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愛聖書に対する洞察,第1巻
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知識は愛に正しい方向を与える 愛は,他の何ものよりもまず神に向けられなければなりません。でなければ,それは誤った方向に向けられ,創造物や事物の崇拝にさえ陥ってしまいます。神の目的を知ることが肝要です。それによって,人は,自分自身と他の人の福祉にとって何が最善であるかを知り,愛の正しい表わし方を知ることになるからです。神に対するわたしたちの愛は,『心,思い,魂,力』をこめたものでなければなりません。(マタ 22:36-38; マル 12:29,30)それは単に外面の表現ではなく,内なる人全体を反映する愛でなければなりません。愛は感情と関係があります。(ペテ一 1:22)しかし,真の愛とは何か,またそれがどのように作用するかについての知識を思いが得ていないなら,愛は間違った方向に表わされる危険があります。(エレ 10:23; 17:9。フィリ 1:9と比較。)思いは,神とその特質,目的,および神が愛をどのように表わされるかを知らなければなりません。(ヨハ一 4:7)この点と調和して,また愛は最重要の特質であることから,神への献身は人格的存在としてのエホバご自身(愛はその主要な特質)に対するもので,仕事や主義に対するものではありません。ですから,愛は魂をこめて,人の身体の全機能をもって実践されなければならず,その努力の背後に力が尽くされていなければなりません。
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魂聖書に対する洞察,第2巻
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魂をこめて仕える これまで見てきたように,「魂」は基本的に人の全体を意味します。しかし,ある聖句はわたしたちに,『心と魂をつくして』神を求め,神を愛し,神に仕えるよう勧めており(申 4:29; 11:13,18),申命記 6章5節は,「あなたは,心をつくし,魂をつくし,活力をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない」と述べています。イエスは,魂と力をこめ,さらには「思いをこめ(て)」仕えることが必要であると言われました。(マル 12:30; ルカ 10:27)ここで疑問が生じます。つまり,魂にはそれらがすべて包含されているのに,それらのものが魂と一緒に言及されているのはなぜかということです。その意味として考えられる事柄を例えで考えてみましょう。人は自分自身(自分の魂)を他の人に奴隷として売り,そのようにして所有者であり主人である人の所有物となることがあるかもしれません。それでも,主人に心をこめて,つまり主人を喜ばせたいという十分の動機や願いをもって仕えることはしないかもしれず,体力や知力を十分に使って主人の益を図ることまではしないかもしれません。(エフェ 6:5; コロ 3:22と比較。)したがって,それらの側面が指摘されているのは,それらに注意を向けることにより,わたしたちが自分の属する神への奉仕,および,わたしたちを買い取る贖いの代価として命を差し出されたみ子への奉仕において,それらの側面を忘れたり,考慮し損なったりすることがないようにするためだと思われます。神に対する『魂をこめた』奉仕には,人の全体が関係しており,体のいかなる部位であれ,機能であれ,能力であれ,願いであれ,除外されるべきではありません。―マタ 5:28-30; ルカ 21:34-36; エフェ 6:6-9; フィリ 3:19; コロ 3:23,24と比較。
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