第9章
エホバはわたしたちの益のために教えを与えてくださる
1 賢い人はどのようにエホバの言葉にこたえ応じますか。
エホバが語るとき,賢い人は深い敬意を抱いて耳を傾け,その言葉にこたえ応じます。何であれエホバが話される事はわたしたちの益のためであり,エホバはわたしたちの福祉に強い関心を抱いておられます。例えば,エホバは古代のご自分の契約の民に,「ああ,あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!」と,実に心温まる言葉遣いで語りかけておられます。(イザヤ 48:18)神の教えの価値は実証されているので,わたしたちは神に耳を傾け,その導きに従いたいと思うはずです。成就した預言の記録に示されているとおり,エホバが約束を果たす決意を抱いておられることに疑問の余地はありません。
2 イザヤ 48章の言葉は,だれのために記録されましたか。ほかにもだれが,その言葉から益を得られますか。
2 イザヤ 48章の言葉は,バビロンに流刑になるユダヤ人のために書かれたものと思われます。しかしその言葉には,今日のクリスチャンにとって無視できない音信も含まれています。イザヤ 47章で聖書はバビロンの倒壊を予告していましたが,ここでエホバは,バビロンの都にいるユダヤ人流刑者に関するご自分の意図を説明しておられます。エホバは,ご自分の選んだ民が偽善的であり,ご自分の約束をかたくななまでに信じようとしないことを憂えておられます。それでも,民の益のために教訓を与えることを望んでおられます。忠実な残りの者の故国への回復に先立つ精錬の時期を予見しておられるのです。
3 ユダの崇拝は,どこが間違っていましたか。
3 エホバの民は,清い崇拝からなんと大きく逸脱してしまったのでしょう。イザヤの言葉の冒頭部分を読むと,身の引き締まる思いがします。「ヤコブの家よ,これを聞け。自分をイスラエルの名で呼んでいる者,まさにユダの水から出て来た者たちよ,エホバの名にかけて誓っている者,イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという」。(イザヤ 48:1,2)なんと偽善的なのでしょう。「エホバの名にかけて誓っている」とはいえ,神のみ名を形式的に用いているにすぎないことは明らかです。(ゼパニヤ 1:5)バビロンに流刑になる前,ユダヤ人は「聖なる都市」エルサレムでエホバを崇拝していました。しかし,それは不誠実な崇拝でした。彼らの心は神から遠く離れ,崇拝行為は「真実によらず義によらずに」なされていました。族長たちのような信仰を抱いていなかったのです。―マラキ 3:7。
4 エホバを喜ばせるのはどんな崇拝ですか。
4 エホバの言葉から,崇拝がうわべだけのものであってはならないことを銘記させられます。心からのものでなければならないのです。単に人を喜ばせよう,感銘を与えようとしてするような形ばかりの奉仕は,「敬虔な専心」とは言えません。(ペテロ第二 3:11)自分をクリスチャンと呼ぶだけで,その人の崇拝が神に受け入れられるわけではありません。(テモテ第二 3:5)エホバが実在することを認めるのは肝要ですが,それはほんの始まりにすぎません。エホバは,深い愛と感謝を動機とする,魂のこもった崇拝を望んでおられます。―コロサイ 3:23。
新しいことを予告する
5 エホバが予告した「最初のこと」にはどんな事柄が含まれますか。
5 それらバビロンにいるユダヤ人は,記憶を呼び覚ましてもらわなければならないようです。そのためエホバは,もう一度彼らに,ご自分が真の預言の神であることを思い起こさせます。「わたしは最初のことをまさにその時から告げた。それはわたしの口から出て行き,わたしはそれを聞かせつづけた。突然わたしは行動した。そして事は到来した」。(イザヤ 48:3)「最初のこと」とは,イスラエル人をエジプトから解放し,約束の地を相続物として与えるなど,神がすでに成し遂げた事柄を指しています。(創世記 13:14,15; 15:13,14)そうした予言は,神の口から出て行く,つまり神を源としています。神は人間にご自分の布告を聞かせ,人間は聞いた事柄のゆえに従順になるべきです。(申命記 28:15)神は突然に行動して,予告していた事柄を実行します。エホバは全能者なので,その目的の達成は保証されています。―ヨシュア 21:45; 23:14。
6 ユダヤ人は,どの程度まで「強情で,反逆の」民となりましたか。
