ロシア
『日の昇る所から日の沈む所に至るまで,わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなる』。(マラ 1:11)およそ2,450年前にエホバによって語られたこの壮大な預言は,今日ロシアでまさに真実となっています。西の端に位置するカリーニングラード市でエホバの忠節な者たちが日没を見るころには,11の時間帯の最も東にあるチュコート半島 ― ベーリング海峡の向こうはもうアラスカ ― の伝道者たちはすでに日の出を迎えています。そうです,ロシアでは,王国を宣べ伝え弟子を作る業において日が沈むことはないのです。ソビエト時代の勇敢な兄弟姉妹たちの不屈の努力は豊かに祝福されました。これから見ていきますが,それらの兄弟姉妹が激しい迫害に耐えて道を開いた結果,今日では15万人を超える伝道者がロシアで奉仕しています。
正式には「ロシア連邦」と呼ばれるロシアは,単一の国家または民から成る国ではありません。その名が示すとおり連邦国家で,それぞれ独自の文化を持つ部族や民,様々な言語を話す人々が入り交じっています。では,多くの民族,言語,宗教が入り交じったこの広大な国に関する話を,現代の民主国家としてのロシアではなく,皇帝が支配していた100年以上前のロシア帝国の時代から始めることにしましょう。
モスクワの僧職者たちに大胆に証言する
信仰心が厚く,ロシア正教の神学校を卒業したシミョン・コズリツキーは,宗教が復興していた時期にチャールズ・テイズ・ラッセルと出会いました。ラッセルは,当時聖書研究者として知られていたエホバの証人の業の先頭に立っていた人です。シミョンの孫娘ニーナ・ルッポはこう説明します。「祖父は1891年に米国に行き,ラッセル兄弟に会いました。二人が一緒に写っている写真を持っていて,いつもラッセル兄弟のことを自分の兄弟というふうに話していました」。1800年代の終わりごろ,ラッセル兄弟と仲間たちは,聖書に収められている強力な真理を教えて清い崇拝を回復させる業を指導していました。その業には,キリスト教世界の諸教会と僧職者階級が広める偽りの教理を暴露することも含まれていました。聖書の真理,またラッセル兄弟と仲間たちが示した清い崇拝に対する熱意に動かされたシミョンは,モスクワの僧職者たちに大胆に宣べ伝えました。その結果どうなったでしょうか。
「祖父は裁判にかけられることもなく,モスクワの大主教を侮辱したかどで直ちに鎖につながれ,シベリアへ流刑になりました。そのようにして,1891年に神の言葉がシベリアに伝わったのです」と,ニーナは書いています。やがてシミョン・コズリツキーはシベリアの,現在はカザフスタンに含まれている地域に移動させられました。そこで,1935年に亡くなるまで熱心に神の言葉を語り続けました。
『ロシアには真理を受け入れる備えがなかった』
シミョン・コズリツキーが流刑になった年に,ラッセル兄弟は初めてロシアを訪問しました。その訪問に関して述べられた,「ロシアには真理を受け入れるための機会や備えがまだできていなかった」という兄弟の言葉は,よく引用されます。これは,ロシアの人々が真理を聞くことを望まなかったという意味だったのでしょうか。そうではありません。人々は専制政治に妨げられて,真理を聞くことができなかったのです。
ラッセル兄弟はその状況を詳しく説明し,「シオンのものみの塔」誌,1892年3月1日号にこう書きました。「ロシアでは,帝国内のすべての人が政府の過酷な統制下にある。よそ者が足を踏み入れると常に疑わしい人物とみなされ,都市や町に出入りする前にホテルや駅でそのつどパスポートを提示しなければならない。ホテルの経営者はパスポートを預かって警察署長に渡し,署長はよそ者が去る時までそれを保持する。そうすることにより,当人が厳密にいつ入国し出国したか,その足取りを容易にたどることができるのである。警察官や当局者の応対は事務的で,よそ者の滞在は単に許されているにすぎないという印象を与える。所有している書籍や書類は念入りに調べられ,彼らの思想に反するものが含まれていないかどうかが確認される」。
そのような状況のもとでは,良いたよりを宣べ伝える活動がほとんど前進しないように思えるかもしれません。しかし,いかなるものも,ロシアで真理の種が芽生えるのを妨げることはできませんでした。
「小さな事の日」が始まる
早くも1887年に「シオンのものみの塔」誌は,個々の雑誌が様々な場所に郵送され,「ロシアにも」届けられたと報告しています。1904年にロシアの聖書研究者の小さなグループから届いた手紙には,聖書文書を受け取ったことが述べられていました。とはいえ,それは容易なことではなかったようです。手紙の説明によれば,「文書は目につきやすかったため,危うく[政府の検閲を]通過できないところでした」。この小さなグループは文書を受け取ってとても喜び,「ここでは,これは金のようです。手に入れるのが非常に難しいからです」と述べました。彼らは文書の目的を理解していることを示し,「今や主が私たちを祝福し,この文書を配布する機会を与えてくださいますように」と書いています。
そうです,ロシアで良いたよりを宣べ伝える活動が本格的に始まり,真の崇拝のためのささやかながら重要な基盤が据えられたのです。これは小さな始まりでした。しかし,預言者ゼカリヤは,「小さな事の日を侮ったのはだれであろうか」と書いています。―ゼカ 4:10。
続く何年かの間,ドイツの熱心な兄弟たちがロシアに文書を送りました。大半がドイツ語のもので,その言語を話す多くの人が真理を受け入れました。1907年,ロシアのドイツ・バプテスト教会の人たちが,「千年期黎明」と題する双書を郵便で受け取りました。そのうちの15人が真の崇拝を支持すると,教会はその人たちを破門しました。彼らに反対していた牧師は後に,「千年期黎明」に示された真理を確信するようになりました。
1911年に,宣べ伝える業は変わった仕方で後押しされました。新婚旅行によってです。ドイツの若いヘルケンデル夫妻は,結婚式の後,ロシアでドイツ語を話す人たちを援助するために伝道旅行へ出かけました。二人は孤立した王国伝道者のグループを幾つか見つけてたいへん喜び,霊的な助けを与えました。
それより前に,ロシアの一読者はこう書いていました。「ドイツから届く文書は私にとって,イスラエルの子らに与えられた天からのマナと同じほど貴重です。……文書がロシア語でないのが残念でなりません。私は機会を見つけては様々なものをロシア語に訳しています」。こうして翻訳が始まり,その後さらに大々的に行なわれてゆくことになります。
「多くの人が神を切に求めています」
1911年,ポーランド人のR・H・オレシンスキー兄弟は,当時一部がロシア帝国に含まれていたポーランドのワルシャワに住んでいました。兄弟は,「死者はどこにいるか」というパンフレットがロシア語で印刷されるように手配し,ラッセル兄弟にあてた手紙の中でこう書いています。「ここに1部同封します。……1万部印刷するために請求された額は73ルーブルでした。……数々の困難がありますが,それでも多くの人が神を切に求めています」。このパンフレットは他の文書と共にロシア語を話す人々に配布され,その人たちがロシアに持って行きました。これは,この新たな言語の畑における重要な進展でした。間もなく他の文書 ― パンフレット,ブロシュアー,小冊子 ― も作られるようになりました。時の経過と共に,ますます意欲的に大掛かりな翻訳がなされてゆきます。
1912年に,ラッセル兄弟は当時ロシア帝国の一部だったフィンランドを訪問しました。カールロ・ハルテバがフィンランドのものみの塔聖書冊子協会の代表を務めることになり,委任状を与えられました。1913年9月25日,ニューヨーク駐在のロシア帝国領事が,皇帝の代理人として,委任状に政府の印を押して署名しました。
2か月の伝道旅行が延びる
第一次世界大戦が勃発する少し前,ジョセフ・F・ラザフォードは,組織を代表して幾つかの国を回るためにブルックリンを出発しました。この旅の間に,ポーランドの都市ウッジで,ドイチュマンという名の聖書研究者に会いました。それから程なくしてドイチュマン兄弟は,家族と共に2か月の予定でロシア各地を巡る伝道旅行に出かけました。ところが,戦争が起こったため,その旅行は延びることになります。
幾多の困難を経験した後,ドイチュマン一家はボルガ川沿いの小さな町にたどり着きました。1918年にはポーランドに戻ることにしましたが,天然痘が流行したために戻れませんでした。その後,内戦が勃発し,国境が封鎖されてしまいます。その時期に,子どもたちのうち3人が亡くなりました。一人は天然痘で,一人は肺炎で,そしてもう一人は別の原因で命を落としたのです。
飢えと恐怖が広がっていました。路上で餓死した人たちもいます。そうした混乱の中で,多くの人,特に外国人が“敵側”に加担していると非難され,裁判を受けることもなく速やかに処刑されました。ある日,一人の男が武装した兵士を伴って突然ドイチュマン兄弟の家に踏み込んできました。
「こいつは敵だ。捕まえろ!」と男は叫びました。
「なぜだ。この人が何をしたと言うんだ」と兵士は尋ねました。
男は事を仕組んで,ドイチュマン兄弟にしてもらった大工仕事の支払いを免れようとしたのです。兵士は双方の言い分を聞いた後,男の間違った動機を見抜き,家から追い出しました。それからドイチュマン兄弟に,聖書についていろいろ話し合って楽しかったことを覚えていると言いました。その話し合いがあったために,ドイチュマン兄弟と家族は命を救われたと言えるでしょう。1921年に共産主義政府が軍事的な反乱を鎮圧し,内戦は終わります。ドイチュマン一家は間もなくポーランドへの帰途に就きました。
聖書研究者とボリシェビキ
ロシアの兄弟たちは国外の兄弟たちとわずかながらも接触を保っていましたが,第一次世界大戦が熾烈を極めると,それも途絶えてしまいました。世界中のキリストの兄弟たちと同様,ロシアの兄弟たちも,キリストの即位の意義を十分には理解していなかったことでしょう。間もなく自分たちの国が,20世紀における極めて顕著な出来事の幾つかを経験することになるとは,知る由もありませんでした。しかもそれらの出来事の多くは聖書預言の成就として起こるのです。
1917年の後半に起きたロシア革命により,370年にわたる帝政が終わりを告げました。新たにロシアを支配するようになったボリシェビキは,主イエス・キリストの臨在に気づくこともなく,人間による新しい形態の政府 ― 従来のどんな政府とも異なるもの ― を樹立しようという野心的な計画を持っていました。こうして,数年のうちにソビエト社会主義共和国連邦つまりソ連が形成され,ついには地球の陸地のほぼ6分の1を包含することになります。
注目に値する点として,ソ連の最初の指導者ウラジーミル・レーニンは,ロシア革命の数年前にこう述べていました。「人民はすべて,何であれ自分の好む宗教を信奉することのみならず,宗教を広める,もしくは変えることにおいても,完全に自由でなければならない。いかなる役人も,だれがどの宗教に属するかを問いただす権利さえ持つべきではない。それは個々の良心にかかわる問題であり,干渉する権利はだれにもない」。
こうした社会民主労働党の公式の理念により,国内の一部の地域では,誠実な人たちが聖書の真理を他の人に伝えることが可能でした。しかし,新しい国家は概して当初から無神論的で,宗教に「人民のアヘン」というレッテルを張って敵対的な立場を取りました。ボリシェビキがまず行なったことの一つは,教会と政府を分離させる法令を出すことでした。宗教組織による教育は違法とされ,教会の資産は国有化されました。
この新たな政府は,神の王国に忠誠を示していた,散在する聖書研究者のグループをどうみなすでしょうか。1917年の革命のしばらく後に,一人の聖書研究者はシベリアから送った手紙の中で,不安な状況を次のように描写しています。「ここロシアの現状をおそらくご存じでしょう。わたしたちは共産主義の思想に基づくソビエト政府の支配下にあります。公正の方向へと向かう,なじみ深い動向は観察できるものの,神に関する事柄はことごとく切り捨てられています」。
1923年ごろには,聖書研究者に対する反対が強まっていました。兄弟たちはこう書いています。「この手紙は,ロシアで起きている事柄をお知らせするために書きました。……食物,衣服など,……必需品はありますが,霊的食物が大いに必要とされています。送っていただいた書籍は政府に押収されてしまいました。それで,ロシア語のすべての文書からの抜粋を手紙の形で送っていただくよう切にお願いいたします。……多くの人が真理の言葉に飢えています。最近5人が水の浸礼によって聖別を表わし,バプテスト派の15人もわたしたちに加わりました」。
「ものみの塔」誌,1923年12月15日号はこう述べています。「協会はロシアに文書を送り込むことを試みており,主の恩寵によってこれを続行する」。1925年には「ものみの塔」誌がロシア語で発行されるようになり,すぐさまロシアでの証言活動に影響を与えました。一例として,ある福音派の人は,火の燃える地獄の教理と愛の神とは調和しないように感じていました。その疑問を仲間の信者たちに投げかけると,彼らは神がそのような考えからこの人を救ってくださるようにと祈りました。後にこの人と妻は「ものみの塔」誌を何号か受け取り,すぐに真理だと悟りました。この人はさらに文書を求めて,「私たちは海の向こうから届くマナを待っています」と手紙に書きました。ロシアの他の兄弟たちもそのような「マナ」を受け取ったことを定期的に報告し,米国の兄弟たちが信仰を強める文書を生産してクリスチャン愛を示したことに感謝しました。
「あらゆるものを少しずつ送ってください」
「ものみの塔」誌,1925年9月号に,シベリアから届いた感動的な手紙が掲載されました。その中で農家出身のある学校教師は,1909年に家族でロシア南部からシベリアに引っ越したと述べています。この教師は出版物を心から楽しんで読んだと書き,こう付け加えています。「私の心の願いは,一層の巧みさと力をもって闇に立ち向かえるよう,神の聖なる真理にいよいよ深く導き入れられることです」。この人はさらに文書を求めて,「どうか,あらゆるものを少しずつ送ってください」という言葉で手紙を結んでいます。
この手紙に対する編集者の次の言葉も,同じ号に掲載されました。「我々はしばらくの間ロシアに文書を送ることを試みてきたが,すべてロシア政府の反対により阻止された。この手紙や,他の同様の手紙は,『渡って来て,わたしたちを助けてください』というマケドニアからの嘆願のようである。(使徒 16:9)我々は,それが主のご意志であるならば,機会が訪れしだい助けに赴く」。
実際,その後「ものみの塔」誌や他の出版物は,「証しのために」良いたよりをロシア語で宣べ伝える上で,非常に強力な道具となりました。(マタ 24:14)2006年には,エホバの証人が発行したロシア語の出版物の合計数が6億9,124万3,952部に達しました。これは,英語,スペイン語,ポルトガル語以外の言語の中で最も多い数です。エホバは,ご自分の証人たちが王国をふれ告げる努力を豊かに祝福してこられました。
外国にいるロシア人に証言する
ボリシェビキが権力を握り,共産主義国家が誕生したことに伴い,多くのロシア人が他の国へ移住しました。ロシア語の「ものみの塔」誌や他の出版物はソ連の外で印刷されていたため,ソビエト政府は霊的食物が他の国に送られるのを妨げることができませんでした。1920年代後半には,ロシア語の出版物が世界各地に達し,ウルグアイ,オーストラリア,パラグアイ,フィンランド,フランス,米国,ポーランド,ラトビアなどに住むロシア人から感謝の手紙が届きました。
やがて,それらの国の幾つかで兄弟たちは,ロシア語によるクリスチャンの集会や宣べ伝える活動を組織します。米国ではロシア語の聖書講演がラジオ局を通して定期的に放送されました。ペンシルバニア州のブラウンズビルなどにロシア語会衆が設立され,大会も行なわれました。例えば,1925年5月に,兄弟たちはペンシルバニア州のカーネギーで,ロシア語による3日間の大会を開催しました。出席者は250人,バプテスマを受けたのは29人でした。
状況が変わる
レーニンの死後,すべての宗教に対する政府の攻撃は激しさを増しました。1926年には,戦闘的無神論者同盟が結成されます。その名称は同盟の目的を適切に表わしています。絶え間ない無神論的なプロパガンダは,人々の思いと心から神への信仰を根こぎにすることを意図したものでした。短い間に,無神論の精神がソ連の広大な領土全域に広まりました。ロシアのある聖書研究者は,世界本部にあてた手紙の中で,「若者たちはこの精神を吸収しており,それが真理を学ぶ上で大きな妨げとなっていることに疑問の余地はありません」と述べています。
戦闘的無神論者同盟は神を否定する文書を発行し,その中には「アンチレリギオズニク」と題する雑誌が含まれていました。1928年に同誌は,「ボロネジ州には宗派がはびこっている」と言明しました。48人の「聖書の研究者」にも言及し,「指導者はジンチェンコとミトロファン・ボビン」であると述べています。注目すべきことに,「ものみの塔」誌,1926年9月号には,ロシアのミハイル・ジンチェンコという人の手紙が載りました。こうあります。「人々は霊的食物に飢えています。……わたしたちはごくわずかな文書しか持っていません。トルンピ兄弟と他の幾人かが文書をロシア語に翻訳して写しを作っており,そのようにしてわたしたちは互いを霊的に養い,支えています。ロシアにいるすべての兄弟たちからのあいさつをお送りします」。
1926年9月にトルンピ兄弟は,ロシア語の文書を受け取ることが当局に許可される見込みがあると書きました。そしてブルックリン・ベテルの兄弟たちに,パンフレット,小冊子,書籍,製本された「ものみの塔」誌を,ドイツのマクデブルクの事務所を通して送ってくれるように頼みました。この依頼にこたえて,ラザフォード兄弟はジョージ・ヤングをモスクワに遣わしました。ヤング兄弟が到着したのは1928年8月28日です。兄弟は手紙の中で,「興味深い経験も幾らかしましたが,いつまで滞在できるか分かりません」と書いています。モスクワで高官に会うことができたものの,有効期限が1928年10月4日までのビザしかもらえませんでした。
そのころ,新しいソビエト国家の宗教に対する態度は,はっきりしませんでした。政府の文書の中には,宗教団体をソビエトの労働力に同化させるという期待を言い表わしたものがありました。続く幾年かの間に,その期待は政策となります。ソビエト政府はエホバの民の抹殺を望んでいたわけではないということを理解するのは重要です。政府は人々の思いと心を勝ち得るための攻撃を行なったのです。従うように神の民を説得し,国家にのみ忠義を尽くすことを強制しようとしました。人々がエホバに忠誠を示すことを何としても阻みたかったのです。
ヤング兄弟が去った後も,ロシアの兄弟たちは熱心に神の王国を宣べ伝え続けました。ロシアで王国を宣べ伝える業を組織するために,ダニイル・スタルヒンが任命されました。スタルヒン兄弟は,業を促進し兄弟たちを励ますために,モスクワ,クルスク,ボロネジその他,ロシアおよびウクライナの諸都市を訪ねました。他の兄弟たちと共にバプテスト派の礼拝所でも宣べ伝え,イエス・キリストや神の王国に関する真理を説き明かしました。1929年1月,ロシアの兄弟たちはクルスクで教会の建物を年200米㌦で借りるよう手配し,公に集会を開けるようにしました。
その年の後半に,ブルックリン・ベテルの兄弟たちは,少量の聖書文書を輸出できるよう,ソ連の対外貿易人民委員部に許可を求めます。送る荷物には,「神の立琴」と「神の救い」の本がそれぞれ800冊,また2,400部の小冊子が含まれていました。ところが2か月もたたないうちに,荷物は「持ち込み禁止につき印刷物管理局より返却」というスタンプが押されて戻ってきました。それでも兄弟たちは希望を捨てませんでした。返却されたのは出版物がロシア語の古いアルファベットで印刷されていたからだと考えた人もいました。それからというもの,兄弟たちはロシア語の文書がすべて正確に翻訳され,最新の表記体系に沿って印刷されるように見届けました。
質の高い翻訳の必要
1929年から「ものみの塔」誌の幾つかの号で,英語とロシア語両方の知識を持つ,資格ある翻訳者の必要に関する発表がなされました。例えばロシア語の「ものみの塔」誌,1930年3月号には,次の発表文が載りました。「英語をロシア語に翻訳するために,英語の知識を持ち,ロシア語に堪能な,資格ある献身した兄弟が必要」。
エホバはその必要をご覧になり,様々な国で翻訳者が見つかりました。その一人に,アレクサンドル・フォルストマンがいます。フォルストマン兄弟はラトビアに住む熱心な翻訳者で,すでに1931年に,ロシア語に翻訳した記事をコペンハーゲンにあるデンマーク支部を通して世界本部に送っていました。兄弟は十分な教育を受けており,英語とロシア語に堪能で,聖書文書を速く翻訳することができました。当初,兄弟は未信者の妻と子どもを養うために世俗の仕事をしていたので,翻訳には週に数時間しか充てていませんでした。1932年12月,フォルストマン兄弟は全時間の翻訳者になります。1942年に亡くなるまでその奉仕を行ない,パンフレットや小冊子や書籍を翻訳しました。
兄弟たちは,やがて王国の業がロシアで合法化されると信じ,質の高い翻訳によるロシア語の出版物を備えることに鋭い関心を抱いていました。北ヨーロッパ事務所の監督ウィリアム・デイは,ラザフォード兄弟にあてた手紙の中でこう書いています。「間もないことに違いありませんが,ロシアの門戸が開かれる時,1億8,000万の人々に提供できる優れた翻訳の出版物があるのは望ましいことです」。
ラジオ放送
ロシアの非常に大きな区域で良いたよりを広める別の方法は,ラジオでした。「ものみの塔」誌,1929年2月号に,「ロシア語による講演がラジオで放送される」という発表が載りました。番組は毎月エストニアからソ連に向けて,第2・第4日曜日に放送されました。
エストニア支部の監督ウォーレス・バクスター兄弟は,当時について後にこう述べています。「長い話し合いの末,1929年に1年間の契約が結ばれました。ロシア語による放送が始まって間もなく,わたしたちはレニングラードの人々が聴いていることを知りました。ソビエト政権は,エストニアの僧職者たちと同様の反応を示しました。どちらも,王国の音信に耳を傾けないようにと人々に警告したのです」。1931年,ロシア語による放送は,聴く人たちにとって都合のよい時間帯である午後5時半から6時半まで,中周波で流されました。3年半続いた後,放送は1934年6月に中止されました。エストニア支部からの手紙の中で,兄弟たちは放送がどのように禁止されたかを説明しています。「僧職者たちが[エストニアの]政府に,聖書研究者のラジオ講演は国益に反すると進言しました。共産主義的かつ無政府主義的なプロパガンダの性質を有すると述べたのです」。
変化が生じる
1935年,ブルックリン・ベテルの兄弟たちは,ソ連に支部を開設できることを期待して,アントン・ケーバーを遣わしました。アドルフ・ヒトラーが権力を握ったばかりのドイツから,ソ連に印刷機を送りたいと思っていたのです。この計画は実現しませんでしたが,ケーバー兄弟はロシアの兄弟たち数人と会うことができました。
数年の間,ロシアで王国を宣べ伝える業は着実に前進しました。ラトビア支部の指導のもとで,聖書文書がロシア語に翻訳されました。しかし,印刷された文書をソ連に送ることは困難だったため,大量の文書が在庫する結果になりました。
1939年に第二次世界大戦が始まるまで,エホバの証人の数はわずかだったため,ソビエト政府は証人たちにほとんど注目しませんでした。しかし,そうした状況がすべて変化しようとしていました。ナチス・ドイツが1939年にポーランドに侵攻して間もなく,ソ連は15の共和国のうち最後の四つ ― エストニア,モルドバ,ラトビア,リトアニア ― を併合しました。何千人ものエホバの証人が突然,ソ連の領内に身を置くことになったのです。程なくしてこの国は,自国の存続のために残忍な戦争に没入します。それは幾百万という人々にとって苦難の時となり,エホバの証人にとっては厳しい圧迫というくびきのもとで神への忠節を示す時となります。
堅く立つ用意ができていた
1941年6月,ドイツはソ連に対して大規模な攻撃をしかけます。それはソ連の指導者ヨシフ・スターリンにとって全く不意の出来事でした。年末にはドイツの部隊がモスクワ郊外まで達し,ソ連の敗北は時間の問題であるかに見えました。
必死になったスターリンは,ロシア人が“大祖国戦争”と呼ぶものに国民を動員したいと考えました。そして,戦争に対する国民の支持を得るには,教会に譲歩する必要があることを見て取りました。多くの人が依然として宗教心を抱いていたからです。1943年9月にスターリンは,ロシア正教会の最高位の代表者3人を公式にクレムリン宮殿に招きました。これによって教会と政府との間の溝が埋まり,民衆に対して幾百もの教会の扉が開かれました。
ドイツのエホバの証人と同じように,ロシアの兄弟たちも,戦争のあいだ完全に中立な立場を保ちました。その結果を受け入れる用意ができており,自分たちの主のおきてを守ることを堅く決意していたのです。(マタ 22:37-39)中立の立場を保ったゆえに,ウクライナ,モルドバ,バルト諸国から1,000人を超える証人たちが,1940年から1945年にかけてロシア中央部の強制労働収容所に連れて行かれました。
ワシーリー・サブチュクは当時を思い出してこう述べています。「1941年,14歳の時に,私はウクライナでバプテスマを受けました。戦時中,活発な兄弟たちはほとんど全員,ロシア中央部の刑務所や収容所に送られました。しかし,エホバの業が途切れることはありませんでした。忠実な姉妹たちや,私のような十代の若者たちが,会衆や宣教奉仕における責任を担いました。私たちの村では,病気を抱えた一人の兄弟がまだ自由の身でした。兄弟は私に,『ワシーリー,君の助けが必要だ。とても重要な業を行なわなければならないが,男子が足りないんだ』と言いました。私は,この病気の兄弟がエホバの業をどれほど気にかけているかを見て,涙を抑えることができませんでした。行なう必要のあることは何でも喜んでします,と言いました。私たちは地下室に仮の印刷所を設け,貴重な霊的食物の写しを作り,兄弟たちの間で配られるように,とりわけ投獄されていた兄弟たちに届くようにしました」。
そのように姉妹たちや十代の若者が利他的で愛のこもった働きをしたにもかかわらず,生産された霊的食物の量はまだ十分ではありませんでした。一つの解決策が,ロシアから移住してポーランドの事務所に報告を持って行くことができたポーランド人の兄弟たちによって提案されました。それらの兄弟たちと反対の方向に移動したウクライナ人とロシア人の兄弟たちは,霊的食物と,謄写版の原紙やインクなど,ロシアで使うための道具を持って行きました。
『民をそれぞれ自分の所に行かせよ』
1946年,ポーランドに住んでいた兄弟たちの中には,強制的にソ連領ウクライナに移住させられた人もいました。イワン・パシュコフスキーは当時を振り返ってこう語ります。「兄弟たちは,その状況下でどうしたらよいか,ウッジの支部に問い合わせました。受け取った返事には,『民をそれぞれ自分の所に行かせよ』という裁き人 7章7節が引照されていました。何年もたってから私は,エホバがそれらの難しい区域において宣べ伝える業をどのように知恵をもって導かれたかを理解しました。私たちにとって,自分の『所』とは,どこであれエホバが遣わしてくださる場所でした。私たちは当局の命令に従うことの大切さを理解するようになり,無神論的な国へ移動する準備を始めました。
「まず,私たちはある兄弟の家に連れて来た18人のバプテスマ希望者と会い,バプテスマに備えさせました。さらに,ロシア語とウクライナ語の文書を集め,検査の際に見つからないように荷物に隠しました。程なくして,村は明け方にポーランド軍の兵士に包囲され,私たちは旅支度をするよう命令されました。持って行くことを許されたのは,1か月分の食料と生活必需品だけでした。私たちは鉄道の駅まで護送され,こうしてソ連領ウクライナが自分たちの『所』となりました。
「目的地に到着するや否や,地元の住民や当局者に囲まれました。私たちはすぐに証言したいと思ったので,自分がエホバの証人であることを大胆に告げました。翌日,思いがけなく地元の農業組合の書記が訪ねてきました。父親がアメリカに移住し,エホバの証人の発行した文書を送ってきているとのことでした。それを聞いて,私たちはとても喜びました。とりわけうれしかったのは,この男性から文書をもらえたことです。その人自身が家族を連れて私たちの集会に出席し始めた時,この国にはエホバの『望ましいもの』が大勢いることが分かりました。(ハガ 2:7)やがてその家族は全員エホバの証人になり,長年忠実に仕えました」。
前途にたくさんの仕事が
第二次世界大戦中とその後,ロシアにおける業は極めて困難な状況のもとで行なわれました。ポーランド支部から世界本部にあてた1947年4月10日付の手紙の中で,こう報告されています。「宗教指導者たちは信徒に対し,エホバの証人から『ものみの塔』誌やビラを受け取れば10年間の強制労働と流刑に処されることになると脅します。その結果,恐れやおののきがこの国の住民を覆い,人々は光を切望しています」。
『1947 年鑑』にはこう述べられています。「証人たちは,印刷された文書も,体裁の美しい印刷版の『ものみの塔』誌も持っていません。……多くの場合,それは今でも苦労して手で書き写され,他の人たちに回されています。……運搬係は時おり拘束され,『ものみの塔』誌を持っているのが見つかると刑務所に入れられます」。
レギーナ・クリボクルスカヤはこう言います。「国全体が鉄条網に囲まれているかのようで,投獄されていなくても囚人同然でした。熱心に神に仕えていた夫たちは,生涯の大半を刑務所や収容所で過ごしていました。わたしたち女性は,多くのことを耐え忍ばなければなりませんでした。眠れぬ夜,ソビエト国家保安委員会(KGB)による監視や精神的な圧力,失業その他の試練を,皆が経験していました。当局は,わたしたちを真理の道からそれさせようと,様々な方法を試みました。(イザ 30:21)サタンが王国を宣べ伝える業をやめさせようとして,その状況を利用しているに違いないと思いました。しかし,エホバはご自分の民をお見捨てになりませんでした。確かに助けを与えてくださったのです。
「たいへんな苦労をして国内にひそかに持ち込まれた聖書文書は,わたしたちに『普通を超えた力』や,状況に対処する知恵を与えてくれました。(コリ二 4:7)エホバはご自分の民を導いておられ,国家からの強い反対のもとでも新しい人たちが引き続き神の組織に加わりました。驚くべきことに,それらの人たちは最初から,エホバの民と共に苦難に耐える覚悟ができていたのです。そのようなことを成し得たのは,エホバの霊以外にありません」。
フェンスの外に投げられた手紙
1944年のことですが,後にレギーナの夫となるピョートルは,クリスチャンの中立の立場を保ったゆえにゴーリキー州の収容所に入れられていました。しかし,そのために宣べ伝える熱意がそがれることはありませんでした。ピョートルは,聖書の教えを短く説明した手紙を幾通も書いて封筒に入れ,ひもで縛って石につなぎ,高い有刺鉄線のフェンスの外に投げました。だれかが手紙を読んでくれることを期待していましたが,ある日そういう人が現われたのです。それは,リディヤ・ブラトバという名の少女でした。ピョートルはその少女を見つけてそっと呼び寄せ,聖書についてもっと学びたいか尋ねました。リディヤは学びたいと思い,また会う約束をしました。その後リディヤは定期的に貴重な手紙を拾いにやって来ました。
リディヤは良いたよりを熱心に宣べ伝える姉妹になり,やがてマリヤ・スミルノバとオルガ・セブリュギナとの聖書研究を司会するようになりました。その二人もエホバに仕え始めます。兄弟たちは姉妹たちを霊的に支えようと,収容所から直接この小さなグループに霊的食物を供給し始めました。ピョートルはそのために二重底の小さなスーツケースを作り,雑誌を詰められるようにしました。そして,エホバの証人ではない外部の人たちがそのスーツケースを持って収容所に出入りするよう手配しました。その人たちは,一人の姉妹の住所にスーツケースを届けました。
やがて姉妹たちは,その地域で宣べ伝える業を組織します。警察はそれに気づき,一人のスパイを送り込みました。それは当時よくあったことでした。その女性は学校の教師で,真理に関心があるふりをして姉妹たちの信頼を得ました。姉妹たちはこの種の経験がなかったので,新しい“姉妹”に聖書の真理を喜んで伝え,少したってから,文書をどのように受け取っているかを話しました。次にスーツケースが収容所から運び出された時,ピョートルは監禁処分になり,刑期がさらに25年追加されました。3人の姉妹たちもそれぞれ25年の刑を宣告されました。
『啓発を与えなければなりません』
戦時中も戦後も,ソビエト政府はエホバの証人の活動に対して強硬に反対を続けました。1947年3月,ポーランドの兄弟たちの報告によると,ソ連西部の一地域の高官は,春が終わるまでにエホバの証人はここから一人もいなくなるだろうと宣言しました。兄弟たちの手紙にはこうあります。「この手紙を書いている間に,たった1日で100人の兄弟姉妹が逮捕されたという知らせが届きました」。別の手紙には,収容所にいる兄弟たちについてこう述べられていました。「兄弟たちはエホバへの忠誠を見事に保っています。すでに命を犠牲にした人も多く,兄弟たちは強制収容所にいた仲間がそうだったように,エホバの救いを待ち望んでいます」。
エホバの証人は,宣べ伝えたり投票を拒んだりしたことでも逮捕されました。責任ある兄弟たちは1947年にこう書きました。「ロシアの最高権威者たちは,兄弟たちの状況をあまり把握していないと思われますが,抹殺するつもりはないようです。必要な説明と啓発が不足しているので,それを[当局に]与えなければなりません」。
登録を試みる
