エホバ
(Jehovah)[ヘブライ語動詞ハーワー(なる)の使役形未完了態。「彼はならせる」の意]
神の固有のみ名。(イザ 42:8; 54:5)この方は聖書では「神」,「主権者なる主」,「創造者」,「父」,「全能者」,「至高者」などの描写的称号で表わされていますが,その性格や属性 ― この方はどなたで,どんな方かということ ― を,完全に要約し,表現したものと言えるのは,この固有のみ名だけです。―詩 83:18。
神の名の正確な発音 神の名の英語の発音としては,大抵のヘブライ語学者は“Yahweh”のほうを好みますが,最もよく知られているのは“Jehovah”(日本語では「エホバ」)です。この名は最古のヘブライ語写本の中に,一般に四文字語<テトラグラマトン>(「四」を意味するギリシャ語テトラと,「文字」を意味するグランマとに由来する語)と呼ばれる四つの子音字の形で出て来ます。それらの四文字はיהוה(右から左へ書く)で,英語のYHWH(もしくは,JHVH)という形に翻字できるでしょう。
ですから,このみ名のヘブライ語の子音字は知られています。問題は,どの母音をそれらの子音字と組み合わせるべきかということです。ヘブライ語では,西暦1千年紀の後半の時期に至るまで母音符号は使われていませんでした。(「ヘブライ語」[ヘブライ語のアルファベットと書体]を参照。)その上,ヘブライ語写本に打たれている母音符号は,それより何世紀も前から始まっていた,ある宗教的な迷信のために,神の名にどの母音を加えるべきかを決めるかぎとはなっていません。
迷信のためにみ名が隠される ユダヤ人の間ではある時期に,神の名(四文字語<テトラグラマトン>で表わされる)を発音することさえ間違っているという迷信的な考えが生じました。そのみ名の使用をやめるために,最初,一体どんな根拠が挙げられたのか,確かなことは分かりません。中には,み名は不完全な人間の唇で語るにはあまりにも神聖すぎるとみなされたのだと考える人もいます。しかし,ヘブライ語聖書そのものには,かつて神のまことの僕のだれかが神の名を発音するのをちゅうちょしたことを示す証拠は一つもありません。いわゆるラキシュ書簡などの聖書以外のヘブライ語の文書は,西暦前7世紀後半のパレスチナでは神の名が普通の通信文の中でも使われていたことを示しています。
ほかには,ユダヤ人ではない諸民族がそのみ名を知れば,誤用する可能性があるので,そうならないようにする意図があったという見方もあります。しかし,エホバご自身が,「わたしの名を全地に宣明させ」(出 9:16。代一 16:23,24; 詩 113:3; マラ 1:11,14と比較),敵対者にさえ知られるようにさせると言われました。(イザ 64:2)実際,そのみ名は西暦紀元前の時代と西暦紀元の初期の何世紀かの間,異教の諸国民に知られており,また使われていました。(ユダヤ百科事典,1976年,第12巻,119ページ)また,そのみ名を魔術の祭儀で使われないように守るのが目的だったと主張する人もいます。もしそうだとすれば,その論拠は薄弱です。み名が使われなくなって,神秘的なものになればなるほど,事態は魔術を行なう人々の目的に一層かなうことになるのは明らかだからです。
その迷信はいつごろ定着したか 神の名の使用をやめるために当初提出された理由があやふやなように,この迷信的な見方が実際に定着したのはいつごろか,ということも極めてあやふやです。中には,バビロンへの流刑(西暦前607-537年)後に定着したと主張する人もいます。しかしこの説は,ヘブライ語聖書の後代の筆者によるみ名の使用回数が減少したとする見方に基づいており,この見方は考察に堪えるものではありません。例えば,マラキ書は明らかに,ヘブライ語聖書巻末の書として(西暦前5世紀後半に)記された文書の一つでしたが,その中で神の名は大変目立ったものとされています。
そのみ名は西暦前300年ごろには使われなくなったとしている参考書は少なくありません。この年代を支持する証拠は,西暦前280年ごろ翻訳され始めた,ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳の中に四文字語<テトラグラマトン>(もしくは,その翻字)が出ていない点にあるとされています。確かに,セプトゥアギンタ訳の写本で,今日知られている幾つかの最も完全な写本では,四文字語<テトラグラマトン>の代わりにキュリオス(主),もしくはテオス(神)というギリシャ語を用いる習慣が一貫して守られているのは事実です。しかし,それらの主要な写本の年代はせいぜい西暦4ないし5世紀までさかのぼるにすぎません。それらよりもさらに古代の写本が,断片であるとは言え,幾つか発見されており,神の名が確かにセプトゥアギンタ訳の最初期の写本に出ていたことを証明しています。
その一つは,P.ファド目録266号として記載されている,申命記の一部を含むパピルスの巻き物の残存する断片写本です。(第1巻,326ページの写真)この断片写本では,四文字語<テトラグラマトン>が翻訳中のヘブライ語本文に出て来る度にヘブライ語の方形文字できちんと書き表わされています。学者たちはこのパピルスを西暦前1世紀のものとしていますから,これが書かれた年代は前述の写本よりも四,五世紀前ということになります。―新世,付録,1754-1756ページを参照。
一般のユダヤ人は神の固有のみ名を発音するのを実際にいつごろやめましたか
それで,少なくとも書体としては,神の名が西暦前の時期に見られなくなった,もしくは使われなくなったことを示す確かな証拠は一つもありません。み名に対する迷信的な態度を示す証拠は,西暦1世紀に初めて現われます。祭司の氏族出身のユダヤ人の歴史家ヨセフスは,燃えるかん木の所でモーセが見た神の顕現について語り,こう述べています。「その時,神は,当時まで人々の耳に伝えられたことのなかった,ご自分の名を彼に明らかにされたが,わたしはそのみ名を口にすることを禁じられている」。(ユダヤ古代誌,II,276 [xii,4])しかし,ヨセフスの述べた言葉は,モーセ以前の時代にも神の名が知られていたことに関して不正確である上に,神の名を発音したり使ったりすることに関する1世紀当時の一般的な態度が一体どのようなものであったかについてはあいまいで,はっきりしたことを示していません。
ラビの教えや伝承を集大成したものである,ユダヤ教のミシュナはもう少し明確です。それを編さんしたのは,西暦2および3世紀に生きていた,王子ユダとして知られたラビとされています。ミシュナの一部の資料は,明らかに西暦70年におけるエルサレムとその神殿の滅亡以前の状況と関連があります。しかし,ある学者はミシュナについて次のように述べています。「ミシュナに記録されている伝承のどれにせよ,それにどんな歴史的価値を付すべきかを決めるのは極めて難しい問題である。それぞれの時代の人々の記憶をあいまいにさせたり,ゆがめさせたりして余りにも異なったものにしてきたかもしれない時の経過や,二度の反乱とローマ人による二度の征服がもたらした政治的大変動,変化,および混乱,さらにパリサイ派(その見解がミシュナに記されている)により尊重されている,サドカイ派のものではない規準……それらはミシュナの中で述べられている事柄の特徴を評価する際に十分重視する必要のある要素である。その上,ミシュナの内容の中には,歴史上の慣用を記録するといった感じのものはほとんどなく(そのように見えるのだが),学問的な論議そのもののために議論を追求するという雰囲気の中で展開するものが少なくない」。(ミシュナ,H・ダンビー訳,ロンドン,1954年,14,15ページ)神の名の発音の仕方に関するミシュナの伝承の幾つかは次の通りです。
年に一度の贖罪の日に関して,ダンビー訳のミシュナはこう述べています。「また,神殿の中庭に立つ祭司たちや民は,大祭司の口から発せられて言い表わされたみ名を聞くと,ひざまずいて身をかがめ,ひれ伏して,『その王国の栄光のみ名が,限りなく永久にほめたたえられますように!』と言うのであった」。(ヨマー 6:2)ソター 7章6節は祭司が日ごとに述べる祝福の言葉について,こう述べています。「彼らは神殿ではみ名を書かれている通りに発音したが,地方では代わりの言葉で発音した」。サンヘドリン 7章5節は,冒とくした者も,『み名を発音したのでない限り』,有罪とはならず,また冒とくの罪が関係する裁判では,証拠がすべて審理されるまで代わりの名が使われ,その後,おもな証人が多分,神の名を用いて,『自分の聞いた事柄をはっきりと言う』よう個人的に求められたと述べています。サンヘドリン 10章1節は,「来たるべき世に何の分も持っていない」者たちを列挙して,「アバ・サウルはこう言う。また,み名をその正しい文字で発音する者も」と述べています。しかし,このような消極的な見方があるにもかかわらず,ミシュナの最初の部分には,「人は[神の]み名[を使って]仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令もあり,その後にボアズの例(ルツ 2:4)が引き合いに出されています。―ベラホット 9:5。
このような伝統的な見方は,そのままに受け取るとすれば,西暦70年にエルサレムの神殿が滅ぼされる以前のある時期から,神の名の使用を避けようとする迷信的な傾向があったことを明らかにするものかもしれません。しかし当時でさえ,神の名の代わりに代用名を使っていたとはっきり言われているのは,おもに祭司たちであって,それもただ地方でのことでした。その上,すでに述べた通り,ミシュナの伝承の歴史的な価値には問題があります。
ですから,神の名の使用をやめさせようとする迷信的な見方が生じたのは西暦1ないし2世紀よりも以前のことであるとする真の根拠はありません。しかし確かに,ユダヤ人の読者が原語のヘブライ語聖書を読む際,四文字語<テトラグラマトン>で表わされている神の名を発音する代わりに,アドーナーイ(主権者なる主),もしくはエローヒーム(神)と読む時代が来ました。このことは,西暦1千年紀の後半に母音符号が使われるようになった時,ユダヤ人の写字生が,神の名を発音する代わりにこれらの言葉を口にするよう読者に警告するため,アドーナーイ,またはエローヒームのいずれかを表わす母音符号を四文字語<テトラグラマトン>に打った事実からも分かります。読者がもし,ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳の後代の写本を使っていたなら,言うまでもなく,四文字語<テトラグラマトン>が完全にキュリオスやテオスに置き換えられたものを目にしたのです。―「主」を参照。
ラテン語ウルガタ訳などの他の言語への翻訳は,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳のそれら後代の写本の例に倣って行なわれました。ですから,ラテン語ウルガタ訳に基づくカトリックの英文ドウェー訳(1609-1610年)には神の名が含まれていません。一方,ジェームズ王欽定訳(1611年)は,ヘブライ語聖書の四文字語<テトラグラマトン>を表わすのに,4か所以外は,LORD(主)もしくはGOD(神)[冒頭は大文字で,他は小型の大文字]を使っています。
神のみ名の正しい発音とはどんなものですか