6 エホバの民は,「強情で,反逆の」民となりました。(詩編 78:8)エホバは民に向かって,率直にこう言われます。「あなた(は)かたくなで,あなたの首(は)鉄の筋,あなたの額(は)銅である」。(イザヤ 48:4)ユダヤ人は,金属のように曲げにくい,つまり頑固です。エホバが物事を事前に明らかにするのは,そのためでもあります。さもなければ,神の民は,エホバが行なった事柄に関してこう言うでしょう。「わたしの偶像がそれらのことを行なった。わたしの彫刻像とわたしの鋳像がそれらのことを命じたのだ」。(イザヤ 48:5)ここでエホバが述べておられる事柄は,不忠実なユダヤ人に何らかの影響を与えるでしょうか。神はそれらユダヤ人に向かって,こう言われます。「あなたは聞いた。それをすべて見よ。あなた方としては,それを告げないのか。わたしはあなたに新しいことを,あなたが知らなかった,取って置かれていたことを,今この時から聞かせた。その時からではなく,今この時にそれは必ず創造される。すなわち,それは今日まであなたが聞いたことのなかったことである。あなたが,『見よ,わたしはそれを既に知っていた』と言うことのないためである」。―イザヤ 48:6,7。
7 流刑の身のユダヤ人は何を認めなければなりませんか。どんなことを期待できますか。
7 イザヤはずっと前もって,バビロンの倒壊に関する予言を記録しています。それゆえ,バビロンで流刑の身のユダヤ人は,その予言の成就についてじっくり考えてみるよう預言的に命じられています。それらユダヤ人は,エホバが,成就した預言の神であることを否定できるでしょうか。またユダの住民は,エホバが真理の神であることを見聞きしてきたのですから,その真理を他の人に宣明する義務があるのではないでしょうか。エホバの啓示された言葉は,キュロスのバビロン征服やユダヤ人の解放など,これから生じる新しいことを予告しています。(イザヤ 48:14-16)そうした驚くべき出来事は,一見,不意に生じます。世界情勢の進展を考察するだけで先見できるような事柄ではないのです。まるで無から創造されたかのように起こります。そうした出来事を生じさせるのはだれでしょうか。200年ほど前もってエホバが予告しておられるのですから,答えはおのずと明らかです。
8 今日のクリスチャンは,どんな新しいことを望み見ていますか。彼らがエホバの預言の言葉に全き確信を抱いているのはなぜですか。
8 それに加えて,エホバはご自分の言葉を予定表どおりに果たされます。成就した預言は,古代のユダヤ人だけでなく,今日のクリスチャンにとっても,エホバの神性の証拠となっています。過去に成就した非常に多くの預言に関する記録 ―「最初のこと」― は,エホバの約束した新しいこと ― 来たるべき「大患難」や,その大患難を「大群衆」が生き残ること,さらに「新しい地」といった多くの事柄 ― が実際に生じるということの保証です。(啓示 7:9,14,15; 21:4,5。ペテロ第二 3:13)今日の,義にかなった心の持ち主は,その保証に促され,神について熱心に語っています。次のように述べた詩編作者と同じ気持ちを抱いているのです。「わたしは大きな会衆の中で義の良いたよりを告げました。ご覧ください,わたしは自分の唇をとどめません」。―詩編 40:9。
エホバは自制を働かせる
9 イスラエル国民はどのように「腹の時からの違犯者」となっていますか。
9 ユダヤ人はエホバの預言を信じないので,神の警告に留意しません。そのため,エホバは続けて,彼らにこう言われます。「しかも,あなたは聞いたこともなく,知ってもいなかった。また,その時以来,あなたの耳は開かれてもいなかった。わたしは,あなたが絶えず不実な行ないをしつづけたこと,あなたが『腹の時からの違犯者』と呼ばれてきたことをよく知っているからである」。(イザヤ 48:8)ユダは耳をふさぎ,エホバの喜ばしいおとずれを聞こうとしません。(イザヤ 29:10)神の契約の民のこれまでの行状を見れば,その国民が「腹の時からの違犯者」であることは明らかです。イスラエル国民は,誕生の時から,その歴史を通じて,反逆の記録を積み上げてきました。この民の違犯と不実さは,単にたまたま犯した罪ではなく,常習的な過ちなのです。―詩編 95:10。マラキ 2:11。
10 エホバがご自分を制するのはなぜですか。
