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    • 19 メシアが贖罪の犠牲として『断たれる』つまり殺されることに関連した別の聖句は,イザヤ 52章13節から53章12節にあります。(「『わたしの僕』― だれのことか」の囲み記事をご覧ください。)1世紀のラビは中世のランバムなどと同じように,この聖句をメシアに当てはめました。この聖句から,許しがメシアおよびその死と関連していることは非常に明確になります。

      「わたしの僕」― だれのことか

      「『実際,わたしの僕は……さげすまれ,人々に忌避された。……わたしたちは彼を取るに足りない者とみなした。しかし,わたしたちの病を彼が負っており,わたしたちの苦しみを彼が忍んだ。……しかし,彼はわたしたちの罪のゆえに傷つけられ,わたしたちの罪悪のゆえに打ち砕かれた。……わたしたちは皆,羊のように道に迷った。……そして主はわたしたちすべての罪科をその者に課された』。……彼は不公正を行なったことはなく,偽りを語ったこともなかったが……『わたしの義なる僕は多くの人を義なる者とし,彼らの処罰を負うのである。……彼は自らを死に遭わせ[「自分の魂を……注ぎ出し」,新世],罪人の一人に数えられたが,彼は多くの人の罪科を負い,罪人たちのために執り成しを行なった』」― イザヤ 52:13–53:12。

      ここでイザヤは,全く罪のない浄い人物について説明しています。その人の苦しみと死によって彼自身の国民の贖罪,彼を受け入れなかった国民の贖罪が行なわれたのです。

      しかし今日,ユダヤ教注釈者たちの大半は,ここで言及されているのはイスラエル国民全体,あるいは同国民の中の義にかなった一つのグループであるということを,疑う余地のない事実として受け入れています。

      ここで問題になるのは,イスラエル国民,もしくはその一部が,かつてこの描写に適合したことがあったか,それともこれは一個人に適用されるのか,ということです。

      イザヤがこの預言の言葉を書き記した時(西暦前732年ごろ)以降,800年余りの期間に関しては,この「僕」を集合的な意味にとらえるべきであると教えたユダヤ人やラビがいたという記録はありません。この期間を通じて,この預言は例外なく一個人を指すものと理解され,一般にはメシアに関する預言とみなされていました。

      それに加え,「ユダヤ人の解釈者によるイザヤ書 53章」という本の序文にある説明にも注目してください。「アモラの時代の終わりまで[西暦6世紀まで]続いていたユダヤ教の解釈によると,ここで言及されている人物がメシアであるという考えは,当時,疑問の余地のない事実とみなされる場合が多かったようだ。というよりは,広く一般にそのようにみなされていたのかもしれない。そのしばらく後のタルグムも,もちろんそのような解釈をしている」― H・M・オルリンスキー編,1969年,17ページ。

      この聖句は一個人,まさしくメシアに言及しているという最も自然な理解を退け,別の解釈を加えようとする動機は一体何だったのでしょうか。それは単に,この預言とイエス,つまりこの預言のどんな詳細な描写にも合致した1世紀のユダヤ人との関係を一切否定しようとする努力だったのではないでしょうか。

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