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サルゴン聖書に対する洞察,第1巻
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サルゴンは聖書中に一度だけ名前を挙げられています。(イザ 20:1)1800年代の初めごろ,サルゴンに関する聖書中の言及は,歴史的に見て何の価値もないとして,批評家たちからしばしば無視されていました。しかし,1843年以降,考古学の発掘調査により,コルサバードにあったサルゴンの宮殿の遺跡やその王室編年誌の碑文が発見されてきました。―第1巻,955,960ページの写真・図版を参照。
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サルゴン聖書に対する洞察,第1巻
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サルゴンに関する碑文は,古代の一般の記録を聖書の記録と同等に見てそれらの記録に大きな信頼を置くことの愚かさを例証しています。サルゴンが即位した後,メロダク・バラダンの率いるバビロニア人はエラムの支持を得て反逆しました。サルゴンはデルで彼らと戦いを交えましたが,反逆を打ち砕くことはできなかったようです。サルゴンの碑文を見ると,彼はその戦闘で完全な勝利を収めたと主張していますが,バビロニア年代記はエラム人がアッシリア人を撃ち破ったと述べており,メロダク・バラダンの文書は,彼が『アッシリアの軍勢を打ち倒し,その武器を打ち砕いた』ことを誇っています。「古代イラク」という書物は,次のように述べています。「細部の面白い点: メロダク・バラダンの碑文はニムルードで発見されたが,それはサルゴンがウルクからそこへ運んだもので,……サルゴンはそこでその碑文を,自分の名の載った,そして言うまでもなく,その出来事の全く異なる説明の載った粘土の円筒碑文と置き換えた。このことは,政治的な宣伝や“冷戦”のやり方が我々の時代だけの特権ではないことを示している」― G・ルー著,1964年,258ページ。
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