10 いちるの望みもないのでしょうか。そうではありません。ユダがこれまで反逆的で不実であったとはいえ,エホバは常に真実かつ忠実な方です。エホバは,ご自身の偉大なみ名の誉れのために,憤りの表明に制限を設けられます。こう述べておられます。「わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする」。(イザヤ 48:9)なんと対照的なのでしょう。エホバの民であるイスラエルとユダは,どちらも神に不忠実な歩みをしてきました。しかしエホバは,み名に賛美と誉れが帰されるように行動し,み名を神聖なものとされます。それゆえ,ご自分の選んだ民を断ち滅ぼすことをなさらないのです。―ヨエル 2:13,14。
11 なぜ神は,ご自分の民が徹底的に滅ぼされることをお許しになりませんか。
11 流刑の身のユダヤ人のうち正しい心の持ち主は,神の譴責によって目が覚め,神の教えに留意しようと決意します。そうした人々に,次の宣言は深い安心感を与えることでしょう。「見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀としてではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。わたしはわたしのために,わたし自身のために行動する。というのは,だれが自分自身を汚させるであろうか。そして,わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えない」。(イザヤ 48:10,11)エホバがご自分の民に臨むのを許された,『苦悩の炉』にいるかのような厳しい試練は,その民を試みて精錬し,彼らの心のうちにあるものを明らかにしました。これより幾世紀か前にも,同様のことが生じました。その時,モーセは,この民の先祖にこう言いました。「あなたの神エホバ(は)この四十年のあいだ荒野であなた(を)歩ませた……。それはあなたを謙遜にならせるため,あなたを試みて,……あなたの心のうちにあるものを知るためであった」。(申命記 8:2)それらの人々の反逆的な態度にもかかわらず,エホバは当時のその国民を滅ぼしませんでした。今度も,その国民を徹底的に滅ぼすことはなさいません。そのことによって,神のみ名と誉れが高く保たれます。神の民がバビロニア人の手にかかって消滅するなら,神はご自分の契約をたがえたことになり,み名は汚されてしまうでしょう。イスラエルの神には自分の民を救う力がないかのように見えてしまうのです。―エゼキエル 20:9。
12 最初の世界大戦中,真のクリスチャンはどのように精錬されましたか。
12 現代でも,エホバの民には精錬が必要でした。20世紀初頭,聖書研究者の小さなグループにおいて,多くの人は神を喜ばせたいという誠実な願いを抱いて神に仕えていましたが,中には,目立つ立場を求めるといった,間違った動機を持つ人たちもいました。その小さなグループが,終わりの時に関して預言されていた良いたよりの世界的な伝道の先頭に立つには,まず清められる必要がありました。(マタイ 24:14)預言者マラキの預言によると,エホバがご自分の神殿に来られることに関連して,まさにそうした精錬の業が成し遂げられることになっていました。(マラキ 3:1-4)マラキの言葉は1918年に成就しました。その時までに,真のクリスチャンは,最初の世界大戦のさなかに生じた火のような試みの時期を経験しており,その試みの最高潮として,ものみの塔協会の当時の会長ジョセフ・F・ラザフォードと主要な役員数名が投獄されました。それら誠実なクリスチャンは精錬の過程から益を受けました。第一次世界大戦が終わったとき,何であれ偉大な神の指示どおりに仕えてゆこうという決意をいっそう強くしていたのです。
13 最初の世界大戦以降の年月,エホバの民はどのように迫害に対応してきましたか。
13 その時以来,エホバの証人は極めて残酷な迫害に幾度も直面してきました。しかし,そのために創造者の言葉を疑うことはありませんでした。むしろ,使徒ペテロが自分の時代の迫害下のクリスチャンに書き送った次の言葉を思いに留めてきました。「あなた方はさまざまな試練によって悲嘆させられてきました。それは,……あなた方の信仰の試された質が,イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとなるためなのです」。(ペテロ第一 1:6,7)火のような迫害も,真のクリスチャンの忠誠を打ち砕くことはできません。むしろ,動機の純粋さを明らかにします。迫害は,試された質を信仰に付与し,専心の思いと愛の深さを示すのです。―箴言 17:3。
