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1「デナリ」を感謝して使うものみの塔 1967 | 5月1日
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36 (イ)しかし彼らはだれを通して「デナリ」を受けねばなりませんでしたか。(ロ)それを受けるため,それまで得てきたどんなものを捨てねばなりませんでしたか。
36 しかし,これら宗教指導者は全額の賃銀である「デナリ」を,神の家令つまり栄光を受けたイエス・キリストをとおして受けねばなりません。そのためには,主イエス・キリストが金持ちの若い支配者に命じたとおりのことをしなければなりません。(マタイ 19:21)それはつまり,エルサレムの宮,各地の会堂,サンヘドリンなどにおける名誉,権力,物質的利得の地位を捨て,「モーセの座」にすわってラビととなえられていたことを改め,またローマ政府によって許された地位を離れることでした。これらは西暦33年の五旬節に至るまで,イスラエルの神の「ぶどう園」での奉仕に対する良い報酬として,彼らが得ていたものでした。彼らがヨエル書 2章28,29節の成就として,聖霊の賜物を得ることを大いなる家あるじである「ぶどう園」の所有者と約束をしていたのは確かです。しかし今,イエス・キリストによって注がれる聖霊を受けて油そそがれた者となり,「あと」の人々,第11時の働き人である使徒と共にイエス・キリストの弟子としての仕事をするため,これまでイスラエルで得てきた宗教上の利益すべてを放棄することは,彼らにとって大きすぎる犠牲に見えました。
37 彼らはただの「デナリ」を受けることに満足しましたか。彼らの態度は「あとの」労働者に対してどう表われましたか。
37 彼らは神からの賃銀として,聖霊とその奇跡の賜物,およびそれに伴う御国の特権以上のものを求めました。それで彼らは象徴的な「デナリ」以上を求めました。それゆえ,これら「先の」労働者は「ぶどう園」の所有者に不平を言い,ただの「デナリ」を受けることをいやがりました。金持ちの若い支配者が使徒ペテロと対象的であったのに似ています。彼らの不平と不満は「ぶどう園」に「あと」に雇われた労働者であるキリストの弟子に対する迫害となって表われました。―マタイ 20:10-12。
38 「先の」労働者すべてが「デナリ」を断わったかどうかを何が示していますか。ある者は何を捨てませんでしたか。
38 もとより,クプロ生まれのヨセフ・バルナバのごとく,宮のレビ人で「デナリ」を受け入れた者もいます。(使行 4:36,37)そして,神の奉仕に「デナリ」を使ったことを理由に,12使徒が投獄され,エルサレムのサンヘドリンで裁かれたのちも,使徒行伝 6章7節の記録どおり,「神の言は,ますますひろまり,エルサレムにおける弟子の数が,非常にふえていき,祭司たちも多数,信仰を受けいれるように」なりました。またユダヤ人の大祭司と親しい間柄にあったタルソのサウロも,パリサイ人でありながら「デナリ」を受け入れました。(使行 9:1-22。ピリピ 3:4-6)しかし,「先の」労働者であるユダヤ人の宗教指導者の大部分は,生来のイスラエルにおけるそれまでの宗教上の特権を捨てず,モーセの律法に基づく報酬を受けて,「デナリ」を断わりました。
39 彼らはこの種の宗教上の奉仕をいつまで続けましたか。しかし,イエスの弟子は何を使いつづけましたか。
39 彼らは宗教上のこの種の奉仕を西暦70年まで続けました。しかしその年,彼らはエルサレムの宮を取り上げられました。彼らは宮での仕事を失いました。そしてローマ人は彼らの土地と国民とを奪いました。それは彼らがイエス・キリストを受け入れたためでなく,これを退け,「デナリ」を断わったためでした。(ヨハネ 11:47,48)エホバ神がイエス・キリストの弟子をよくあしらわれたので彼らの目はよこしまになりました。他方,使徒ヨハネを含めイエス・キリストの弟子たちは,神の国の奉仕をなしとげ,自らの永遠の命を得るため,迫害にめげず自分の「デナリ」を使いつづけました。―マルコ 10:29,30。黙示 1:9。
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「デナリ」の現代的な成就ものみの塔 1967 | 5月1日
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「デナリ」の現代的な成就
1 西暦33年五旬節に起きた事から,「デナリ」のたとえに最終的な成就があると言えるのはなぜですか。
19世紀昔の古代イスラエル国民の「ぶどう園」労働者の経験によく似たことが,この終わりの時代に,キリスト教国と呼ばれるものに関連して起きています。昔の「ぶどう園」,つまりモーセの律法契約下にあったイスラエル国民は模型的です。その経験の多くはきたるべき事柄の預言的な「影」でした。(コリント第一 10:1-6,11。コロサイ 2:16,17。ヘブル 10:1)さらに,象徴的な「デナリ」が支払われた五旬節の日に,使徒ペテロの引用したヨエル書 2章28-32節の預言は,1900年前のそのとき完全に成就したのではありません。ヨエル書 2章28-32節には,さらに大規模で最終的な成就があるはずです。このことは,現存する事物の制度の「終りの時」である今日,イエスの「デナリ」のたとえ話があと一度,そして最終的に成就することを意味しています。(使行 2:17,18。テモテ第二 3:1-5)そのことを証明する事実があります。
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