西暦1千年紀の後半に,ユダヤ人の学者はヘブライ語の子音本文に記されていない母音を表わす符号体系を導入しました。そして,神のみ名に関しては,そのための正しい母音記号を打つ代わりに,アドーナーイ(「主権者なる主」の意),またはエローヒーム(「神」の意)と言うべきであることを読者に思い起こさせるために他の母音記号を打ちました。
西暦11世紀のレニングラード写本 B 19Aの母音符号の打ち方では,四文字語<テトラグラマトン>はエフワー,エフウィ,およびエホーワーと読めます。ギンスブルクの編さんしたマソラ本文の母音符号の打ち方では,神の名はエホーワーと読めます。(創 3:14,脚注)一般に,ヘブライ語学者は,「ヤハウェ」を最も適切な発音として支持しています。そして,詩編 89編8節やハレルー・ヤーハ(「あなた方はヤハを賛美せよ!」の意)という表現の場合のように,み名の省略形はヤーハ(ラテン語化された形ではヤハ)であることを指摘しています。(詩 104:35; 150:1,6)また,エホシャファト,ヨシャファト,シェファトヤその他のヘブライ語名のつづりに見られるエホー,ヨー,ヤーハ,およびヤーフーという形はすべて,ヤハウェから派生したと考えることができます。初期クリスチャンの著述家による,み名のギリシャ語の翻字は,ギリシャ語で発音してもヤハウェに似ているイアベやイアウーエのようなつづりで,やや類似した方向を示しています。とはいえ,この問題に関する学者の意見は決して一致を見ておらず,中にはさらに,「ヤフワ」,「ヤフーア」,「エフーア」など他の発音を支持する人もいます。
確実な発音は今のところ分からないのですから,提案されている他のどれかの発音を支持して,英語でよく知られている“Jehovah”(日本語では「エホバ」)という形を捨てるべき理由があるとは思えません。もしそのような変更をするのであれば,聖書に見いだされる他の多数の名前のつづりや発音にも首尾一貫して変更を加えるべきでしょう。エレミヤはイルメヤーに変えられ,イザヤはエシャヤーフーとなり,イエスはエホーシューア(ヘブライ語の場合),もしくはイエースース(ギリシャ語の場合)となるはずです。言葉の目的は考えを伝達することです。英語の“Jehovah”という名はまことの神がだれであるかを明らかにしており,今日,提案されているどんな代用語よりも十分にこの考えを伝達する語です。
み名の重要性 現代の多くの学者や聖書翻訳者たちは神の特有のみ名を排除する伝統に従う方法を擁護しています。それらの人々は,み名の発音が不確かなのだから,そのような方法に従うのは正当であると主張するだけでなく,まことの神は至上性と独自性を有しておられるゆえに特定の名を持つ必要がないとも考えています。このような見方には,キリスト教時代以前の聖書であれ,クリスチャン・ギリシャ語聖書であれ,霊感を受けて記された聖書からの裏付けは全くありません。
四文字語<テトラグラマトン>は「ビブリア・ヘブライカ」や「ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア」の印刷されたヘブライ語本文の中に6,828回出て来ます。新世界訳のヘブライ語聖書には,み名が6,979回出て来ます。なぜなら,その翻訳者たちは,とりわけ書士たちが幾つかの箇所でみ名をアドーナーイやエローヒームで置き換えたという事実を考慮に入れたからです。(新世,付録,1753,1754ページを参照。)み名が頻繁に出て来ること自体,その名がこれを持っておられる聖書の著者にとって重要であることを証明しています。そのみ名が聖書全体で使われている回数は,この方に適用されている「主権者なる主」や「神」というような称号のいずれの使用回数をもはるかに上回っています。
また,ヘブライ語聖書やセム族の中で名に付与されている重要性も注目に値します。G・T・マンリー教授は次のように指摘しています。「旧約[聖書]中の『名』という言葉を研究すると,それがヘブライ語でいかに重要な意味を持っているかが明らかになる。名は単なるラベルではなく,その名を有する人の真の人格を表わすものである。……人が自分の『名』をある物,もしくは別の人に付すと,後者はその人の影響や保護を受ける立場に入るのである」― 新聖書辞典,J・D・ダグラス編,1985年,430ページ。「すべての人のタルムード」,A・コーヘン著,1949年,24ページ; 創 27:36; サム一 25:25; 詩 20:1; 箴 22:1と比較。「名」を参照。
「神」や「父」は特有の語ではない 「神」という称号は特定の個人を指すものでもなければ,特有の語でもありません。(人は自分の腹を神にすることさえできる; フィリ 3:19)ヘブライ語聖書では同一の語(エローヒーム)がまことの神エホバにも,またフィリスティア人の神ダゴン(裁 16:23,24; サム一 5:7)やアッシリア人の神ニスロク(王二 19:37)などの偽りの神々にも用いられています。ヘブライ人がフィリスティア人やアッシリア人に向かって,自分は「神[エローヒーム]」を崇拝していると言ったところで,明らかにそれだけでは自分が崇拝の対象にしている方の実体を明示するには不十分だったでしょう。
インペリアル聖書辞典はエホバの項の中で,エローヒーム(神)とエホバとの相違を実によく例証し,エホバという名について次のように述べています。「それはどんな箇所でも固有の名であり,人格的な神を,そしてただその方だけを表わしている。一方,エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており,確かに普通は至上者を表わすが,必ずしも,またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim,つまりまことの神と言う場合があるが,決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら,エホバとはまことの神だけの名だからである。また,わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは,わたしの神と言う場合,エホバのことを意味しているからである。また,イスラエルの神について語りはするが,決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに,生ける神について語りはするが,決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」― P・フェアベアン編,ロンドン,1874年,第1巻,856ページ。
神を表わすギリシャ語テオスについても同じことが言えます。この語はまことの神にも,またゼウスやヘルメス(ローマ人のユピテルやメルクリウス)などの異教の神々にも等しく適用されました。(使徒 14:11-15と比較。)コリント第一 8章4-6節にある次のようなパウロの言葉は,その実情を示しています。「多くの『神』や多くの『主』がいるとおり,天にであれ地にであれ『神』と呼ばれる者たちがいるとしても,わたしたちには父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出ており,わたしたちはこの方のためにあるのです」。多数の神々に対する信仰はこの21世紀においても存続しており,そのためにまことの神をそれらの神々から区別するのは肝要な事柄です。
パウロは「父なる神」に言及していますが,それはまことの神の名が「父」であることを意味しているわけではありません。「父」という名称は人間の父親すべてにも適用され,他の関係における人間のことをも描写するものだからです。(ロマ 4:11,16; コリ一 4:15)メシアには「“とこしえの父”」という称号が与えられています。(イザ 9:6)イエスはサタンのことを殺意を抱いていた一部の反対者たちの「父」と呼ばれました。(ヨハ 8:44)この語は諸国民の神々にも適用され,ギリシャの神ゼウスはホメロスの詩の中で偉大な父なる神として表わされました。「父なる神」は名,つまりご自分のみ子の名とは別個のみ名を持っておられることが多くの聖句の中で示されています。(マタ 28:19; 啓 3:12; 14:1)パウロは自分の著作の中で引用した創世記の創造の記述の中にある,エホバという神の固有のみ名を知っていました。そのエホバというみ名は「父なる神」を他から区別し(イザ 64:8と比較),そのようにして,その実体や性格を「神」,もしくは「父」という称号が適用されるかもしれない他の者のそれと一緒にしたり,混じり合わせたりするどんな企てをも阻止しています。
部族神ではない エホバは「イスラエルの神」,ならびに『彼らの父祖の神』と呼ばれています。(代一 17:24; 出 3:16)しかし,ヘブライ人やイスラエル国民とのそのような親密な交わりは,一部の人々がしてきたように,その名を部族神の名として限定すべき理由にはなりません。クリスチャンの使徒パウロはこう書きました。「この方はユダヤ人だけの神なのですか。諸国の人たちの神なのでもありませんか。そうです,諸国の人たちの神でもあります」。(ロマ 3:29)エホバは「全地の神」であられるだけでなく(イザ 54:5),宇宙の神,つまり「天地の造り主」でもあられます。(詩 124:8)パウロの時代よりも2,000年ほど前にエホバがアブラハムと結ばれた契約は,すべての国の民のための祝福を約束したものであって,神が全人類に対して関心を抱いておられることを示しています。―創 12:1-3。使徒 10:34,35; 11:18と比較。
エホバ神はやがて不忠実な肉のイスラエル国民を退けられました。しかし,神の名は新しい霊的なイスラエル国民,つまりクリスチャン会衆の中で,それもその新しい国民がユダヤ人ではない人々を成員として受け入れるようになる時でさえ,その会衆の中で存続することになっていました。ですから,エルサレムにおけるクリスチャンの集まりを主宰した弟子ヤコブは,神が「諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出(して)」おられることについて話しました。その後,ヤコブはそれが予告されていた証拠として,エホバのみ名が出ている,アモス書のある預言を引用しました。―使徒 15:2,12-14; アモ 9:11,12。
クリスチャン・ギリシャ語聖書におけるみ名 このような証拠からすれば,クリスチャン・ギリシャ語聖書の元の本文の現存する写本に神の名が完全な形で含まれていないのは極めて異常なことと思われます。そのために,み名はいわゆる新約聖書のどの翻訳にも大抵見当たりません。しかし,み名はそのような翻訳の啓示 19章1,3,4,6節に省略形で,つまり「ハレルヤ」という表現の中に確かに出て来ます。(欽定,ドウェー,エルサレム,ア標,改標)「あなた方はヤハを賛美せよ!」(新世)という,神の霊の子たちの語る言葉として,そこに記録されている叫び声は,神の名が廃れていなかったことを明らかにしています。そのみ名はキリスト教以前の時代と同様に肝要で,適切なものでした。では,それがクリスチャン・ギリシャ語聖書の中に完全な形で出ていないのはなぜでしょうか。
神の名がクリスチャン・ギリシャ語聖書の入手可能な古代写本のどれにも完全な形で出ていないのはなぜですか
