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神のことばは人間の真の導きものみの塔 1965 | 1月15日
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18 神のことばを受け入れない人があっても,なぜ落胆すべきではありませんか。
18 神の導きを受け入れることをすすめると,人々は聞かないばかりか嘲笑さえするでしょう。そのような事があっても落胆してはなりません。聖書の真実を証明する証拠がいくらあっても,信じない人はやはり信じないでしょう。「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら,死人の中からよみがえってくる者があっても,彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」と言われたイエスの言葉を思いおこして下さい。(ルカ 16:31)そのような事は考えられないと言う人があるかも知れません。しかしその真実は,イエスがラザロをよみがえらせたときに証明されました。その後間もなく「祭司長たちは,ラザロも殺そうと相談した」からです。―ヨハネ 12:10。
19 羊のような人々は何をしますか。
19 羊のような人は信じます。その人々は聖書の中に真理の響きを認め,科学の光に照らされるとき,聖書が私たちの足のともしび,生活の導きとして輝きを増すことに気づくでしょう。それで生命を与える真理の水を飲み,真理の音信をもたらしたエホバの民と共に喜び,エホバがみ名とみことばとその民を全く立証する時,そしてエホバが地から悪を除いて裁きを執行する大いなる日を待ち望んでいます。そのかなたには新しい時代があります。そのとき人類はエホバから祝福され,神のことばを愛してそれを守り行ない,不信仰の人間社会の終わりを生き延びた人々は,創造主のみ心に従って制御された科学の恩恵を享受します。それでいま神のことばを尊重し,その導きに従う人は,詩篇の次のことばに同意します。「そはエホバは大なる神なり,もろもろの神にまされる大なる王なり地のふかき処みなその御手にあり山のいただきもまた神のものなりうみは神のものその造りたまふところ旱ける地もまたその御手にて造り給へりいざわれら拝みひれふし我らをつくれるエホバのみまへにひざまづくべし」。―詩 95:3-6,文語。
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隣から聞くものみの塔 1965 | 2月1日
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隣から聞く
◆ ブラジル,キュティバ州の一人のエホバの証者は,家から家への伝道をしていましたが,ある戸口では,聖書を読もうとしたところをさえぎられました。家の人は言いました。「どこかよそへ行って,カトリックの方々に伝道して頂けません? 私は20年前に改宗しておりますので,お話をお聞きしなくても結構です」。伝道者は,親切に自分の訪問の目的を説明しようとしましたが,その機会は与えられませんでした。しかし,次の家では温かく迎えられました。家の人は伝道者の話を,むしろ意外なおももちで聞き,喜んで「失楽園から復楽園まで」の本を求めました。次の日曜日,約束どうり,説明のために再び訪ねると,家の婦人は言いました,「私はこの本をお隣の奥さんに見せました。奥さんは非常に喜んで,自分も1冊ほしいと頼んで下さいとのことでした」。証者がたずねると,婦人は,本を受け取ってこう言いました。「なんでも知っていると思った私は,実は,なにも知りませんでした。でも,エホバは,バプテスト派信徒になってから20年の間,私の知らなかった事柄を教えて下さるでしょう」。
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親切ものみの塔 1965 | 2月1日
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親切
◇ クリスチャンの親切な行為は人の心をエホバの真理に向けさせます。その良い例がカナダでありました。「巡回の僕の訪問のあった,ある土曜日の午後,主人と私は,その日の最後の家を訪ねるところでした。その時,隣家の婦人は外出するらしく,戸に鍵をかけていました。私たちはアンドーバーまで参りますが,もし良かったら私たちの車に一緒にお乗りになりませんか,と婦人に申し出たところ,この婦人も友人を訪ねてアンドーバーまでゆくところでした。私たちが先方に着くと,婦人の友人は知り会いに不幸があって,駆けつけるところであり,その晩は帰宅しないとの事でした。婦人はどうしようかと戸まどっていました。それで,私たちは,婦人をその晩集会にさそい,その後家までおくる事を申し出ました。婦人は私たちの申し出を受け入れ,その夜の集会に出席しましたが,その集まりを非常に喜んで,次の日曜日にブリストルで開かれた巡回の僕の講演会にも出席しました。これにも喜んだ婦人は,また次の週の講演も聞きに来て,自分もエホバの証者になりたいと言いました」。
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