やがてポーランド支部の提案により,二人のロシア人の兄弟が経験豊かな弁護士と共に,ソ連でエホバの証人の活動を登録するために必要な書類を準備することになりました。ポーランドからロシアの兄弟たちへの1通の手紙には,「王国の良いたよりは,ロシアを含むあらゆる場所で宣べ伝えられなければなりません。(マルコ 13:10)」とありました。その手紙は次の言葉で結ばれています。「辛抱強くあってください。エホバは皆さんの涙を歓呼の声に変えてくださるでしょう。―詩編 126:2-6」。
1949年8月,ミコラ・ピャトカ,ミハイロ・チュマク,イリヤ・バビュチュクが登録を申請します。政府の答えは,幾つかの条件を満たすならエホバの証人を認可してもよいというものでした。条件の一つとして,兄弟たちはソ連の領土内に住むすべてのエホバの証人の名前を知らせるように求められました。それは兄弟たちにとって同意しかねることでした。業は続けられ,伝道者の数は絶えず増えてゆきましたが,多くの兄弟たちが引き続き自由を奪われていました。
『エホバとやらはお前をここから出せないだろう』
ピョートル・クリボクルスキーは,1945年の夏を思い出して次のように語っています。「裁判の後,兄弟たちはあちこちの収容所に送られました。私がいた収容所では,多くの囚人が真理に誠実な関心を示しました。そのような囚人の一人だったある聖職者は,自分の聞いた事柄が真理であることをすぐに理解し,エホバの側に立ちました。
「とはいえ,状況は過酷でした。ある時,私は立っているのがやっとの小さな監房に閉じ込められました。そこは虫小屋と呼ばれていて,南京虫がうじゃうじゃいました。人間の血を一滴残らず吸ってしまいそうなほどたくさんいたのです。取調官が監房の前に立ち,『エホバとやらはお前をここから出せないだろう』と言いました。日ごとに与えられる食料は,パン300㌘とコップ1杯の水だけでした。空気がとても少なかったので,私は小さなドアに寄りかかり,髪の毛ほどのすき間から必死に空気を吸いました。南京虫に血を吸われるのを感じました。“虫小屋”にいた10日の間,耐え忍ぶための力を与えてくださるようエホバに繰り返し懇願しました。(エレ 15:15)ついにドアが開いた時,私は気を失い,目覚めた時には別の監房にいました。
「その後,強制労働収容所の裁判官たちに,重警備の懲罰収容所における10年間の拘禁を言い渡されました。罪状は,『ソビエトの権力に反対する扇動行為およびプロパガンダ』というものでした。その収容所では,郵便物を出すことも受け取ることもできませんでした。そこにいた囚人たちは大抵,殺人などの凶悪犯罪で有罪判決を受けていました。もし信仰を捨てないなら彼らは命令に従ってお前に何でもするぞ,と言われました。私は体重が36㌔しかなく,歩くのもやっとでした。しかし,そのような場所でも,真理に対して好意的な心を持つ誠実な人たちを見いだすことができました。
「ある時,植え込みの中で横になって祈っていると,年配の男性が近づいてきて,『何をやらかしてこの地獄に来る羽目になったんだい』と尋ねました。私が自分はエホバの証人だと告げると,その男性はしゃがんで私を抱きしめて口づけし,こう言いました。『兄ちゃん,おれはずっと聖書について知りたかったんだ。教えてくれないか』。私はこの上ない喜びを感じました。自分のぼろぼろの服に古い福音書の切れ端を幾つか縫い込んであったので,すぐに引っ張り出しました。男性は目に涙を浮かべ,私たちはその晩,長い時間話しました。男性は,収容所の食堂で働いているから食べ物をあげようと言いました。こうして私たちは親しくなり,その人は霊的に成長し,私は体力を取り戻しました。エホバがこのように事を運んでくださったに違いないと思いました。数か月後,男性は釈放され,私はゴーリキー州の別の収容所に移されました。
「そこの環境はずっとましでした。しかし,何よりうれしかったのは,4人の囚人との聖書研究を司会できたことです。1952年,私たちは文書を持っているところを収容所の刑務官たちに見つかりました。裁判の前の取り調べの際,私は密閉された箱に入れられました。息が詰まると箱が開けられ,二,三回呼吸した後にまた閉められるということが繰り返されました。信仰を捨てさせようとしたのです。私たちはみな有罪になりましたが,判決が言い渡された時に聖書研究生たちがだれも取り乱さなかったので,とてもうれしく思いました。4人とも,収容所における25年の懲役刑を宣告されました。私はもっと重い刑を受けましたが,それは変えられ,結局,重警備の収容所での25年の懲役と10年間の流刑を追加されました。裁判が行なわれた部屋を出る時,私たちは立ち止まり,支えてくださったエホバに感謝しました。看守たちは驚き,何をそんなに喜んでいるのか不思議に思いました。私たちは引き離され,それぞれ別の収容所に送られました。私が送られたのは,ボルクタにある重警備の収容所です」。
クリスチャンの中立ゆえに救われる
収容所での生活は過酷で,エホバの証人ではない大勢の囚人が自殺しました。イワン・クリロフは当時を思い起こしてこう語ります。「重警備の収容所から釈放された後,私は兄弟姉妹が強制労働をさせられていた炭鉱を幾つか訪ねました。私たちは接触を持ち,雑誌を手で書き写すことのできた人は他の人に写しを回しました。証人たちはどの収容所でも宣べ伝え,多くの人が関心を示しました。釈放された後にボルクタ川でバプテスマを受けた人たちもいます。
「私たちは絶えず,エホバとその王国に対する信仰が試みられる状況に直面しました。1948年のある時,ボルクタの収容所の一つで,一部の囚人が暴動を企てました。反逆者たちは他の囚人に,国籍や宗教別にグループを組織すれば暴動は大成功を収めるだろうと言いました。当時,その収容所にいたエホバの証人は15人でした。私たちは反逆者に,エホバの証人はクリスチャンであり,そういうことには参加できないと告げ,初期クリスチャンがローマ人に対する反乱に加わらなかったことを説明しました。もちろんそれは多くの人にとって意外なことでしたが,私たちは堅く立ちました」。
暴動は悲惨な結果を招きました。武装した兵士たちが抵抗勢力を押さえつけ,反逆者たちを別のバラックに連れて行きました。それからバラックにガソリンをかけ,火をつけたのです。中にいた人はほとんど死にました。兵士たちは,兄弟たちには何の危害も加えませんでした。
イワンはこう続けます。「1948年12月,私はある収容所で,25年の懲役刑を宣告された8人の兄弟たちに会いました。ひどく寒い冬で,炭鉱での仕事はきついものでした。それでも,兄弟たちの目は確信と強い希望に輝いていました。その積極的な態度は,エホバの証人ではない囚人さえも元気づけました」。
シベリアへ流刑に
当局の厳しい反対にもかかわらず,証人たちは引き続きエホバの王国の良いたよりを熱心に宣べ伝えました。そのことはモスクワにある中央政府,特にKGBをいら立たせました。KGBからスターリンにあてた1951年2月19日付の書簡にはこうあります。「エホバ信奉者の地下組織による,さらなる反ソビエト的な活動を抑圧するため,ソ連のMGB[国内治安省,KGBの前身]は,エホバ信奉者と判明している者ならびにその家族を,イルクーツク州およびトムスク州への流刑に処することが必要だと判断する」。KGBはだれがエホバの証人であるかを把握しており,ソ連の六つの共和国に住む8,576人をシベリアへ流刑にする許可をスターリンに求めました。そして許可が与えられます。
マグダリーナ・ベロシツカヤはその時の状況についてこう語っています。「1951年4月8日,日曜日の午前2時に,私たちはドアをたたく大きな音で起こされました。母は飛び起き,戸口へと走りました。目の前に一人の将校が立っていて,『お前たちは神を信じているゆえに,シベリアへ流刑に処される』と事務的に宣言しました。『2時間で支度するように。部屋にある物は持って行ってよいが,小麦粉や穀類は許可されていない。家具,木製品,ミシンもだめだ。庭の物は一切持って行ってはならない。寝具,衣類,袋や鞄を持って出てきなさい』と言われました。
「それ以前に出版物を読んで,東の方では多くの業を行なう必要があるということを知っていました。その業を始める時が来たのだと分かりました。
「だれ一人,泣いたりわめいたりしませんでした。将校は意外に思い,『だれも一粒の涙も流さないのか』と言いました。私たちは,こうなることを1948年から予期していたと話しました。旅のために,せめて生きた鶏1羽を連れて行かせてほしいと頼みましたが,許可されませんでした。将校たちは家畜を自分たちの間で分けました。私たちの目の前で鶏を分配し,一人は5羽,別の人は6羽,さらに別の人は3羽か4羽取りました。小屋に残った鶏が2羽だけになった時,将校は,それを殺して私たちに与えるよう命じました。
「生後8か月だった私の娘が,木製の揺りかごで寝ていました。揺りかごを持って行ってもよいかどうか尋ねましたが,将校はそれを分解するように命じ,赤ちゃんを寝かせる部分だけをくれました。
「程なくして近所の人たちも,私たちが流刑にされることを知りました。かりかりのパンが入った小さな袋をだれかが持ってきて,私たちが荷馬車に乗せられて出発する時に,荷台に投げ入れました。見張りの兵士はそれに気づき,袋を外に投げ捨ててしまいました。私たちは全部で6人でした。私,母,二人の弟,そして主人と8か月の娘です。村を出て少し行くと,私たちは車に詰め込まれて地域の集合所へ連れて行かれ,そこで書類が作成されました。それからトラックで駅まで運ばれました。
「日曜日で,とても天気のいい日でした。駅は,流刑にされる人たちと,それを見に来た人たちでいっぱいでした。私たちの乗ったトラックは,すでに兄弟たちがいた車両に横づけされました。列車が満員になると,兵士たちは全員の名字を呼んで確認しました。私たちの車両には52人いました。出発する前,見送りに来た人たちが泣き出し,嗚咽する人さえいました。中には全く知らない人もいたので,驚くような光景でした。しかし,それらの人は,私たちがエホバの証人で,これからシベリアへ流刑にされるということを知っていたのです。蒸気機関車が力強く汽笛を鳴らすと,兄弟たちはウクライナ語で歌い始めました。『キリストの愛なれと共にあれ。イエス・キリストに栄光を。その御国で我ら再び相まみえん』。私たちのほとんどは,エホバは決してお見捨てにならないという信仰と希望に満ちていました。皆で数節歌い,それがとても感動的だったので,涙を流す兵士もいたほどです。それから列車は走り出しました」。
「期待と正反対」
サンクトペテルブルクのゲルツェン大学で教えるN・S・ゴルディエンコ博士は自著の中で,迫害者たちが結局何を成し遂げたかについてこう書いています。「結果は,期待と正反対のものだった。彼らはソ連におけるエホバの証人の組織の弱体化を図ったのであるが,実際にはかえって強化してしまった。その宗派についてだれも聞いたことのない新しい開拓地で,エホバの証人の信仰と忠誠心は地元の人々に“伝染”していった」。
多くのエホバの証人はすぐに新たな環境に順応しました。複数の小さな会衆が組織され,区域が割り当てられました。ニコライ・カリババはこう言います。「シベリアで家から家へ,厳密に言うと家から二,三軒先の家へ宣べ伝えていた時期もありました。しかし,それは危険なことでした。どのように行なったのでしょうか。最初の訪問の後,再訪問は1か月ほどして行なうようにしました。まず家の人に,『鶏かやぎか牛を売りに出していませんか』と尋ねます。それから徐々に話題を変え,王国について話すのです。しばらくしてKGBがこのことを知り,間もなくエホバの証人と話さないよう地元住民に警告する記事が新聞に載りました。その記事には,証人たちは家々を回って人々にやぎや牛や鶏について尋ねるとありました。しかし,私たちは実際には羊を探していたのです」。
ガブリール・リビーはこう語ります。「兄弟たちはKGBに注意深く見張られていましたが,宣教奉仕に携わるよう努力しました。ソビエトの人々の態度といえば,だれかが宗教的な話題を持ち出そうとしているのを察すると,すぐに警察を呼ぶための警報を鳴らすというものでした。それでも私たちは伝道を続けました。最初は目に見える成果がありませんでしたが,時たつうちに真理は地元のある人たちを変化させ始めました。そうした人の一人に,大酒飲みだったロシア人の男性がいます。この人は真理を学んで生活を聖書の原則と調和させ,活発なエホバの証人になりました。後にKGBの係官に呼び出され,『だれと時間を過ごしているんだ。あの証人たちは皆ウクライナ人だぞ』と言われました。
「兄弟はこう答えました。『わたしが酔っ払って道端で寝転んでいた時には目もくれなかったじゃありませんか。そのわたしがまともになり,普通の市民になったら,それが気に入らないんですか。多くのウクライナ人がシベリアを去っていますが,彼らは神から生き方を学ぶようになった地元のシベリア人をあとに残してゆくのです』」。
数年後,イルクーツクのある役人がモスクワに次のような手紙を送りました。「地元で働く者の幾人かは,これらの[エホバの証人]全員をどこか北の地域に送るべきだと言明している。住民との接触をすべて断ち,再教育を施すためである」。シベリアでもモスクワでも,どうすればエホバの証人を沈黙させることができるのか分からなかったのです。
「お前たち全員を射殺していただろう」
1957年の初めごろ,当局は態勢を整え,エホバの証人に対して新たに行動を起こしました。兄弟たちは尾行され,家宅捜索を受けました。ビクトル・グットシュミットは当時を振り返ってこう語ります。「ある時,野外奉仕から帰ると,アパートの中がめちゃくちゃになっていました。KGBが文書を捜していたのです。私は逮捕され,2か月にわたって尋問されました。下の娘のユーリヤは生後11か月で,上の娘は2歳でした。
「尋問の際,取調官は私に,『お前はドイツ人か』と言いました。当時,多くの人にとって“ドイツ人”という言葉は,“ファシスト”と同義でした。ドイツ人は嫌われていたのです。
「私はこう答えました。『私は国粋主義者ではありませんが,もしあなたがナチスによって強制収容所に入れられたドイツ人のことを言っているのなら,私はそれらのドイツ人を誇りに思います。かつて聖書研究者<ビーベルフォルシェル>と呼ばれ,今はエホバの証人と呼ばれている人たちです。証人たちがだれ一人として,機関銃や大砲から一発の弾も撃っていないことを誇りに思います。それらのドイツ人を私は誇りに思います』。
「取調官は黙っていたので,私はこう続けました。『反乱や暴動に加わったエホバの証人は一人もいないことを確信しています。エホバの証人の活動が禁止されても,彼らは神への崇拝を続けます。同時に,証人たちは正当な権威者を認め,その法律がより高い創造者の法に違反しない限り従います』。
「不意に取調官が私を制し,こう言いました。『我々はエホバの証人とその活動を綿密に研究した。これほど調べたグループはほかにない。お前たちに不利な記録が一つでも見つかっていたなら,それがわずか一滴の血を流したことであったとしても,お前たち全員を射殺していただろう』。
「その時,私は思いました。『兄弟たちは世界中で勇敢にエホバに仕えていて,その実例がソ連にいる私たちの命を救った。だから,ここで神に仕えることが,他の場所にいる兄弟たちを何らかの仕方で助けることになるかもしれない』。こう考えると,エホバの道に固く付き従うための力が一層わいてきました」。
エホバの証人が50以上の収容所に
ソ連のエホバの証人の中立の立場と熱心な宣教は,引き続き政府にとって悩みの種でした。(マル 13:10。ヨハ 17:16)兄弟たちはそうした事柄において取った立場ゆえに,しばしば長くて不当な実刑判決を受けました。
1956年6月から1957年2月にかけて世界各地で開かれた199の大会で,46万2,936人の出席者が一つの請願書を提出することに満場一致で賛同しました。請願書の写しはモスクワのソ連邦閣僚会議に送られました。請願書には一部このように述べられていました。「ヨーロッパ・ロシアからシベリアにかけて,また北は北極海にまで至る地,さらには北極のノバヤゼムリャ島にもある50以上の収容所に,エホバの証人が収容されています。……アメリカおよび他の西欧諸国においては,エホバの証人は共産主義者と呼ばれており,共産主義者の支配する国々では,帝国主義者と呼ばれてきました。共産主義者の政府は,エホバの証人を『帝国主義のスパイ』として告訴し,裁判を行なって懲役20年の長期に達する刑を宣告してきました。しかし,エホバの証人が暴動活動……に従事したことは一度といえどもないのです」。残念なことに,この請願書をもってしても,ソ連のエホバの証人の状況はほとんど改善されませんでした。
とりわけロシアのエホバの証人の家族が子どもを育てるのは大変でした。そのころ3人の男の子を育てた,モスクワ出身のウラジーミル・ソスニンはこう言います。「ソビエトの学校に通うことは義務づけられていました。子どもたちは,教師や同級生から,共産主義のイデオロギーを志向する児童組織に入るよう圧力をかけられました。私たちは子どもに必要な教育を受けてほしいと思い,勉強を助けました。親にとって,子どもの心の中にエホバへの愛を育むのは,容易なことではありませんでした。学校には,社会主義や共産主義を促進しようという考えが浸透していました。私たち親は並外れた辛抱強さや粘り強さを示さなければなりませんでした」。
娘の耳をちぎり取ったとして告発される
シミョン・コスティリエフと妻のダーリヤは,シベリアで3人の子どもを育てました。シミョンはこう話します。「当時,エホバの証人は狂信者とみなされていました。1961年に,次女のアーラが1年生になりました。ある日,他の子どもたちと遊んでいた時,一人が誤ってアーラの耳にけがを負わせてしまいました。翌日,何があったのかと教師が尋ねると,アーラはクラスメートのことを言いつけたくなかったので何も答えませんでした。教師はアーラがエホバの証人の親に育てられていることを知っていたので,親が無理やり聖書の原則に従わせようとして暴行を加えたに違いないと考えました。学校側はそのことを検察当局に報告し,私の勤め先も巻き込まれました。約1年にわたる調査の末,1962年10月に私たちは法廷審問のために召喚されました。
「裁判の前の2週間,文化ホールには,『危険なエホバ派の裁判,間もなく開始』という横断幕が掲げられました。妻と私は,聖書に従って子どもを育てていることで訴えられ,さらに虐待の罪で告発されました。こともあろうに裁判所の主張は,私たちが娘に祈ることを強要し,娘の耳をバケツの縁でちぎり取ったというものだったのです。事実を証明できるのはアーラだけでしたが,当人は私たちの住んでいたイルクーツクから北へ約700㌔も離れたキレンスク市の児童養護施設に送られていました。
「ホールは青年同盟の活動家でいっぱいでした。審議のために休廷になると,群衆は騒ぎ出しました。私たちは押し回され,罵声を浴びせられ,“ソビエトの”服を脱げと言われました。皆が私たちを処刑すべきだと叫び,その場で殺すことを望む人さえいました。群衆はますます激高しましたが,判事たちはなかなか姿を現わしません。審議は1時間かかりました。群衆が私たちの方に押し寄せると,あるエホバの証人の姉妹とその未信者の夫が間に立ち,手を出さないようにと懇願しました。私たちに対する告発はすべて偽りであるということを説明しようとして,二人は文字どおり私たちを群衆の手から救い出しました。
「やっと一人の判事が人民裁判所の補佐人たちを伴って姿を現わし,判決を読み上げました。親権の剥奪です。私は矯正労働収容所へ護送され,そこに2年間入れられることになりました。長女も,両親は危険なセクトに属しており,成長に有害な影響を及ぼすと告げられた上で,児童養護施設に送られました。
「息子はまだ3歳だったので,ダーリヤと一緒にいることが許されました。刑期を終えると,私は家に戻りました。以前と同じように,証言は非公式に行なうことしかできませんでした」。
「子どもたちを誇りに思いました」
「アーラは13歳になった時に児童養護施設を出て家に戻り,また私たちと一緒に住むようになりました。1969年にアーラがエホバに献身し,バプテスマを受けたことは,私たちにとって大きな喜びでした。そのころ,私たちの住んでいた都市にあった文化ホールで,宗教に関する一連の講義が行なわれました。このたびはどんなことが話されるのか,聞きに行ってみることにしました。いつもどおり,最も多く取り上げられたグループはエホバの証人でした。講師の一人は『ものみの塔』誌を掲げ,『これは我々の国家の一致を揺るがす,有害で危険な雑誌である』と言い,一つの例を挙げました。『このセクトに属する者たちは,これらの雑誌を読んで祈ることを子どもたちに強要する。ある家族の場合,幼い娘が雑誌を読みたくないと言ったため,父親がその子の耳をちぎり取った』。アーラはびっくりしました。その場に座り,無傷の両耳で講義を聴いていたからです。しかし,また両親と離れ離れになるのが怖かったので,何も言いませんでした。
「息子のボリスは13歳になった時,エホバに献身しバプテスマを受けました。ある時,まだエホバの証人の活動は禁止されていましたが,ボリスは同い年の証人たちと一緒に街路証言をしていました。聖書も出版物も持っていませんでした。突然,1台の車が近づいてきて止まり,男の子たちはみな市民軍の基地に連れて行かれました。尋問と所持品検査を行なった民兵たちが見つけたのは,幾つかの聖句が書かれた紙だけでした。男の子たちは家に帰ることを許され,帰宅したボリスは自分や他の兄弟たちがエホバのみ名のために迫害されたことを誇らしげに話してくれました。エホバに支えられて試練を切り抜けたことを知り,子どもたちを誇りに思いました。この出来事の後,ダーリヤと私は幾度かKGBに呼び出されました。ある係官に,『この子どもたちは未成年者を罰する施設に送られるべきだ。まだ14歳になっていなくて残念だ』と言われ,私たちは息子の伝道活動のために罰金を科されました。
「現在,私は息子や孫たちと一緒に住んでいます。孫たちも真理のうちを歩んでいます。長女はウズベキスタンに住んでおり,まだエホバに仕えてはいないものの,私たちや聖書に敬意を抱いていて,よく訪ねてくれます。ダーリヤは2001年に亡くなりましたが,最後まで忠実にエホバに仕えました。私は力の続く限り,会衆と共に辺ぴな区域へ伝道に行き,『永遠の命のために正しく整えられた』人たちを探しています。(使徒 13:48)イザヤ 65章23節に書かれているような,私たち一人一人の願いを,エホバがもう間もなくかなえてくださることを確信しています」。
親が示した立派な手本
ウラジスラフ・アパニュクはロシア・ベテルで奉仕しています。子どものころに親が自分や弟や姉たちに神への愛を植えつけてくれたことを思い出し,こう語ります。「両親は,1951年にウクライナからシベリアへ流刑にされました。私たちに,エホバを喜ばせるよう努力しつつ,自分で物事を決定することを教えてくれました。両親がいつも自分たちの不十分な点について子どもの前でためらわずに話してくれたことを,本当にうれしく思いました。間違いをした時,両親はそれを隠しませんでした。どれほどエホバを愛しているかがよく分かりました。二人ともたいてい楽しそうで,私たちと霊的な事柄を話し合っている時は特にそうでした。エホバについて黙想して語るのが本当に好きなのだということが見て取れたので,私たちもエホバに関する真理について黙想したいと思うようになりました。すべてが素晴らしく,もはや病気も戦争もない新しい世で,人々がどんな生活を送るようになるかをよく想像したものです。
「私が3年生の時,クラス全員がピオネールと呼ばれるソビエトの少年団に入るよう促されました。ソ連のほとんどの子どもたちにとって,ピオネールに入団することは大きな名誉でした。クラスメートたちは首を長くしてこの日を待っていたのです。一人一人が正式な宣誓書を書き,将来的に共産主義の担い手となるソビエト・ピオネールの仲間入りをする意思を表明することになっていました。私はそれを拒んだので,先生は罰として教室に残るよう命じ,『宣誓書を書くまで出てはいけません』と言いました。数時間後,何人かのクラスメートが窓をたたき,出てきて一緒に遊ぼうと誘いました。でも私は何も書くまいと固く決意していたので,そのまま教室にいました。日暮れが近づいたころに別の先生が来て,私が教室に残っているのを見,ようやく家に帰してくれました。これは,私にとって最初の勝利でした。自分にもエホバの心を歓ばせることができて,誇らしく思いました。(箴 27:11)家に着くと,起きたことを両親に全部話しました。二人は歓び,父は『よく頑張ったな!』と言ってくれました」。
聖書が反ソビエト的とみなされる
兄弟たちは,聖書を持っているというだけで裁判にかけられることもありました。ナデジュダ・ビシュニャクはこう言います。「夫と私はまだエホバの証人ではありませんでしたが,真理に深く心を動かされていました。ある時,警察が職場にやって来て,私は作業着のまま連行されました。夫のピョートルも仕事中に逮捕されました。このことが起きる前に私たちの家は捜索を受け,警察は聖書と『ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世』という小冊子を見つけていたのです。ピョートルは私が逮捕されるとは思っていませんでした。妊娠7か月だったからです。
「私たちはソビエト当局に逆らって行動したとして告発されました。それに対して私たちは,ソビエトの権力よりはるかに高い権威を持つ聖書を信じていると説明しました。
「『聖書は神の言葉ですから,私たちはその原則に従って生きることを望んでいるのです』と私は言いました。
「裁判が行なわれたのは,出産予定日のわずか2週間前でした。審問の合間に,私が武装した兵士に付き添われて外を散歩できるよう,判事は何度か休憩を取ることを許しました。そうした散歩の際に一度,何をしたのかと兵士に尋ねられたので,証言を行なう素晴らしい機会となりました。
「判事は,押収された聖書や文書は『反ソビエト的』であると宣言しました。夫と私だけでなく,私たちの文書や聖書さえも反ソビエト的だと非難されたことをうれしく思いました。どこでエホバの証人と知り合ったのか尋ねられたので,ボルクタの強制労働収容所でと答えると,判事は『我々の収容所で何が起きているか見るがいい!』と腹立たしげに叫びました。私たちは有罪判決を受け,二人とも矯正労働収容所における10年の懲役を言い渡されました。
「ピョートルはロシア中央部のモルドビニアの収容所に送られ,私は独房に監禁されました。1958年3月,私は男の子を出産します。この困難な時期に,最高の友および助け手になってくださったのはエホバでした。母が息子を引き取って世話してくれることになり,私はシベリアのケメロボに連れて行かれ,強制労働収容所に入れられました。
「8年がたち,私は刑期が満了する前に釈放されました。バラックで刑務官の女性が私について,『反ソビエト的』な発言をしたことは一度もなく,私たちの文書は全く宗教的なものであると,大きな声で述べたことを覚えています。私は自由にされた後,1966年にバプテスマを受けました」。
刑務所や収容所で,聖書や聖書文書はとりわけ貴重なものでした。1958年,モルドビニアの収容所で,兄弟たちは定期的に集会を開いていました。刑務官たちが来ても慌てないように,一つのグループが「ものみの塔」誌を研究している間,幾人かの兄弟たちが声の届く所で見張りをするよう割り当てられました。刑務官が来ると,いちばん近くの兄弟が次の見張りに「来ました」と言い,集まっているグループに達するまで伝言が繰り返されます。皆が散り散りになり,雑誌は隠されました。しかし,刑務官がどこからともなく急に姿を現わすことも少なくありませんでした。
ある時,兄弟たちは不意を突かれてしまいました。ボリス・クリルツォフは,刑務官たちの注意をそらして雑誌を守ろうとし,とっさに1冊の本をつかんでバラックから飛び出しました。刑務官たちはしばらく追いかけ,やっとのことで追いつきましたが,ボリスが持っていたのはレーニンの著書でした。ボリスは7日間の独房監禁に処されましたが,雑誌が無事だったので喜びました。
モスクワで真理の種がまかれる
モスクワで王国の良いたよりを宣べ伝える業は,小さなグループによって始められました。ボリス・クリルツォフは,初期に国の首都で熱心に伝道を行なった少数の人たちの一人でした。兄弟はこう語ります。「私は建設現場の監督として働いていました。幾人かの兄弟姉妹と共に,非公式に宣べ伝えるよう努力しました。しかし,私の活動について知ったKGBが1957年4月にアパートを捜索して聖書文書を見つけたため,私は直ちに逮捕されました。尋問の際に取調官は,エホバの証人は国内で最も危険な人々だと話し,さらにこう言いました。『もしお前たちを自由にしたら,大勢のソビエト国民が仲間になるだろう。お前たちを国家に対する大きな脅威と見ているのはそのためだ』。
「私はこう答えました。『聖書は,法律に従う国民になるようにと教えています。さらに,王国と神の義をいつも第一に求めなければならないと述べています。いかなる国においても,真のクリスチャンが権力を握ろうとしたことは決してありません』。
「『捜索の際に見つかった文書はどこで手に入れたんだ』と捜査官は尋ねました。
「私は,『その文書に何か問題があるのですか。聖書の預言を論じているもので,政治的な問題は何も取り上げていませんが』と聞き返しました。
「『そうだな。だが,外国で出版されたものだ』という答えでした。
「私は結局,ウラジーミル市にある重警備の刑務所に入れられました。所持品を徹底的に検査されましたが,驚いたことに,薄い紙に手で書き写した『ものみの塔』誌4冊を持ち込むことができました。エホバが助けてくださったことは明らかでした。監房の中で,私はその4冊すべてをさらに書き写しました。そこに自分以外にも証人たちがいて,7年のあいだ全く霊的食物を受け取っていないことを知っていたからです。階段のモップがけを任されていた姉妹を通して,それらの雑誌を回しました。
「あとで分かったことですが,兄弟たちの中に密告者が紛れ込んでいて,だれかが聖書文書を回していると刑務所の看守たちに告げました。看守たちはすぐに全員を調べ始め,文書をすべて取り上げました。間もなく私のところにも来て,マットレスの中の文書を見つけました。私は85日間も独房に監禁されましたが,エホバは引き続きそれまでと同じように私たちを世話してくださいました」。
講義が真理を学ぶ助けに
ソ連のエホバの証人に対してイデオロギー的な戦いを仕掛けるために,講義が用いられました。ビクトル・グットシュミットはこう話します。「収容所には定期的に話し手がやって来て,無神論を説く講義を行ないました。兄弟たちはいつも質問をしたものです。講師が非常に簡単な質問に答えられないこともありました。講堂はたいてい満員で,だれもが注意深く耳を傾けました。人々は講義の終わりにエホバの証人が何を言うかに興味があったので,自主的に集まりました。
「ある時,かつてロシア正教会の司祭だった人が講師として収容所に来ました。その人は収容所にいた時に信仰を捨てて無神論者になったということを,皆が知っていました。
「講義が終わると一人の兄弟が,『あなたは刑務所に入る前から無神論者だったのですか。それとも入った後になったのですか』と尋ねました。
「講師はこう答えました。『考えてもみたまえ。一人の男性が宇宙飛行をしたが,神など見なかったのだ』。
「『あなたは司祭だったころ,地表からわずか200㌔ほど離れた所に神がいて人間を見ておられると本当に思っていたのですか』と,兄弟は尋ねました。講師は何も答えませんでした。こうしたやり取りは多くの囚人にとって思考の糧となり,後に私たちと聖書を学ぶようになった人もいました。
「ある講義の際に,一人の姉妹が発言する許可を求めました。『話しなさい。おそらく君はエホバの証人だろう』と講師は言いました。
「『野原に立って,周りにだれもいないのに,「お前を殺してやる!」と叫ぶ人をどう思いますか』と姉妹は尋ねました。
「『到底,利口とは言えないだろうな』と講師は答えました。
「『では,もし神がいないのであれば,なぜ敵対するのですか。神が存在しないのなら,敵対する相手もいないはずです』と姉妹が言うと,聴衆は笑い出しました」。
伝道師は必ずまたやって来る
もちろん,ソビエトのイデオロギーに関する講義は,収容所の中だけで行なわれたわけではありません。主に大きな都市で一般の人々を対象に計画され,経験のある講師が町や都市を訪れました。特に,ボルクタ,インタ,ウフタ,スイクトゥイフカルなど,証人たちが大勢いる所にはよく行きました。グットシュミット兄弟はこう語ります。「1957年のある時,インタの鉱員のための文化ホールに講師が来て,300人が集まりました。講師はエホバの証人の信条や,伝道の仕方について説明しました。私たちの伝道方法について正確に述べ,15回にわたって訪問がなされることに言及した後,こう続けました。『諸君が断わるそぶりを何も見せなければ,伝道師は必ずまたやって来る。2回目の訪問の後もまだ断わらなければ,3回目の訪問が続く』。
「講師は2時間にわたり,私たちの方法に従ってそうした訪問の6回目までを一字一句そのとおりにやってみせ,使われた聖句もすべて自分のノートから読みました。私は収容所で服役中でしたが,妻のポリーナがこの時の様子について手紙に書き,講義を聴いていた兄弟たちは耳を疑ったと教えてくれました。この講義の後,新聞にはエホバの証人に対する否定的な所見が載りましたが,王国に関する詳細な説明も掲載されました。さらに,講義が最初から最後までラジオで放送されたのです。そのおかげで大勢の市民が,エホバの証人の伝道する方法やその内容について聞きました。
「1962年には,モスクワから話し手が来て,エホバの証人に関する講義を行ないました。証人たちの現代史を取り上げた後,話し手はこう述べました。『毎月,何百万ドルものお金が,様々な国で証人たちの活動を促進するために,自発的な寄付の形でブルックリンに流れ込む。しかし,指導者たちはだれ一人として,自分の服を入れるタンスさえ持っていない。家政婦も会長も皆一緒に食堂で食べ,待遇が異なることはない。我々が「同志」と呼び合うように,彼らは皆「兄弟姉妹」と呼び合う』。
