第7章
創造者について一つの書物からどんなことを学べますか
情報に富んだ,興味あふれる本は,ほんとうに読む価値のあるものと思われるでしょう。聖書はそのような書物です。そこには,心を引き付けて放さない数々の人生物語があり,高度の道徳的価値観を呈示しています。また,重要な真理に関する生彩に富んだ例えもあります。筆者の一人で,豊かな知恵をもって知られた人は,「喜ばしい言葉を見いだし,真実の正確な言葉を書き記そうと努めた」と,自らのことを述べています。―伝道の書 12:10。
わたしたちが「聖書」と呼んでいるものは,実際には,66冊の小さな書を集めたもので,1,500年以上の歳月をかけて記されました。例を挙げれば,モーセは,西暦前1513年から1473年の間に,巻頭の五つの書を記しました。創世記がその最初です。最後の聖書筆者はイエスの使徒の一人ヨハネで,イエスの生涯の伝記(ヨハネ福音書),および短い数通の書簡と,啓示の書(黙示録)を書きました。この最後の書は,たいていの聖書で巻末に置かれています。
モーセからヨハネに至る1,500年ほどの間に,およそ40人の人々が聖書を筆記することに加わりました。それらは誠実で敬虔な人々で,他の人たちが創造者について学ぶのを助けようとしていました。これらの人々の書き記したものから,神の性格について深く洞察することができ,またどうしたら神に喜ばれる者となれるかをも学べます。聖書はまた,なぜいま悪があふれているのか,それがどのようにして終わるのかを理解させてくれます。聖書の筆者たちは,人間がより直接に神の支配権のもとで生きる時代のことを予示し,その時にわたしたちが享受できる胸の躍るような状態を部分的ながら描写しています。―詩編 37:10,11。イザヤ 2:2-4; 65:17-25。啓示 21:3-5。
聖書を単なる古代の賢人の書として片づける人の多いことに気づいておられるでしょう。しかし一方では,神がその真の著者であり,筆記者たちの思考を導かれたという点を得心している人たちも無数にいます。(ペテロ第二 1:20,21)聖書筆者たちの書き記した事柄がほんとうに神からのものかどうかを,どうしたら見きわめることができるでしょうか。
これに関しては,同じ点を示す幾つもの証拠があり,それを十分に調べることができます。多くの人は,実際にそれを行なって,聖書が単なる人間の本ではなく,まさに人間を超越したところから出たものであると判断するようになりました。ここでは,一つの面の証拠を例として取り上げましょう。そうすることによって,宇宙の創造者で,人間の命の源である方についてさらに多くのことを学べます。
真実になった予言
聖書筆者の多くは預言を記録しました。それら筆者たちは,自分の力で将来を予告できるとは唱えず,むしろその誉れを創造者に帰しました。例えば,イザヤは神について,『終わりのことを初めから告げる方』と述べました。(イザヤ 1:1; 42:8,9; 46:8-11)幾十年,いや幾世紀も先の将来に起きる物事について予告するそのような能力は,イザヤの神が匹敵するもののない方であることを示すものでした。それは,人々が昔も今も崇めてきた単なる偶像のような存在ではありません。預言は,聖書が決して人間の著作ではないことを裏付ける説得力のある証拠となっています。イザヤ書がこの点をどのように示しているかを調べてください。
イザヤ書の内容を歴史の資料と照らし合わせて見ると,それが書かれたのは西暦前732年ごろであったことが分かります。イザヤは,エルサレムとユダの住民に災いの臨むことを予告しました。それは,その地の住民の流血と偶像崇拝の罪のためでした。イザヤは,その地が荒れ果て,エルサレムとその神殿が破壊され,生き残った人々がとりことしてバビロンに連行されることを予言しました。しかしイザヤは,捕らわれとなったその国民を神が忘れ去らないことも預言しました。その書は,キュロスという名の異国の王がバビロンを征服し,ユダヤ人を解放して祖国に戻らせることを予告していました。事実イザヤは,神に関して次の言葉を記していました。「キュロスについてこのように言う者,『彼はわたしの牧者であり,わたしの喜ぶことをすべて完全に成し遂げるであろう』と。すなわち,エルサレムについて,『彼女は建て直されるであろう』,神殿について,『あなたはその基を据えられるであろう』と言うわたしのことばをも」。―イザヤ 2:8; 24:1; 39:5-7; 43:14; 44:24-28; 45:1。