クリスチャン・ギリシャ語聖書の霊感を受けた筆者たちはセプトゥアギンタ訳に基づいてヘブライ語聖書を引用しており,その訳の四文字語<テトラグラマトン>はキュリオスもしくはテオスに置き換えられていたので,それら筆者たちはエホバというみ名を使わなかったというのが年来の論議でした。すでに述べた通り,この論議はもはや有効なものではありません。ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の最古の断片写本にヘブライ語形の神の名がまさしく含まれているという事実について注解したP・カーレ博士は,次のように述べています。「ギリシャ語の聖書本文[セプトゥアギンタ訳]は,ユダヤ人がユダヤ人のために書いたものである限り,神の名はキュリオスに書き換えられてはおらず,そのような写本にはヘブライ語かギリシャ語で書かれた四文字語<テトラグラマトン>があるべき場所に保たれていたことを今や我々は知っている。ヘブライ文字で書かれた神の名がもはや理解できなくなった時,四文字語<テトラグラマトン>をキュリオスで置き換えたのはキリスト教徒であった」。(「カイロ・ゲニザ」,オックスフォード,1959年,222ページ)ヘブライ語聖書のギリシャ語訳のこのような変化はいつ起きたのでしょうか。
それはイエスやその使徒たちが亡くなってから何世紀か後に起きたようです。西暦2世紀の年代のものであるアキュラのギリシャ語訳には,依然としてヘブライ文字の四文字語<テトラグラマトン>が出ていました。西暦245年ごろ,著名な学者オリゲネスはヘクサプラ(対照訳),つまり霊感を受けて記されたヘブライ語聖書の6欄写本を作りました。その写本は,(1)元のヘブライ語やアラム語の本文のほかに,(2)ギリシャ語の字訳,およびギリシャ語の(3)アキュラ訳,(4)シュンマコス訳,(5)セプトゥアギンタ訳,ならびに(6)テオドティオン訳を併記したものです。今日知られているその断片写本の証拠について,W・G・ウォデル教授はこう述べています。「オリゲネスのヘクサプラでは……アキュラ,シュンマコス,および七十訳[セプトゥアギンタ]のギリシャ語訳はすべて,JHWHをΠΙΠΙで表わしていた。ヘクサプラの第2欄では四文字語<テトラグラマトン>はヘブライ文字で書かれていた」。(「神学研究ジャーナル」,オックスフォード,第65巻,1944年,158,159ページ)ほかに,オリゲネスのヘクサプラの元の本文では,四文字語<テトラグラマトン>を表わすのにすべての欄でヘブライ文字が使われていたと考えている人もいます。オリゲネス自身,詩編 2編2節の注解の中で,「最も正確な写本では,み名はヘブライ文字で,ただし今日のヘブライ[文字]ではなく,最も古いヘブライ文字で出て来る」と述べました。―「パトロロギア・グラエカ」,パリ,1862年,第12巻,第1104欄。
近くは西暦4世紀に,ラテン語ウルガタ訳の翻訳者ヒエロニムスがサムエル記と列王記の序文の中で,「また,我々は今日に至るまで,ある種のギリシャ語の書物に神の名,つまり四文字語<テトラグラマトン>[すなわち,יהוה]が古代の文字で表わされているのを目にする」と述べています。ヒエロニムスは西暦384年にローマで書いた1通の手紙の中でこう述べています。「[神の]9番目[の名]は四文字語<テトラグラマトン>であるが,彼らはこれを[アネクフォーネートン],すなわち口に出せない事柄とみなしており,それはこれらの字母,つまりヨード,ヘー,ワーウ,ヘーで書かれている。一部の無知な者たちはギリシャ語の本の中でその語を目にすると,文字が似ているため,習慣的に,それをΠΙΠΙ[ローマ字のPIPIに対応するギリシャ語の字母]と読んでいた」―「ギリシャ語聖書パピルス」,F・デュナン著,カイロ,1966年,47ページ,脚注,4。
それで,セプトゥアギンタ訳の中の「四文字語<テトラグラマトン>をキュリオスで置き換えた」,いわゆるキリスト教徒とは,イエスの初期の弟子たちのことではありません。それは,予告された背教が相当発展し,キリスト教の教えの純粋さが損なわれた何世紀か後の時代の人々のことなのです。―テサ二 2:3; テモ一 4:1。
イエスとその弟子たちにより使われた したがって,イエスとその弟子たちの時代には,神の名は聖書のヘブライ語写本にもギリシャ語写本にも極めて明確に出ていました。イエスとその弟子たちは話したり書いたりする際に,神の名を使いましたか。イエスがパリサイ人の伝統を非とされたことから考えて(マタ 15:1-9),イエスとその弟子たちがこの事柄でパリサイ人の考え(ミシュナに記されているような考え)に支配されるままになっていたと結論するのは,たいへん不合理なことと言えるでしょう。イエスご自身の名は,「エホバは救い」という意味です。イエスは,『わたしは父の名において来ている』と言われました。(ヨハ 5:43)イエスは,「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るよう追随者たちに教えられました。(マタ 6:9)また,ご自分の業は,「自分の父の名において」なされたと言われました。(ヨハ 10:25)さらに,亡くなる日の夜,祈りの中で,み父の名を弟子たちに対して明らかにしてきたと述べ,「聖なる父よ……ご自身のみ名のために彼らを見守ってください」とお願いなさいました。(ヨハ 17:6,11,12,26)このすべてから見て,イエスはヘブライ語聖書を引用したり読んだりした時,確かに神の名エホバを使われました。(マタ 4:4,7,10を申 8:3; 6:16; 6:13と比較。また,マタ 22:37を申 6:5と; さらに,マタ 22:44を詩 110:1と; それに,ルカ 4:16-21をイザ 61:1,2と比較。)当然のことながら,クリスチャン・ギリシャ語聖書の霊感を受けた筆者たちを含め,イエスの弟子たちは,この点でイエスの模範に従ったことでしょう。
では,そのみ名がクリスチャン・ギリシャ語聖書,もしくはいわゆる新約聖書の現存する写本に見られないのはなぜですか。それは,それら現存する写本が作られたころ(西暦3世紀以降)には,使徒や弟子たちの著作の元の本文が改変されていたためだったようです。ですから,確かに後代の写字生が四文字語<テトラグラマトン>の形で記されていた神の名をキュリオスやテオスで置き換えたに違いありません。(第1巻,324ページの写真)事実が示す通り,これこそまさしく,ヘブライ語聖書セプトゥアギンタ訳の後代の写本の中で行なわれた事柄なのです。
翻訳における神の名の復元 これが実情であるに違いないことを認識した一部の翻訳者たちは,クリスチャン・ギリシャ語聖書の訳文にエホバという名を含めました。19世紀にベンジャミン・ウィルソンが翻訳したエンファティック・ダイアグロット訳には,エホバという名が何回も,とりわけクリスチャンの筆者がヘブライ語聖書を引用している箇所に出ています。しかし,四文字語<テトラグラマトン>は,1533年当時でさえ,アントン・マルガリータの翻訳の中で,クリスチャン聖書のヘブライ語訳にすでに出てきていました。それ以降,翻訳者たちは,他の様々なヘブライ語訳聖書の,霊感を受けた筆者が神の名が含まれているヘブライ語聖書の句を引用している箇所で,四文字語<テトラグラマトン>を用いました。
神の名が出ているクリスチャン・ギリシャ語聖書の多くの翻訳のうちの数例
この方針の正しさに関しては,オックスフォードのウィクリフ・ホールの元学長,R・B・ガードルストーンがその点を認めて述べた次のような言葉に注目してください。それは,エホバという名がギリシャ語セプトゥアギンタ訳に最初は含まれていたことを示す写本の証拠が見つかる前に述べられた言葉です。同学長はこう述べました。「もしその[セプトゥアギンタ]訳の中でその言葉[エホバ]がそのまま用いられていたなら,あるいはエホバを表わすのに一つのギリシャ語を,アドナイを表わすのに別のギリシャ語を使っていたなら,間違いなく新約の中の講話や論議の中でもそのような用法がそのまま行なわれていたであろう。したがって,我らの主は詩編110編を引用した時,『主わが主にのたまう』と言う代わりに,『エホバわがアドニにのたまう』と言われたのかもしれない」。
この同じ根拠(今や証拠はそれが事実であったことを示している)に基づいて,同学長はさらにこう述べています。「仮に,あるクリスチャンの学者がギリシャ語の新約をヘブライ語に訳す仕事に取り掛かったとすると,その人はキュリオス[Κύριος]という語が出て来る度に,文脈の中にヘブライ語で本当にこれに相当する方を示すものが何かあるかどうかを考慮しなければならないであろう。そして,もしエホバという称号が旧約[のセプトゥアギンタ訳]の中に入れられていたなら,これは新約をどの言語に翻訳する場合でも生ずるであろう困難な問題なのである。多くの章句で指針となるのはヘブライ語聖書であろう。したがって,『主のみ使い』という表現が出て来る時はいつでも,主という言葉はエホバを表わしていることを我々は知っている。もし,旧約により作られた先例に従うとすれば,『主の言葉』という表現についても同様の結論に達するであろう。『萬軍の主』という称号の場合も同様である。逆に,『我が主』,もしくは『我らの主』という表現が出て来る時はいつでも,エホバという言葉を用いるのは認め難いことであり,アドナイまたはアドニを使わねばならないということを我々は知るべきであろう」。(「旧約聖書の同義語」,1897年,43ページ)エホバという名が訳文に含まれているギリシャ語聖書(前述の聖書)の翻訳は,このような根拠に基づいて行なわれてきたのです。
しかし,この点で際立っているのは,本書で一貫して使われている新世界訳です。その新世界訳のクリスチャン・ギリシャ語聖書には,神の名が「エホバ」という形で237回出ています。これまで述べた通り,そのようにする確かな根拠があります。
み名の初期の使い方とその意味 出エジプト記 3章13-16節と6章3節は,エジプトからの脱出が行なわれる以前のある時期に,初めてモーセにエホバのみ名が明らかにされたという意味に間違って解される場合が少なくありません。確かにモーセは,次のように質問しました。「わたしが今イスラエルの子らのもとに行って,『あなた方の父祖の神がわたしをあなた方のもとに遣わした』と言うとしても,『その方の名は何というのか』と彼らが言うとすれば,わたしはこれに何と言えばよいでしょうか」。しかしこれは,モーセもイスラエル人もエホバのみ名を知らなかったことを意味しているのではありません。モーセの母のヨケベドという名前自体,恐らく,「エホバは栄光」という意味だからです。(出 6:20)モーセの質問は,イスラエルの子らが遭遇していた状況と関係があったようです。彼らは何の解放のしるしもないまま何十年もの間,苛酷な隷従状態に陥っていました。疑い,失意,および自分たちを救出してくださる神の力や目的に対する信仰の弱さが一般のイスラエル人の間に浸透していたことは,ほぼ間違いありません。(また,エゼ 20:7,8に注目。)ですから,モーセが単に「神」(エローヒーム),もしくは「主権者なる主」(アドーナーイ)の名によって来たと言うだけでは,苦しんでいたイスラエル人にとって余り意味をなさなかったでしょう。彼らはエジプト人には独自の神々や主があることを知っていましたし,エジプト人の神々はイスラエル人の神より勝っているというあざけりの言葉もきっと聞いていたことでしょう。
