いた時,特に念頭に置いていたのはそれらの人たちでした。それが書かれた当時,彼らのうちのだれもまだその天的な報いを得ていませんでした。それを肉眼で見ることはできませんでしたが,その報いに対する信仰にはしっかりした土台がありました。キリストは,天的な命をもって祝福される者たちの初穂としてすでに死人の中からよみがえらされていました。しかも,500人を超える証人たちが,昇天前のイエスを見ていました。(コリント第一 15:3-8)彼らには,自分の生き方全体をその信仰に則したものにするべき十分の理由がありました。わたしたちにも,信仰によって歩むための確かな理由があります。
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