西暦前8世紀のイザヤの時代に,そのような予告は信じにくく思えたことでしょう。その時点でバビロンは軍事的に目立つ勢力になってさえおらず,その時代に現実の世界強国となっていたアッシリア帝国に服属していました。ひとたび征服されて遠くの土地へ流刑になった民が自由にされて,故国を取り戻せるということも,同じく想像し難く見えたことでしょう。「だれがこのようなことを聞いただろうか」とイザヤは書いています。―イザヤ 66:8。
しかし,時代が2世紀ほど下るとどうなっていたでしょうか。古代ユダヤ人のその後の歴史は,イザヤの預言が細部にわたって成就したことを証明しています。バビロンは確かに強大になって,エルサレムを滅ぼしました。ペルシャの王の名(キュロス),その王が後にバビロンを征服したこと,そしてユダヤ人の帰還などは,すべて歴史の事実として認められています。預言のこれら細かな点があまりにも的確に実現したため,19世紀の批評家たちは,イザヤ書はでっち上げであると唱えました。『初めのほうの章はイザヤが書いたかもしれないが,後にキュロス王の時代のだれかがあとの部分を預言らしく書き加えた』というのがおおむねその唱えるところでした。今でもそのような言い方で片づけようとする人がいることでしょう。この点に関してどんな事実があるでしょうか。
真実の予言か
イザヤ書に含まれる予言は,キュロスや流刑にされるユダヤ人に関することだけではありません。イザヤはバビロンの最終的な状況についても予告していました。またその書は,やがて到来するメシアつまり救出者についても細かな点を述べ,そのメシアが苦しみに遭い,その後に栄光を受けることを告げていました。それが実際に予言としてずっと以前に書かれ,そのとおりに成就した預言であったのかどうかを確かめることができるでしょうか。
次の点を考察してください。イザヤはバビロンの最終的な状況についてこう書いていました。「もろもろの王国の飾り,カルデア人の誇りの美であるバビロンは,神がソドムとゴモラを覆されたときのようになるのである。彼女は決して人の住む所とはならず,また,彼女が代々にわたって住むこともない」。(イザヤ 13:19,20; 47章)実際にはどのようになったのでしょうか。
歴史の事実として,バビロンは長年,チグリス川とユーフラテス川の間の,ダムや水路を用いる複雑なかんがい網に頼っていました。西暦前140年ごろ,この用水網は,破壊的なパルチア人による征服で損なわれて,実質的に崩壊してしまったようです。それはどんな影響を与えたでしょうか。アメリカーナ百科事典(英語)はこう説明しています。「その土壌には鉱物塩類が染み込み,表面には固いアルカリの層が出来て,農耕に適さなくなった」。その200年ほど後,バビロンは依然,人のにぎわう都市でしたが,それは長くは続きませんでした。(ペテロ第一 5:13と比較してください。)西暦3世紀ごろ,歴史家ディオ・カッシウス(西暦150年ごろ-235年)は,バビロンを訪れた人がそこに「荒れ塚と,石ころと,廃墟」しか見なかったと記しています。(LXVIII,30)意味深いことに,この時までにイザヤはすでに過去の人となっており,イザヤ書の全巻は流布されて何世紀もたっていました。あなたが今バビロンを訪ねたとしても,かつて栄光をきわめたその都市の遺跡を目にするだけでしょう。ローマ,エルサレム,アテネなどの古来の都市は今日まで存在していますが,バビロンは今では荒廃して人の住まない廃墟であり,イザヤの予告したとおりです。予言が真実になりました。
次に,メシアの到来についてのイザヤの描写に注目しましょう。イザヤ 52章13節によると,神のこの特別な僕は,やがて『高い地位に就き,大いに高められる』はずでした。しかし,それに続く章(イザヤ 53章)は,こうして高められるに先立ってメシアが意外なほど普通とは異なる経験をすることを預言していました。その章に記されている詳細な事柄に驚きをさえ感じられることでしょう。メシアの預言として広く知られている部分です。
