エホバの喜びはわたしたちのとりでです
『この日はわたしたちの主にとって聖なる日です。気を悪くしてはなりません。エホバの喜びはあなた方のとりでだからです』― ネヘミヤ 8:10。
1,2 (イ)とりでとは何ですか。(ロ)ダビデはエホバのもとに避難したことをどのように示しましたか。
エホバは比類のないとりでです。ところで,とりでとは何ですか。それは防備の施された場所,安全な,あるいは生き残るための場所のことです。古代イスラエルのダビデは神を自分のとりでとみなしました。例えば,「エホバがそのすべての敵のたなごころより,また[イスラエルの王]サウルの手より救い出してくださった日に」,ダビデが至高者に向かって歌った歌について考えてみましょう。―詩編 18編,表題。
2 ダビデはその感動的な歌を次のような言葉で書き出しています。「わたしの力,エホバよ,わたしはあなたに愛情を抱きます。エホバはわたしの大岩,わたしのとりで,わたしを逃れさせてくださる方なのです。わたしの神はわたしの岩。わたしはそのもとに避難します。わたしの盾,わたしの救いの角,わたしの堅固な高台」。(詩編 18:1,2)廉潔なダビデは不当にもサウル王によって追放され,追跡されたので,エホバのもとに避難しました。それはちょうど,ある災いを切り抜けるため,防備の施された場所に駆け込む人のようでした。
3 エズラの時代のユダヤ人はどうして『大いに歓ぶ』ことができましたか。
3 エホバのお与えになる喜びは,忠誠を保つ人としてエホバの道を歩む人たちのための確かなとりでです。(箴言 2:6-8; 10:29)もちろん,神のお与えになる喜びを抱くためには,民は神のご意志を行なわなければなりません。この点に関し,エズラの時代にエルサレムで起きた事柄について考えてみましょう。写字生のエズラと他の人々は意味深い仕方で律法を読むことにより,人々に理解を得させました。それから,民はこう勧められました。「行って,肥えたものを食べ,甘いものを飲み,何も用意ができていない者には分け前を送りなさい。この日はわたしたちの主にとって聖なる日だからです。気を悪くしてはなりません。エホバの喜びはあなた方のとりでだからです」。ユダヤ人は得た知識を用い,楽しい仮小屋の祭りを行なった結果,『大いに歓び』ました。(ネヘミヤ 8:1-12)『エホバの喜びを自分たちのとりで』にした人々は,エホバの崇拝と奉仕を行なうための力を蓄えました。エホバの喜びは彼らのとりでだったのですから,今日の神の民も当然,喜びにあふれていると考えるべきでしょう。では,現代の神の民が喜ぶべきどんな理由があるのでしょうか。
『ただ喜びに満たされる』
4 エホバの民にとって喜びの一つの際立った源とは何ですか。
4 喜びを抱くべき一つの際立った理由は,エホバの設けておられる,一緒に集まるための備えにあります。ちょうど,イスラエル人の行なった例年の祭りが彼らの心に喜びをもたらしたように,今日のエホバの証人の大会は彼らに喜びをもたらしています。イスラエルの民はこう告げられました。「七日の間,エホバの選ばれる場所で,あなたの神エホバに対して[仮小屋の]祭りを行なう。あなたの神エホバは,あなたのすべての産物,またあなたの手のすべての業を祝福されるからである。あなたはただ喜びに満ちるように」。(申命記 16:13-15)そうです,神は彼らが『ただ喜びに満たされる』ことを望んでおられたのです。クリスチャンについても同様です。使徒パウロが仲間の信者に,「主にあって常に歓びなさい。もう一度言います。歓びなさい!」と勧めているからです。―フィリピ 4:4。
5 (イ)喜びとは何ですか。クリスチャンはどのようにして喜びを得ますか。(ロ)どうすれば,試練に遭っても喜びを抱くことができますか。
5 エホバはわたしたちが喜びにあふれることを望んでおられるので,ご自分の聖霊の実の一つである喜びをわたしたちに与えてくださいます。(ガラテア 5:22,23)では,喜びとは何でしょうか。それは,良いものを期待すること,あるいは得ることによって引き起こされる喜ばしい感情です。喜びとは真に幸福な状態,歓喜でさえあります。神の聖霊のこの実は試練の際,わたしたちの支えとなります。こう記されています。「[イエス]は,自分の前に置かれた喜びのために,恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右に座られたのです」。(ヘブライ 12:2)弟子ヤコブはこう書きました。「わたしの兄弟たち,さまざまな試練に遭うとき,それをすべて喜びとしなさい。あなた方が知っているように,こうして試されるあなた方の信仰の質は忍耐を生み出すからです」。しかし,ある特定の試練に関して,どうすべきかが分からない場合はどうでしょうか。その場合には対処する知恵を,確信を抱いて祈り求めることができます。天的な知恵に従って行動すれば,問題を解決したり,いつまでも続く試練に,エホバの喜びを失うことなく対処したりすることができます。―ヤコブ 1:2-8。
