-
戦いに出る花むこものみの塔 1967 | 9月1日
-
-
15 イエス・キリストは,婚宴のさなかに戦いに出ることをなぜ特権とされますか。
15 なお婚宴に招かれており,それを期待している花嫁の成員を守り,花嫁のために行動するのは,この花むこにとってなんと良いことでしょう。彼は,父エホバの輝かしい御名と,栄光の神の家族とから非難をとり去って,エホバの御名を立証するために戦う特権に恵まれています。この戦いについては,述べるべきことがまだあります。歴史に残る戦争と勝利の記録は多くの人に読まれています。しかし戦い合う軍勢を見定め,戦いを目前に見るのはまれなことです。黙示録 19章の残りの数節をいま読んでおかれるならば,それらの節を論じた本誌の次号の記事をさらに楽しんで読まれることでしょう。
-
-
人体の一部を比喩的に用いる聖書の表現ものみの塔 1967 | 9月15日
-
-
人体の一部を比喩的に用いる聖書の表現
人体のある部分のことは日常の会話の中でしばしば比喩的な意味で用いられています。たとえば次のようなことばがあります。「彼はあの人のために自分の首をさし出すことさえいといませんでした」。「彼はほんとうに私の骨肉です」。「彼女は彼らの耳をくすぐっただけでした」。
しかしこのような表現は話に豊かな色彩を添え,聞く人に生き生きとした鮮明な印象を与えます。そして聞き手は話の内容をよく記憶できます。それで,神のことば聖書に,人体のある部分のことが比喩的な意味で用いられているというのは,なんと適切なことでしょう! 実際のところ,前述のような表現はみな聖書の中にいろいろの形で出てきます。
たとえば使徒パウロは,仲間のクリスチャンであるプリスキラとアクラにあいさつを送るようにと願って,その二人のことを次のように述べました。「わたしのいのちを救うために,自分の首[彼らの命]をさえ差し出してくれた」。(ローマ 16:4)ラバンはヤコブについて,「あなたはほんとうにわたしの骨肉です」と述べましたが,それは二人が親類であるという意味です。ヤコブはラバンのおいでした。(創世 29:14。サムエル下 5:1)そしてパウロは,「耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め」た人々のことについて書いています。言い換えれば,人を喜ばせるだけの教師を彼らは集めていたのです。―テモテ第二 4:3。
破滅と保護
人体の器官の中で首は重要ですが,同時に傷つけられやすい部分なので,聖書の中では,敵の手で生命が奪われることにしばしば結びつけられています。この表現は,むすこユダに対するヤコブの臨終の祝福のことばの中に次のように用いられています。「あなたの手は敵のくびを押え……るであろう」。これはつまり,神があなたの敵をあなたの手に渡すでしょうという意味です。(創世 49:8)同様にダビデは歌の中で,エホバが「敵にその〔首の〕後をわたしに向けさせた」と言って賛美しました。(サムエル下 22:41。詩 18:40)ユダに対するアッシリアの侵略に関す預言の中で神は,「あふれみなぎって,首にまで及ぶ」と述べられ,征服寸前の事態が生ずることを示されました。―イザヤ 8:8; 30:28。
そしてまた,征服された敵兵の首を足で押えることは昔の人々の一つの習慣でした。エジプトおよびアッシリアの記念碑には,敵の兵士の首をふまえて戦っている王の姿がよく描かれています。この習慣はまたヘブル人の間でも行なわれていました。裁き人ヨシュアは部下の将校にこう命じています。「近寄って,この王たちのくびに足をかけなさい」― ヨシュア 10:24。
-