その箇所を読めば分かるとおり,メシアは同国人からさげすまれます。そのことを確実視していたイザヤは,それがすでに起きた事のように,『彼はさげすまれ,人々に避けられた』と書きました。(3節)そのような虐待は全く不当なものでした。メシアは民のために良いことを行なうからです。イザヤはメシアの行なういやしの業を描写して,『わたしたちの病は彼が担った』と述べました。(4節)にもかかわらず,メシアは裁きを受け,不当にも有罪とされます。その間,訴える者たちの前で終始沈黙しています。(7,8節)引き渡されて犯罪者たちと共に死に処せられるに身をまかせます。処刑のさい,その体は刺し通されます。(5,12節)犯罪者のようにして死にますが,埋葬にあたっては,富んだ人のように扱われます。(9節)そしてイザヤは,メシアの不当な死が贖いの効力を持ち,他の人間の罪を覆うものとなることについて繰り返し述べていました。―5,8,11,12節。
このすべてはそのとおりになりました。イエスと同時代に生きた人々,つまりマタイ,マルコ,ルカ,ヨハネによる歴史的記録は,イザヤの予告していた事柄が現実に起きたことを証ししています。中にはイエスの死後に起きた出来事もあります。つまり,イエスが操作できるような物事ではありませんでした。(マタイ 8:16,17; 26:67; 27:14,39-44,57-60。ヨハネ 19:1,34)メシアに関するイザヤの預言が全面的に成就したことは,これまで幾世紀にもわたり,誠実な態度で聖書を読む人々に強力な影響を与えてきました。その中には,その時までイエスを受け入れていなかった人たちもいます。学者のウィリアム・アーウィックはこう述べました。「ユダヤ人でキリスト教徒になった人の中には,転向の理由を記すにあたって,この章[イザヤ 53章]を精読して,それまでの信条や教師たちに対する信仰を揺るがされたことを認める人が多い」―「エホバの僕」(The Servant of Jehovah)。a
アーウィックが上記の言葉を書いたのは1800年代の終わり近くでした。その時代には,イザヤ 53章がイエスの誕生の何世紀も前に書かれたものかどうかを疑う人もまだいたことでしょう。しかし,その後の幾つかの発見は,疑いの根拠をすべて除き去りました。1947年,ベドウィンの羊飼いが,死海の近くで,イザヤ書の古代の巻き物の全巻そろったものを見つけました。古代文字の専門家たちは,その巻き物を西暦前125年から同100年ごろのものとしてきました。その後1990年,その巻き物の炭素14による分析では,西暦前202年から同107年の間という年代が出されました。そうです,この有名なイザヤの巻き物は,イエスが誕生したころにはすでに相当の年数がたっていました。それを今日の聖書と比べると,どんなことが分かるでしょうか。
エルサレムに行けば,死海文書の断片を見ることができます。考古学者のイガエル・ヤディン教授の録音による解説は以下のとおりです。「イザヤの言葉が実際に語られてから,この写本が西暦前2世紀に作られるまでに,五,六百年ほどしかたっていない。博物館にあるこの原語写本が2,000年以上も昔のものなのに,ヘブライ語であれ,原文からの翻訳であれ,我々が今日読んでいる聖書にいかに近いかという点は驚きに値する」。
これは当然わたしたちの見方に影響するはずです。どんな見方ですか。イザヤ書は預言のかたちを取りながら実際には事後に書かれたものではないのかという疑問をすべて解くはずです。今では厳正な証拠から,イザヤの書いたものの写しがイエスの誕生の100年以上も前,バビロンの荒廃するずっと以前に作られていたことが示されているのです。ですから今,イザヤの書いたものが,バビロンの最終的な結末を,さらにメシアが経験する不当な苦しみや死のさまを,またメシアがどのように扱われるかを予言していたことについてどんな疑問があるでしょうか。ほかの歴史の事実は,ユダヤ人の捕囚,またそのユダヤ人がバビロンから解放されることについてもイザヤの予言が正確であったことに関して,異論の余地を全く残していません。このような予言の成就は,聖書の真の著者が創造者ご自身であり,聖書が「神の霊感を受けたもの」であることを示す多くの証拠の一つにすぎません。―テモテ第二 3:16。
