ミクロネシア
パラダイス。この言葉を聞くと,青々と木の生い茂る熱帯の島,抜けるような青空,やわらかなそよ風に揺れるヤシの木々,白砂のなぎさ,透き通るような海と色とりどりの魚,壮麗な日没などを思い浮かべるかもしれません。ミクロネシアには,そのパラダイスのイメージがそのまま当てはまります。その美しさは息をのむほどです。
しかし,ここには,パラダイスとはまるで結びつかない事柄も存在しています。第二次世界大戦中,これらの島々は残酷な戦闘で深手を負い,今は今で,ミクロネシアの人々は経済上の問題,犯罪,病気と闘っています。ミクロネシアが真の意味でパラダイスになるためには,人類の抱える根深い諸問題が解決されなければならないということを,いよいよ大勢の人が理解するようになっています。
ミクロネシアの生活に趣を添える多様性
ミクロネシアはさまざまな群島から成っており,それぞれに他とは異なる魅力や文化があります。驚くべきことに,各群島には,近隣の群島の住民でさえ理解できない全く独自の言語があります。
典型的なミクロネシアの島というようなものは存在しません。富んだ島々もあれば,貧しい島々もあります。ポーンペイのようなごつごつした火山島は900㍍余りの高さに達しますが,あるほっそりとした環礁などは平坦で,海抜1㍍ほどしかありません。マーシャル諸島のマジュロはそうした環礁の一つで,嵐になると,環礁全体が波に洗われることもあります。
ミクロネシア人は親しみやすく,魅力ある人々です。人々の多くは,陸と海の両方に頼って生活しています。家の地所からは主食となる食糧を収穫し,場合によっては鶏やブタを少し飼いますし,海から魚もとります。
これら孤立した島々に最初に定住したのは,アジアから東へ,またメラネシアから西へ航海していた人々とされていますが,ミクロネシアに初めてたどり着いた西洋人は,1500年代のスペインの探検家たちでした。彼らは,自分たちの宗教も携えてきました。現在,島々の大半ではローマ・カトリック教会が地盤を固めていますが,1800年代後半にキリスト教世界の宣教師たちが確立したプロテスタント系の教会も見られます。
グアム島: 島の活動の中心
「小さな島々」を意味するミクロネシアには約2,000を数える島々が散在しており,そのうち,人の住んでいる島は125ほどです。これらの島々は地上の,ざっと米国大陸ほどの広さに点々と広がっています。とはいえ,島々は非常に小さくて,島全部を合わせても総面積は3,100平方㌔ほどしかなく,米国で一番小さなロード・アイランド州と大して変わりません。
ミクロネシアの玄関はグアム島で,他の島々の多くへ向かう飛行機の便はここから出ます。ミクロネシアの住民 47万人のうち,15万人はグアム島に住んでいます。長さ51㌔のグアム島は,ミクロネシア最大の島で,最も発展した島でもあります。主要道路の混雑ぶりやあわただしい生活様式は,生活のペースがもっとゆったりした他の島々とは一線を画しています。
太平洋上の戦略的要地として軍事勢力から長年重要視されてきたグアム島は,現在アメリカの軍事拠点となっており,陸地の3分の1以上は米軍の管理下にあります。しかしグアム島は,神の王国の良いたよりを広めるための戦略的要地でもあります。ものみの塔協会の支部事務所では,聖書教育の教材が11の言語で印刷されており,それらはミクロネシア全域で配布されています。
王国の真理が「最後の未開拓地」に伝えられる
統治体のミルトン・ヘンシェルは,1980年4月に行なったグアム支部施設の献堂式の話の中で,ミクロネシアを,王国を宣べ伝える業における「最後の未開拓地の一つ」と表現しました。ミクロネシアは多くの辺ぴな島々から成っており,地元で話される言語も相当な数に上るため,この熱帯の「最後の未開拓地」は非常に手ごわい場所となってきたのです。
40年にわたり,忠実な宣教者たちは懸命な努力と創意工夫とによってその手ごわい問題に立ち向かってきました。その40年間に,少なくとも175人の宣教者がミクロネシアで奉仕しました。このことは,島々で26の会衆が設立され,約1,300人の証人たちが現在活発に奉仕していることの重要な要因となっています。
現在ミクロネシアで奉仕している63人の宣教者のうち,ものみの塔ギレアデ聖書学校に出席した人はごくわずかです。宣教者の大半は,フィリピンやハワイの開拓者の中から,宣教者奉仕をするよう招かれた人たちです。多くの人にとってこれは,快適な故郷を後にして,あまり文明化されていない生活を始めることを意味していました。島によっては,まともな道路はほとんどなく,電気も水道もない所もあります。宣教者たちは数々の病気にさらされます。暑くて,湿気の多い,また時には厳しい気候に耐えなければなりません。ほぼ1年中,破壊的な台風に脅かされます。しかし宣教者たちは,自分たちの労苦が結んだ,満足のゆく実を目にしてきました。
聖書の真理は,主要な島々のそれぞれで確固とした地歩を得ました。王国の音信を最初に受け入れた人の中には,影響力のある島民がいました。例えば,ポーンペイには,カール・ダニスというポーンペイ議会の議員がいました。コスラエ島で最初にエホバの証人になった人の一人は,フレディ・エドウィンという人で,七つの言語を話し,王の親族でもありました。一時は司祭になる勉強をしていたオーガスティン・カストロは,サイパン島での会衆の発足に助力しました。グアム島では,元ボクサーのトニー・サルセードが,その知名度の高さを活用して,人々が平和を楽しむ助けとなる音信を伝えました。それは,島々の美しい環境が決して与えることのなかった平和です。
良いたよりがグアム島に伝えられたいきさつ
トニー・サルセードは,ミクロネシアにやって来た最初のエホバの証人ではありませんでした。事実,島へ着いたときは証人ではなかったのです。サルセードは,戦後の再建のために働く契約労働者として1948年にフィリピンからグアム島へやって来ました。仕事仲間の何人かがエホバの証人で,その証人たちがトニーに聖書のことを教えるようになりました。
これらの熱心な兄弟たちは,1951年12月にミクロネシアで最初の会衆を組織しましたが,1954年に会社が倒産した時,トニーを除いた全員がグアム島を強制的に出されてしまいました。ボクシングをやめていたトニーはグアム人の女性と結婚していたため,留まることを許されました。
1950年代の半ばには,サルセードの家で集会が開かれており,会衆の成員も12名に増加しました。島全体が伝道区域でした。トニーはこう語りました。「私たちは毎週土曜日になると一日中野外奉仕に出ていましたから,どの村の人々からもすぐに知られるようになりました」。
待ち受けていた困難な状況
当時のグアム島は,今日のようなにぎやかなリゾートの島とは似ても似つかない所でした。グアム島に任命された最初の宣教者,サム・ワイガーとバージニア・ワイガーは,1954年にこの島に到着したときのことをよく覚えています。
サムはこう語っています。「当時のグアム島は完全に軍事基地でした。島は戦争で荒らされていました。未使用の爆弾や弾薬が至る所にころがっており,戦争の装備はさびつくにまかされていました。依然として,見つかって逮捕される日本人狙撃者もいました。妻と私はかまぼこ兵舎を借りましたが,そこには冷蔵庫もクーラーもベッドも,その他の家具もありませんでした。私たちは蚊帳を張り,布張りの軍隊用簡易ベッドで寝ました」。
ワイガー夫妻が宣べ伝える業に注いだ努力は非常に良い実を結んだため,すぐにもっと大きな集会場所が必要になりました。それで,会衆は空いていた軍の食堂を借り,隅から隅まで掃除をしました。その建物は,カトリック教会から道路を隔てた向かい側にありました。兄弟たちが王国会館の看板を掲げると,カトリックの司祭は異議を唱えました。
その後,雷が落ちました。めったにない雷雨があり,その際に,雷で教会の尖塔が崩れ,幾つかの偶像も粉々に砕けました。ワイガーはこう話しています。「司祭は教区民に,神は王国会館を攻撃するつもりだったが目標がそれたのだ,と説明しました。人々がその説明では納得しなかったので,司祭は別の言い訳をでっち上げました。神が教会を壊されたのは,もっと大きくて立派な教会が必要だったからだ,と言ったのです」。
信託統治地域に入る
ワイガー夫妻が宣教者として日本に任命されると,マール・ローマスターに増し加わった責任が委ねられました。背の高い兄弟で,にこにこしていることが多かったものの,真理に関してはいつも真剣でした。1960年,ものみの塔協会はマールに,ミクロネシアを回る踏査旅行を要請しました。島々は米国の信託統治地域だったため,兄弟は高等弁務官から旅行の許可を得る必要がありましたが,その弁務官は無愛想な,非協力的な人で,「わたしが骨になるまでは,君は信託統治地域に入れんよ」とローマスターに言いました。
しかし,その人が死ぬ必要はありませんでした。わずか3か月後に新しい高等弁務官が任命され,マールに旅行の許可が下りたのです。こうしてマールは,サイパン,チュウック,ポーンペイ,ベラウ,ヤップといった島々に王国の音信を伝えた最初の人となりました。
協会の会長による個人的な援助
1962年11月,グアム島は悲劇に見舞われました。風速ほぼ90㍍のカレン台風が島中で吹き荒れ,9人の人の命を奪い,何千万ドルにも上る被害をもたらしたのです。幸い,兄弟たちはだれも命は失いませんでしたが,王国会館を失ってしまいました。新しい会館も望み薄と思えたころ,バプテスマを受けて間もない一人の姉妹が助けを差し伸べ,寛大にも土地を寄付してくれました。その土地に以前より大きな王国会館が建てられ,ものみの塔協会の当時の会長N・H・ノアによる1964年の地帯訪問前に完成しました。