『わたしは最初であり,最後である』
14 (イ)エホバはどのように「最初」であり「最後」ですか。(ロ)エホバはご自分の「手」を用いて,どんな力強い業を成し遂げられましたか。
14 次いで,エホバはご自分の契約の民に温かく訴えかけ,こう言われます。「ヤコブよ,わたしが呼んだ者イスラエルよ,あなたはわたしに聴け。わたしは同じ者である。わたしは最初である。しかも,わたしは最後である。しかも,わたしの手が地の基を据え,わたしの右手が天を延べ広げたのである。わたしはそれらに呼びかけている。それらが共に立ちつづけるためである」。(イザヤ 48:12,13)人間とは異なり,神はとこしえの存在であり,変わることがありません。(マラキ 3:6)「啓示」の書の中でエホバは,「わたしはアルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである」と宣言しておられます。(啓示 22:13)エホバの前に全能の神はなく,後にもありません。エホバはとこしえの至上者,創造者です。その「手」― 行使された力 ― が地を定め,星の輝く大空を張り伸ばしました。(ヨブ 38:4。詩編 102:25)神が創造物に呼びかけると,創造物は神に仕える準備をして立ち構えます。―詩編 147:4。
15 どのように,また何のために,エホバはキュロスを「愛され」ましたか。
15 ユダヤ人と非ユダヤ人の双方に対して,次の厳粛な招きの言葉が述べられています。「あなた方はみな共に集まって,聞け。彼らのうちのだれがこれらのことを告げたか。エホバご自身が彼を愛された。彼は神の喜ばれることをバビロンに行ない,彼自身の腕がカルデア人の上に臨むのである。わたしが ― わたし自身が語った。しかも,わたしは彼を呼んだ。わたしは彼を携え入れた。彼の道は成功させられるであろう」。(イザヤ 48:14,15)全き力を持ち,物事を正確に予告できるのはエホバだけです。「彼ら」,つまり無価値な偶像のうちに,これらのことを告げ得る者はいません。偶像の神々ではなく,エホバが「彼を」,キュロスを「愛され」ました。つまり,エホバは具体的な目的をもって彼を選ばれたのです。(イザヤ 41:2; 44:28; 45:1,13; 46:11)エホバは,キュロスが世界の舞台に登場することを予見し,将来のバビロン征服者として選び出しておられます。
16,17 (イ)神がひそかに予告を語ったことはない,と言えるのはなぜですか。(ロ)今日エホバは,ご自身の目的をどのように告げ知らせてこられましたか。
16 さらにエホバは,招くような口調でこう言われます。「あなた方はわたしに近づけ。これを聞け。始めから,わたしは隠れ場所で話したことは全くない。それが生じる時からわたしはそこにいた」。(イザヤ 48:16前半)エホバからの予告がひそかに語られたり,秘伝を授けられた少数者だけに知らされたりしたことはありません。エホバの預言者たちは,神の代理として,率直に語りました。(イザヤ 61:1)神のご意志を公然と宣明したのです。例えば,キュロスに関する事柄は,神にとっては唐突でも不測の出来事でもありませんでした。その200年ほど前に,神はイザヤを通して,そうした事柄をはっきりと予告しておられました。
17 同様に今日でも,エホバはご自分の目的を秘密にしたりはなさいません。何百もの国や地域や海洋の島々の幾百万もの人々が,家から家や街路など至る所で,この事物の体制の来たるべき終わりに関する警告と,神の王国のもとで実現する祝福に関する良いたよりとをふれ告げています。まさにエホバは,ご自身の目的を知らせる神なのです。
『わたしのおきてに注意を払え!』
18 エホバはご自分の民がどうすることを願っておられますか。
18 預言者イザヤはエホバの霊によって力づけられ,こう宣言します。「主権者なる主エホバご自身が,実にその霊がわたしを遣わされた。あなたを買い戻される方,イスラエルの聖なる方,エホバはこのように言われた。『わたし,エホバは,あなたの神,あなたに自分を益することを教える者,あなたにその歩むべき道を踏み行かせる者である』」。(イザヤ 48:16後半,17)イスラエル国民は,エホバの気遣いを示すこの愛ある言葉を聞き,神が自分たちをバビロンから救出しようとしておられることを確信するはずです。神は彼らを買い戻す方なのです。(イザヤ 54:5)エホバは,イスラエル人がご自分との関係を回復し,おきてに注意を払うことを心から願っておられます。真の崇拝の土台は,神の指示に従うことです。イスラエル人は,「歩むべき道」を教えていただかない限り,正しい道を歩むことができません。