聖書が神の著作であることを裏付けるものはほかにも多くあります。その中には,聖書の天文,地質,医学関連の正確さがあります。また,幾十人もの人が千数百年の歳月をかけて記したその数多くの書に見られる内面の調和,一般の歴史や考古学上の多くの事実との一致,当時の周囲の諸国民のものよりずっと優れ,今日なお比類のないものとされるその道徳上の規範などもあります。これら,また他の幾つもの証拠から,勤勉に探究する無数の正直な人々は,聖書がまさしく創造者からの書物であることを確信するようになりました。b
以上の点は,創造者がどのような方であるかをはっきり知るのにも役立ちます。その方の特質を理解する助けになるのです。ずっと先のことを見通すその方の能力は,わたしたち人間の知覚力をはるかに凌駕していることを示していないでしょうか。人間は遠い将来に何が起きるかを知らず,それを制御することもできません。創造者はそれができます。将来を予見し,その意図するところが果たされるよう物事を整えることができます。創造者についてのイザヤの描写はいかにも適切です。「終わりのことを初めから,また,まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者。『わたしの計り事は立ち,わたしは自分の喜びとすることをみな行なう』と言う者」。―イザヤ 46:10; 55:11。
著者についてさらに知る
人と会話し,いろいろな状況にどのように対応するかを見ることによって,わたしたちはその人をよく知ることができます。人について知るにはこの両方を行なえますが,創造者について知るにはどうでしょうか。創造者とじかに会話をすることはできません。ですが,すでにはっきり見たとおり,創造者はご自身に関し,聖書の中で,つまり何を語り,どのように行動したかの記録を通して,多くのことを啓示しておられます。しかも,この特異な本は,わたしたちが創造者との関係を培うようにと促しているのです。こう勧めています。「神に近づきなさい。そうすれば,神はあなた方に近づいてくださいます」。―ヤコブ 2:23; 4:8。
まず最初の段階について考えてください。だれかと友達になろうとする場合,その人の名前を知ろうとするに違いありません。創造者にはどんな名前があるでしょうか。その名は創造者についてどんなことを示しているでしょうか。
聖書のヘブライ語の部分(「旧約聖書」とも呼ばれる)は,創造者の特異な名前を伝えています。それは,古代の写本の中で,ヘブライ語の四つの子音文字で表わされており,翻字すればYHWHないしはJHVHに相当します。この創造者の名前は7,000回ほど,つまり神や主という称号よりもはるかに多く出ています。何世紀もの間,ヘブライ語の聖書を読む人々は,この固有名詞を用いていました。しかしやがて,多くのユダヤ人は,神の名を発音することに迷信的な恐れを持つようになり,その発音を保存しませんでした。
「やがて元々の発音は失われた。これを回復しようとする現代の試みはいずれも推測の域を出ない」と,出エジプト記に関するユダヤ教の一注釈書は述べています。確かにわたしたちは,出エジプト記 3章16節と6章3節に出てくる神のみ名をモーセがどのように発音したかをはっきりとは知りません。ですが,率直なところ,今日だれが,モーセやイエスの名前を,それぞれの時代と同じ厳密な音や抑揚で発音しなければならないと思うでしょうか。それでもわたしたちは,モーセやイエスをそれぞれの名前で呼ぶことをためらいません。つまり,別の言語を話した古代の民が神の名前を実際にどのように発音したかにあまりに気を遣うよりも,自分の言語での普通の発音に従えばよいのではないでしょうか。例えば,“Jehovah”(エホバ)は英語でこれまで400年ほど用いられており,英語では今日でも,創造者の名として広く受け入れられています。