ノア兄弟は,人の住む地の一部であるこの地域で徹底的な証しが行なわれるようにと,到着したばかりの6人の宣教者を,ミクロネシアのさまざまな場所で奉仕するよう任命しました。ノア兄弟はその6人にこう言いました。「この地域は外国だと思えるかもしれませんが,地球上にいる限り,皆さんはいつも自分の家にいるのだということを忘れないでください。本当に外地へ赴いた宣教者はキリストだけです。地上で奉仕するため,天を後にされたからです。業が成し遂げられるまで,任命地にしっかり留まってください」。
それまでの数年間,旅行する監督たちは年に1度,貨物船に乗って島々を旅行していました。兄弟たちは島々に住むごく少数の証人たちを訪問し,どこでも船が停泊するところでは証言を行ない,だれであれ以前の訪問で関心を示した人をさらに励ましました。ノア兄弟は,年に2回,飛行機で巡回の旅行を行なうよう提案しました。
旅行する監督が増加に寄与する
ミクロネシアのこの空の旅は,ハワイの旅行する監督ナサニエル・ミラーによって,1968年から行なわれました。ミクロネシア人の高齢者の多くは日本語を話しますが,ミラーは宣教者として日本にいたことがあるので,この骨の折れる割り当てに選ばれたのももっともなことでした。なぜ骨の折れる割り当てだったのでしょうか。ミラーは,「飛行機でホノルルからこれらの島々を回って往復すると,1万4,000㌔以上になりました」と述懐しています。
グアム島に到着した兄弟は,会衆に活気がないことに気づきました。増加は見られず,区域も定期的に網羅されていませんでした。ミラーは,宣教者をあと4人グアム島に送り,島の南端に2番目の宣教者の家を建てることを推薦しました。
1969年,グアム島とミクロネシアの地域はハワイ支部に割り当てられました。1970年からは,ハワイの支部委員会の調整者,ロバート・K・カワサキ(父)もミクロネシアを訪問するようになり,年に1度,巡回大会,地域大会,宣教者の家で奉仕しました。
霊的な羊飼いがこうして個人的な関心を示してから間もなく,その成果は明らかになりました。グアム島で1970年に開かれた「善意の人々」地域大会では,291名の出席者最高数が得られ,新聞,ラジオ,テレビなどが毎日こぞって大会の様子を伝えました。しかし,確かに畑のこの地域には,もっと多くの働き人を容れる余地がありました。そうした働き人はどこから来るのでしょうか。
正規開拓者のロバート・フジワラとミルドレッド・フジワラは,ハワイで食料品店を営んでいましたが,必要の大きな所で奉仕することを切望していました。1970年に,二人は16歳から8歳までの3人の子供と一緒にグアム島へ移り,その夢を実現させました。その移住は,二人にとって,また子供たちにとって良いことだったでしょうか。今では子供たちは皆成人して結婚し,全員がエホバの熱心な僕になっています。子供たちのうち二人はグアム支部で奉仕しており,もう一人は開拓者です。フジワラ一家が来たときは,グアム島には会衆が一つしかありませんでした。今では会衆の数が九つに増え,ほかにも一つの群れがあって,この一家は業にあずかる喜びを経験しています。これらの会衆は,六つの言語を話す人々を世話するために組織されています。1970年代と1980年代には,ほかにも数家族が援助にやって来ました。
覚えやすい支部の住所
1964年に建てられ1969年に増築されたグアム島の王国会館が,1976年のパメラ台風で壊れてしまいました。ある兄弟は,「グアム島はまるで,ロードローラーで踏みならされたかのようでした」と述べました。
こぢんまりとした集会場が建て直される代わりに,新しいL字形の支部施設が建設されました。その施設には,事務所1室,印刷を行なう所,寝室6部屋,大会を開くこともできる,400席を備えた広い王国会館がありました。台風に持ちこたえられるよう,王国会館の壁は,厚さ20㌢の鉄筋コンクリートでできていました。ハワイから移ってきていた一人の兄弟は,こう述べました。「あまりに広いので,ここがいっぱいになることは絶対にないだろうと思っていました。エホバの証人は島全体で120人しかおらず,私たちはその王国会館の中で,靴の箱の中のビー玉のようにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていました」。しかし,わずか数年後には,その大きな王国会館にも大会出席者が入りきれなくなっていました。
力強い握手と特徴のある笑い方で知られていたミラー兄弟は,グアムの支部委員会の最初の調整者になりました。そして,経験のある二人の兄弟,ベトナムで支部の監督を務めていたロバート・サビッジと,ハワイの支部委員会で奉仕していたヒデオ・スミダが,グアムの支部委員会に加わりました。
支部が最初に建てられたとき,郵便物は郵便局の私書箱まで取りに行っていました。しかしある日,政府の作業員が支部に立ち寄り,自分は今,郵便物が配達できるように番地を割り振っているところだと説明しました。その作業員が支部の建物に“143”番地と塗料をスプレーしているとき,ミラーはこの通りは何という名前になるのかとその人に尋ねました。作業員は,「分かりません。地図を見て調べてみましょう」と言いました。政府がその通りをエホバ通りと名づけているのを知って,ミラーは驚きました。
自分たちで行なう建築プロジェクト
ほかにも行なうべき建築の仕事がありました。1980年代初めのこと,米国に住むジム・パーシンガーは,自分のセメント工場に時間を取られ過ぎていると判断し,妻のジーンと二人で生活を簡素化することにしました。二人は,船体がコンクリートでできた15㍍の帆船を造ってペトラ号と名づけ,グアム島へと出帆しました。パーシンガー夫妻の船は,建設プロジェクトにおいて非常に貴重なものとなりました。
1982年から1991年の間に,ミクロネシアの六つの島に宣教者の家や王国会館が建てられました。資材が不足していたため,建設は容易ではありませんでした。ある建築プロジェクトの場合は,兄弟たちが自分たちの手でコンクリートブロックを作らなければなりませんでした。一つの小さな型枠にセメントを流し込んでは,固まらせました。珊瑚を砕いて独自の砂利を作りましたし,砂も自分たちで調達しなければなりませんでした。一つの島から別の島へと資材や働き人を運ぶため,ペトラ号が頻繁に用いられました。ジム・パーシンガーはこう説明しています。「チュウックに王国会館を建てていたとき,島では砂が買えなかったので,小さな無人島まで船で出かけてゆき,海岸の砂をシャベルでかき集めて袋に詰めました。そして,それらを船に積んで,建設現場に持ち帰ったものです」。
軍事工学面での経験を持っていたレイ・ショルツが,ミクロネシアでの建設プロジェクトのほとんどを監督しました。ショルツの作業班の中心的存在だったのは,カルビン・アリイ,エーブリー・ティープル,マイルズ・イノウエでした。新しい支部建築の援助のためにハワイからやって来て,グアム島に住み着いた人たちです。彼らは力を合わせ,しばしばその場に応じた工夫をして仕事を成し遂げました。
新たな監督のもとでのさらなる増加
ミラー兄弟は,妻が不治の病に冒されていることを知り,1987年にグアム島を去りました。同兄弟に代わって調整者になったのは,背が高くて精力的なアーサー・ホワイトでした。ハワイとグアムの支部委員会で奉仕した経験を持ち,1981年からは地域監督としてミクロネシアを回る旅行もしていました。ホワイトの監督下で,グアム支部はさまざまな変化を経験しました。支部の建物には二つの王国会館が増設され,1995年に完成を見た建設プロジェクトでは,大いに必要とされていた事務所,工場のスペース,そして宿舎となる新しい部屋が備えられました。
ホワイトと共に支部委員会で奉仕しているのは,ミクロネシアで長年宣教者として奉仕してきたジュリアン・アキとサルバドル・ソリアーノです。残念なことに,支部委員会の最初の成員だったヒデオ・スミダは,数年間グアム支部の設立に尽力した後,亡くなりました。
外国語で話す
グアム島の開発が進むにつれ,外国人の人口も増えてゆきました。タガログ語,イロカノ語,韓国語,中国語などの畑を耕すため,宣教者がさらに加えられました。
エルネスト・ガブリエルとグロリア・ガブリエルは14年にわたり,グアム島の人口の4分の1を占めるフィリピン人社会で証言してきました。タガログ語とイロカノ語の会衆を合わせると,島に五つある英語会衆のうちのどの会衆よりも大きくなります。
1985年には,韓国人の宣教者チョン・ソン・チョンがやって来ました。チョンは,「あまりに暑くて湿度が高いので,妻も私も一日に数回シャワーを浴びて汗を流しました」と述懐しています。しかし,二人はその暑さの中で何時間も宣べ伝え,確固たる決意を抱いた二人のその模範のおかげで,小さいながらもしっかりした会衆が設立されました。
グアム島の島民には,徹底的な証しがなされています。平均すると,人口262人に対して一人の証人がいます。
キリバス: 人々にテ・コアウアとして知られる
王国の真理が最初にグアム島に伝えられたのはフィリピンからでしたが,キリバス(当時はギルバート諸島として知られていた)には,ニュージーランドから届けられました。この島々は英国の植民地だったため,宣べ伝える業は制限されていましたが,1959年にフーヤ・パクストンは薬剤師として島に入ることを許可され,1967年までそこに留まりました。パクストンがそこで見たものは,赤道をはさんで点在する ― 多くの場合,きわめて幅の狭い,常に暑くて湿度の高い ― 美しい環礁群でした。
