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王聖書に対する洞察,第1巻
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神から任命された代表者たち エホバがご自分の民の王たちを任命されたので,歴代の王たちは自分自身の王座ではなく,「エホバの王権の座」に座る,王なる代理者,すなわちエホバの神権的な支配を行なう代表者を務めることになりました。(代一 28:5; 29:23)当時のオリエントの幾つかの民族の慣行とは異なり,イスラエル国民は自国の王たちを神格化したりはしませんでした。ユダの王たちは皆,エホバの油そそがれた者とみなされました。もっとも,記録は,それら王たちが各々王位に就いた時,文字通り油をそそがれたとは明確に述べていません。しかし新しい王朝が確立された時とか,ダビデが老齢に達したころ,それにエホアシュの時代に王位が争われた時,または年下の子のために年上の子が退けられてエホアハズが即位した時などには,文字通りのそそぎ油を用いたことが記されています。(サム一 10:1; 16:13; 王一 1:39; 王二 11:12; 23:30,31,34,36)いずれにしても,そのようにして油をそそぐのは通常の慣行だったようです。
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神の王国聖書に対する洞察,第1巻
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その後にエホバによって任命された王は,国民に対するエホバご自身の主権を少しも縮小させずに,神の地的な代理者として仕えることになっていました。その王座は実際にはエホバのものでしたから,歴代の王は代理の王として王座に座しました。(代一 29:23)エホバは最初の王サウルに油をそそぐようお命じになりましたが(サム一 9:15-17),同時に,その国民が表わした信仰の欠如を暴露なさいました。―サム一 10:17-25。
その王政が益をもたらすには,今や王と国民の双方が神の権威を尊重しなければなりませんでした。もし非現実的な見方をして,指導と保護をほかの源に求めるなら,国民も王も一掃されることでしょう。(申 28:36; サム一 12:13-15,20-25)王は軍事力に頼ったり,自分のために妻を増やしたり,富に対する渇望に支配されたりしないようにすべきでした。王政はすべて律法契約の枠内で機能することになっていました。王はその律法を書き写して自分用の写しを作り,それを毎日読むようにという神からの命令を受けていました。それは,至高の権威に対する正しい恐れを抱いて,謙遜さを保ち,義にかなった歩みを保つためでした。(申 17:16-20)王がそのようにして心を込めて神を愛し,また隣人を自分自身のように愛するなら,そうする度合いに応じて,その支配は祝福をもたらし,人々が圧制や苦しみのために不満を抱く理由は実際何も生じなかったことでしょう。しかし,民の場合と同様,今やその歴代の王についても,エホバはそれら支配者たちに彼らの心にあること,つまり神ご自身の権威や意志を進んで認めようとするか,認めようとしないか,いずれかの態度を表明することを許されました。
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法,律法聖書に対する洞察,第2巻
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律法の中で,エホバは絶対的な主権者であり,また特別の意味で王であられることが明らかにされています。エホバはイスラエルの神であると同時に王でもあられましたから,律法に対する不従順は宗教上の違反であると共に大逆罪,つまり国家の長に対する違反でもありました。この場合は王エホバに対する違反です。ダビデやソロモン,およびユダの王座に就いた彼らの後継者は,「エホバの王座」に座したと言われています。(代一 29:23)イスラエルの人間の王や支配者たちは律法により拘束されましたから,暴君になった場合は,神に対して申し開きをすべき律法違反者となりました。(サム一 15:22,23)王権と祭司職は切り離されており,このような分立は権力の釣り合いを保たせ,圧制を防止するものとなりました。そのお陰でイスラエル人は常に,エホバが自分たちの神であり,実際の王であることを思い起こしました。各人の,神との,また仲間の人間との関係は律法によって定められており,各個人は祭司の取り決めを通して神に近づくことができました。
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王座,座聖書に対する洞察,第1巻
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エホバはイスラエルの子らとの交渉に際して,ご自分の王座を予型的な特定の仕方で地上にまで拡大なさいました。イスラエルで支配する人は,エホバの民をエホバの名によって,またエホバの律法にしたがって支配する,『あなたの神エホバの選ばれる王』となるべきでしたから,その王座は実際には「エホバの王座」でした。―申 17:14-18; 代一 29:23。
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