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神の過分の御親切から恵みを受けてものみの塔 1962 | 12月15日
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もちろん長年の間には自分の体力の不足を感じさせるような事も時折ありました。私の身体の弱さのために仕事を中断しなければならない時があったからです。先回胃を激しくおかされた時には,私の奉仕がここで終りになるかと思いました。病院にかつぎこまれ,直ちに手術台に寝かされました。しかしエホバを強く確信していた私は,そのような事態に面しても平静を保つことが出来ました。手術を担当した医者は信頼出来る人で,私の病状にはあまり希望を持てないのにもかかわらず,血液を使用しないという宗教上の見解にもすすんで敬意を示し,しかも彼の手術は成功したのです。回復には時間がかかりましたが,私は皆が驚くほど快方に向かいました。その時に私は,「肉体のとげ」と言ったパウロの気持を想像出来ました。それから解放される事を願った彼に主は言われました,「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。(コリント後 12:7-9,新口)私の病気が,私の弱さまでが,親切にしてくれた病院の職員や他の患者に証言する良い機会になりました。
仕事のためにものみの塔協会フィンランド支部事務所にはいってからすでに40年になります。しかし私にはそんなに長くは感じられません。かって私が目指していた音楽家としての生涯は棄てました。しかし私が今確信しているのは,物質的利益,また自分の名誉を追い求める事に本当の幸福は見出せないという事です。むしろ私はエホバに対する賛美を歌う事のうちに遙かに大きな喜びを見出しました。そして,私が語学に熱中していた事は後年になってより重要な意味を持つようになりました。それは,生命のたよりを私がその中にあって奉仕している人々の言葉に翻訳する仕事の一部に参加する事が出来たからです。私にこれらすべての機会を与え,私の生涯を喜びで満たし,さらにその喜びを他の者と共に分かち合うために私自らをささげさせたもの,それこそ神の過分のご親切です。
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手と聖書ものみの塔 1963 | 2月1日
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手と聖書
他の指と向き合う事のできる親指を持つ独特な人間の手は,創造者の知恵とみわざの偉大さとを雄弁に証明しています。実に,もしこの独特のかたちをした手がなかったならば,人間のできる仕事はもっと限られたものになっていたでしょう。
それゆえ当然のことながら,聖書の中には手に関する記述が何度も,およそ2000回ぐらいも出てきます。まず手は,長さをはかるために使われました。一手幅は3インチ(約7.5センチ),いっぱいに広げた手のひらの親指の先から小指の先までを言う1あたりは9インチ(約23センチ)でこれは1キュビトの半分です。それで聖書に,巨人ゴリアテの身のたけは6キュビト半とあるのを読めば,彼の身長が9フィート9インチ(2.93メートル)であった事が分かります。―出エジプト 37:12。サムエル前 17:4。
手は祈りをする場合にも使われました。ソロモン王は宮を献堂する時に,ただ手を組むのではなく,もっと思いをこめて,エホバ神に強く懇願する気持を表わすため両手をひろげて祈りました。「ソロモン……その手を天にのべて言ひけるは,イスラエルの神エホバよ上の天にも下の地にも汝のごとき神なし」。知恵はそれを得ようとして一心に求める者にその手をさしのべると聖書の中に言われています。他方,神は,敵対する者に対する刑の執行をするために,御手をのべると記されています。―列王上 8:22,23。エズラ 9:5。ネヘミヤ 8:6。箴言 1:24。イザヤ 5:25; 31:3。
レビ人の祭司によってとり行なわれた崇拝の式,特に任職のささげ物を献ずる際に,手は顕著な役割を果たしました。アロンとその子らはくり返し犠牲としてささげられる動物の頭に手をおいて,その動物が彼らを表わしている事,すなわち,それが彼らのかわりにささげられる事を示しました。そののち,ささげ物のある部分はアロンとその子らの手に授けられましたが,これは,神がイエス・キリストと彼の体をつくりあげる人々が是認された祭司として奉仕する権威と能力を彼らの手に授ける事を予影していました。―レビ 8:14,18,22,27。
古代イスラエルにおいては,ある事柄につき人々の間に同意が見られるならば,そのしるしとして互の手を握り合うのが習慣でした。「彼らはその手をとりあって(異教の)妻を出す事を約束した」。そして,箴言を書いた知恵ある記述者があまりすすめていない事ですが,ある人が他人の保謝人となる場合,その証拠として互に手を握ったり,手をうちあったりしました。「他人のために保証をなす者は苦難をうけ,保証(手をとりあう事=新世)を嫌う者は平安なり。」― エズラ 10:19,新世。箴言 11:15; 6:1; 17:18; 22:26。
クリスチャン・ギリシャ語聖書の中では,奇跡的ないやしをほどこす場合に手が使われた事が出ています,「日が暮れると,いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が,皆それをイエスのところに連れてきたので,そのひとりびとりに手を置いて,おいやしになった」。聖霊を分け与える時にも手がおかれました,「ふたりが手を彼らの上においたところ,彼らは聖霊を受けた」。そしてアンテオケの会衆が聖霊によって,パウロとバルナバを特別な仕事のために派遣するのは神の御心であると知った時,「一同は,断食と祈とをして,手をふたりの上においた後,出発させた」。ついでのことながら,この任命によってバルナバは,イエスが遣わした12使徒の一人ではありませんが,アンテオケのクリスチャン会衆によって派遣された二人の使徒の一人になりました。―ルカ 4:40。使行 8:17; 13:1-3; 14:14,新口。
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