フーヤは仕事でギルバート諸島すべてを回り,フーヤと妻のベリル,そして年若い息子二人は,行く先々で聖書について語る機会を探し求めました。ピクニックをしていたとき,5歳の息子スティーブンは,ある女性から,神には名前があるかどうかと尋ねられました。スティーブンは,「ありますよ。神の名前はエホバです」と答えました。その答えがきっかけとなって,ほかの人たちからも質問が出ました。間もなくパクストン一家は,毎週日曜日に,大勢の人から成るグループとの聖書研究を司会するようになりました。
ニュージーランドへ帰る前に,パクストン一家は,人の住んでいないある環礁での特別な集会を取り決めました。その日,バプテスマの話がなされ,エホバへの献身の象徴としてギルバート諸島の人5人が礁湖で水の浸礼を受けました。残念ながら,これら島の人々が最初に示した熱意は,だんだん薄れてゆきました。
その後,ナリキ・カウトゥという名のギルバート諸島の男性が,会計学の勉強のためにオーストラリアの学校へ行きました。そこにいる間に,カウトゥもエホバの証人と聖書を学び,バプテスマを受けました。カウトゥ兄弟は当時を振り返り,「1978年に家族と共に島へ戻ったとき,キリバスにほかにだれかエホバの証人がいるかどうかを聞いて回るようになりました」と語っています。兄弟はすぐに,自分の生まれ故郷の島では,エホバの証人はほとんど知られていないことを悟りました。兄弟はこう語っています。「私たちは一組の年配の夫婦,それにもう一人の男性とその子供たちを見つけましたが,組織された集会は開かれておらず,ギルバート語の協会の文書は1冊もありませんでした。私たちは日曜日ごとに集まるようになりました。祈り,聖書を読みました。英語が読めるのは私だけでしたから,私は協会の出版物から少し選んで説明しました」。
王国会館 ― 建物以上のもの
1982年,キリバスの小さなグループは,その地に任命された宣教者ポール・タブニガオとマリーナ・タブニガオが到着したことで,強化されました。集会は宣教者の家で開かれ,その後学校の教室に場所を移しましたが,エホバの証人が“まともな宗教”とみなされるようになったのは,1991年に王国会館が建てられてからのことです。建設作業のほとんどはインターナショナル・ボランティアの手で行なわれ,地元の人々は,“よそ者たち”が自らの時間やお金を差し出して建設を手助けしたことに驚嘆しました。こうして王国会館は,エホバの民に見られる愛ある一致の紛れもない証拠となりました。
その結果,多くの人が真理に引き寄せられました。その建設プロジェクトが終わって間もなくバプテスマを受けた一人の姉妹は,「この小さな会衆を,海外からやって来た人々が助けてくださっているという事実に深い感銘を受けました」と述べました。その「小さな」会衆は,1990年当時の28人の伝道者から,現在では70人に膨れ上がり,ミクロネシアで最も急速に増加している会衆の一つに数えられています。
協会の書籍が高く評価される
一部のパンフレットやブロシュアーは入手できたものの,1994年に「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本が届くまで,地元の人々は協会の書籍を1冊も自国語で読むことはできませんでした。妻と共に忠実に奉仕している宣教者のエディ・ポッサマイは,「種類のいかんを問わず,ギルバート語で手に入る出版物はごくわずかですし,どの出版物も,この本の質には遠く及びません」と述べています。
現在,『永遠に生きる』の本はミクロネシアの六つの言語で出版されており,ギルバート語版は大きな影響を及ぼしてきました。この本を知って聖書を研究する気持ちになった島民も少なくありません。『永遠に生きる』の本を教会に持ってゆく人の姿さえ見られました。
キリバスの人々は,親愛の情をこめて,自分たちの島々にある宗教を表わすニックネームを考え出してきました。プロテスタント信者は祈るときに目を閉じるので,「眠らせる」という意味のカマトゥとして知られています。セブンスデー・アドベンティスト派は,「七日」という意味のイティボングと呼ばれています。エホバの証人は何と呼ばれているのでしょうか。テ・コアウアです。それはほかならぬ「真理」を意味します。
マーシャル諸島: 奉仕のために開かれていた場所
冒険好きなアメリカ人夫婦がグアム島の南東約3,200㌔のマーシャル諸島に良いたよりを携えて行ったのは,グアム島にエホバの証人が存在するようになって10年余りたってからのことです。パウエル・ミケルセンと妻のナイオマは,必要の大きな所で奉仕するためバハマ諸島へ行くつもりでした。そして,その目的で,全長10㍍のヨール型帆船を購入し,忠誠号と名づけました。しかし,その船旅に出る前,パウエルに,マーシャル諸島における大規模な発電所の建設を監督する仕事が舞い込んできました。ものみの塔協会はパウエルにその職をとらえるよう勧めました。その当時,外国人の立ち入りは法的に制限されていたため,マーシャル諸島にはエホバの証人が一人もいなかったのです。
ミケルセン兄弟は発電所建設に関連した責任を果たしながらも,妻と共に,与えられた機会を最大限に利用して,島の人々を霊的に援助しました。1960年に二人はクワジャリン環礁に着き,その後,マジュロ環礁で錨を下ろしました。二人はそこでマーシャル語を独学で学びました。二人が証言すると,気立てのよい島の人々が耳を傾けないということはめったにありませんでした。1964年までに,パウエルとナイオマは12件の聖書研究を司会していました。そのうちの1件は,マジュロのイロイジ・ラップ・ラップ(大王)との研究でした。
1965年には,二人の宣教者,ジュリアン・アキとメルビン・アーユーがその地でミケルセン夫妻に加わりました。この熱意にあふれた兄弟たちは,ほんの数か月間で,簡単な証言ができるまでにマーシャル語を学び,その上,A字形をした宣教者の家も建ててしまいました。
集会場所を備えるため,地面にタコノキの柱を数本立ててそこに忠誠号の主帆を張った,間に合わせの王国会館が建てられました。ミケルセン兄弟はこう語りました。「出席者が増えるにつれ,帆を付け足してゆきました。二番目に使ったのは後ろの縦帆,その後間もなく船首の三角帆を使いました。もう使う帆がなくなったとき,それは“ちゃんとした”王国会館を建てるべき時でした」。
島民は新しい宣教者に感銘を受ける
1966奉仕年度が始まるに当たり,アキとアーユーは自分たちの区域をもっとよく知ったほうがよいと考え,マーシャル諸島の中でも遠く離れた環礁に停泊する,鉄製の貨物船に乗船の予約をしました。この24日間の現地調査旅行の船には,マーシャル諸島に住んで3年になる,新婚のプロテスタントの牧師が同乗していました。この“尊師”とその花嫁が間もなくやって来ることについては,ラジオ放送で各環礁に知らされました。この牧師が通訳を介して話したとき,島民たちはどんなにがっかりしたことでしょう。この人は,わざわざマーシャル語を学ぼうなどとは決して思わなかったのです。
この牧師が,乗船している“二人の偽羊飼い”を避けるよう聴衆に警告すると,人々は余計に好奇心を持ってエホバの証人の宣教者たちに会いたがりました。証人たちはマーシャル語を話し,聖書からすばらしいことを説明していたからです。島の人々は何度も,「ここに留まって,わたしたちに聖書のことを教えてください。必要なものは用意しますから。せめて次の船が来るまでいてください」と懇願しました。
巡回監督のカルチャーショック
ミクロネシアの最初の巡回旅行のため,1968年にハワイを飛び立ったナサニエル・ミラーは,旅の最初の行程でマジュロに降り立ちました。ミラーは当時を振り返ってこう語ります。「マーシャル諸島の小さな環礁を初めて目にしたときのことを思い出します。DC-9型機は着陸に備えて高度を下げましたが,着陸せずに,また高度を上げて空港の上を旋回しました。下を見ると,着陸できるようにと男の人たちが滑走路からブタを追い払っていました。もう一つ障害となっていたのは,滑走路に止まっていた1台の車でした。何と,一群の男たちがその車を持ち上げて運び去りました」。
ホノルルから来た人にとって,これはカルチャーショックでした。マジュロの空港にあったのは,ココヤシの葉で作られた露天の“ターミナル”と,珊瑚でできた滑走路でした。「着陸のとき,珊瑚の石が機体に当たることには慣れていませんでした」とミラーは語りました。地上に降り立ったミラーは,今度は手荷物と一緒に小型トラックの荷台に乗せられ,宣教者の家まで,舗装されていないでこぼこ道を揺られて行きました。
当時の王国会館は,ブリキ屋根で壁もなく,床と言えば,堅い地面だけでした。ミラーは当時のことをこう語ります。「最初の訪問の際,私は20人ほどの小さなグループに通訳を通して話をしていましたが,その話は,何と王国会館に迷い込んできた大きな1匹のブタに邪魔されてしまいました」。
本当のところ,死者はどこにいるのか
マーシャル諸島の諸教会は,非常に珍しい信仰を抱いています。ある日のこと,プロテスタントの執事ウィリアム・マディソンが,ジュリアン・アキを試してこう尋ねました。「パウロはフィリピ人への手紙の中で,『天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがキリストにかがむ』と記していますね。私が聞きたいのは,『地の下にあるものとはだれか』,ということです」。(フィリ 2:10)アキ兄弟が,それは復活を受ける死者たちであると説明すると,ウィリアムは大喜びしました。この人は,「地の下にある」ものとはリ・メナヌイ,つまり“小さな人々”のことで,マーシャル諸島の言い伝えによれば,真夜中にだけ地上に出てくる人々である,という自分の教会の教えにずっと悩まされていたのです。