「しばらく講堂は静まり返っていました。それから講師はこう付け加えました。『しかし,彼らの思想がどれほど良いものに思えたとしても,我々はそれを取り入れない。こうしたことすべてを神なしで,我々の手と頭脳とをもって成し遂げたいからである』。
「このことは私たちにとって大いに励みとなりました。初めて当局者たち自身から,エホバの証人についての真実を聞いたからです。そうした講義は,他の多くの人にとっても,当局者からエホバの証人に関する真実を聞く機会となりました。とはいえ,人々は聖書の教えがどのように生活の向上に役立つかを,じかに見る必要がありました」。
監視は必ずしも成功しなかった
長年の間,KGBは電話の盗聴や手紙の開封を含む,様々な方法による監視を広範に行ないました。会衆で指導の任に当たっていた兄弟たちの家に,盗聴器をひそかに仕掛けることもありました。禁令下で25年のあいだ地域監督として奉仕したグリゴリー・シブルスキーは,1958年に自宅の屋根裏でそのような装置を見つけたことを覚えています。「私たちはシベリアのトゥルンという町の外れにあった,2階建てのアパートの上の階に住んでいました。ある時,帰宅すると,建物の屋根裏からドリルの音が聞こえました。KGBが私たちの会話を盗み聞きするために,屋根裏に盗聴器を仕掛けているのだと気づきました。それは彼らの常套手段でした。私たちの文書の大半は,屋根裏や軒に隠してありました。
「晩に家族が集まった時,私は自分が感づいたことを伝え,当面は家の中で会衆の事柄について話さないことにしました。ラジオをつけて音量を上げ,1週間そのままにしておきました。週の終わりに,私はもう一人の兄弟と屋根裏に上り,盗聴器につながっている電線を見つけました。電線は2列の板張りの間を通り,軒を伝って,KGBの事務所がある都市の方へ延びていました。KGBが何もかも録音していたことは間違いありませんでしたが,ずっとラジオの番組しか聞こえなかったでしょう」。
KGBが組織に潜入する
KGBは,あからさまな迫害ではエホバの証人の熱意をくじくことはできないと悟りました。そのため,狡猾な手段や欺きにより,監督として任命された人たちや組織全体に対する不信の種を兄弟たちの間にまき始めました。KGBの策略の一つは,経験ある工作員を会衆内に潜り込ませることでした。
幾人かの工作員は,組織内で監督の立場に就くことに成功しました。それらの偽兄弟たちは,宣べ伝える活動のペースを落とすために,できることを何でもしました。恐れや不安を感じるような雰囲気を生じさせ,指導の任に当たっている兄弟たちに対する疑念が広がるようにしたのです。さらに,兄弟たちが受け取るはずの聖書文書を自分の手元からKGBに引き渡しました。ある報告によれば,わずか二人の工作員が1957年から1959年にかけて,500冊を超える「ものみの塔」誌や他の文書をKGBに引き渡しました。
1950年代の半ばごろ,一部の兄弟たちは,国内委員会への信頼を失い始めました。国内委員会の成員の中には,KGBに協力し,文書を複写していた人たちを含む忠実な兄弟たちを裏切っている者がいる,といううわさが広まりました。イワン・パシュコフスキーは当時についてこう言います。「1959年4月に新しい国内委員会が発足し,私も成員の一人でした。悪魔が兄弟関係を崩壊させようとしていましたが,私たちは真理を擁護する決意に満ちていました。ソ連のエホバの証人の歴史上,最も困難な時期が始まったのです」。
疑念がつのるにつれ,一部の兄弟たちは国内委員会に会衆の報告を送らなくなりました。諸会衆の伝道者たちは引き続き活発に宣教を行ない,定期的に報告を提出していましたが,ほとんどの人はそれらの報告がもはや国内委員会に送られていないということを知りませんでした。1958年までに,複数のグループの兄弟たちにより,数千人の伝道者が国内委員会から切り離されてしまいました。イルクーツクとトムスク,また後にはロシアの他の都市で,組織から離れる兄弟たちのグループは増え続けました。1958年3月には,離れた人たちが独自の“国内委員会”を組織し,すべての会衆がそれを認めることを期待しました。
統治体は,ソ連の兄弟たちがエホバの崇拝における一致を取り戻すのを助けるために,あらゆる手段を尽くしました。スイスに住んでいたアルフレート・リュティマンは,当時ソ連における業を監督していた北ヨーロッパ事務所の責任者でした。1959年にアルフレートはロシアの兄弟たちに手紙を送り,エホバに祝福されるのは,一致のために努力し,王国の良いたよりを宣べ伝える人たちだけである,ということを説明しました。離れた兄弟たちの一部はこれを受け入れ,国内委員会への信頼を再び培う努力を始めました。しかし,完全に信用できるようになるまでには何年もかかりました。その間ずっと,国内委員会は運搬係を通して聖書文書を供給し続けました。離れた人たちはそれらの文書を研究しましたが,依然として野外奉仕報告を送ることはしませんでした。
KGBは引き続き,兄弟たちの間に不信の種をまきました。兄弟たちを刑務所に送る一方で,意図的に一部の人は自由なままにしておきました。そのため,大方の兄弟たちは,自由な証人たちがKGBに協力しているような印象を受けました。責任ある兄弟たちを過度に疑い,批判的になった人も少なくありませんでした。
宣伝された裁判
イルクーツクの役人がモスクワに送った報告には,こう述べられていました。「[イルクーツク州のエホバの証人]は,大規模な地下活動を組織してきた。1959年の後半に,KGBの捜査局は秘密の印刷所を五つ発見した」。それらの印刷所があったのは,シベリアのジマーおよびトゥルンという町,またキトイ,オクチャブリスキー,ザラリという村です。見つけられた後,印刷に携わっていた人たちは逮捕されました。
最初に逮捕された4人の兄弟たちは,印刷の仕事に関する供述書を提出しました。捜査官たちが狡猾にも,そうするよう強要したのです。それからKGBは供述の内容をゆがめ,地元の新聞に掲載しました。その4人の兄弟たちは釈放され,別の8人が逮捕されました。それら8人の裁判が,1960年4月にトゥルンで行なわれることになります。KGBは大々的に宣伝を行ない,派手な裁判の準備をしました。そして,釈放された4人の兄弟たちを検察側の証人として利用することをもくろみました。諸会衆の多くの人は,それらの兄弟たちがKGBの側に付いたという印象を抱きました。
KGBはさらに,この見せしめのための裁判を利用して,傍聴するエホバの証人の信仰を打ち砕き,地元住民の敵意をあおろうとしました。そのことを念頭に置き,KGBは公判前に,兄弟たちが何年かのあいだ文書を印刷していた地下室を人々に見学させることを企画しました。やがて町じゅうで,秘密裏に活動する“セクト”についてのうわさが飛び交うようになります。裁判の日になると,会場は新聞やテレビの取材記者を含む300人以上の人で埋め尽くされました。モスクワから来た人さえいたほどです。エホバの証人も大勢いました。
法廷は大混乱に陥る
ところが,予想外のこととして,KGBの計画が急に崩壊し始めます。供述をした兄弟たちが,自分たちの間違いに気づいたのです。裁判の前日に4人とも,エホバに栄光を帰するためにできることを何でもすると固く決意しました。そして裁判が始まると,自分たちが欺かれたことや供述がゆがめられたことを言明し,「私たちは兄弟たちと並んで被告人のベンチに座る覚悟ができています」と述べました。法廷は大混乱に陥りました。
さらに,裁判にかけられた兄弟たちは尋問の際,巧みな答え方によって他の人を巻き込まずに済みました。例えば,グリゴリー・チムチュクは,自宅の印刷所をだれが造ったのかと判事に聞かれた時,「私が造りました」と答えました。だれが文書を印刷したのかという質問には,「私が印刷しました」と答え,だれが文書を配ったのかという質問にも,「私が配りました」と答えました。紙を買って届けたのはだれかと聞かれた時も,やはり「それも私がしました」と答えました。すると検察官は,「じゃあ君は何なのかね。君一人が管理者であり,供給者でもあり,労働者でもあるということなのか」と言いました。
「その手紙によって心が温まりました」
検察側の証人がだれもいないことが分かると,検察官は外国人と共謀したとして兄弟たちを非難しました。その証拠として提出したのは,ブルックリン・ベテルのネイサン・H・ノアからの手紙でした。裁判を傍聴していた兄弟たちの一人,ミハイル・サビツキーはこう言います。「KGBが押収していた,ノア兄弟からソ連の兄弟たちに送られた手紙を,検察官は大きな声で読み始めました。会場にいた私たちエホバの証人すべてにとって,それはエホバからの素晴らしい贈り物でした。その手紙によって心が温まりました。私たちは聖書に基づく賢明な助言や,信仰の仲間に愛情をこめて仕え,試練のもとでも忠実を保つようにとの励ましを耳にしたのです。さらに,エホバの証人は皆,すべての事柄において神に依り頼み,知恵と導きを神に求め,任命された兄弟たちと密接に働くよう促されました。検察官は手紙を最初から最後まで読み通し,私たちは一心に聴き入りました。まるで大会に出席しているかのようでした」。法廷は兄弟たちに様々な長さの刑を宣告しましたが,傍聴していた人たちはエホバに仕え続ける決意を固く保ちました。
喜びのうちに崇拝において再び結ばれる
KGBはソ連内のエホバの証人の活動を停滞させることに成功したと考え,とどめを刺すための行動を起こしました。1960年,突然450人を超える兄弟たちが一緒にモルドビニアの収容所に入れられます。その中には,組織から離れたグループと離れなかったグループ両方の主立った兄弟たちが含まれていました。KGBは,それによって組織が完全に分裂すると考えたのです。収容所の新聞に,だれとだれが争うことが見込まれるかを説明した侮蔑的な記事が掲載されました。しかし,兄弟たちは同じ場所にいることを生かして,一致に至る道を見いだしました。
イオフ・アンドロニクは当時を思い出してこう言います。「責任ある兄弟たちは,離れた人たちを含む証人各自に,一致に向けて努力するよう訴えました。そして,ロシア語版の『ものみの塔』誌,1961年9月1日号の,『すべての善意者の一致は約束されている』と題する記事に特別な注意を向けました。その記事は,古代にエホバがどのようにご自分の民を導いたかを示す事例や原則を取り上げたものでした。また,クリスチャン会衆内ですべての人が平和と一致に向けて努力することの必要性を論じていました。記事を注意深く研究することにより,多くの人が神権的な一致の重要性に気づき,好意的に応じました」。
溝を埋めた霊的食物
その「ものみの塔」誌の記事は,一致を取り戻すよう刑務所の外の証人たちをも助けました。指導の任に当たるよう任命された兄弟たちは,祈ってから共にその記事を読みました。記事は,病気だったラザフォード兄弟が最後に行なった,1941年8月の大会での話に触れていました。ラザフォード兄弟は,エホバの組織に固く付き,いかなる人間の指導者にも追随しないよう兄弟たちを励まし,こう言いました。『いつのときでも何かが生じて大きくなり始めると,一人の人が指導者になって大勢の者たちを従わす,と人々は言う。もしここにいるあなた方が,私は主の僕の一人に過ぎず,私たちは肩を並べて協力して働き,神とイエスに仕えている,と思うなら,はいと言ってもらいたい』。それに対し聴衆は,満場一致で力強くはっきりと「はい!」と答えました。
ミハイル・サビツキーはこう振り返ります。「この一致は,当時ソ連の証人たちが特に必要としていたものでした。エホバが愛をもって辛抱強く霊的な支えを与えてくださったことを本当に感謝しました。組織から離れていた一人の兄弟は,すぐにその雑誌を欲しがり,『ブラーツクや他の場所の兄弟たちに読んで聞かせたいので,それをください』と言いました。私は雑誌が1冊しかないことを話しましたが,1週間後には必ず返すとのことでした。兄弟はそのとおり雑誌を返しただけでなく,多くの会衆から長いあいだ提出されていなかった奉仕報告も持ってきました。何百人もの兄弟姉妹が,エホバの崇拝者の一致した家族に戻ったのです」。
国内委員会の一員として30年以上奉仕したイワン・パシュコフスキーは,こう回顧します。「私たちは国外から来た一人の兄弟を通してノア兄弟に,一致して神権秩序に服することをソ連のすべての兄弟たちに求めてくださるようお願いしました。ノア兄弟は承諾し,1962年に私たちは英語とロシア語で書かれた兄弟の手紙を25部受け取ります。その手紙は,多くの人を本当に目覚めさせるものとなりました」。
羊が羊飼いの声を聞く
国内委員会は,兄弟たちを一致させるために忙しく働きました。当時の状況下で,それは決して容易な仕事ではありませんでした。1962年の夏までに,一つの地域区全体が再び組織と結ばれます。霊的に円熟した兄弟たちが任命され,特別な委員会を構成しました。エホバはそれらの兄弟たちの努力を祝福し,「上からの知恵」をお与えになりました。(ヤコ 3:17)1986年から1995年まで巡回監督として奉仕したアレクセイ・ガブリャクは,こう語ります。「私たちは1965年にウソーリエ・シビルスコエで国内委員会と会いました。委員会の指示により,流刑や投獄や分裂などの理由で散らばってしまった兄弟姉妹をすべて捜し出し,再び会衆と交わるよう促すことになり,手始めに幾人かの住所を渡されました。私の区域には,トムスク州とケメロボ州,またノボクズネツク市とノボシビルスク市が含まれており,他の兄弟たちもそれぞれ違う区域を割り当てられました。私たちの仕事は,会衆や個々の群れを組織し,会衆内で責任を担う兄弟たちを任命して訓練することでした。さらに,禁令下の難しい状況の中で,文書を届けるための経路を確立し,会衆の集会を計画する必要がありました。短期間のうちに,組織との接触を失っていた84人の兄弟姉妹を訪ねることができました。エホバの『羊』が再びりっぱな羊飼いの声を聞き,神の民と共にエホバに仕えるようになったことを,とてもうれしく思いました」。―ヨハ 10:16。
やがて,離れていた人の多くが再び国内委員会と結び付き,野外奉仕報告を提出するようになりました。1971年までに,4,500人を超える伝道者がエホバの組織と再び結ばれます。1980年代半ばには,依然として禁令下にあったにもかかわらず,宣べ伝える業は引き続き行なわれ,新しい人たちが諸会衆に加わっていました。
貴重なフィルムの断片
ソ連に住んでいた,用心深くも勇敢な兄弟たちは,霊的食物を複製するために絶えず多大の努力を払いました。それにしても,兄弟たちは元となる霊的食物をどのように入手したのでしょうか。
基本的な手段の一つは,マイクロフィルムでした。近隣の国で働く兄弟たちが,雑誌,書籍,ブロシュアーを写真に撮りました。それらは主にロシア語とウクライナ語の文書でしたが,他の幾つかの言語で出版されたものもありました。長さ30㍍のフィルムのリールを取り付けられるマイクロフィルム用カメラを使い,苦労しながら1ページずつ慎重に撮影しました。出版物はすべて何度も撮影され,効率よく分配できるように複数のフィルムに収められました。その結果,長年の間に,何キロもの長さに及ぶマイクロフィルムに霊的食物が収められます。扱いやすいように20㌢ほどの長さに切られたマイクロフィルムは,運搬係によってソ連に持ち込まれました。
シベリアの秘密の印刷所
聖書文書の複写は困難でしたが,エホバはその仕事を祝福されました。1949年から1950年の間だけで,兄弟たちは様々な出版物の写しを4万7,165部も作って諸会衆に届けました。さらに,厳しい反対にもかかわらず,国内委員会の報告によれば,その同じ期間に国内で開かれた集会の数は3万1,488回に及びました。
文書の需要は増え続けたので,新しい印刷所が必要になりました。スタフ・サビツキーはこう話します。「1955年に,秘密の印刷所が我が家に設けられました。父はエホバの証人ではなかったので,まず父の許可を得なければなりませんでした。縦2㍍,横4㍍ほどの部屋を造るために,約2か月かけてポーチの下を掘りました。掘った土の量は約30立方㍍にもなり,だれにも気づかれないように何とかしてその土を運び出し,隠す必要がありました。1.5㍍の深さまで掘ったところで永久凍土層にぶつかったので,私たちが世俗の仕事に行っている間,母が近所の人の注意を引かないようにしながら乾いた木で小さな火をたき,凍った土を溶かしました。後に,私たちは掘った場所に板を張り,床や天井を造りました。部屋が整うと,すぐに一組の夫婦が引っ越して来て,二人はその地下室で働きながら暮らし,母が食事や洗濯の世話をしました。この印刷所は1959年まで使われました。
「1957年,私は文書の複写を監督していた兄弟に,『印刷所で働けますか。月に少なくとも200冊の雑誌を作る必要があるのです』と言われました。私は当初200冊,そのうち500冊作るようになりましたが,文書の需要は絶えず増えていました。作業は夜間に行なわなければなりませんでした。というのも,流刑囚は日中,監視のもとで製造業に携わり,休みは週に一日しかなかったからです。
「仕事から帰ると,印刷所に下りて行きました。印刷作業はいったん始めると最後まで見届けなければならなかったので,私はほとんど寝ませんでした。インクが固まってしまうので,作業を中断して別の時に続けることは不可能だったのです。時には,500ページ印刷した後に1枚1枚見直して,文字がはっきり見えるように針を使って少し修正する必要がありました。換気が非常に悪かったので,印刷し終わったページを乾かすのは大変でした。
「印刷した雑誌は夜間に,家から20㌔離れたトゥルンという町に届けました。そこからどこへ行くのかはよく知りませんでしたが,クラスノヤルスク,ブラーツク,ウソーリエ・シビルスコエなどの都市や町にいる証人たちがその文書を用いるということは分かっていました。
「1959年に監督の兄弟たちから,トゥルンの駅の隣に新しい印刷所を造るのを手伝ってほしいと言われました。最初の印刷所を造った時と同じように,土を掘ったり照明を取り付けたりして,手慣れた作業を再び行ないました。エホバが知恵を与えてくださいました。完成すると,ある家族が引っ越して来て1年ほどそこで働きましたが,やがてKGBに印刷所を発見されてしまいます。地元の新聞に,『経験豊かな電気工でさえなかなか把握できない方法で照明が取り付けられていた』と報じられました。
「家族以外に,私が印刷所で働いていることを知っている兄弟はほとんどいませんでした。晩にはだれも私の姿を見なかったので,会衆の兄弟姉妹は私の霊性を心配しました。私を励まそうとよく家を訪ねてくれましたが,私はいつも留守でした。厳しい監視下にあった当時,印刷所は極秘に運営しなければならなかったのです」。
モスクワで文書を複写する
当局は,証人たちが聖書や聖書文書を緊急に必要としていることをよく知っていました。統治体は聖書文書の印刷や輸出の許可を繰り返し求めましたが,その申請は却下もしくは無視されました。文書がかなり不足していたので,兄弟たちは諸会衆や群れに霊的食物を供給するため,モスクワを含む国内の様々な場所で文書を複写する方法を常に模索していました。
1957年,ステパン・レビツキーは,わずか1冊の「ものみの塔」誌を持っていたために,10年の懲役刑を宣告されました。その雑誌は,食堂のテーブルクロスの下で発見されたのです。ステパンはこう語ります。「3年半の後,最高裁判所は私の刑を取り消しました。釈放される前に兄弟たちから,モスクワの近くに移動してそこで伝道や他の霊的活動に携わるよう勧められました。私はモスクワから2時間ほどの地域に住まいを見つけ,首都の様々な地区で宣べ伝え始めました。エホバは努力を祝福してくださり,数年後にはモスクワで兄弟姉妹から成る群れが組織されました。1970年に私は,モスクワ,レニングラード(現在はサンクトペテルブルク),ゴーリキー(現在はニジニノブゴロド),オリョル,トゥーラを含む巡回区を割り当てられました。諸会衆に文書を提供する責任者でした。
「モスクワやロシアの他の地域に十分な量の聖書文書が備えられることは,エホバのご意志であると確信していたので,この面でより多くのことを行ないたいという気持ちをエホバへの祈りの中で言い表わしました。間もなく,ある印刷技師と知り合いました。その人はモスクワの複数の印刷業者とかかわりがあったので,私はさりげなく,どこか市内の印刷所でちょっとした本を印刷できないかどうか聞いてみました。
「『どんな本だい?』と技師は尋ねました。
「『「失楽園から復楽園まで」という本です』と,私は恐る恐る答えました。
「その技師の親しい友人がある印刷所で働いていました。共産党員で,党内の一組織の幹部ということでした。その人は現金と引き換えに少量の本を印刷することを承諾してくれました。兄弟たちがこの聖書研究の手引きを持てるというのは,なんと素晴らしいことだったのでしょう。
「このような方法で文書を印刷することは,私にとっても印刷工にとっても大きな危険が伴いました。文書はたいてい夜間に印刷され,だれにも気づかれないよう,すぐに印刷所から運び出さなければなりませんでした。エホバはこの取り決めを祝福してくださり,『真理は汝らを自由にすべし』や『とこしえの命に導く真理』など,多くの聖書文書がこの印刷所で印刷されました。歌の本さえもです。私たちにとって,それらはまさに時に応じた食物でした。(マタ 24:45)9年の間,この印刷所を使用することができました。
「ところがある日,私たちの出版物が印刷されている時に,印刷所の管理者の女性が不意に入ってきました。印刷工は急いで印刷機を操作し,健康雑誌を印刷し始めました。しかし慌てていたので,誤ってその雑誌に私たちの出版物6ページ分を入れてしまい,印刷したての雑誌を管理者は自分のオフィスに持って行きました。雑誌を読んだ管理者は,明らかに全く内容の合わないページがあることにとても驚き,印刷工を呼びつけて,それがどのように雑誌に紛れ込んだのかを問いただしました。その後KGBがこの件を扱い,印刷工は長期刑に処すると脅されて,知っていることをすべて話しました。結果として,私はすぐに捜し当てられました。モスクワでKGBによく知られていた唯一のエホバの証人だったからです。そして,5年半の懲役を言い渡されました」。印刷工が宣告されたのは3年の刑でした。
「ハルマゲドンよ来たれ!」
多くの兄弟姉妹が,刑務所の監房で長い期間を過ごしました。刑務所に15年いたグリゴリー・ガチロフは,その当時のことをこう述べています。「最後に入れられた刑務所には,ロマンチックな名前が付けられていました。『白鳥』と呼ばれていたのです。それは絵のように美しいカフカス地方の山の頂に建っており,その山を含む五つの山々に囲まれていたのは行楽地のピャチゴルスクという町でした。その刑務所で丸一年,いろいろな人に真理を伝える機会がありました。私の監房は宣べ伝えるための素晴らしい“区域”で,わざわざ出かける必要さえありませんでした。看守たちは監房に新しい人を連れてきては数日後にまた連れ去りましたが,私はずっと入れられたままでした。別の監房に移されることもめったになかったのです。私はすべての人に,エホバの王国について徹底的に証言しようと努めました。多くの人からハルマゲドンに関して質問されました。囚人の中には,私が信仰ゆえに非常に長いあいだ投獄されたままでいることを知って驚く人もいました。一緒にいた囚人や,時には看守にも,『どうして信仰を否定して家に帰らないんだ?』と聞かれました。そう尋ねる人が真理に誠実な関心を示すたびにうれしく思いました。ある時には,だれかが監房の壁に『ハルマゲドンよ来たれ!』と落書きしたのを見ました。刑務所での生活そのものは決して楽しくありませんでしたが,真理について話せたことは喜びでした」。
「この中にヨナダブ級の人はいますか」
エホバに熱心に仕える大勢のクリスチャンの姉妹たちも収容所で服役しました。(詩 68:11)ジナイダ・コジレバは,姉妹たちが互いに,またエホバの証人ではない囚人たちにも愛を示したことを覚えていて,こう語ります。「1959年,バプテスマを受けてまだ1年足らずの時に,私はベラ・ミハイロバとリュドミラ・エフスタフィエバと一緒にシベリアのケメロボの収容所に連れて行かれました。550人を収容できる所でした。私たちが到着した時,入口に数人の女性が立っていました。
「『この中にヨナダブ級の人はいますか』と,女性たちは尋ねました。
「私たちはそれが愛する姉妹たちだと分かりました。姉妹たちはすぐに食べ物をくださり,いろいろ尋ね始めました。姉妹たちからあふれ出る温かさや心からの愛は,自分の家族の中では感じたことのないものでした。収容所で新入りだった私たちを,姉妹たちが支えてくれました。(マタ 28:20)間もなく,そこでは自分たちを霊的に養うためのプログラムがとてもよく組織されていることがはっきり分かりました。
「私たちは本当の家族のようになりました。夏には干し草用の草を刈り集めましたが,それは特に良い時でした。収容所当局は私たちが逃げたり規則を破ったりすることを心配していなかったので,たった一人の兵士が20人から25人の姉妹たちを見張りました。でも実際には私たちが兵士のために見張っていたのです。だれかが来ると,兵士が仕事中に寝ていたことで罰せられないように起こしてあげました。兵士が寝ている間,私たちは休憩中に霊的な事柄について話し合いました。それは兵士にとっても私たちにとっても都合のよい取り決めでした。
「1959年の終わりごろ,私を含む幾人かの姉妹たちは警備の厳重な収容所に送られました。窓にガラスもない冷えきった監房に入れられ,夜は板の上で眠り,日中は働きました。当局は私たちに野菜を仕分けする仕事を割り当て,行動を監視しました。やがて,私たちが他の囚人のように物を盗まないことを確信すると,寝る時に敷く干し草を持ってきて,窓にはガラスを入れてくれました。そこで1年過ごした後,姉妹たちは全員,警備が緩やかなイルクーツクの収容所に送られました。
「その収容所には120人ほどの姉妹がいて,私たちもそこで1年3か月を過ごしました。最初の冬は非常に寒く,雪がたくさん降りました。私たちは丸太を切る作業場で,きつい肉体労働をさせられました。刑務官たちは文書を見つけようと,しばしば検査を行ないました。それ以外に暇をつぶす方法がないかのようでした。私たちはすでに文書を隠す技術にたけていて,上手にやりすぎることもありました。ある時など,ベラと私はその日の聖句を書いた紙をうまく隠しすぎて,作業着のどこに入れたのか分からなくなったほどです。しかし刑務官に見つけられ,ベラと私は5日のあいだ独房に監禁されました。外の気温は摂氏マイナス40度を下回り,監房は暖められていなかったので,壁が霜で覆われました。
「独房にはコンクリートでできた小さな棚状のものがありましたが,それはようやく座れるほどの大きさでした。体がひどく冷えると,私たちは足を折り曲げて壁に向け,背中合わせに座ったまま眠りに落ちましたが,突然目を覚ましては慌てて立ち上がりました。眠ったまま凍え死んでしまうのが怖かったからです。一日にあてがわれたのは,コップ1杯のお湯と黒パン300㌘だけでした。それでも,エホバが『普通を超えた力』を与えてくださったので,平安な気持ちでいられました。(コリ二 4:7)バラックに戻ると,姉妹たちはとりわけ優しく世話してくれました。前もって温かい食べ物を準備し,私たちが体を洗えるようにお湯を沸かしてくれたのです」。
「他の人とうまくやっていくことができる」
ジナイダはこう続けます。「この収容所で宣べ伝えるのは容易ではありませんでした。囚人が少なく,皆がエホバの証人を知っていたからです。ペテロ第一 3章1,2節の原則が当てはまる状況でした。私たちはそれを言葉によらない伝道と呼び,バラックを清潔で整った状態に保ち,互いに仲良く親密であるようにしました。(ヨハ 13:34,35)さらに,エホバの証人ではない人たちとも良い関係を築き,神の言葉の教えどおり振る舞うよう努め,他の人の必要に気を配りました。エホバの証人ではない人をいろいろな仕方で助けることもありました。例えば一人の姉妹は,他の囚人が計算をしなければならない時に進んで手伝いました。多くの人が,エホバの証人は他の宗派の人たちとは違うということを見て取りました。
「1962年,私たちはイルクーツクの収容所からモルドビニアの収容所に移されました。そこでも身の回りをきちんとし,衛生にも気を配るようにしました。私たちのベッドはいつも清潔で整っていました。バラックには50人ほどの囚人がいて,ほとんどが姉妹たちでした。バラックを掃除したのは姉妹たちだけで,他の囚人たちはそのような仕事をしたがりませんでした。必要な道具を収容所当局に用意してもらい,いつも床を水洗いして砂で磨きました。バラックにいた修道女たちは掃除を拒み,知識階級の人たちも嫌がったので,生活環境は主に私たち自身の働きにかかっていました。姉妹たちのだれかが釈放される時,人格面に関する報告書には決まって,『順応性があり,他の人とうまくやっていくことができる』と書かれました」。
丈の高い花が心強い目隠しになる
ジナイダはさらにこう話します。「ある時,幾人かの姉妹たちが家に手紙を書き,大きな花を育てたいので種を送ってくれるよう頼みました。収容所当局に,きれいな花を植えたいので肥えた黒土を少し収容所内に持ち込んでもよいか尋ねてみたところ,驚いたことに快諾してくれました。私たちはバラックに沿って造った花壇に花を植え,花が並ぶ長い道ができました。間もなく収容所には,茎の長いバラや香りの良いナデシコ,またほかにも美しく,もっと重要なことに丈の高い花がびっしりと咲きました。中央の花壇には,華やかなダリアや,密集した丈の高い色とりどりのデージーが咲き乱れていました。私たちはそこを歩き,花の後ろで聖書を研究し,咲き誇るバラの茂みに文書を隠しました。
「歩きながら集会も行ないました。私たちは5人ずつのグループに分かれ,各自が前もって聖書に基づく出版物の五つの節のうち1節を暗記しました。そして,まず祈りをささげてから順番に節を暗唱して討議し,結びの祈りの後,散歩を続けました。私たちの持っていた『ものみの塔』誌は,[161ページの写真にあるような]小さな小冊子の形に作られていました。毎日,何かしら研究し,特に日々の聖句は必ず討議し,さらに週に3回行なった集会のたびに節を暗唱しました。それだけでなく,聖書の章全体を覚えるように努め,自分たちを強めるために暗唱し合いました。そのようにしていたので,検査の際に当局者たちに文書を没収されても,過度に落胆しませんでした。
「収容所当局は他の囚人たちを通して,私たちの活動が収容所内でどのように組織されているかを突き止めようとしましたが,多くの囚人はかばってくれました。私たちと同じバラックに,オルガ・イビンスカヤという女性がいました。ノーベル文学賞に選ばれた,有名な詩人で作家のボリス・パステルナークと親しかった人です。やはり作家だったオルガは,私たちに対して好意的で,エホバの証人が非常によく組織されているのを見て感心していました。エホバは私たちに知恵を与えてくださり,特に霊的食物を分かち合えるように助けてくださいました」。―ヤコ 3:17。
「もうたくさん!」
ジナイダはこう続けます。「文書は様々な方法で届けられました。多くの場合,エホバご自身がその過程を見守っておられることは明らかでした。『わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない』と約束されているとおりです。(ヘブ 13:5)看守をあたかも盲目のようにしてくださったこともありました。冬のある時,私たちの作業隊が仕事から戻って収容所の門を入ったところで,看守たちはいつものように検査を始め,服をすべて脱ぐよう命じました。最後に入った私は,ズボンを2枚はいていて,その下に新しい文書を隠し持っていました。
「寒かったので,私はたくさん重ね着して,まるでタマネギのようでした。刑務官の女性はまず私の冬用のコートを調べ,それからその下に着ていたキルティングのそでなしジャケットを調べました。私は,刑務官がうんざりすることを期待して,なるべく検査を長引かせることにしました。ゆっくりセーターを1枚脱ぎ,さらにもう1枚脱ぎました。刑務官がそれらを注意深く調べている間に,またゆっくりスカーフを何枚か外し,ベストを脱ぎ,シャツも1枚ずつ脱いでゆきました。残りはズボン2枚とフェルトのブーツです。私はゆっくりブーツを片方ずつ脱ぎ,同じようにゆっくり上のズボンを脱ぎ始め,こう考えました。『さあどうしよう。もし下のズボンを脱ぐように言われたら,走って逃げて姉妹たちに文書を投げ渡さなきゃ』。上のズボンを脱ぐや否や,いら立った刑務官は,『もうたくさん! さっさと行きなさい!』と怒鳴りました。私は急いで服を着て収容所の中に駆け込みました。
「文書はどこで手に入れたのでしょうか。あらかじめ決めておいた場所に兄弟たちが置き,私たちは順番にそれを取りに行って収容所に持ち込んだのです。持ち込んだ文書は安全な場所に隠し,時々その場所を変えました。さらに,いつも文書を手で書き写し,できあがった写しも隠しました。毛布の下で,窓から差し込む街灯の光を頼りに作業を行ないました。毛布の小さなすき間から光が入るようにしたのです。私たちは1分も無駄にしないように,いつも忙しくしていました。食堂に行く時でさえ,それぞれ聖句の書かれた紙を持って行きました」。
「その時が来た」
1965年,思いがけないことにソビエト政府は特別な命令を出し,1949年から1951年にかけてシベリアへ流刑にされたエホバの証人を全員自由にしました。とはいえ,ほとんどの兄弟姉妹は,以前に住んでいた所に戻ることを許されませんでした。シベリアにとどまりたくなかった人たちは,宣教の必要が大きな地域へ移動することにしました。
マグダリーナ・ベロシツカヤはこう言います。「私たちはシベリアで15年近く流刑囚として暮らしました。冬には気温が摂氏マイナス60度に達することもあり,夏にはアブと蚊の大群がやって来て目の中にまで入るほどでした。あらゆる苦難を乗り越えることができたのは,エホバの助けがあったからです。そういう状況でしたが,極寒のシベリアの区域で真理の種をまくことができたのは,なんと素晴らしいことだったのでしょう。15年のあいだ毎月,私たちは管理官の事務所で,流刑地からの逃亡を試みないことを誓う書面にサインしました。管理官は時々家にやって来て,晩の時間を共に過ごしました。そういう時には特に親切で,聖書に関し,また聖書の教えに従って生活するには何が必要かについて,たくさんの質問をしました。迫害されるのが分かっているのに,なぜこういう生き方を選んだのかと尋ねられたものです。ある時,私たちは,流刑地から解放される見込みがあるかどうか聞いてみました。管理官は手のひらを見せて,『ここに毛が生える見込みがあると思うかね』と言いました。
