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真の崇拝者の大群衆 ― どこから来たかものみの塔 1995 | 2月1日
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「大群衆」― どこに向かっているか
16 (イ)初期の聖書研究者たちは,啓示 7章9節の大いなる群衆,つまり大群衆の実体に関して,どんな間違った考えを抱いていましたか。(ロ)そうした見解はいつ,またどんな根拠に基づいて正されましたか。
16 エホバの僕たちは,しばらくの間,啓示 7章9,10節の大いなる群衆(つまり,大群衆)とヨハネ 10章16節のほかの羊やマタイ 25章33節の羊とは異なると信じていました。聖書が大群衆は『み座の前に立っている』と述べているので,大群衆は王座には就かないものの,天におり,キリストと共同の相続人として,しかしみ座の前の二次的な場所において支配する,と考えられていました。彼らは,さほど忠実ではないクリスチャン,真の自己犠牲の精神を示さない人たちとみなされていました。そのような見解は,1935年に正されました。b 啓示 7章9節をマタイ 25章31,32節などの聖句に照らして検討した結果,この地上にいる人々であっても『み座の前に』いると言えることが明らかになりました。
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神聖な奉仕をささげる大群衆ものみの塔 1995 | 2月1日
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神聖な奉仕をささげる大群衆
「[彼らは]その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」― 啓示 7:15。
1 霊的な理解に関し,1935年にどんな里程標に達しましたか。
それは1935年5月31日のことです。米国のワシントン特別区でのエホバの証人の大会に出席した代表者たちの間には大きな喜びがありました。その大会で初めて,啓示 7章9節の大いなる群衆(つまり,大群衆)の実体が,聖書の残りの部分に調和して,またすでに展開し始めていた種々の出来事に一致して,はっきり解明されたのです。
2 神から天的な命に召されていないことを悟る人の数が増大していたことは,どんな点に示されていますか。
2 その6週間ほど前に,エホバの証人の諸会衆で主の晩さんの祝いが行なわれた時,出席者のうち1万681人(約6人に一人)は,表象物であるパンとぶどう酒にあずかりませんでしたが,そのうちの3,688人は神の王国の活発な宣明者でした。それらの人はなぜ表象物にあずかることを思いとどまったのでしょうか。なぜなら,彼らは聖書から学んだ事柄に基づいて,自分は神から天的な命に召されてはおらず,別の形でエホバの愛ある備えにあずかれる,ということを悟っていたからです。それで,その大会で話し手が,「地上で永遠に生きる希望を抱いておられる方々は,全員ご起立願います」と求めた時,どんなことが生じたでしょうか。何千人もの人々が立ち上がり,聴衆の間に喝采がわき起こって,なかなか静まらなかったのです。
3 大いなる群衆の実体が解明されたことが,野外宣教を推し進める新たな刺激となったのはなぜですか。エホバの証人はそのことについてどう感じましたか。
3 出席者たちは,その大会で学んだ事柄から,宣教を推し進める新たな刺激を受けました。彼らは,次の点を認識するようになりました。すなわち,今,この古い体制が終わる前に,わずか数千人ではなく人々の大いなる群衆が,楽園となる地上で永久に生きることを期待して,命を保たせるためのエホバの取り決めのもとに来る機会を与えられるということです。なんと心温まる音信でしょう。真理を愛する人々に,そのような音信が差し伸べられたのです。エホバの証人は,なすべき大きな業 ― 喜ばしい業 ― があることを悟りました。幾年も後に,統治体の成員になったジョン・ブースは昔を振り返って,「あの大会では,歓ぶべきことが沢山ありました」と語りました。
4 (イ)大群衆を集める業は,1935年以来,実際にどの程度行なわれてきましたか。(ロ)大群衆に属する人々は,自分の信仰が生きた信仰であることをどのように証明していますか。
4 その後の年月の間に,エホバの証人の数は劇的に増大しました。第二次世界大戦中にはさんざん迫害を加えられ,それも多くは暴力的迫害であったにもかかわらず,人数は10年足らずでほぼ3倍になりました。そして,1935年当時,公の証しを行なっていた5万6,153人の伝道者は,1994年までに,230余りの国や地域に住む490万人以上の王国宣明者へと増大しました。これらの人々の大多数は,エホバから楽園となる地上での完全な命を賜わる人々の中に含めてもらうことを,切なる期待を抱いて待ち望んでいます。彼らは,小さな群れに比べると,確かに大群衆を成しています。この大群衆は,信仰があると言いながら信仰をはっきり表明しない人々ではありません。(ヤコブ 1:22; 2:14-17)彼らは皆,他の人々に神の王国についての良いたよりを伝えています。あなたはその幸福な群衆の一人ですか。活発な証人であることは,大群衆としての身分を証明する重要な事柄の一つですが,これにはさらにほかの事柄も関係しています。