6 喜びと真の崇拝との間にはどんな関係がありますか。
6 エホバがお与えになる喜びは,真の崇拝を推し進めるようわたしたちを強めます。そのようなことがネヘミヤやエズラの時代に起きました。エホバの喜びを自分たちのとりでにしていた当時のユダヤ人は,真の崇拝の関心事を促進するよう強められました。そして,エホバの崇拝を推し進めるにつれて,彼らの喜びは増し加わりました。今日でも同様です。エホバの崇拝者であるわたしたちには大いに歓ぶべき根拠があります。喜びを抱くべき多くの理由のさらに幾つかの点について,これから考えてみましょう。
キリストを通して得られる神との関係
7 エホバに関して,クリスチャンには喜ぶべきどんな理由がありますか。
7 わたしたちはエホバとの親密な関係を持っているおかげで,地上で最も幸福な民となっています。クリスチャンになる以前のわたしたちは,『精神的な暗闇にあり,神に属する命から疎外されている』不義の人間社会の一部でした。(エフェソス 4:18)わたしたちはもはやエホバから疎外されていません。これは何と喜ばしいことなのでしょう。もちろん,エホバの恵みのうちにとどまるには努力が要ります。わたしたちは,「引き続き信仰にとどまり,土台の上に堅く立って揺らぐことなく,自分たちの聞いた良いたよりの希望からそらされないでいる」必要があります。(コロサイ 1:21-23)イエスは,「わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません」と言われましたが,エホバがイエスのこの言葉に従ってわたしたちをみ子に引き寄せてくださったことをわたしたちは歓ぶことができます。(ヨハネ 6:44)キリストを通して与えられた神との貴重な関係を本当に高く評価しているならば,その関係を損なうおそれのある事柄は一切しないように用心するはずです。
8 イエスはわたしたちの喜びにあふれた状態にどのように寄与しておられますか。
8 イエスの贖いの犠牲に対する信仰によって罪を許していただけるということは喜びを抱くべき大きないわれです。これこそ,わたしたちが神との関係を持つことを可能にしている事柄だからです。わたしたちの父祖アダムは,故意に罪の道を歩むことによって全人類に死をもたらしました。しかし,使徒パウロはこう説明しました。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられ(ま)す」。パウロはまた,こう書きました。「一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,一人の方の従順を通して多くの者が義とされるのです」。(ローマ 5:8,18,19)アダムの子孫で,そのような愛ある備えを活用する人たちをエホバ神が喜んで請け戻してくださるのですから,わたしたちは心から喜ぶことができます。
宗教的自由と啓発
9 宗教上の観点からしても,わたしたちはなぜ喜びにあふれているのでしょうか。
9 偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンから自由にされていることも,喜びにあふれる別の理由です。わたしたちは神からの真理によって自由にされました。(ヨハネ 8:32)わたしたちはこの宗教上の娼婦から自由にされています。それはわたしたちがこの娼婦の罪にあずからず,彼女の災厄に遭遇せず,また最後には彼女と共に滅ぼされたりしないことを意味しています。(啓示 18:1-8)そのすべてを免れることには,悲しむべき事柄は何もありません。
10 エホバの民であるわたしたちは,どんな啓発を享受していますか。
10 神の言葉を理解して生活に当てはめることも,大いに歓ぶべきいわれです。わたしたちは偽りの宗教の影響を受けていないので,わたしたちの天の父が「忠実で思慮深い奴隷」を通してお与えになる,かつてないほど明快な霊的洞察に恵まれています。(マタイ 24:45-47)地上に住んでいる人々すべての中で,エホバに専ら献身的に仕える人たちだけがエホバの聖霊を受け,み言葉とご意志に関する理解に恵まれています。それはパウロが述べている通りです。「神はそれ[神がご自分を愛する者たちのために備えられた事柄]を,ご自分の霊によって,このわたしたちに啓示されたのであり,霊がすべての事,神の奥深い事柄までも究めるのです」。(コリント第一 2:9,10)わたしたちは箴言 4章18節の「義なる者たちの道筋は,日が堅く立てられるまでいよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ」という言葉に示されている漸進的な理解を享受していることを感謝すると共に喜ぶことができます。