「『いいえ』と私は答えました。
「『君たちが自由になる見込みも同じようなものだ』と管理官は言い,少し考えてからこう付け加えました。『もちろん,君たちの神が何らかの行動を取るか,奇跡でも起こせば別だがね』。
「1965年のある夏の日,私は手紙を出すために駅に行きました。遠くから私を見つけた管理官が大声で,『マグダリーナ,許可もなしにどこへ行くんだ』と言いました。
「『まだどこへも行ってませんよ。手紙を出しに来ただけです』と答えると,管理官は近づいてきて,『君は今日から自由だ。その時が来たんだよ』と言いました。それから,『神が君を自由にしたんだ』とでも言っているようなまなざしで私を見ました。とても信じられない気持ちでした。
「前に住んでいた場所以外なら,ソ連内のどこへでも行ってよいということでした。『各地に散って宣べ伝えよ。時は急を要し,待つことをしないゆえに,散ってゆけ』というエホバの声を聞いたかのようでした。もし元の家に戻る許可を与えられていたなら,私たちの多くは再び故郷の町に落ち着いていたことでしょう。しかし,そのような許可は与えられなかったので,皆が新しい土地に移動しました。私の家族はカフカス地方に住むことにしました」。
大勢の証人たちが,ソ連各地に散らばりました。その同じ年に,ある連邦会議において,一人の役人が困惑した様子でこう尋ねました。「ボランティアの若者たちによって造られたばかりの新しい町に,なぜエホバ派が住み着いたのか,だれか教えてくれませんか。まっさらな町だというのに,もうエホバ派がいるのです」。当局者たちは,エホバの証人をどう扱ったらよいのか全く分かりませんでした。地を「エホバについての知識」で満たすという神の約束の前に立ちはだかることは,だれにもできないのです。―イザ 11:9。
「あんたたちは“聖水”を持っている」
証人たちは伝道活動のゆえに懲罰収容所に送られました。そのような収容所で何年も過ごしたニコライ・カリババは,こう振り返ります。「すでに70人ほどの兄弟たちが収監されていた,イルクーツク州のビホレフカという村の懲罰収容所に,私を含む4人が送られました。そこには飲料に適した水がありませんでした。唯一の配水管は下水設備とつながっていたので,その水を飲むのは危険だったのです。食べ物も安全ではありませんでしたが,エホバが助けてくださいました。この収容所ではエホバの証人以外だれもまじめに働こうとしませんでした。やがて当局は私たちがよく働くことに気づき,他の収容所の敷地での仕事を割り当てたので,私たちはそこへ行った際に飲み水をバケツに汲んで持ち帰ることができました。多くの囚人が私たちのところへ来て,『あんたたちは“聖水”を持っていると聞いたんだが,せめてコップ半分くれないか』と言いました。もちろん私たちは水を分けてあげました。
「囚人の中には良い心を持つ人もいました。かつては盗みや他の犯罪に手を染めていた人たちが真理を学び,エホバの証人になったのです。他の人たちは真理に逆らっているようで,公然と私たちに反対しました。しかしある時,一人の話し手が収容所にやって来てエホバの証人を非難する講義を行なうと,反対していた人たちが私たちの弁護に回り,その講義には証人たちに対する中傷が含まれていると言いました」。
「グループで君たちのところへ来よう」
兄弟たちはエホバに知恵を求めつつ,自分たちの置かれた状況を利用してどのように王国の関心事を推し進めることができるか常に考えていました。ニコライはこう続けます。「私たちはモスクワからさほど遠くないモルドビニアの収容所に間もなく移されると聞きました。出発する前に,興味深いことが起きました。驚いたことに,何年かのあいだエホバの証人を見張っていた将校や刑務官が幾人か近づいてきて,こう言ったのです。『君たちの歌や,信じている事柄をもっと聞かせてほしい。10人から20人,もしかしたらそれ以上のグループで君たちのところへ来よう』。
「彼らは私たちや自分たちがどうなるか心配だったので,警備員を配置し,集まる場所を見張らせると言いました。私たちは,そういう面でもっと経験を積んでいるので自分たちの見張りも立てると言いました。彼らの側の警備員は,私たちと同じやり方で見張りをしました。兵士が,監視所から皆の集まっている場所まで,一定の間隔を置いて立ったのです。次の光景を想像できますか。証人の一団が将校や刑務官たちのグループを前に歌を歌い,それから一人の兄弟が聖書に基づく短い話を行ないました。まるでエホバの証人の王国会館にいるかのようでした。そのようにして,関心を持つ人たちのグループと何回か集まりを持ちました。エホバが私たちだけでなく,それら誠実な人々をも顧みておられることを実感しました。
ニコライはさらにこう言います。「私たちはこの収容所からモルドビニアの収容所へたくさんの雑誌を持って行きました。そこにも大勢の証人が入れられていました。私は兄弟たちから,側面が二重になっていて文書を隠せるスーツケースをもらい,検査の際にそれが必要以上に刑務官たちの注意を引かないよう,手を尽くしました。モルドビニアの収容所での検査はかなり徹底したものでした。一人の刑務官は私のスーツケースを持ち上げ,『これは重いな。お宝が入っているに違いない』と声を上げました。ところが,不意にスーツケースや他の物を横に置き,ほかの人たちの持ち物を検査し始めました。検査が終わると別の刑務官が,『自分の物を持って,さっさと行け!』と言いました。結局スーツケースは検査されなかったので,大いに必要とされていた新鮮な霊的食物をバラックに持ち込むことができました。
「それだけでなく,私は何度か手書きのパンフレットを自分のブーツに入れて運びました。足が大きいので,いつもブーツには何枚もの紙を入れる余地があったのです。私は中敷の下に紙を入れ,ブーツにグリースをたっぷり塗りました。グリースはぬるぬるしていて臭いもひどかったので,刑務官たちは近づこうともしませんでした」。
「刑務官は私たちを見張り,私は彼らを見張りました」
ニコライはこう続けます。「モルドビニアの収容所で,私は聖書文書の複写を見守るよう兄弟たちから任命されました。責任の一つは,文書を手で書き写している人たちが見つかる前に道具などを隠せるよう,刑務官たちを監視することでした。刑務官は私たちを見張り,私は彼らを見張りました。一部の刑務官は,私たちが作業しているところを捕まえようと,急にバラックに入ってくることがよくあったので,それらの刑務官を見張るのがいちばん大変でした。中には日に1回だけやってくる刑務官もおり,彼らは比較的寛容で私たちを困らせることはありませんでした。
「そのころ,私たちは安全な場所に隠しておいた原本から写しを作りました。ストーブの中に保管していた原本もあり,収容所の管理官の事務所のストーブにさえ入れてありました。管理官のために掃除をしていた兄弟たちがストーブの中に特別な隠し場所を作り,そこに『ものみの塔』誌の貴重な原本を何冊も入れておいたのです。刑務官たちがどれほど注意深く私たちを検査しても,原本はいつも管理官の事務所にあったので無事でした」。
兄弟たちは文書を巧みに隠せるようになりました。好まれた場所の一つは窓の下枠です。練り歯磨きのチューブに文書を隠した兄弟たちさえいます。原本のある場所を知っていた兄弟たちは二,三人だけでした。必要が生じると,一人が原本を取りに行き,手書きの写しを作ってから元に戻しました。こうして,原本は常に安全な場所に保管されていました。15日間の独房監禁に処される危険があったにもかかわらず,ほとんどの兄弟たちは複写の仕事を特権とみなしました。ビクトル・グットシュミットは,「私の場合,収容所にいた10年間のうち,3年ほどは独房に監禁されていたことになります」と述べています。
“クモの糸”「ものみの塔」
兄弟たちには,収容所当局がエホバの証人の聖書文書を捜して没収するための特別な制度を設けたように思えました。ひときわ熱心に検査を行なう将校もいました。イワン・クリムコはこう語ります。「ある時,モルドビニア第19収容所で,犬を連れた兵士たちが兄弟たちを収容所の敷地から連れ出し,徹底的な検査を行ないました。証人たちはそれぞれ服を脱がされ,足に巻いていたぼろきれさえ取られました。しかし,兄弟たちは足の裏に手書きのページを何枚か張りつけており,それは見つかりませんでした。さらに,指の間に挟める小さな小冊子も作っていました。看守たちが皆に手を上げるよう命じた時も,小冊子は指の間に挟まっていたので,それらも何冊かは無事でした」。
霊的食物を守る方法はほかにもありました。アレクセイ・ネポチャトフはこう言います。「ある兄弟たちは,“クモの糸”文字と呼んでいたものを書くことができました。ペン先を非常に細くとがらせて,方眼紙のノートの各行に3行か4行書き込んだのです。この細く小さい字で書かれた『ものみの塔』誌は,マッチ箱に5冊か6冊入れることができました。そのような細い字を書くには,優れた視力とかなりの集中力が必要でした。消灯時間が過ぎ,皆が眠りに就くと,それらの兄弟たちは毛布の下で作業をしました。明かりと言えば,バラックの入口にあった消えそうな電球の光だけでした。この作業を数か月続けると,目がすっかり悪くなりました。看守に気づかれることもあり,好意的な看守からは,『まだ書いているのか。一体いつ寝るんだ』と言われたものです」。
クリムコ兄弟は当時を思い出してこう言います。「ある時,たくさんの文書や聖書さえも失ってしまいました。それらはすべて一人の兄弟の義足に隠してあったのです。看守たちは無理やり兄弟に義足を外させると,それを粉々に壊しました。そして散らばったページの写真を撮り,収容所の新聞に載せました。それでもこの出来事は,エホバの証人が専ら宗教活動に携わっていることを再度多くの人に示したので,役に立ったと言えます。文書が発見された後,収容所の管理官はほくそえみ,『ハルマゲドンが来たようだな』と兄弟たちに言いました。ところがその翌日には,エホバの証人はいつもどおり集まり,歌を歌い,文書を読んでいるということが管理官に報告されました」。
検事総長との会話
1961年の終わりごろ,ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の検事総長が,モルドビニアの収容所へ視察に訪れました。検事総長は収容所内を歩いて回り,証人たちがいるバラックに入ってきて,幾らか質問することを兄弟たちに許可しました。ビクトル・グットシュミットはその時のことをこう話します。「『エホバの証人の宗教はソビエト社会にとって危険なものだと思いますか』と,私は尋ねました。
「『いや,わたしはそうは思わない』と検事総長は答えましたが,話を続けるうちに何げなくこう言いました。『1959年だけでも,イルクーツク州には,証人たちに対処するための予算として500万ルーブルが割り振られた』。
「つまり,検事総長の言葉から分かるのは,当局は私たちについてよく理解していたということです。エホバの証人の実態を明らかにすべく,行刑のための国家資金の中から500万ルーブルも費やしたからです。それは莫大な金額でした。当時,5,000ルーブルあれば,いい車や快適な家が買えました。モスクワの当局者たちは,エホバの証人が危険な存在ではないということを十分承知していたはずです。
「検事総長はこう続けました。『もし我々がソビエトの人々にエホバの証人を好きなようにしてよいと告げたら,彼らはお前たちを根絶やしにするだろう』。ソビエト社会は証人たちに対して否定的だと言いたかったのです。こうした言葉から,大勢の人々が無神論やイデオロギーを広めるプロパガンダの影響を受けていたことは明らかでした。
「それから私たちは,『エホバの証人がモスクワからウラジオストクまで各地で大会を開く時が来れば,実際にはどうなのかが分かりますよ』と答えました。
「『50万人ほどはお前たちの側につくかもしれないが,それ以外はみな我々の側だ』と,検事総長は言いました。
「検事総長との会話は,その言葉で終わりました。検事総長の予想はやや少なかったようです。今日,旧ソ連の国々の領土全体で,70万を超える人々がエホバの証人の集会に出席しています。そこで人々はプロパガンダの代わりに,聖書の真理の清い言葉に耳を傾けているのです」。
『君たちが造ったのは証人たちのための保養所だ』
ビクトルはこう続けます。「収容所の管理者たちは検事総長に,証人たちが植えた花や木をすべて見せました。また,バラックに置いてある,証人たちに差し入れられた荷物を見せ,だれもそれを盗まないことを説明しました。検事総長は自分が目にしたものに驚きを隠せない様子でした。しかし,あとから知ったことですが,検事総長は収容所の管理者たちに花や木をみな取り除くよう命じたのです。『君たちが造ったのは労働収容所ではなく,証人たちのための保養所だ』と,管理官に言ったようです。さらに検事総長は証人たちへの差し入れを禁じ,私たちが余分の食物を買うことを許されていた売店を閉めさせました。
「ところが,うれしいことに,管理官は命令をすべて実行したわけではありませんでした。例えば,姉妹たちは引き続き花を育てることを許されました。秋には花を摘んで大きな花束を作り,収容所の職員やその子どもたちに贈りました。子どもたちが門番小屋のところで親に会い,花を受け取って,うれしそうな顔で学校の方へ駆けて行く様子を見るのは,特にほほえましいことでした。子どもたちはエホバの証人が大好きだったのです」。
ビクトルは次のことも思い出します。「1964年初頭のある日,実の兄弟がKGBで働いている一人の刑務官から,エホバの証人に対する大規模な作戦が政府によって計画されていることを聞きました。しかし,その年の後半に突然ニキータ・フルシチョフが国の最高指導者としての地位を剥奪され,迫害の波が弱まったのです」。
重警備の収容所で王国の歌
1960年代,モルドビニアのある重警備の収容所では,囚人たちは差し入れを受け取ることを年に一度しか許されず,それも“特別な施し”としてでした。検査は絶えず行なわれ,聖句が書かれた紙切れを持っているのを見つけられた人は10日間の独房監禁に処されました。さらに,ここの囚人たちに与えられる食物は,他の収容所と比べてわずかでした。重警備の収容所では労働もほかよりきつく,証人たちは大木の切り株を掘り起こす仕事をさせられました。アレクセイ・ネポチャトフはこう言います。「私たちはしばしば,疲れ果てて倒れる寸前でした。それでも気をしっかり保ち,あきらめませんでした。兄弟たちが意気を高めた方法の一つは,王国の歌を歌うことです。私たちは男声コーラスを組み,幾つかの部に分かれて歌いましたが,それは女性の声がなくても言葉で表わせないほど美しいものでした。その歌は証人たちだけでなく将校たちをも元気づけたので,彼らは兄弟たちに労働時間中に歌うよう言いました。ある時,私たちが木を切り倒していると,護衛隊の隊長がやって来て,『何曲か歌を歌え。師団の司令官がご所望だ』と言いました。
「その司令官は,兄弟たちが王国の歌を歌うのを何度も聞いていたのです。私たちは疲れ果てる寸前だったので,その命令はちょうどよい時に伝えられました。私たちは喜んで歌声によってエホバの栄光をたたえ始めました。収容所で歌うと,たいてい将校たちの妻が近くの家々から出てきてポーチのところに立ち,長いあいだ聴き入っていました。古い歌の本にあった,『地は栄光を帰せよ』という6番の歌が特に気に入っていたようです。その歌は良い言葉に満ちていて,旋律もきれいでした」。
“別世界”に来た人
全く予想外の状況においても,エホバの証人がどのような人々であるかは明らかでした。ビクトル・グットシュミットはこう語ります。「一週間の仕事が終わったある日,庭で座っていると,高価な電気器具が私たちのいた収容所に運び込まれました。配達を行なった運転手はエホバの証人ではありませんでしたが,私たちと同じ収容所の囚人で,一緒にいた購買部長は別の収容所の人でした。倉庫は閉まっており,管理人は休暇でいなかったので,証人たちが品物の受け取りと荷下ろしを頼まれました。
「私たちは荷物を下ろし,兄弟たちの住んでいたバラックの近くにあった倉庫の隣に積み上げました。購買部長は,それが正規の配達方法とは違い,受領書に倉庫の管理人のサインをもらっていないことがとても不安だったようです。運転手は安心させようとこう言いました。『心配しなくても大丈夫ですよ。この人たちは何も取ったりしません。“別世界”に来たようなものです。この収容所の外で起きるようなことは見られません。ここでは腕時計を外してどこかに置いても,次の日にその場所に戻れば見つかります』。それでも購買部長は,50万ルーブル相当の品物をサインももらわずに置いていくことはできないと言って譲りませんでした。
「間もなく収容所の管理者たちがやって来て,トラックを動かして出て行くよう命じました。そのうちの一人が,受領書を置いていって次の日に取りに来るようにと言ったため,購買部長はしぶしぶ去りました。彼は翌朝戻ってきて,受領書にサインをもらうために収容所に入れてほしいと頼みましたが,門番からサイン済みのものを手渡されました。
「あとから門番に聞いたことですが,購買部長はなかなかその場を去ろうとしなかったようです。30分ほど立ったまま門と書類を交互に眺め,帰りかけてはまた振り向いてしばらく眺めていたとのことでした。そのような経験をしたのは生まれて初めてだったのでしょう。自分がいないのに高価な品物が無事に届けられ,受領書にサインがなされ,すべてのことが正直に行なわれたのです。しかし,最も興味深いのは,これが“極めて危険な犯罪者”というレッテルを張られた囚人たちが服役していた重警備の強制労働収容所で生じたということです。どれほど証人たちを誹謗するプロパガンダが広められても,同じような出来事が起きるたびに,それを見たすべての人はエホバの証人が実際にはどのような人々かをはっきり理解できたのです」。
「彼らはまた伝道していますよ」
1960年,兄弟たちがモルドビニア第1収容所に入れられてから数日後に,100人余りの証人が選ばれて第10収容所に移されました。そこは近くのウダルヌイという村にあった特別な収容所で,エホバの証人に再教育を施すための“実験的な”施設でした。そこの囚人たちは,ナチスの強制収容所で使われていたような縞の囚人服を着せられました。証人たちは他の仕事に加えて,森で大木の切り株を掘り起こさなければなりませんでした。ノルマは各自一日に最低11株か12株でしたが,一団の兄弟たちが一日じゅう働いても巨大なオークの切り株一つを掘り起こせないこともありました。兄弟たちは励まし合うためによく王国の歌を歌いました。それを聞いた収容所の管理官は時々,「今日はお前ら証人どもは夕食抜きだ。それに懲りたら二度と歌うな。しっかり働くことを教えてやる!」と怒鳴りました。この収容所にいた一人の兄弟はこう振り返ります。「それでもエホバが支えてくださいました。困難な状況ではありましたが,私たちは霊的に目覚めていました。宇宙主権の論争においてエホバの側に立っているという積極的な考えにより,いつも自分たちを元気づけるようにしました」。―箴 27:11。
収容所にいた幾人かの“教官”のほかに,各監房を受け持つ教育係がいました。それは大尉以上の将校で,証人たちに信仰を捨てさせることを目指していました。だれでも屈服して信仰を捨てれば釈放されることになっていました。毎月,教育係は各証人の素行に関する報告を書き,収容所の職員数名がそれに署名しました。ところが,どの証人についても,決まって「再教育による変化は見られず,かたくなに信念を守っている」と書かなければなりませんでした。イワン・クリムコはこう述べています。「私は10年のうち6年をこの収容所で過ごし,他の兄弟たちと共に“極めて危険な再犯者”として類別されました。将校たちから聞いたのですが,当局はエホバの証人の振る舞いを観察するために,わざと私たちを非常に過酷な環境に置いたのです」。
この収容所に5年いたイオフ・アンドロニクはある時,収容所の司令官に,「わたしたちはいつまでここにいるのでしょうか」と尋ねました。司令官は森を指さし,「お前たちが一人残らずあそこに埋められるまでだ」と答えました。イオフはこう言います。「私たちは伝道できないように,他の人から引き離されていました。いつも注意深く見張られていて,だれか一人でも収容所の他の場所に行く必要が生じた時には,常に刑務官が同行しました。数年して警備が緩やかな収容所に移された時,証人ではない一部の囚人が収容所当局に対して,『エホバの証人の勝ちですね。あなたたちが孤立させていたのに,彼らはまた伝道していますよ』と言いました」。
将校が自分の聖書に気づく
第10収容所に文書を持ち込むことは極めて難しく,聖書はなおのことそうでした。兄弟たちにとって,収容所に聖書を持ち込むことはほとんど不可能に思えました。しかし,この収容所に何年かいた一人の兄弟はこう言います。「エホバにとって不可能なことは何もありません。神は私たちの祈りを聞いてくださいました。収容所にいる100人の証人たちのために少なくとも1冊の聖書を願い求めたのですが,結局2冊も手に入ったのです」。(マタ 19:26)どのように入手したのでしょうか。
ある大佐が,収容所の教官として働くよう任じられました。しかし,聖書の知識を全く持たない人が,どのように証人たちを“教育”するのでしょうか。大佐は何とかしてぼろぼろの聖書を手に入れ,休暇で留守にする前に年配のバプテスト派の囚人にそれを装丁し直すよう頼みました。刑務官たちには,その聖書を没収しないようにと指示しました。バプテスト派の囚人は聖書を受け取ったことを証人たちに自慢し,見たければ貸してもいいと言いました。兄弟たちはその貴重な宝を手にすると,急いで縫い目を解いてばらばらにし,書き写すために証人の囚人全員にページの束を配りました。続く数日の間,証人たちの監房はどこも,いわば写本の作業場と化しました。手作業で各ページの写しを2枚ずつ作ったのです。一人の兄弟はこう思い起こします。「すべてのページが集められると,聖書は全部で3冊になりました。大佐は装丁し直された聖書を受け取り,私たちも2冊手に入れたのです。1冊は読むのに使い,もう1冊は“金庫”つまり高圧電線の通っていたダクトの中に入れておきました。私たちはそこに特別な保管場所を設けていました。刑務官たちはそれらのダクトに近寄ることさえ恐れていて,だれもそこを捜さなかったからです。高い電圧が,私たちの図書を守る頼もしい警備員のようでした」。
ところが,ある検査の際,大佐は手で書き写された聖書のページを見つけました。何が行なわれたのかに気づいた時,大佐はがく然とし,「これはわたしが自分で収容所に持ち込んだ聖書の一部ではないか!」と叫びました。
記念式を祝う
兄弟たちは毎年,収容所で記念式を祝う努力を払いました。モルドビニアのある収容所では,収監されていた何年もの間,記念式に出席できなかった兄弟は一人もいませんでした。収容所当局は当然,式を阻止しようとしました。記念式の日付を知っていたので,その日にはたいてい収容所の部隊を総動員して厳戒態勢をしいたのです。しかし,だれも記念式が行なわれる場所や正確な時間を知らなかったため,日が暮れるころにはほとんどの看守が兄弟たちをじっと見張るのに疲れてしまいました。
兄弟たちはいつもぶどう酒と無酵母パンを手に入れるよう努めました。ある時,記念式の当日に監視に当たっていた看守の一隊が,引き出しに入っていた表象物を見つけて没収しました。後刻,看守たちが別の隊と交替してから,部隊長の事務所を掃除していた兄弟が見つからないように表象物を取り戻し,他の兄弟たちに渡すことができました。その晩,兄弟たちは3交替目の看守たちが監視している間に,表象物を用いて記念式を祝いました。あずかる兄弟が一人いたため,表象物はなおのこと必要でした。
女子収容所で記念式を祝う
他の収容所でも同様の問題がありました。バレンチーナ・ガルノフスカヤは,ケメロボの女子収容所で記念式を祝うのが非常に困難だったことを覚えていて,こう語ります。「その収容所には姉妹たちが180人ほどいました。私たちは集まることを禁じられていて,10年の間に記念式を祝えたのは2回だけでした。ある時,私が掃除を任されていた事務所で記念式を行なうことにしました。姉妹たちは式が始まる数時間前からひそかに少しずつ集まり,約80人が出席できました。机の上に,無酵母パンと赤ぶどう酒を置きました。
「私たちは歌を歌わないで始めることにし,一人の姉妹が開会の祈りをささげ,すべてがふさわしい仕方で喜びのうちに始まりました。ところが,不意に物音や怒鳴り声が聞こえてきて,刑務官が私たちを捜していることに気づきました。突然,かなり高い所にある窓からのぞく部隊長の顔が見え,同時にドアをたたく大きな音がして,開けるようにとだれかが命じました。そして刑務官たちが押し入り,話を行なっていた姉妹を荒々しく捕らえて独房へと連れ去りました。別の姉妹が勇敢にも代わりに話を続けようとしましたが,彼女も捕らえられてしまいました。それでもすぐに3人目の姉妹が続きを話そうとしたので,刑務官たちは独房に入れるぞと脅しながら私たち全員を別の部屋に追いやりました。そこで私たちは歌を歌い,閉会の祈りをささげて記念式を終えました。
「バラックに戻ると,他の囚人たちが私たちを出迎えてこう言いました。『あなたたちがみな突然いなくなったから,ハルマゲドンが来たのかと思ったわ。あなたたちは神によって天に召され,わたしたちはここで滅びてしまうんだと話してたの』。それらの囚人はすでに何年か私たちと一緒にいましたが,真理を受け入れていませんでした。しかし,この出来事の後,耳を傾けるようになった人もいました」。
『私たちは身を寄せ合いました』
ボルクタのある収容所には,ウクライナ,モルドバ,バルト諸国,またソ連の他の共和国から来た証人たちが大勢いました。イワン・クリムコは当時を思い起こしてこう語ります。「1948年の冬のことです。聖書文書はありませんでしたが,私たちは古い雑誌から思い出したことを小さな紙に書き,刑務官たちから隠しました。しかし,彼らは私たちがそうした紙を持っていることを知っており,長時間の厳しい検査を度々行ないました。冬の寒い日に,私たちは外に出されて5人一列に並んで立つよう言われ,繰り返し数えられることがよくありました。刑務官たちは,私たちが凍えるような寒さの中で立ち続けるよりも紙を手渡すことを選ぶだろうと考えたようです。何度も何度も数えられている間,私たちは身を寄せ合い,聖書について話し合いました。思いはいつも霊的な事柄で満たされており,忠誠を保てるようエホバが助けてくださいました。しばらくして,兄弟たちは収容所に聖書を持ち込むことさえできました。私たちはそれを幾つかに分け,検査の際に一冊丸ごと没収されないようにしました。
「一部の看守は,エホバの証人は収容所に入れられるような人たちではないということを理解していました。それらの親切な人たちは,できる限り私たちを助けてくれました。例えば,私たちのだれかに差し入れが届いた時に“目をつぶって”くれたのです。差し入れには大抵,『ものみの塔』誌が一,二ページ隠されていました。わずか数グラムの重さしかないそれらの紙片は,何キロもの食料品より貴重でした。証人たちはどの収容所でも身体的には常に乏しい状態でしたが,霊的にはとても豊かだったのです」。―イザ 65:13,14。
「やつはそれを50等分するだろう」
兄弟たちは毎週,真理に関心を示した人たちとの聖書研究を司会しました。幾人かの囚人は,バラックで午後7時から聖書研究が行なわれていることを知り,なるべく静かにするようにしました。聖書に関心がない人たちでさえそうしたのです。イオフ・アンドロニクはこう言います。「エホバが私たちを顧みて,ご自分の業を推し進めておられることは明らかでした。私たちは聖書の原則を当てはめ,クリスチャン愛を示し合うようにも努力しました。例えば,収容所ではとても珍しいことでしたが,差し入れとして届いた食べ物を分け合うようにしたのです。
「ミコラ・ピャトカは,ある収容所で兄弟たちに届いた食べ物の分配役をしていました。KGBの係官が,『ミコラに1個のキャンデーを渡しても,やつはそれを50等分するだろう』と言ったことがあります。兄弟たちはまさにそのようだったのです。文字どおりの食べ物であれ,霊的食物であれ,収容所に届けられた物はすべて分け合いました。そのことは私たちを助け,真理にこたえ応じる誠実な人たちへの良い証言ともなりました」。―マタ 28:19,20。ヨハ 13:34,35。
良い振る舞いに対するボーナス
ある収容所では,エホバの証人とじかに接する職員が,給料の最大30%に相当するボーナスを受け取りました。なぜでしょうか。ビクトル・グットシュミットはこう説明します。「以前に収容所で出納係をしていた女性から聞いたのですが,兄弟たちが大勢いた収容所では,職員たちはかんしゃくを起こしたり悪態をついたりしないように,また常に気を利かせて礼儀正しくするように言われていたそうです。そのような良い振る舞いをすれば,給料を増やしてもらえました。これは,エホバの証人だけが立派な生き方をしているわけではなく,他の人と何も違わないということを皆に示すために行なわれたのです。それで,職員たちは良い振る舞いに対して支払いを受けました。収容所ではたくさんの人が働いていて,医療関係者,作業員,会計係,刑務官など,合計100人ほどいました。だれも,お金を余分にもらえるチャンスを逃したいとは思いませんでした。
「ある日,収容所の外で働いていた一人の兄弟は,作業隊の隊長が大声で悪態をついているのを耳にしました。翌日,兄弟は収容所内でその隊長に会い,『監視所でだれかがあなたをかなり怒らせたみたいですね。罵声が聞こえましたよ』と言いました。すると隊長は,『そうじゃない。ただ,一日の間にどんどんストレスがたまってな。だから収容所の外に出てうっぷんを晴らしていたんだ』と白状しました。実際,エホバの証人と同じように振る舞うことは,人々にとって重荷だったのです」。
ガラスの後ろで宣べ伝える
兄弟たちは他の人に証言する機会をとらえ,時にその努力は豊かに報われました。ニコライ・グツリャクはある出来事についてこう話します。「私たちは度々,収容所の売店で食料品を買いました。私は自分が買いに行く番になると,毎回聖書について何か少し話すようにしました。食べ物を渡してくれた女性はいつもよく耳を傾け,ある時,何か読んでくれるようにと私に頼みました。その三日後,私は一人の将校に門のところへ呼ばれ,もう一人の証人と一緒に収容所の司令官の家の窓にガラスを取り付けるよう言われました。
「私ともう一人の兄弟は,兵士たちに付き添われて町へと出かけました。家に着くと,ドアを開けたのは売店で働いている女性でした。なんと収容所の司令官の奥さんだったのです。一人の兵士が家の中に立ち,二人は外に出て,通りに面する窓の横に立ちました。奥さんはお茶を振る舞ってくださり,聖書についてもっと教えてほしいと言いました。その日,私たちは窓にガラスを取り付けながら,詳しい証言を行ないました。会話が終わると奥さんは,『わたしを怖がらなくてもいいのよ。わたしの親はあなたたちのように神を信じていたの』と言いました。エホバの証人をひどく嫌っていた夫の知らないところで,こっそり私たちの文書を読んでいたのです」。
『職場に戻りなさい』
権威者の中には,好意的な見方を持ち,エホバの証人を弁護する人もいました。1970年代にイルクーツク州のブラーツクで,地元の製材所の共産党事務局が,エホバの証人の従業員を全員解雇することに決めました。兄弟たちは,「君たちはソビエト当局が嫌いなようだから,当局も君たちの世話はしない。君たちの好きなエホバに世話をしてもらいなさい」と言われました。解雇された兄弟たちは,今行なえるいちばん良いことは公の伝道だと考え,家から家へ宣べ伝え始めました。ある時,ドアを開けた女性に自己紹介をし,訪問の目的を手短に説明すると,台所から,「だれと話しているんだい。中に入ってもらいなさい」という男性の声がしました。家に入ると,男性が「今日は仕事日だろう。なぜ仕事をしていないのかね」と尋ねたので,兄弟たちは失業したいきさつを説明しました。
実はこの男性は検察官で,昼食のために家に戻っていたところでした。男性は話を聞いて憤慨し,製材所に電話をかけて,事務局が本当にエホバの証人を全員解雇したのか確かめました。それが事実だと知ると,検察官は電話の相手に続けてこう言いました。「どんな根拠に基づいてそうしたのかね。法律を破ったことが分からないのか。君たちにそんなことをする権利はない。証人たちを全員仕事に戻し,その決定のせいで働けなかった3か月分の補償金を支払うことを命じる」。検察官は受話器を置いて兄弟たちの方を向き,「明日は職場に戻って,仕事を続けなさい」と告げました。
「わたしは1947年から文書を隠してきました」
1970年代になるころには,兄弟たちは文書を生産し,分配し,隠すことに熟達していました。しかし,機転を利かせなければならない状況が生じることもありました。グリゴリー・シブルスキーは,一つの出来事についてこう語ります。「1976年のある日,我が家は家宅捜索を受けました。その前の晩,私はうっかり整理だんすの下に,野外奉仕報告や兄弟たちの住所録を置いていました。捜索を始めたKGBは,どこで何を捜せばよいかがはっきり分かっているかのように,とても自信ありげでした。一人のKGB捜査官が,『長いすをばらすからペンチとドライバーを持ってこい』と言ったので,私は祈ってから落ち着いてこう答えました。
「『もしあなた方が,他の証人の家を捜索した時のように突然来ていたなら,ここで何か見つけていたことでしょう。でも今日はもう手後れです。何も見つかりませんよ』。
「『我々が何を見つけていたと言うんだ』と,捜査官は尋ねました。
「『「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌です。でも今日は何も見つかりませんよ』。