『み座の前に立っている』
5 大群衆が『み座の前に立っている』ということは何を示唆していますか。
5 使徒ヨハネは,与えられた幻の中で,大群衆が「み座の前と子羊の前に立ってい(る)」のを見ました。(啓示 7:9)この文脈の中で描かれているように,彼らが神のみ座の前に立っているということは,彼らがエホバの主権を全面的に認めていることを示唆しています。これには多くの事柄が含まれています。例えば,(1)何が善で何が悪かをご自分の僕たちのために決めるエホバの権利を認めます。(創世記 2:16,17。イザヤ 5:20,21)(2)エホバからみ言葉を通して語りかけられる時,その声に耳を傾けます。(申命記 6:1-3。ペテロ第二 1:19-21)(3)エホバから監督の務めを託された人たちに服することの重要性を認識します。(コリント第一 11:3。エフェソス 5:22,23; 6:1-3。ヘブライ 13:17)(4)不完全な者であるとはいえ,いやいやながらではなく,心から進んで神権的な指導にこたえ応じるよう真剣に努めます。(箴言 3:1。ヤコブ 3:17,18)彼らがみ座の前にいるのは,自分が心から敬い,深く愛するエホバに神聖な奉仕をささげるためです。この大群衆の場合,み座の前に『立っている』ということは,み座に座っておられる方から是認されていることを示唆しています。(啓示 6:16,17と比較してください。)どんな根拠に基づいて是認されるのでしょうか。
『白くて長い衣を着ている』
6 (イ)大群衆が「白くて長い衣を着て」いることは,何を意味していますか。(ロ)大群衆はどのようにしてエホバのみ前における義なる立場を得ますか。(ハ)キリストの流された血に対する信仰は,大群衆の生活にどれほど影響を及ぼしていますか。
6 使徒ヨハネが自分の見た事柄について描写した言葉によれば,この大群衆の成員は「白くて長い衣を着て」います。その白くて長い衣は,エホバのみ前における彼らの清い義なる立場を象徴しています。彼らはどのようにしてそのような立場を得たのでしょうか。わたしたちはすでに,ヨハネの幻の中で彼らが「子羊の前に」立っているのを見ました。彼らはイエス・キリストが「世の罪を取り去る,神の子羊」であることを認めています。(ヨハネ 1:29)ヨハネは,幻の中でみ座の前にいた長老たちの一人が,「彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである」と説明するのを聞きました。(啓示 7:14,15)比喩的に言って,彼らは,人を請け戻す効力のあるキリストの血に信仰を働かせることにより,自分の衣を洗ったのです。彼らは贖いについての聖書の教えにただ頭の中で同意しているのではありません。贖いに対する感謝の念が彼らの内なる人に影響を及ぼしています。それゆえに,「心の中で」信仰を働かせているのです。(ローマ 10:9,10)このことは彼らが自分の命をどのように用いるかということに多大の影響を及ぼしています。彼らは信仰のうちに,キリストの犠牲に基づいてエホバに献身し,その献身の象徴として水の浸礼を受け,献身の意味に本当に調和した生活を送り,こうして神との是認された関係を楽しむようになるのです。なんとすばらしい特権でしょう。本当に大切に守るべき特権です。―コリント第二 5:14,15。
7,8 エホバの組織は,大群衆が自分の衣を汚れのない状態に保てるよう,どのように助けてきましたか。
7 エホバの組織は彼らの永続的な福祉に愛ある関心を抱いているがゆえに,人の身分証明とも言えるその衣に汚点を付けかねない,つまり衣を汚しかねない態度や行ないに繰り返し注意を促してきました。人は口先で何と言おうと,衣が汚れてしまえば啓示 7章9,10節の預言的な描写に十分かなう者ではなくなるからです。(ペテロ第一 1:15,16)1941年以降の「ものみの塔」誌はそれまでに出版されたものを補強して,他の人々に宣べ伝えておきながらそれ以外の時間に淫行や姦淫などの行ないに関係するのは言語道断であるということを繰り返し示しました。(テサロニケ第一 4:3。ヘブライ 13:4)1947年には,クリスチャンの婚姻に関するエホバの規準はすべての国や地域で適用される,ということが強調されました。土地の慣習で何がよしとされていようと,一夫多妻の習わしを続ける人はエホバの証人にはなれないのです。―マタイ 19:4-6。テトス 1:5,6。
8 1973年に,世界中のエホバの証人は,次のことを教えられました。すなわち,エホバの証人は皆,どこにいようとも ― 王国会館の中にいる時や野外奉仕に携わっている時だけでなく,世俗の仕事をしている時や人目につかないような場所にいる時でも ― タバコの誤用といった,人を汚すことが分かっている習慣に関係するのを完全にやめなければならないということです。(コリント第二 7:1)1987年のエホバの証人の地域大会でクリスチャンの若者たちは,神のみ前で清い立場を保つためには裏表のある生活をしないよう気をつけなければならない,と強く諭されました。(詩編 26:1,4)「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式」には自分を「世から汚点のない状態に」保つことが含まれるゆえに,「ものみの塔」誌は再三再四,様々な面に表われる世の霊を避けるようにと警告してきました。―ヤコブ 1:27。