しかし,その名の発音に関する細かな点よりさらに重要なことがあります。つまり,そこに含まれている意味です。その名前は,ヘブライ語では,「なる」,または「……であることを示す」という意味の動詞「ハーワー」の使役形です。(創世記 27:29。伝道の書 11:3)「オックスフォード・バイブル・コンパニオン」(The Oxford Companion to the Bible)は,この名前の意味として,「『彼は生じさせる』[he causes],または『彼はやがてあらしめる』[he will cause to be]」を挙げています。ですから創造者の固有の名は,文字どおりには,「彼はならせる」[He Causes to Become]という意味であると言えます。「第一原因[First Cause]」という語を用いる人が想起するような,創造者の遠い過去の行為に重きを置いているのではない,という点に注目してください。なぜでしょうか。
なぜなら,神のみ名には,創造者が行なおうと意図しておられる事柄との関連があるからです。ヘブライ語の動詞には,基本的に見て二つの形態しかありませんでした。創造者の名前のかかわるほうの形についてはこう説明されています。「[それは]行為を……発展してゆく途上のものとして示す。単に行為の継続を表わすのではなく……その始まりから完成に向けて発展してゆくものとして示す」。(「短編ヘブライ語時制」[A Short Account of the Hebrew Tenses])そうです,エホバはそのお名前によって,ご自身の意図する目的どおりに行動する者であることを示しておられます。つまり,進行してゆく行為によって,ご自分の約束した事柄の達成者となられるのです。創造者がご自身の目的とした事柄を常に果たされるという点は,多くの人にとって,満足と安心感を与えるものとなってきました。
創造者の目的と,あなたの目的
神のお名前は物事の目的というものを示唆しているのに対し,自分自身の存在に関して真の目的をなかなか見いだせないでいる人が多くいます。人々は,人類が戦争,自然災害,伝染性の病気,貧困,犯罪など,相次ぐ危機によろめくのを見ています。こうした災いとなる物事から何とか免れている恵まれた少数の人たちでも,将来について,また自分の人生の意味について,抑えがたい疑問のあることを認める人は少なくありません。
聖書そのものはこう述べています。「物質世界は挫折に服させられましたが,それは自らの願いによるのではなく,創造者の意志によるところでした。創造者は,そのようにしつつも,それがいつの日か救い出されて……神の子供たちの栄光ある自由にあずかるという希望を与えました」。(ローマ 8:20,21,「新約聖書の手紙」[The New Testament Letters],J・W・C・ウォンド訳)創世記の記述は,人間がかつて創造者と平和な関係にあったことを示しています。人間の側の非行のゆえに,神は正当なこととして,ある意味で挫折となる状況に人類を服させました。この状況がどのように発展し,それが創造者について何を示し,またわたしたちの将来にどんなことが希望できるのかを調べましょう。
多くの点で真実性を裏付けられてきたこの歴史の文書は,創造された最初の二人の人間がアダムとエバと名づけられたことを示しています。その記録によると,それら二人は,神のご意志に関連して目ざすべき目的や指示を何も与えられずに,ただ模索するにまかされていた訳ではありません。人間の場合でも愛情と思慮ある父親だれもが自分の子供に対してするように,創造者も人類に対して有益な指示を与えました。二人にこう言われました。「子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」― 創世記 1:28。