それにまた,当時,名称には実質的な意味があり,今日のように,ある個人を見分けるための単なる“ラベル”のようなものではなかったことも銘記しなければなりません。モーセはアブラムの名(「父は高い(高められる)」の意)がアブラハム(「群衆(多数のもの)の父」の意)に変えられたこと,それもアブラハムに関する神の目的のゆえの改名であったことを知っていました。それに,サライの名もサラに,またヤコブのそれもイスラエルに改名されました。その改名はいずれの場合も,これらの人に関する神の目的にかかわる,基本的で預言的なある事柄を明らかにするものでした。モーセは多分,今やエホバがイスラエルに対するご自分の目的を明らかにするため,何らかの新しい名をもってご自身のことを啓示なさるのではなかろうかと考えたのかもしれません。モーセが自分を遣わした方の「名」によってイスラエル人のもとに行ったことは,彼がその方の代表者となったことを意味しており,またモーセが話をした際に帯びていた権威の偉大さは,そのみ名とみ名が表わす事柄によって確定された,もしくはそれと釣り合っていたことでしょう。(出 23:20,21; サム一 17:45と比較。)ですから,モーセの質問は意味深いものでした。
神の答えはヘブライ語では,エフエ アシェル エフエでした。中には,この言葉を「わたしは,『わたしはある』という者である」と訳出した翻訳もあります。しかし,エフエという言葉はハーヤーというヘブライ語動詞に由来していますが,そのハーヤーという言葉は単に「ある」という意味ではないことに注目しなければなりません。むしろ,それは「なる」,「であることを示す」という意味です。ここで言及されているのは神の自存ではなく,神が他者に対してどのような者になることを意図しておられるかという点です。ですから,新世界訳は上記のヘブライ語表現を「わたしは自分がなるところのものとなる」と正しく訳出しています。その後,エホバは,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」と付け加えられました。―出 3:14,脚注。
これは神のみ名が変えられたことではなく,かえって神の性格に対する洞察がさらに与えられたことを意味しました。このことは,神がさらに,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『あなた方の父祖の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神エホバがわたしをあなた方のもとに遣わされた』。これは定めのない時に至るわたしの名,代々にわたるわたしの記念である」と言われたことからも分かります。(出 3:15。詩 135:13; ホセ 12:5と比較。)エホバという名は「なる」という意味のヘブライ語動詞に由来する語で,多くの学者が,この名には「彼はならせる」という意味があるとしています。この意味は,エホバがすべてのものの創造者で,目的を果たす方であることと合致しています。そのような名を正当に,また正式に帯びることができるのは,ただまことの神だけでしょう。
このことは,エホバが後日,モーセに,「わたしはエホバである。そしてわたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに対し常に全能の神として現われたが,わたしの名エホバに関しては自分を彼らに知らせなかった」と言われた言葉の意味を理解する助けになります。(出 6:2,3)それらモーセの先祖であった族長たちは,エホバという名を何度も使っていたのですから,神はエホバとしてのご自分をごく限られた仕方でしか彼らに表わさなかったという意味であることは明らかです。このことを示す例を挙げましょう。アブラムという人を知っていた人たちは,一人の息子イシュマエルしかいなかった時のアブラムのことをアブラハム(「群衆(多数のもの)の父」の意)として本当に知っていたとはとても言えないでしょう。イサクや他の息子たちが生まれて,子孫が生み出されるようになった時,アブラハムという名は一層大きな意味,もしくは重要性を帯びました。同様に,エホバという名はイスラエル人にとって今や拡大された意味を帯びるようになったのです。
ですから,「知る」ということは,必ずしも単にある事柄もしくはある人についての知識がある,あるいはそれに気づいているという意味ではありません。愚かなナバルはダビデの名を知っていましたが,それでも,「要するに彼はどういう者なのだ」という意味で,「ダビデとは何者だ」と尋ねました。(サム一 25:9-11。サム二 8:13と比較。)同様に,ファラオもモーセに,「エホバが何者だというので,わたしはその声に従ってイスラエルを去らせなければいけないのか。わたしはエホバなど知らない。まして,イスラエルを去らせるようなことはしない」と言いました。(出 5:1,2)そのように言ったファラオは,エホバをまことの神として,あるいはエジプトの王や王の事柄に対する何らかの権威を持つ方としては知らないし,またモーセやアロンによって発表されたご自分の意志を実行する何らかの力を持つ方としても知らないということを意味していたと思われます。しかし,今やファラオとエジプトのすべての人々は,イスラエル人共々,そのみ名の真の意味,つまりその名によって表わされている方を知ることになりました。エホバがモーセに示されたように,神がイスラエルに対するご自分の目的を遂行し,彼らを解放し,彼らに約束の地を与え,こうして彼らの父祖と結んだご自分の契約を履行なさる結果として,そのようになりました。こうして,「あなた方は,わたしがあなた方の神エホバで……あることを確かに知るであろう」と,神が言われた通りになるのです。―出 6:4-8。「全能,全能者」を参照。
ですから,ヘブライ語の教授,D・H・ウィアが,出エジプト記 6章2,3節はエホバという名が初めて明らかにされた時を印づける語句であると主張する人たちについて次のように述べたのも,もっともなことです。「[彼らはこれらの節を]他の聖句に照らして研究してこなかったのである。そうしていたなら,この句の中の名はJehovah[日本語ではエホバ]という言葉を構成している二つの音節のことではなく,その名が表わしている考えを指しているに違いないということを認識していたであろう。我々は,『このゆえに,我が民は我が名を知らん』というイザヤ 52章6節や,『彼らは我が名のエホバなることを知るべし』というエレミヤ 16章21節,あるいは『なんじの名を知る彼らは,なんじに依り頼まん』という詩編 9編[10,16節]を読む際,エホバのみ名を知るということは,その名を構成している四つの字母を知ることとは大いに異なるということがすぐ分かるのである。それは,エホバが本当にその名によって表わされている通りの方であることを経験によって知ることである。(また,イザ 19:20,21; エゼ 20:5,9; 39:6,7; 詩 83編[18節]; 89編[16節]; 代二 6:33と比較。)」― インペリアル聖書辞典,第1巻,856,857ページ。
最初の人間の夫婦は知っていた エホバという名はモーセに初めて明らかにされたのではありません。なぜなら,最初の人間は確かにその名を知っていたからです。そのみ名は神の創造の業に関する記述の後の創世記 2章4節の神に関する記録の中に最初に出ており,その箇所では天と地の創造者は「エホバ神」であることが明らかにされています。エホバ神が創造に関するその記述の内容をアダムにお伝えになったと考えるのは道理にかなったことです。創世記の記録はエホバがそうなさったことを述べているわけではありませんし,エホバが目を覚ましたアダムにエバの由来を明らかにされたことを明示しているわけでもありません。しかし,アダムがエバを受け入れる際に述べた言葉は,神がアダム自身の体の一部から彼女をお造りになった仕方がアダムに知らされていたことを示しています。(創 2:21-23)創世記の短い記述に含まれていないとはいえ,エホバとその地的な息子との間で相当の意思の伝達が行なわれていたに違いありません。
エバは神の名を用いた人として明確に記録されている最初の人間です。(創 4:1)明らかに彼女は自分の夫で頭であるアダムからその名を教わり,善悪の知識の木に関する神の命令についてもその夫から教えられていました。(とはいえ,この場合も,記録にはアダムがその情報を彼女に伝えたことが直接述べられているわけではありません。)― 創 2:16,17; 3:2,3。
「エノシュ」の項で説明されているように,アダムの孫エノシュの時代に「エホバの名を呼び求めること」が始まりましたが,それは信仰を抱いて,また神により是認される仕方で行なわれたものではなかったようです。というのは,アベルからノアの時までに,信仰を抱いて『まことの神と共に歩みつづけた』人として伝えられているのは,ヤレドの息子エノク(エノシュではない)だけだからです。(創 4:26; 5:18,22-24; ヘブ 11:4-7)神の名に関する知識はノアとその家族を通して,大洪水後の時代にも存続し,バベルの塔の所から諸民族が離散した時代を経て,族長アブラハムとその子孫に伝えられました。―創 9:26; 12:7,8。
その名によって見分けられる方 エホバは偉大な第一原因,つまり万物の創造者であられます。したがって,創造された方ではなく,初めがありません。(啓 4:11)「数においてその年は探り得ないほど」です。(ヨブ 36:26)エホバの年齢を推定することは不可能です。年齢を数える起点がないからです。年老いることはありませんが,「日を経た方」と呼ぶのはふさわしいことです。無限の過去から存在しておられる方だからです。(ダニ 7:9,13)また,将来,その存在が終わるということもなく(啓 10:6),不朽で,死ぬことのない方です。ですから,「とこしえの王」と呼ばれており(テモ一 1:17),この方にとっては千年も夜の数時間の一区切りのようなものにすぎません。―詩 90:2,4; エレ 10:10; ハバ 1:12; 啓 15:3。
エホバは時間を超越した方であるにもかかわらず,歴史的実在者なる神として抜きん出た方で,特定の時代,場所,人物,および出来事によりご自身を明らかにしておられます。また,人類の扱い方の点では厳密な時間表にしたがって行動してこられました。(創 15:13,16; 17:21; 出 12:6-12; ガラ 4:4)同時に,ご自分の永遠の存在は否定できない事柄で,宇宙の最も基本的な事実であるゆえに,神は誓いをする際,「わたしは生きている」と言って,ご自分の存在にかけて誓い,そのようにして,ご自分の約束や預言が絶対に確かであることを保証なさいました。(エレ 22:24; ゼパ 2:9; 民 14:21,28; イザ 49:18)人間もまた,エホバが存在しておられるという事実にかけて宣誓し,誓いをしました。(裁 8:19; ルツ 3:13)「エホバはいない」と言うのは,無分別な者たちだけです。―詩 14:1; 10:4。
神の臨在に関する描写 エホバは人間の視力の及ばない霊者であられますから(ヨハ 4:24),そのありさまを人間の用語で幾ら描写しても,神の比類のない栄光を大体描写できるにすぎません。(イザ 40:25,26)神の僕である一部の人々は自分たちの創造者を実際に見たわけではありませんが(ヨハ 1:18),神の天の法廷に関する霊感による幻を与えられました。神の臨在の様子を描写した彼らの文章は,非常な威厳や畏怖の念を抱かせる威光のみならず,静穏さや秩序,美や快さをも伝えています。―出 24:9-11; イザ 6:1; エゼ 1:26-28; ダニ 7:9; 啓 4:1-3。詩 96:4-6も参照。