ウィリアムはすぐに自分の家族がアキ兄弟と聖書を学ぶよう取り決め,1966年には,妻のアルミーナと共にバプテスマを受けました。ウィリアムは1983年から長老として仕え,アルミーナは28年間,ミクロネシアではほかのだれよりも長く正規開拓者として奉仕しています。
マーシャル諸島の諸教会はまた,地獄とは天にある大きな鉄のなべで,罪人は煮えたぎる湯の中で釜煎りにされる,と教えています。多くの人と同様,サイラス・アンドリケもこの“天における死”の教理を信じていました。しかし,死者は塵に帰るということを聖書から示されると,サイラスは真理を受け入れ,1969年にバプテスマを受けました。(創 3:19)サイラスは,新しい王国会館の土地を入手するのに一役買い,マーシャル諸島住民初の翻訳者にもなりました。1967年には,マジュロに会衆が設立されました。ウィリアムやサイラスのような地元の兄弟たちが責任を担ってくれるようになったので,ジュリアン・アキと,新しく来た宣教者ドナルド・バージェスは,マーシャル諸島西部の小さな環礁,イービーに移ることができました。
市街地の4区画分くらいの大きさしかないイービー島には,ほんの数百人のマーシャル島民しか住んでいませんでしたが,近くのクワジャリン環礁にお金になる米軍の仕事ができてからは,人口も増え,8,000人を超えるまでになりました。島の人々は毎日フェリーで通って,クワジャリンの大きな軍事基地で働いています。
マーシャル諸島の人々へのラジオ放送
ラジオは,宣べ伝える業の手段としてミクロネシア全体で用いられましたが,一番効果が上がったのはマーシャル諸島です。「マーシャルの黄金の声」として知られるラジオ局,WSZOは,黄金よりも貴重なものを聴取者に提供しています。マジュロ会衆の長老たちは1970年から,特に遠く離れた環礁に住む人々に聴いてもらう目的で,マーシャル語で毎週15分のラジオの話を流しているのです。そのラジオ番組の始まりにかけているテーマソング,「わたしたちはエホバの証人」の歌をほかの宗派の人たちが口笛で吹いているのを聞くと,宣教者たちの顔からは思わず笑みがこぼれます。
少数が大勢になる
マーシャル諸島の兄弟たちは,愛と熱心さの際立った模範です。旅行する監督として1970年代の終わりにマーシャル諸島を訪問したロバート・サビッジは,自分と妻が王国会館で受けたあいさつを覚えており,こう述べています。「100人を超える兄弟姉妹たちが輪になって並び,一人一人が握手して私たちを歓迎してくれたものです。それに,兄弟たちの王国の歌の歌声は本当にきれいでした。何の伴奏もなくても兄弟姉妹はハーモニーをつけて歌うので,すばらしいメロディーになりました」。
28年間宣教者を続けているクレメンテ・アレニエゴとユーニス・アレニエゴは,1977年からマーシャル諸島で奉仕しており,その間に驚くべき増加を目にしてきました。ジュリアン・カナムとロレイン・カナムが1982年に宣教者としてマジュロに来たとき,公開集会の出席者は平均85名でした。現在では二つの会衆があり,出席者の平均は320名ほどです。なぜ業は繁栄を見てきたのでしょうか。カナム兄弟はこう説明しています。「この島々は,パラダイスからはほど遠い状態です。心臓疾患,梅毒,糖尿病が広く見られ,乳幼児の死亡率は島々の悩みの種になってきました。すでにエイズに冒されている人もいます。人々は満たされないものを感じ,真理に心を向けます」。
サイパン島: 難問に対処する
サイパン島でも真理は繁栄していますが,ずっとそうだったわけではありません。初期の宣教者たちは,昼間は投石から身をかわし,夜は“幽霊の出没する”家で寝泊まりしました。結局は,ある台風のおかげで,この難しい区域に王国の音信が吹き込まれることになりました。
1962年にアーネスト・マニオンとケイ・マニオンがサイパン島へ赴いたとき,二人は,その島がカトリック教会に支配されていることを知りました。地元の人々はその宗教しか知りませんでした。主任司祭はそうした状態を維持するため,自分の教会員たちが持っていた数少ない聖書を処分したと言われていました。そのため,人々は一般に聖書を信じておらず,残念なことに,ほとんどの人は聖書を見たこともありませんでした。
非常に難しい区域だったため,1966年にマニオン夫妻がサイパン島を去る必要を感じたときには,見込みのある再訪問が1件しかありませんでした。しかし,ロバート・リビングストンとシャロン・リビングストンが,マニオン夫妻の残していった仕事を続けました。
リビングストン兄弟はこう述懐しています。「私たちが通りに近づくと,ドアやシャッターが全部閉まってしまうということがよくありました。ですから,午前中ずっと奉仕しても,だれも戸口に出て来ないのです。少年たちは遠くから私たちに石を投げつけ,少年たちはしばしばシャロンに下品な言葉を浴びせ,みだらな仕草をして見せました。私たちに犬をけしかける人もいましたし,年配の女性たちは,災いから身を守るためなのでしょう,私たちがそばを通り過ぎると十字を切りました」。
宣教者は島を見捨てるべきか
ミクロネシアではどこでも心霊術が広く行き渡っています。借家だったサイパン島の宣教者の家は人里離れた所にあり,夜になると,不可解なことがよく起きました。宣教者たちはそこから引っ越し,現在,宣教者の家は海のそばで主要道路にも近い理想的な場所にあります。
サイパン島で良いたよりが宣べ伝えられるようになって5年がたったとき,協会の映画の一つが公開上映されました。出席者はたった一人でした。それは,4年間研究をしたりやめたりを繰り返し,しかも時々宣教者たちから身を隠していた女性でした。この宣教者たちは任命地で2年を過ごしましたが,だれかと話すことさえめったにできませんでした。では,『足の塵を振り払って』,サイパン島を離れるべきでしょうか。―マタ 10:14。
耳を傾けるよう,台風が人々を説得する
宣教者たちには,もうだれも聴いてくれないように思えたちょうどそのころ,1968年に台風がやって来て甚大な被害をもたらしました。実はこの台風が,エホバの証人の言うことに注意を払うよう人々を説得したのです。風速90㍍にも達するジーン台風がサイパン島に襲いかかり,島の建物の9割を破壊しました。「ハルマゲドンだと思いました」と,前述の,したりやめたりの聖書研究生は言いました。
リビングストン兄弟はこう語りました。「台所のテーブルの下にうずくまっていたのを今でもはっきりと覚えています。私たちは,風圧で天井や壁が外側へ内側へとたわむ様子を驚き入って見ていました。その嵐の音たるや,まるで離陸に備えて出力を上げるジェット機のエンジン音と貨物列車の轟音を合わせたかのようでした。私は,保護の天幕で私たちを覆ってくださるようエホバに祈りました。でも,シャロンに聞こえるように祈るためには,シャロンの耳元で,ありったけの大声を張り上げなければなりませんでした」。
その祈りは聞かれたでしょうか。近くにあったカトリックの学校と修道院は全壊しましたが,古い木造の宣教者の家は壊れずに残っていました。台風が通過したのは朝のうちで,その日の晩には,主の晩さんを記念する年ごとの行事,すなわち記念式が行なわれました。島中が騒然としていましたが,宣教者の家では,4人の人が灯油ランプをともし,平安のうちに集まっていました。サイパン島の多くの人々は,その嵐が自分たちにもたらされた神罰だったのではないかと考えるようになりました。
ねばり強さが報われる
4年間研究していた女性はついに真理の側に立場を定め,1970年7月4日にバプテスマを受けました。オーガスティン(ガス)・カストロとタエコ・カストロも,その日にバプテスマを受けました。ガスはかつて,カトリックの司祭になるための勉強をしていましたが,タエコのほうは真理を探し求めていました。真理を見いだすと,タエコはすぐに集会に出席するようになりました。
口数が少なく,独特な風貌のチャモロ族のガスは,それほどすぐには確信が持てませんでした。ガスはこう述べています。「日曜日は毎週,集会に招待されましたが,人に対する恐れがあったので断わっていました。集会にいるところを人に見られたくなかったのです。私は司祭たちと大変親しくしていましたし,両親は敬虔なカトリック教徒でした。彼らは,私の気が狂ったと思うことでしょう」。
ガスは6か月の研修でハワイに派遣されたとき,これで苦境から抜け出せたと思いました。しかし,ある日のこと,ガスは自宅のドアの下にメモがあるのを見つけました。メモには,ある地元の開拓者の兄弟に電話してくださいと書いてありました。サイパンの宣教者たちがハワイの友人たちに手紙を書いて,だれかにガスと連絡を取ってもらうよう頼んでいたのです。ガスは,聖書研究の誘いを何度か断わりましたが,その開拓者の兄弟はあきらめませんでした。兄弟は,もし週に1時間が長すぎるなら,30分の研究でもいいですよ,と言いました。
ガスは当時を振り返り,「私はとうとう,週に15分の研究をすることに同意しました。でも,聖書を研究したかったからではありません。一つでも間違いを見つけて,それで研究をおしまいにするつもりだったのです」と述べています。ガスのもくろみは裏目に出てしまいました。研究があまりに興味深かったため,ガスはすぐに,1時間の研究を週に2回してほしいと頼みました。
