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不忠節の報酬ものみの塔 1975 | 5月15日
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そのようなわけで,イエスはご自分が来る時まで忠節に仕えるであろう「忠実で思慮深い奴隷」について語った後,次のように言われました。「しかし,もしそのよこしまな奴隷が心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたち[字義的には,酒に酔う(者たち)]とともに食べたり飲んだりするようなことがあるならば,その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,最も厳しく彼を罰し[字義的には,彼を切り裂き],その受け分を偽善者たちといっしょにするでしょう」― マタイ 24:48-51。ルカ 12:45,46,王国行間逐語訳。
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不忠節の報酬ものみの塔 1975 | 5月15日
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したがって各人は,自己満足に陥ったり,不注意になったり,眠気を催したりしないよう十分注意しなければなりませんでした。使徒パウロは,「立っていると思う者は,倒れることがないように気をつけなさい」と助言しました。(コリント第一 10:12)文字通りの酒であれ,あるいは宗教上ののんだくれと共に霊的な意味で酔うことであれ,酒に酔う時は確かに過ぎ去りました。―イザヤ 29:9。ペテロ第一 4:3。
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不忠節の報酬ものみの塔 1975 | 5月15日
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イエスはマタイ 24章48節から51節で,不忠実になる者がどのように考え,話し,そして行動するかを述べました。かつては「奴隷」級の成員でありながら,ある人たちは前途に対する期待のもたらす喜びを失い,主人の到来を待ちくたびれてしまい,自己本位になります。そのような行動をする者たちは世の友になり,したがって神の敵となります。(ヤコブ 4:4)そのような人々は言葉の上で『仲間の奴隷たちをたたき』始め,それらの奴隷とその王国の良いたよりを宣明するその業に反対します。「終わりの日」の今日,行動の点からすれば,目に見えないさまでなされているキリストの臨在を認識せず,またキリストが世の事物の体制を滅ぼすために来る時が間近いことを識別せず,認めもしない者たちの級を構成する,そのような人々が存在します。
そのように言葉の上で『仲間の奴隷たちをたたく』のは,それらの者が他の人々を支配したい,あるいは他の人々に対して権力をふるいたいと考えていたからです。そして,他の人々から仰ぎ見られるような高い地位につきたいと考えていましたが,その野心を遂げることはできませんでした。キリストはそれら不忠節な者に会衆を支配させたり分裂させたりして,会衆の行なっている業が中止させられるのを許すようなことはありません。それどころか,検閲を行なうさい,キリストはそのような者たちを「忠実で思慮深い奴隷」級から切り離し,彼らを「切り裂く」のです。
キリストは不忠節な者たちの特徴となる行動を描写したとは言え,確かにそれらの人がそのような者になることをあらかじめ定めたわけではありません。それらの人々は自分自身の自由意志や欲求に従って不忠節の道を取るのです。彼らはタラントの例え話の「邪悪で無精な奴隷」に似ています。(マタイ 25:24-30)それらの人は不忠節で不忠実な「家令」ですから,「召使いたち」で成るキリストの『家の者』として留まることはできません。(マタイ 24:45)そのような者たちのキリスト教は虚偽の宗教であり,彼らはキリスト教世界の宗教的偽善者の部類に入ります。事実,なかには三位一体,人間の魂の不滅性,永ごうの『地獄の火』の中で文字通り責め苦を受けることなどのキリスト教世界の間違った教理に基づく信仰に実際に戻った人々もいます。また,キリスト教世界の教会と提携し,良いたよりを宣べ伝えるエホバの証人に反対する教会の活動に荷担している人もいます。
そのような不忠節な人々はキリスト教世界の偽善者たちのなかに真の霊的な喜びを見いだしてはおらず,それら偽善者たちと経験を共にしなければなりません。そのようなよこしまな「奴隷」についてイエスは,「そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりする」と言われました。(マタイ 24:51)彼らの表情は,真の悔い改めではなく,腹立たしさや失望,つまり『死を生み出す世の悲しみ』を表わしています。(コリント第二 7:10)彼らは主人のための真の奉仕に携わる「忠実で思慮深い奴隷」と交わったり,共に働いたりしたいという願いを少しも持っていません。
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