こうして,最初の人間には,生きるうえで有意義な目的がありました。そこには,地球の生態系を守り,責任感ある人々を地の全域に住まわせることも含まれていました。(イザヤ 11:9と比較してください。)この地球が今日のように汚染された状態になっていることに関し,創造者が,それをただ利用させ荒廃させる理由を人間に与えたとして正当に非難できる人はいません。「従わせよ」というのは,食い物にしてよいという認可ではありません。それは,人間が管理をゆだねられた惑星のこの地を耕し,その世話をすることでした。(創世記 2:15)加えて,人間の前にはずっと続く将来があり,その意義ある職務を遂行してゆくことができました。死なないで生き続けるというその見込みは,人間の脳が,70年か80年,あるいは100年の生涯で精いっぱいに活用し得る分をはるかに超えた能力を備えている事実とも合致します。人間の脳は,どこまでも限りなく用いられるように意図されているのです。
エホバ神は,創造物を造り出した方,またその指揮者として,地と人類に対するご自分の目的をどのように遂行するかについて,人間に自由行動の余地を与えました。過度に要求的でも,不当に制限的でもありませんでした。例えば,動物学者が喜びとするような仕事がアダムに与えられました。それは,動物を研究して,それぞれの名前を決める割り当てでした。アダムは一つ一つの動物の特徴を観察して名前を付けましたが,その名の多くは特徴をよくとらえた名称でした。(創世記 2:19)これは,人間が自分の能力や才能をどのように神の目的にそって用いることができるかのほんの一例です。
あなたも理解されるはずですが,全宇宙の賢明な創造者は,地上がどのようになるとしても,たとえ人間が愚かで害になる道を取ろうとも,容易にその状況を掌握できました。歴史の記録は,神がアダムに対して制限となる命令をただ一つだけ与えたことを述べています。「園のすべての木から,あなたは満ち足りるまで食べてよい。しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」― 創世記 2:16,17。
この命令は,従うことを求める神の権利を認めるべきことを人間に銘記させるものでした。アダムの時代以来今日まで,人は重力の法則を認め,それに調和して生きてこなければなりませんでした。そうしないのは愚かであり,害になることでした。では,人間の益のための創造者の他の法則,もしくは命令にそって生きることをどうして拒むべきでしょうか。創造者は,その法則を退けた場合にどうなるかを明らかに示すと同時に,アダムとエバに対して,自発的に神に従う随意選択の余地を許しました。創造者が人間に選択の自由を与えておられることは,人間の初期の歴史に関する記述から容易に読み取ることができます。それでも,創造者は被造物が最高度に幸福であることを願っておられ,それは,創造者の与える健全な法則にそって生きることから自然に得られるものです。
わたしたちは以前の章で,創造者が,理知のある生き物で人間には見えないもの,つまり霊の被造物を生み出されたことを取り上げました。人間の始まりに関する歴史は,これら霊たちの一人が,神の地位を奪おうとする考えに取りつかれるようになったことを明らかにしています。(エゼキエル 28:13-15と比較してください。)その者は,神が許しておられる選択の自由を悪用し,最初の人間をそそのかして,あからさまな反逆と呼ぶべきものに誘い込みました。最初の人間夫婦は,真っ向からの不従順という挑戦的な行為,つまり「善悪の知識の木」から取って食べることによって,神の支配からの独立を唱えました。しかし,それだけではありません。その歩みは,創造者が人間に良いものを与えないようにしているという主張に,この二人がくみしたことを示すものでした。それは,何が善で何が悪かについて,人間の造り主の見方がどうあろうとも,アダムとエバが自分たちでそれを決定したいと主張するようなものでした。
だれにしても,自分は重力の法則が好きではないとしてそれを無視して行動するのは,何と無分別なことでしょう。アダムとエバにとって,創造者の道徳上の規範を退けるのは,それと同じほどに無思慮なことでした。人は,従順を求める神の基本的な法則を破るなら,害となる結果を当然に予期しなければなりません。重力の法則を軽く見る人に有害な結果が臨むのと同じです。