王国の希望ととこしえの命
11 喜ばしい王国の希望はどのように他の人々に伝えられましたか。
11 わたしたちの王国の希望もわたしたちの喜びをあふれさせるものです。(マタイ 6:9,10)エホバの証人であるわたしたちは,神の王国が全人類のための唯一の希望であることを長い間,ふれ告げてきました。例えば,世界中の51か所で開かれた大会で歓呼の声をもって決議が採択され,エホバの証人という名称が採用された年である1931年のことを考えてみましょう。(イザヤ 43:10-12)その決議文と同大会でJ・F・ラザフォード(ものみの塔協会の当時の会長)が行なった重要な講演は,「神の国 ― 全地の希望」という題の小冊子の形で出版されました。その小冊子には同大会で採択されたもう一つの決議文が載せられました。それは,キリスト教世界が犯した背教の罪とエホバの助言を侮った罪とで同世界を告発した決議文でした。また,その決議文は,「神の国こそ全地の希望であり,ほかに希望はない」と宣言しました。数か月もたたないうちに,エホバの証人はその小冊子を地上のあらゆる場所で500万部余り配布しました。それ以来,わたしたちはしばしば,その王国こそ人類の唯一の希望であることを断言してきました。
12 エホバに仕える人たちの前には,どんな喜ばしい命の見込みがありますか。
12 わたしたちはまた,王国の支配下で受けるとこしえの命の見込みがあるので歓びにあふれています。油そそがれたクリスチャンの「小さな群れ」には喜ばしい天的な希望があります。使徒ペテロはこう書きました。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。神はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなた方のために天に取って置かれているものです」。(ルカ 12:32。ペテロ第一 1:3,4)今日,エホバの証人の大多数は王国の領域の中のパラダイスで永遠の命にあずかることを待ち望んでいます。(ルカ 23:43。ヨハネ 17:3)わたしたちの喜ばしい見込みと比べられるようなものを持っている民は地上にはほかにいません。わたしたちはそのような見込みを本当に大切にすべきです。
祝福された兄弟関係
13 わたしたちは自分たちの国際的な兄弟関係をどのように見るべきですか。
13 神から是認された唯一の国際的な兄弟関係を持つ一員であることも大きな喜びの源です。幸いなことに,わたしたちには地上で最も望ましい仲間がいます。エホバ神は自ら現代のことに言及し,こう言われました。「わたしはあらゆる国民を激動させる。あらゆる国民のうちの望ましいものが必ず入って来る。わたしはこの家を栄光で満たす」。(ハガイ 2:7)もちろん,クリスチャンは皆,不完全です。エホバはそのような人たちをイエス・キリストを通してご自分に引き寄せておられます。(ヨハネ 14:6)エホバはご自分が望ましいと思う人々をご自分に引き寄せておられるのですから,わたしたちはそのような人たちに兄弟愛を示し,彼らを高く評価し,敬虔な勤めの点で彼らと協力し,試練の際に彼らを支え,また彼らのために祈るなら,わたしたちの喜びはあふれるはずです。
14 ペテロ第一 5章5-11節の言葉から,どんな励ましが得られますか。
14 このすべてはわたしたちに喜びをもたらすものとなります。実際,その喜びは,全地に及ぶわたしたちの霊的な兄弟関係というとりでである,エホバの喜びなのです。そうです,わたしたちは皆,迫害その他の苦難に遭います。しかしそのために,わたしたちは互いに引き寄せられると共に,地上における神の唯一の真の組織の一員であるという一体感を抱けるのです。ペテロが述べているように,わたしたちは神がわたしたちを顧みてくださることを知っているのですから,神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となり,自分の思い煩いをすべて神にゆだねるべきでしょう。また,悪魔はわたしたちをむさぼり食おうとしていますから,わたしたちは用心する必要がありますが,この点でもわたしたちはひとりぼっちではありません。ペテロはさらにこう述べているからです。「堅い信仰をもって彼に立ち向かいなさい。苦しみを忍ぶ点での同じことが,世にいるあなた方の仲間の兄弟全体の中で成し遂げられているのを,あなた方は知っているからです」。しかも,この喜ばしい国際的な兄弟関係は決して崩壊することがありません。というのは,『わたしたちはしばらくのあいだ苦しみに遭った後,神はわたしたちの訓練を終え,わたしたちを確固とした者,強い者としてくださるでしょう』という保証の言葉があるからです。(ペテロ第一 5:5-11)考えてもみてください。わたしたちの喜ばしい兄弟関係は何と永遠に存続するのです。
