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聖書預言の王なる「牧者」ものみの塔 1979 | 12月1日
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8 「『そしてわたしは,わたしの羊の残りの者を,わたしが追い散らしたすべての国から寄せ集めるであろう。わたしは彼らをその牧草地に連れ戻す。彼らは必ずよく生んで多くなるであろう。そして,わたしは彼らの上に,実際,彼らを牧する牧者たちを起こす。彼らはもはや恐れることなく,恐怖に打たれることもなく,だれもいなくなることはない』と,エホバは仰せられる。『見よ,日がやって来る』と,エホバは仰せられる,『わたしはダビデにひとつの義なる芽[ダビデの横枝である不義の王たちとは対象的な芽]を起こす。そしてひとりの王が必ず治め,思慮深く行動し,国に公正と義を行なうであろう。彼の時代にユダは救われ,イスラエルは,安心して住むであろう。そしてこれが,彼の呼ばれるその名である。すなわち,エホバはわたしたちの義,である』」― エレミヤ 23:3-6,新。
9 その約束の牧者の名前が「エホバはわたしたちの義」となることになっていた事実は,その牧者がエホバご自身であることを意味するものではありません。なぜですか。
9 「彼は,『主はわたしたちの正しさを立証するかた』と呼ばれるであろう」。アメリカ・ユダヤ人出版協会が翻訳した1978年版の聖書では,エレミヤ記 23章6節がこのように訳されており,モファットの訳では「わたしたちの擁護者」となっています。地上の人間で実際にこの名前を持つようになった人は一人もいません。しかしその預言はイエス・キリストにおいて成就しました。イエスがその名前を持つ権利を有するようになったということは,イエスがエホバ神ご自身であるという意味ではありません。「エホバは義と宣言された」あるいは「エホバは義である」という意味を持つヨザダクという名前のイスラエル人がいましたが,その人物はエホバ神ご自身ではありませんでした。(歴代上 6:14,15)エレミヤ記 33章16節(新)によると,エルサレムでさえ,「エホバはわたしたちの義」と呼ばれることになっていましたが,それはエルサレムがエホバご自身であったという意味でしょうか。そうではありません。エルサレムで統治した最後の王の名前はゼデキヤでした。それには「ヤハの義」という意味がありました。「エホバはわたしたちの義」と呼ばれることになっていた王,すなわちイエス・キリストは,ゼデキヤ王と非常に対照的です。
10,11 (イ)エレミヤ記 23章5,6節の約束はどの人々の上に成就しましたか。(ロ)「エホバはわたしたちの義」という名前は,正しくだれのものとなりましたか。どのようにして?
10 エレミヤ記 23章5,6節の預言は,イエスの時代の実際のユダとイスラエルとエルサレムに成就したのではありません。ユダヤの民を構成するこれらの地の住民はイエスをメシアと認めませんでした。西暦70年に,これらの地はローマ人によって荒らされ,住民は散らされました。実際には,その預言は霊的イスラエル人,すなわちキリストの油そそがれた弟子たちの上に成就しました。
11 霊的イスラエル人の残りの者は,1914年から1918年までの第一次世界大戦の間に,当時その世界大戦に参加していたキリスト教世界の国々と僧職者によって散らされました。しかし,1919年以来,エホバは栄光を受けたイエス・キリストを用いて散らされていた残りの者を集め,霊的に一致させておられます。その一致は世界的です。悔い改めて元の状態に復した霊的イスラエル人の残りの者の成員は清められて,「王国のこの良いたより」を国際レベルで「人の住む全地」にふれ告げるにふさわしい者とされました。(マタイ 24:9-14)こうして,キリストを通して示されるエホバの過分のご親切により,彼らは義なる者と宣せられました。すなわちその正しさを立証されました。エホバは彼らの後ろだて,彼らの「擁護者」となられ,彼らはエホバのクリスチャン証人となりました。(イザヤ 43:10)この恵みは,当時王位にあった王なる牧者イエス・キリストを通して与えられることになっていましたから,「エホバはわたしたちの義」という名前はイエス・キリストにつけられるのが当然でした。
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聖書預言の王なる「牧者」ものみの塔 1979 | 12月1日
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13 (イ)ダビデの王朝に関するどんなことにもかかわらず,エホバはダビデに「義の芽」を起こされましたか。(ロ)その芽の名前である「エホバはわたしたちの義」と調和してエホバは残りの者をどのように扱われましたか。
13 エホバはコニヤ王(またの名はエコニヤ,あるいはエホヤキン)b に対して災いに満ちた預言をしておられたにもかかわらず,このようにしてダビデに一つの義の芽を起こされました。(エレミヤ 22:24から23:2まで。マタイ 1:11-16。列王下 25:27-30)この「義の芽」であるイエス・キリストは,将来ご自分の臣民となる人間のために,ご自分の完全な人間の命を犠牲として捨てられました。そうすることによって,14万4,000人の献身した追随者たちが『義なる者と宣せられる』基礎を置かれました。その目的は,彼らがキリストの天の王国でキリストの共同相続者となることにありました。(ローマ 8:14-17。コリント第一 1:30,31)キリスト教世界の僧職者が王国相続者である14万4,000人の残りの者を非難したにもかかわらず,エホバは1919年以来,この残りの者に再び恵みを与え,ご自分に仕える立場に復帰させられました。そうすることによってエホバは彼らを擁護し,彼らの正しさを立証してこられました。つまりキリストを通して『彼らを義なる者と宣して』来られたのです。―ローマ 8:31-33。エレミヤ 23:6,モファット訳; ユダヤ人出版協会訳; 新世界訳。
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聖書預言の王なる「牧者」ものみの塔 1979 | 12月1日
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15 油そそがれた残りの者の状態とは対照的に,キリスト教世界は現在どのような状態にありますか。
15 回復した霊的イスラエル人の残りの者は,「エホバはわたしたちの義」と呼ばれる天の王の支配下で,霊的パラダイスに住んでいます。(エレミヤ 23:3-6,新)キリスト教世界には今日,霊的に平和で安全なパラダイスなど存在せず,姦淫で汚され,霊的飢きんに見舞われている状態が見られます。その有様は人に胸の張り裂ける思いをさせます。それはさらに悲痛な結果の到来する前兆です。それを見て人は酒に酔った者のようによろめくでしょう。―エレミヤ 23:9,10。マタイ 24:21,22。
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