9 実際に大患難後も神のみ座の前に是認された状態で立つのは,どういう人たちですか。
9 来たるべき大患難の後もなお神の是認された僕として『み座の前に立っている』のは,信仰に促されて霊的また道徳的に清い状態を保つような生き方をする人たちです。クリスチャンとしての生き方を始めるだけでなく,忠節のうちにその生き方を貫く人々なのです。―エフェソス 4:24。
『彼らの手には,やしの枝がある』
10 ヨハネが見た大群衆の手にあるやしの枝には,どんな意味がありますか。
10 使徒ヨハネが見たように,大群衆の際立った特色の一つは,「彼らの手には,やしの枝があった」という点です。それにはどんな意味があるのでしょうか。きっとヨハネは,それらやしの枝を見てユダヤ人の幕屋の祭りを思い起こしたことでしょう。それは,夏の収穫のあとに行なわれた,ヘブライ暦の上で最も喜ばしい祭りです。律法に調和して,その祭りの期間中の住まいにする仮小屋を作るために,やしの葉が他の木々の枝と共に用いられました。(レビ記 23:39-40。ネヘミヤ 8:14-18)また,神殿にいた崇拝者たちはハレル(詩編 113-118編)が歌われている間,やしの枝を振りました。ヨハネはまた,大群衆がやしの枝を振っているのを見て,多分,イエスがろばに乗ってエルサレムに入城された時のことを思い起こしたでしょう。その時,崇拝者たちの群衆は喜びにあふれてやしの枝を振り,「エホバのみ名によって来たる者,イスラエルの王こそ祝福された者!」と叫びました。(ヨハネ 12:12,13)ですから,やしの枝を振っているということは,大群衆がエホバの王国とその油そそがれた王を喜びにあふれて迎えていることを示唆しています。
11 神の僕たちがエホバに仕えることに実際に喜びを感じるのはなぜですか。
11 大群衆は今でさえ,エホバに仕えながらそのような喜びの霊を表わしています。これは,何ら辛苦には直面しないとか,悲嘆や苦痛など全く経験しないとかいう意味ではありません。エホバに仕え,エホバを喜ばせることから生じる満足感があるので,そうした事柄は相殺されるのです。例えば,夫と共に45年間グアテマラで奉仕したある宣教者は,自分たちを取り巻いていた原始的な状態について,また王国の音信を携えてインディオの村まで行く生活に付き物だった,きつい仕事や危険な旅について語りました。そして,話の結びに,「あのころのわたしたちは最高に幸せでした」と述べました。こう語った時のこの婦人は老齢と病気の影響を感じていましたが,彼女の日記の最後の箇所には,「非常に報いの多い,充実した人生でした」という言葉が含まれています。エホバの証人は地上のどこにおいても,自分の携わっている宣教に関してこの婦人と同じ感慨を抱いています。
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神聖な奉仕をささげる大群衆ものみの塔 1995 | 2月1日
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『すべての国民,部族,民,国語の中から来ている』
16 大群衆が『すべての国民から』来ることは,どのように真実となっていますか。
16 大群衆に属する人々は,すべての国民の中から来ています。神は不公平な方ではなく,イエス・キリストを通して設けられた贖いの備えはそれらの人々すべてを益するのに十分なものです。聖書に基づいて1935年に初めて大群衆の実体が明らかにされた時,エホバの証人は115の国や地域で活動していました。羊のような人々を捜すその業は,1990年代に入るころにはその2倍を超える数の国や地域に及んでいました。―マルコ 13:10。
17 あらゆる『部族,民,国語』の人々を助けて大群衆の中に含めるために,何が行なわれていますか。
17 エホバの証人は,大群衆の成員になる見込みのある人々を捜し出す点で,種々の国民に対してだけでなく,それらの国民の中の部族や民や言語グループにも注意を向けてきました。証人たちはそれらの人々に音信を伝えるために聖書関係の文書を300余りの言語で出版しています。これには,資格のある翻訳者のチームを訓練して維持し,それらの言語をすべて処理できるコンピューター機器を供給すると共に,実際の印刷を行なうことも含まれます。過去わずか5年間に36の言語がリストに加えられました。それらの言語を話している人々の総数は,およそ9,800万人に上ります。なおその上に,証人たちはそれらの人々を,神の言葉を理解できるよう助けるため個人的に訪問するよう努めています。―マタイ 28:19,20。
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