カストロ兄弟は,サイパン会衆で長老として長年奉仕してきました。長男は3年間ブルックリン・ベテルで生活し,長女は1990年にギレアデ学校を卒業して宣教者になりました。現在,もう一人の息子は長老で,もう一人の娘は開拓者です。
教会の偽善を見て,ある人たちは真理に心を向ける
サイパン島の区域が柔らかくなったのには,幾つかの要因があります。その一つは,エホバの証人の強靭さが称賛されるようになったことです。何年も前に,信託統治地域のある役人は,エホバの証人の伝道活動は地域社会にただならぬ騒乱を引き起こしていると述べ,一人の兄弟に,会衆には何人の人がいるのかと尋ねました。兄弟が12人だと言うと,その役人は,「12人だって! サイパンの人たちの話しぶりからして,100人はいると思った」と答えました。
カトリック教会の偽善も,人々が王国の音信に注意を払う原因になりました。かつて司祭たちは,「プロテスタント信者は悪魔と同じくらい悪い」と人々に教えていたことがありました。後に,司祭たちは教区民に,「エホバの証人はプロテスタント信者より悪い」と言いました。そのため,心の正直な人々の間で,「悪魔より悪いものなど,どうしてあり得るのか」という質問が起きました。
真理に対する人々の態度は急激に変化したため,現在サイパン島は,ミクロネシアで人口に対する伝道者の比率が非常に高い所の一つに数えられています。その比率は276人に対して一人の割合です。1991年には,350席を備えたコンクリート製の王国会館が完成し,現在,二つの大きな会衆がそこで集まっています。一つは英語の会衆,もう一つはタガログ語の会衆です。
良いたよりがテニアン島で爆発する
サイパン島から,8㌔も離れていない小さな島テニアン島に良いたよりが伝えられました。第二次世界大戦の歴史に詳しい人なら,広島に原子爆弾を投下するため,1945年にこのテニアン島からエノラ・ゲイという米国のB-29爆撃機が飛び立ったことを知っています。1970年から,サイパンの証人たちは定期的に週末を使って,テニアン島で「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を配布しました。これらの雑誌は,エホバの決意により,すべての国民の中の義を愛する人々が剣をすきの刃に打ち変え,もはや戦いを学ばなくなる時が来たことを示していました。―イザ 2:4。
しかし,以前にアイルランドで奉仕していたロバート・モローとリー・モローが1992年4月に島に到着する時まで,テニアン島にはエホバの証人は一人も住んでいませんでした。しかし,種はすでにまかれていました。
村長の息子で,ジョセフ・マングローニャという人がいました。この人は政治的に有力な家の出で,家族の中にはほかにもテニアン島の議員が数人いました。ジョセフは,自分が読んだ「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の内容の価値を高く評価し,真理を見いだしたと確信し,真理について他の人に話していました。親族は,ジョセフにバプテスマを受けさせまいとして,妻と二人の子供を悠々と養ってゆけるだけの政治的要職の話を彼に持ちかけました。しかし,ジョセフは,「あなた方の政府はもうすぐエホバ神に滅ぼされることになっています。どうしてそういうものの片棒をかつぐことを望むでしょうか」と答えました。ジョセフの勇敢な態度に動かされて,それ以降,何人かの親族が彼に加わってエホバに仕えています。
関心を持つ人々に一貫した個人的援助が与えられてからわずか2年で,24人の伝道者から成る活発な会衆が設立されました。現在テニアン島には,宣教者の家と王国会館が1軒ずつあります。
チュウック: かまぼこ小屋からスタートする
サイパン島に次いで,ものみの塔協会の宣教者の定期的な奉仕から益を得たのは,チュウック(以前のトラック)諸島でした。1961年にマール・ローマスターが少しだけここを訪れたことがありましたが,1965年にはポール・ウィリアムズとリリアン・ウィリアムズがチュウックに居を定めました。この夫婦を皮切りに,30人を超える宣教者がここでの原始的な状況に順応してきました。
1965年に二人が主要な島であるモエン島に到着した時,宗教的偏狭のため,宣教者の住居を確保するのは困難でした。やっとのことで,ある店の店主が,自分のかまぼこ小屋の半分を貸すと言ってくれました。カトリックの司祭たちはこのことに大変腹を立て,村の首長のところへ直接出かけて行って,エホバの証人たちを島から追い出すよう命じました。首長は,「あなた方は何年も前にここへやって来て,互いに愛し合うようにと教えてくれましたね。では,なぜ今,私たちに憎むことを教えているのですか」と尋ねました。司祭たちには返す言葉がありませんでした。宣教者は留まることになりました。
関心ある人々がすぐに見つかり,間もなく,この島々で30件の聖書研究が司会されるようになりました。ここはかつて,第二次世界大戦中の日本の主要な海軍基地でした。アメリカの爆撃機がここで日本艦隊の大部分を壊滅させました。そして今日では,海底に眠る船や飛行機を探検しに,スノーケリングやスキューバダイビングをする人たちが世界中からチュウック礁湖にやって来ます。時間をかけて人々について知ろうとする人は,別の魅力に気づきます。変化に富んだ名前の面白さがお分かりになるでしょう。ビア(ビール),ウィスパー(ささやき),パッドロック(南京錠),スノーホワイト(白雪姫)といった名前の人に会うかもしれません。3人の息子に,サーディン(イワシ),ツナ(マグロ),スパム(ハムの缶詰)という名前を付けた人もいます。
ウィリアムズ夫妻と研究した最初のチュウック島民の一人に,前述の店主の妻であるキヨミ・シライがいます。キヨミは敬虔なプロテスタント信者で,YWCAの役員でした。夫は彼女が宗教を変えることを望まず,キヨミがエホバの証人としてバプテスマを受けると,別居するようになりました。キヨミのバプテスマは,島中の話の種になりました。一つには,キヨミがだれからも見える海でバプテスマを受けたからです。今日に至るまで,ミクロネシアのある島々では,いまだに海でバプテスマが施されています。
夫が自分のもとを去ったので,キヨミはチュウック群島の中にある,近くのダブロン島へ移りました。熱心に証言し,間もなく,丘の上にある1軒の家を除いて,島全体を網羅してしまいました。その家を抜かしたのは,そこに住んでいる老齢の女性が霊媒として知られていたからです。しかし,ある日,キヨミは抑え難いものを感じてその険しい丘を登って行きました。驚いたことに,その老齢の女性アミコ・カタは,聖書の音信を喜んで受け入れ,やがてこの人も熱心な開拓者になりました。
姉妹は大勢でも兄弟はわずか
チュウックの証人たちは特別な難問に直面しています。兄弟たち,それも特に独身の兄弟たちが極端に少ないのです。バプテスマを受けたトラック諸島生まれの兄弟は二人だけで,二人とも既婚者です。この島々は母権制社会で,ほとんどの男性は酒飲みで,けんか好きで,不道徳だと言われています。現在,三つの別々の島,モエン島,ダブロン島,トール島にある小さな会衆で長老として仕えているのが5人の宣教者の兄弟だけなのは,そうした理由によります。実際,宣教者の援助がなかったときには,モエン会衆は一時,23人の女性で構成されていました。
「このことは,姉妹たちにとって大きな試練になることがあります」と,宣教者の一人であるデービッド・フィスターは言います。「少女たちは,子供をたくさん育てることを心に描いて成長します。ところが,今のところ,結婚相手になる若い男性が会衆にいないのです。ある姉妹たちは,エホバに対する深い愛を抱き,『主にある者とだけ結婚する』ようにという聖書の助言に敬意を抱いています。(コリ一 7:39)しかし,別の姉妹たちにとっては,このことがエホバに仕える妨げになります」。
現在はグアムの支部委員会の成員であるサルバドル・ソリアーノは,宣教者としてダブロン島で14年を過ごしましたが,そこでは,彼が唯一の兄弟でした。ソリアーノ兄弟は,「その状況は,良いたよりを告げる女は大軍をなしている,と述べる詩編 68編11節を思い起こさせました」と語っています。
珍しい乗り物で王国会館へ
ミクロネシアではどこでも,宣教者は自分の車か小型トラックを使って,人々が集会に行くのを助けることを習慣にしていますが,恐らくこれを試したのはバラク・ボーマンだけだろうと思われる交通手段があります。体格のよい,70歳のある姉妹が,体が弱くなって王国会館までの3㌔の道のりを歩けなくなったとき,バラクはこの姉妹を助ける方法を考え出そうとしました。バラクは姉妹に,「集会までお乗せしたいのですが,私には猫車しかありません」と言いました。驚いたことに姉妹は,「ええ,それで構いませんよ」と答えました。
集会への途上,二人が小道を猫車で進んでゆく光景,そして,バラクに求められた努力のほどを想像してください。バラクは,空の猫車を押して朝7時に家を出,姉妹を乗せて午前9時半の集会のプログラムにちょうど間に合うように王国会館に到着しました。
エホバの証人の宣教に対する熱意と集会に対する認識は,良い結果を生み出しました。実際,1995年の記念式の出席者数は,チュウックの証人たちの数の10倍を上回っていたのです。
ポーンペイ: 霊的な実を育てる