歴史は,エホバがその時点で行動を取られたことを述べています。アダムとエバが創造者のご意志を退けたその「日」に,二人は下降の道をたどり始め,神があらかじめ警告したとおり,死に向かって進むようになりました。(ペテロ第二 3:8と比較してください。)これは,創造者の属性について別の面を示しています。エホバは公正の神であり,あからさまな不従順を柔弱に見逃すようなことはされません。賢明で正当な規範を持ち,それを固く守るのです。
創造者はご自身の主要な特質を働かせて憐れみを示し,人間の命を直ちに終わらせることはされませんでした。なぜでしょうか。アダムとエバの子孫となる人々に対する配慮のためでした。それは,まだ宿されてもおらず,自分の先祖の罪の歩みに直接には責任のない人々です。後に宿される命に対する神のこうした配慮は,創造者がどのような方かをよく物語っています。エホバは冷酷無情な審判者ではありません。公正であり,すべての人に快く機会を与え,人間の命の神聖さを重んじられるのです。
これは,その後に続く人間の各世代が最初の夫婦と同じく喜びに満ちた環境を享受できるという意味ではありませんでした。創造者はアダムの子孫が生まれて来ることを許し,それによって「物質世界は挫折に服させられました」。とはいえ,それは全くの挫折や絶望状態ではありませんでした。ローマ 8章20,21節は,創造者が『それがいつの日か救い出されるという希望を与えた』とも述べていたことを思い出してください。これは,わたしたちがさらに知りたいと思う点です。
あなたは創造者を見いだせますか
最初の人間夫婦を反逆に導き入れた敵対者は,聖書の中で,悪魔サタンと呼ばれています。これには,「抵抗者」,また「中傷する者」という意味があります。反逆のその黒幕的扇動者に対する宣告の中で,神はサタンを,敵対する者として扱いましたが,以後の時代の人間が希望を持つ基となるものをも置かれました。神はこう言われました。「わたしは,お前[サタン]と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。(創世記 3:15)明らかにこれは,比喩的,また象徴的な言葉でした。「胤」となる者が来るとはどういう意味でしたか。
聖書の他の箇所が,この興味あふれる一節に光を投じています。これは,エホバがご自身の名にふさわしく行動し,何であれ地上の人間に対するご自身の目的を果たすに必要なものと「なる」ことと関連しているのです。それを行なうにあたって,エホバはある特定の国民を用いました。その古代の国民をエホバがどのように扱われたかという歴史の記述は,聖書のかなりの部分を占めています。その重要な歴史を手短に考察してみましょう。そうすることによって,わたしたちの創造者の特質についていっそう多くのことを学べます。そうです,神が人間のために用意された書物である聖書をさらに調べることによって,創造者に関し,きわめて貴重な多くの事柄を学べるのです。
[脚注]
a 使徒 8:26-38と比較してください。そこにはイザヤ 53:7,8が引用されています。
b 聖書の由来がどのようなものかについてさらに詳しくは,ものみの塔聖書冊子協会発行の,「すべての人のための書物」という冊子,また,「聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?」という書籍をご覧ください。
[107ページの写真]
幾世紀も前から聖書が予告していたとおり,強大なバビロンは荒廃した所となり,今日も廃墟のままである
[110ページの写真]
西暦前2世紀に作られたイザヤ書のこの巻き物は,死海の近くの洞くつから発見された。その書は,書かれてから何百年も後の物事を細かに予告していた
[115ページの写真]
古代のヘブライ文字で陶片に書かれたこの手紙はラキシュで発掘された。神の名(矢印)が2回出ており,創造者の名前が一般に知られ,広く用いられていたことを示している
[117ページの図版]
アイザック・ニュートンは引力の法則を公式化した。創造者の定めた法則は道理にかなったものであり,それを認めて行動することはわたしたちのためになる