-
残された「善意の年」を活用するものみの塔 1971 | 2月1日
-
-
8 イザヤ書 61章1-4節によれば,霊感を受けたその預言者は,自分がどんな者であるかのように語りましたか。その中で,なんと述べていますか。
8 後に,さらに霊感を受けつつ,預言者イザヤは,自分が至高の神に油を注がれた者であるかのごとくにこう語りました。「主エホバの霊がわたしの上にある。柔和な者たちに良いたよりを告げさせるため,エホバがわたしに油を注がれたからである。傷心した者たちを包み,捕われている者たちに自由を,そして囚人たちにも目の大きくあけられることをふれ告げさせるため,彼はわたしをつかわされた。エホバの善意の年と,わたしたちの神の復しゅうの日とをふれ告げるため,嘆き悲しむ者たちすべてを慰めるため,シオンを嘆き悲しむ者たちに譲るため,すなわち,灰のかわりに頭飾りを,悲嘆のかわりに歓喜の油を,傷心した霊のかわりに賛美の外とうを彼らに与えるためである。そして彼らは正義の大木,エホバの植えられたものと呼ばれねばならない。彼が美を添えられるためである。そして彼らは長年荒れた所を建て直さねばならない」― イザヤ 61:1-4,新。
9 (イ)その「良いたより」はどんな主題を含んでいましたか。(ロ)その「日」と「年」に関する箇所を,ギリシャ語訳(七十人訳)はなんと訳出していますか。
9 これは,嘆き悲しむ柔和な者たちに伝えるべき,「良いたより」ではありませんでしたか。そして,その良いたよりには,「エホバの善意の年」のことも含まれていました。シオンまたはエルサレムを荒らし,荒廃させた者たちに対する「わたしたちの神の復しゅうの日」の来ることでさえ,そのエホバの崇拝の中心地に敵が行なった事柄を嘆き悲しむ者にとっては良いたよりとなります。西暦紀元の何年も前,ギリシア語を話したエジプト,アレキサンドリアのユダヤ人は,「善意の年」に関するこのことばの翻訳にあたり,その節をギリシア語で次のように訳出しました。「〔エホバ〕の意にかなう年と返報の日とをふれ告げるため,嘆き悲しんでいる者すべてを慰めるため」― イザヤ 61:2,七十人訳,トムソン。
-
-
残された「善意の年」を活用するものみの塔 1971 | 2月1日
-
-
11 (イ)天からつかわされたかたで,その「年」に対するエホバの態度を最もよく言い表わしえたのはだれですか。(ロ)どのようにして,彼に地的な名前が与えられましたか。それは,問題の預言を語った者の名前とどのように対応するものですか。
11 『時が満ち』,神の定めの時が到来したとき,エホバ神は,「エホバの善意の年をふれ告げ」させるため,ご自身の愛する子を天から地上につかわされました。(ガラテヤ 4:4)天から来られたその子をほかにしてだれが,この象徴的な「年」が続く間の,彼の父の態度をよく言い表わせるでしょうか。地上において,その子は,油をそそがれた者に関する預言を語った先の預言者とよく似た名を与えられました。地上で彼の母親となった者に対する神の命令に従って,彼は「イエス」という名を与えられました。これはエホシュアという名の短縮形で,「エホバはお救いになった」という意味であり,一方,イザヤという名は,「お救いになった,ヤハ(もしくは,エホバ)は」という意味だったのです。このことと一致して,預言者イザヤは,多くの点でメシヤ・イエスすなわちキリスト・イエスのひな型もしくは予表となっていました。―ルカ 1:30-33。マタイ 1:20,21。
12,13 (イ)イエスがメシヤとなって,その「年」を正式に布告するには,何が必要でしたか。(ロ)バプテスマを受けたのち,イエスは,ご自分がエホバの善意を得ていることを何によって知りましたか。それはどんな預言と一致するものでしたか。
12 イザヤの預言は,『主エホバの霊がわたしの上にある。エホバがわたしに油を注がれたからである』と述べていました。それで,ほんとうにメシヤ,キリスト,もしくは油をそそがれた者となるため,また,「エホバの善意の年をふれ告げる」資格を正式に得るためには,イエスはまずエホバの霊をもって油を注がれねばなりませんでした。イエスがエホバの霊をもって油を注がれたのは,ヨハネによって水のバプテスマを施され,バプテスマを受けたヨルダン川の水から上がって来られた時です。バプテスマを受けたイエスにエホバの霊が下ったことは,1羽のはとが奇跡的に現われ,イエスの真上にとどまるという象徴により,バプテスマのヨハネに見える形で示されました。加えてヨハネは,「これはわたしの子,わたしの愛する者,わたしはこの者を是認した[もしくは,これはわたしの子,わたしの愛する者,この者の上にわたしの好意はとどまる,新英訳]」という,天からの神の声を聞きました。(マタイ 3:11-17,新。ヨハネ 1:32-34)今やイエスは,イザヤ書 42章1節〔新〕の次の予告どおり,自分がエホバの善意もしくは好意を得ていることをはっきり知りました。
-
-
残された「善意の年」を活用するものみの塔 1971 | 2月1日
-
-
14,15 (イ)次に,イエスがエホバの善意を保持できるかどうかは,何にかかっていましたか。(ロ)イエスは,ご自分がもはや,それまでの大工ではないことを,ナザレの人々にどのように説明されましたか。
14 イエスは,自分がエホバの善意もしくは好意を失わないため,イザヤ書 61章1-3節に述べられた,油を注がれた者としての使命を果さねばならないことを知っておられました。イエスは自分がキリストとして油を注がれたこと,また,油を注がれたことに伴う神からの使命を認識しておられました。それで,自分が30歳になるまでいたナザレでそのことを公に認め,それによって,ご自分がそれまで6か月以上にわたり大工でなくなった理由をナザレの人々に説明されました。その時のことについてはこうしるされています。
15 「それから彼はナザレに来られた。そこは彼の育てられた所である。そして,安息日におけるご自分の習慣に従って,彼は会堂にはいり,読むために立ち上がられた。それで,預言者イザヤの巻物が彼に手渡された。彼は巻物を開き,次のように書かれた所を見いだされた。『エホバの霊がわたしの上にある。なぜなら,貧しい人々に良いたよりを宣明するため彼がわたしに油を注がれたからであり,彼はわたしをつかわされた。捕われ人たちに解放を,そして盲目の人々に視力の回復を伝道するため,打ちひしがれた人々を解放して去らせるため,エホバの意にかなう年を伝道するためである』。そうして彼は巻物を巻き,付き添いの者に返して,腰をおろされた。すると,会堂にいた者たちすべての目がじっと彼に向けられた。その時イエスは彼らに言いだされた。『あなたがたがいま聞いた聖句はきょう成就しています』」― ルカ 4:16-21,新。マタイ 2:21-23; 4:12,13。
-