「道具を差し出しながら,私はさらに,『捜索が終わったら,長いすはちゃんと元どおりに戻してもらいますよ』と言いました。
「男たちは一瞬ためらって手を止めました。彼らの迷いを察した私は,一人の若い男性に向かってこう言いました。『たぶんあなたは,エホバの証人の文書を捜し始めてせいぜい3年ほどでしょう。でもわたしは1947年から文書を隠してきました。ここを捜しても時間の無駄ですよ。文書は安全な場所にあります』。
「驚いたことに,彼らは行ってしまいました。奉仕報告や兄弟たちの住所録はとても見つけやすい所にあったので,だれでも簡単に捜し当てることができたでしょう」。
ペレストロイカ ― 変化の時
1985年に発表されたペレストロイカは,期待された結果をすぐにはもたらしませんでした。地域によっては,証人たちは依然として有罪判決を受け,刑務所に送られていました。それでも,1988年にドイツ支部は世界本部にあてて次のような手紙を書きました。「奉仕年度の初めに示唆されたことですが,当局は[ソ連の兄弟たち]が地元で登録を行なうなら,集会やおそらく文書に関してもさらに幾らかの自由を与える意思があるようです。兄弟たちはほとんどの場所で妨害されずに記念式を祝うことができました。自分たちに対する当局の態度が大幅に変化したことを感じています」。
やがて,任命された兄弟たちが,霊的食物の入った小包を郵便で受け取ることを引き受けた兄弟たちの住所を,ドイツ支部に提出します。それらの兄弟は文書を長老たちに渡し,長老たちはすべての人が確実に霊的な益を受けられるようにするのです。1990年2月にはそうした住所が約1,600件になり,月に一度,霊的食物が個人あてに郵送されていました。
1989年,ソ連の数千人の証人たちが,ポーランドで開かれた特別大会に出席することができました。ナベレジヌイエ・チェルヌイという都市に住むエフドキアという証人は,その大会についてこう話します。「初めての本格的な大会に出席できるよう,私たちはエホバに熱烈に祈りました。勤めていた会社の重役は,私が国外に行きたいことを告げると,『何だって? 君はテレビを見ないのか。国境は封鎖されていて,だれも通れないんだぞ』とあきれたように言いました。
「私は確信をこめて『国境は開かれます』と答え,実際そのとおりになりました。ブレストの検問所で,エホバの証人だけが通ることを許されました。私たちは検査もされず,皆が丁重に扱われました。エホバの証人ではないある人が,大会出席者のふりをして私たちと一緒に通り抜けようとしましたが,出入国管理官たちはすぐに気づいてその人を拘束しました。どうして分かったのでしょうか。大会出席者たちは皆,満面に笑みを浮かべており,小さなかばんしか持っていなかったのです」。
モスクワで温かく歓迎される
1949年にエホバの証人がモスクワで活動の登録を申請してから,40年が経過していました。当時,兄弟たちは良心上,スターリンの政府の要求に応じることができませんでした。しかし,1990年2月26日,モスクワの宗務委員会の委員長がエホバの証人の代表団を迎え,さらに2人の副委員長と他の3人の委員が会議に出席しました。エホバの証人の代表団を構成していたのは15人で,ロシアおよびソ連の他の共和国から来た11人の兄弟たちと,ブルックリンから来たミルトン・ヘンシェルとセオドア・ジャラズ,またドイツ支部のウィリー・ポールとニキータ・カールストレムでした。
会議は,委員長の次の言葉をもって始まりました。「エホバの証人の皆さんとお会いできて大変うれしく思います。かねてから皆さんについて多くのことを聞いていましたが,お会いするのは初めてです。私たちはグラスノスチ(公開)の精神で話し合いに応じる所存です」。兄弟たちがソ連におけるエホバの証人の活動を登録したい旨を伝えると,委員長はこう続けました。「それをお聞きできて良かったです。時期も適切だと言えます。間もなく春が来て,作付けの季節になりますから,実りある良い結果が期待できるでしょう」。
委員長が兄弟たちに自己紹介を求めた時,エホバの証人がカリーニングラードから極東地方に至るまで国じゅうにいることは一目瞭然でした。一人の巡回監督は,「私はイルクーツク州の四つの会衆を代表しています。しかし,極東地方,ハバロフスク地方とクラスノヤルスク地方,またノボシビルスク州とオムスク州も受け持っています」と言いました。すると委員長は,「とても広大な区域ですね。多くの国よりも広いではありませんか」と,驚きの声を上げました。
副委員長の一人はこう言いました。「私たちは皆さんの信条についてもっとよく知る必要があります。理解できないところもあるからです。例えば皆さんのある本には,神が地を清めて今日の諸政府をすべて取り除くと書かれています。この意味がよく分かりません」。ポール兄弟がこう答えました。「エホバの証人は,いかなる暴力行為にも携わりません。本にそのように書かれている場合,それは特定の聖書預言に注意を向けているのです。エホバの証人は神の王国と,地上の楽園における永遠の命について宣べ伝えます」。
「そのことには何の問題もありません」と,副委員長は言いました。
話し合いの結びに,委員長は次の言葉を述べました。「皆さんとお会いできてとても良かったと思います。早々に登録がなされることでしょう」。
1991年3月,ロシアのエホバの証人は正式に認可されました。当時,ロシアの人口は1億5,000万人を超えており,報告された王国宣明者の数は1万5,987人でした。今やロシアの兄弟姉妹たちは,エホバからの教えをさらに必要としていました。―マタ 24:45; 28:19,20。
「なんという喜び,なんという自由でしょう」
フィンランドはロシアに近いため,統治体はフィンランド支部に,1992年6月26日から28日にかけてロシアのサンクトペテルブルクで開かれる国際大会の準備を手伝うよう要請しました。兄弟たちは,50年以上も禁令下で生活した後,自由に大会が開けることについてどう感じたでしょうか。一人の兄弟はこう振り返ります。「スタジアムには何万人も集まっていました。涙がとめどなく流れました。なんという喜び,なんという自由でしょう。この事物の体制下でこんな自由を経験できるようになるとは,夢にも思っていませんでした。しかし,エホバがそのことを可能にしてくださったのです。私たちは,高いフェンスに囲まれた収容所の隔離監房で5人が横になり,4人で1人を温めることを交替で行なったのを思い出しました。スタジアムは高い塀に囲まれていましたが,できるだけ長くそこにいたいと思いました。その時の気持ちは言葉では表わせません。
「大会中ずっと,私たちの目は涙で濡れていました。そのような奇跡を目にした喜びで泣いていたのです。私たちはすでに70歳を超えていましたが,羽が生えたかのようにスタジアムを飛び回りました。50年のあいだ待ちこがれていた自由です。最初エホバは私たちがシベリアへ流刑にされるのをお許しになり,それから私たちは刑務所や収容所に入れられました。しかし,今やスタジアムにいるのです。エホバはだれよりも強力な方です。私たちは顔を見合わせてはむせび泣きました。だれもこれが現実に起きているとは信じられませんでした。幾人かの若い兄弟たちに囲まれ,『大丈夫ですか。何かあったんですか』と聞かれましたが,泣いていたので答えられませんでした。でも一人がやっとのことで,『うれしくて泣いているんですよ』と言いました。私たちは若い人に,長年のあいだ禁令下でどのようにエホバに仕えたかを話しました。エホバが何もかも急に変えられたことが,とても信じられない思いでした」。
その印象的な大会の後,フィンランド支部は,15人の特別開拓者をロシアへ派遣するよう依頼されました。1992年7月1日に,フィンランド出身の熱心な夫婦,ハンヌ・タンニネンと妻のエイヤが,任命地のサンクトペテルブルクに到着しました。当初,最大の課題は言語の習得でした。二人は初めて言語の授業を受けた後,すぐ奉仕に出かけて人々に家庭聖書研究を勧めました。ハンヌは当時についてこう話します。「1990年代の初期には,市内のほとんどの人が聖書を学びたがりました。街路伝道をしても,人々は喜んで住所を教えてくれました。だれもが文書を欲しがり,街路でだれか一人に雑誌かパンフレットを渡すと,それを見た他の10人が来て文書を求めるという具合でした。人々は文書を受け取っただけでなく,多くの場合すぐに街路や地下鉄で読み始めました」。
1992年10月以降,ポーランドからも多くの特別開拓者がやって来ました。最初のグループには独身の姉妹たちも何人か含まれていました。間もなく2番目のグループがポーランドから到着してサンクトペテルブルクに遣わされ,1年後にはポーランド人の開拓者の一団がモスクワに送られます。続く年月の間に,ポーランドの170人余りの自発的な働き人 ― 主に宣教訓練学校(MTS)の卒業生 ― が,ロシアで奉仕するよう任命されました。
活動に通ずる大きな戸口
サンクトペテルブルクで国際大会が開かれた後,統治体はその都市に近いソーネチノイェという村に適当な地所 ― 古い建物が幾つか残っていた7ヘクタールの土地 ― を購入する許可を兄弟たちに与えました。ロシアにベテルを建てる時が来たのです。建設プロジェクトの援助がフィンランド支部に要請されました。1992年9月,最初の自発奉仕者の一団がフィンランドからソーネチノイェにやって来ます。そのうちの一人で,後に支部委員になったアウリス・ベルグダルはこう言います。「妻のエバ・リサと私は喜んで招待に応じ,ロシアにベテルを建てるのを手伝いました。エホバがその業を導いておられることは明らかでした。世界中の兄弟たちがプロジェクトを支えていました」。
建設の監督としてフィンランドから来たアルフ・セーデルロフと,妻のマルヤ-レーナは,建設現場で働いたすべての兄弟たちを鼓舞しました。フィンランドの支部委員たちも多くの励ましを与えました。建設が行なわれている間,ブルックリンの世界本部から来た兄弟たちがソーネチノイェを訪れました。アウリスはその時のことをこう話します。「1993年,ミルトン・ヘンシェル兄弟が,モスクワで開かれた国際大会の後に私たちを訪ねてくださいました。兄弟は現場で自発奉仕者たちに対して行なった話により,また個人的な会話を通して,皆を大いに励ましました」。
スカンディナビア,ヨーロッパ,アメリカ,オーストラリア,ロシア,そして他の旧ソ連の共和国から来た約700人の自発奉仕者が,ベテルの建設に携わりました。様々な文化や背景を持ち,仕事のやり方も異なっていましたが,業は成し遂げられました。ゼカリヤ 4章6節の言葉のとおりです。「『軍勢によらず,力にもよらず,ただわたしの霊による』と,万軍のエホバは言った」。確かにエホバがこの「家」を建てておられたのです。(詩 127:1)ロシアの兄弟たちは,王国の業のために進んで自らをささげました。大半は若くて真理に新しい人たちでしたが,すでに開拓奉仕を始めている人がたくさんいました。速くて質の高い建設を行なう方法や,神権組織に関係する事柄の扱い方を学ぶ面で,皆が意欲的でした。
業を組織する
1993年の終わりごろ,ロシアの国内委員会を構成する兄弟たちがソーネチノイェに到着しました。招かれたのは,イワン・パシュコフスキー,ドミトリー・リビー,ワシーリー・カーリン,アレクセイ・ベルジュビツキー,アナトリー・プリビトコフ,ドミトリー・フェドゥニシンでした。1年ほどして,ミハイル・サビツキーも加わりました。統治体は,兄弟たちが業を組織するのを助ける仕事を,ドイツ支部のホルスト・ヘンシェルに割り当てました。
まず組織する必要があったものの一つは,旅行する奉仕です。当初,国内に五つの巡回区が設けられました。サンクトペテルブルクに二つ,そしてモスクワとその周辺地域に三つです。最初に全時間の巡回監督として奉仕した5人は,モスクワに遣わされたアルトゥール・バウアー,パベル・ブガイスキー,ロイ・エスター,そしてサンクトペテルブルクに遣わされたクシシュトフ・ポプワフスキーとハンヌ・タンニネンでした。後に,ローマン・スキバも巡回監督として任命されます。1992年にMTSを卒業した米国のマシュー・ケリーは,時おり地域監督として奉仕する割り当てを受けました。
ハンヌ・タンニネンは,初期の巡回訪問が1990年代の初めごろどのように行なわれたかについてこう語ります。「私は,カレリアのペトロザボーツクにある会衆に,近く行なわれる訪問に関する手紙を送りました。その週に集会をどのように開くべきかを説明したものでした。妻と私が到着すると,駅まで迎えに来た一人の長老が自分の家に連れて行ってくれました。長老は私に手紙を見せて,こう言いました。『この手紙をいただきましたが,意味がさっぱり分からなかったので,兄弟が来て全部説明してくださるまで何もせずに待つことにしたんです』。
「巡回訪問で初めてムルマンスクへ行った時,385人の伝道者が1,000件を超える聖書研究を司会していました。しかし,多くの研究が関心のある人たちのグループと行なわれていたので,実際にはずっと大勢の人が聖書を研究していたのです。例えば,ある開拓者の姉妹は聖書研究が13件ありましたが,学んでいたのは50人以上の人でした。
「2番目に割り当てられたのは,ボルゴグラード州とロストフ州から成る巡回区でした。ボルゴグラード市の人口は100万人を超えていましたが,会衆は四つしかありませんでした。兄弟たちは,集会を行なったり,聖書研究を司会したり,家から家へ宣べ伝えたりする方法を意欲的に学びました。訪問のたびに,新しい会衆を設立する必要がありました。巡回監督の報告に記入するため,前回の訪問以来バプテスマを受けた人の数を数えましたが,どの会衆にも50人,60人,あるいは80人いて,100人以上の会衆もありました。結果として,わずか3年の間に16の新しい会衆が市内に設立されました」。
1996年1月,ロシアの支部委員会が任命され,同時に最初の全時間の地域監督たちが任命されました。その中には,ローマン・スキバ(シベリアおよび極東地方),ロイ・エスター(ベラルーシ,モスクワ,そしてサンクトペテルブルクからウラル山脈まで),ハンヌ・タンニネン(カフカスからボルガ川まで),アルトゥール・バウアー(カザフスタンおよび中央アジア)がいました。当時,どの地域監督も,地域の割り当てに加えて小さな巡回区を受け持っていました。
非常に長い距離を移動する
ローマン・スキバは,1993年の初めごろにポーランドからロシアへやって来た最初の特別開拓者の一人でした。兄弟はこう述べています。「1993年10月,私は巡回奉仕を行なうよう任命されました。最初の巡回区には,サンクトペテルブルク南部,プスコフ州,そしてベラルーシ全土の諸会衆が含まれていましたが,それでもロシアでいちばん大きな巡回区ではありませんでした。しかし,やがて非常に長い距離を移動するのに慣れる必要が生じました。1995年11月にウラル山脈の巡回区を割り当てられ,代理の地域監督としても任命されたのです。奉仕する範囲は,ウラル山脈,シベリア全域,そして極東地方に及んでいました。ある兄弟によると,その地域区にはポーランドぐらいの大きさの国が38も入る計算になります。時間帯が八つもあったのです。2年ほどして,私はモンゴルの首都ウランバートルの群れも訪問するよう支部から頼まれました」。
スキバ兄弟はこう続けます。「ある時,北極圏内のノリリスクからエカテリンブルクまで行くため,飛行機を一度乗り換えなければなりませんでした。まずノリリスクからノボシビルスクへ飛び,そこからエカテリンブルクに行きました。延々と続くように思えた,忘れ難い旅でした。ノリリスクからの便は12時間遅れて飛び立ったので,妻のリュドミラと私は空港で一日を過ごしました。幸いにも,旅をしながら個人研究をする習慣が身に着きました。
「あらゆる努力を払ったにもかかわらず,会衆の訪問に遅れることもありました。ある時は,アルタイ共和国のウスチ・カンという山村の会衆に行くため,舗装されていない山道を車で走らなければなりませんでした。ところが,困ったことに途中で車が故障してしまい,会衆の記録を調べる時間に到着できなかったばかりか,集会に2時間も遅れてしまいました。私たちはがっかりし,みんな帰ってしまったに違いないと思いました。しかし,借りてあったホールに着いてみると,175名もの人が待っていたので,とても驚きました。しかもそのうち伝道者は40名もいなかったのです。私たちが遅れている間に,関心を持つ大勢の人が他の山村からやって来て,集会に出席できたようです」。a
記憶に残る大会
幾つかの大きな都市で初めて地域大会が開かれるようになりましたが,兄弟たちはそれまで大会の準備を行なった経験が全くありませんでした。1996年,エカテリンブルクで,兄弟たちは地域大会を開くために適当なスタジアムを選びました。ローマン・スキバはその時のことをこう話します。「観覧席には草が生え,スタジアムの中には高さ2㍍ほどの樺の木が立っていました。大会まで残り3週間しかなく,その都市と近郊にあった会衆は三つだけでした。スタジアムの責任者は,そこでどうやって大会を開けるのか理解できませんでしたが,ありがたいことに協力を申し出ました。兄弟たちは作業を開始し,予定の日付までにスタジアムはぴかぴかになりました。責任者は,とても信じられないといった様子でした」。その責任者は感謝の気持ちから,スタジアムの建物の一つで兄弟たちが開拓奉仕学校を開くことを許可しました。一人の兄弟はこう言います。「大会後,スタジアムでは再びスポーツ競技が行なわれるようになり,それは市の収入につながりました」。
大会を開くために,柔軟性と忍耐が必要なこともありました。1999年にウラジカフカスで,巡回大会に5,000人の出席が見込まれましたが,兄弟たちはスタジアムを借りることができませんでした。それで,すぐに大会のプログラムを調整する計画を立て始め,結果的に映画館を借り,一日に短縮したプログラムを5回行ないました。その後,週末にはナリチク市で,2㌔ほど離れた二つの会場に分かれ,丸二日間の巡回大会を開きました。話し手が最初の会場からもう一つの会場へと移動するための時間を考えて,片方のホールでは大会が2時間遅く始まりました。旅行する監督の中には,大会が終わる前に声がかれてしまうと思った人もいます。一人の兄弟は,あとで数えてみたところ,その週に35回も話を行なっていました。万事順調でしたが,土曜日の昼前に,片方のホールで突然プログラムが中断させられます。制服を着た男たちが犬を連れてホールに入ってきて,安全上の理由により全員直ちに建物から出るようにと指示したのです。兄弟姉妹たちはいつもと同じように落ち着いてホールを出,建物の外で昼食を取ったり交わったりしました。あとから分かったことですが,ある狂信者が当局に電話をかけ,建物に爆弾を仕掛けたと言ったのです。ホールは捜索されましたが何も見つからなかったので,兄弟たちは大会を続けることを許されました。プログラムに若干の変更が加えられた後,大会は無事に終了し,皆がプログラムから益を得ることができました。
石や盾や剣
真理の種は,速やかに国じゅうにまかれてゆきました。エイヤ・タンニネンはある出来事を思い出してこう話します。「1998年のことですが,私たちは地域大会の次の開催地まで,列車で15時間の旅をする支度をしていました。兄弟たちから,大会の劇で使うたくさんの小道具類を運んでもらえないかと頼まれました。大抵の場合,車掌たちは大量の荷物を持った乗客に対して好意的ではなかったので,かなり心配でした。しかし,兄弟たちに手伝ってもらいながら,石や盾や剣,また衣装の詰まった袋を,大胆にも4人用の仕切り客室に運び込みました。客室は,私たちと大荷物と他の二人の乗客でいっぱいでした。
「検札に来た車掌の女性に,どうしてそんなにたくさん荷物があるのかと聞かれたので,エホバの証人の地域大会で上演される劇で使う小道具類であることを説明しました。その女性はとても親切で,少し前に私の夫が行なった公開講演を聴いたと言いました。私たちが彼女の住んでいる町の会衆を訪問した際,集会に出席していたのです。エホバの助けを感じました」。
研究の見学者たち
姉妹たちは互いに多くのことを学び合いました。エイヤはこう言います。「私たちがロシアで宣教を始めた時,姉妹たちにどれほど辛抱強さや謙遜さが必要だったか,想像することしかできません。私はロシア語を上手に話せなかったからです。姉妹たちが聖書研究の司会の仕方を熱心に学ぼうとする様子を見て,心を打たれました。真理に新しい姉妹たちがたくさんいましたし,禁令下で奉仕していたためにエホバの組織からの指示をなかなか受けられなかった人たちもいました。
「1995年から1996年にかけて,私たちはボルシスキーという町で奉仕しました。一人の姉妹から聖書研究に誘われると,しばしば他の幾人かの姉妹たちから一緒に行ってもいいかと尋ねられました。最初はどうしてかと不思議に思いましたが,聖書研究の司会の仕方を見て学びたいのだと姉妹たちから説明されました。私は,聖書研究生が嫌がらず,何人かいても気後れしないなら,一緒に来てもいいと言いました。大抵6人から10人の姉妹たちが付いて来て,聖書研究生は気にしないでしょうと言いましたが,本当にそうでした。何か月かたつと,多くの聖書研究生が今度は自分で,関心を持つ人との聖書研究を始めました。当時,ボルシスキーにあった会衆は二つでしたが,10年後には11の会衆が設立されていました」。
彼女の祈りは聞かれた
神権的な教えが,真理に新しい兄弟姉妹だけでなく,禁令下で長年エホバに仕えた人たちにも大きな益をもたらしたことは明らかでした。ハンヌ・タンニネンはこう話します。「様々な状況のもとで,私たちはよくみ使いの導きを感じ,深く印象に残る出来事を目の当たりにしました。1994年に,現在はベリキー・ノブゴロドとも呼ばれているノブゴロドの新しい会衆を訪問した際,その週に泊まるアパートへ兄弟たちが連れて行ってくれました。アパートには,マリヤという名の年配の姉妹が訪ねて来ていました。50㌔ほど離れた所からわざわざやって来たのです。真理のうちを50年間歩んできた姉妹で,禁令が解かれた後に奉仕するようになった最初の巡回監督たちの一人に会いたかったとのことでした。私たちは,姉妹が真理を学んだいきさつを話してくださるようお願いしました。姉妹によると,17歳の時にドイツの強制収容所に入れられ,そこでエホバの証人に出会ったそうです。そして真理を受け入れ,油そそがれた姉妹に収容所でバプテスマを施してもらいました。やがてマリヤは釈放され,王国の良いたよりを宣べ伝えるためロシアに帰ります。しかし,しばらくして伝道活動のゆえに捕らえられて投獄され,長年ソビエトの強制労働収容所で過ごしました。
「この謙遜な姉妹が話の最後に述べたことに,私たちは心を動かされました。自分の崇拝に何か不適切なところがあれば教えてくださいと,ここ数週間エホバに祈っていたというのです。その晩,私は姉妹に,かなり前の『ものみの塔』誌にあった『読者からの質問』の記事に書かれていたことを伝えました。その記事には,バプテスマが有効となるにはクリスチャンの兄弟によって施される必要があると述べられていました。マリヤはとても感謝し,祈りに対する答えが与えられたと感じて,喜んで浴槽でバプテスマを受けました。1944年に献身してから,50年の歳月が経過していました」。
11の時間帯の全域に霊的食物が届けられる
1991年の初め以降,文書はドイツまたはフィンランドから小包でロシアに郵送されていました。そして1993年7月,ドイツから20㌧の文書を積んだ最初のトラックが,ソーネチノイェに到着します。ロシア支部から,モスクワ,ベラルーシ,カザフスタンへ,トラックによる配達が行なわれるようになりましたが,数々の困難を乗り越える必要がありました。例えば,カザフスタンへ文書を届けるために,兄弟たちは片道5,000㌔もの距離を移動しなければなりませんでした。国境では長い時間待たされ,冬にはトラックが雪の吹きだまりにはまりました。
現在,ソーネチノイェには毎月200㌧ほどの文書が届きます。ベテルの運転手たちはあらゆる機会を活用し,国境の警備員や税関職員に証言しています。その中には,喜んで聖書文書を読む人もいます。ある検査の際に,ベテルのトラックが宗教組織のものだと知った一人の警察官が,大声で宗教全般を非難し始めました。その警察官によれば,ひどい交通違反を犯した司祭を停車させたところ,口汚くののしられたとのことでした。兄弟たちは,神が人々をどのように扱われるか,また地球や人類に対してどんな目的を持っておられるかを説明しました。すると警察官は口調を和らげ,友好的になって質問さえし始めたので,兄弟たちは聖書を取り出し,築き上げる話し合いを楽しみました。非常に感銘を受けた警察官は,「エホバの証人を探して,この話の続きを聞けるようにしよう」と言いました。
1995年から2001年まで,日本支部が極東地方のウラジオストクの諸会衆に文書を届ける面で世話をしました。ウラジオストクから,兄弟たちは船便でカムチャツカの諸会衆に文書を送りました。ウラジオストクの兄弟たちは,カムチャツカ行きの何隻かの船の船長と顔見知りになりました。一人の船長は,文書を自分の船室に入れて無料で運ぶことに同意し,文書を船に運び込むのを手伝うことさえして,兄弟たちにこう言いました。「わたしは信者ではないけれど,良いことをしたいんです。皆さんが好きですし,よく組織されているところもいいと思います。配達場所に着くと,文書を下ろすのに長い時間待たされることはありません。皆さんの仲間は鳥のようで,文書の箱に舞い降りるようにやって来て,あっという間に持って行ってしまいます」。
増加によって必要が生じる
長年の間,ロシア語版の「ものみの塔」は16ページの月刊誌で,今のものより少し大きな紙に印刷されていました。研究記事はすべてロシア語に翻訳され,ソ連の兄弟たちに提供されていましたが,英語よりかなり遅れて出ていました。研究記事の遅れは6か月から2年で,副記事はもっと後に出されました。1981年から,ロシア語版の「ものみの塔」は24ページの月刊誌になり,1985年以降は月に2回発行されるようになりました。初めて英語と同時に発行された,4色刷りの32ページの雑誌は,1990年6月1日号でした。
翻訳者の一人,ターニャはこう言います。「振り返ってみると,以前に翻訳して出版したものの多くは,自然で理解しやすい翻訳の条件を満たしていなかったことが分かります。しかしそれは,当時の状況のもとで提供できる最善のものでした。そして,その食物は霊的に飢えていた人たちに必要とされていたのです」。
旧ソ連の国々で業が合法化されると,文書を広範囲に配布できるようになりました。ドイツで仕事をしていたロシア語の翻訳者たちは,援助を切望していました。そして,二つの新しい進展により,翻訳の質が向上します。一つ目として,ロシアとウクライナの兄弟姉妹が幾人か,翻訳者としての訓練を受けるためにドイツ支部へ行くことができ,大喜びしました。1991年9月27日にまず5人が到着し,後に他の人たちも加わりました。こうして,ロシア語の翻訳チームは改革を経験することになります。それは決して容易なことではありませんでした。彼らの『木と石』はたちまち「金」に変わったわけではなく,イザヤ 60章17節に挙げられている段階をすべて経る必要がありました。
二つ目に,ロシア語の翻訳者たちは,少し前に設立された翻訳サービス部門の働きから益を受けるようになりました。ロシアから最初の兄弟姉妹たちがドイツのゼルターズにやって来たころ,翻訳者のためのセミナーがドイツ支部で開かれました。
翻訳は,対象となる言語が話されている国で行なうのが理想です。それで,1994年1月にロシア語の翻訳チームがドイツ支部を去り,当時ソーネチノイェで建設が進められていたベテルに居を定めることになったのは,興奮を誘う出来事でした。
もちろん,それらの兄弟姉妹にとって,何十年ものあいだ鉄のカーテンの後ろで黙々と仲間のために翻訳していた人たちと別れるのはつらいことでした。その人たちは事情ゆえに,ロシアに戻る翻訳者たちと共に行くことができなかったのです。1994年1月23日の日曜日,17人の兄弟姉妹と,特別開拓者として奉仕することになったさらに二人の兄弟たちが,あとに残る人たちと抱き合い,涙ながらにゼルターズを去りました。
「わたしが患者の神だ」
何十年もの間,患者の宗教的信条に対するロシアの医療関係者の見方は,自分たちが受けた無神論的な教育や,ソビエトの医療において血液が広く用いられてきたことに影響されていました。そのため,治療を必要とするエホバの証人が血液を用いないでほしいと頼むたびに,医師たちは当惑し,横柄な態度を取ることさえありました。
医師たちはよく,「ここではわたしが患者の神だ」とさえ言いました。医師の言うことに同意しなければ,患者は直ちに病院から出されかねませんでした。さらに,反対者たちはしばしば証人たちの輸血に対する聖書的な立場を利用して,ロシアにおけるエホバの証人の活動を禁止させようとしました。
1995年にロシア支部で医療機関情報デスクが活動を始め,エホバの証人の立場に関する正確な情報を医療の専門家たちに提供するようになりました。セミナーが何回か開かれ,60を超える医療機関連絡委員会の長老たちが,医療関係者に必要な情報を伝える方法や,エホバの証人の患者に無輸血治療を施す医師をどのように探すかを学びました。
1998年,ロシアおよび外国の医師たちが,「外科医学における輸血の代替療法」と題する国際会議をモスクワで開催しました。ロシアでその種の会議が開かれたのは初めてのことで,国内の多くの地域から500人以上の医師たちが出席しました。その後,ロシアの医師たちは十分に経験を積み,同様の会議を1998年から2002年にかけて国内の幾つかの主要な都市で何十回も開きました。それらの会議は良い結果をもたらしました。
かつてロシア連邦の保健相を務め,血液学の第一人者でもあったA・I・ボロビオフ博士は,エホバの証人の患者の権利を擁護していた弁護士たちへの公式の手紙の中で,医師たちが輸血に対する考え方を見直した結果,「我が国で出産する母親の死亡率が34%減少した」と指摘しました。ボロビオフ博士はさらにこう述べています。「以前は,我が国の医療機関の報告によれば,出産する母親の死亡率はヨーロッパの8倍に上っていた。その理由は,国内の助産婦たちが母親に不必要な輸血を施していたためである」。
2001年,ロシア連邦の保健省は,一連の指示を載せた文書を国じゅうの医療機関に送りました。その文書には,患者が宗教上の理由で輸血を拒む場合,医師はそれを尊重すべきであると述べられていました。2002年には,「血液成分の使用に関する指示書」がロシアの保健省から出されました。その中では,患者が同意書を提出しない限り輸血を施すことはできないと規定されています。また,患者が宗教上の理由で血液成分を体内に取り入れることを拒む場合,それに代わる治療法を用いるべきであると述べられています。
多くの医師が,医療機関情報デスクの代表者たちとのやり取りの後,血液の使用に関する態度を変えました。ある外科医はこう言いました。「[エホバの証人の]患者やあなた方から,皆さんが単なる気まぐれからではなく,聖書の命令に基づいて輸血を拒否していると聞きました。そのことを確かめようと思い,いただいた資料に載せられていた聖句をすべて読みました。じっくり考えた後,皆さんの立場は本当に聖書に基づいているという結論に達しました。それにしても,我々の司祭たちは,なぜこのことについて沈黙しているのでしょう。今では,この問題が取り上げられる時,わたしは他の医師たちに,エホバの証人こそ聖書に従っている人たちだと話しています」。現在,ロシアで2,000人を超える医師たちが,エホバの証人の患者に無輸血医療を提供しています。
任命地で喜びのうちに奉仕する
ドイツのギレアデ分校を卒業したアルノー・トゥングラーと妻のゾンヤは,1993年10月以降,ロシアの様々な都市で奉仕してきました。二人が奉仕した区域で,エホバの業はどのように進展してきたのでしょうか。二人の経験に耳を傾けましょう。
アルノー: 「私たちは任命地のモスクワに到着し,数週間後に神権宣教学校で最初の割り当てを果たしました。ロシアに来て6週間後には,大会で初めて話を行ないました。バプテスマを受けた伝道者が140人ほどいる会衆に遣わされましたが,会衆の区域はドイツの巡回区ほどの広さでした。私たちの最初の区域は開拓者の家に近く,その区域で初めて家から家へ宣べ伝えたエホバの証人となったのは胸の踊るような経験でした」。
ゾンヤ: 「ロシア語はほとんど話せませんでしたが,時々二人だけで街路証言を行ない,人々に話しかけてパンフレットなどの出版物を渡しました。地元の兄弟姉妹たちはよく支えてくださり,野外宣教に誘うとすぐに応じてくれました。皆とても親切で辛抱強く,私たちの片言のロシア語に付き合ってくれました。家の人も非常に辛抱強く聞いてくださいました。ソ連は崩壊し,人々は宗教に深い関心があったのです」。
アルノー: 「ロシア語を学ぶ上で大いに役立ったのは,戸別伝道に携わり,聖書研究を司会したことです。ロシアに来て4か月目の1994年1月には,すでに二人で22件の聖書研究を司会していたので,人々が日常使うロシア語を聞いたり話したりする機会がたくさんありました。
「当時,大会でバプテスマを受ける人は驚くほど多く,出席者の10%を上回ることもありました。会衆によっては資格ある兄弟が少なく,長老や奉仕の僕の必要を満たせませんでした。一人の長老が五つの会衆の主宰監督を兼任していたことさえあったのです。私はその兄弟から,一つの会衆で記念式の話を行なうよう頼まれました。出席者は804人に上り,話が終わると皆すぐに会場を出なければなりませんでした。続けて別の会衆がそこで集まることになっていたからです。ところが,次の話し手が会場に向かう途中で交通事故に遭い,時間に間に合わなくなったので,私が再び話を行なうことになりました。その時の出席者は796人でした。ですから,二つの会衆だけで1,600人もの人が記念式に出席したのです。当時,人々がどれほど真理に関心を持っていたかがよく分かります」。
エホバは収穫が「速やかに」なされるようにする