19 エホバは心からどのように訴えかけておられますか。
19 ご自分の民が災いを避けて生活を楽しむようにというエホバの願いは,美しい言葉遣いでこう表現されています。「ああ,あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば! そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに」。(イザヤ 48:18)全能の創造者が,まさに心から訴えかけておられます。(申命記 5:29。詩編 81:13)イスラエル人は,捕囚になるどころか,川を流れる水のような,あふれんばかりの平和を楽しめるのです。(詩編 119:165)彼らの義の行ないは,海の波のように,数え切れないほどになり得るのです。(アモス 5:24)エホバはイスラエル人のことを大いに気にかけておられるので,彼らに訴えかけ,歩むべき道を愛をもって示しておられます。彼らは耳を傾けさえすればよいのです。
20 (イ)イスラエルの反逆的な態度にもかかわらず,エホバは彼らがどうなることを願っておられますか。(ロ)ご自分の民へのエホバの接し方から,エホバについてどんなことを学べますか。(133ページの囲み記事をご覧ください。)
20 イスラエルは,悔い改めるならどんな祝福を受けるでしょうか。エホバはこう言われます。「あなたの子孫は砂のように,あなたの内なる所から出る末孫は砂粒のようになるであろうに。人の名がわたしの前から断ち滅ぼされることも,滅ぼし尽くされることもないであろうに」。(イザヤ 48:19)エホバは民に,アブラハムの胤を「天の星のように,海辺の砂の粒のように」多くするというご自分の約束を思い出させておられます。(創世記 22:17; 32:12)しかしながら,これらアブラハムの子孫は反逆的であり,約束の成就にあずかる権利がありません。実のところ,彼らはあまりにも悪い歩みをしてきたので,ほかならぬエホバの律法によれば,国民としての名を消し去られて当然です。(申命記 28:45)それでもエホバは,ご自分の民が滅ぼし尽くされることを望んではおられません。彼らを全く捨て去りたいとは思われないのです。
21 今日わたしたちは,エホバに教え諭していただこうとするなら,どんな祝福を経験できますか。
21 この力強い言葉に明白に示されている数々の原則は,今日のエホバの崇拝者にも当てはまります。エホバは命の源であり,人間が自分の命をどう用いるべきかについて,だれよりもよくご存じです。(詩編 36:9)わたしたちから楽しみを奪い取るためではなく,益を得させるために導きを与えてくださっています。真のクリスチャンは,エホバに教え諭していただこうとします。(ミカ 4:2)エホバの指示は,わたしたちの霊性およびエホバとの関係を守り,腐敗をもたらすサタンの影響力から保護してくれます。神の律法の背後にある様々な原則の価値を認めるなら,エホバがわたしたちの益のために教えを与えてくださっている,ということを理解できます。『神のおきては重荷ではない』ことを実感できるのです。そして,断ち滅ぼされることはありません。―ヨハネ第一 2:17; 5:3。
「バビロンから出よ!」
22 忠実なユダヤ人は何をするよう促されていますか。どんな保証が与えられていますか。
22 バビロンが倒壊する時,ユダヤ人の中に,正しい心の状態をはっきり示す人たちがいるでしょうか。神の救出にあずかって故国に帰還し,清い崇拝を回復する人たちがいるでしょうか。確かにいます。エホバの続きの言葉は,エホバがそう確信しておられることを示しています。「あなた方はバビロンから出よ! カルデア人のところから走り去れ。歓呼の声を上げて告げ知らせ,これを聞かせよ。それを地の果てにまで届かせよ。言え,『エホバはその僕ヤコブを買い戻された。そして,神が彼らを荒れ廃れた場所を通って行かせたときにも,彼らは渇きを覚えなかった。神は彼らのために岩から水を流れ出させ,岩を裂いて水が流れ出るようにされた』と」。(イザヤ 48:20,21)エホバの民は,直ちにバビロンから立ち去るよう預言的に促されています。(エレミヤ 50:8)彼らが請け戻されたことは,地の最果てにまで知らされなければなりません。(エレミヤ 31:10)エジプトからの脱出の後,エホバは,砂漠地帯を徒歩で旅するご自分の民に必要物を供給なさいました。同様に,ご自分の民がバビロンから故国へ戻る時にも,必要物を供給なさいます。―申命記 8:15,16。
