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イエス・キリスト聖書に対する洞察,第1巻
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「“くすしい助言者”」 祭司には神の律法やご意志に関して民を教育する責任がありました。(マラ 2:7)また,イエスは王なるメシア,つまり予告されていた『エッサイ[ダビデの父]の切り株から出る小枝』として,『知恵,計り事,力強さ,知識,ならびにエホバへの恐れによってエホバの霊』を表わさなければなりませんでした。イエスは,そのようなエホバへの恐れから来る「楽しみ」を表わすことになっていました。(イザ 11:1-3)「ソロモン以上の」方(マタ 12:42)であられたイエスの教えに見られる比類のない知恵は,イエスが確かに神のみ子であり,福音書の記述が単なる不完全な人間の思考,もしくは想像の産物ではあり得ないことを示す最も強力な証拠の一つです。
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ナザレ人聖書に対する洞察,第2巻
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ナザレのことはヘブライ語聖書に出て来ません。マタイは何らかの失われた預言書もしくは不文の伝承に言及していたとみる人もいますが,『預言者たちを通して語られた』という表現は,クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちにより,わたしたちが今日持つのと同じヘブライ語聖書の正典に関してのみ用いられています。理解を得るかぎは,『ナザレ人』を,前掲の,新芽という意味のネーツェルと同一視することにあるようです。
この点を念頭に置けば,マタイは,イザヤ書(11:1)がメシアに関して述べた,「エッサイの切り株から必ず小枝が出る。その根から出る新芽[ウェネーツェル]はよく実を結ぶ」という言葉に言及していたことが明らかになります。別のヘブライ語ツェマハも新芽を意味しており,他の預言者たちはメシアに言及する際にこの語を用いています。マタイは複数形を用いて,「預言者たち」がこの来たるべき「新芽」について語ったと述べています。例えばエレミヤは,ダビデの横枝となる「義なる新芽」について書きました。(エレ 23:5; 33:15)ゼカリヤは,「新芽という名の」王なる祭司を描写していますが,その預言は偉大な霊的神殿の建設者であるナザレ人イエスだけに当てはまります。―ゼカ 3:8; 6:12,13。
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