注目できる点ですが,そのような描写には隠喩や直喩が用いられ,エホバの姿が人間の知っている事物 ― 宝石,火,虹 ― に例えられています。さらに,エホバは人間のある種の特徴を備えているかのように描写されています。中には,聖書にある ― 神の「目」,「耳」,「顔」(ペテ一 3:12),「腕」(エゼ 20:33),「右手」(出 15:6)などに言及する場合のような ― 擬人化表現と言われる語句を大きな問題にする学者もいますが,人間に理解できるような仕方で描写するには,そのような表現が必要であることは明らかです。エホバ神がわたしたちのためにご自身を描写するのに霊の用語を使われるとすれば,それはごく初歩的な算数の知識しかない人々に高等代数学の方程式を教えるようなもの,あるいは生まれつき目の見えない人に色を説明しようとするようなものでしょう。―ヨブ 37:23,24。
ですから,いわゆる擬人法は,神のことを「太陽」,「盾」,または「岩」と呼ぶ,他の隠喩と同様(詩 84:11; 申 32:4,31,英文字義),決して文字通りの意味に取るべきものではありません。エホバの視力(創 16:13,英文字義)は人間のそれとは違い,光線に依存していないので,エホバは真っ暗闇の中での行為をもご覧になることができます。(詩 139:1,7-12; ヘブ 4:13)エホバは地球全体をご自分の視野に収めることができますし(箴 15:3),人間の子宮の中で発育する胎児を見るのに何も特別な装置を必要とはされません。(詩 139:15,16)また,その聴力は大気中の音波に依存してもいません。なぜなら,声を出さずに心の中で語られる言葉を「聞く」ことがおできになるからです。(詩 19:14)さらに,人間は広大な物質宇宙を首尾よく測定できるものではありません。それでも,神の住まいは物質界の天に包含,もしくは含まれてはいません。まして,地上の何らかの家や神殿などに収まるものではありません。(王一 8:27; 詩 148:13)エホバはモーセを通してイスラエル国民に,男性であれ,あるいは創造されたどんなものであれ,その形に似せてご自分の像を作らないよう,特に警告なさいました。(申 4:15-18)それで,ルカの記述では,イエスが『神の指によって』悪霊を追い出すことに言及されたことが記録されていますが,マタイの記述は,イエスがその言葉遣いにより「神の霊」,つまり活動する力に言及しておられたことを示しています。―ルカ 11:20; マタ 12:28。エレ 27:5および創 1:2と比較。
創造物のうちに明らかにされている人格的特質 エホバの性格の特定の側面は,人間を創造する以前になされたご自分の創造の業によってさえ明らかにされています。(ロマ 1:20)創造という行為自体,エホバの愛を明らかにしています。なぜなら,エホバは自己充足の存在で,足りないものは一つもないからです。ゆえに,エホバは何億もの霊の子たちを創造なさいましたが,エホバの知識に何かを加えたり,エホバがまだ有しておられない勝った高度の感情,もしくは性格の何らかの望ましい特質のために寄与できるような者はひとりもいません。―ダニ 7:9,10; ヘブ 12:22; イザ 40:13,14; ロマ 11:33,34。
もとより,これは,エホバがご自分の被造物に喜びを見いだしておられないという意味ではありません。人間は「神の像に」造られたので(創 1:27),人間の父親が自分の子供に,とりわけ子としての愛を示して知恵をもって行動する子供に見いだす喜びは,エホバが,ご自分を愛し,賢明にもご自分に仕える,理知ある被造物に見いだされる喜びを反映するものであるということになります。(箴 27:11; マタ 3:17; 12:18)この喜びは何らかの物質上の,あるいは有形の利得からではなく,ご自分の被造物が義の規準を進んで固守し,利他的な精神や寛大さを示すのを見ることから生ずるものです。(代一 29:14-17; 詩 50:7-15; 147:10,11; ヘブ 13:16)逆に,間違った歩みをし,エホバの愛を軽べつする者たち,つまりそのみ名にそしりを,また他の人たちにひどい苦しみをもたらす者たちは,エホバの「心に痛みを覚え」させることになります。―創 6:5-8; 詩 78:36-41; ヘブ 10:38。
エホバはまた,創造の業にせよ,他の業にせよ,ご自分の力を行使することに喜びを見いだされる方であって,その業には常に真の目的と良い動機が伴います。(詩 135:3-6; イザ 46:10,11; 55:10,11)「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物」の寛大な与え主であるエホバは,ご自分の忠実な息子たちや娘たちに祝福をもって報いることを喜びとされます。(ヤコ 1:5,17; 詩 35:27; 84:11,12; 149:4)しかし,エホバは温かみと感情のある神であられるとはいえ,明らかにその幸福はご自分の被造物に依存してはいませんし,感傷的な気持ちから義の原則を犠牲になさることもありません。
エホバはまた,ご自分の最初に創造された霊の子に,それ以後の霊と物質双方の創造の業すべてにご自分と共にあずかる特権を与え,惜しみなくこの事実が知られるようにさせ,その結果,ご自分のみ子が誉れを受けられるようにして,愛を示されました。(創 1:26; コロ 1:15-17)ですから,エホバは競争が起きる可能性を力なく恐れたりはせず,かえってご自身の正当な主権(出 15:11),ならびにご自分のみ子の忠節と専心に対する全き確信を表明されました。エホバはご自分の霊の子たちに各自の務めを遂行する上での相対的な自由を許し,時には彼らが特定の割り当てを遂行する方法に関する自分たちの見方を述べることさえ許しておられます。―王一 22:19-22。
使徒パウロが指摘したように,エホバの見えない特質はまた,物質界の創造物のうちに明らかにされています。(ロマ 1:19,20)エホバの膨大な力は想像を絶するものがあり,何十億もの恒星から成る多数の巨大な星雲は,この方の「指の業」にすぎません。(詩 8:1,3,4; 19:1)また,その知恵は余りにも豊かに表明されているため,何千年も調査や研究がなされた後の今でさえ,物質界の創造物について人間が得ている理解は,力強い雷鳴に比べれば,ほんの「ささやき」にすぎません。(ヨブ 26:14; 詩 92:5; 伝 3:11)惑星である地球に対するエホバの創造活動は,明確な計画に従ってなされたもので,合理的な秩序正しさにより印づけられており(創 1:2-31),地球は ― 20世紀の宇宙飛行士が呼んだように ― 宇宙空間の宝石のような存在となりました。
エデンで人間に啓示された事柄 エホバはご自分の人間としての最初の子供たちにご自身をどのような存在として啓示されましたか。完全な状態にあったアダムは,後代の詩編作者が,「わたしはあなたをたたえます。なぜなら,わたしは畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られているからです。わたしの魂がよく知っているように,あなたのみ業はくすしいのです」と語った言葉に,きっと同意せざるを得なかったことでしょう。(詩 139:14)アダムには,自分自身の ― 地上の被造物の中でも際立って適応性に富んだ ― 体の外見から,身の回りに見られる事物に至るまでどれをとっても,創造者に対して畏怖の念に満ちた敬意を抱くべき十分の理由がありました。新たに目にする鳥や動物や魚,それぞれ異なる草花や樹木,それに野原や森林,丘や渓谷や小川など,何を見ても,アダムはみ父の知恵の深さや広さ,ならびに創造の業の偉大な多様性に反映されているエホバの性格の多彩さに感銘を受けたことでしょう。(創 2:7-9。詩 104:8-24と比較。)アダムの感受性に富む頭脳には,極めて寛大で,思いやりのある創造者の存在を示す証拠がすべての感覚 ― 視覚,聴覚,味覚,嗅覚,触覚 ― を通して伝達されたことでしょう。
アダムの知的な必要,つまり対話や交際の必要も忘れられてはいませんでした。み父は男と対になるものとして理知的な女性をアダムにお与えになったからです。(創 2:18-23)その両人は多分,エホバに向かって,「満ち足りた歓びがあなたのみ顔と共にあります。あなたの右には快さが永久にあるのです」と歌った詩編作者のように歌うことができたでしょう。(詩 16:8,11)アダムとエバはそれほど深い愛の対象とされていたのですから,「神は愛であり」,愛の源であり,愛の最高の模範であられることを確かに知っていたはずです。―ヨハ一 4:16,19。
極めて重要なこととして,エホバ神は人間の霊的な必要を満たされました。アダムのみ父はご自分の人間の子にご自身を明らかにし,意思の伝達を図り,神聖な奉仕の割り当てをお与えになりました。その割り当てを従順に成し遂げることは,人間の行なう崇拝の主要な部分となりました。―創 1:27-30; 2:15-17。アモ 4:13と比較。
道徳規準を定める神 人間は早くから,エホバを単に惜しみなく物を備える賢明な方としてだけでなく,道徳を定める神,つまり行為や習慣の点で何が正しくて,何が間違っているかに関する明確な規準を固守する方としても知るようになりました。示唆されているように,もしアダムが創造に関する記述を知っていたとすれば,彼はまた,エホバが神聖な規準をお持ちであることをも知っていたはずです。というのは,その記述によれば,エホバはご自分の創造の業をご覧になって,「それは非常に良かった」と言われたからです。したがって,それはご自分の完全な規準にかなっていたのです。―創 1:3,4,12,25,31。申 32:3,4と比較。
規準がなければ,善悪を決めたり判断したりする,あるいは正確さや優秀さの程度を評価したり識別したりする方法はあり得ないでしょう。この点で,ブリタニカ百科事典(1959年,第21巻,306,307ページ)が次のように述べた言葉は啓発的です。
「自然界の種々の基準と比較すれば,[種々の基準を確立する点での]人間の業績は……取るに足りないものになってしまう。星座,惑星の軌道,自然界の物質の伝導性,延性,弾性,硬度,浸透性,屈折性,強度,あるいは粘性などの不変の標準的特性……あるいは細胞の構造などは,自然界の驚くべき標準化を示す,少数の実例にすぎない」。
同事典は物質界の創造物の中のそのような標準化の重要性を示して,こう述べています。「自然界に標準化が見られるからこそ……植物,魚,鳥,あるいは動物の多くの種類を見分けたり,分類したりすることができるのである。それらの種類の内部では,それぞれの個体は各々の種類の独特の構造,機能,および習性の微細な点で互いに類似している。[創 1:11,12,21,24,25と比較。] もし人体がそのように標準化されていなかったとすれば,各人が特定の臓器を持っているかどうか,それを調べるためにどこを見ればよいか,医師は分からないであろう。……実際,自然界に基準がなければ,組織化された社会も教育も医師もあり得ないであろう。それは各々,比較できる基本的な類似性に依存しているのである」。