23 どんな人は,神から与えられる平安を楽しむことがありませんか。
23 エホバが行なわれる救いに関して,ユダヤ人が銘記しなければならない肝要な原則がもう一つあります。義を行なおうとする人は,自分の罪ゆえに苦しみを経験することがあるとしても,滅ぼされることはありません。しかし,不義者の場合はそうではありません。こう書かれています。「エホバは言われた,『邪悪な者たちに平安はない』と」。(イザヤ 48:22)悔い改めない罪人が,神を愛する人のために用意されている平安を受けることはありません。救いは,頑固なまでに邪悪な人や,不信心な人のためのものではありません。信仰を抱く人のためだけのものです。(テトス 1:15,16。啓示 22:14,15)邪悪な者たちが神からの平安を持つことはありません。
24 現代の神の民は何のゆえに歓びましたか。
24 西暦前537年,バビロンを去ることができるようになった時,忠実なイスラエル人は大いに喜びました。1919年にも,神の民はバビロン的な捕らわれから解放されて歓びました。(啓示 11:11,12)彼らは希望に満たされ,活動を拡大する機会をとらえました。その少人数のクリスチャンのグループが,敵意に満ちた世界で宣べ伝える新たな機会を活用するには,確かに勇気が求められました。しかし彼らは,エホバの助けを得て,良いたよりを宣べ伝える業に取りかかりました。その後の記録は,エホバの祝福があったことを物語っています。
25 義にかなった神の定めにしっかり注意を払うことが重要なのはなぜですか。
25 イザヤの預言のこの部分は,エホバがわたしたちの益のために教えを与えてくださる,ということを強調しています。義にかなった神の定めにしっかり注意を払うことは非常に重要です。(啓示 15:2-4)神の知恵と愛を思いに留めるなら,エホバが正しいと言われる事柄に従いやすくなります。エホバのおきてはすべて,わたしたちの益のためのものなのです。―イザヤ 48:17,18。
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全能の神はご自分を制する
エホバは,背教したイスラエル人に対して,『わたしは怒りをとどめ,自分を制する』と言われました。(イザヤ 48:9)こうした言葉から分かるとおり,神は,力を決して濫用しないという点で完全な模範を示しておられます。実際,神より強い力を持つ者はいません。だからこそ,神は全き力を持つ方,全能者と呼ばれるのです。神は自ら「全能」と名乗っておられ,それはふさわしいことです。(創世記 17:1)神は,ご自分が創造した宇宙の主権者なる主という立場のゆえに,無限の強さだけでなく,あらゆる権能を有しておられます。それゆえ,差し出がましく神の手をとどめたり,「あなたは何をしてきたのか」と神に言ったりできる者はいません。―ダニエル 4:35。
しかし神は,敵する者に対して力を表明しなければならない時にも,怒ることに遅い方です。(ナホム 1:3)エホバは『怒りをとどめる』ことができ,適切にも『怒ることに遅い』方であると述べられていますが,それはエホバの支配的な特質が怒りではなく,愛だからです。怒りが表明される場合,それはいつでも義にかなっており,いつでも正当で,いつでも制御されています。―出エジプト記 34:6。ヨハネ第一 4:8。
エホバはどうしてそのように行動されるのでしょうか。全能の力を,他の三つの主要な属性 ― 知恵,公正,愛 ― と完全に釣り合わせておられるからです。神の力の用い方は,常にこれら三つの特質と調和しています。
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回復に関するイザヤの音信は,流刑の身の忠実なユダヤ人に希望の光を与える
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ユダヤ人は,エホバのなさった事柄を,偶像の神々が行なったものとみなす傾向があった
1. イシュタル 2. バビロンの行列道路の,釉薬れんがの帯状装飾(フリーズ)3. マルドゥクの象徴である龍
[127ページの図版]
『苦悩の炉』は,エホバに仕えるわたしたちの動機が純粋かどうかを明らかにすることがある
[128ページの図版]
真のクリスチャンは,極めて残酷な迫害に直面してきた