エホバの証人として初めて中央太平洋最大の島の一つ,ポナペ島(現在はポーンペイ)に足を踏み入れたのは,ウィリアム・ヤップとアデラ・ヤップではありません。1961年にマール・ローマスターがここで少し証言をし,1965年の初めには長く留まって,宣教者の家として使えそうな,廃屋となった店舗を1軒借りました。しかし,ヤップ夫妻が島へ来たときは,なたを使わなければその建物の中に入れない状態でした。ウィリアムはこう言っています。「6年間伸び放題になっていた草を刈るのに数日かかりました。管理する人がだれもいなかったので,この建物は考えられる限りのあらゆる種類の害虫や爬虫類のたまり場になっていました」。
精力的なヤップ夫妻はすぐに,果敢で倦むことのない伝道者として敬意を得るようになりました。二人が証言した人々の中には,島の総督がいました。夫妻はこの人に「新世界訳」を1冊渡しました。総督はこの明快な翻訳が気に入りましたが,この人には幾分,聖書を表紙で評価する傾向がありました。総督が,グリーンの表紙は“聖書らしく”ないと言うので,ヤップ夫妻はそのグリーンの聖書を,黒い表紙で金付けされたデラックス版と取り替えました。総督はその聖書が大変気に入ったので,宣誓を行なわせるときも結婚式を執り行なうときも,その新しい聖書を使いました。
“台所教会”から王国会館へ
1966年に,ポーンペイの元議員だったカール・ダニスは,ポーンペイ初の王国会館の用地として自分の土地の半分を寄付しました。カールは聡明で信望の厚い指導者でした。顔は浅黒く,人なつっこい濃いブルーの目をした小柄な人でした。妻のリカは,モキル島の最後の王の娘でした。このポナペ人夫婦は週に数回,夜,灯油ランタンの明かりのもとで聖書を研究し,急速な進歩を遂げてバプテスマを受けました。
王国会館が建てられるまで,英語で行なわれる会衆の五つの集会はすべて,ダニスの家の炊事場で開かれました。そのため,地域の人々の中には,証人たちのこの小さなグループを“台所教会”と呼ぶ人もいました。集会の出席者はいつも10人足らずでした。証人たちが,ポナペ語に訳した「家から家に」の歌を歌うと,近所の人はばかにして,「あれは,蟻の歌声ではありませんか」と言ったものでした。
宣教者たちは,1958年にニューヨーク市で開かれた国際大会の映画を上映するために村の野球場を使う許可を村長が与えてくれたとき,区域が秘める可能性について新しい見方をするようになりました。その映画が数週間にわたってラジオで宣伝され,上映時間になると,狭いスタジアムに大勢の人が詰めかけたのです。糊づけしたシーツを竿と竿の間に張り伸ばしてスクリーンの代わりにしたので,人々はシーツの表からも裏からも映画を見ることができました。何人が出席したでしょうか。何と,島の人口の6分の1に当たる約2,000人です。
それ以来,“蟻の歌声”は増大し,今では130名余りの人が毎週日曜日に快適な王国会館で集い合っています。
ベラウ: その多くの島々
1961年にマール・ローマスターは踏査旅行を開始しましたが,その旅行で訪れたもう一つの群島に,パラオ諸島(現在はベラウ共和国)があります。1967年に,ギレアデ学校の卒業生エイモス・ダニエルズとジェリー・ダニエルズが,宣教者としてそこへ遣わされました。二人は,まるで地の果てに遣わされたかのように感じました。エイモスは当時を振り返ってこう語りました。「パラオ諸島に着くと,飛行機は方向転換してグアム島に戻らなければなりませんでした。パラオ諸島より遠くへは行かなかったのです」。
二人は,ベラウが,観光客が好んで訪れるロック・アイランズという独特の群島をはじめ,目を楽しませる300ほどの島から成っていることを知りました。上方に熱帯樹の葉が茂る頭でっかちのこれらの小島は,海から生え出たグリーンのキノコのようです。
村人たちが戸口から戸口へと行く
パラオ語の勉強に苦労しながらも,ダニエルズ兄弟姉妹は家から家に宣べ伝える業を開始しました。驚いたことに,知りたがり屋の村人たちが二人の後に付いて来て,二人と近所の人との会話に聞き入りました。
兄弟姉妹の最初の研究のうちの1件は,ある首長の息子との研究でした。この人は遠く離れた島の,ヌギワルという村に住んでいました。できるときはいつでもこの宣教者たちの住むコロル島まで出向いてきましたが,自分の村に来て,村の人たちに話してほしいと何度も何度も宣教者に頼みました。ダニエルズ兄弟姉妹は出かけて行く気になれませんでした。エイモスはこう述べています。「その村へ行く唯一の道を使うとすれば,クロコダイルが頻繁に出没する川を渡らなければなりません。しかし,巡回監督の訪問の際,ついに旅行が可能になりました。私たちと研究していた別の人が,船の操舵を引き受けてくれたからです」。兄弟たちは家から家を訪問して村人たちに証言しました。公開講演を開いたところ,114人が出席しました。
女性執事がエホバのみ名を大胆に宣明する
1968年のこと,エホバの証人の宣教者たちは,ベラウのセブンスデー・アドベンティスト教会の敬虔な女性執事,オバサン・マッドに会いました。夫や教会の指導者たちからの反対にもかかわらず,オバサンはすぐに,神のみ名,三位一体,復活についての真理をしっかりと把握しました。
オバサンは次のように述べました。「ある日,私は教会で,信者を代表して祈りをささげるように依頼されました。アドベンティスト派の仲間の信者から激しく非難されることは分かっていましたが,私はエホバに祈りました。間もなく,私は教会を去り,宣教者たちに加わって,宣べ伝える業に参加しました」。
今では70歳近くになるオバサンは,病気,また夫や二人の子供との死別という苦しみにもめげず,21年間開拓奉仕を続けてきました。親切で,すぐにほほえむオバサンは,霊的な強さを与える柱となってきました。
冒険とも言える,船での宣べ伝える業
エイモス・ダニエルズとジェリー・ダニエルズは,近くのバベルトゥーアプ島(地元ではバベルダオブ島として知られる)で証言したいと思っていましたが,その島の,海に面した村々を結ぶ道路はありませんでした。交通手段は海路しかありません。地元のある兄弟が,親切にも二人に船を造ってくれましたが,二人はエンジンを持っていませんでした。そのころ,エイモスとジェリーは,グアム島でのある大会に出席しました。その大会で二人は米国のある兄弟に会いました。その兄弟は,船のエンジンメーカーの役員会の会長と知り合いでした。間もなく二人は,新品の船外機を手にしました。「いつもエホバが備えてくださいます」とエイモスは述べました。
ミクロネシアのどこでも,遠く離れた島々に船で証言に行くのは,一日がかりの旅行になります。入念な準備が必要です。潮の干満を計算に入れなければなりません。ある宣教者は,「プロペラを傷めたり,船が立ち往生したりするのを避けるため,いつも満潮の2時間前に出発し,次の満潮の2時間後(約14時間後)に戻ります」と述べています。食料,それに十分な量の文書と着替えを前もって詰め込んでおきますが,濡れないよう一つ一つをビニール袋に入れます。船着き場のない島々では,宣教者たちは海の中を歩いて船に乗らなければなりません。まだその時は濡れていないとしても,航海中に恐らく海水のしぶきがかかったり,波がはねかかったりすることでしょう。出発前にはいつも祈りがささげられ,海が荒れているときには,船上で数多くの無言の祈りがささげられることもあります。
長年の間に,ミクロネシアで奉仕する宣教者たちはどんな気象条件のもとでも礁湖を航行できるようになり,船を造ったり船外機を修理したりするのも上手になりました。
長時間にわたる徒歩 ― 温かいもてなし
ある村々には,車でも船でも行くことができないため,謙遜な人々のところへ行くのに,宣教者たちはココヤシの木が立ち並ぶ美しいジャングルの道を何時間も歩くことがあります。高温多湿の気候であるため,こちらの兄弟たちは野外奉仕でネクタイはしませんし,多くの場合,履物はゴムのサンダル(ゾーリと呼ばれる)です。
ベラウで21年間宣教者として奉仕してきたハリー・デニーは次のように述べました。「私たちは真理に喜んで耳を傾ける人にいつも出会います。こうした人里離れた所に住んでいる人々はよく,もてなしの気持ちを表わすため,ココヤシの木によじ登って新鮮なヤシの実をもぎ取り,なたで上の端を切り落として,本来の“箱”からじかに飲むことを勧めてくれます」。
ハリーと妻のレネーは,ジャネット・セナスおよびロジャー・コンノと一緒に同じ宣教者の家に住んでいます。二人とも独身の宣教者で,宣教者奉仕の割り当てにそれぞれ24年間留まっています。この4人の忠実な宣教者は,力を合わせて,ベラウ会衆が60人の伝道者になるのを援助してきました。また,会衆の書籍研究は現在,パラオ語,タガログ語,英語の三つの言語で行なわれています。
ヤップ島: エホバの目はその上にある
ギレアデで訓練を受けた宣教者たちがベラウで奉仕を始めた次の年,ジャック・ワトソンとオーリリア・ワトソンがヤップ島に到着しました。その翌年,もう二人の宣教者がやって来ました。ヤップはほとんど知られていない小さな島ですが,エホバはこの島を知っておられ,その住民に愛ある関心を払っておられます。ヤップは四つの近接した島から成り,それぞれ橋でつながっています。そして,昔ながらの伝統によっても同様にしっかりと結び合わされています。ヤップ島には,世界中のほかのどんな場所でも話されていない言語があり,石を切り出して造るお金があり,西洋文化にほとんど感銘を受けない人々がいます。今でも,ヤップ島の1万500人の住民の中には,はでな色の腰布をまとった男性や,草でできたスカートを身に着けた女性が見られます。時として女性が上半身に何もまとっていないこともあります。