目的のある生活
15 エホバの証人は目的のある生活を送っている,となぜ言うことができますか。
15 わたしたちは目的のある生活を送っていますから,問題の多いこの世界にあっても,喜びはわたしたちのものです。わたしたちは自分自身と他の人々を幸福にする奉仕の務めを託されています。(ローマ 10:10)神と共に働く者であることは,確かに喜ばしい特権です。この点に関して,パウロはこう述べました。「アポロは何者ですか。そうです,パウロは何者ですか。奉仕者であり,あなた方はその人々を通して信者となりましたが,それは主が各々に授けられたところによりました。わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神がそれをずっと成長させてくださったのです。ですから,大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです。さて,植える者と水を注ぐ者とは一つですが,各々はその労苦に応じて報いを受けます。わたしたちは神と共に働く者だからです。あなた方は耕されている神の畑,神の建物です」― コリント第一 3:5-9。
16,17 エホバの民が目的のある喜ばしい生活を送っていることを証明するどんな実例を挙げることができますか。
16 エホバに忠実に仕えるならば,結果として喜びに満たされた,目的のある生活を送ることができます。このことを示す実例は数多く挙げることができます。次の言葉はその典型的な例です。『私は[献堂式の行なわれた日に]いっぱいになった王国会館を見回して,自分たち夫婦と三人の子供たち,そしてその配偶者の合計八人の家族がそこにいるのを見ることができました。……私と妻は神への奉仕において,本当に幸福で目的のある生活をしてきました』。
17 また,人は何歳になっても,エホバへの奉仕に携わって,真の目的のある喜ばしい生活を始めることができます。このことを知ると,勇気づけられるものです。例えば,ある養護施設で聖書の真理を学んだ一婦人は,102歳でエホバの証人としてバプテスマを受けました。こうして,その婦人は『まことの神を恐れ,そのおきてを守り』ながら,目的のある喜ばしい生涯を終えました。―伝道の書 12:13。
確かなとりで
18 どうすれば,失望を克服し,わたしたちの喜びを増し加えることができるかもしれませんか。
18 エホバの喜びは忠実な人たちにとって確かなとりでです。しかし,この喜びがあるからといって,イエスがゲッセマネで,「わたしの魂は深く憂え悲しみ,死なんばかりです」と言われた時のような悲痛な時が決してないというわけではありません。(マルコ 14:32-34)利己的な事柄を追求する誘いに屈したために失望したらどうでしょうか。その場合には,生活様式を変えることにしましょう。無私の気持ちを抱いて聖書的な重い責任の荷を負ったために,喜びが少なくなったのであれば,調整を図り,緊張を和らげて喜びにあふれた気持ちを取り戻せるかもしれません。さらに,罪深い肉,邪悪な世,および悪魔に断固として抵抗することにより,エホバを喜ばせようと努めるなら,エホバは喜びをもってわたしたちを祝福してくださいます。―ガラテア 5:24; 6:14。ヤコブ 4:7。
19 わたしたちは神の組織内でどんな特権を持っているにせよ,それをどのように見るべきですか。
19 これまで取り上げた理由や他の多くの理由のゆえに,わたしたちには大きな喜びがあります。わたしたちは皆,会衆の伝道者であっても,あるいは何らかの形で全時間奉仕に携わっているにしても,主の業においてなすべき事をいっぱい持つことができます。そして,このことは確かにわたしたちに喜びをもたらすものとなります。(コリント第一 15:58)わたしたちはエホバの組織内でどんな特権を持っているにせよ,その特権を感謝し,引き続き喜びを抱いて,わたしたちの愛ある幸福な神に対する神聖な奉仕を行ないましょう。―テモテ第一 1:11。
20 わたしたちの最大の特権とは何ですか。わたしたちはどんなことを確信できますか。
20 とりわけ,わたしたちはエホバの証人としてエホバの偉大なみ名を負う特権を持っているので,歓ぶべき理由があります。そうです,わたしたちは不完全で,多くの試練に遭いますが,エホバの証人としてのわたしたちのすばらしい祝福を心に留めておきましょう。そして,わたしたちの愛する天の父は決してわたしたちの期待に背く方ではないことを忘れないようにしましょう。エホバの喜びがわたしたちのとりでであるならば,わたしたちはいつまでも祝福されることを確信できるでしょう。
どのように答えますか
□ 「エホバの喜び」とは何ですか
□ クリスチャンはどのようにして真の喜びを得ますか
□ エホバの証人が喜びにあふれている理由を幾つか述べてください
□ エホバの喜びが確かなとりでと言えるのはなぜですか