エホバはみ言葉の中で,ご自分の「望ましいもの」を集める業が「速やかに」なされるようにすると約束しておられました。(ハガ2:7。イザ 60:22)1980年,サンクトペテルブルクには伝道者が65人いて,KGBの厳しい監視下にありながらも,聖書に関して市民と話し合うよう努めていました。1990年には,170人余りの証人たちが市のあちこちの街路で非公式の証言を行なっていました。1991年3月にロシアのエホバの証人の活動が登録されると,間もなく市内に五つの活発な会衆が設立されます。さらに,1992年にサンクトペテルブルクで開かれた国際大会や,他の神権的な行事は,急速な増加をもたらしました。2006年には,サンクトペテルブルクにおける活発な会衆の数は70を超えました。
1995年,カザフスタンの国境からさほど遠くないアストラハンには会衆が一つしかなく,その会衆には長老も奉仕の僕もいませんでした。それでも,兄弟たちは巡回大会と特別一日大会を開きました。プログラムで話を扱ったのは,700㌔以上離れたカバルディノ・バルカルから来た長老たちです。それらの兄弟は,大会で何人がバプテスマを受ける予定かを知りませんでした。ローマン・スキバはこう言います。「私ともう一人の長老は,会衆と共に野外奉仕をし,バプテスマ希望者との討議を行なうために,大会が開かれる2週間前に到着しました。しかし結局,宣教に出かける時間は全くありませんでした。時間はすべて,20人のバプテスマ希望者との討議に費やされたのです」。
エカテリンブルクでは1999年に,兄弟たちが市場にいた行商人を幾人か記念式に招待しました。行商人たちは友達も連れて行ってよいか尋ね,100人ほどの人が会場にやって来たので,兄弟たちは非常に驚きました。借りたホールは大きいものでしたが,立って話を聞かなければならなかった人もいました。
50人との聖書研究
モスクワに程近いイワノボ州での伝道活動が始まったのは,パベル・ジモフと妻のアナスタシヤがその地域に移動した1991年の終わりごろのことでした。住民が100万人を超える区域で宣べ伝えるという難しい仕事が前途に控えていました。どのように着手したのでしょうか。二人は簡単で効果的な方法を用いることにしました。それは,文書スタンドです。都市の主な広場にスタンドを設け,ブロシュアーや雑誌や書籍を陳列したのです。通行人はそれを見て立ち止まり,多くの人が誠実な関心を示しました。真理に関心を持った人は皆,聖書研究の集いに招かれました。そうした集いは,とても家庭聖書研究とは呼べないものでした。借りた会場で行なわれ,最高50人が出席したからです。研究は集会に似ていて2部に分かれており,まず「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本を学び,それから「ものみの塔」誌の記事を研究しました。研究は週に3回,3時間ずつ行なわれました。そうした研究の集いが市内の3か所で開かれ,パベルはいつも3件の聖書研究を司会したと報告に書いていました。そのころほとんどの伝道者が10件から20件の研究を司会していたため,なぜ研究がそんなに少ないのかと尋ねられた時,実際にはそれぞれの研究に約50人の関心ある人たちが出席していたことが判明しました。エホバがその取り決めを祝福しておられたことは明らかでした。間もなく,研究に出席していた多くの人が,他の人に良いたよりを伝えたいという願いを言い表わしたからです。ある時,研究が終わってから,伝道者になりたい人は残るようにとパベルが発表したところ,だれも帰らず,全員が伝道者になりました。市内の文書スタンドの数は増え,やがて市のあちこちの広場や公園に設けられたスタンドにたくさんの文書が並べられるようになりました。
今や,別の形の奉仕に移行する時が来ました。それは,家から家の宣教です。しかし,ほとんどの伝道者がその奉仕を一度も行なったことがないのに,どのように始めることができるのでしょうか。家から家に宣べ伝える方法を学びたい人は,ジモフ夫妻と一緒に宣教に出かけました。多くの場合,学びたいと思った伝道者はたくさんいて,パベルは10人の伝道者と一緒に戸口に立ったこともあります。驚いたことに,それでも家の人は気後れせず,喜んでその集団と話をしました。全員をアパートに招き入れた人さえいます。
間もなく新しい伝道者たちはイワノボ市の外でも宣べ伝える意欲を示したので,イワノボ州の他の都市への伝道旅行が計画されました。50人ほどのグループで列車に乗り込み,伝道者たちは目的地へ向かう車中で宣べ伝え始め,到着すると二人一組になって散ります。そして幾つものアパートを訪問し,その晩に行なわれる集会に人々を招待するのです。集会で兄弟たちはエホバの証人が制作したビデオを上映し,講話も行ないました。集会後,出席者全員に家庭聖書研究が勧められ,研究を望む人は兄弟たちに住所を伝えました。こうした活動の成果として,イワノボ州の幾つかの都市で最高五つの会衆が設立されました。
1994年にはイワノボ市だけで125人の伝道者がいて,記念式に1,008人が出席しました。その同じ年に,イワノボ市から62人が地域大会でバプテスマを受けました。たった一日で新しい会衆が一つ誕生したことになります。現在イワノボ州では,1,800人の王国宣明者が忙しく主の業に携わっています。
反対に遭っても集まり合う
都市によっては,大会のためにスタジアムを使用する許可を得るのが容易ではありませんでした。ノボシビルスクでは,僧職者に駆り立てられた反対者たちが,大会が開かれていたスタジアムの入口のすぐ前にずらりと並びました。彼らが作ったサインの一つには,「エホバの証人に警戒せよ」とありました。しかし,サインの文字が一部にじんでいたため,実際には「エホバの証人を大切にせよ」と読めたことに,反対者たちは気づいていませんでした。
1998年にオムスクで巡回大会を開こうとした時にも問題が生じました。反対者たちの圧力により,地元当局は間際になってエホバの証人との借用契約を破棄するようホールの責任者に強制したのです。大会のためにやって来た数百人が,ホールの横に集まりました。おびえた責任者は,自分とホールに危害が加えられるのではないかと思い,暴力を働かないよう人々に伝えてほしいと兄弟たちに懇願し始めました。兄弟たちはその人を落ち着かせ,ここにはだれかに手を上げるような人は一人もいないと告げました。大会に来た人たちは騒ぐことなく記念に写真を撮り,散って行きました。責任者は,エホバの証人が温和な人々であることを確信しました。2週間後,別のホールで大会が開かれます。反対者たちは,その大会について知ったのが遅すぎて阻止できず,プログラムが終わりに近づいたころにようやくホールにやって来ました。
「星空の下で」行なわれた大会
2003年8月22日から24日にかけて,手話による地域大会の一つがカフカス地方のスタブロポリ市で開かれることになっており,ロシアの70の都市から出席者がやって来ました。ところが,市当局の激しい反対により,大会は中止させられるおそれがありました。そして大会の前日,ホールの責任者が借用契約を破棄します。しかし,8月22日の金曜日に,兄弟たちはサーカスの経営者と契約を結び,大会のために演技場を使わせてもらうことにしました。
プログラムは午後3時に始まりましたが,休憩時間の後しばらくして,不意に建物が停電しました。出席者たちは辛抱強く席にとどまり,1時間後に電力が復旧してプログラムが再開され,終わったのは午後9時半でした。
大会の二日目が始まると,午前9時半に停電になり,間もなく水も止まりました。兄弟たちは,水も電気もない中でどのように大会を続けるのでしょうか。10時50分に,大会委員会は演技場のドアをすべて開けることにしました。外は快晴だったからです。兄弟たちは外の通りに大きな鏡を置き,日光を反射させて場内や話し手を照らすように工夫しました。すると聴衆は話し手を見ることができましたが,話し手にとってはまぶしすぎて筋書きが見づらいことがすぐに分かりました。それで兄弟たちは他の鏡を使って,サーカスの丸天井からつり下がっていた大きなミラーボールに光を当てることにします。演技場はきらめく光でいっぱいになり,話し手も聴衆も全員プログラムに集中できました。それは,「星空の下で」行なわれたユニークな大会となりました。暗いサーカスの演技場でたくさんの光がきらめいている様子を,出席者たちはそのように表現したのです。
程なくして,市長と幾人かの当局者が演技場に車で乗りつけました。彼らは証人たちが大会を続けていることに驚き,何よりも大会出席者たちの行状に感銘を受けました。だれも抗議したり不平を言ったりせず,ステージに注意を集中していたのです。以前はエホバの証人に敵対的だった警察署長は,自分が目にしたものに感動し,「心の奥底ではあなた方を支持しますが,我々の住む社会はあなた方のことが好きではないのです」と言いました。
当局者たちは去り,間もなく演技場の電力が復旧しました。大会の最初の二日間は遅い時間に終了しましたが,出席者たちは結びの祈りまで席にとどまりました。反対に遭ったにもかかわらず,出席者の数は日ごとに増え,金曜日は494人,土曜日は535人,日曜日は611人でした。最後の祈りの中で,この素晴らしい大会を開かせてくださったエホバに対する特別な感謝がささげられました。出席者たちは天の父に仕えてみ名を賛美する決意を一層強め,喜びのうちに帰途に就きました。
ろう者がエホバを賛美する
1990年にポーランドで開かれた特別大会にソ連から出席した大勢の出席者の中に,ろう者も幾人かいました。大会から霊的な励ましを得た,それら最初の“種まき人たち”は,多大の努力を払って宣べ伝えました。早くも1992年の時点で,この畑も刈り入れ時を迎え,『大きな収穫』が見込まれていました。(マタ 9:37)1997年には最初の手話会衆が設立され,国じゅうにたくさんの手話の群れがありました。2002年に手話の巡回区が誕生しますが,それは面積で言えば世界最大の巡回区でした。2006年には,国内の人口に対する伝道者の割合が聴者の場合は1,000人に1人だったのに対し,ろう者の場合は300人に1人でした。
エホバの証人の出版物を,手話で正確に分かりやすく翻訳する必要がありました。1997年,手話への翻訳がロシア支部で始まります。手話翻訳チームで働く,ろう者の一人であるエフドキア姉妹はこう言います。「わたしにとって,ベテルで奉仕して出版物を手話に翻訳することは,この上ない特権です。世の中では,ろう者は信頼されず,劣っているとみなされます。でも,神の組織では全く違います。まず,わたしたちの言語で真理を伝える面で,エホバご自身がわたしたちろう者を信頼してくださっているのが分かります。さらに,わたしたちはエホバの民の中で安心でき,とても大きな家族の一員でいられることを心から幸せに感じています」。
良いたよりをあらゆる国語で
ソ連において商業や教育で主に使われていた言語はロシア語でしたが,ほかにも150ほどの言語が話されていました。1991年にソ連が15の国に分かれた後,それらの言語を話す多くの人々が真理に関心を持つようになり,新しく独立した国々では特にそうでした。啓示 14章6節と調和して,広大な区域内の「あらゆる国民・部族・国語・民」の人々に真理を伝えるべく,集中的な努力が払われました。幾万もの新しい弟子たちに霊的食物を提供するため,ロシア支部の区域内で「ものみの塔」誌を14の新たな言語で発行することが必要になりました。良いたよりを広める助けとして,ロシア支部は40以上の言語に文書を翻訳する仕事を監督しており,かつてないほど聖書の真理が人々の心に速く深く達しています。
それらの言語の大半はロシア連邦内で話されています。例えばオセット語は,ベスランやウラジカフカスの街で聞くことができます。モンゴル語に近いブリヤート語は,バイカル湖の周辺地域で話されています。アルタイ-チュルク諸語の一つであるヤクート語は,トナカイを飼育する人たちや極東地方の他の住人が話す言葉です。ほかにもカフカス地方に30ほどの言語があります。ロシア語に次いで大きな言語グループはタタール語で,それを話す人々はタタールスタンとして知られている地域を中心に500万人以上います。
タタール語を話す人たちは,ロシア語の文書を受け取ることは少ないものの,多くの場合タタール語の文書を喜んで読みます。「王国ニュース」第35号を配布するキャンペーンの際に,田舎に住む一人の女性が1部受け取り,タタール語の「求め」のブロシュアーを送ってほしいと手紙に書きました。ある姉妹が手紙と共にブロシュアーを送ると,その女性は熱のこもった返事を8ページにわたって書き,間もなくタタール語の出版物を使った聖書研究を始めました。タタール語の『神は気遣っておられますか』のブロシュアーを受け取ったある男性は,それを読んで世界情勢に対する見方が変わったと言いました。タタール語の文書がなければ,こうした結果は見られなかったでしょう。
マリ語を話す一人の女性は,「王国ニュース」第35号を受け取って読み,もっと知りたいと思いましたが,自分が住む田舎にはエホバの証人がいませんでした。それで町に出かけた際にエホバの証人を探し,ロシア語の「知識」の本や他の文書を受け取りました。それらを自分で研究した後,この女性は自分の住んでいる地域で宣べ伝え始め,やがて関心を持つ人たちのグループと研究をするようになります。ある時,イジェフスクで特別一日大会が開かれると聞き,バプテスマを受けたいと思って出かけて行きました。しかし大会で,バプテスマを受けるには聖書を十分に学ばなければならないことを知り,霊的な援助を受けられるよう兄弟たちに取り決めてもらいました。このすべては,彼女が自分の母語で「王国ニュース」を読んだことから始まったのです。
ウラジカフカスでは,オセット語の会衆が一つしかなく,巡回大会や地域大会の際にオセット語への通訳はなされていませんでした。しかし,2002年に初めて大会の話が通訳され,オセット語を話す兄弟たちは大喜びしました。ロシア語がよく分かる人たちも,聖書の音信を母語で聞いて心に響いたと言いました。このことは会衆の霊的な成長に寄与し,多くのオセット人を真理に引き寄せました。2006年にはオセチアで巡回区が組織され,初めてオセット語による巡回大会が開かれました。
アルタイ共和国のアクタシュという辺ぴな村にある群れを旅行する監督たちが訪問した際,伝道者は数人しかいなかったにもかかわらず,アパートに30人ほどが集まりました。皆が公開講演に耳を傾けましたが,地域監督が奉仕の話をしている途中で出席者の約半分が帰ってしまいました。集会後,地域監督は地元の兄弟たちに,なぜそれほど多くの人が帰ったのか尋ねました。するとアルタイ語を話す年配の女性が片言のロシア語で,「あなた様は大事なお務めをしていなさるが,わたしゃほとんど分からんかったよ」と言いました。次の巡回訪問では話が通訳され,全員がプログラムを最後まで楽しみました。
ボロネジ市には,外国から来た学生が大勢います。2000年に,中国語を話す奉仕の僕が,個人的に中国語を教えるクラスを開きました。多くの証人が必要にこたえて,中国人の学生たちに宣べ伝え始めました。中国語は非常に難しい言語ですが,兄弟たちはあきらめませんでした。2004年2月,市内で最初の中国語の群れが組織されます。その年の4月には初めて中国人の聖書研究生がバプテスマを受け,2か月後にもう一人が受けました。現在,関心を持つ人たちが定期的に書籍研究に出席しており,15件ほどの聖書研究が中国語で司会されています。良いたよりがこの国の広大な区域の隅々にまで達するにつれ,より多くの文書がより多くの言語で必要になっており,ロシア支部は引き続きその求めにこたえています。
開拓者たちが訓練を受ける
ロシアでは,10年ほど前から開拓奉仕学校が開かれてきました。各クラスには20人から30人の生徒がいて,大半は地元の開拓者なので,学校に出席するのに遠くまで行く必要はありません。しかし,ロシアで初めて学校が開かれた時には事情が異なりました。ローマン・スキバはこう振り返ります。「1996年にエカテリンブルクで開かれた開拓奉仕学校が最も印象に残っています。40人余りの兄弟姉妹が招かれましたが,多くの人は学校に出席するために何百キロもの旅をしなければならず,1,000㌔近く離れた所から来た人もいました」。
スベトラーナは1997年以来,手話の畑で正規開拓者として奉仕しており,2000年1月に手話による開拓者学校に出席しました。学校が終わってからスベトラーナは,自分の宣教の質を高め,クリスチャンとして家庭や会衆でどうあるべきかを理解する上で,学んだ事柄がどのように役立ったかについてこう述べています。「わたしは他の人を一層愛するようになりました。また,兄弟姉妹たちと協力することの大切さに気づき,今では助言を進んで受け入れています。例えを使って教えるようになったので,聖書研究の質もかなり良くなったと思います」。
アリョーナは極東地方にあるハバロフスクという都市で開拓者として奉仕し,ろう者が真理を学ぶのを助けています。より効果的に奉仕できるように,アリョーナは手話の開拓奉仕学校に出席したいと思いました。そのためにどんな困難を乗り越えたのでしょうか。アリョーナはこう言います。「いちばん近い手話の開拓者学校が開かれたのはモスクワで,ハバロフスクから9,000㌔も離れていました。学校に出席するために列車で8日間の旅をしなければならず,帰りも同じ日数がかかりました」。それでも,行ったことを全く後悔していません。
手話の畑で奉仕している人たちのための学校以外にも,1996年から2006年にかけて何百もの開拓奉仕学校がロシアで開かれました。開拓者の訓練は,宣べ伝える業全体の発展や会衆の増加に直接寄与してきました。現在巡回監督として奉仕しているマルチンはこう話します。「私は1995年に特別開拓者としてモスクワのクンツォボ会衆に遣わされました。公開講演と『ものみの塔』研究に行くと,まるで大会が開かれているかのようでした。ホールに400人ほどの人が集まっていたのです。当時,会衆には300人の伝道者がいました。10年もたたないうちに,その会衆から10の新しい会衆ができました。
「1996年から1997年にかけて巡回監督として奉仕した間,私は巡回区内で驚くべき増加を目の当たりにしました。ボルゴグラード州のボルシスキーという町の会衆を訪問し,半年後に戻ってみると,伝道者が新たに75人も増えていて,全く新しい会衆のようでした。その新しい熱心な伝道者たちが示していた精神は,なかなか言葉では表現できません。野外奉仕のための集まりは高層アパートの一室で行なわれていましたが,定期的な出席者は最高80人に上りました。室内に入りきれなかった多くの人が,階段や踊り場に立っていました」。
若い人たちがエホバの栄光をたたえる
大勢の若い人が,親の反対にもかかわらず,王国の音信に関心を示しています。ある20歳の姉妹はこう述べています。「わたしが9歳だった1995年にエホバの証人が伝道に来ましたが,両親は真理を受け入れませんでした。神様についてもっと知りたいと思っていたところ,うれしいことに仲の良いクラスメートが聖書を学び始めたので,わたしも研究に参加させてもらいました。そのことを知った両親に,エホバの証人と交わることを禁じられ,研究に行けないように一人きりでアパートに閉じ込められることもありました。こうしたことが何年も続きましたが,わたしは18歳の時に別の都市の学校に行くために家を出,その都市でエホバの証人を見つけました。聖書研究を再開できて,とてもうれしく思いました。わたしは心からエホバを愛するようになり,2005年に地域大会でバプテスマを受け,その後すぐに補助開拓奉仕を始めました。今では両親も,わたしが子どものころから大切に思っている真理に対して好意的です」。
別の姉妹はこう話します。「1997年,15歳の時に,わたしは証人たちから『目ざめよ!』誌を紹介されました。その雑誌の名前や内容が気に入り,定期的に受け取りたいと思いましたが,わたしがそれを読んでいるのを知った父は,うちにはもう来ないようにと証人たちに言いました。しばらくして,いとこがエホバの証人と聖書を研究するようになり,2002年の初めごろからわたしも一緒に王国会館での集会に出席し始めました。集会で,宣教者として奉仕しているエホバの証人について聞き,自分も神について学ぶよう他の人を助けたいという燃えるような願いを抱くようになりました。しかし,いとこから,まずたばこをやめ,生活を神のご意志と調和させ,神の僕になる必要があると説明されました。わたしはそのアドバイスに従い,半年後にバプテスマを受け,すぐに補助開拓奉仕を始めました。人生の真の目的を見いだせたことをうれしく思います」。
サハで「望ましいもの」を探す
ある巡回区には,アムール州とサハ共和国全域が含まれています。2005奉仕年度中,サハの首都ヤクーツクで初めて巡回大会と特別一日大会が開かれました。それらの大会に先住民たちが出席したのは,とりわけ喜ばしいことでした。
兄弟たちの便宜を図って巡回区は五つに分けられ,それぞれが別個に大会を開きました。旅行する監督が一つの開催地から別の開催地まで行くには,まず列車で24時間,それから車で15時間,さらに飛行機で3時間かかりました。
この区域の冬は非常に寒く,気温は摂氏マイナス50度以下になります。それでも地元の伝道者たちは,高層アパートだけでなく,家から家にも宣べ伝えます。
2005年の初めごろ,伝道者たちから成る二つの群れが作られました。一つは,北極圏内のラプテフ海の沿岸から80㌔ほど内陸に位置するハイールという村にあります。村の人口は約500人で,そのうち4人がエホバの証人です。2004年にこの村で行なわれた記念式には,76人が出席しました。巡回監督は,この村の群れを訪問するために,まず飛行機で約900㌔移動し,それから雪に覆われた道を車で450㌔余り走る必要があります。
もう一つの群れは,オイミャコンという村から100㌔離れたウスチ・ネラという辺ぴな村に作られました。その辺りでは,冬に気温がマイナス60度に達することもあります。昨年,巡回大会に出席するために,この群れの伝道者たちは2台の車に乗って出かけました。マイナス50度の気温の中,大半は人の住んでいない僻地を,片道およそ2,000㌔も走らなければなりませんでした。
ある巡回監督は,高度4,000㍍で経験した興味深い出来事についてこう報告しています。「『ずっと見張っていなさい!』のブロシュアーを配布するキャンペーン中に,巡回区内で一連の大会が開かれました。地域監督と私は次の開催地へと飛行機で移動していました。残念なことにキャンペーン用のブロシュアーが切れてしまったので,客室乗務員に『神はわたしたちに何を求めていますか』のブロシュアーを紹介したところ,その女性はすでに聖書文書を何冊かもらったと言い,驚いたことに『ずっと見張っていなさい!』のブロシュアーを見せてくれました。兄弟たちが熱心に宣べ伝えていたことが分かり,とてもうれしく思いました。私たちが話していると,副操縦士が通りかかり,興味を示して会話に加わりました。私たちは飛行中ほとんどずっと話していました。副操縦士はいい話し合いができたと喜んで,雑誌を何冊か受け取り,操縦室にいる搭乗員たちにも見せると言いました」。
良いたよりがサハリンに
北海道の北に位置するサハリン島にエホバの証人が初めて訪れたのは,1970年代後半のことでした。セルゲイ・サギンが,その地域での伝道を監督していたウラジオストクの兄弟たちに励まされ,宣教を拡大して島民に宣べ伝えるためにその島に引っ越したのです。セルゲイは港で働きながら,他の労働者たちと聖書について話すよう努め,間もなく数件の聖書研究を司会するようになりました。セルゲイは後に島を去らなければならなくなりますが,真理の種はやがて実を結びます。
ロシアの多くの証人たちが,1989年と1990年にポーランドで開かれた大会で鼓舞され,宣教を拡大して必要の大きな所へ移動することにしました。1990年,セルゲイ・アベリンと妻のガリーナは,極東地方のハバロフスクからサハリンのコルサコフに引っ越しました。その数か月後,二人の開拓者と数人の伝道者が,エホバの証人が一人しかいなかったユジノ・サハリンスクに移動します。
二人の開拓者のうちの一人で,前に出てきたパベル・シブルスキーの息子のパベルは,現在ベテルで奉仕しています。パベルはこう話します。「ユジノ・サハリンスクに着くと,もう一人の兄弟と私はホテルに泊まりました。住む場所がすぐには見つからなかったからです。ホテルの隣の家から戸別伝道を始め,話をしながら,だれか部屋を貸してくれる人はいないか尋ねました。何人かの人に,聖書に基づく話し合いをどこで続けられるのかと聞かれましたが,今はホテル住まいなので家が見つかり次第ご招待します,と言わなければなりませんでした。私たちは仕事と住む場所を見つけられるようエホバに熱烈に祈り,エホバは祈りに答えてくださいました。間もなく仕事とアパートが見つかったのです。ある家の人が自分のアパートに入居させてくれて,家賃を取らないばかりか食事まで作ってくれたので,より多くの時間を宣教に費やすことができました。エホバは共におられることを示してくださいました。そのうち私たちは多くの聖書研究を司会するようになり,書籍研究の群れを幾つか組織しました。2か月後には家を借り,そこで集会を行なうようになりました」。
会衆の人数が増えるにつれ,多くの新しい伝道者が開拓奉仕を始めました。それらの人は開拓者精神を示し,他の場所に住む島民にも真理を広めるために引っ越しました。エホバはこの急速に成長する会衆の熱心な宣教を豊かに祝福され,3年後の1993年には元の会衆から八つの新しい会衆が設立されていました。
やがて多くの伝道者が,経済上の問題ゆえに,また宣教を拡大するために,島を離れます。それでも,島に残った人たちの努力により,引き続き増加が見られます。今ではユジノ・サハリンスクの中心に魅力的な王国会館が建っており,島には九つの会衆と四つの群れがあって,一つの巡回区を構成しています。
反対者が多くても戸口は開かれる
1世紀に使徒パウロはこう述べました。『活動に通ずる大きな戸口がわたしのために開かれています。しかし,反対者も多くいます』。(コリ一 16:9)それから約2,000年たちますが,反対者は減っていません。1995年から1998年にかけて,モスクワの検察当局は,エホバの証人に対して刑事事件を4回提起させました。証人たちは,宗教的不寛容をあおり,家庭を崩壊させ,国家に反対する活動に携わり,他の市民の権利を侵害しているとして訴えられました。こうした告発は立証されなかったため,1998年には,根拠のない同じ罪状に基づいてエホバの証人に対する民事訴訟が起こされます。
約1年後,法務省はロシアのエホバの証人管理センターを再登録し,エホバの証人もその文書も,宗教的な憎しみをあおったり,家庭を崩壊させたり,人権を侵害したりするようなことは何も広めていないと認めました。にもかかわらず,検察当局はまたしても同様の訴えを起こしたのです。
宗教学の教授の中には,エホバの証人の信条が専ら聖書に基づいていることを理解している人もいます。サンクトペテルブルクのロシア国立ゲルツェン教育大学で宗教学を教えるN・S・ゴルディエンコ博士はこう言います。「専門家たちはエホバの証人をその教えのゆえに非難するが,自分たちが実際には聖書を非難していることに気づいていない」。
それでもモスクワ市裁判所は,モスクワにいるエホバの証人の団体の法的身分を剥奪する判決を下しました。しかし,そのことは兄弟たちにとって,他の人に良いたよりを伝えるようにという聖書の命令を遂行する妨げとはなりません。エホバの証人は,モスクワの人々が宗教的信条に関して自分自身で決定すべきであると確信しています。その権利を制限することは,モスクワの全住民の自由を侵害することになるのです。ですからモスクワの証人たちは,宣べ伝えて弟子を作るようにというイエス・キリストの命令に引き続き従います。(マタ 28:19,20)現在,ヨーロッパ人権裁判所により,モスクワ市裁判所の判決が再考されています。
1998年9月に,モスクワにいるエホバの証人の団体を解散させようとする訴えに関する審理が始まった時,モスクワにはエホバの証人の会衆が43ありました。8年後,その数は93になっていたのです。エホバはご自分の民に対し,『あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さない』と約束しておられます。(イザ 54:17)2007年にエホバの証人は,かつてオリンピックが開催されたモスクワのルジニキ・スタジアムで地域大会を行ない,2万9,040人が出席し,655人がバプテスマを受けました。
ロシアで神の名が大いなるものとなる
マラキ 1章11節に記されているように,エホバ神はこう述べられました。『日の昇る所から日の沈む所に至るまで,わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなる』。新たに日が昇るたびに,この広大な国で羊のような人々がさらに集められる見込みが生まれます。昨奉仕年度中だけで,7,000人以上がロシアでバプテスマを受けました。これは,ロシア語の聖書で「皇帝の皇帝」と呼ばれているイエス・キリストが,業に携わる臣民たちと共におられることの紛れもない証拠です。―マタ 24:14。啓 19:16。
使徒ペテロは,「エホバの日は盗人のように来ます」と述べました。(ペテ二 3:10)ですから,ロシアにいるエホバの民は,あらゆる国民,部族,国語,民の中から正しく整えられた人を探し出すために,残された時間を十分に用いることを決意しています。
[脚注]
a 「目ざめよ!」誌,1999年6月22日号,「アルタイ族 ― わたしたちが愛するようになった人々」という記事をご覧ください。
[110ページの拡大文]
「お前たちに不利な記録が一つでも見つかっていたなら,それがわずか一滴の血を流したことであったとしても,お前たち全員を射殺していただろう」
[128ページの拡大文]
「もしお前たちを自由にしたら,大勢のソビエト国民が仲間になるだろう。お前たちを国家に対する大きな脅威と見ているのはそのためだ」
[219ページの拡大文]
「皆さんの仲間は鳥のようで,文書の箱に舞い降りるようにやって来て,あっという間に持って行ってしまいます」
[69ページの囲み記事/図版]
シベリアとはどんな所か
シベリアと聞くと,どんな所を思い浮かべますか。荒涼とした原野や極寒の冬を想像するでしょうか。ソビエト政府に同調しない人々が流刑にされた,寒々しい土地が目に浮かびますか。確かにそういう所とも言えますが,それはほんの一面にすぎません。
シベリアは,世界で2番目に大きな国であるカナダよりも広大な地域です。現在のシベリアの面積は1,300万平方㌔以上あり,東西は太平洋からウラル山脈まで,南北はモンゴルおよび中国から北極海まで広がっています。木材,石油,ガスなどの天然資源が豊富な土地です。シベリアでは,山脈,平野,湿地,湖,大河が幾つも見られます。
約1世紀半にわたりシベリアは,投獄,強制労働,流刑のための場所でした。1930年代から1940年代にかけて,ヨシフ・スターリンは何百万という人々をシベリアの収容所に送って働かせました。1949年と1951年には,モルドバ,バルト諸国,ウクライナから,およそ9,000人のエホバの証人がシベリアへ流刑にされました。
[72,73ページの囲み記事/図版]
概要
国土
世界最大の国ロシアは,東西に7,700㌔,南北に3,000㌔あり,総面積は1,707万5,400平方㌔に上ります。驚くべきことに11もの時間帯にまたがっており,北半球をほぼ半周しています。ロシア国内には,ヨーロッパで最も高い山と最も長い川があり,世界一深い湖もあります。
住民
ロシア人が人口の80%を占めていますが,他の70以上の民族も住んでいます。数千人から成る場合もあれば,100万人を超える民族もいます。
言語
公用語はロシア語で,ほとんど全国民が話せます。加えて他の100以上の言語が話されており,100万人近い人々の母語となっているものもあります。
経済
ロシアは世界でも有数の石油と天然ガスの産出国です。他の主な産業には,林業,鉱業,多岐にわたる製造業が含まれます。
食物
肉,魚,キャベツ,カード(凝乳)などで作った栄養豊かな料理を,ライ麦パン,ジャガイモ,そば粉を調理したものと一緒に食べます。ロシア料理は脂肪分や炭水化物に富んでいるため,長くて寒い冬を乗り切るのに必要なエネルギーが得られます。典型的な食事として,スープに入れるかサワークリームをトッピングしたペリメニ(肉入り餃子風の料理)や,キャベツ,肉,チーズ,ジャガイモなどが入ったピロシキが出されるかもしれません。よく作られるスープには,ボルシチ(赤カブのスープ)やシー(キャベツのスープ)があります。
気候
夏は暑く,冬は暗くて寒い所です。春と秋はあっという間に過ぎ去り,他の二つの季節が一年の大部分を占めます。
(116ページと167ページにロシアの地図があります)
[図版]
クレムリン宮殿
カバルディノ・バルカルにあるエリブルス山
カムチャツカ半島のヒグマ
[92,93ページの囲み記事]
思いと心に対する攻撃
ソビエト政府は,エホバの証人を根絶しようとはしませんでした。説得あるいは圧力により,ソビエトのイデオロギーに転向させることを目指したのです。それを成し遂げるために,政府はKGB ― 情報活動と国内保安のための機関 ― を用いました。講じられた手段には以下のものが含まれます。
捜索: 時には夜間にも,エホバの証人は家宅捜索を受けました。頻繁に捜索が行なわれたため,住む場所を変えることを余儀なくされた家族もいました。
監視: これには電話の盗聴,郵便物の開封,また兄弟たちの家に盗聴器を仕掛けることなどが含まれました。
罰金と集会の妨害: 国じゅうで地元当局は兄弟たちが集会を開く場所を突き止めようとしました。見つかった出席者は全員,罰金を科されました。罰金の額が平均月給の半分以上に上ることも少なくありませんでした。
賄賂と脅迫: KGBは一部の証人たちに対し,協力すればモスクワ都心のアパートや車を提供すると持ちかけました。兄弟たちは多くの場合,協力を拒めば強制労働収容所での長期刑に服することになると言われました。
プロパガンダ: 映画やテレビ番組や新聞で,エホバの証人は社会にとって危険な存在として取り上げられました。刑務所や収容所で講義が行なわれ,兄弟たちは聖書を隠れみのに政治運動を行なっていると非難されました。こうしたプロパガンダによって差別が生じ,教師たちはエホバの証人の児童に低い成績をつけ,雇用主は兄弟たちがもらう権利のある手当や休暇を与えませんでした。