1964年にマール・ローマスターがここで幾らか証言を行ないましたが,ジャック・ワトソンとオーリリア・ワトソンは,できたらここに留まりたいと考えました。とはいえ,ヤップ語を学ぶのは容易ではありませんでした。文字になったものと言えば,政府の法令が記されたわずかなパンフレットと,カトリックの公教要理だけでした。ワトソン夫妻は人々の言うことに耳を傾け,聞いたとおりに真似をしてみました。翌年には,真理に関心を示していたヤップ島の一青年が,言語を教えてもいい,とも言ってくれていました。その青年がヤップ語の会話を教えることができるよう,宣教者たちは最初の1か月間,青年が自分たちの話す英語を理解するよう助けました。
“銀行”での集会
もとは敵同士だった地元のカトリックの司祭とルーテル派の牧師が,一致協力して証人たちを非難するブロシュアーを配布しました。さらにその司祭は自分の影響力を利用して,宣教者たちを家から立ち退かせました。新しい家を見つけるのは不可能に思えました。司祭がその前から,宣教者たちには土地や家を貸さないよう地主たちに申し渡していたため,兄弟たちは妻を一時的にホテルへ移し,自分たちは縦3.5㍍横4㍍の床のめり込んだ掘っ建て小屋に寝泊まりしました。
ヤップ島で一番よく知られているのは,何世紀もの歴史を持つ石貨です。石灰岩を大きな円盤状にしたものでライと呼ばれ,直径60㌢のものから3.5㍍のものまで大きさはさまざまです。土地の購入や借金の返済に石貨が用いられることはもうありませんが,その歴史的重要性のために高く評価されています。兄弟たちは,この石貨が別の面でも貴重なものであることを知りました。宣教者の家がなくなってしまったとき,集会はしばらくの間,大きな木の下の,石貨が並べられていた場所で開かれました。村のこの“銀行”にあった石貨は垂直に置かれていたので,聴衆にとっては便利な背もたれになりましたし,そばにあった190㍑入りのドラム缶は演台になりました。
依然として,兄弟たちの住む所は見つかりませんでした。「業はもう終わってしまうかのように思えました。でも,エホバが助け船を出してくださいました」とワトソンは述べています。宣教者たちがグアム島での大会に出席するため出かけることになっていた日の前夜,ある男性が,家を借りたいかと聞いてきました。その家は恐らく,ヤップ島で最も理想的な造りの家でした。台風にも強いコンクリートの建物で,集会のためにも宿舎のためにも十分のスペースがありました。
信仰を実証する
1970年には,ハワイからもう二人の宣教者,プラシド・バエステロスとマーシャ・バエステロスがやって来ました。しかし,進歩は遅々としていました。プラシドは当時を思い出して,「集会は私たちの居間で開かれていましたが,出席者は私たち宣教者4人だけということがしょっちゅうありました」と語りました。
やがて地元の兄弟たちが霊的な進歩を遂げ,増加が見られるようになりました。そうした兄弟たちの一人ジョン・ララードは,難しい状況に直面しました。ジョンが聖書の研究を始めたとき,勤め先の建築会社はある教会の建設を手がけていました。ジョンは,あらゆる方面からの圧力にもめげず,良心上,教会を完成させることはできないという結論を下しました。ジョンは現在,長老として会衆に仕えています。
ヤウ・ニフメドも,重大な決定を迫られました。証人たちが1970年に初めてヤウに会ったとき,彼には二人の妻がいました。エホバのご要求に従うため,ヤウは生活全体を改めなければなりませんでした。今では,ニフメド兄弟と兄弟の一人の妻は共に幸福にエホバに仕えています。兄弟は長老です。集会に行くときは,自分の小型トラックに15人の親族を乗せて行きます。
エホバの民は本当にどこにでもいる
プラシド・バエステロスはかつてこう語りました。「人間の見地からすれば,ヤップ島は地球上のほんの一点にすぎず,ここに住む数千人の人々も,何十億という人類と比較すれば,取るに足りない存在です。それでも,エホバはこうした人々を心に留めておられるのです。私が最初にここへ来たとき,『ものみの塔』誌が月1回ヤップ語で発行されたり,ヤップ語の書籍を戸口から戸口へ配布したりする日が来るなどとは夢にも思っていませんでした」。
エホバのみ名がどれほど徹底的に知らされているかを例証する,面白い経験があります。プラシドはある日,川べりに腰を下ろしている一人の観光客に会いました。そこは,最寄りの観光地から何キロも離れており,ここから先は道路がないという所からもかなり歩かなければならない場所でした。道に迷ったのかと尋ねると,その男性は,「いや。ただ,できるだけ遠くへ来て,考えごとのできる静かな場所を見つけたかっただけだよ」と答えました。その観光客に,なぜここにいるのかと尋ねられたプラシドは,自分が宣教者で,エホバの証人であることを説明しました。すると,その観光客は,「何てこった! 僕はブルックリンから来たんだ。あなた方の本部からそう遠くない所だ。あなた方からは逃げられないね」と叫びました。
コスラエ島: エホバのみ名はここでも知られる
ポーンペイの熱心な一家族は,1969年にハワイで開かれた「地に平和」国際大会に出席した後,神の王国だけがもたらすことのできる平和について美しいコスラエ島でふれ告げるのは,自分たちが最初かもしれないということを実感しました。大会で奮い立たされたフレディ・エドウィンは,家族を連れて,580㌔離れたこの海洋上の点のような孤立した小島へ移動しました。ここは,19世紀には捕鯨船の母港としてよく知られていた所です。エドウィン一家がここへ移ったのももっともなことでした。フレディの妻リリアンはコスラエ島の王の娘でしたし,コスラエ語はフレディが話すことのできる七つの言語のうちの一つだったからです。
エホバの証人になる前,フレディ・エドウィンは,聖書をポナペ語に翻訳したプロテスタントの委員会のメンバーでした。フレディがコスラエ島へ移ってからは,ものみの塔の出版物をコスラエ語で入手できるようにするため,彼の翻訳の技能が役立ちました。家族のほかの成員も,王国の音信をふれ告げる業にいそしんできました。娘のデシーナは大学の奨学金を辞退し,ミクロネシアで最初の特別開拓者になりました。もう一人の娘ミルドレッドは正規開拓者として奉仕しましたし,フレディの妻もしばしば補助開拓者として奉仕してきました。
王国会館の建設に助けが差し伸べられる
チュウック出身のゼカライアス・ポリーは,ミクロネシア人初の宣教者になりました。ポリーは,コスラエ島に会衆を設立することに一役買い,1977年には島に王国会館と宣教者の家を建てる仕事を手伝いました。
その王国会館は一週末で建てられたわけではありません。プロテスタント勢力の強いこの島は,毎週日曜日になると死んだように静まり返ります。“安息日”のおきてにより,買うこと,売ること,飲酒,魚釣り,労働,それに遊ぶことさえ禁じられているからです。それにもかかわらず,王国会館は短期間で建設され,その速さに地元の人々は目を見張りました。兄弟たちは,地元で手に入るものは何でも使い,できるだけたくさんの部分をプレハブ方式で造りました。そのほかの資材はポーンペイで購入され,船で送られてきました。ポーンペイの自発奉仕者と一緒に,最後の積み荷がコスラエ島に届くに及んで,その建物はたちまち形を成してゆきました。この王国会館は現在も引きつづき使用されており,毎週の集会だけでなく,大会のためにも用いられます。
遠く離れた会衆がエホバを賛美する
1976年にコスラエ島に会衆が設立されたとき,会衆が支部からあまりに遠く離れていたため,月ごとの野外奉仕報告はアマチュア無線でポーンペイに送られました。1979年までは,コスラエ島へ飛ぶ民間航空会社の便はありませんでした。郵便物は島から島へと船で運ばれましたが,配達に半年もかかることがありました。
現在では,ミクロネシアのどの空港にもジェット機が降りられるアスファルトの滑走路がありますが,1980年代の初めに飛行機でコスラエ島に行くということは,7席しかない飛行機で冒険飛行することを意味していました。アーサー・ホワイトはこう述懐しています。「妻と私が飛行機でコスラエ島へ向かっていたとき,ひどい嵐に遭い,いわば道に迷ったような感じになりました。パイロットは海上30㍍ほどのところを飛行し,島を探していました。私たちの後ろの席にいた女性は,大声で祈っていました。もしパイロットがコスラエ島を見つけられなければ,恐らく海で命を失うのは分かっていました。でも,最後には島が見えてきて,私たちは,滑走路として使われていた細い砂利道の上に着陸することができました」。
ジェームズ・タムラは,宣教者として17年間ポーンペイとコスラエ島で過ごしました。タムラは,大勢の気持ちを要約してこう言いました。「業が拡大し,太平洋上のこれら遠く離れた島々でエホバのみ名が知らされてゆく様子を目にするのは喜びです」。
ロタ: 忍耐の記録
グアム島からかろうじて見える小さな島ロタでは,拡声装置を通してさまざまな発表のなされることがあります。1970年のある日のこと,村長の声がそれらの拡声器から流れ,エホバの証人がこの島に来ており,島民の家を訪問する,とロタの住民に通知しました。村長は,「証人たちが来たらドアを開け,彼らを歓迎してください」と言明しました。
オーガスティン・カストロは,その日,ロタで宣べ伝えた3人の兄弟のうちの一人でした。カストロは,サイパン島での政府の仕事を通じて面識のあったロタの村長に書籍を数冊配布しました。そういうことがあったので,村長は一般の人たちに発表を行なったのです。訪問していた兄弟たちは,2時間もたたないうちに,伝道かばんの中にあった文書をすべて配布してしまいました。しかし同時に,僧職者の反対も起こりつつありました。
僧職者が宣べ伝える業を妨げる