アダムはエホバの創造の業には大いに安定性があるのを見ました。つまり,昼と夜の規則正しい反復,重力にしたがって絶えず下流へ向かって流れるエデンの川の水その他,地球の創造者が混乱ではなく秩序の神であられることの証拠となる,数えきれないほど多くの事象を見ました。(創 1:16-18; 2:10; 伝 1:5-7; エレ 31:35,36; コリ一 14:33)人は割り当てられた仕事や活動(創 1:28; 2:15)を遂行するのに,そのような安定性が助けになることを確かに知り,不確実さゆえに心配することなく,確信を抱いて計画を立てて働くことができました。
そのような事柄すべてからすれば,エホバが人間の行為や創造者と人間との関係を律する規準を設けられたとしても,理知のある人間にとって不思議なこととは思えなかったはずです。エホバご自身の見事な技量は,アダムにとって地を耕し,エデンの世話をするための模範となりました。(創 2:15; 1:31)アダムはまた,結婚に関する神の規準,つまり一夫一婦婚や家族関係の規準を学びました。(創 2:24)とりわけ,神の指示に対する従順という規準は命そのものにとって肝要であることが強調されました。アダムは人間として完全でしたから,エホバがアダムのために設けられた規準は,完全な従順でした。エホバはご自分の地的な子に,エデンの多くの果樹のうち1本の木の実だけは食べることを慎むようにという命令に対する従順によって,愛と専心を実証する機会をお与えになりました。(創 2:16,17)それは単純なことでした。しかし,当時,後に生じた複雑な問題や混乱はなかったので,アダムの置かれていた状況も単純でした。4,000年ほど後にイエス・キリストが述べた,「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」という言葉は,その単純な試みに見られるエホバの知恵を強調しています。―ルカ 16:10。
定められたこの規律正しさや規準は,人間の生活の楽しみを減少させるものではなく,その楽しみに寄与するものでした。前述の百科事典は規準に関する項で,物質界の創造物についてこう述べています。「しかし,種々の基準が定められていることを示すこのような圧倒的な証拠を前にしても,自然は単調だと言って非難する人は一人もいない。色の基礎となるスペクトルの波長の幅は狭いものであるが,それによって得られ,観察者の目を喜ばせる,色の変化や組み合わせには,事実上際限がない。同様に,芸術性に富む音楽もすべて,やはり様々な振動数の音の小さな集まりを通して耳に達するのである」。(第21巻,307ページ)同様に,その人間夫婦に対する神のご要求によれば,両人には義にかなった心の欲し得る自由をすべて行使することが許されていました。両人を数多くの律法や規定でがんじがらめにする必要はありませんでした。両人は創造者が示してくださった愛ある模範と創造者に対する二人の敬意と愛により,自分たちの自由の正当な限界を越えないよう守られたはずです。―テモ一 1:9-11; ロマ 6:15-18; 13:8-10; コリ二 3:17と比較。
ですから,エホバ神はご自分の人格的存在そのもの,ご自身の道,およびその言葉により,全宇宙のための最高の規準であられる方,つまりあらゆる善の定義ならびに総和であられる方でしたし,現にそのような方であられます。だからこそ,み子は地上におられた時,ある人に対して,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません」と言うことができました。―マル 10:17,18。また,マタ 19:17; 5:48。
正しさを立証されるべき主権と,神聖なものとされるべきみ名 神ご自身に関する事柄はすべて聖なる事柄です。神ご自身のみ名エホバは聖なる名ですから,神聖なものとされなければなりません。(レビ 22:32)神聖なものとするとは,「聖なるものにする,神聖なものとして取り分ける,またはそのようなものとみなす」という意味ですから,普通のもの,またはありふれたものとして使うべきではないことを意味しています。(イザ 6:1-3; ルカ 1:49; 啓 4:8。「神聖なものとする,聖化」を参照。)エホバのみ名は,それが表わしている人格的存在のゆえに,「大いなるもの,畏怖の念を起こさせるもの」で(詩 99:3,5),「威光を帯びて」おり,「達しがたいまでに高い」ものであって(詩 8:1; 148:13),畏敬の念をもって重視されるに値します(イザ 29:23)。
み名を汚すこと 証拠の示すところによれば,神の名はエデンの園での出来事によって汚される前まで,そのように重視されていました。ですが,サタンの反逆により,神の名声は疑問視されるようになりました。サタンはエバに対して,『神が知っている』事柄を告げる点で神に代わって話しているのだと主張しながら,同時に善悪の知識の木に関してアダムに述べられた神のご命令に疑いを投げ掛けました。(創 3:1-5)アダムは神により任命されており,神が人類に指示を伝達する経路としての地的な頭だったので,地上におけるエホバの代表者でした。(創 1:26,28; 2:15-17; コリ一 11:3)そのような資格で仕える人たちは,「エホバの名において仕え」,『エホバの名によって語る』と言われています。(申 18:5,18,19; ヤコ 5:10)ですから,アダムの妻エバが不従順によりエホバのみ名をすでに汚していたとは言え,アダムがそうすることは,自分が代表していた方のみ名に対する,とりわけ非難されるべき不敬な行為でした。―サム一 15:22,23と比較。
最大の論争は倫理上の論争 サタンとなった霊の子が,エホバは道徳規準を定める神であって,一貫性のない,気まぐれな方ではないことを知っていたのは明らかです。サタンの知っていたエホバが,抑制力のない,ともすれば感情を激しく爆発させる方だとしたら,サタンは自分の取った歩みのゆえにその場で直ちに滅ぼし去られることしか予期できなかったでしょう。ですから,サタンがエデンで引き起こした論争は,単にエホバの力強さ,つまり破壊力を試すためのものではありませんでした。むしろ,それは倫理上の論争,つまり宇宙主権を行使し,あらゆる場所の被造物すべてに絶対の従順と専心を要求する神の倫理上の権利に関する論争でした。エバに対するサタンの近づき方はこのことを明らかにしています。(創 3:1-6)同様に,ヨブ記もエホバがご自分の敵対者の取った立場がどの程度のものかをご自分の子たちである集まったみ使いたちの前で明らかにされることを物語っています。サタンはエホバに対するヨブの(そして暗に,神の理知あるどんな被造物の)忠節さも心からのものではなく,真の専心や純粋の愛に基づくものではないと主張しました。―ヨブ 1:6-22; 2:1-8。
ですから,神の理知ある被造物の側の忠誠に関する疑問は,宇宙主権を行使する神の権利に関する主要な論争から生じた二義的な,もしくは副次的な争点でした。種々の非難の真実性,あるいは虚偽が実証され,神の被造物の心の態度が試され,こうしてその論争が何ら疑問の余地なく解決されるには時間が必要だったでしょう。(ヨブ 23:10; 31:5,6; 伝 8:11-13; ヘブ 5:7-9と比較。「邪悪,悪」; 「忠誠」を参照。)ですから,エホバは反逆した人間の夫婦も,またこの論争を引き起こした霊の子をも直ちに処刑なさいませんでした。それで,この論争で対立するそれぞれの側を代表する,予告された二種類の「胤」が存在するようになったのです。―創 3:15。
イエス・キリストが地上におられた当時,この論争が依然として続いていたことは,イエスが40日間,断食した後に荒野でサタンと対決したことからも分かります。エホバの敵対者が神のみ子を誘惑しようと努めた際に用いた,こうかつな策略は,4,000年ほど前にエデンで見られた型に倣ったもので,サタンが地上の諸王国に対する支配権を提供したことは,宇宙主権に関する論争が変わっていないことを明示しました。(マタ 4:1-10)「啓示」の書は,エホバ神が事件の審理終了を宣言し(詩 74:10,22,23と比較),ご自分の主権の正しさを完全に立証して聖なるみ名を神聖なものとする,ご自分の義の王国の支配により反対者すべてに対して義の裁きを執行なさる時まで,この論争が続くことを明らかにしています。―啓 11:17,18; 12:17; 14:6,7; 15:3,4; 19:1-3,11-21; 20:1-10,14。
神のみ名を神聖なものとすることは,なぜ最も重要な事柄ですか
聖書の記述全体はエホバの主権の正しさの立証を中心にして書かれており,このことはエホバ神の主要な目的を明らかにしています。それは神ご自身のみ名を神聖なものとすることです。そのようにみ名を神聖なものとするには,神のみ名からすべてのそしりを取り除いて清めることが必要です。しかし,それ以上の事柄が関係しており,天と地のすべての理知ある被造物により,そのみ名が神聖なものとして尊ばれることが必要です。そして,そのみ名を尊ぶとは,それら理知ある被造物が皆,エホバの至高の地位を認めて敬い,また喜んでそのようにし,エホバに仕えることを願い,この方に対する愛ゆえに神のご意志を行なうことを喜びとするということを意味します。詩編 40編5-10節にある,エホバに対するダビデの祈りには,そのような態度とエホバのみ名が真の意味で神聖なものとされることがよく言い表わされています。(使徒がこの詩編の幾つかの箇所をヘブ 10:5-10でキリスト・イエスに適用していることに注目。)
ですから,全宇宙とそこに住む者の良い秩序,平和,および福祉は確かに,エホバのみ名が神聖なものとされることにかかっています。神のみ子はこのことを示すと同時に,エホバがご自分の目的を成し遂げるために用いられる方法を指し示して,「あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」と神に祈るよう,ご自分の弟子たちにお教えになりました。(マタ 6:9,10)エホバのこの主要な目的は,聖書全巻に述べられている神の行動や被造物の扱い方の背後にある理由を理解するかぎとなります。
したがって,イスラエル国民はエホバのための『み名の民』となるよう選ばれたことが分かります。その国民の歴史は聖書の記録の大半を成しているのです。(申 28:9,10; 代二 7:14; イザ 43:1,3,6,7)この民と結ばれたエホバの律法契約では,神であられるエホバに全き専心を示し,そのみ名をいたずらに取り上げないようにすることが最重要な事柄として強調されました。「その名をいたずらに取り上げる者をエホバは処罰せずにはおかないからである」と記されている通りです。(出 20:1-7。レビ 19:12; 24:10-23と比較。)エホバはイスラエルをエジプトから解放する際,ご自分の救う力と滅ぼす力を表わされたので,エホバのみ名は『全地に宣明され』,その名声は約束の地に向かって進んだイスラエルより先に伝わって行きました。(出 9:15,16; 15:1-3,11-17; サム二 7:23; エレ 32:20,21)そのことを預言者イザヤは,「こうして,あなたはご自分のために美しい名を得ようとして,あなたの民を導かれました」と言い表わしました。(イザ 63:11-14)イスラエルが荒野で反逆的な態度を示した時でも,エホバは彼らを憐れみ深く扱い,彼らを見捨てたりはなさいませんでした。しかし,「わたしはわたしの名のため,それが諸国民の目の前で汚されることのないよう行動を起こした」と述べて,その主要な理由を明らかにされました。―エゼ 20:8-10。