潜入: KGBの工作員が,王国の音信に関心を示すふりをして聖書研究を行ない,バプテスマを受けることもありました。やがて組織内の責任ある立場に就いた人もいます。彼らの目的は,証人たちの間に疑念や分裂を引き起こし,伝道をやめさせることでした。
流刑: 証人たちは国内の辺ぴな場所に送られました。そこで兄弟たちは何とか生きていくために一日12時間の重労働を行なわなければなりませんでした。冬は厳しい寒さに凍え,夏は蚊やアブに悩まされました。
押収と別離: 土地,家屋,所有物が押収されました。子どもたちがエホバの証人の親から引き離されることもありました。
嘲笑や殴打: 女性を含む多くの証人たちが侮辱や嘲笑の的になりました。ひどく残酷に殴打された人もいます。
投獄: その目的は,信仰を捨てるよう証人たちに圧力をかけたり,仲間から孤立させたりすることでした。
強制労働収容所: これらの収容所で,証人たちは疲れ果てて動けなくなる寸前まで働かされました。しばしば大木の切り株を掘り起こさなければなりませんでした。兄弟たちはさらに,炭鉱での労働,道路の建設,線路の敷設に従事させられました。労働者たちは家族から離され,バラックに住みました。
[96,97ページの囲み記事/図版]
死刑を二度宣告されました
ピョートル・クリボクルスキー
生まれた年 1922年
バプテスマ 1956年
プロフィール 真理を知る前に神学校で学ぶ。刑務所や収容所で22年間過ごし,1998年に亡くなる。
ウクライナの私が住んでいた所で,1940年にポーランドのエホバの証人が伝道を始めました。私はコルネイという油そそがれた兄弟の訪問を受け,夜通し話し合った後,神についての真理を教えられたと確信しました。
1942年,ドイツ軍が侵攻したため,ソ連軍は私が住んでいた地域から撤退します。社会が混乱した時期でした。ウクライナの国家主義者たちは,ドイツとソ連双方に対する戦いに加わるよう求めました。それを拒むと,私は意識がなくなるまで殴打され,街路に放置されました。その同じ晩,彼らはまたやって来て,私を集団処刑場に連れて行きました。ウクライナの人々のために仕えるかどうか再び聞かれたので,大きな声できっぱりと,「私が仕えるのはエホバ神だけです」と答えたところ,死刑を宣告されました。兵士の一人が私を撃つよう命令した時,別の兵士が銃をつかみ,「撃つな! やつはまだ役に立つかもしれん」と怒鳴りました。怒り立ったもう一人の兵士が私を殴打し始め,1週間後に必ずおれがお前を撃つと言いましたが,数日後にその兵士自身が殺されてしまいました。
1944年3月にソ連軍が私たちのいた地域に戻って来て,私を含む男子全員が兵士たちに連れ去られました。このたびはソ連軍が戦闘員を必要としていたのです。彼らの集合地で,私に真理を伝えてくれたコルネイ兄弟に会いました。ほかにもエホバの証人が70人いたので,私たちは少し離れたところに立ち,励まし合いました。そこへ一人の将校がやって来て,なぜ他の人たちから離れて立っているのかと尋ねました。コルネイが,私たちはクリスチャンなので武器を取ることはできないと説明すると,兵士たちが直ちに彼を連行し,銃殺だと言いました。その後コルネイに会うことはありませんでした。兵士たちは,お前ら全員が同じように撃たれることになると言って脅し始め,軍に入隊するかどうか一人一人に尋ねました。私が拒むと,3人の兵士と一人の将校が私を森に連れて行き,将校は軍事裁判所の判決を読み上げました。「軍服の着用および武器の使用を拒否したため,銃殺に処す」というものでした。私は一心にエホバに祈ったものの,自分の奉仕をエホバは受け入れてくださるだろうかと思いました。機会がなくてまだバプテスマを受けていなかったからです。突然,「敵に向かって撃て!」という命令が聞こえました。しかし,兵士たちは空に向けて発砲し,それから将校が私を殴打し始めました。私は10年間の懲役を言い渡され,最終的にはロシアの中心部に位置するゴーリキー州の強制労働収容所に入れられました。
私は1956年に釈放され,後に忠実な証人であるレギーナと結婚しました。しかし,結婚して半年後,突然また逮捕され,10年間の懲役を言い渡されました。
ついに釈放された時,一人の将校に,「ソ連の領土にお前の居場所はないぞ」と言われました。しかし,その将校は間違っていました。全地はエホバのものであり,だれが地上で永遠に生きるかを決めるのはエホバなのです。それを知っているのは,なんと素晴らしいことでしょう。―詩 37:18。
[104,105ページの囲み記事/図版]
「お嬢さん方,皆さんの中にエホバの証人はいますか」
エフゲニヤ・リバク
生まれた年 1928年
バプテスマ 1946年
プロフィール ウクライナで生まれる。強制的にドイツへ連れて行かれ,そこで真理を学ぶ。ロシアで引き続き忠実にエホバに仕えている。
ある日曜日,窓の外から美しい歌声が聞こえました。エホバの証人が歌っていたのです。間もなく私は彼らの集会に出席し始めました。なぜドイツ人が他のドイツ人をその信仰ゆえに迫害しているのか,理解できませんでした。一緒にドイツへ連れて来られたウクライナ人の友達は,私がドイツ人と親しくするので,反感を示すようになりました。ある時,一人が私に向かってわめき立て,平手打ちを加えました。それを見て,かつての友人たちは笑い出しました。
1945年に自由にされると,私はウクライナに帰りました。祖父が,「お前の母さんは頭がおかしくなってしまった。イコンを全部捨てて,違う神を拝んでいるんだ」と言いました。母は私と二人きりになると聖書を取り出し,神は偶像礼拝を憎まれるという聖句を読みました。それから,自分はエホバの証人の集会に出席していると言ったのです。私は母の首に抱きつき,目に涙を浮かべながら,「お母さん,わたしもエホバの証人なの」と小声で言いました。私たちはうれしさのあまり一緒に泣きました。
母は宣教にとても熱心でした。ほとんどの兄弟たちが収容所に入れられていたので,母が群れの僕に任命されました。私も母の熱意に感化されました。
1950年,私は宗教活動のために逮捕され,裁判で収容所における10年の懲役刑を宣告されました。私を含む5人の姉妹たちはシベリアのウソーリエ・シビルスコエという町に連れて行かれ,1951年4月から鉄道を敷設する仕事をさせられました。重い枕木を二人一組で肩に載せて運び,重さが320㌔もある10㍍のレールも自力で動かして敷いてゆきました。くたくたになったのを覚えています。ある時,仕事で疲れ切った帰り道に,囚人をいっぱいに乗せた列車が近づいてきて,私たちの横で止まりました。窓から顔をのぞかせた男性が,「お嬢さん方,皆さんの中にエホバの証人はいますか」と尋ねました。私たちは疲れが吹き飛び,「5人の姉妹がいます!」と叫びました。囚人たちは,ウクライナから流刑にされた,愛する兄弟姉妹だったのです。列車が止まっている間,兄弟たちは流刑になったいきさつを興奮ぎみに話しました。それから子どもたちが,兄弟たち自作の詩を幾つか暗唱してくれました。兵士たちも邪魔をしなかったので,私たちは交わって励まし合うことができました。
やがてウソーリエ・シビルスコエから,アンガルスクに近い大きな収容所に移されました。そこには22人の姉妹たちがいて,あらゆることを組織しており,宣べ伝えるための区域も決められていました。それにより私たちは霊的に生き延びるよう助けられたのです。
[108,109ページの囲み記事/図版]
何度か“第5区画”に入れられました
ニコライ・カリババ
生まれた年 1935年
バプテスマ 1957年
プロフィール 1949年にシベリアのクルガン州へ流刑にされる。
ソ連のエホバの証人は一人残らず監視されているように思えました。生活は容易ではありませんでしたが,エホバが知恵を与えてくださいました。1959年4月,私は宗教活動のために逮捕されました。兄弟たちを裏切るようなことはしたくなかったので,何も知らないと言い通すことにしました。捜査官が兄弟たちの写真を見せ,名前を教えるようにと迫ったので,私はだれも分からないと言いました。すると捜査官は私の弟の写真を見せて,「これはお前の兄弟か」と尋ねました。私は「そうかどうか分かりません。何とも言えません」と答えました。その後,捜査官は私自身の写真を見せ,「これはお前か」と尋ねたので,「私に似てはいますが,そうかどうかは何とも言えません」と答えました。
私は2か月以上も監房に入れられました。毎朝,目覚めるとまずエホバの愛あるご親切に感謝しました。それから聖句を一つ思い出し,自問自答で討議しました。そして王国の歌を歌いましたが,声は出しませんでした。監房で歌うことは禁止されていたからです。その後,聖書に関する論題を復習しました。
私が送られた収容所には,すでにエホバの証人が大勢いました。環境はとても厳しく,話すことは許されませんでした。兄弟たちはしばしば隔離監房に入れられました。第5区画と呼ばれていた場所です。私も何度か第5区画に入れられました。そこでは,囚人たちは一日にパンを200㌘しか与えられませんでした。私は分厚い鉄に覆われた板の上で眠りました。窓ガラスは割れていて,蚊がたくさんいました。自分のブーツがまくら代わりでした。
大抵どの兄弟も,それぞれ文書の隠し場所を考え出しました。私は床を掃くのに使っていたほうきに文書を隠すことにしました。刑務官は検査の際に細かい所まで注意深く調べましたが,ほうきの中を見ることなど考えもしませんでした。私たちは壁の中にも文書を隠しました。私はエホバの組織を信頼することを学びました。エホバはすべてをご覧になり,どんなこともご存じで,ご自分の忠実な僕たち一人一人を助けてくださいます。エホバはいつも私を助けてくださいました。
私の家族は1949年に流刑になりましたが,父はそれより前から,エホバは遠いシベリアに住む人々でさえ真理を聞けるように事を運ぶことがおできになると言っていました。私たちは,『本当にそうなるのだろうか』と思ったものです。しかし,シベリアにいる大勢の誠実な人々が真理を知ることを可能にしたのは,ほかならぬ当局だったのです。
国が劇的な変化を遂げた時,兄弟たちは意欲的に機会をとらえてポーランドへ行き,1989年の国際大会に出席しました。それは忘れられない数日間でした。最後の祈りの後,私たちは立ったまま,いつまでも拍手をしていました。こみ上げてきた気持ちは言葉にできません。長年の間,絶えず様々な苦難や問題に直面しましたが,涙を流すことはほとんどありませんでした。しかし,ポーランドの愛する兄弟たちと別れた時,涙がとめどなくあふれ,だれもそれを抑えることができず,抑えようともしませんでした。
[112,113ページの囲み記事/図版]
良いたよりのためにあらゆることを行なう
ピョートル・パルツェイ
生まれた年 1926年
バプテスマ 1946年
プロフィール 1943年にエホバの証人と出会う。ナチスの二つの強制収容所と,ロシアの労働収容所に入れられ,後に禁令下で巡回監督として奉仕した。
ナチス・ドイツで聖書の基本的な教えを学んだ後,私はすぐに知人たちにそれを伝え始め,多くの人が一緒に清い崇拝を行なうようになりました。1943年,ある司祭が私をゲシュタポに告発したため,私は逮捕され,若者たちを扇動する活動を行なったとして告訴されました。それから間もなく,ポーランドのマイダネク絶滅収容所に送られました。そこにいた兄弟姉妹との交わりはとりわけ貴重でした。収容所で,私たちは宣べ伝える決意を一層強めました。真理に関心を示す囚人が多かったので,エホバの王国について証言する方法を探しました。ある時,私は二またのむちで25回打たれました。私が立ち上がり,ドイツ語で「ダンケ・シェーン!」(「ありがとうございます!」)と叫ぶと,一人のドイツ人が,「見ろ,なんてしぶといやつだ。おれたちが打つと感謝しやがる」と,吐き捨てるように言いました。むちで打たれた私の背中はあざだらけでした。
仕事はきつく,私たちは疲れ果てました。死者が出ると,昼夜を問わず火葬場で焼かれました。そのうち自分も鉄の網の上で焼かれることになると思いました。生きて収容所を出ることはないように思えたのです。ところが,けがをしたことで救われました。比較的健康な人たちは無理やり働かされ,残りの人は他の収容所に送られたのです。2週間後,私はラベンスブリュックの強制収容所に移されました。
終戦が近づいたころ,私たちは間もなく全員ドイツ人に射殺されるといううわさを聞きました。ところが,しばらくして看守たちが逃げ出したことを知ります。囚人たちは,自由の身になったことが分かると,みな方々へ散って行きました。私はオーストリアにたどり着いたのですが,そこで軍に入隊するよう言われました。私は直ちに拒否し,宗教上の信念ゆえに強制収容所に入れられていたと説明しました。その後,当時ソ連の一部だった,故郷のウクライナに帰ることを許されます。1949年にはエカテリーナと結婚し,彼女は私の忠実な伴侶になってくれました。1958年,私は逮捕されてモルドビニアの労働収容所に送られます。
釈放された後,私は聖書文書の印刷に携わりました。1986年のある日,私たちは夜通し働いて1,200ページを印刷し,それを床やベッドの上など,どこでも置けるところに積み上げました。不意にKGBの捜査官が,“ちょっと話をしに”やって来ました。エカテリーナは,捜査官が家に入りたいと言うかもしれないとは考えずに,どこで話したいか尋ねました。幸いにも,捜査官は外の台所で話したいと言いました。もし家に入っていたら,私たちは逮捕されていたでしょう。
私たちは今も,献身にふさわしく生き,良いたよりのためにあらゆることを行なうよう努めています。6人の子ども,23人の孫,そして2人のひ孫が忠実にエホバに仕えており,子どもたちが真理のうちを歩み続けていることを私たちはエホバに感謝しています。
[122ページの囲み記事]
独房監禁
ソビエトの刑罰制度において独房監禁は,宗教文書の自主的な引き渡しを拒否することなどの違反に対する一般的な懲罰でした。囚人たちはすり切れた木綿の服を与えられ,独房に監禁されました。
典型的な独房を想像してみてください。中は狭く,3㍍四方ほどでした。暗く,じめじめしていて汚く,特に冬はひどい寒さでした。コンクリートの壁は表面が粗く,厚さは1㍍ほどで,奥の方に小さな窓があり,窓ガラスが割れていることもしばしばでした。電球によって幾らか明かりが得られましたが,それは壁のくぼみに取り付けられ,小さな穴の開いた鉄の板で覆われていました。コンクリートの床以外に座れるところといえば,壁から突き出た細長いベンチのようなものだけでした。それに長時間座ることはできませんでした。脚と背中の筋肉がすぐに疲れて痛み出し,ぎざぎざした壁が背中に食い込んだからです。
夜になると,看守たちはベッド代わりの浅い木の箱を独房の中に押し入れました。それは鉄製のバンドで補強されており,木の板と鉄の上に横になることができましたが,寒さで眠れませんでした。毛布などはありません。独房に監禁された囚人の典型的な食事は,日に一度与えられる300㌘のパンと,三日に一度の水っぽいスープだけでした。
トイレは床に埋め込まれたパイプ程度のもので,強烈な悪臭を放ちました。独房によっては送風機が取り付けられており,下水管から出る悪臭を室内に吹き込みました。刑務官たちは,囚人の意気をくじいて罰を加えるため,時々この送風機を作動させました。
[124,125ページの囲み記事/図版]
モルドビニア第1収容所
1959年から1966年にかけて,450人以上の兄弟たちが,600人を収容できるこの場所で幾らかの期間を過ごしました。この収容所は,モルドビニア地域にあった19の強制労働収容所の一つで,電流の通じた有刺鉄線のフェンスに囲まれており,その高さは3㍍近くありました。このフェンスをさらに13の有刺鉄線のフェンスが囲んでいました。収容所の周囲の地面は,脱走者の足跡が残るように,常に掘り返されて軟らかくなっていました。
当局はエホバの証人を外界から完全に孤立させることにより,身体的にも精神的にも隷属させようとしました。それでも,兄弟たちは収容所内で神権的な活動を首尾よく組織したのです。
収容所そのものが一つの巡回区になり,巡回監督もいました。巡回区は四つの会衆から成り,書籍研究の群れは全部で28ありました。皆が霊的な強さを保てるように,兄弟たちは週に七つの集会を開くことにしました。当初は聖書が1冊しかなかったため,会衆ごとに聖書を読む予定を立てました。聖書の写しを作ることが可能になると,兄弟たちは早速その作業に取りかかります。聖書の個々の書が何冊かのノートに手で書き写され,聖書そのものは安全な場所に注意深く隠されました。こうして,兄弟たちは聖書通読の予定についてゆくことができました。「ものみの塔」研究も計画されました。夫に面会に来た姉妹たちが,雑誌を縮写したものを収容所内に持ち込みました。口の中に入れたり,靴のかかとに隠したり,薄い紙片を髪の毛に編み込んだりしたのです。多くの兄弟たちが,文書を手で書き写したために,最大15日間の独房監禁に処されました。
独房は他の囚人たちからかなり離れた場所にありました。看守たちは,エホバの証人がそこに入れられている間,何も読めないように目を光らせていました。それでも他の兄弟たちは,霊的食物を供給するための方法を考え出しました。例えば,一人の兄弟がある建物の屋根に上ります。そこからは,独房に監禁されている人が散歩のために連れて行かれた中庭が見えました。兄弟は,前もって小さな紙に聖句を書いて直径1㌢ほどに丸めたものを持っていました。その丸めた紙を長いパイプの先に入れ,下の中庭で歩いている兄弟の方へ飛んでいくように吹きました。中庭にいる兄弟は靴のひもを結ぶふりをしてかがみ,気づかれずに霊的食物を拾うことができました。
囚人たちは朝食と夕食に,少量の綿実油を混ぜた薄い粥を与えられました。昼食は水っぽいボルシチなどのスープと,簡素な主菜でした。囚人たちの食べたパンは,ブーツを作るのに使うフェルトのようでした。イワン・ミキトコフは当時を思い出し,「この収容所に7年いましたが,ほとんどいつも胃に刺すような痛みがありました」と言います。
兄弟たちは信仰のうちにしっかりとどまりました。孤立させられても霊的な安定を失うことはなく,神の忠節な僕として信仰および神と隣人への愛を示し続けたのです。―マタ 22:37-39。
[131,132ページの囲み記事/図版]
「どうして泣いているの?」と声をかけられました
ポリーナ・グットシュミット
生まれた年 1922年
バプテスマ 1962年
プロフィール ビクトル・グットシュミットの妻になる。服役中にエホバの証人がとても親切であることに気づいた。
私は誠実な気持ちで共産主義の理念を信じ,支持していました。ところが,1944年5月に共産党員により逮捕され,ボルクタの強制労働収容所に送られました。3年間,逮捕された理由を告げられませんでした。最初は何かの間違いだと思い,釈放されるのを待ちました。しかし,反ソビエト的な発言をしたということで,収容所における10年間の懲役を言い渡されたのです。
私は医療の経験があったので,収監されて最初の数年は収容所の病院で働きました。1949年には,政治犯が入れられていたインタの収容所に移されます。そこの管理体制はずっと厳しいものでした。囚人たちの間には,憤り,粗暴さ,不道徳,無感情,絶望感が広く見られました。収容所にいる全員が間もなく射殺されるか終身刑を宣告されるといううわさがあったので,ただでさえ張り詰めた空気がさらに緊迫しました。ストレスのせいで正気を失った囚人もいたほどです。収容所内には密告者がとても多かったので,囚人たちは互いに疑いの目を向け,憎み合いました。皆が自分の殻に閉じこもり,できるだけその状況に慣れようとしました。身勝手で貪欲な態度が満ちていました。
40人ほどの女性の囚人が一つのグループになっていて,他の人たちとは明らかに違っていました。いつも一緒にいて,驚くほどきれいで,きちんとしていて,親切で,友好的でした。ほとんどが若い女性で,少女たちもいました。私は,その人たちが宗教を信奉していて,エホバの証人と呼ばれていることを知りました。他の囚人は彼女たちに対して様々な態度を取り,悪感情や敵意を表わす人もいれば,その振る舞いを称賛する人もいました。互いに対する愛は特に際立っていて,例えば証人たちの一人が病気になると,仲間が交替で付き添って看病しました。それは収容所では極めて珍しいことでした。
私が驚いたのは,そのグループにはいろいろな国籍の人がいたにもかかわらず,みな仲良くしていたことです。そのころ,私はもう生きていても仕方がないと思っていました。ある時,すっかり意気消沈し,座りこんで泣き出してしまいました。すると少女の一人が近づいてきて,「ポリーナ,どうして泣いているの?」と声をかけてくれました。
私は,「生きていくのが嫌になったの」と答えました。
その少女,リディヤ・ニクリナは私を慰め,人生の目的や,神がどのように人類の問題をすべて解決してくださるかなど,たくさんのことを話してくれました。1954年7月,私は釈放されました。その時までにはエホバの証人から多くのことを学んでおり,喜んで仲間になりたいと思いました。
[140,141ページの囲み記事/図版]
軍事技師から良いたよりの伝道者へ
ウラジーミル・ニコラエフスキー
生まれた年 1907年
バプテスマ 1955年
プロフィール 様々な収容所や刑務所へ256回も移動させられた。1999年に亡くなる。
私は1932年にモスクワ工学通信大学を卒業しました。1941年までモスクワの研究所で技師および設計主任として働き,軍艦用の特殊な装置の設計を手掛けました。戦時中に身柄を拘束され,やがてカザフスタン中央部のケンギルという村の収容所に送られました。
そこで私は,エホバの証人のグループに注意を引かれました。他の囚人たちとは全く異なっていたのです。収容所の三つの区画にいた約1万4,000人の囚人のうち,エホバの証人は80人ほどでした。証人たちと他の人との違いは,1954年にケンギルで起きた暴動の際にとりわけはっきり分かりました。エホバの証人は反乱に参加せず,その準備さえ拒みました。驚くほど落ち着いていて,自分たちの立場について他の囚人に説明しようとしました。私は彼らの振る舞いに強い感銘を受けたので,信じている事柄について尋ね,しばらくしてエホバに献身しました。収容所で証人たちの信仰は試され,軍隊が戦車を使って暴動を鎮圧した時は特にそうでした。
ある時,モスクワから二人の将官が私と面会するだけのために来たと言われました。そのうちの一人が私にこう言いました。「ウラジーミル,いつまでここにいるつもりだ。お前は軍事技師で設計士だ。祖国はお前を必要としている。以前の仕事に戻ってもらいたい。こんな無学な連中と一緒にいて何が楽しいんだ」。
「自分には誇る理由など何もありません」と,私は答えました。「人間の才能はすべて神から与えられたものです。神に従順な人々はキリストの王国の千年統治を楽しみ,その時に人類は完全になって真の意味で教育を受けるのです」。
それらの将官に真理について話す機会が持てたことを,とてもうれしく思いました。彼らは以前の仕事に戻るよう何度か要請してきましたが,私はこれ以上構わないでくださいと頼みました。深く愛する霊的な兄弟たちと一緒に収容所にいさせてほしいと言ったのです。
1955年に刑が取り消され,私は軍とは無関係の設計事務所で働き始めました。真理の種をたくさんまく努力を払い,一人の技師の家族と聖書研究を始め,やがてその技師と家族全員が熱心に伝道を行なうエホバの証人になりました。しかしKGBが監視していて,ある家宅捜索の際に私のアパートで聖書文書を見つけます。私は裁判で25年の懲役を言い渡され,シベリアのクラスノヤルスク市の強制労働収容所に送られました。その後,様々な収容所や刑務所へ何度も移されました。一度数えてみたところ,生涯中に256回も移動させられていました。
[147,148ページの囲み記事/図版]
大きなスーツケースが必要でした
ナデジュダ・ヤロシュ
生まれた年 1926年
バプテスマ 1957年
プロフィール ラベンスブリュック強制収容所で真理を学ぶ。ソ連に戻った後,文書運搬係として長年働いた。現在はカフカス地方に住んでいる。
私は1943年に強制収容所に入れられた時,もう生きていたくないと思いました。エホバの証人と出会うまでは,そのような心境でした。楽園となる地上で永遠に生きるという確かな希望を持って故郷のウクライナに帰ることができたのは,なんという喜びでしょう。自分を霊的に支えるために,エホバの証人の姉妹たちと手紙のやり取りを始めました。しかし,KGBに手紙を開封され,程なくして収容所における15年の懲役を言い渡されました。
1947年11月,私はコリマの収容所に送られ,服役中に他の証人に会うことはありませんでした。しかし宣べ伝えるようエホバが助けてくださり,囚人の一人だったエフドキアが聖書に関心を示し,私たちは仲良くなって霊的にも感情的にも支え合いました。聖書に関する私の知識はごく限られていましたが,それまでに学んでいた事柄はエホバへの忠誠を保つのに十分でした。
釈放されてから1年たった1957年の初めごろ,私はイルクーツク州のスエチハに引っ越しました。兄弟たちは温かく迎えてもてなしてくださり,仕事やアパートを探すのを手伝ってくれましたが,いちばんうれしかったのは神権的な活動に参加するよう誘われたことです。私はまだバプテスマを受けていなかったので,水の入った大きなおけの中でバプテスマを施されました。こうして,エホバの組織内で仕事を行なう用意ができました。割り当てられた仕事には,聖書文書や通信物を届けることが含まれていました。
文書は,シベリア,ロシア中央部,ウクライナ西部の全域に届ける必要がありました。あらゆることを前もって注意深く計画しなければなりません。ウクライナ西部に文書を届けるには,大きなスーツケースが必要でした。ある時,モスクワのヤロスラブリ駅で,一つのスーツケースのかぎが壊れ,文書がみな散らばってしまいました。私は平静を装い,祈りながら慌てずに文書を拾い集めました。どうにか荷物を全部まとめ,急いで駅を去りました。幸い,私に注目した人はだれもいませんでした。
別の時に,私は文書の詰まった二つのスーツケースを,ウクライナからモスクワ経由でシベリアへ運びました。列車の仕切り客室で,一つのスーツケースを下段の寝台の下に置くと,間もなく男性の乗客二人 ― KGBの捜査官 ― が客室に入ってきました。二人は会話の中でエホバの証人に触れ,「文書をばらまいて反ソビエト的な扇動行為に携わっている」と言いました。私は怪しまれないよう,努めて平静を保ちました。何しろ二人は,文書の上に座っていたも同然だったのです。
文書を届ける時であれ,他の割り当てを果たす時であれ,私はいつでも逮捕される覚悟ができていました。様々な状況のもとで,エホバに全面的に依り頼むことを学びました。
[158,159ページの囲み記事/図版]
『お前の仲間は全く違う』
ジナイダ・コジレバ
生まれた年 1919年
バプテスマ 1958年
プロフィール 複数の収容所で何年ものあいだ服役した。2002年に亡くなる。
子どものころから,私は神に仕えたいと強く願っていました。1942年に一人の友人が,自分の通っていたロシア正教の教会へ連れて行ってくれました。私が「地獄に落ちないように」という誠実な気持ちからでしたが,司祭は私がオセット人だと聞くと,洗礼を施すことを拒みました。ところが友人が少しお金を渡すと考えを変え,洗礼の儀式を行なってくれたのです。私は真理を求めて,アドベンティスト派,ペンテコステ派,バプテスト派とも交わり,そのために当局から強制労働を言い渡されます。収容所でエホバの証人に出会い,すぐに彼らが真理を持っていることに気づきました。1952年に釈放されると,家に帰って良いたよりを宣べ伝え始めました。
1958年12月のある朝早く,ドアをたたく大きな音が聞こえました。突然兵士たちが押し入ってきて家宅捜索を始め,そのうちの二人は私を部屋の隅に追いやって見張りました。父が起きてきて,家族のことを,特に息子たちのことをひどく心配しました。両親には5人の息子がいて,娘は私だけでした。父は,兵士たちがすべての部屋から屋根裏に至るまでくまなく捜しているのを見て,この捜索は私の信仰と関係があるということを察しました。そしてライフルをつかみ,「アメリカのスパイめ!」と叫んで私を撃とうとしましたが,兵士たちがライフルを取り上げました。実の父親が娘を撃とうとするとは信じられませんでした。捜索が終わると,私はほろの付いたトラックで連行されましたが,生きていられたのでほっとしました。その後,宗教活動のゆえに10年の懲役刑を宣告されます。
1965年12月,私は刑期が満了する前に釈放されました。両親は私を見て喜びましたが,父は私を家に置くことを望みませんでした。ところが驚いたことに,KGBの職員が私を家の住人として登録するよう父に強制し,私が仕事を見つけるのを手伝うことさえしたのです。父は以前と同じように冷ややかでしたが,私を訪ねてくる兄弟姉妹たちに会うようになり,しばらくして態度が変わってきました。私の兄や弟たちは働こうとせず,飲んでばかりいて,乱暴でした。ある時,父はこう言いました。「お前の仲間はわしが思っていたのと全く違うことが分かった。集会が開けるように,お前用の部屋をあげよう」。私は耳を疑いました。父は私に大きな部屋をあてがい,「心配するな。お前たちが集まっている間,だれも来ないように見張っていてやる」と言いました。皆が父の頑固な性格を知っていたので,事はそのとおりに運びました。
こうして,私の家で,エホバと父の保護のもと,クリスチャンの集会が開かれるようになりました。出席者はいちばん多い時で30人でした。それが当時オセチアにいたエホバの証人の数だったのです。両親が通りに座って見張ってくれているのが窓から見え,私はとてもうれしく思いました。今日オセチアでは,2,600人以上の熱心な伝道者がエホバの王国をふれ告げています。―イザ 60:22。
[162,163ページの囲み記事/図版]
収容所に残されたエホバの証人は私だけでした
コンスタンチン・スクリプチュク
生まれた年 1922年
バプテスマ 1956年
プロフィール 1953年に強制労働収容所で真理を学び,1956年に収容所内でバプテスマを受ける。エホバの証人として25年間ずっと収監されたままだった。2003年に亡くなる。
私は1953年の初めごろ,収容所の監房でワシーリーという名の兄弟に出会いました。神への信仰ゆえに収監されたということでした。なぜ神を信じて収容所に入れられるのかが理解できず,気になって眠れませんでした。翌日,そのことを説明してもらい,少しずつ聖書が神からの本であることを確信するようになりました。
1956年に私はバプテスマを受けました。その年の終わりに刑務官が検査を行ない,私たちがたくさんの聖書文書を持っているのを見つけました。取り調べが1年近く続き,1958年に私は宗教活動のゆえに裁判で23年の懲役を言い渡されました。すでにその時点で収容所に5年半いたので,刑期は合計28年と6か月になります。その間,一度も自由を味わうことはありませんでした。
1962年4月,私は裁判官から「極めて危険な犯罪者」と宣告され,重警備の収容所に移されます。そこで11年過ごしました。様々な理由で,この種の収容所は“特別”でした。例えば,一日の食費は一人当たり11コペイカで,一塊のパンも買えないほどの額でした。私は身長が192㌢ありましたが,体重はわずか59㌔で,皮膚がしなびてぽろぽろ落ちました。
私は営繕が得意だったので,しばしば役人のアパートの修理に遣わされました。だれも私を恐れず,住人は室内の物品をあえて隠そうとはしませんでした。ある役人の奥さんは,私がアパートで作業を行なうと聞いた時,6歳の息子を幼稚園に連れて行きませんでした。それはとても興味深い光景でした。“極めて危険な犯罪者”が,アパートで一日中6歳の子どもと二人きりだったのです。明らかに,だれも私を犯罪者とみなしておらず,まして“極めて危険”だとは思っていませんでした。
収容所にいた兄弟たちは皆,徐々に釈放されてゆきました。1974年,収容所に残されたエホバの証人は私だけでした。1981年8月に釈放されるまで,さらに7年服役しましたが,エホバは霊的に支え続けてくださいました。どのようにでしょうか。その7年の間,私は「ものみの塔」誌を手紙の形で受け取りました。ある兄弟が,新しい号を手できれいに書き写して定期的に送ってくれたのです。収容所の検閲官は毎回,開封済みの手紙を渡してくれました。ですから,彼も手紙の内容をよく知っていたことになります。なぜそのような危険を冒してくれたのかは今でも分かりませんが,その検閲官が7年の間ずっとそこで働いていたことをありがたく思っています。何より,私はエホバに感謝しています。長い年月にわたって,神に依り頼むことを学び,エホバから力をいただきました。―ペテ一 5:7。
[168,169ページの囲み記事/図版]
終戦後,ロシアに帰りました
アレクセイ・ネポチャトフ
生まれた年 1921年
バプテスマ 1956年
プロフィール 1943年にブーヘンワルト強制収容所で真理を学び,ロシアで19年間服役する。正規開拓者として30年以上奉仕したが,その大半は禁令下だった。
アレクセイは20歳の時に,ナチス・ドイツのアウシュビッツ強制収容所に送られました。その後,ブーヘンワルト収容所に移され,そこで真理を学びます。釈放される少し前,二人の油そそがれた証人にこう言われました。「アレクセイ,戦争が終わったらロシアに帰るといいでしょう。広大なその国では,刈り取る者たちがとりわけ必要とされています。難しい状況にあるので,あらゆる種類の試練に直面する覚悟でいてください。あなたのために,そして音信を聴く人たちのために祈っています」。
1945年にアレクセイは英国軍によって自由にされ,ロシアに帰りましたが,間もなく投票を拒んだために10年の懲役刑を宣告されました。こう書いています。「初めのころ,刑務所にいたエホバの証人は私だけでした。羊を見いだせるようエホバに導きを求め,やがて人数は13人になりました。その間ずっと聖書文書はなく,私たちは刑務所の図書室で借りた小説から聖句を書き写しました」。