ガスはこう述べています。「だれかが私たちのことをカトリックの司祭に知らせたに違いありません。私たちがガソリンスタンドにいたときのことです。一人の青年が『とこしえの命に導く真理』を受け取ろうとしていたのですが,顔を上げると司祭の姿が目に入りました。青年はためらい,びくびくしながら,『この本を読んでも大丈夫かどうか,司祭に見てもらいます』と言いました。私たちは司祭がページをぱらぱらとめくる様子をじっと見ていました。私は以前,司祭になる勉強をしていましたから,その司祭は私のことをよく知っていました。結局,司祭はその青年に,『この本は受け取っても大丈夫だ。……ただし,君が宗教を変えなければの話だが』と言いました」。
1981年に,フアン・タイタノとマリー・タイタノが特別開拓者としてカトリックの支配的なこの島に任命されてからは,反対が強くなりました。フアンは当時を思い出してこう語ります。「地元の司祭は私たちの跡を付けて戸別訪問をし,エホバというのはサタンの別名だと人々に告げました。司祭はほとんどどこの家にも,『この家はカトリックです。私たちの宗教を尊重してください』と書いたポスターを貼りました。さらに司祭は少年たちを使って,私たちが人々に配布した文書をすべて取り上げ,焼かせました」。
家の人たちは憎しみと恐れにとらえられる
タイタノ夫妻は,ロタの人々と同じチャモロ族の背景を持っており,二人ともチャモロ族の言語を話すことができましたが,それでも並々ならぬ憎しみの的となりました。
フアンはこう語りました。「ある時,ある家の人が,『野球のバットを手に入れて,お前の体の骨を全部砕いてやる』と言って私を脅しました。その翌日,その男性は自動車事故に遭い,両足と片腕の骨を折ってしまいました。村の人たちは,あの人はあんなことを言ったので神様のばちが当たったのだと言い,エホバの証人を恐れるようになりました」。
結果は良くなくても積極的な態度を持つ
過去四半世紀にわたり,宣教者たちは膨大な時間を費やしてロタの人々に宣べ伝えてきました。それほどの努力にもかかわらず,人口2,500人のうち王国宣明者はわずか8名だけです。しかもそれは,特別開拓者の一夫婦を含めた数字です。こうしたことにもめげず,忠実な証人たちは落胆することなく,引きつづき忍耐のりっぱな記録を築いています。
宣教者のゲーリー・アンダーソンはこう言いました。「ロタが難しい場所であることは確かです。しかし,最悪の状況になっても,それが永遠に続くわけではありません。ロタもきっと変わります。エホバの後ろ盾があれば,どんなことも不可能ではありません」。
ナウル: 真の富を見いだす
人口約7,000人のナウル共和国は,かつて,世界屈指の富んだ国とみなされていましたが,この国に住む人々も王国の音信を必要としています。その富の多くは,燐鉱石の露天採鉱をすることでその小さな島の大部分を破壊した結果,得られたものです。真のパラダイスからはほど遠い状態です。そして現在この島にも,深刻な経済問題があります。
しかし,王国の音信をナウルに伝えようとする最初の努力は阻まれました。1979年に,マーシャル諸島から訪れていた一人の宣教者がナウルに真理の種をまいたところ,その宣教者は国外退去になり,3人の警官に飛行機まで護送されました。
しかし,彼は国外退去になる前,ハンフリー・テータムと聖書を研究していました。ハンフリーはその後も自分で研究を続け,ナット・ミラーが旅行する監督としてナウルに立ち寄ったとき,バプテスマを受けたいと言いました。ミラーは当時を振り返り,「わたしたちの業は違法とみなされていましたから,暗くなるまで待ちました。私たちは太平洋の水の中へと30㍍ほど一緒に歩いてゆき,ハンフリーは地元の人に見られずに浸礼を受けました」と述べています。
1995年までは,ナウルでは戸別に宣べ伝える活動が禁じられていました。外国人は家から家の宣教に携わることがいまだに許されていませんが,現在,政府はナウル生まれの人たちが自由に宣べ伝えることを許可しているので,この島のバプテスマを受けた証人たちの小さなグループは,聖書について公然と話すことができます。
テータム兄弟は,1995年に亡くなるまでナウルの小さな会衆で長老として奉仕しました。また,ナウル語の翻訳者としても奉仕し,そのおかげで仲間の証人たちは,パンフレットや記念式の招待状を入手できるようになりました。ナウルのエホバの証人は数こそ少ないとはいえ,隣人の注意を霊的な富,つまりとこしえの命に導く富の価値に向けようと努めています。―箴 3:1,2,13-18。
太平洋の島々は地上のパラダイスであると言われていますが,そのロマンティックなイメージの裏には,大勢のミクロネシア人が生きてゆくために必死で闘っているという厳しい現実が存在します。人々のかつての簡素な生活様式は,文明が招いた危険なもの ― 少しの例を挙げるとすれば,テレビ,犯罪,麻薬,伝染病など ― によって損なわれてきました。人々はますます,エホバの証人の宣べ伝えている王国の音信が,山積する問題の唯一の解決策であることを悟るようになっています。
グアム支部はミクロネシアでの懸命な伝道活動を管理しています。この支部が監督している伝道者の数を,協会の他の103の支部の各々が監督している伝道者の数と比べれば,大半の支部よりも少ないとはいえ,その区域は世界でも有数の広い区域です。これら遠く離れた島々の兄弟姉妹たちは広大な海に隔てられてはいても,エホバの組織の親密さを経験しています。兄弟たちは,自分たちの言語で定期的に備えられる聖書文書,定期的に開かれる大会,旅行する監督の定期的な霊的訪問などを通して,自分たちも国際的な兄弟関係の一端にあずかっていることを強く実感しています。
そうした孤立した任命地で奉仕する宣教者たちも,エホバの民の間に存在する愛を改めて感じさせる事柄を経験しています。毎年夏に,宣教者が地域大会に出席するためグアム島に旅行する取り決めが設けられ,その大会は多くの場合,地帯監督の訪問と時を同じくして開かれてきました。20年余り宣教者奉仕を続け,ミクロネシアで旅行する監督としても奉仕したロドニー・アジミネは,グアム島への年に一度のその旅行の大切さについて,以前にこう話していたことがあります。「別々の島にいる宣教者全員が一緒になれるのです。それは,私たち全員が耐え忍ぶ助けになります」。
ほかにも,これら広い地域に散在する島々に住む兄弟たちの助けとなる備えがあります。統治体の指導のもと,1993年にホスピタル・インフォメーション・サービスがグアム支部に開設され,以来,同部門は,ミクロネシアの各群島のための医療機関連絡委員会を組織してきました。毎年,全時間奉仕に携わる人々のために開拓奉仕学校が開かれ,会衆の監督たちを訓練する王国宣教学校が周期的に開かれています。さらに1994年,グアム支部は,ミクロネシアにおける王国会館や宣教者の家の企画および建築を統轄する建設部門を設立しました。
過去40年にわたる宣教者や伝道者のたゆみない努力に助けられ,多くの島民がエホバを知り,愛するようになりました。現在ではそうした島民の中に,地元の諸会衆で指導の任に当たり,全地がパラダイスになるという神の目的を懸命にふれ告げている人々がいます。
ミクロネシアでなされるべき業はまだたくさんありますが,エホバの組織からの保護や導きのおかげで,イザヤ 51章5節の次の預言が今や成就しつつあるのです。「島々もわたし[エホバ]を待ち望み,わたしの腕を待つであろう」。
[210ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
日本
ミクロネシア
サイパン島
ロタ
グアム島
ヤップ島
ベラウ
ポーンペイ
チュウック
コスラエ島
ナウル
マーシャル諸島
キリバス
ハワイ
[208ページ,全面図版]
[213ページの図版]
グアム島で最初の王国会館の前に立つサム・ワイガーとバージニア・ワイガー
[215ページの図版]
上: 宣教者のマール・ローマスターとファーン・ローマスター
グアム支部委員会の最初の調整者,ナサニエル・ミラー(今は亡き妻アリーンと共に)
[216ページの図版]
グアム支部事務所と支部委員会(左から右へ: ジュリアン・アキ,サルバドル・ソリアーノ,アーサー・ホワイト)
[218ページの図版]
1994年,地帯監督の訪問中の集まりに集った宣教者たち
[223ページの図版]
1,2. 国際的な協力によって建てられたキリバスの王国会館兼宣教者の家
3. ナリキ・カウトゥと妻のテニティ
4. キリバスでの聖書研究の様子
[227ページの図版]
イービー島の王国会館に集まった伝道者たち
[228ページの図版]
熱心な地元の長老,オーガスティン・カストロ
[229ページの図版]
ロバート・リビングストンとシャロン・リビングストン
[234ページの図版]
新しい宣教者たちを温かく迎える
[236ページの図版]
船での証言は濡れる覚悟で
[237ページの図版]
集会場所が炊事場から王国会館に移る
[237ページの図版]
ポーンペイにおける最初の地元の証人たち,カール・ダニスとリカ・ダニス
[238ページの図版]
宣教者であり,翻訳者でもあるニール・マキ
[241ページの図版]
長年の開拓者オバサン・マッド。奉仕に出かけるところ
左: 小型トラックに乗って行なうグループでの野外奉仕
[243ページの図版]
ヤップ島での証言
右: マール・ローマスターとヤップ島の石貨。村の“銀行”にて
[246ページの図版]
コスラエ島の橋を渡るにはしっかりとした足取りが必要
[246ページの図版]
左側がフレディ・エドウィン。その右に妻,子供,そして孫たち
[251ページの図版]
ロタで難題に対処する証人たち