エホバはこの国民の歴史を通じて,ご自分の神聖な名の重要性をいつも彼らの前に示されました。首都エルサレムはシオンの山と共に,エホバが「そのみ名を置き,それをとどまらせる」ために選ばれた場所でした。(申 12:5,11; 14:24,25; イザ 18:7; エレ 3:17)その都市に建立された神殿は,『エホバのみ名のための家』でした。(代一 29:13-16; 王一 8:15-21,41-43)その神殿,もしくはその都市で行なわれたことは,善きにつけ,悪しきにつけ,必然的にエホバのみ名に影響を及ぼしたので,エホバから注目されることになりました。(王一 8:29; 9:3; 王二 21:4-7)その場所でエホバのみ名が汚されたなら,その都市は必ず滅びを被り,神殿そのものも捨てられることになっていました。(王一 9:6-8; エレ 25:29; 7:8-15。マタ 21:12,13; 23:38のイエスの言動と比較。)こうした事実を踏まえて,エレミヤやダニエルは自分たちの民と都のために,エホバが『ご自分のみ名のために』憐れみと助けをお与えになるよう,悲痛な思いをこめて嘆願しました。―エレ 14:9; ダニ 9:15-19。
エホバはご自分のみ名の民をユダに復帰させ,彼らを清めることを予告した際,次のように述べて,ご自分の主要な関心事を彼らに再び明らかにされました。「そしてわたしは……わたしの聖なる名に同情を抱くであろう」。「『イスラエルの家よ,わたしがこれを行なうのは,あなた方のためではなく,あなた方が入って行った諸国民の中で汚したわたしの聖なる名のためなのである』。『そしてわたしは……汚され(た)わたしの大いなる名を必ず神聖なものとするであろう。そして諸国民はわたしがエホバであることを知らなければならなくなる』と,主権者なる主エホバはお告げになる,『すなわち,わたしが彼らの目の前で,あなた方の中で神聖にされるときに』」。―エゼ 36:20-27,32。
これらの聖句や他の聖句は,エホバが人類の重要性を過大視しておられないことを示しています。人間はすべて罪人ですから,死ぬのは全く当然なことで,だれかが命を得るとすれば,それは神の過分のご親切と憐れみによる以外にありません。(ロマ 5:12,21; ヨハ一 4:9,10)エホバは人類に対して何の義務も負っておられませんし,永遠の命を得る人たちのためのその命は贈り物であって,働いて得られる報酬ではありません。(ロマ 5:15; 6:23; テト 3:4,5)確かにエホバは,人類に対して比類のない愛を実証してこられました。(ヨハ 3:16; ロマ 5:7,8)しかし,人間の救いをあたかも非常に重要な争点,もしくは神の公正,義,および神聖さを計る尺度でもあるかのように考えるのは,聖書の示している事実に反すると共に,間違った物の見方です。詩編作者は謙遜に,また驚嘆して次のように叫び,真実の物の見方を言い表わしました。「わたしたちの主エホバよ,あなたのみ名は全地にあって何という威光を帯びているのでしょう。あなたの尊厳は天の上で語り告げられます。わたしがあなたの指の業であるあなたの天を,あなたの定められた月や星を見るとき,死すべき人間が何者なのであなたはこれを思いに留められるのですか。地の人の子が何者なのでこれを顧みられるのですか」。(詩 8:1,3,4; 144:3。イザ 45:9; 64:8と比較。)エホバ神のみ名を神聖なものとすることが全人類の命よりも重要なのは当然なことです。ですから,神のみ子が示されたように,人間は自分自身を愛するように自分の隣人を愛すべきですが,自分の心と思いと魂と力をこめて神を愛さなければならないのです。(マル 12:29-31)これは,親族,友人,あるいは命そのもの以上にエホバ神を愛することを意味しています。―申 13:6-10; 啓 12:11。ダニ 3:16-18の3人のヘブライ人の態度と比較。「しっと,ねたみ」を参照。
人は,聖書に基づく,このような物の見方のために不快に思うようなことがあってはならず,かえってまことの神になお一層感謝するようになるはずです。エホバは罪深い人類すべてを滅ぼしたとしても,それは全く公正なことなのですから,人類の一部を救って命を与えるエホバの憐れみと過分のご親切の偉大さはなお一層高められます。(ヨハ 3:36)エホバは邪悪な者の死を喜びませんが(エゼ 18:23,32; 33:11),邪悪な者にご自分の裁きの執行を免れさせることもなさいません。(アモ 9:2-4; ロマ 2:2-9)エホバは従順な者たちの救いを考えておられるので,忍耐強く辛抱強い方ですが(ペテ二 3:8-10),ご自分の高貴な名にそしりをもたらす状況を永久に容認なさるわけではありません。(詩 74:10,22,23; イザ 65:6,7; ペテ二 2:3)エホバは同情を示し,人間の弱さをしんしゃくし,悔い改めた者を「豊かに」許されますが(詩 103:10-14; 130:3,4; イザ 55:6,7),人が自分の行動に対して当然負うべき責任や自分の行動が自分自身や自分の家族にもたらす影響を免れさせることはなさいません。人は自分のまいたものを刈り取るのです。(申 30:19,20; ガラ 6:5,7,8)こうして,エホバは完全に釣り合いの取れた見事な仕方で公正と憐れみを示されます。み言葉の中で明らかにされている,正しい物の見方をする人たちは(イザ 55:8,9; エゼ 18:25,29-31),エホバの過分のご親切をもてあそぶ,あるいは「その目的を逸する」という重大な過ちを犯したりはしません。―コリ二 6:1; ヘブ 10:26-31; 12:29。
特質や規準の変わらない方 エホバはイスラエルの民にこうお告げになりました。「わたしはエホバであり,わたしは変わっていない」。(マラ 3:6)それは,神が人間を創造してから約3,500年後,また神がアブラハム契約を結ばれてから約1,500年後のことでした。中には,ヘブライ語聖書で啓示されている神は,イエス・キリストやクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちによって明らかにされた神とは異なっていると主張する人もいますが,よく調べてみると,そのような主張は何ら根拠のないものであることが分かります。弟子ヤコブが神について,「父には影の回転による変化もありません」と述べたのはもっともなことです。(ヤコ 1:17)エホバ神の性格は何世紀もの間に“熟成”したわけではありません。なぜなら,熟成する必要などなかったからです。クリスチャン・ギリシャ語聖書で明らかにされているエホバの厳しさが,エホバがエデンで人間を扱い始められた時よりも和らいだり,エホバの愛がその時よりも大きなものになったりしてはいません。
性格上の相違と思えるものは,実際には変わることのない同じ性格の異なった側面にすぎません。それは,状況や扱われる人々が異なり,異なった態度もしくは関係が求められるゆえに生じるのです。(イザ 59:1-4と比較。)変わったのはエホバではなく,アダムとエバのほうでした。エホバの不変の義の規準によれば,両人はもはやエホバの愛する宇宙的な家族の成員として扱ってはもらえないような立場に自ら立ちました。二人は完全でしたから,自分たちの故意の悪行に対して全責任を負っており(ロマ 5:14),したがって両人は神の憐れみの及ぶ限界を越えていました。それでも,エホバは二人に衣服を着用した生活を始めさせ,エデンの聖域の外で何世紀も生きて,自分自身の罪深い歩みの影響のためにやがて死んでしまう前に子孫を生み出すことを許すという過分の親切を示されました。(創 3:8-24)アダムとその妻がエデンから追い出された後,この二人に対する神からの意思の伝達はすべて終わったようです。
エホバが不完全な人間を扱うことができる理由 エホバはご自分の正しい規準にしたがって,アダムとエバの子孫に関してはその二親の場合とは異なった仕方で扱うことができました。なぜでしょうか。なぜなら,アダムの子孫は罪を受け継いだ,したがって不本意にも生まれつき悪行に走る傾向のある不完全な被造物として生活し始めたからです。(詩 51:5; ロマ 5:12)ですから,それら子孫に対しては憐れみを示すべき根拠がありました。エデンで裁きの宣告が行なわれた時に語られた,エホバの最初の預言(創 3:15)の示すところによれば,エホバはご自分の最初の人間としての子供たち(それに,霊の子たちのひとり)が反逆したにもかかわらず,苦々しい気持ちを抱いたり,その愛の流れを枯渇させたりはされませんでした。その預言は,反逆によって生じた状況が正され,彼らの当初の完全な状態が回復されることを象徴的な言葉で指し示していました。そして,その十分な意味は何千年も後に明らかにされることになりました。―啓 12:9,17; ガラ 3:16,29; 4:26,27の「蛇」,「女」,「胤」という象徴的な表現と比較。
アダムの子孫は不完全で,死んでゆく状態にあり,罪に捕らわれた致命的な状況から自分自身を解放することは決してできませんが,何千年もの間,地上に存続することを許されてきました。クリスチャンの使徒パウロはエホバがこのことを許しておられる理由を説明して,次のように述べました。「創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させた方[すなわち,エホバ神]によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。すなわち,創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。わたしたちが知るとおり,創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いているのです」。(ロマ 8:20-22)「予知,あらかじめ定める」の項で示されているように,エホバが最初の夫婦の逸脱行為を予見する識別力を行使することにされたということを示唆するものは何もありません。しかし,そのような行為が一度起きるや,エホバはその悪い状況を正す方法をあらかじめお定めになりました。(エフェ 1:9-11)最初,エデンにおける象徴的な預言の中に固く秘められていた,その神聖な奥義は,「真理について証し」するため,また『神の過分のご親切のもとに,すべての人のために死を味わう』ために地に遣わされた,エホバの独り子のうちに,ついに完全に明らかにされました。―ヨハ 18:37; ヘブ 2:9。「贖い」を参照。