アレクセイは10年の刑期を終えて釈放された後,ある地域に行きました。そこにはイエスを信じる人が大勢いるということを知っていたからです。こう述べています。「人々は霊的に飢えており,昼夜を問わず,子どもたちも連れて訪ねて来ました。聞いた事柄はすべて聖書を開いて確かめていました」。
続く数年間にアレクセイは,バプテスマを受けるよう70人以上を援助しました。そのうちの一人だったマリヤは,後に妻になりました。アレクセイは当時を振り返ってこう話します。「KGBが私を捜していました。私は逮捕され,25年間の懲役を言い渡されました。それからマリヤもKGBに逮捕され,裁判の前に7か月のあいだ独房に監禁されます。捜査官はエホバを否定すればすぐに自由にしてやると言いましたが,マリヤはそれを拒み,裁判で強制労働収容所における7年の懲役刑を宣告されました。クリスチャンの姉妹が,まだ乳飲み子だった娘を引き取って世話してくれました」。
アレクセイとマリヤは刑期が満了する前に釈放され,トベリ州に移動しました。そこでは当局や地元の人々の強い反対に遭い,ある近所の人は二人の家に放火します。その後,幾年かのあいだ二人は何度も引っ越すことを余儀なくされますが,行く先々で新たな弟子を作りました。
アレクセイはこう言います。「投獄されていた期間,私たちは神の言葉を読むことができませんでした。それ以来,聖書を毎日読むことを目標にしてきました。マリヤと私はこれまでに聖書を40回以上読み通しました。神の言葉により,宣教奉仕を行なうための力や熱意を得てきたのです」。
アレクセイは生涯中,ナチスの強制収容所で4年間,またロシアの刑務所や収容所で19年間過ごしました。そして開拓奉仕を30年行ない,妻と共に,エホバを知って愛するよう多くの人を助けました。
[177,178ページの囲み記事/図版]
兵士の言ったとおりでした
レギーナ・ククシキナ
生まれた年 1914年
バプテスマ 1947年
プロフィール 長い年月にわたり会衆と接触できなかったが,忠実に良いたよりを宣べ伝え続けた。
私は1947年に市場で一人のエホバの証人から話しかけられました。その晩,彼女の家を訪ね,何時間か話し合いました。この人のように熱心にエホバに仕えたいとすぐに思い,「あなたに倣ってわたしも伝道します」と言いました。
1949年,ウクライナのリボフで宣べ伝えていたところ逮捕され,私は夫と幼い二人の娘から引き離されました。いわゆるトロイカ,つまり3人の判事が行なう非公開の法廷審問により,銃殺刑を宣告されましたが,判事の一人だった女性が判決文を読み上げた際,こう付け加えました。「あなたには二人の子どもがいるため,死刑を25年の懲役に減刑することにした」。
私は男性しかいない監房に連れて行かれました。彼らは私がエホバの証人であることをすでに知っており,25年の刑を言い渡されたと聞いて,私がとても落ち着いていることに驚きました。刑務所から連れ出された時,一人の若い兵士が食べ物の入った包みを渡してくれて,優しくこう言いました。「怖がらなくても大丈夫ですよ。きっと無事でいられますから」。
1953年まで,ロシア北部の収容所で服役しました。その収容所にはソ連の様々な共和国から来た姉妹たちがたくさんいて,みな家族のように愛で結ばれていました。
私たちは,他の人が神に仕えるよう動かされることを願って,自分たちの行状が良い証言となるように努めました。仕事は長時間で,きついものでした。私は刑期が満了する前に収容所から釈放されましたが,別の仕方で孤立することになります。5年以上,会衆と全く接触を持てなかったのです。それは投獄よりもずっと困難な経験でした。しかし,そうした状況にあっても,常にエホバの支えと変わることのない愛を感じました。聖書をよく読んで黙想することにより,霊的に強められました。
エホバは,思いもよらない方法で証人たちと接触を持てるように助けてくださいました。「ソビエト・ロシア」という新聞に,ロシア南西部のオセチアの兄弟たちに関する批判的な記事を見つけたのです。記事には,エホバの証人の活動はソビエト社会に反対するものだとあり,兄弟姉妹の名字や住所も公表されていました。私は大喜びし,手紙を書いて,会いたい旨を伝えました。やっと会うことができると,兄弟たちは大きな支えになってくださり,私が神の民と連絡を取れるようにエホバがその記事の掲載を許されたのだと言いました。
私は現在92歳です。確かに,あの親切な兵士の言ったとおりでした。これまでの人生で,苦難も経験しましたが,私はずっと無事でいられました。
[188,189ページの囲み記事/図版]
「天幕用留め杭」をできる限りしっかり打ち込む
ドミトリー・リビー
生まれた年 1921年
バプテスマ 1943年
プロフィール ロシアの国内委員会で20年以上奉仕し,現在はシベリアの会衆で長老として仕えている。
それは1944年,第二次世界大戦が終わる半年前のことでした。私はクリスチャンの中立の立場ゆえに,軍事裁判所で判事の前に立っていました。銃殺刑を宣告されましたが,矯正労働収容所における10年間の懲役に減刑されました。
1945年1月,私はロシア北部のコミ共和国にあるペチョラという町の収容所に連れて行かれました。収監されていた何百人もの囚人の中に,兄弟たちが10人いました。残念ながら私が持っていた唯一の「ものみの塔」誌は没収され,私たちには霊的食物が全くありませんでした。私は体が弱りきって,仕事を何も行なえない状態でした。浴場で体を洗っていた時,ある兄弟に骸骨みたいだと言われました。実際,あまりにも哀れな姿だったので,私はボルクタの療養施設に移されました。
しばらくして少し回復したので,砂を掘って集める仕事をさせられましたが,1か月もたたないうちにまた骸骨のようになってしまいました。医師は私が食べ物をたばこと交換していると思ったようですが,私はエホバの証人なので喫煙はしないと言いました。そこに2年以上いて,エホバの証人は私だけでしたが,真理に好意的に耳を傾ける人がいつもいました。中には良いたよりにこたえ応じる人もいたのです。
ある時,親族が手で書き写した「ものみの塔」誌を送ってくれました。刑務官が荷物を一つ一つ注意深く調べていたのに,どうして受け取ることができたのでしょうか。四つ折りにされたページが二重底の缶の中に入れられ,その上に脂身がたっぷり詰められていたのです。刑務官は缶を突き刺しましたが,不審な物は何も見つけられなかったので,缶を渡してくれました。その「生きた水」の源により,しばらくのあいだ支えられました。―ヨハ 4:10。
1949年10月,私は刑期が満了する前に釈放され,11月に故郷のウクライナに帰りました。幾人かの兄弟たちが私たちの活動を登録するためにモスクワへ行ったと聞きましたが,当局はソ連のエホバの証人を認可する意思がないようでした。
1951年4月8日の夜,私たちは他のエホバの証人の家族と一緒に列車に詰め込まれ,シベリアへ送られました。2週間後,はるかシベリアの中央部にあるイルクーツク州のハザンという村にたどり着きました。
「あなたの天幕の綱を長くし,あなたのその天幕用留め杭を強くせよ」という,イザヤ 54章2節の言葉が,私たちの心を打ちました。この預言が自分たちに成就しているように思えたのです。進んでシベリアに移動しようと考える人などいなかったでしょう。私は,自分たちの天幕用留め杭をできる限りしっかり打ち込まなければならないと思いました。それで,55年余りシベリアで暮らしてきたのです。
[191,192ページの囲み記事/図版]
自分の住まいを持ったことは一度もありませんでした
バレンチーナ・ガルノフスカヤ
生まれた年 1924年
バプテスマ 1967年
プロフィール 刑務所や収容所で21年間過ごした。そのうちの18年間はバプテスマを受ける前だった。真理を学ぶよう44人を助け,2001年に亡くなる。
母と私は,ベラルーシ西部に住んでいました。エホバの証人と出会ったのは1945年2月で,一人の兄弟が3回だけ我が家に来て聖書からいろいろ教えてくれました。その兄弟に再び会うことはありませんでしたが,私は近所の人や知り合いに宣べ伝え始めました。その結果,当局に逮捕され,収容所での8年の懲役を言い渡されて,ウリヤノフスク州に送られます。
私は収容所でエホバの証人に会えたらと思い,他の囚人を観察し,会話に耳をそばだてました。1948年,一人の女性の囚人が神の王国について話すのを耳にしました。アーシャという名前のその姉妹と霊的な事柄を話題にできて,とてもうれしく思いました。程なくして,さらに3人の姉妹が収容所に連れて来られます。文書がほとんどなかったので,私たちはできるだけ一緒にいるようにしました。
私は1953年に釈放されましたが,3年半後,伝道を行なったことで有罪になり,10年の刑を宣告されました。1957年に送られたケメロボの収容所には,180人ほどの姉妹たちがいました。聖書文書が全くないということはありませんでした。冬には雪の中に文書を隠し,夏には茂みや地中に隠しました。検査の際,私は両手に手書きの写しを隠し持ち,大きなショールの端をつかんで肩に羽織りました。別の収容所に移動する時には,自分で縫った帽子をかぶり,中に「ものみの塔」誌を何冊か入れました。
やがて,私はモルドビニアの収容所に送られます。そこには聖書があり,安全な場所に隠されていました。その聖書は,管理を任されていた姉妹が一緒にいる時だけ見ることができました。私がそれ以前に聖書を見たのは,1945年に初めて真理を知らせてくれた兄弟に見せてもらった時だけでした。
1967年に釈放されると,私はウズベキスタンのアングレンに行き,そこでエホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けることができました。あの最初の訪問以来,兄弟たちに会ったのは初めてでした。何しろ,女子収容所でしか服役したことがなかったからです。会衆の兄弟姉妹たちは全員,宣教奉仕に熱心で,私はすぐに皆を愛するようになりました。しかし,1969年1月,会衆の兄弟8人と姉妹5人が伝道を行なったことで逮捕され,私もその中にいました。私は「極めて危険な犯罪者」として3年の刑を宣告され,収容所でも宣べ伝えたので何度も独房に監禁されました。
毛布の下に隠れて,関心のある人と聖書研究を行なったものです。散歩中も話すことは禁じられていて,話しているのが見つかると罰として独房に入れられました。用いた文書は手書きのものだけで,それを繰り返し書き写しました。
自分の住まいを持ったことは一度もありませんでした。持ち物はすべて一つのスーツケースに収まりましたが,それでもエホバに仕えられることが幸せで,満ち足りていました。
[200,201ページの囲み記事/図版]
捜査官によって霊的に強められる
パベル・シブルスキー
生まれた年 1933年
バプテスマ 1948年
プロフィール イデオロギー的な再教育を繰り返し受けさせられる。現在はロシアの会衆で長老として仕えている。
私は1958年に宗教活動のゆえに逮捕されました。警察官に列車まで護送され,「妻には二度と会えないから,最後によく見ておくんだな」と言われました。
イルクーツクで,私は狭くて立つことしかできない特別な監房に入れられました。その後,裁判までの6か月間,独房に監禁されました。夜に尋問が行なわれ,捜査官たちは私の聖書に対する信仰や神の組織への信頼を弱めようと,あらゆる手を使いました。私はエホバの証人の違法な活動に携わったとして非難されました。暴力が振るわれることもありましたが,主に用いられたのは洗脳という手段でした。私は確固とした態度を保てるようエホバに力を懇願し,エホバはずっと支えてくださいました。
いつもどおり尋問が行なわれたある日,捜査官は私を事務室に呼び入れ,こう言いました。「これからお前たちの組織がやっていることを見せてやる。そうすれば,それが神の業かどうかが分かるだろう」。
捜査官は私をじっと見ながらこう続けました。「今年ニューヨークでお前たちの大会が開かれ,二つのスタジアムに25万3,000人が集まった。この行事の規模を考えれば,CIAの助けなしで成し遂げられるはずがないと分かるだろう。大会は8日間続き,出席者がいろいろな国から飛行機や列車や船などの交通手段を使ってやって来た。こういうことがすべて当局の助けなしにできると思うか。こうした巨大なスタジアムで8日間も大会を開くための費用をだれが払えるというんだ」。
捜査官はテーブルの上に写真をばらまきました。そのうちの1枚には,色とりどりの民族衣装を身に着けた出席者たちがうれしそうに抱き合う様子が写っていました。ほかにも,話を行なっているノア兄弟や,バプテスマの様子,またノア兄弟がバプテスマを受けた人たちに「御心が地に成るように」の本を渡しているところを撮った写真などがありました。私たちはその本を受け取っていませんでしたが,後に「ものみの塔」誌を読んで知ったのです。捜査官は私の目を見ながらこう言いました。「この本に何が書いてあるか知っているか。北の王とその行く末についてだ。エホバの証人が自分たちだけでこのようなことを組織できるわけがないだろう。我々は,こうした行事にアメリカの軍人が出席し,お前たちの手本から軍隊の活動を組織する方法を学ぼうとしているのを知っている。さらに,ある大富豪がこの大会を開けるように多額の金を寄付したことも知っている。大富豪は理由もなく大金を出したりはしない」。
私がその時どういう気持ちでいたか,捜査官は知る由もありませんでした。刑務所から一歩も出ることなく,大会に出席しているような気分になったのです。新たな力がわき上がってくるのを感じました。このような励ましをまさに必要としていた時に,エホバは特別な仕方で豊かに祝福してくださいました。おかげで,さらに耐え忍ぶための心構えができました。
[214,215ページの囲み記事/図版]
映画館はエホバの証人でいっぱいでした
ベネラ・グリゴリエバ
生まれた年 1936年
バプテスマ 1994年
プロフィール 1960年代に女優として働き,ソビエトのプロパガンダ映画に出演した。1995年以来,サンクトペテルブルクで正規開拓者として奉仕している。
女優の道を歩み始めた1960年に,私は「神の証人たち」というドキュメンタリー映画の主役に選ばれました。ソビエトの映画館で上映されたその映画は,“恐怖のセクトであるエホバの証人”を描いたもので,私が演じたヒロインのターニャは彼らのせいで命を落とすという設定でした。台本によると,ターニャは猛吹雪の夜にコートも着ずにその“セクト”から逃げ出します。そして彼女は雪の中に消え,「これがターニャ・ベセロワの最期でした」という悲しげなナレーションが流れるのです。私はこの台本が気に入り,エホバの証人に対する戦いに加われることを名誉に思いました。とはいえ,私が彼らについて知っていたのは,台本に書かれていたことだけでした。
映画はソ連の多くの都市の映画館や集会所で上映されました。私はそれぞれの場所の初日に出かけて行き,映画が終わってからステージに登場しました。当時,ソビエトの人たちはスクリーンで見たことをすべてそのまま信じていたので,私が出ていくと皆が安堵の溜め息をつき,「彼女は生きていた!」と言ったものです。それから私は,映画がどのように撮影されたかを説明しました。そして,私が風に押されて谷に入り込み,雪で覆われたように見えた吹雪の場面を,監督や特殊効果を担当した人たちがどのように演出したかを話しました。
ある時,カリーニン州(現在はトベリ州)のブイシニー・ボロチェクで,一つの映画館が満員になりましたが,その晩はいつもと少し様子が違っていました。映画が終わってから,一人の年配の男性が宗教に関する質問ばかりするので,私は地上の生命の始まりについて無神論的な考えを主張しました。だれ一人,映画については何も言いませんでした。舞台裏に戻った私は主催者に,「今話した相手は一体だれですか」と尋ねました。
「あれはエホバの証人派の幹部だよ。館内は証人たちでいっぱいで,ほかにはだれもいないんだ」と,主催者は言いました。こうして,それと知らずに私はエホバの証人と出会ったのです。このことがあってから聖書を読んでみたいと思いましたが,手に入りませんでした。私はポーランド人の男性と結婚し,一緒にポーランドに引っ越しました。1977年,二人の姉妹が我が家を訪れ,間もなく私は彼女たちと聖書を研究するようになりました。聖書がとても好きになり,主人と私は証人たちと仲良くなりましたが,1985年に父が病気になったので,私たちは世話をするためレニングラード(現在はサンクトペテルブルク)に行きました。私はそこにいるエホバの証人と連絡が取れるよう,エホバに助けを祈り求めました。
ついに私はエホバの証人になることができました。これまで12年のあいだ正規開拓者として奉仕しており,夫のズジスワフはサンクトペテルブルクの会衆で奉仕の僕として仕えています。
私は個人的な経験を通して,映画業界は「誤らせようとたくらむ巧妙さによって」多くの人を惑わせるということを知っています。(エフェ 4:14)あのソビエトのプロパガンダ映画に出演した時は,30年後に自分がエホバの証人になるとは夢にも思っていませんでした。
[237ページの囲み記事]
ロシア語の「新世界訳」
100年以上にわたり,エホバの証人は様々なロシア語の翻訳聖書を活用してきました。その一つは宗務院訳です。この訳は言葉遣いが古く,神のみ名もほとんど使われていませんが,それでも大勢のロシア語の読者が神の目的を理解する上で役に立ちました。神のみ名が3,000回ほど出ているマカリー訳も有用でした。しかし,ロシア人のエホバの証人が増えるにつれ,正確で分かりやすい現代語訳聖書の需要も高まりました。
統治体は,「新世界訳」がロシア語に翻訳されるように取り決めました。ロシア支部は10年余りを費やして,その大きな翻訳の仕事を行ないました。
2001年,ロシア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳」が発行されます。そして2007年には「新世界訳聖書」全巻のロシア語版が出版され,世界中のロシア語の読者は大喜びしました。統治体のセオドア・ジャラズがサンクトペテルブルクで,スティーブン・レットがモスクワでその発表を最初に行なうと,割れるような拍手が沸き起こりました。すぐに熱烈な反応が見られ,一人の姉妹は手紙にこう書きました。「なんて明快で理解しやすい,生き生きとした言葉遣いでしょう。聖書を読むのがさらに楽しくなりました」。多くの人が,「エホバからの貴重な贈り物です」とか,「本当にありがとうございます」という言葉で,組織に対する感謝を表わしました。ロシア語版の「新世界訳」の発行は紛れもなく,ロシア語を話し真理を愛するすべての人にとって,画期的な出来事だったのです。
[244,245ページの囲み記事/図版]
一日のうちに問題がすべて解決しました
イワン・スラバとナターリヤ・スラバ
生まれた年 1966年と1969年
バプテスマ 1989年
プロフィール 開拓者として二人で必要の大きな所へ移動した。現在イワンはロシアの支部委員として奉仕している。
ナターリヤと私は,1990年代の初めに,ウクライナからロシアへ引っ越しました。ベルゴロドは人口が150万人近い州でしたが,伝道者は10人もいませんでした。そこは間違いなく,『収穫は大きいが働き人は少ない』所でした。―マタ 9:37。
私たちは結婚したばかりで,自活するために仕事を見つける必要がありましたが,国の経済状態が悪化し,多くの人が職を失いました。人々が基本的な食料品を入手できるように,政府はクーポンを発行し,それは職場で配られました。私たちは無職だったのでクーポンをもらえず,市場で高いお金を払って食物を買わなければなりませんでした。また,住む場所もなかなか見つからなかったので,ホテル住まいを強いられていました。20日分の宿泊費を支払うと,もう財布はほとんど空っぽでした。私たちは,仕事と家賃の安い家を見つけられるように助けてくださいと毎日エホバに祈り,その間もずっと熱心に宣べ伝え,誠実な人たちを探しました。ついに,ホテルに泊まれる最後の日になります。私たちは残ったお金でロールパン1個と牛乳1パックを買い,その晩ベッドに入る前に,仕事と住まいが見つかるよう,もう一度エホバに助けを祈り求めました。翌朝には部屋を出なければならなかったからです。
朝になり,私たちは電話の音で起こされました。思いがけないことに,私のいとこがロビーで待っているという,ホテルの支配人からの連絡でした。いとこは,最近かなりのボーナスをもらったから分けてあげたいと言って,少しお金をくれたのです。でもこれで終わりではありませんでした。数分後に一人の兄弟から電話がかかってきて,家賃の安いアパートを見つけたとのことでした。そのうえ同じ日に,ある幼稚園の敷地を管理する仕事に就くことができました。それで,一日のうちに問題がすべて解決しました。少しのお金も,住む場所も,仕事も手に入ったのです。エホバが私たちの祈りを聞いてくださったことに,疑問の余地は全くありませんでした。
1991年,ベルゴロド市で記念式に出席した人数は55人でした。1年後,その数は150人に増え,さらに翌年には354人が出席しました。2006年の時点で,同市には六つの会衆があり,ベルゴロド州全体の伝道者は2,200人を超えていました。
[250ページの囲み記事]
近年における法律上の進展
エホバの証人が政府の妨害を受けずに崇拝を行なう権利は,2007年1月に確証されました。ヨーロッパ人権裁判所が,全員一致でエホバの証人に有利な判決を下し,こう述べたのです。「エホバの証人の成員が集団で宗教文書を学び,討議することは,礼拝および教育によるその宗教の表明として認められた一様式である」。
モスクワ市内のエホバの証人の活動は2004年に当局により制限されましたが,兄弟たちは引き続き崇拝のために公に集まり合い,可能な限り宣べ伝える業に携わっています。2007年,モスクワの兄弟たちは,ロシア全土の大抵の場所と同じように,喜びのうちに記念式を祝い,妨害されることなく地域大会を開催しました。
法律上の問題は依然としてありますが,兄弟たちは引き続き勇敢に反対に立ち向かっています。一例として,2006年4月12日にリュブリノ警察がモスクワでの記念式を中断させたことに関し,ヨーロッパ人権裁判所に新たな申し立てが行なわれました。警察は14人の兄弟を留置し,弁護士にナイフを突きつけて脅したのです。地元の裁判所は兄弟たちに部分的に有利な判決を下しましたが,上訴審でその判決は覆され,敗訴に終わりました。さらに,2007年7月には,サンクトペテルブルクにおけるエホバの証人の宗教活動に関して長期にわたる不当な捜査を行なっていた複数の政府役人に対し,訴えが起こされました。
[228-230ページの図表/グラフ]
年表 ― ロシア
1890
1891年 シミョン・コズリツキーが大胆に宣べ伝えたためにロシア帝国の東部へ流刑にされる。
1904年 聖書文書に対する感謝の手紙がロシアからドイツ支部に届く。
1910
1913年 ロシア政府が,当時ロシア帝国の一部だったフィンランドの聖書研究者たちの事務所を承認する。
1923年 ロシアから聖書文書を求めるたくさんの手紙が,ものみの塔協会に届くようになる。
1928年 モスクワでジョージ・ヤングが,ロシアの聖書研究者の活動に対する許可を求める。当局はビザの延長を拒む。
1929年 エストニアのタリンでラジオ局と契約が結ばれる。放送された聖書講演をレニングラードや他の都市の人々が聴く。
1930
1939-1940年 ウクライナ,モルドバ,バルト諸国がソ連に併合される。その結果,何千人ものエホバの証人がソ連の領内に入ることになる。
1944年 何百人もの証人たちがロシア各地の刑務所や強制労働収容所に送られる。
1949年 エホバの証人がモルドバからシベリアや極東地方へ流刑にされる。
1950
1951年 ウクライナ西部,ベラルーシ,ラトビア,リトアニア,エストニアから,8,500人を超える証人たちがシベリアへ流刑にされる。
1956/1957年 世界各地で開かれた199の地域大会の出席者たちが,ソビエト政府に信教の自由を請願する。
1950年代後半 600人を超える証人たちが,モルドビニアの特別な強制労働収容所で厳重に隔離される。
1965年 ソビエト政府が居住地の制限を解除する特別の命令を出す。シベリアへ流刑にされていた証人たちは各地に散って定住する。
1970
1989-1990年 統治体の成員が初めてロシアの兄弟たちに会う。ソ連の証人たちがポーランドに行って特別大会に出席する。
1990
1991年 3月27日にエホバの証人がロシアで法的認可を受ける。
1992/1993年 サンクトペテルブルクとモスクワで国際大会が開かれる。
1997年 サンクトペテルブルクに近いソーネチノイェ村に建てられたロシア支部が献堂される。
1999年 サンクトペテルブルクに建てられた,ロシアで最初の大会ホールが献堂される。
2000
2003年 支部の拡張が完了する。
2007年 ロシアで2,100を超える会衆や孤立した群れの伝道者たちが活発に奉仕する。
[グラフ]
(出版物を参照)
伝道者数
開拓者数
伝道者数
開拓者数
旧ソ連の15の国々の伝道者数
360,000
300,000
240,000
180,000
120,000
60,000
40,000
20,000
1890 1910 1930 1950 1970 1990 1990 2000
[218ページの図/地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
文書を国じゅうに届けるため,他の支部が協力した
ドイツ フィンランド
↓ ↓
ソーネチノイェ
↓ ↓ ↓ ↓
ベラルーシ カザフスタン モスクワ ロシア
日本
↓
ウラジオストク
↓
カムチャツカ
[116,117ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
北極圏
北極海
北極点
バレンツ海
カラ海
ラプテフ海
東シベリア海
チュコート海
ベーリング海峡
スウェーデン
ノルウェー
デンマーク
コペンハーゲン
ドイツ
ポーランド
ウッジ
ワルシャワ
バルト海
フィンランド
エストニア
ラトビア
リトアニア
ベラルーシ
ブレスト
ウクライナ
リボフ
モルドバ
カスピ海
カザフスタン
アスタナ
ケンギル
ウズベキスタン
タシケント
アングレン
中国
モンゴル
ウランバートル
中国
日本海
日本
東京
北海道
オホーツク海
ベーリング海
ロシア
ペトロザボーツク
サンクトペテルブルク
ソーネチノイェ
カリーニングラード
ノブゴロド
ブイシニー・ボロチェク
モスクワ
トゥーラ
オリョル
クルスク
ボロネジ
ウダルヌイ
ウラジーミル
イワノボ
ニジニノブゴロド
スイクトゥイフカル
ウフタ
ペチョラ
インタ
ノバヤゼムリャ
ボルクタ
ウラル山脈
シベリア
エカテリンブルク
ナベレジヌイエ・チェルヌイ
イジェフスク
サラトフ
ボルシスキー
スタブロポリ
ピャチゴルスク
エリブルス山
ナリチク
ナルトカラ
ベスラン
ウラジカフカス
カフカス山脈
アストラハン
ボルガ川
トムスク
ノボシビルスク
ケメロボ
クラスノヤルスク
ノボクズネツク
ウスチ・カン
アクタシュ
ビリュシンスク
オクチャブリスキー
ブラーツク
ビホレフカ
トゥルン
ハザン
ジマー
ザラリ
ウソーリエ・シビルスコエ
キトイ
アンガルスク
イルクーツク
バイカル湖
キレンスク
ハバロフスク
ウラジオストク
コルサコフ
ユジノ・サハリンスク
サハリン
ヤクーツク
オイミャコン
ウスチ・ネラ
カムチャツカ
チュコート半島
コリマ川
ハイール
ノリリスク
[167ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
カスピ海
バルト海
バレンツ海
カラ海
北極海
北極点
ラプテフ海
東シベリア海
チュコート海
ベーリング海峡
オホーツク海
日本海
カザフスタン
中国
モンゴル
ムルマンスク
プスコフ
トベリ
モスクワ
ベルゴロド
ボロネジ
ロストフ
カバルディノ・バルカル
北オセチア
イワノボ
ニジェゴロド
モルドビニア
ウリヤノフスク
ボルゴグラード
タタールスタン
ペルミ
コミ共和国
ウラル山脈
シベリア
スベルドロフスク
チェリャビンスク
クルガン
チュメニ
オムスク
トムスク
ノボシビルスク
アルタイ
アルタイ共和国
ケメロボ
ハカシア共和国
クラスノヤルスク
トゥーバ共和国
イルクーツク
ブリャート
チタ
サハ共和国
アムール
ハバロフスク
プリモルスキー地方
サハリン
カムチャツカ
[66ページの図版]
チュコート半島の日の出
[68ページの図版]
カザフ語とロシア語で書かれたこの標識は,シミョン・コズリツキーが流刑にされたシベリアのブフタルマ村の方向を指している
[71ページの図版]
ヘルケンデル夫妻は新婚旅行の際に,ロシアでドイツ語を話す人たちを援助した
[74ページの図版]
カールロ・ハルテバ(右)に与えられた委任状。ニューヨーク駐在のロシア帝国領事が政府の印を押した
[80ページの図版]
1925年5月,ペンシルバニア州カーネギーで開かれたロシア語の大会に250人が出席し,29人がバプテスマを受けた
[81ページの図版]
この雑誌は,「ボロネジ州には宗派がはびこっている」と言明した
[82ページの図版]
ジョージ・ヤング
[84ページの図版]
アレクサンドル・フォルストマンは10年近く,パンフレット,小冊子,書籍をロシア語に翻訳した
[90ページの図版]
ピョートル・クリボクルスキーと妻のレギーナ,1997年
[95ページの図版]
オルガ・セブリュギナはピョートルの“石付き手紙”のおかげでエホバの僕になった
[100ページの図版]
イワン・クリロフ
[101ページの図版]
シベリアへ流刑にされた証人たちは,自分で家を建てた
[102ページの図版]
マグダリーナ・ベロシツカヤは家族と共にシベリアへ流刑にされた
[110ページの図版]
ビクトル・グットシュミット
[115ページの図版]
1964年当時のアーラ
[118ページの図版]
シミョン・コスティリエフの近影
[120ページの図版]
ウラジスラフ・アパニュクは聖書に基づく訓練のおかげで,信仰の試みを乗り越えることができた
[121ページの図版]
警察はナデジュダ・ビシュニャクの家で,この「ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世」という小冊子を見つけた
[126ページの図版]
ボリス・クリルツォフ
[129ページの図版]
ビクトル・グットシュミットと,妹(上),娘たち,そして妻のポリーナ。1957年にビクトルが逮捕される約1か月前
[134ページの図版]
イワン・パシュコフスキー
[136ページの図版]
1959年,「クロコダイル」誌に,積みわらの中から発見された文書の写真が掲載された
[139ページの図版]
この家の下に,1959年にKGBに発見された印刷所の一つがあった
[142ページの図版]
アレクセイ・ガブリャクは,散らばってしまった人たちが再び結ばれるよう助けた
[150ページの図版]
手作りの印刷機器
輪転式印刷機
プレス機
断裁機
中とじ機
[151ページの図版]
路面電車の運転手だったステパン・レビツキーは,勇気を出して印刷工と交渉した
[153ページの図版]
グリゴリー・ガチロフは刑務所の監房で他の人に宣べ伝えた
[157ページの図版]
丈の高い花が格好の目隠しになり,聖書研究や討議を行なうことができた
[161ページの図版]
小さな小冊子の形に作られた「ものみの塔」誌の実物大
[164ページの図版]
「ソ連最高会議幹部会の命令」
[170ページの図版]
兄弟たちは側面が二重のスーツケースやブーツの底に“宝”を隠した
[173ページの図版]
イワン・クリムコ
[175ページの図版]
“クモの糸”文字で書かれた「ものみの塔」誌は,マッチ箱に5冊か6冊入れることができた
[184,185ページの図版]
モルドビニアのある収容所では,収監されていた何年もの間,記念式に出席できなかった兄弟は一人もいなかった
[194ページの図版]
ニコライ・グツリャクは,収容所の司令官の妻に非公式の証言をした
[199ページの図版]
国際大会
1989年,ロシアの兄弟たちが,ポーランドの3か所で開かれた国際大会に出席した
ワルシャワ
ホジュフ
ポズナニ
[202ページの図版]
正式に登録が行なわれた後。左から右へ: セオドア・ジャラズ,ミハイル・ダーセビッチ,ドミトリー・リビー,ミルトン・ヘンシェル,法務省の職員,アナーニー・グローグル,アレクセイ・ベルジュビツキー,ウィリー・ポール
[205ページの図版]
1992年,サンクトペテルブルクのキーロフ・スタジアムにおける「光を掲げる人々」国際大会で話を行なうミルトン・ヘンシェル
[206ページの図版]
ロシアのソーネチノイェに土地が購入された
[207ページの図版]
アウリス・ベルグダルと妻のエバ・リサは,ソーネチノイェに到着した最初の自発奉仕者の一団の中にいた
[208ページの図版]
ハンヌ・タンニネンと妻のエイヤは,サンクトペテルブルクに遣わされた
[210ページの図版]
ローマン・スキバは妻のリュドミラと共に,地域の奉仕のために長距離を移動した
[220ページの図版]
ウラジオストクの埠頭で文書を取り扱う兄弟たち
[224ページの図版]
アルノー・トゥングラーと妻のゾンヤは,ロシアの任命地でたくさんの楽しい経験をしてきた
[226,227ページの図版]
サンクトペテルブルクの近くの森で行なわれた会衆の集会,1989年
[238ページの図版]
ロシア支部は,40以上の言語に文書を翻訳する仕事を監督している
[243ページの図版]
サンクトペテルブルクで初めて開かれた開拓奉仕学校,1996年6月
[246ページの図版]
ロシアでの伝道風景
ペルミ州とナルトカラの農村部で
サンクトペテルブルクの街路で
ヤクーツクでの戸別伝道
サラトフの市場で
[252,253ページの図版]
ロシア支部
上空から見た宿舎とその周辺
[254ページの図版]
2006年,モスクワでの地域大会に2万3,537人が出席した
[254ページの図版]
ルジニキ・スタジアム