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怒り聖書に対する洞察,第1巻
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エホバの怒りは,公正が十分に成し遂げられた時に初めて静まる,もしくは治まると言えます。神の憤りはあらゆる不義に向けられます。神は不義を容認したり,当然処罰されるべき者に処罰を免れさせたりなさいません。(出 34:7; ハバ 1:13)しかし,人類の当然受けるべき苦痛と懲罰をイエス・キリストが負われたので,信仰を働かせるようになる人々に対しては,神の怒りもキリストのその犠牲に基づいて和らげられ,とどめられます。(イザ 53:5)この取り決めによってエホバ神はご自身の義を示し,「イエスに信仰を持つ人を義と宣する際にもご自分が義にかなうように」することがおできになります。(ロマ 3:26)このようにして公正は十分に満たされ,しかも神の側には憐れみを差し伸べるための根拠があることになります。不従順な人はだれでも自分の上に神の憤りをとどめていることになります。(ヨハ 3:36)しかし,人は信仰を働かせるとき,イエス・キリストの犠牲によって神の憤りから救われるのです。―テサ一 1:10。
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アザゼル聖書に対する洞察,第1巻
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使徒パウロが説明したとおり,イエスはご自身の人間としての完全な命を人類の罪のための犠牲としてささげることによって,「雄牛ややぎの血」が達成したよりはるかに多くのことを成し遂げられました。(ヘブ 10:4,11,12)こうしてイエスは「身代わりのやぎ」として仕え,『わたしたちの病を担う』者,また『わたしたちの違犯のために刺し通された』者となられました。(イザ 53:4,5; マタ 8:17; ペテ一 2:24)イエスは,ご自分の犠牲の価値に信仰を働かせるすべての人の罪を「運び去り」ました。イエスは,罪の状態を完全な忘却に至らせる神の備えを実際に示されました。こうして「アザゼルのため」のやぎは,イエス・キリストの犠牲を表わしています。
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