ですから,神が罪人アダムの子孫のある人々を扱って祝福されたことは,エホバの完全な義の規準が変化したことを印づけるものではありませんでした。エホバはそのようにして,彼らの罪深い状態を是認しておられたのではありません。エホバはご自分の目的の成就が絶対確実であるゆえに,(アブラムとサラにまだ子供がいなかった時に,アブラムのことを「群衆(多数のもの)の父」という意味の「アブラハム」と呼んだように),「無い物を有るかのように呼ばれ」ます。(ロマ 4:17)エホバはご予定の時に(ガラ 4:4)ご自分が贖いを設けること,つまり罪を許し,不完全さを取り除くための法的な手段を設けることをご存じだったので(イザ 53:11,12; マタ 20:28; ペテ一 2:24),罪を受け継いだ不完全な人間を扱ったり,そのような人間をご自分に対する奉仕に用いたりしても,矛盾をきたすことはありませんでした。それは,彼らがエホバの約束に,またその約束が罪のための完全な犠牲としてのキリスト・イエスのうちにやがて成就することに信仰を抱いていたゆえに,彼らを義にかなった者と『みなす』,つまり義にかなった者とするための正当な根拠をエホバが持っておられたからです。(ヤコ 2:23; ロマ 4:20-25)ですから,贖いの取り決めというエホバの備えとその益は,エホバの愛と憐れみのみならず,ご自分の高められた公正の規準に対するエホバの忠誠に関しても際立った証をするものとなっています。というのは,エホバは贖いの取り決めによって,「今の時期にご自身の義を[示し],イエスに信仰を持つ人[とはいえ,不完全な人]を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされ(た)」からです。―ロマ 3:21-26。イザ 42:21と比較。「義と宣する」を参照。
「平和の神」が戦われる理由 エホバはエデンで,ご自分の敵対者の胤と「女」の胤との間に敵意を置くと言われましたが,だからといって,「平和の神」でなくなられたわけではありません。(創 3:15; ロマ 16:20; コリ一 14:33)当時の事情はエホバのみ子イエス・キリストが地上で生活しておられた時代と同様でした。イエスは,「わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです」と言われました。(マタ 10:32-40)イエスが宣教に従事された結果,分裂,それも家族の中にさえ分裂が生じましたが(ルカ 12:51-53),それはイエスが神の義の規準と真理を固守し,ふれ告げたためでした。多くの人がそれらの真理に対して心を固くする中で,ほかの人々が真理を受け入れたために分裂が生じたのです。(ヨハ 8:40,44-47; 15:22-25; 17:14)神の原則を擁護しなければならないとすれば,そのような分裂が起きることは避けられませんでした。しかし,その責任は正しいことを退けた人々にありました。
同様に,エホバの完全な規準によれば,サタンの胤の反逆的な歩みは決して容赦できるものではないゆえに,敵意の生ずることが予告されたのです。神はそのような胤を是認せず,義にかなった歩みを固守する人たちを祝福なさる結果,カインとアベルの場合がそうであったように(創 4:2-8; ヘブ 11:4; ヨハ一 3:12; ユダ 10,11。「カイン,I」を参照),分裂がもたらされるのです。―ヨハ 15:18-21; ヤコ 4:4。
人間や邪悪なみ使いたちが選んだ反逆の歩みは,エホバの正当な主権と全宇宙の良い秩序に対する挑戦となりました。エホバにとってこの挑戦を受けて立つには,「雄々しい戦人」となって(出 15:3-7),ご自分のみ名と義の規準を擁護し,またご自分を愛し,ご自分に仕える人たちのために戦い,滅びに値する者たちに裁きを執行する必要がありました。(サム一 17:45; 代二 14:11; イザ 30:27-31; 42:13)エホバは大洪水,ソドムとゴモラの滅び,エジプトからのイスラエルの救出などの場合のように(申 7:9,10),時にはためらわずにご自分の全能の力を破壊的な仕方で行使されます。また,エホバはご自分の義にかなった戦いに関するどんな詳細であれ,それを知らせるのを恐れたりはなさいません。さらに,恥ずべきことは何もないので,何も謝ることはありません。(ヨブ 34:10-15; 36:22-24; 37:23,24; 40:1-8; ロマ 3:4)そして,ご自分のみ名とその名が表わしている義とを重視する態度,ならびにご自分を愛する人たちに対するご自身の愛に動かされて行動されます。―イザ 48:11; 57:21; 59:15-19; 啓 16:5-7。
クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でも同様の状況が描かれています。使徒パウロは仲間のクリスチャンを励まして,「平和を与えてくださる神は,まもなくサタンをあなた方の足の下に砕かれるでしょう」と述べました。(ロマ 16:20。創 3:15と比較。)パウロはまた,神がご自分の僕たちを患難に遭わせる者たちに患難をもって報い,そのような反対者たちに永遠の滅びをもたらすのは正当な行為であることを示しました。(テサ二 1:6-9)それは,あらゆる悪と悪を習わしにする者たちとを強制的に終わらせるみ父の断固たる決意について少しも疑問の余地を残されなかった,神のみ子の教えと調和していました。(マタ 13:30,38-42; 21:42-44; 23:33; ルカ 17:26-30; 19:27)「啓示」の書は,神により正当と認められた戦闘行為の描写で満ちています。しかし,そのすべてはエホバの知恵により,結局,公正と義にしっかりと立脚した永続する宇宙的な平和の確立につながります。―イザ 9:6,7; ペテ二 3:13。
肉のイスラエルと霊的なイスラエルの扱い方 同様に,ヘブライ語聖書とクリスチャン・ギリシャ語聖書の内容に多くの相違点が見られるのは,前者がおもに肉のイスラエルに対するエホバの扱い方を取り上げているのに対し,後者の大半は霊的なイスラエル,つまりクリスチャン会衆に対するエホバの扱い方を徐々に取り上げて描いているからです。したがって,一方では,専ら肉の血統ゆえに成員となった何百万もの人々から成る一国民,つまり善人と悪人の両方の集合体のことが扱われており,もう一方ではイエス・キリストを通して神に引き寄せられた人たち,つまり真理と正義に対する愛を示し,エホバのご意志を行なうべく個人的に,また自発的に献身した人たちで構成される霊的な国民のことが扱われているのです。したがって,この二つのグループに対する神の扱い方と関係が異なっているのは当然なことであって,最初の集団のほうが2番目の集団よりもエホバの怒りと厳しさの表明を呼び起こす場合が多かったのももっともなことでしょう。
しかし,肉のイスラエルに対する神の扱い方から得られる,人を築き上げ,慰めを与える,エホバ神の性格に対する洞察を見逃すとすれば,それは重大な過ちとなるでしょう。エホバはモーセにご自身のことを,「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神,愛ある親切を幾千代までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決してせず,父のとがに対する処罰を子や孫にもたらして,三代,四代に及ぼす(者)」と述べられましたが,イスラエルに対するエホバの扱い方は,エホバがその通りの人格的存在であられることを証明する,非常に優れた実例となっています。―出 34:4-7。出 20:5と比較。
エホバの性格の様々な面の中で際立っているのは,公正という特質によって釣り合いが保たれているとはいえ,実際には,エホバの愛,忍耐強さ,および辛抱強さです。このことは,非常に恵まれた民でありながら,その大多数が自分たちの創造者に対して殊のほか「うなじのこわい」,『心の固い』者だったイスラエルの歴史の中で明らかにされています。(出 34:8,9; ネヘ 9:16,17; エレ 7:21-26; エゼ 3:7)エホバがご自分の預言者たちにより,イスラエルに対して繰り返し伝えられた強烈な糾弾や有罪宣告の言葉は,エホバの憐れみの大きさや辛抱強さの驚くべき度合いを際立たせるものであって,それ以外の何ものでもありません。エホバは彼らのことを耐え忍んだ1,500年余の期間の終わりに際し,ご自分のみ子がその国民の宗教指導者の扇動で殺害された後でさえ,さらに3年半の期間,引き続き彼らに恵みを示し,憐れみ深いことに,良いたよりを彼らだけを対象にして宣べ伝えさせ,み子と共に統治する特権を得る機会をなおも彼らに差し伸べられました。それは,悔い改めた幾千人もの人々がその特権を受け入れる機会となりました。―使徒 2:1-5,14-41; 10:24-28,34-48。「七十週」を参照。
イエス・キリストは偽善的な書士やパリサイ人に向かって,『[あなた方は]こう言います。「我々が父祖たちの日にいたなら,彼らと共に預言者たちの血にあずかる者とはならなかっただろう」と。それゆえあなた方は,自分が預言者たちを殺害した者たちの子であることを,自ら証ししているのです。それなら,あなた方の父祖たちの升を満たしなさい』と語った時,『違犯者たちの後代の子孫に処罰をもたらす』ことに関して前に引用したエホバの言葉に言及しておられたようです。(マタ 23:29-32)彼らはその主張とは裏腹に,自分たちのやり方によって父祖たちの間違った行ないを是認していることを実証し,自分自身が相変わらず『エホバを憎む者たち』の一人であることを証明しました。(出 20:5; マタ 23:33-36; ヨハ 15:23,24)こうして,彼らは悔い改めて神のみ子の言葉に留意したユダヤ人とは異なり,何年か後にエルサレムが攻囲され,滅ぼされて,その住民の大半が死んだ時,神の裁きの累積的な影響を被りました。彼らはそれを免れようと思えば,そうすることもできたのに,エホバの憐れみをあえて受けようとはしなかったのです。―ルカ 21:20-24。ダニ 9:10,13-15と比較。
み子のうちに反映されたエホバの性格 イエス・キリストはみ父の名によって来た方で,ご自分の父エホバ神の麗しい性格をあらゆる点で忠実に反映しておられました。(ヨハ 1:18; マタ 21:9; ヨハ 12:12,13。詩 118:26と比較。)イエスはこう言われました。「子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を行なえるにすぎません。何であれその方のなさること,それを子もまた同じように行なうのです」。(ヨハ 5:19)ですから,当然,イエスが示された親切や同情,温和や温かさ,それに義に対する強い愛や悪に対する憎しみ(ヘブ 1:8,9)はすべて,み子がみ父エホバ神のうちに見いだしておられた特質であるということになります。―マタ 9:35,36を詩 23:1-6およびイザ 40:10,11と; マタ 11:27-30をイザ 40:28-31およびイザ 57:15,16と; ルカ 15:11-24を詩 103:8-14と; ルカ 19:41-44をエゼ 18:31,32と,またエゼ 33:11と比較。
ですから,霊感を受けて書かれた聖書を読み,エホバのみ名の完全な意味を本当に『知って』理解するようになる,義を愛する人たち(詩 9:9,10; 91:14; エレ 16:21)には皆,そのみ名を愛し,それをほめたたえ(詩 72:18-20; 119:132; ヘブ 6:10),み名を賛美し,それを高め(詩 7:17; イザ 25:1; ヘブ 13:15),み名を恐れ,それを神聖なものとし(ネヘ 1:11; マラ 2:4-6; 3:16-18; マタ 6:9),み名に信頼して(詩 33:21; 箴 18:10),詩編作者と共に次のように言うべき十分の理由があります。「わたしは生きている限りエホバに向かって歌い,わたしのある限りわたしの神に調べを奏でます。神についてのわたしのめい想が快いものでありますように。わたしは,エホバにあって歓ぶのです。罪人は地から絶たれ,邪悪な者たち,彼らはもはやいません。わたしの魂よ,エホバをほめたたえよ。あなた方はヤハを賛美せよ」― 詩 104:33-35。